三十二年間住んだ団地の一室。夫の秀夫と二人、静かに暮らしてきた。ある日、市役所から一通の封筒が届き、中を開けると、来年の四月にはここを出なければならないと書かれていた。補助金は十万円。けれど、私たちの通帳には八万円しかない。夫は歳で緑内障が進み、ついには仕事を失った。慌てて申請した市営住宅も、待機が二年から三年。どうすればいいのか、答えが出ないまま、私は決断した。夫には言えないことを、今夜、…

三十二年間住んだ団地の一室。夫の秀夫と二人、静かに暮らしてきた。ある日、市役所から一通の封筒が届き、中を開けると、来年の四月にはここを出なければならないと書かれていた。補助金は十万円。けれど、私たちの通帳には八万円しかない。夫は歳で緑内障が進み、ついには仕事を失った。慌てて申請した市営住宅も、待機が二年から三年。どうすればいいのか、答えが出ないまま、私は決断した。夫には言えないことを、今夜、...

11月の夜、松崎しず子は半額になった唐揚げ弁当を二つ手に取り、駅から十五分の古い団地へと歩いて帰った。夫の秀夫はいつも遅い。温め直せば食べられるように、と選んだ二つの弁当は、今夜もその習慣のままだった。

部屋の郵便受けには、水道局の検針表と、少し厚みのある封筒が一通入っていた。差出人は埼玉市役所。しず子は何の気なしに封を切り、中身の紙を広げた。

「緑ヶ丘団地第二住宅 建替え及び用途変更に伴う退去のお知らせ」

来年の四月に、ここを出なければならない。補助金は一世帯につき十万円。次の住まいは各自で探すか、市営住宅に申請するか。しず子はその紙をテーブルに置き、しばらくの間、何も考えないようにした。

夜の九時四十分、秀夫が帰ってきた。工事現場の蛍光イエローのベストを脱ぎ、黙って麦茶を飲む。食卓に並んだ弁当を、二人は無言で食べ始めた。しず子は小さく切り出した。

「市役所から来た。来年の四月に、ここを出なければならないって」

秀夫は書類を一瞥し、静かにテーブルへ戻すと、残りの飯を口に運び続けた。怒鳴りもせず、驚きもせず、ただ黙って食べる。その沈黙が、しず子には何より苦しかった。

翌日、しず子は通帳を確認した。残高は八万円。引っ越しのための初期費用を考えると、補助金の十万円を足したところで、足りるかどうかも分からない。次の日から、二人はその話をしなかった。話しても何も変わらないことを、互いに知っていたからだ。

それでも三日目の夜、秀夫が言った。

「一度、市役所に行ってみた方がいいんじゃないか」

しず子は「そうね」と答え、次の月曜日、薄茶色のトートバッグに書類を入れて市役所へ向かった。住宅政策課の窓口で、三十代前半の男性職員・黒沢が応対した。

「市営住宅への申請は随時受け付けていますが、現在の空き部屋の待機期間は、平均で二年から三年です」

しず子は繰り返した。

「二年から三年……。その間、どこに住めばいいんですか」

「民間の賃貸物件をお探しいただくことになります。ただ、保証人の確保が難しい場合は、家賃債務保証会社を利用した物件に絞ってお探しになると良いかと思います」

説明は丁寧だった。だが、その言葉は正確である分、どこか温度がなかった。しず子は、夫が十五年前に店を畳んだ際、税金の延滞が少し残っていることを打ち明けた。黒沢は画面を見ながら応えた。

「過去に延滞の経歴がある場合、審査の対象になります。まずは税務課で納税証明書を取得してください」

しず子はその足で税務課に向かった。窓口で納税証明書の発行を求め、係員が調べた結果を待つ。

「2016年度の住民税に、延滞金の未納分が残っております。当時七千八百円の延滞金が発生しており、こちらがまだ精算されていない状態です」

しず子は驚かなかった。そういうことだろうと、心のどこかで思っていた。一万円札を差し出し、七千八百円を払った。証明書はすぐに発行された。これで書類の一枚目が揃った。

