朝の静けさの中で、スマートフォンから聞こえた息子の声が、私の心臓を凍らせた。
「ああ、母さん。俺たちもう成田空港に着いてるよ。母さんは家でオルス番よろしく。」
一瞬、自分の耳を疑った。手に持っていたコーヒーカップがカタカタと震える。
「え、のりお、どういうこと?集合時間は朝の7時って何言ってるの?5時集合だったでしょう。」
「まあいいや。じゃあ行ってくるね。」
電話は一方的に切れた。私は呆然と時計を見た。午前8時15分。ダイニングのテーブルには3ヶ月前から楽しみにしていたハワイ旅行のパンフレットが広がっていた。新しく買った水着もスーツケースに詰めたまま玄関に置いてある。
震える指でラインを開くと、嫁のかなからのメッセージが残っていた。
「お母さん、明日は朝7時に家を出ますからね。遅れないでくださいね。」
既読はついているが返信はない。家族のグループラインを見ると1時間前の投稿があった。孫が撮った写真。空港で楽しそうに笑うのりおとかな。そして義理の両親。私だけがいない。
40年ぶりの海外旅行。亡き夫との思い出の地、ハワイ。それなのに私だけが置き去りにされた。
スマートフォンが手から滑り落ち、床に音を立てて転がった。
—
3ヶ月前のことだった。久しぶりに家族全員が集まった夕食の席で、のりおが切り出した。
「記念の春、家族でハワイ旅行に行かない?義両親も誘ってさ。」
「まあ、素敵ね。」私は心から喜んだ。夫が亡くなってから5年。寂しい日々を過ごしていた私にとって、家族旅行は何よりの楽しみだった。
「お母さんもパスポート更新しないとね。」かなも笑顔で賛成してくれた。
その日から私は張り切って準備を始めた。40年ぶりの海外旅行に備えて、新しい水着を買い、ガイドブックを読み漁った。
「お母さん、ちゃんと体調管理してくださいね。飛行機は体に負担がかかりますから。」
かなの言葉を、私は優しい気遣いだと思っていた。出発前日の夜10時過ぎ。かなからLINEが届いた。
「お母さん、明日は朝7時に家を出ますからね。遅れないでくださいね。」
私は几帳面に目覚ましを6時にセットし、早めに床に着いた。
翌朝、5時に起きて身支度を整え、朝食も済ませた。6時45分にはスーツケースを玄関に運び、息子たちが迎えに来るのを待った。
7時。7時15分。7時30分。不安になってのりおに電話をかけた時には、もう8時を過ぎていた。
後からグループラインの履歴を見返すと、私以外のメンバーには「5時集合」と別の時間が送られていた。個別のメッセージで巧妙に仕組まれた罠だったのだ。
—
床に落ちたスマートフォンを拾い上げながら、私は過去の記憶を辿っていた。
思えばこの1年で、息子夫婦の態度は少しずつ変わっていった。最初は些細なことから始まった。
「母さん、その服装はちょっと……もっと地味な色の方がいいんじゃない?」
かなの何気ない一言が、次第にエスカレートしていく。
「お母さん、料理の味付けが濃すぎます。健康に悪いですよ。」
「この配置じゃダメです。もっと効率的に家事ができるように変えましょう。」
かなの指摘は日に日に細かくなり、まるで私の存在そのものを否定するかのようだった。
特に辛かったのは、孫の世話を巡ることだった。私はのりおが生まれてから職場復帰するまでの3年間。そして孫の翔太が生まれてからも、週に1回は朝から晩まで面倒を見てきた。公園に連れて行き、絵本を読み聞かせ、熱が出れば一晩中看病した。
それなのに、翔太が小学校に上がると同時に、私の役割は急激に制限された。
「お母さん、翔太も大きくなったし、もう送り迎えは結構です。習い事の付き添いも私たちでやりますから。」
「運動会、席に限りがあるので、今回はちょっと……」
孫と過ごす時間を奪われていく中で、私は自分の居場所を失っていった。
—
