出張から1週間ぶりに帰宅した玄関に、見知らぬ女物の靴が置いてあった。リビングに入ると、夫と娘、そして見たこともない女性が待っていた。「俺の新しい妻になるアン里だ。あなたより私の方が一流料理人の妻にふさわしいの」と、その女性は勝ち誇った顔で言い放った。夫はファミレスのキッチンで皿を洗うアルバイト。なのに何故か、娘まで「新しいママがいい」と私を拒絶する。「もうお前はいらない」と言う夫に、私はその…

出張から1週間ぶりに帰宅した玄関に、見知らぬ女物の靴が置いてあった。リビングに入ると、夫と娘、そして見たこともない女性が待っていた。「俺の新しい妻になるアン里だ。あなたより私の方が一流料理人の妻にふさわしいの」と、その女性は勝ち誇った顔で言い放った。夫はファミレスのキッチンで皿を洗うアルバイト。なのに何故か、娘まで「新しいママがいい」と私を拒絶する。「もうお前はいらない」と言う夫に、私はその...

1週間の出張を終えて自宅の玄関を開けると、見知らぬ女性の靴が置かれていた。不審に思いながらリビングへ向かうと、夫の尊と娘のちーと共に、見覚えのない女性が待っていた。

「誰?」

「俺の新しい妻になる、アン里だ。」

アン里の手には、ちーが抱かれていた。

「あなたより私の方が、一流料理人の妻にふさわしいわ。当然、彼の子供の母親も私よ。」

アン里は勝ち誇った顔で私を見つめていた。

「料理人?誰の話?」

「決まってるじゃない。尊のことよ。」

ファミレスのキッチンでアルバイトをしている尊が、一流料理人?笑わせてくれる。私は呆れながら、ちーにこっちへ来るよう促した。

「ママ嫌い。早く出ていって。」

「何を言ってるの?わけのわからないことを言わないで、ママのところに来なさい。」

ちーは激しく抵抗し、私の方へ来たがらない。

「ちーは、新しいママがいいの。」

尊は、この日のためにちーを手な付けていたのだ。悪びれる様子もなく、尊は私を嘲笑った。

「そういうことだ。もうお前はいらない。」

「分かった。そこまで言うなら、出ていくわ。」

ちーの反応には驚いたが、尊がそのつもりなら仕方がない。私は大きなショックを受けながらも離婚を受け入れ、その場で離婚届にサインして家を出ていった。しかし、この時の彼らは、自分たちがどれほど愚かな選択をしたのか、まだ全く気づいていなかった。

私は柴岡涼子、34歳。大手IT企業で営業リーダーとして働きながら、夫の尊と5歳になる娘のちーの3人で暮らしていた。大学を卒業して就職してからというもの、多忙な毎日ではあるが、チームリーダーとしてのやりがいを感じながら充実した日々を送っていた。

尊と出会ったのは7年ほど前のこと。当時、友人と何気なく参加した飲み会で偶然隣り合わせたのが尊だった。彼はファミレスのキッチンでアルバイトをしながら、イラストレーターになることを夢見ていた。現実の暮らしは決して楽ではないと言いながらも、楽しそうに夢を語る尊に、私は惹かれた。それから週末になると2人で食事に出かけるようになり、やがて交際し、その2年後に結婚した。

結婚後の生活費は全て私が賄うこととなったが、尊の夢を応援するためなら、と納得していた。しかし、どういうわけか彼がイラストを書いているところを見たことがない。

「イラスト書かなくていいの?」

「1人の時にちゃんと書いてるよ。2人で一緒にいる時は、できるだけ仕事を忘れたいんだ。」

尊は私との時間を優先してくれている。この時は、尊の優しさだと思っていた。

結婚して2年が経った頃、娘のちーも生まれ、私はまさに幸せの絶頂にいた。しかし、この頃から尊の本性が見え始めたのである。

ある日、予定よりも仕事が早く終わり家に帰ると、家の中は真っ暗で尊もちーもいない。2人でどこかに出かけているのかと思ったのだが、その直後、近所に住む義母から電話がかかってきた。

「ちーが熱を出しているの。」

私は慌てて義実家へと向かった。

「ずっと機嫌よく過ごしてくれてたんだけど、急にぐったりしちゃって。」

義母は申し訳なさそうにしているが、ちーがなぜ義実家にいるのか。この日、尊はアルバイトが休みで1日家にいる予定だった。

「時々こうやって、ちーを預けに来るのよ。」

義母の話を聞いて驚いてしまった。それまで尊はずっとちーと過ごしていると思っていたが、実際には度々義母に預けて、どこかに出かけているらしい。義母は孫の世話ができて嬉しいと言ってくれるが、私は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