しかし、必要書類はまだある。住民票、収入証明書、年金の証明書。どれもが簡単に手に入るものではなかった。秀夫は事務所に電話して収入証明書の発行を依頼した。年金の証明書は、国民年金と厚生年金で別々に請求しなければならないことが分かった。どうすればいいのか分からず、図書館のパソコンの使い方も知らず、結局、年金事務所に直接電話して請求書を取り寄せることにした。

書類がすべて揃ったのは、通知書を受け取ってから二週間後のことだった。しず子は再び市役所へ向かい、申請書を提出した。窓口に座っていたのは、前回とは違う三十代後半の女性職員だった。書類を一枚ずつ確認し、彼女は言った。

「こちら、年金証明書なのですが、国民年金の分はお持ちでしょうか?」

しず子は一瞬止まった。

「届いたものを全部持ってきたのですが……厚生年金の証明書ですね。旦那様が国民年金にもご加入の期間がある場合は、国民年金の証明書も必要になります。年金機構から送付されるのは、それぞれ別の書類になりますので」

しず子は書類を封筒にしまい、頭を下げた。

「分かりました。また取り寄せて持ってきます。よろしくお願いします」

窓口を離れながら、しず子は何も感じなかった。怒る気力もなかった。ただ、また出直さなければならないという事実だけがあった。

帰りの電車の中、窓ガラスに映った自分の顔を見た。白髪混じりの、薄い眉の、老けた顔。この顔で、この年齢で、この通帳の残高で、この町のどこかに住み続けることが、本当にできるのだろうか。

十二月に入ると、しず子は深夜の仕事を始めた。昼間のカプセルホテルの清掃に加え、夜の十時から二時まで、駅のトイレ清掃の仕事を請けた。日当は七千円。月に二回、いや、もっと。少しでも貯めなければならなかった。

秀夫には「老人施設のボランティア清掃」と言って出かけた。嘘だった。自分でも分かっていた。秀夫は夜中に帰ってくる妻の気配に気づいていた。だが、何も言わなかった。確かめたところで、何も変わらないことを知っていた。

十二月の半ば、隣の部屋の高野という老婆が施設に入っていった。一人暮らしだった彼女は、小さな旅行かばんを一つ持って、息子の車に乗って去っていった。翌日から、壁一枚を隔てた隣から聞こえていた生活音が完全に消えた。ガスの音、テレビの低い音、夜中に起きる水の音。それが全部消えて、団地はさらに静かになった。

十二月のある夜、しず子は大阪に住む娘・弓に電話をかけた。四十二歳の弓は、三年前に離婚し、一人で息子の健二を育てている。電話の向こうの弓の声は、疲れていた。

「お母さん、どうしたの?」

「ううん。別に大した用事じゃないんだけど……。たまには声を聞こうと思って」

「そっか。健二がね、最近学校でちょっとトラブルがあって、バタバタしてて。今月はシフトも減っちゃって、健二の学校の積み立て金の支払いが来月にあって、ちょっときついんだけどね。まあ、なんとかなるけど」

その言葉を聞いた瞬間、しず子の喉は細くなった。娘に「家を失いそうだ」と言えるはずがなかった。娘の苦しさに、自分の苦しさを載せることになる。

「お母さんこそ、何か用事やったんじゃないの?」

「ええ、ちょっとね。……大したことじゃないんだけど。住まいのことで、ちょっと確認したいことがあって。来年、引っ越しを考えてるのよ」

「ええ、引っ越し? なんで急に?」

「建物が古くなって、建て替えがあるんだって。だから、少し動こうと思って」

「そっか。大変だね。でも、もうほぼ決まってるから、心配しないで」

嘘だった。ほぼ決まっているという言葉は、何ひとつ根拠のないものだった。だが、言ってしまった。弓は信じた。

「そっか。それならよかった。引っ越し落ち着いたら、来てね。部屋狭いけど、来てくれるだけで嬉しいから」

電話を切った後、しず子はこたつに足を入れたまま、額を手のひらに預けた。弓に話すという選択肢を、今夜捨てた。嘘が嘘を作る。もう二度と、同じ話題で電話ができなくなった。

