「通訳が来ないってどういうことだ?! もうすぐ商談が始まるんだぞ! 」
部長の怒鳴り声がエントランスに響き渡る。必死に言い訳をする美紀さんの顔は真っ青で、声は震え、ついには涙がこぼれ落ちた。見ているこちらまで息苦しくなるような光景だった。
その様子に耐えられず、俺は二人の間に割って入った。
「俺が通訳しますよ」
俺の言葉に、二人は目を見開いて驚いた。こいつは掃除しかできない清掃員だとでも思っているのだろう。だが、それは大きな間違いだ。これから次々と明かされる俺の能力を知って、部長は窮地に追い込まれることになる。
俺の名前は岡本優作。47歳で、外資系企業の清掃員として働いている。この年齢で清掃員として働いていることに疑問を持つ者も多いだろう。確かに他の清掃員は俺よりずっと年上のばかりだ。だが、俺はこの仕事を仕方なくやっているわけではない。好きでやっている。掃除をすると心がすっきりするし、掃除した場所が目に見えて変化していくのがとてもやりがいを感じるのだ。
年の離れたおばちゃんたちは俺を息子のように可愛がってくれて、働きやすい環境に俺は満足していた。
ただ、一人だけ困った人物がいた。営業部の部長である竹本部長だ。
竹本部長は、働き盛りの年齢にも関わらず清掃員として働く俺を無能だと言ったりダサいと嘲笑したりして、憂さ晴らしをしてくるのだ。最初こそ腹が立っていたが、こういう人物は自分の価値観が正しいと思っているから、腹を立てるだけ無駄だと悟った。毎日のように暴言を浴びせられても適当に流すことにしていた。とは言っても、心ない言葉ばかり浴びせられていい気はしないのだが。
「優作さん、お疲れ様です」
俺に笑顔で話しかけてくれるのは、営業部の美紀さんだ。彼女は男性しかいない営業部の中で唯一の女性であり、他の男性社員に負けないほど高い営業成績を上げている非常に優秀な人材だ。それなのに、自分の能力をひけらかすことなく、誰にでも優しく分け隔てなく接してくれる。清掃員の俺にも気軽に声をかけてくれて、よく話しかけてくれていた。
「優作さん、聞いてください。私、すっごく大きな仕事を任されたんです」
ある日の朝、掃除をしている俺に美紀さんが笑顔で話しかけてきた。海外の企業を相手にした100億の商談を任されたというのだ。相手は海外の企業ということで、商談の担当者も外国人らしい。円滑に進めるために通訳の人も呼ぶようだ。
これは滅多にない規模の商談であり、美紀さんが会社に期待されている証拠だ。責任は重くなるが、仕事にやりがいを感じている美紀さんにとって、重要な仕事を任されたことが嬉しくて仕方ないらしい。嬉しそうに話す美紀さんを、俺は心の中で応援していた。
ある日、いつものように掃除に取りかかろうと、俺はエントランスに足を運んだ。
「どういうことだ?! 通訳が来ないだと?!

もうすぐ商談なんだぞ。どうするつもりだ?! 」
近くから竹本部長の大きな怒鳴り声が聞こえてくる。声のする方を見ると、竹本部長と、涙を浮かべている美紀さんの姿があった。
「す、すいません。確かに通訳さんには依頼の連絡をして、了承をもらっていたはずなんですが……」
「だったら、なぜ商談間近になっても来ないんだ。君の確認不足ではないのか?! 」
二人の会話から事情を把握した。商談の開始時刻が迫っているのに、依頼していた通訳が来ていないらしい。通訳がいなければ円滑なコミュニケーションを取るのが難しい。二人ともかなり焦っているようだった。
竹本部長は感情任せに美紀さんを怒鳴りつけ続け、美紀さんはどうしたらいいのか分からず混乱し、泣き出してしまった。彼女がこれほど追い詰められている姿を見ていられなくなった俺は、二人の会話に割って入ることにした。
「通訳が必要なんですか? なら、俺が通訳をしますよ」
「はあ?
お前が? 通訳なんてできねぇ清掃員のお前がか? 俺を馬鹿にしているのか?! 」
竹本部長は俺が通訳なんてできるわけがないと思っているらしい。しかし、俺はできないことをやりますなんて言ったりはしない。できるから、力になりますと言ったまでだ。
「できますよ。海外の人と日常会話ぐらいは全然できますんで、問題ないはずです」
それでも竹本部長はまだ疑っている様子だった。だが、今から通訳を手配しても商談の時間には間に合わない。
「仕方ない……。何かあったら、お前に全責任を取ってもらうからな」
そう言って、竹本部長は俺が通訳として商談に参加することを了承した。
商談が始まり、俺が相手と流暢に会話してみせると、怪しみの目を向けていた竹本部長も口をあんぐりと開けて驚いていた。俺の通訳により商談は円滑に進み、無事に成立した。
「優作さん、本当にありがとうございました。優作さんがいなかったら、今頃大変なことになっていたと思います」
美紀さんは涙を浮かべながら、心の底から感謝してくれた。
「少しでも美紀さんの力になれたなら良かったです。いつも美紀さんには元気をもらってますから。そのお礼です」
これは俺の素直な気持ちだった。竹本部長の心ない言葉に気持ちが沈むこともあるが、そんな時、美紀さんの笑顔に何度も救われてきた。だから、自分の力が彼女の役に立てたなら嬉しい。
だが、そんな俺たちの会話する姿を、竹本部長が遠くから睨みつけているのに気づいた。商談は無事に成功したわけで、営業部長なら普通は喜ぶ場面だろう。しかし、彼の表情からは喜びの感情は一切感じられない。それどころか、成功したことを悔しがっているような表情にも見えた。
「でも、なんでだろう?