金銭面での貢献も、当然のように受け取られるだけだった。のりおの大学時代、私と夫は必死に働いて学費を工面した。私立大学の4年間で総額800万円。さらに留学費用として300万円を援助した。結婚する時には、結婚式の費用500万円を全額負担。マイホームを購入する際にも、頭金として500万円を提供した。
「これでのりおも一人前ね。」
夫と2人で喜んだあの日が、今では遠い昔のように思える。夫が亡くなった後も、私は息子家族のために尽くし続けた。月に1度は高級レストランでの食事代を持ち、孫の誕生日やクリスマスには高額なプレゼントを用意した。
「お母さん、いつもありがとうございます。」
かなの笑顔の裏に、別の感情が潜んでいることに気づいたのは、つい最近のことだった。
ある日、たまたま息子の家を尋ねた時、リビングから聞こえてきた会話に、私は凍りついた。
「正直、お母さんがいると疲れるのよね。いちいち干渉してくるし。」
「まあ、もう年だからな。しょうがないよ。」
「でも限界よ。この前なんて、翔太の勉強方法にまで口出ししてきて。時代遅れなのよ。」
「あの人の考え方、認知症の始まりかもしれないな。最近、同じ話を繰り返すし。」
「そうよね。ねえ、今度のハワイ旅行、どうする?」
「うん。母さんも楽しみにしてるみたいだけど。でも飛行機の長時間フライトは体に悪いでしょう。」
「それに現地でも足手まといになりそう。」
「確かに。ビーチでも一人だけ休憩ばかりで、写真も映えないしな。私の両親は元気だから一緒に回れるけど。お母さんは……」
「じゃあ、何か理由をつけて。あ、そうだ。集合時間を間違えたことにすれば。」
「それ、いいね。自然に置いていける。」
2人の笑い声が、私の心を引き裂いた。
—
それから数日後、親戚の集まりでさらなる屈辱を味わうことになる。
「春子さんも大変ね。息子さん夫婦に迷惑かけないようにしないと。」
従姉の何気ない一言に、かなはすかさず反応した。
「本当にそうなんです。最近は物忘れも激しくて。この前なんて約束の時間を間違えて、私たちにも時間を待たせてしまって。」
「え、そんなことが?」
私が反論しようとすると、のりおが遮った。
「母さん、覚えてないの?ほら、先月のレストランの件。」
そんな約束はなかった。でも息子夫婦が口を揃えているので、親戚たちは私を心配そうな目で見た。
「春子さん、一度病院で見てもらった方がいいわよ。」
「お母さんのためを思って言ってるんですよ。」
かなの偽りの優しさが、私を追い詰めていく。
—
極めつけは、先週の出来事だった。
「母さん、ちょっと話があるんだ。」
のりおが奇妙な顔で切り出した。
「実は、かなの両親が同居することになってね。だから母さんには申し訳ないけど、これからは少し距離を置いて。」
「距離を置いて……どういうこと?」
「いや、その。母さんも一人の時間を大切にした方がいいと思うんだ。」
「お母さん、私たちも翔太の教育に専念したいんです。お母さんの価値観とはちょっと違うので。」
かなの言葉は、優しい口調とは裏腹に、私を完全に排除するものだった。
「つまり……もう用済みということ?」
「母さん、そんな言い方。」
「38年間、あなたのために全てを捧げてきたのよ。それが『荷物』だなんて。」
「大げさだよ、母さん。」
のりおの冷たい目が、私を刺した。
結局、私はお荷物でしかなかったのだ。都合のいい時だけ利用され、必要なくなれば簡単に切り捨てられる。
そして今朝、ついに息子夫婦は実行に移した。家族旅行から私だけを排除するという、残酷な計画を。
—
ダイニングのソファに座り込んだまま、私は呆然とスマートフォンの画面を見つめていた。
通知音がなる。孫の翔太がInstagramにストーリーを投稿したようだ。震える指でアプリを開く。
「家族みんなでハワイ!最高の春休み!」
成田空港で撮られた写真。翔太の笑顔、かな、かなの両親、のりお。5人全員がお揃いのシャツを着ている。私が一緒に選んだあのシャツだ。でも、そこに私の姿はない。