その夜、家に帰ってきた尊を追求すると、「たまたま用事があっただけだ」という。

「本当は何をしてたの?」

「本当はパチンコに行ってたんだ。」

尊は義母にちーを預け、ギャンブルに興じていた。これまでもパチンコに行きたいから、と義母にちーを預けていたらしい。時々競馬にも行くという。呆れたことに、尊は自分が稼いだわずかな収入を全てギャンブルに注ぎ込んでいた。給料が入るたび、義母にちーを預け出かけていたのだ。尊のギャンブル好きは知っていたが、子供が生まれてからも続いているとは夢にも思わなかった。尊はちーのために、父親としてギャンブルをやめて真面目に働くと約束してくれていたはずだ。

「でも、母さんだってちーと一緒に過ごせて喜んでいるよ。」

「そういう問題じゃないでしょう。」

ちーを1人で放置したわけじゃない、と開き直る尊。育児を放棄してまでギャンブルに興じていたことが許せなかった。しかし、その日以降も尊はギャンブルをやめられなかった。そればかりか、尊が口にしていたイラストレーターになるという夢も、彼の空想だったことが判明した。

ある日、夕飯を食べながらふと尊に問いかけた。

「そういえば、イラストは書いてるの?」

「イラスト?ああ、それならもう諦めてるよ。」

尊は、自分よりもすごい絵を描くイラストレーターがたくさんいると言い、挫折したという。しかし、そもそも狭き門であることは分かっていたはず。ちーが生まれたとはいえ、ちーは私が保育園に送り、夕方は義母が迎えに行ってくれている。アルバイトはあるものの、創作活動に費やす時間はたくさんあるはずなのだ。

「誰かに無理だって言われたの?」

「そういうわけじゃないけど、とにかくやめたんだ。」

正直なところ、尊が夢を叶えるためにどんな活動をしているのか知らなかった。SNSに投稿しているとは聞いていたが、実際に見たことはない。それでも、せっかく追いかけてきた夢を諦めるのはもったいないと思った私は、「何でもいいから書いてみて」と頼んだ。実はこの時、私が務める会社で新しいWeb CMを制作する予定があり、その制作に尊のイラストが起用できないかと考えていたのだ。尊は乗り気しない様子を見せたが、これはチャンスだと説得し、イラストを書いてくれることになった。

しかし、数日後、出来上がったイラストを見て私は言葉を失ってしまった。尊が書いたイラストは、ちーが書く落書きと大して変わらない。よく言えば味があるのだが、とてもプロの作品とは思えないものだった。

「俺の力だ。」

尊は得意げに胸を張っていたが、愛想笑いしか出なかった。その日以来、私は彼に夢の話をしなくなった。尊はそれをいいことに、週3日のアルバイトとギャンブルの毎日に興じていた。

義母は常識のある人で、尊のことも、ちーに対しても、人としてやっていいこと悪いことをきちんと教えてくれて、厳しくも愛情ある育児をしてくれていた。義母とは気も合い、育児に関する考え方も同じで、私はストレスなく義両親と良好な関係を築いていた。義母のおかげで、ちーはとても素直ないい子に育ってくれていた。

しかし、ちーが3歳になったある日、夕飯の好き嫌いをしたことを私が叱ると、「ママ嫌い」と反発を見せた。それまでは何でも食べていたちーが、一体どうしたというのか。自我が芽生え始めているとはいえ、私に対し「嫌い」と口にしたのは初めてだった。不思議に思いながら根気よく話をしていると、横から尊が口を挟んできた。

「好き嫌いだってあるよな。」

「子供の頃からちゃんと好き嫌いをなくしておかないと、大人になってから困ることになるのよ。」

「嫌いなものを食べなくても生きていけるさ。」

尊はちーの味方となり、嫌いなものは食べなくていいという。母親が叱っている時は、父親が子供の味方になることは子育てにおいて必要なことなのかもしれないが、それまでちーのことに関心も示さなかった尊が娘を擁護することに疑問が湧いた。その日以来、尊はちーの機嫌を取るようになり、次第にちーは尊にばかりなつくようになっていった。