私は確かに通訳さんに依頼の連絡を入れて、依頼を受けてくださると言ってもらったんです。なのになんで今日来なかったんだろう……。日を間違えたのかな? 」
確かに、依頼して了承をもらっているにも関わらず、通訳さんが来なかったというのはおかしな話だ。美紀さんもそこだけは納得できていないらしく、後で通訳の依頼をした会社に連絡してみると言っていた。俺も、浮上した疑問を解決すべく動き出すことにした。
その日の夜、俺が営業部に足を運ぶと、ブツブツ独り言をつぶやきながら美紀さんのパソコンをいじっている男性の後ろ姿があった。
「そこは美紀さんのデスクですよね。何をしているんですか、竹本部長」
俺が後ろから声をかけると、竹本部長は肩を大きく揺らして振り向いた。
「な、なんでお前がこの時間に会社にいるんだ! 」
「それよりも……通訳の依頼をキャンセルしたのは、あなたですよね」
竹本部長の剣幕にひるむことなく、俺は詰め寄った。俺は美紀さんと別れた後、竹本部長の言動に違和感を感じ、独自に調べていたのだ。
「証拠があるって言うのか? 」
「ありますよ。監視カメラの映像がね」
俺に言い返せないと思っていたのか、竹本部長は逆に俺を責め始めた。
「ていうか、なんで清掃員のお前がこの時間に会社にいるんだ。しかも掃除もせずに俺の部署に入り込んで、こんな行為は許されないぞ!
」
確かに、今の俺は勤務時間外であり、清掃員である俺が仕事でもないのにこの場に足を踏み入れているのは、褒められた行為ではないかもしれない。しかし、俺は焦ることなく返答した。
「まあ、竹本部長の言うこともごもっともです。ですが、自分は社長に許可を取って、今この場にいるんです」
「し、社長だと……?! 」
俺の口から出るはずのない単語に、竹本部長はかなり驚いている様子だ。俺がそう言うと、後ろに待機していた社長と美紀さんが登場した。
「社長……?! なんでここに!? 」
急に現れた社長の姿を認めた竹本部長の顔は、一気に青ざめていった。
「商談の後、通訳さんに確認したんです。男性からキャンセルの依頼が入ったって言われました。竹本部長ですよね」と美紀さんが言う。
美紀さんが通訳の会社に連絡を取って詳しい事情を聞いたところ、美紀さん以外の会社の人間がキャンセルの依頼をしたという。美紀さんはそんな指示をした覚えは一切ない。となれば、商談の詳細を知っている第三者がキャンセルをしたことになる。そこで最も怪しい人物として浮上したのが竹本部長だ。部署の責任者なら、誰に通訳を依頼したかまで把握していてもおかしくない。
美紀さんから相談を受けた俺は、自ら通訳の会社に連絡し、キャンセルの連絡を受けた日時を尋ねた。会社の番号からキャンセルの電話が入っていたことも把握できた。そこで俺は社長に相談し、監視カメラを見る許可を得た。キャンセルの電話があった日時の営業部の映像を確認すると、そこには同時刻に電話をかけている竹本部長の姿があった。
俺がここまで説明すると、竹本部長は再び怒り始めた。
「なんで清掃員が俺たちの部署の監視カメラを見ているんだ!
