携帯が震えた時、私はまだ白いウエディングドレスを着て、チャペルの扉の前に立っていた。挙式まであと30分。来てくれるはずの彼からの電話だった。「悪いけど結婚式は中止だ。お前みたいな格下と結婚したら俺の出世に響くんだよ。隠しの分際でよくここまで来られたわね。」その電話の向こうから、女の笑い声が聞こえた。私はその場に崩れ落ちた。そこへ、私を23年間育ててくれた、質素な作業着のじいちゃんが、静かに肩…

携帯が震えた時、私はまだ白いウエディングドレスを着て、チャペルの扉の前に立っていた。挙式まであと30分。来てくれるはずの彼からの電話だった。「悪いけど結婚式は中止だ。お前みたいな格下と結婚したら俺の出世に響くんだよ。隠しの分際でよくここまで来られたわね。」その電話の向こうから、女の笑い声が聞こえた。私はその場に崩れ落ちた。そこへ、私を23年間育ててくれた、質素な作業着のじいちゃんが、静かに肩...

悪いけど結婚式は中止だ。お前みたいな格下と結婚したら俺の出世に響くんだよ。隠しの分際でよくここまで来られたわね。式の600万は全額払っておきなさいよ。お前のおじさんも霊祭のじいさんだろう。うちの親も最初から乗り気じゃなかったしな。

高級ホテル「グランドパレス東京」のチャペル前の控室。結婚式開始まであと30分。

純白のウェディングドレスをまとった新婦・村井真紀(25歳)は、握りしめていたスマートフォンを床に落とした。膝から崩れ落ち、泣き声が控室に響いた。涙がドレスの白い生地に染み込んでいく。

そばにいた祖父・村井木郎(78歳)は、一瞬で全てを理解した。

「貧乏臭いじいさんにも伝えとけよ。これが現実だぞ。身のほどわきまえろってな。格下の女と付き合ってたら平田の将来が全部潰れるのよ。感謝しておきなさい。」

木郎は静かに真紀の肩に手を置き、床のスマートフォンを拾い上げた。その目には静かな怒りの炎が燃え上がっていた。

しかし、誰も知らなかった。この質素な老人が太陽銀行の命運を握る人物であることを。そして、数時間後、平田と木原の人生が完全に終わることを。

この2人が辿り着いた朝について話しておこう。

東京・世田谷区の静かな住宅街に小さな一軒家があった。その家に暮らしているのは2人だけだった。祖父の村井木郎(78歳)と、孫娘の村井真紀(25歳)だ。

木郎は毎朝、古びた作業着を着て台所に立った。今朝も同じだった。卵焼きを丁寧に焼き、味噌汁を温め、白米を炊く。それが真紀の23年来の日課だった。

「じいちゃん、また早起きして。私が作るって言ったのに。」
「いいんだ。じいちゃんが作りたいんだから。」

真紀は微笑みながら食卓に座った。今日は特別な日だった。この日、真紀は婚約者の平田正也と結婚式を挙げる予定だった。

真紀の両親は、真紀が3歳の時に交通事故で亡くなった。それ以来、木郎が1人で真紀を育ててきた。23年間、ずっと2人きりで生きてきたのだ。

息子夫婦を失った悲しみの中で、小さな真紀のか細い声が木郎を立ち上がらせた。入学式の日、古い背広を着た老人と小さな真紀に周囲の視線が注がれた。しかし、真紀の「じいちゃん、ありがとう」の一言で、全てが報われた。

何度心配しても、真紀はいつも「じいちゃんがいるから大丈夫」と笑っていた。その度に木郎は胸が熱くなった。

実は、木郎には真紀の知らない一面があった。毎月、秘書を通じて様々な書類が届いていた。グループ各社の業績報告、銀行からの資産運用報告書。しかし、木郎はそのことを一切真紀の前では話さなかった。

「じいちゃんの前ではただのじいちゃんでいい。」それが木郎の唯一の願いだった。

受験の前夜に泣きじゃくる真紀に「お前はやれる」と言い続けたのも木郎だった。就職が決まった夜、2人は台所でコップ酒で乾杯した。木郎はそっと目を細め、「よかった」とだけ言った。

そういう23年間だった。木郎にとって、真紀は生きる理由そのものだった。

木郎は卵焼きを真紀の皿に乗せながら目を細めた。

「よぅ、今日から平田の嫁になるんだな。」
「うん。じいちゃん、23年間本当にありがとう。」

真紀の目に涙が滲む。

「泣くな。幸せになるために結婚するんだろう。笑っていけ。」

木郎の声がわずかに震えていた。それでも老人は笑顔を崩さなかった。「幸せになれよ」という言葉が真紀の胸に深く刻まれた。

1年前の秋のことだった。真紀は太陽銀行の個人相談窓口を訪れた。遺産相続の手続きのためだった。打算で動く人間に真紀を惑わせたくない。木郎はそう思い、あえて真紀を1人で行かせたのだ。

