面接室の空気は、エアコンの唸り音だけで満たされていた。神崎部長は、目の前で小さく震える少女の履歴書を手に取り、何の前触れもなく、真っ二つに破り捨てた。紙が裂ける鋭い音が、静まり返った部屋に響いた。
「履歴書は見た。片親で中卒、か。だからこんなに貧相なんだな。」
少女の名は田村巫女。二十歳。古びたスーツの袖は擦り切れ、手は緊張で細かく震えていた。唇を噛みしめ、必死に涙をこらえる。
「母はもういません。お願いします。資格や中身を見てください。全部、ここに書いてあります。」
「うるさい。お涙頂戴の話は聞き飽きた。」
隣に座っていた面接官の北村が慌てて立ち上がる。
「神崎部長、筆記と適性試験は企画課の中でもトップクラスの数値です!」
「黙れ、北村。人事の判断は私にある。学歴のない者に未来はない。」
神崎は破いた履歴書の切れ端をゴミ箱に投げ入れ、出口を指さした。
「底辺は即不採用だ。今すぐ出て行け。二度と来るな。」
巫女は立ち上がり、深く頭を下げた。崩れ落ちそうな膝を必死にこらえ、涙だけは飲み込んだ。
「田村さん、すまない…。」
北村の小さな声が背中に掛かった。巫女は何も言わず、ドアを開けて廊下に出た。
—
巫女は廊下の壁に手をつき、声を殺して泣いた。必死に準備してきた最終面接が、紙が裂ける音ひとつで終わった。脳裏に浮かぶのは、病院のベッドで弱々しく微笑んだ母の顔と、将来を夢見る弟の横顔だった。
自分にはIQ180という数字がある。けれど、それを口にするつもりはなかった。それで評価されたいわけではなかった。
巫女の人生は、幼い頃から決して楽ではなかった。物心つく前に父は家を出て消息を絶ち、母・み咲は二人の子供を抱えて働き詰めだった。巫女は小学生の頃から家事を手伝い、弟の面倒を見るのが日常だった。
勉強は独学だった。図書館の本と無料のオンライン講座で知識を身につけた。中学二年の秋、担任が彼女の思考の速さに気づいた。
「田村さん、一度、発達の検査を受けてみないか?」
検査の結果、巫女の知能指数は180前後と記録された。統計的にも極めて稀な水準だった。しかし、家庭には数字よりも生活費の問題が重くのしかかっていた。
「君なら、通信制の高校でも進学できる。奨学金の相談もできる。」
巫女は進学の準備を始めた。しかし、中学二年の冬、母が難病を発症した。治療費は月に50万円にも膨らみ、入退院を繰り返すようになった。
「お母さん、大丈夫?私、働くから。」
巫女は学校を続ける道を諦め、中学を中退した。工場と倉庫の掛け持ちで働きながら、昼は通信教育と独学で資格の勉強を続けた。
病院のベッドで、巫女は母と約束したことがある。
「無理しなくていいのよ、巫女。」
「お母さん、絶対に合格するから。待っててね。」
母の手は日に日に冷たく細くなっていった。それでも巫女は希望を捨てなかった。
「お母さんがくれたから、私は頑張れた。今度は私が家族を守る番だよ。」
「巫女…ありがとう…。」
母の目から涙がこぼれた。しかし、病状は進行し、巫女が十九歳になった冬、母は息を引き取った。
葬儀と手続きを終えた後、戸籍の連絡と条件の書類が同じ封筒で届いた。
「名前を借りない就職。それが本人の希望だった。特別な後ろ盾はいらない。書類で勝負します。」
弟のヒカルは16歳で高校一年生になり、成績優秀で医者を目指していた。巫女は弟の学費と生活費を守るため、毎晩求人を探し続けた。
そんな中、重工業ホールディングスの求人を見つけた。創業から50年、年商800億円規模の大手グループ。募集は総合職で、月給30万円、賞与年2回、社会保険完備。
この会社に入れば、弟の学費と生活の目処が立つ。巫女はそう思った。
巫女は事業内容を徹底的に調べ上げ、精密部品設計の基礎まで独学で学んだ。応募書類は何度も書き直し、面接では事実だけを淡々と述べた。書類選考を通過し、一次面接も突破した。
一次面接の席で、面接官の北村は驚きを隠せずに問いかけた。