次の投稿は搭乗ゲート前。
「素敵な家族に囲まれて、幸せ。」
というかなのコメント。「素敵な家族」。その中に、私は含まれていない。
LINEに新着メッセージ。かなの母親からだった。
「春子さん、体調不良で来られないって聞きましたけど、大丈夫?」
体調不良?私は息を飲んだ。
その時、画面の上部に見慣れない通知が表示された。
「乗り換えないLINEグループ 新着メッセージ」
なぜ私に通知が?不思議に思いながら確認すると、理由が分かった。先日、翔太が私のスマートフォンでゲームをした際、誤ってのりおのアカウントでログインしたままになっていたのだ。
震える指でメッセージを開く。
3日前。
「お母さんへの連絡、7時にしといたわよ。」
「OK。みんなには5時集合って伝えたかな?」
「完璧ね。これで邪魔者はいない。」
1週間前。
「ねえ、お母さんの通帳、見つけたんだけど。」
「まだ早いよ。でも遺産の話を聞いたら、総額はすごいことになってるはず。」
「相当すごいらしい。のりお、だからもっとうまくやらないと。」
1ヶ月前。
「ハワイ旅行、絶好のチャンスね。のりお兼ねての計画通りでしょ?」
「うん。遺産の話は、母さんがいなきゃ話せないしな。」
「置いていくんでしょう?」
「ああ。向こうの両親にも相談してある。」
「うちの両親、不動産に詳しいから。お母さんの財産管理も任せちゃえば?」
「認知症を理由にすれば、成年後見人になれるかもしれない。」
涙で画面がぼやける。
最新のメッセージは30分前。
「のりお、無事搭乗完了。母さんから連絡あった?」
「電話来たけど、無視した。」
「のりお、計画通りだね。」
「帰ったら、すぐに病院に連れて行こうかな。認知症の診断、絶対もらわないとね。」
「のりお、お母さんの遺産全部管理できれば、翔太の教育費も老後の蓄えも心配なし。」
「いい家に引っ越すこともできるな。お母さんには悪いけど、もう十分生きたでしょ。」
「施設に入れれば、面倒も見なくていいし。」
「月10万くらいのところでいいわよ。どうせ先は長くないし。」
—
最後のメッセージを読んで、私の中で何かが切れた。
68年間、真面目に生きてきた。38年間、子供たちのために、教師として働いた。息子のためなら、何でもした。
それが……これか。私はただの財布。いや、もっとひどい。生きている間は邪魔者で、死んだら金蔓になる存在。
夫が生前、よく言っていた。「春子、人に優しくしすぎるな。時には自分を守ることも大切だぞ。」
今、痛いほどよくわかる。
スマートフォンを握りしめ、証拠となるメッセージを一つ一つスクリーンショットで保存した。手は震えていたが、頭は不思議なほど冷静だった。
全て保存し終えた時、私の中で決意が固まった。
もう、我慢しない。
立ち上がり、窓の外を見る。春の日差しが眩しい。息子夫婦は今頃、機内で遺産の使い道でも相談しているのだろう。
楽しんでいらっしゃい。帰ってきたら、素敵なプレゼントが待っているから。
私は静かに微笑んだ。
—
窓から差し込む午後の日差しを背に、私は物置へと向かった。夫が使っていたこの部屋には、大切な書類が全て保管されている。鍵のかかった引き出しを開け、一番奥から茶封筒を取り出した。
「春子、いつか、これが必要になる時が来るかもしれない。」
5年前、夫が亡くなる直前に託された遺言書。今まで一度も開けたことがなかった。
封を切ると、几帳面な夫の文字が目に飛び込んできた。読み進めるうちに、私は息を飲んだ。
相続財産の総額は、私の想像をはるかに超えていた。生命保険金8000万円、退職金3000万円、実家の売却益6000万円。そして夫が密かに運用していた株式や投資信託が2億円。合計3億7000万円。
しかし、驚いたのは金額だけではない。遺言の最後には、こう書かれていた。