一月に入り、秀夫の目の様子が変わってきた。緑内障が進み、夕方の逆光がきつくなったと言う。視野の端のものが、見えにくくなっていた。

一月の終わり近く、秀夫は交通誘導の現場で、対向車のヘッドライトで一瞬視野が白く飛び、工事車両に誤った合図を送ってしまった。別の車が急ブレーキを踏む音が響き、現場のリーダーに呼び出された。

「松崎さん。正直に言います。今日のは事故にならなかったから良かったけど、このままだと大怪我につながっていた可能性もある。……目の状態で、この仕事を続けていくのは、松崎さんにとっても危険だと思うので」

秀夫は仕事を失った。最後の日当三万円四千円が入った封筒を、作業服のポケットに入れたまま、雪の降り始めた夜道を歩いた。どこに向かっているのかも分からず、バスシェルターで座り込んだ。

その夜、しず子は秀夫が帰ってこないことに気づき、外へ出た。雪の中、バスシェルターで肩に雪を積もらせて座る秀夫を見つけた。

「帰ろう。着替えが濡れてる。体が冷えてる」

「すまない」

「何が?」

「全部が」

二人は黙って、団地へ戻った。台所で、冷めきったのり弁当を電子レンジで温め直して、二人で食べた。今夜、言い合ったことが、台所の中にまだ漂っているような気がした。しかし、弁当を食べている間は、それが少し遠のいていた。

しず子は、自分が夜にトイレ清掃をしていること、市役所に何度も行ったこと、弓に相談できなかったこと、すべてを話した。

「あなたが稼いでいる間は、私が夜に出ても大丈夫だと思って。……言ったら、あなたが自分を責めると思ったから」

秀夫は作業服のベストを床に叩きつけた。乾いた音が台所に響いた。

「俺が悪い。目が悪くなって、仕事ができなくなって、稼げなくなった。それが全部の原因だ」

「違う。私が言いたかったのは、あなたを責めるためじゃない。二人で四月を超えるためだ」

「分かってる。……分かってるから、辛いんだ」

その言葉に、しず子は何も言えなかった。二人は、互いの見たくないものからずっと目を背けてきた。それが、今夜ここで全部出てきた。秀夫は「どこへ行くの」と一度も聞いてくれなかった、としず子は言った。そんなことは、自分も同じだと分かっていながら。

二月に入り、秀夫は仕事を探すのをやめた。朝になると、テレビの前に座り、それから一日を過ごす。何も言わない。しず子も何も言わなかった。ただ、秀夫がそういう状態になってしまったことへの、何とも名付けにくい悲しさが胸に積もっていくだけだった。

二月の中頃、しず子は切り出した。市役所の福祉課に、生活保護の相談に行こうと思っている、と。秀夫は黙っていた。しばらくして、言った。

「……俺も、行くか」

翌週の月曜日、二人で市役所へ向かった。福祉課の窓口で、四十代の女性の担当者が話を聞いた。世帯収入に見込みが立たず、借金もなく、バイクが一台ある。英雄の年金と、しず子のパート収入を合わせても、最低生活費に満たない。担当者は言った。

「生活保護は、憲法で保証された権利です。長く働いてきた方が、やむを得ない状況で利用される制度です。遠慮なさることはありません」

申请書類を提出してから十日後、ケースワーカーの坂田という男が自宅を訪れた。部屋の状況を確認し、保険の有無を尋ねた。秀夫が長年かけて積み立ててきた生命保険は、解約すれば二十三万円が戻ってくるらしい。受け取り人は、まだ弓のままだった。

「弓への、最後のつもりで入れていた」

しず子は何も言わなかった。秀夫は書類を箱に戻し、押し入れを閉めた。

三月に入り、福祉課からの封筒が届いた。生活保護の受給が認められたという決定通知だった。二人は、書類を読んで、しばらく無言で立っていた。手続きは進んだ。しかし、それを喜ぶ気持ちにはなれなかった。

三月の中頃から、荷物の整理を始めた。新しい住まいは、福祉課が紹介してくれた市内の古い集合住宅の一室だった。四畳半一間。今の部屋よりずっと狭い。食器は、普段使いの物だけを選んだ。結婚した時に秀夫の母からもらった焼き物の小皿は、手放すのが惜しくて長年しまってあったが、持っていくことはできなかった。