「田村さん、学歴は本当に中学までか?この製造工程の流れを、まるで長年のベテランのように説明するとは。一人で考えたのか?」
「はい。独学です。」
巫女は少し余裕を持たせた表情で頷いた。筆記と適正試験もトップクラスの成績だった。北村は最終面接への推薦を強く押したが、最終判断は人事部長に委ねられていた。
最終面接の朝、弟のヒカルが短く励ましてくれた。
「姉ちゃん、頑張って。僕、信じてるから。」
巫女は古びたスーツに袖を通し、最寄りの駅から本社ビルへ向かった。エレベーターの中で、ドアに映る自分の姿が一瞬視界に入った。不安と緊張で心臓がうるさい。
「来た。ここからだ。」
面接の扉の前で一度立ち止まり、巫女は短く三度ノックをした。低い声で入室を促され、巫女は扉を開けた。
「田村です。本日はお時間をいただき、ありがとうございます。」
神崎部長は一瞬、業務的な笑みを浮かべた。
「本日はお越しいただきありがとうございます。どうぞおかけください。」
巫女が着席すると、神崎は履歴書の束を引き寄せ、ページをめくり始めた。数行読むうちに、神崎の笑みが消え、指先が学歴の欄で止まった。
「田村さん、二十歳。最終学歴は、中学を中退で間違いありませんか?」
「はい。家の事情により、中途退学のままとなっております。」
「ふむ。資格は丁寧に並べられていますね。学歴の穴埋めに見えても、仕方ありませんが。」
「はい。努力できる範囲で並べました。」
神崎は戸籍に関する欄を指でなぞった。
「中学を中退して、片親。よくこれで当社に入ろうと思いましたね。」
「募集要項に学歴で縛る情報はなかったので。」
「もう結構です。履歴書で十分分かりました。」
神崎は巫女のスーツの袖と靴先を見て、ため息混じりに鼻を鳴らした。
「その格好も、見た目からして安物だな。うちの会社の看板に触らせる格好じゃないですね。」
巫女は言い返さなかった。言い返したら終わる。事実を淡々と伝えるだけだ。
「緊急連絡先、か。頼れる大人は一人もいなかったんですか?わざわざ『母は死亡』と書く必要があったんですか?」
「申し訳ありません。同情して欲しいから書いたのではなく、事実だけを書きました。」
「で、普通書かないだろ。」
「すみません。頼れる大人はもうおらず、弟と二人なので。」
「黙ってろ。そういうことを聞いているんじゃない。」
神崎は履歴書を掴み、顔の前で音を立てて破り捨てた。紙が裂ける音が、張り詰めた面接室に響き渡った。
「十分に人柄も拝見させていただきました。片親で中卒。やっぱり育ち次第で、こんな品性になるんだな。」
「お願いします!家族がいないいないのは関係ないはずです!資格や自己PRは全部、ここに書いてあります!」
「うるさい!お涙頂戴の話は、もう聞き飽きた!」
北村が再び立ち上がった。
「神崎部長!待ってください!筆記と適正は企画課の中でもトップの数値です!」
「黙れ北村!人事の判断は私にある!学歴のない奴に未来はない!」
神崎は破片をゴミ箱へ投げ、巫女を指さした。
「底辺は即不採用だ!今すぐ出て行け!二度と来るな!片親の底辺は不採用だ!ガキを育てたまともな親の顔を見たいぜ!中卒の貧乏人が、うちのエリート企業に来るなんて、マジで笑えるわ!」
その言葉の直後、観察室と面接室を隔てる扉が、内側から静かに開いた。
—
代表取締役会長、田村鉄造が、一歩、神崎の肘の横に立った。七十六歳の鉄造は、怒りで握りしめた拳を震わせていた。神崎の笑みが消え、口元が半開きのまま固まった。北村が息を飲む。巫女は、祖父の横顔を見つめたまま、動けなかった。
「……何か、文句あるか?」
鉄造は神崎の目を見据え、声を低く続けた。
「観察室で全部聞いていた。お前の言葉の端々も、その目つきも。」
「か、会長?!ど、どうして……」
「わしが、この子の祖父だ。」
面接室に、時間が止まったような静寂が流れた。
「で、でも、最終学歴は中学で止まってるし……。」