その時に対応したのが、平田正也(32歳)だった。清潔感のある外見と柔らかな物腰。「また何かあればいつでも相談に来てください」という一言。その笑顔に真紀は惹かれた。交際が始まったのは、それから3ヶ月後のことだった。

交際から2ヶ月後、2人は木郎に合わせることになった。その日、平田は表面上は礼儀正しく振る舞っていた。

「初めまして。平田正也と申します。真紀さんには大変お世話になっています。」
「そうか。真紀をよろしく頼む。」

しかし、その帰り道、真紀がトイレに立った瞬間、平田の表情が変わった。

「田舎臭い老人だな。あんな質素な爺さんに頭下げるのも面倒だ。」そう思いながら、平田は笑顔を保ち続けた。

家に帰る道中、平田は真紀に尋ねた。

「おじいさんって財産あるの? 相続案件で来たって言ってたよな。」
「え、そんなに多くないと思うけど。じいちゃんは普通の老人だよ。」
「田舎臭いじいさんって雰囲気だよな。っていうか、まあいいか。」

真紀はその言葉が引っかかった。でも、それが彼の本音ではないはずだと思い込もうとした。

さらに気になることがあった。交際中、平田のスマートフォンには頻繁に着信が入った。発信者は「木原課長」と表示されていた。平田は毎回真紀から離れて電話に出た。

「ちょっとごめん。職場の上司で仕事の件で。」

深夜にもLINEが届き、平田が慌てて返信する姿を真紀は目にした。ある夜、夕食後に平田のスマートフォンが鳴った。木原課長の名前が画面に浮かび上がった瞬間、平田の顔が変わった。

「ごめん、ちょっと出てくる。大事な案件らしいから。」
「そうだね。」

真紀はそう送り出したが、胸の奥に小さな不安を感じていた。

式の準備が進む中、平田の母親・鈴子が挨拶に来た日のことだった。

「真紀さん、おじい様はどちらにお勤めで? 資産家なの?」
「えっと、おじいちゃんは今は引退していて、普通に暮らしています。」
「そう。道の正也は将来の支店長候補なのよ。相応の家柄でないとね。」

真紀は苦笑いして「はい」とだけ答えた。帰り際、鈴子の声が真紀の耳に届いた。

「地味な子ね。じいさんが資産持ってるなら悪くないか。」

聞こえなかったふりをしたが、胸の奥で小さな痛みが走った。でも、平田君自身はそんな人じゃない。真紀はそう信じようとしていた。

しかし、真紀の知らないところで、全ては着々と進んでいた。

木郎は平田に違和感を抱いていた。「財産があるか」と問う目に、孫娘への愛情は見えなかった。真紀を見ているのではなく、真紀の背景を見ている。老人の経験はそういう目を騙されなかった。

太陽銀行の個人営業第2部に、木原リナという課長がいた。年齢は35歳。外見は端麗でスーツ姿に隙がなかった。高学歴・高キャリアを誇り、出世街道を走ってきた女性だった。しかし、その内側には歪んだ野心と霊格差が潜んでいた。

木原は有能な部下を手籠めにすることを得意としていた。その手口はいつも同じだった。見込みがあると囁いて依存させ、飽きれば切り捨てる。すでに2人の部下が同じ手口で使い捨てにされ、行内での立場を失っていた。

平田が入行した頃から、木原は目をつけていた。

「私が引き上げてあげる。」その言葉で平田は罠に落ちた。

2人の関係が始まったのは半年前のことだった。ある日、木原は平田に真紀の写真を見せるよう求めた。スマートフォンの画面を見た木原は口元を歪めた。

「何これ? 地味ね。うちの銀行の客に全然合わない顔してる。平田、あなた私のものよ。その隠しの女、今すぐ捨てなさい。そうすれば3年以内に支店長にあげてあげるわよ。」
「そんな話じゃないでしょ。」

平田は迷った。真紀への気持ちが全くなかったわけではなかった。しかし、「出世」「支店長」「3年以内」という言葉がその気持ちを徐々に上回っていった。木原は人の弱さを的確につき、平田の欲望に刃を差し込んだ。