三月の終わり、秀夫のバイクを処分した。引き取り業者が軽トラックで来て、「買い取りは難しい」と言った。処分は無料で行われることになった。秀夫は、バイクがトラックに積まれるまで、ずっと見ていた。何も言わなかった。トラックが見えなくなって、秀夫はゆっくり振り返った。

「行こうか」

「うん」

最後の夜、荷物の箱が積まれた部屋で、二人は半額の弁当を食べた。秀夫が言った。

「この部屋に来たのは、いつだったか」

「三十二年前。弓が十歳の時」

「そうか。古くなるはずだ」

秀夫は卵焼きを一口で食べて、「うまい」と言った。今夜も、いつもと同じ半額の弁当なのに。

四月最初の週の朝、小さな引っ越しトラックが団地の前に来た。積む荷物は多くはなかった。しず子は最後に台所を見て、和室を見て、押し入れを開けた。もう何もない。玄関に戻り、スリッパを脱いだ。ドアを閉め、鍵をかけた。使い込まれた鍵の表面が、少し摩耗していた。秀夫が隣に来た。

「出よう」

「うん」

しず子は鍵を管理人室のポストに入れた。カチャリと、小さな音がした。

新しい部屋は、四階建ての古い集合住宅の三階にあった。廊下はコンクリートで、エレベーターはない。部屋は四畳半で、台所が二畳ほど続く。窓は廊下側にしかなく、昼間でも部屋の奥は薄暗かった。二人分の布団を敷けば、それだけで埋まる広さだった。

英雄は一通り部屋を見て、言った。

「狭いな」

「狭いね」

それだけだった。それ以上のことは言えなかった。

荷物を一通り出し、布団を敷いた。すると、隣から咳の音が聞こえてきた。壁が薄い。繰り返す咳だった。英雄は壁の方を見た。

「隣は、老人か」

「かもしれないね」

英雄は何も言わなかった。しず子も言わなかった。

夜になって、春の雨が降り始めた。雨の音が窓に当たる。しず子はコンビニで買った塩鮭の弁当を二つ温めた。自分の弁当の鮭を半分に割り、英雄の弁当の隅に置いた。

英雄はそれを見た。

「いい。食べて。お前の分が減る」

「いいの。あなたの方が、体が大きい」

英雄は少し黙ってから、鮭を一口食べた。何も言わなかった。ただ箸を持って、また食べた。しず子も食べた。台所の電灯は、裸電球が一個下がっているだけだった。外した電球カバーは、ダンボールに入ったままだ。

食事が終わり、お茶を入れた。二人で湯呑みを手に持って、雨の音を聞いていた。英雄が湯呑みを見ながら言った。

「ここで、どのくらい生きることになるかな」

「分からない」

英雄は少し間を置いて、顔を上げた。

「でも、ここがあった」

「……そうだね。ここがあった」

英雄はお茶を飲み干し、立ち上がった。台所の明かりを消し、布団に横になった。しず子は湯呑みを洗って棚に伏せ、明かりを消した。暗闇の中で、英雄の寝息が聞こえ始める。雨の音が、窓に当たり続けている。

英雄が言った。

「眠れるか?」

「眠れるよ」

「そうか」

英雄の呼吸が、少しずつ深くなっていく。しず子はその呼吸を聞きながら、目を閉じた。今夜の自分たちの場所は、ここだった。広くない。明るくない。窓から見える景色は、壁だ。しかし、ここにいる。ここにいて、今夜のお茶を飲んで、英雄の呼吸が聞こえる。それが今夜の全部で、今夜の全部は、今夜だけのものだった。何も解決していなかった。何も終わっていなかった。しかし今夜は、そのどれもが始まっていない。今夜は雨の音と、英雄の呼吸と、隣の部屋の壁があるだけだった。人が静かに流されていく時、そこに音はない。叫び声もない。ただ、春の雨が降って、古い窓枠を水が流れて、二人が並んで横になって、それだけが続いていく。日本のどこかに、そういう夜がある。そしてその夜は、誰にも気づかれないまま、静かに朝になる。

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