「お前は学歴を見たのか?それとも、貧しさを見たのか?」
「おじいちゃん、来ないでって言ったのに……。」
巫女は小声で呟き、椅子の縁に指を置いた。
「わしが頼んだ。公平な評価をして欲しいとな。だが、お前は結果を出してきた応募者の心を踏みにじった。家族がどうとか、学歴がどうとか、お前は人格すらも否定した。」
「いや、待ってください!人事は本来、一番厳しく評価しなければいけない領域です!」
神崎は冷や汗を拭い、床と扉の金具を交互に見た。
「お前の言う『厳しさ』とは、応募者を侮辱し、紙を破り捨てることか?」
「か、会長だからって人事に口を挟むのは規定違反だと思います!」
神崎の声は裏返った。
「口を挟む?別にわしの孫だから採用しろと言っているわけではない。」
鉄造は、ゴミ箱の破片に目を落とした。
「お前が壊したんだ。公平さを、な。」
「し、しかし、家族だと黙っていたあの子の方もおかしい!被害者はこっちだ!」
「黙るように言ったのは、わしじゃ。公平のためだった。それを、お前が壊した。」
神崎の口は開いたまま、言葉が続かなかった。
鉄造は卓上の名札と時計を見渡し、面接の証明を一つ指示した。
「この場の最終面接は、わしの判断で中断とする。合格の宣告も、不合格扱いも、今は全て無効だ。」
北村が評価シートを押さえた。
「記録と破られた面接官のメモは、証拠として凍結します。田村さん、最終合否は保留です。」
「秘書、今すぐ役員を呼べ。二十二階の大会議室を臨時で使う。」
鉄造は巫女を見て、短く頷いた。
「北村、彼女を連れて行け。」
巫女は静かに立ち上がると、床に散らばった履歴書の破片を一枚ずつ拾い上げた。
「破片も、私の応募の欠片です。会議室まで、私が持ちます。」
神崎は、ドアノブへ伸ばした手を止め、巫女の手元から目を離せなかった。
「追い払った応募者が紙を拾う。それが、今日の人事の顔だ。」
「そ、そんなの、ゴミでしょ……。」
鉄造は一拍置き、神崎を見据えた。
「ゴミにしたのは、お前の口だ。袋に入れて証拠として運べ。」
秘書が手袋をはめ、卓上の破片を証拠袋へ移し始めた。
午後七時前、二十二階の大会議室に役員が集まっていた。卓上には、破片の入った袋と北村のメモが並べられた。
鉄造は、今夜決めることが三つあると告げた。
「神崎の処遇の認定。部長をどうするか。そして、採用の自動落としを止めるか、だ。」
「政治的な迫害だ!俺は何も間違っていない!」
廊下で神崎が声を上げたが、警備員が一歩前に出て遮った。
「お静かに。会長の指示です。」
会議室では、鉄造が神崎を見据えた。
「紙を破り、追い出した。観察室に全部、記録が残っている。『勢いで言っただけ』では済まない。」
「面接の圧で本音が出たんだ!本音で人を切るなら、看板を下ろせ!俺は株主のため、会社の損害を防いだだけだ!」
「低学歴は、人を笑って作るものか。」
鉄造の言葉に、神崎は肩の力を抜き、背中を丸めた。
「わしの監督不足も、ここで認める。孫を守るためと言いながら、孫を孤独にさせた。結果として、人事トップの暴走を止められなかった。」
「おじいちゃんは、悪くないです。」
巫女が口を開いた。声は細いが、途切れなかった。
「悪いのは、侮辱を仕事だと思った言葉選びです。」
「孫なら、最初から肩書きで押せよ。印象操作だろ!」
巫女は静かに答えた。
「名乗れば、公平な評価にならないと、祖父が言ったからです。」
「知らない!知らなかった方が、被害者なのは俺だ!」
「発言を慎め。ここは取締役会だ。」
監査役の声に、神崎の肩が跳ねた。
「北村も同罪だ!笑ってたじゃないか!」
「笑っていない。最終面接で一度は止めたが、人事権限で封じられた。」
北村が記録の写しを示した。
「ここに、すべての経緯が記録されている。」
「降りるか、更迭されるか、だ。」
沈黙が支配する中、神崎はようやく口を開いた。
「……首は、おかしい。学歴で切るのは合法だ。今日の問題は、言い方とタイミングだ。謝罪します。公開の範囲は、取締役会で決めてください。」