ある日、休日に家事をしていると、リビングで尊とちーがこそこそと話しているのを目撃した。耳を済ませて見ると、尊が「ママたちには内緒」と何かを約束させているようだ。驚いたことに、ちーは「ママとばあばは鬼だからね」と言っていた。尊は私が不在の間、ちーに何を吹き込んでいるのだろうか。不審に思った私は、尊がいない隙を狙ってちーに問いかけてみた。

「パパとどんなお話をしているの?」

「ママとばあばは鬼だから、怖い目に合わされるって。」

尊は私や義母の悪口をちーに聞かせ、自分を信じるように仕向けていたのだ。そのせいで、ちーはおもちゃを買ってくれ、自分を甘やかしてくれる尊になつき、厳しくしつける私や義母のことを拒絶するようになっていた。3歳の子供にしてみれば当然の反応だろう。しかし、なぜ尊がそんな行動を取っているのか理解できなかった。ちーを自分の味方につければ、私や義母の批判を回避できるとでも思っているのだろうか。だとしても、私や義母が尊にギャンブルをやめるように言うことはなくならない。ちーの成長を考えても、父親がアルバイトでギャンブル好きという状況は良くないと思っているからだ。尊もそのことは理解しているはず。それ以外にちーを取り込む理由があるということだろうか。

しかし、しばらくしてその答えが見つかった。ちーが4歳になった頃、尊の言動に不審が見られるようになったのである。ある日、夜遅くに帰ってきた尊の服から、女性の香水の匂いが漂った。その日はアルバイトに出かけていたため、仕事中に私服に香水がつくことは考えにくい。

「仕事の後、どこかに行ってたの?」

「どこにも行くわけないだろう。」

尊は私の気のせいだと言い張ったが、その目が泳いでいることを私は見逃さなかった。その数日後も、なぜか仕事に出かけた時に限って、香水の匂いをさせて帰ってくる。それと同時に、帰りが深夜になっていった。

「こんな遅くまで仕事じゃないよね。」

「俺だって付き合いくらいある。」

尊がバイト仲間と飲みに出かけることは時々あった。しかし、それ以外での付き合いを聞いたことがない。

「もしかして、浮気してるの?」

「なんでそう思うんだ?」

「香水気づいてないかもしれないけど、あなたの服から女性の匂いがするの。」

私は冷静に問い詰めた。

「俺は将来、イラストレーターとして有名になる男だ。世の中の見聞を広めることは大事なことなんだ。」

「は?何を言ってるの?」

尊の意味不明な言い訳に、私は怒りが湧き起こった。

「とにかく俺は夢に向かって頑張ってるんだ。妻なら応援しろ。」

すでに諦めたと言っていたことも忘れて、尊は夢を応援しろという。尊が浮気していることは間違いない。確信はあったが、確固たる証拠が見つからず、それ以上の追求ができなかった。2週間後には海外出張に出かけなければならないというのに、私の心は真っ白なモヤがかかった状態だった。

それからも尊は度々、女性の影を匂わせてきた。家にいてもスマホから目を離さなくなり、深夜に帰宅した後も誰かとメッセージのやり取りをしている。それでも「仕事だ」「将来のためだ」と言い訳を聞かされ、私は手をこまねいていた。

海外出張まであと2日と迫り、私は思い切って、友人である霧島ふみ子に相談してみることにした。ふみ子は学生時代からの友人で、私に困ったことがあるといつも必ず的確なアドバイスをくれる。ふみ子であれば、このことも何かいい知恵を貸してくれるのではないかと思った。

「尊のことで相談があるの。」

ふみ子は真剣な表情で私の話を聞いてくれた。

「まずは浮気の証拠を集めないとだね。だけど、浮気が確定したら、その後どうするの?」

「どうするって?」

「離婚するのか?夫婦として再建していくのか?それによって話し合いの仕方が変わるわ。」

ふみ子に指摘され、私は改めて尊との結婚生活を振り返ってみた。生活だけを考えるのであれば、いなくてもやっていける。しかし、浮気とギャンブルに不満はあるが、離婚まで考えたことはない。

「そうね。全ては彼次第かしら。」

尊がどういうつもりで浮気しているのか。私と別れて別の女性の元に行くというのであれば、それも仕方ない。しかし、本気の出来心で迷走したというなら、ちーのためにもやり直してみるべきだと考えていた。

「分かった。調査は私に任せて、また連絡するわ。」

ふみ子は尊の行動を調べてくれるという。私はその結果を待つことにして、海外出張へと出かけた。仕事をしている間も尊のことが気になって仕方がない。一緒に留守番しているちーのことも心配でならなかった。それでも、家計を支えるために仕事の手を抜くわけにはいかない。私は自分を鼓舞しながら仕事に集中した。