「全財産は妻に相続させる。春子の判断で自由に使用、処分、相続することができる。なお、この遺言により相続した財産については、妻の固有財産となり、その処分に関して誰の同意も必要としない。」
公正証書遺言。これは絶対的な効力を持つ。
お父さん……。夫は全てを見通していたのかもしれない。
次に開いたのは、不動産の権利書。都内に3軒のマンション、郊外に2件の戸建て。全て夫名義から私名義に変更済みだった。年間の家賃収入だけで2400万円。これだけあれば、私は生きていける。
携帯電話を取り出し、ある番号に電話をかけた。
「もしもし、おばさん?俺、健一です。久しぶり。」
健一は都内で弁護士事務所を経営している。夫の葬儀以来、5年ぶりの連絡だった。
「健一君、実は相談があるの。」
「どうしたの?何か困ったこと?」
私は今朝からの出来事を簡潔に説明した。健一は黙って聞いていたが、LINEの内容を伝えると、声のトーンが変わった。
「……それは、ひどすぎる。」
「証拠は全部スクリーンショットで保存してあるわ。」
「完璧だね。おばさん、今から事務所に来られる?」
—
1時間後、私は健一の事務所にいた。
「おばさん、まず財産の整理をしましょう。」
健一は手際よく書類を確認していく。
「すごい。これだけの資産があれば、いくらでも対抗策が打てる。」
「ということ。」
「まず、認知症を理由に財産を奪おうとしているなら、先手を打ちます。信託契約を結んで、財産管理を第三者に委託する。もちろん、その第三者は俺がなります。」
「それで、次に相続からの排除を……」
「健一の説明は続く。」
「さらに、名誉毀損で訴えることもできます。認知症だと周囲に吹聴しているなら、それは立派な名誉毀損です。」
「でも、息子を訴えるなんて……」
「おばさん、甘いよ。向こうはおばさんを施設に入れて、財産を全部奪うつもりなんだよ。」
健一の言葉に、私は覚悟を決めた。
「お願いします。全て任せるわ。」
「了解。でも、もっと効果的な方法もある。」
「どんな?」
健一はニヤリと笑った。
「向こうが帰ってくるまで、一週間ある。その間に、全ての財産を別の形に変えてしまうんだ。」
具体的な作戦が展開される。不動産は全て健一が代表を務める資産管理会社に譲渡。現金は信託銀行に預け、のりお夫婦が手を出せないようにする。
「そして、これが一番重要。」
健一は新しい書類を取り出した。
「養子縁組です。俺を、おばさんの養子にする。そうすれば、法定相続人は俺とのりおさんの2人になる。でのりおさんを相続排除すれば、全てあなたに。」
「もちろん、形だけです。おばさんが生きている間は、おばさんの好きなように使ってもらう。でも、これでのりおさんたちは手も足も出せなくなる。」
私は少し考えてから、頷いた。
「健一君、一つお願いがあるの。」
「何でも言ってください。」
「あの子たちが帰ってくる日に、みんなを家に呼んでちょうだい。あなたと、信託銀行の人と、それから不動産産業者も呼ぶ。」
「え?」
「あの子たちが一番欲しがっているものを、目の前で全部処分する姿を見せてあげたいの。」
健一は驚いたような顔をしたが、すぐに理解したようだった。
「おばさん、意外と意地悪だね。」
「38年間、我慢していたのよ。悪い子には、きちんとお仕置きが必要なの。」
2人で書類の準備を進めながら、私は不思議な高揚感を覚えていた。
—
夕方、家に戻ると留守番電話にメッセージが入っていた。
「母さん、のりおだけど。無事にハワイに着いたよ。母さんは体調が悪いって聞いたけど、大丈夫?ゆっくり休んでて。じゃあ。」
体調が悪いことにしたのは、あなたたちでしょう。
私は夕食の準備をしながら、一週間後を想像した。帰ってきた息子夫婦が見るのは、もぬけの殻となった財産と、全てを知った母親の姿。
お帰りなさい。楽しかった?