式の2週間前から、平田の態度が急変した。連絡が激減し、会うたびに「忙しい」と言い訳を繰り返した。

「正也君、最近あまり連絡くれないね。大丈夫?」
「仕事が立て込んでて。心配しなくていいよ。」

しかし、真紀の目には平田の目が泳いでいるように見えた。

式の1週間前、2人で最後の外食をした日のことだった。平田はテーブルに着いた瞬間からスマートフォンを手放さなかった。

「正也君、もうすぐ結婚するんだから、今日は2人の時間にしようよ。」
「ごめん。木原課長から緊急の連絡が来てて。仕事だから。」

真紀は「そうだね」と言うしかなかった。何かがおかしい。でも気のせいかもしれない。そう自分に言い聞かせながら、真紀は笑顔を作った。しかし、胸の奥の不安はその夜から消えなかった。

式の前夜のことだった。平田は木原に呼び出され、都内の高級レストランにいた。白いテーブルクロス、シャンデリアの明り。木原は赤ワインを傾けながら、冷たい目で平田を見た。

「明日本当にやるの? バカじゃないの?」
「でも、もう式場とかも全部…」
「キャンセルすれば済む話でしょ。費用は向こうに払わせれば。あんな隠しの女と結婚したって、何のメリットもないわ。」
「あぁ、そうだな。」
「私と一緒にいれば、3年以内に支店長よ。捨てなさい。あの女のこと。」

平田は静かに頷いた。後悔するかもしれない、という声が木原の言葉にかき消された。平田は、真紀の人生を捨てることを決めた。

翌朝、平田は一瞬迷った。しかし、木原から「今日やるわよね」というLINEが届き、その迷いをかき消した。

一方、その頃、真紀は自宅で明日の準備を整えていた。「明日よろしくね」とLINEを送ると、「ああ」とだけ帰ってきた。その一文字に真紀の手が止まった。きっと緊張してるんだろう。そう自分に言い聞かせ、真紀は眠りに着いた。

式当日の朝、真紀も早く起きた。念入りにメイクをし、荷物を確認し、胸を高鳴らせていた。台所では木郎が卵焼きを焼いていた。老人は朝4時から台所に立っていた。息子が亡くなった日も、こうやって何かをしていないと気が持たなかった。だから今日も手を動かし続けた。真紀の幸せを願いながら、卵焼きを焼き続けた。

「今日は特別の日だ。腹ごしらえしていけ。」
「ありがとう。じいちゃんの卵焼き大好き。」
「お前のお母さんも卵焼きが好きだったな。」

真紀が少し目を細めた。

「そうなの? じゃあ、お母さんの分も美味しく食べるね。」

2人は静かに朝食を取った。木郎はほとんど何も言わなかった。ただ、真紀の笑顔をじっと見つめていた。この笑顔が続きますように、と祈るように。

真紀が式場に向けて出発した後、木郎も後から式場へ向かった。その途中、真紀のスマートフォンにLINEが届いた。平田からだった。

「ちょっと遅れる。先に式場で待ってて。」

真紀は不安を感じながらも、式場へと向かった。

高級ホテル「グランドパレス東京」のエントランスを抜けると、白い花が彩る廊下が続いていた。スタッフの笹川恵が真紀を笑顔で迎えた。

「村井様、本日は誠におめでとうございます。お支度が整いましたら、控室にご案内いたします。」

白を基調としたウエディングドレスに着替えた真紀は、鏡の中の自分を見た。胸元には細い金のチェーンが光っていた。母・理子が使っていたネックレスを、木郎が今朝そっと渡してくれたものだった。

「お父さん、お母さん、今日真紀は嫁ぎます。」

真紀は鏡の中の自分に静かに語りかけた。「幸せになれよ」という祖父の言葉が耳に残っていた。

木郎も控室で合流し、椅子に腰かけて静かに待っていた。老人は古い作業着ではなく、今日は黒い礼服を着ていた。木郎がこの礼服を着るのは、息子夫婦の葬儀以来だった。あの時とは逆の、喜びのための礼服だ。木郎はそう思いながら、胸の奥で息子に語りかけた。