1週間後、出張を終えた私は急いで自宅へと向かった。

「ただいま。」

玄関を開けると、見知らぬ女性の靴が置かれている。不審に思いながらリビングに向かうと、ちーと共に女性が待っていた。

「誰?」

「その人、俺の新しい妻になるアン里だ。」

アン里の手には、ちーが抱かれている。

「あなたより私の方が、一流料理人の妻にふさわしいわ。当然、彼の子供の母親も私よ。」

アン里は勝ち誇った顔で私を見つめていた。

「料理人?誰の話?」

「決まってるじゃない。尊のことよ。」

ファミレスのキッチンアルバイトの尊が、一流料理人?笑わせてくれる。私は呆れながら、ちーにこっちへ来るよう促した。

「ママ嫌い。早く出ていって。」

「何を言ってるの?わけのわからないことを言わないで、ママのところに来なさい。」

ちーは激しく抵抗し、私の方へ来たがらない。

「ちーは、新しいママがいいの。」

尊は、この日のためにちーを手な付けていたのだ。

「そういうことだ。もうお前はいらない。」

悪びれる様子もなく、尊は私を嘲笑った。

「分かった。そこまで言うなら、出ていくわ。」

ちーの反応には驚いたが、尊がそのつもりなら仕方がない。私は大きなショックを受けながらも離婚を受け入れ、その場で離婚届にサインして家を出て行った。

家を出た私は、ふみ子の事務所へと向かった。実はふみ子は探偵事務所を経営しており、地元では有名な探偵なのだ。出張前、尊の調査をしてくれると約束してくれたふみ子から、ちょうど結果が出たと連絡を受けていた。尊とアン里が浮気していたことは紛れもない事実として分かったが、アン里がどうして尊のことを一流料理人だと思い込んでいるのか。その答えが見つかるかもしれない。そう思い、ふみ子の元を訪ねた。

「尊さん、真っ黒だったわ。」

「え?」

「浮気相手と再婚するんですって。ついさっき、彼女と会ってきたところよ。」

私が夫の家に乗り込んできたと知り、ふみ子は驚きを見せた。

「もう離婚届にもサインしてきたから、気にすることないわ。」

「そう。それじゃ、この報告書を盾に、双方から慰謝料を取ってやりましょう。」

ふみ子はいつも前向きな言葉を私にくれる。

「そうね。」

ふみ子に頷きながら、私は報告書に目を通した。アン里は尊がアルバイトをしている店の近所にあるコンビニの店員をしているそうで、1年前、度々買い物に訪れる尊と仲良くなり、交際を始めたのだとか。尊は自分のことを高級ホテルの料理長だと名乗り、アン里の気を引いたらしい。そのことはアン里の同僚が証言してくれている。アン里と付き合うようになった尊は、自身の身分がバレないよう、わざわざ高級ホテルのスタッフ用の通用口の前でデートの待ち合わせをしていたようだ。ホテルスタッフの多くがその様子を目撃しており、不審者かもしれないと注意を払っていたという。

「呆れたわね。」

尊のアルバイトは、1つずつパウチされたものを取り出し、オーブンに入れることや、客が使った皿を洗うこと。料理とも言えない作業だというのに、「料理とは大きく出たものだ。家では料理どころか、インスタントのカップ麺すら作ったことがないのに。」

「時期に化けの皮が剥がれて、泣きついてくるわよ。」

ふみ子の予想は、まんざらでもない気がした。しかし、尊がどれほど謝ってきても許すつもりなど一切ない。ちーを差し置いて愛人と一緒になると言った男など、私には必要ないのだ。

ふみ子の事務所を出た私は、自宅のライフラインを全て解約した。その上で、夫婦共通の口座も解約し、生活費の供給も止めたのだ。

数日後、尊から電話がかかってきた。

「クレジットの引き落としができてないじゃないか。」

「どうして私に言うの?もう離婚したんだから、関係ないわ。」

そもそも、尊が持っているクレジットカードは私に無断で作ったものだ。夫婦共同の口座からの引き落としにしていたため、婚姻中は支払ってきたが、離婚してからも支払う義理はない。