投票が行われ、集計結果が読み上げられた。
「人事部長の職務からの解任と、降格処分の方針が可決されました。」
拍手はない。誰かが椅子を引き、メモを閉じる音だけが響いた。
「人事の顔は言葉で決まる。お前は笑って選別した。」
鉄造は静かに言った。神崎は天井の角を見たが、すぐに視線を床の継ぎ目へ落とした。
「田村巫女を、改革タスクフォースの座長代理に任命する。」
会場に小さなざわめきが起きた。
「特別扱いは望んでいません。」
「分かっておる。北村が座長で、実務の核はお前じゃ。」
「私が責任を引き受けます。現場の声を拾う時間をください。」
巫女は神崎を見ず、机の木目だけを見た。
「お前、IQとか得意だろ?人間性がないぞ。」
「人間性は数値化できません。だから、規定に書きます。」
臨時取締役会の直後、会見の扉が開いた。鉄造はマイクの前で立ち止まり、静かに宣言した。
「わしから言えるのは、被害者は応募者だということだ。神崎の処分は降格。半年以内に、差別の是正と研修の受講率を数値で公表する。」
神崎は別室で扉を蹴った。
「くそっ!俺だって家族がいるんだ!」
「それは別件の通報です。」
その夜、会社の採用ページに一時停止の赤い帯が出た。翌日から、取材の電話が鳴り続けた。
—
数日後、神崎は別フロアの小さな机へ、段ボールを運んでいた。人事部の廊下の端だ。同僚は誰も声をかけず、コピー用紙を取りに行った。給与の減額で、通勤手当も消えていた。
神崎は送信済みフォルダーを閉じ、画面の明るさを一番暗くした。実家への電話は着信履歴に残ったまま、名前を消さずに伏せた。
巫女はタスクフォースの初回で、一分だけ言い切った。
「侮辱は、採用ではなく暴力です。ここから手順を決めましょう。」
ホワイトボードに項目が並び、消しゴムの粉が溜まった。
「自動除外の解除。システム担当が今夜すぐに入ります。」
「ログを残してください。誰が、いつ、何を外したのか、明確にするためです。」
「通報窓口は、人事とは独立した回線にします。」
巫女は言った。差別はチャンスを奪うことだと。だからこそ、取り戻すんだと。
—
一ヶ月後、採用システムの画面から、学歴による一発除外の項目が消えた。応募者向けFAQには、「家庭環境を理由に不利な扱いはしません」という一文が追記された。
「NG表現の例は、実際の事例から抜粋します。笑わないでください。それは、あなた自身を貶める行為です。」
研修室が静まり、誰かが喉を鳴らした。
神崎は別の研修の隅で、資料のコピーを黙々と並べていた。誰も話しかけない。話しかけようとしても、喉から声が出ない。
半年後。春の日差しが本社のガラス面を照らした。採用ホールの壁には、相談窓口の案内が掲示されていた。
「中学までの学歴でも、書類は通りますか?」
「学歴だけで落ちない設計に変えました。ここを見てください。」
巫女はパネルを指し示した。応募者が深く頭を下げる。
「ありがとうございます。こちらこそ、来てくれてありがとうございます。」
巫女の車両端末が一度震え、画面に弟の名前が浮かんだ。
「姉ちゃん、ニュース見た?すごいよ。大学、滑り込みセーフだった。」
「そう。ありがとう。あなたの分まで、積み上げるから。」
夜、巫女は大学の課題に蛍光ペンを走らせていた。単語帳に丸をつける。
「次は、労働法の基礎。侮る言葉より、手続きの方が長かった。次は、自分の番。」
車窓の外を街灯が通り過ぎ、巫女はバスの座席で肩の力を抜いた。母との約束を果たしつつある。自分は、ちゃんと前に進めている。
アパートの扉を開けると、味噌汁の湯気が廊下へ流れてきた。
「お帰り、姉ちゃん。レポート、手伝えるよ。」
「うん。でも、あなたは自分の未来を優先して。おやすみ、お母さん。今日もちゃんと前に進めたよ。」
夜空に星が一粒だけ見え、巫女は玄関の明かりの下で、目を細めた。