その時の私は、きっと最高の笑顔で迎えることだろう。
冷蔵庫から取り出した食材を並べながら、私は鼻歌を歌っていた。何十年ぶりだろう。こんなに心が軽いのは。
さあ、始めましょうか。包丁を手に取り、私は呟いた。
料理も復讐も、下準備が一番大切。一週間かけて、じっくりと仕上げていこう。
—
一週間後の朝。成田空港。私は到着ロビーで、息子家族を待っていた。隣には健一、そして大きなカバンを持った男性が2人。信託銀行の担当者と、不動産業者だ。
「お母さん!」
日焼けしたかなの顔が、満面の笑みで手を振った。
「お母さん、体調は大丈夫?それより、その人たちは……?」
のりおが不審そうに私たちを見た。
「お帰りなさい。楽しかったかしら?」
私は最高の笑顔で答えた。
「え、まあ……でも母さん、体調が悪いって……」
「あら、誰がそんなこと言ったの?私はこの通り元気よ。それより、話があるから家に帰りましょう。」
タクシーを2台に分けて乗り、自宅へ向かう。車内でかなはしきりに話しかけてくるが、私は適当に愛想を返すだけだった。
—
リビングに全員が揃うと、私は切り出した。
「さて、皆さんにお知らせがあります。」
「お知らせ?」のりおが眉をひそめる。
「ええ。あなたたちがハワイを楽しんでいる間に、いくつか大切な手続きをしたの。」
私は健一に目配せをした。彼は鞄から書類を取り出し、テーブルに並べ始める。
「まず、財産管理についてです。」
健一が弁護士らしい口調で説明を始めた。
「春子さんの全財産は、昨日付けで信託契約により、私が代表を務める管理会社に譲り渡されました。」
のりおの顔が青ざめる。
「どういうことだよ、母さん!」
「あら、心配することないわ。私が認知症になっても、財産はきちんと管理されるから。」
「認知症って……!」かなの口を差し挟もうとしたが、私は続けた。
「あなたたち、私が認知症だって周りに言いふらしていたんでしょう?だったら、早めに対策しないとね。」
信託銀行の担当者が書類を広げる。
「信託財産の総額は3億7000万円。全て春子様の生活費として管理され、春子様以外は一切手をつけることができません。」
「3億7000万……?」のりおが呆然と呟く。
「次に、不動産について。」
不動産業者が口を開いた。
「春子様所有の不動産5件、全て売却の手続きに入りました。売却額は約2億円。こちらも信託財産に組み込まれます。」
「ちょっと待てよ!」
のりおが立ち上がった。
「母さん、何を勝手なことを!俺たちに相談もなく!」
「あら、相談?」
私は微笑んだ。
「家族なら相談するけど、あなたたちは違うんでしょう。」
「何の話だよ!」
「これのことよ。」
私はスマートフォンを取り出し、保存しておいたLINEのスクリーンショットを見せた。のりおとかなの顔が、見る見るうちに青白くなっていく。
「『邪魔者はいない』『お母さんの財産』『全部管理できれば』『施設に入れれば、面倒も見なくていい』」
一つ一つ、私は読み上げた。
「こ、これ……どうして?」
かなの声が震える。
「翔太君がゲームをしたいって言うから、スマートフォンを貸したのよ。まさかこんな形で真実を知ることになるとはね。」
「母さん、これは違うんだ!」
のりおが必死に弁解しようとする。
「5時集合。集合時間を偽って、私だけを置き去りにしたのも、これで2回目じゃない?」
「健一君、続きをお願い。」
健一が新たな書類を取り出した。
「次は、相続に関してです。春子さんは私を養子に迎えることにしました。昨日、正式に手続きが完了しています。」
「養子……!?」のりおが叫ぶ。
「さらに、のりおさんの相続排除の手続きも進めています。今回のLINEの内容は、著しい非行に該当します。」
「そんな……母さん、本気なの?」のりおが私に詰め寄る。
「本気も何も、あなたたちが望んだことでしょう。私を家族から排除した。簡単でしょう?だったら、こちらからお断りよ。」
「お母さん、お願いします!謝ります!だから……」
かなの涙がこぼれ始めた。でも、もう遅い。
「謝罪?何に対して?私を騙したこと?財産を狙ったこと?それとも、月10万の安い施設に入れようとしたこと?」
かなは答えられない。
「母さん、頼むよ。考え直してくれ。」
「考え直す?私は立ち上がった。38年間、あなたのために全てを捧げてきた。教育費800万、結婚式500万、マイホームの頭金500万、孫の世話も、何もかも。」
「それは……感謝してるよ。」