「そんな、それじゃ支払いはどうするんだよ。」

「そんなの知らないわ。新しい奥さんに泣きつけばいいでしょ。」

「そんな格好悪いことできるか?」

尊は未だにアン里に料理長だと嘘をついているらしい。

「とにかく、これまで私が支払ってきた生活費全般、今後は当てにしないでちょうだい。」

私は一方的にそう言って、電話を切った。

1ヶ月後には、尊がギャンブルで作った借金の請求書が自宅ポストに届くようになり、アン里は驚いていたのだとか。尊が作った借金は総額300万円に上る。毎月の返済額は7万円程度だが、アルバイトしかしていない尊には支払うことも難しいだろう。さらに3ヶ月後には、公共料金の支払いができずライフラインも止められ、追い込まれた尊はアン里の貯金を勝手に使うようになったそうだ。アン里は家事を全くせず、部屋の中はゴミ屋敷と化しているらしい。近所に住む主婦から「なんとかして欲しい」と電話があったが、既に離婚していることを告げ、役所に通報してもらうように促した。数日後、同じように不快に感じている人が多くいたようで、役所からの改善指導が入ったそうだ。

高級ホテルの料理長との結婚で、優雅な料理長夫人の生活を夢見ていたアン里にしてみれば、真逆の現実に慌てふためいているだろう。現実の結婚生活は、借金取りに追われながら、その日食べていくのが精一杯の極貧生活なのである。実は、尊がアン里と結婚したのは、彼女が中堅企業の社長令嬢ということを知ったからだ。私と別れても、社長令嬢のアン里と再婚すれば何も困らないと思っていたようだ。しかし、実際にはアン里の実家は個人経営の運送屋をしているだけで、大手配送会社の下請けの仕事がなければすぐにでも潰れてしまいそうな状況で、とても娘を支援する余裕などない。アン里はそんな実家を嫌がり、高校卒業と同時に家を飛び出し、それ以来一度も帰っていないのだとか。ある意味、社長令嬢には間違いないのだろうが、アン里もまた尊によく思ってもらえるよう見栄を張っていたのである。お互いの素性を隠したまま結婚した2人は、現実に見える姿の違いに戸惑っていることだろう。

離婚から半年後、家に置いてきた荷物を取りに久しぶりに帰宅すると、ちーが泣きながら抱きついてきた。

「ママ、ごめんなさい。ちーが間違えてた。」

ちーは大粒の涙を流して、必死に謝ってきたのだ。

「ちーちゃん、新しいママがいいって言ったでしょ。」

アン里は私からちーを引き離そうとするが、ちーはしっかりと私の服を離さない。

「お人形だって買ってあげたのに、うそつきなの?」

「こんなの可愛くない。このおばさん、うそつき。」

ちーはアン里からもらったという人形を放り投げた。アン里はちーを懐柔するため、彼女が欲しがっていたお姫様の人形を買ってあげると約束していたらしい。しかし、実際にアン里が買い与えたのは、安物のどこで売ってるかも分からない人形だったのだ。

「ちーは本当のママがいい。ママとずっと一緒にいたい。」

ちーはよほど辛い思いをしたのだろう。そう思うと、胸が締め付けられる。

「遅くなってごめん。」

そこに、ふみ子がやってきた。ふみ子は私の荷物を運び出すため、引っ越し業者を連れてきてくれたのだ。

「何をするつもりだ?」

「私の荷物を運び出すだけよ。」

実は、家に置いてあった高級家具は全て、私が独身時代に購入したものや、自分のお金で買い揃えたもので、紛れもない私個人の資産なのである。尊が買ったものは何一つない。引っ越し業者に指示を出し、次々に家具たちが運び出される。ダイニングのテーブルも、リビングのソファーも、洋服を入れているチェストも。全てを運び終えると、家の中には何も残らなかった。その様子を、尊とアン里は顔を青くして眺めていた。

「これは一体、どういうことなの?」

「まだ何も知らないのね。」

私は呆れながら、ホテルの通用口の前で料理長を気取る尊の動画を見せつけた。

「あなたの大好きな彼、ファミレスのアルバイトよ。このホテルには何の関係もない。ましてや料理長だなんて、誇張でしかないわ。」

「やっぱり、そうだったんだ。」

アン里は尊が定収入だと薄々気づいていたが、直接確かめるのが怖くて聞けなかったという。

「ファミレスだって立派なコックだ。」

尊は少しでも自分の嘘をごまかそうと、必死に言い訳を始めた。

「そうね。だけど、月収10万円程度しかないあなたが料理長だったら、店は潰れるわ。」

真実を知ったアン里は、その場で発狂し、尊に掴みかかっていった。

「よくも私を騙したわね。」

「お前だってただのアルバイトじゃないか。社長令嬢の特権はどうしたんだよ。」

2人は見苦しい言い争いと組み合いの喧嘩を始めた。

「どうでもいいけど、このマンションもすでに解約してるから、明日には強制退去になるみたいよ。」

借金取りからの手紙が大量に届く中、2人は郵便物も確認していなかったらしい。ずっと前に管理会社から明け渡し通知が届いていたのだが、2人はそれを無視し、ついに強制退去命令が出されていたのだ。