見る権利なんてないだろう! 」
「俺が許可を出した」
社長がそう言うと、竹本部長は言葉を失った。
「社長、なんでただの清掃員のこいつにそんなことを許したんですか?! 」
顔面蒼白の竹本部長が尋ねると、社長から衝撃の事実が告げられる。
「優作は、俺の弟だ」
そう、俺と社長は兄弟なのだ。俺だって最初から清掃員だったわけではない。5年前まで、俺は外資系企業の中でもトップの会社で営業マンをしていた。業績は部署でトップ、営業部のエースとして持て囃されていたほどだ。
着実に業績を上げ続け、もうすぐ営業部長になれるかもしれないというところまで来た時、同期たちの嫌がらせが始まった。俺が次期営業部長になるという噂が流れたことで、成績を妬んだ同期たちがタッグを組んで、俺への嫌がらせを始めたのだ。
客先からの連絡を正確に伝えないなど、細かい嫌がらせではあったが、それが積み重なり、俺の成績は落ちていった。営業成績が落ちていくこともショックだったが、何よりも同期たちが悪意を持って俺を落とし入れようとしている事実に、俺は大きなショックを受けた。努力が実を結んだだけなのに、なぜ嫌がらせをされなければならないのか。結局、俺がどれだけ頑張っても嫌がらせはエスカレートするばかりで、俺は退職してしまった。
その後、俺は会社での嫌がらせのショックから人間不信に陥り、2年ほど家に引きこもる生活を送っていた。部屋の中もゴミ屋敷と言えるほど荒れ果てていた。
そんな時、偶然テレビで流れていたのが年末の大掃除特集の番組だ。散乱した部屋が少しずつ綺麗になっていく様子を見て、沈んでいた心が軽くなっていくように感じた。そこで、思い切って荒れ果てた部屋の掃除を始めてみた。掃除で部屋が綺麗になっていくうちに、少しずつ前向きな気持ちになっていった。
そんな時、兄から「自分の会社で働かないか」という誘いを受けた。兄は俺の営業の才能を買ってくれており、営業マンとして働いてほしいと言ってくれたが、心のトラウマはまだ消えていなかった。とはいえ、生きていくためにはいずれ仕事をしなければいけない。そう考えた俺は、兄に清掃員として働きたいと申し出た。兄は最初こそ困惑していたが、事情を話すと、俺が社会復帰できるならと頼みを聞いてくれた。
社長の弟であることなどを説明すると、竹本部長は驚きのあまり言葉を失った。今まで馬鹿にしていた相手が、外資系トップ企業の営業部で元エースとして働いていたのだから無理もない。
少しの沈黙の後、竹本部長が突然怒り始めた。
「そもそも、この女が悪いんだ! 俺の女にしてやるって何回も言ってるのに断るから!
」
竹本部長の爆弾発言に、その場にいた全員が言葉を失った。何か理由があって嫌がらせをしたのかと思っていたが、まさか美紀さんが靡かなかったことが理由だったとは。竹本部長は既婚者で子供もいる。真面目な美紀さんがその誘いに乗るはずがない。
「部長には奥さんも子供もいますよね。一体何を考えているんですか? 常識的に考えて、私がOKを出すわけないじゃないですか」
美紀さんの言葉はもっともである。社長もまさかこんな理由でトラブルが起きていたとは想像もしていなかったらしく、呆れ果てているようだった。
「こんなふざけた理由で部下に嫌がらせをするとはどういうことだ! 今回の商談が上手くいっているからいいものの、ダメになっていたらどう責任を取るつもりだったんだ?! 」
社長に怒鳴られ、竹本部長は腰を抜かしたようにその場に座り込んだ。
「社長、すいません!
私ははめられたんです。この女に誘惑されて頭が痛くなってきた……」
自分の非が悪くなっていることに気づき始めたのか、今度は美紀さんが悪いと言い出した。美紀さんが仕事に私情を持ち込むような人間ではないことは、俺が一番よく知っている。そんな言い訳が通じるとでも思っているのか。
「君のこれからの処遇に関しては、役員会議で話し合って決めることにする」
社長は、見たことのないほど冷たい目線で竹本部長にそう言い放った。身の危険を感じたのか、竹本部長は力が抜けたようにその場に座り込んでしまった。
翌日、社長は役員たちを早急に招集し、役員会議を開いた。竹本部長が美紀さんに行った嫌がらせの内容、その理由まで細かく説明し、処遇を協議した。もしこの話が外に漏れていれば、会社の名前に大きな傷をつけることになっていただろう。そう考えれば、減給などの軽い処分では軽すぎるという話になり、満場一致で竹本部長の解雇が決まった。
そして、竹本部長は会社を追放されたのだ。
「優作、営業部の部長をやってみないか」
竹本部長を解雇した後、社長からそう相談された。営業部の部長がまだ決まっておらず、俺が適任だと言うのだ。年月が経っても、俺の心の傷が消えたわけではない。正直、営業という仕事に携わるのはまだ少し怖いと思っている。だが、いずれはこのトラウマも乗り越えなければいけない。そう考えた俺は、いい機会だと思い、社長からの頼みを了承することにした。
最初こそ不安でいっぱいだったものの、美紀さんの存在もあり、仕事をこなすことができた。営業部はそこまでギスギスした感じもなく、竹本部長から解放されて喜んでいる部員たちから大いに歓迎された。
仕事に慣れてきた頃、部下から最近出回っている竹本部長の噂について聞かされた。竹本部長は解雇された後、妻に逃げられ、そのショックからか再就職もうまくいっていないらしい。会社を首になって半年経った今でも無職のままだという。以前とは別人のような薄汚い格好で街をうろついている姿も目撃されているらしい。あまりの転落ぶりに、少し可哀想にも感じてしまったが、これまでの報いが一気に来たのだと思うことにした。
俺はと言うと、過去の嫌な経験から、周りで働く人たちには楽しく働いてほしいという思いがあった。だから最近は、みんなで楽しく仕事ができる空気づくりに力を入れている。お互いに励まし合い、助け合い、ストレスなく仕事ができるような部署にできたらいいなと思っている。そのために、これからも部長として頑張っていこう。
働く社員たちの姿を見ながら、俺は気持ちを新たに仕事に向き合うのだった。