「感謝?私は冷たく笑った。感謝している人間が、母親を『お荷物』『邪魔者』と呼ぶの?」
のりおは黙り込んだ。
「お父さんが亡くなってから、私はずっと寂しかった。でも、あなたたち家族がいるから頑張れた。それなのに……」
声が震える。でも、もう泣かない。
「あなたたちは私から全てを奪おうとした。全てよ。だったら、私も同じことをするだけ。」
「母さん、これからは他人として生きていきましょう。あなたたちが望んだことでしょう。」
健一が最後の書類を出した。
「なお、のりおさんに対して金銭の要求、同居の要請、その他一切の接触を行った場合は、ストーカー規制法違反として告訴します。」
「そんな……俺たち、親子だろ?」
「親子?」
私はまっすぐ見つめた。
「親子なら、ハワイに一緒に連れて行ってくれたはずよ。親子なら、認知症だなんて嘘をつかないはずよ。親子なら、財産目当てで近づいたりしないはずよ。」
のりおは何も言えない。
「出て行ってください。もう、ここはあなたたちの来る場所ではありません。」
健一と銀行員、不動産業者が立ち上がる。促されるように、のりおとかなも腰を上げた。
玄関まで見送ると、かなは振り返った。
「お母さん、本当にこれでいいんですか?翔太は、おばあちゃんに会えなくなるんですよ?」
「翔太君に罪はないわ。でも、あなたたちが選んだ道よ。『家族みんなでハワイ』……その『家族』に、私は含まれていなかった。それが全てです。」
「母さん、後悔するよ!一人ぼっちになって!」
扉を閉める直前、のりおが叫んだ。私は静かに答えた。
「一人ぼっちになったのは、一週間前からよ。あなたたちが私を一人にしたの。」
扉を閉め、鍵をかける。リビングに戻ると、健一が心配そうに聞いてきた。
「おばさん、大丈夫?」
「ええ、大丈夫よ。すっきりしたわ。」
窓の外を見ると、のりおたちが乗ったタクシーが走り去っていく。
さあ、新しい人生の始まりね。私は微笑んだ。もう誰かの顔色を伺う必要はない。誰かのために我慢する必要もない。これからは、自分のために生きていく。
—
あれから3ヶ月が経った。私は今、地中海クルーズの船上にいる。紺碧の海原を眺めながら、シャンパンを傾ける。隣には健一とその家族。そして新しくできた友人たちが楽しそうに談笑している。
「春子さん、本当にお元気になられましたね。」
同じツアーに参加している山田さんが微笑む。彼女も60代で、ご主人を亡くされてから一人旅を楽しんでいるという。
「ええ、人生で一番元気かもしれません。」
それは本当だった。毎朝5時に起きて息子家族の世話をしていた頃より、今の方がずっと体調がいい。ストレスがないということが、こんなにも体に良いとは知らなかった。
スマートフォンが鳴る。健一からのメッセージだった。
「おばさん、例の件の報告があります。」
食事の後、健一と2人で話をする。
「のりおさんたち、かなり大変みたいですよ。」
「どんな風に?」
「まず、マイホームのローンが払えなくなって、売却したそうです。頭金の500万はおばさんが出したものでしたからね。自分たちの金はほとんどなかったみたい。」
私は黙って聞いていた。
「かなさんの実家に同居することになったそうですが、向こうの両親もあまり歓迎していないようで。翔太君も、私立から公立に転校したとか。」
「翔太君が……かわいそうね。」
「それと」健一が言いにくそうに続ける。「のりおさん、会社でも立場が悪くなったみたいです。親の介護を放棄したって噂が広まって。」
「噂?」
「ええ。ハワイ旅行の時の話が、かなさんのSNSで広まったんです。『素敵な家族』の写真に春子さんがいないことに気づいた人たちが、色々と調べて。因果応報とはこのことかと。」
「それでのりおさんから連絡が?月に2、3回は事務所に電話があります。『母と話をさせてくれ』『金を貸してくれ』って。断ってるんでしょうね?」
「もちろんです。録音もしてますし。これ以上しつこいようなら、本当に告訴しますよ。」
健一の言葉に頷きながら、私は海を見つめた。波は穏やかで、夕日が水平線に沈もうとしている。
こんな美しい景色を、息子家族と一緒に見たかった。でも、それは叶わない夢だった。
「おばさん、後悔してない?」健一が心配そうに聞く。
「後悔?私は少し考えてから答えた。してないと言えば嘘になるわ。でも、あのまま我慢し続けていたら、私は本当に壊れていたと思う。」
「そうだね。」
「それに、今の生活は本当に充実してるの。」