「この家を追い出されたら、どこに行けばいいんだよ。」

「それは自分たちで考えて。元々私が契約して家賃を支払ってたんだから、解約するのは当然でしょ。」

尊は自分にも住む権利があると主張しているが、家賃も払えないのに住み続けることなどできるはずがない。

「いや、待てよ。アン里の実家に頼めば、まだ。」

尊はブツブツと独り言を呟いている。

「アン里、今後のことについて大事な話がある。悪いが、お前は少しだけ外してくれ。」

尊がそう言った直後、アン里の右手が彼の方にクリーンヒットした。

「フリーターと話すことなんて、何もないわ。」

アン里は尊を突き飛ばして、マンションを飛び出していった。

「それじゃ、待ってくれ。頼むから、俺を見捨てないでくれ。」

アン里にも捨てられ、もう誰も自分の味方がいないことに気づいた尊は、私に復縁を求めてきたのである。

「私たちはすでに離婚したの。もう二度と、顔も見たくないわ。」

私はすがりつく尊を払いのけ、家を後にした。

「待って、ママ。」

ちーも私の後を追ってついてきた。

行き場を失った尊は、その後実家を頼ったそうだ。

「農園を継ぐから、ここに置いてくれ。」

実家の玄関先で土下座して頼み込んだそうだが、すでに私から不貞の事実を聞いていた義両親は、尊を家に入れなかった。義父は「お前に任せられる農園はない」と尊を突き放し、義母も「擁護できない」と尊との絶縁を言い放ったのだ。

義両親は以前より尊の悪さに頭を悩ませていた。尊は私と結婚する前から定職にもつかず、度々義両親にお金を借りていたらしい。しかし、私と結婚しちーが生まれたことで、少しは真面目に働くのではないかと期待したそうだ。それなのに、尊は毎日のようにちーを義母に預け、遊び歩いていた。何度注意してもギャンブルもやめず、いつかこんな日が来るのではないかと心配した義両親は、尊が頼ってきても断れるように、すでに農園を手放していたのである。そこに私から不貞の事実を聞き、堪忍袋の緒が切れたというわけだ。

「農園を売ったお金も、少しは老後の足しになるわ。」

義両親はそのまま玄関を閉め、尊を追い返したらしい。

義両親にも見放された尊は、その後アルバイトを掛け持ちしたらしいが、ギャンブルの借金が膨らみ、夜逃げを繰り返しているらしい。しかし、金銭的信用を完全に失い、アパートの契約もできなくなってしまったのだとか。友人たちにもお金を借りまくっていたようで、誰も彼を助けてくれず、今ではホームレス生活を送っているそうだ。

アン里はその後実家に帰ったそうだが、彼女の両親も受け入れなかったらしい。実は、尊との不倫の証拠資料と共に、慰謝料の請求書類をアン里の実家にも送り付けていたのである。その結果、アン里の両親は世間体を気にして、彼女を勘当したらしい。その後、アン里は家賃の安いアパートに引っ越し、アルバイトを掛け持ちしながら、私への慰謝料を払い続けている。

新居でちーと2人で暮らし始めた私は、解放感に満ち溢れていた。イラストレーターになりたいという夢を追いかける尊を応援したい気持ちはあったが、生活の全てを自分が背負わなくてはならない現実が、心のどこかで重荷だったのかもしれない。離婚してからも、義両親とは円満な関係を続けており、時々ちーを連れて4人で出かけることもある。ちーは心から反省しているようで、本当に愛情を持って接してくれているのは私や義両親だということに気づいたようだ。私の元に戻ってきて以来、一度も「嫌い」と口にしたことはない。そればかりか、義両親の教えをよく守り、私のことも気遣ってくれる優しい子になってくれた。これからは、ちーと2人、義両親の力を借りながら、穏やかに暮らしていこう。そう思える日々が、私はとても幸せなのである。

Thumbnail