それは本当だった。毎週火曜日は近所の公民館でボランティアの日本語教室。外国人の子供たちに日本語を教えている。
「春子先生、大好き!」
子供たちの笑顔が、私に生きがいをくれる。
水曜日は健一の子供たち、つまり私の新しい孫たちと過ごす。
「おばあちゃん、今日は何作ってくれるの?」
「おばあちゃんの料理、世界一!」
血は繋がっていないけれど、私を慕ってくれる孫たち。これこそが、本当の家族だと感じる。
木曜日は資産運用の勉強会。信託銀行の担当者が講師を務めてくれる。
「春子さん、飲み込みが早いですね。もう一人で運用できますよ。」
「38年も教職をしていましたから。勉強は得意なんです。」
新しいことを学ぶ楽しさを、68歳にして再発見した。
金曜日は趣味の絵画教室。若い頃から興味があったが、家族のために諦めていた夢だった。
「春子さんの絵、感性が素晴らしい。」
先生の褒め言葉に、少女のように照れる自分がいる。
そして、月に1度はこうして海外旅行。最初は一人で行くつもりだったが、健一が心配して家族で同行してくれた。そこで知り合った人たちと友人になり、今では団体で旅行を楽しんでいる。
「来月はマチュピチュですよね。山田さんが嬉しそうに言う。ええ、今から楽しみで。」
「春子さんと一緒だと、本当に楽しいわ。」
新しい友人たち。利害関係のない、純粋な繋がり。
—
夜、船室に戻ってから、私は日記を書いた。
「今日も素晴らしい1日だった。美しい景色、美味しい食事、楽しい会話。これが本当の人生なのだと、今更ながら気づく。」
のりおたちのことを思い出すと、まだ胸が痛む。でも、あの子たちは自分で選んだ道を歩いている。私も、自分で選んだ道を歩いていく。
お父さん、見ていますか?私、やっと自分の人生を生きています。あなたが心配していた通り、優しすぎて損をすることもあったけれど、今は強くなりました。
残された人生、まだ20年はあるかもしれません。その全てを、自分のために。そして、本当に私を大切にしてくれる人たちのために使います。
ペンを置いて、窓の外を見る。月明かりが海面を照らしている。静かで、平和で、美しい夜。
ふと、携帯が鳴った。見ると、見知らぬ番号からだった。出てみると、か細い声が聞こえてきた。
「……おばあちゃん?翔太です。」
「翔太君?どうしたの?」
「あの……ママに内緒で電話してるんだ。おばあちゃん、元気?」
「え?ええ、元気よ。」
「よかった。あのね、おばあちゃん、ごめんなさい。」
「翔太君が謝ることじゃないわ。」
「でも、ハワイの時、僕写真撮っちゃって。おばあちゃんがいないって、知らなくて……」
涙が溢れそうになるのを、こらえて答えた。
「翔太君、おばあちゃんは大丈夫よ。それより、あなたは元気にしてる?」
「うん。でも……おばあちゃんに会いたい。」
「そうね。大人になったら、会いに来てくれる?」
「うん。絶対行く。」
「約束よ。」
「約束。」
電話が切れた後、私は少し泣いた。でも、それは悲しい涙ではなかった。
翔太のような子供たちのためにも、私は強く生きていこう。理不尽に屈しない、大人の姿を見せていこう。
最後に鏡を見る。そこには疲れ果てた老婆ではなく、生き生きとした一人の女性が映っていた。
春子、あなたは勝ったのよ。自分にそう言い聞かせて、私は微笑んだ。
人生はいつからでもやり直せる。68歳でも、新しい人生を始められる。必要なのは、一歩踏み出す勇気だけ。
私の物語が、同じように苦しんでいる人たちの励みになれば。理不尽に立ち向かう勇気を、少しでも分けてあげられれば。
そう願いながら、私は新しい明日を迎える準備をした。潮風が優しく頬を撫でていく。
これが、私の選んだ人生。誰のためでもない。私自身のための人生。そして、それは想像以上に素晴らしいものだった。
この体験を通して私が学んだこと。それは、自分を大切にしない人に、大切なものを捧げる必要はないということ。家族という名の下に、理不尽を受け入れる必要はないということ。
もしあなたも同じような状況にあるなら、どうか自分を責めないで。あなたには幸せになる権利がある。理不尽に立ち向かう権利がある。勇気を出して、一歩踏み出してみてください。きっと、新しい世界が待っているはずです。
物語の中に何か感じるものがあったなら、チャンネル登録と高評価でそっと応援していただけたら嬉しいです。あなたやご家族のこれからについての思いも、是非コメントでは語り合いましょう。