「しげるよ。今日、真紀が嫁ぐぞ。見てやってくれ。」

控室の空気は静かで温かかった。式開始まで残り30分になった。平田はまだ来ていなかった。

「新郎様、まだ到着されていないようですが…」
「もうすぐ来ると思うので。少し待ってください。」

真紀の声がわずかに震えていた。さらに15分が経過した。平田からは何の連絡もなかった。真紀の心臓が嫌な予感で締めつけられていた。

その時、笹川が控室に戻ってきた。

「村井様、新郎様からお電話が入っております。」

真紀は立ち上がり、震える手でスマートフォンを受け取った。電話口から聞き覚えのある平田の声が流れてきた。それと同時に、女の笑い声も聞こえた。

電話を切った真紀の手が、ゆっくりと力を失った。握りしめていたスマートフォンが床に落ちた。真紀の膝が崩れ、白いドレスが床に広がった。

「じいちゃん、ごめんなさい。ごめんなさい。」

泣き声が控室の白い壁に響いた。笹川が慌てて駆け寄る。

「村井様、大丈夫ですか? お体は…」

木郎は静かに立ち上がり、真紀の肩を抱いた。

「真紀、じいちゃんがいる。大丈夫だ。」

老人の体温が、震える孫娘に伝わった。

「じいちゃん、どうして? どうして?」
「泣いていい。全部泣いていい。」

しばらく2人はそのままで、白い部屋に真紀の泣き声だけが響いていた。木郎は何も言わなかった。ただ、孫娘の背中を撫で続けた。老人の手は温かかった。そのぬくもりだけが、今の真紀にとって全てだった。

来賓者への連絡、式のキャンセル手続き。笹川が全て引き受けて動いてくれていた。式場には60名の来賓者が来ていた。笹川が全員に事情を説明して回り、廊下には「新郎側はどうなってるんだ」という声が広がった。

「キャンセル料は全部私が払います。真紀には一切負担をかけないでいただきたい。全て私が払います。」

木郎は笹川に静かに告げた。婚礼スタッフ15年の笹川にとっても、電話で婚約破棄を告げた新郎は初めてだった。真紀の白いドレスに涙が染み込んでいく姿が、笹川の目に焼きついた。

控室の椅子に座った真紀の手を、木郎が握り続けた。しばらくして、真紀の泣き声が少し落ち着いた頃だった。

「真紀、少し待ってろ。じいちゃんが話してくる。」

木郎はゆっくりと立ち上がり、廊下に出た。老人は静かな顔をしていた。しかし、その目の奥には見たことのない光が宿っていた。

「息子は守れなかった。でも、真紀だけは絶対に守る。」

木郎はそう胸の中で繰り返しながら、スマートフォンを操作した。木郎は平田の番号に電話をかけた。数回のコールの後、女の声が出た。

「はい。何?」
「今日、孫娘の結婚式を台無しにされた者です。村井と申します。」
「ああ、そういうこと。別に関係ないけど、あの子と結婚する理由がないって判断しただけよ。」
「電話口で我が孫娘に言われたこと、私は全て聞いておりました。」
「だから何? 事実を言っただけじゃない。隠しは隠しでしょ。それ以上でも以下でもないわよ。」
「分かりました。」

木郎は静かに息をついた。木原の言葉は刃のように冷たかったが、老人の表情は微塵も動かなかった。ただそれだけ言って電話を切り、ゆっくりと別の番号を選んだ。それは30年間、ほとんど使ったことのない番号だった。

5回のコールの後、相手が出た。

「はい、高木でございます。」
「高木さん、私です。村井です。お久しぶりです。」
「村井名誉会長! ぶじでおられますか? どうされましたか?」
「実は今日、孫娘の結婚式がありまして。少しお話があります。」

木郎はことの経緯を静かに話した。太陽銀行の行員に孫娘の婚約を破棄されたこと。電話口で「隠しは隠し」と言い放たれたこと。高木は沈黙した。その沈黙が10秒続いた。電話の向こうで高木の息が止まる音がした。

「畏まりました。直ちに対応いたします。」
「処分は適切にお願いします。それだけで結構です。」
「承知いたしました。」

電話を切った木郎は控室に戻った。まだ目が赤い真紀が祖父を見上げた。

「大丈夫だ、真紀。じいちゃんに任せなさい。」

老人は穏やかに微笑んだ。その口元に、静かな決意が宿っている。この報いは必ず受けさせてやる。木郎は胸の中でそう呟いた。

同日午後3時、太陽銀行本部システム管理室。担当スタッフの吉田が異常なアラートに気づいた。村井グループ関連口座の残高がゼロ。目を疑い、もう1度確認した。変わらない。99億3000万円が、全額別の銀行に移動していた。吉田の手が震えた。これは一介の担当スタッフが対処できる案件ではなかった。

個人営業部長に連絡が入る。

「村井グループの全口座から、99億3000万円が全額、成功銀行へ移動しています。」
「なんだと。今すぐ遠取室へ。」

5分後、太陽銀行の取締役会議室に緊急招集がかかった。遠取の高木総一と役員4名が集まった。全員の顔色が青ざめていた。

「99億3000万円、全額移動だとな。なぜだ? 何があったんだ?」
「この顧客を失えば、今期の業績目標は達成不可能だ。」

会議室に緊張が走った。村井グループとは、どんな顧客か。ファイルが引き出された。年商3000億円、従業員2万名、全国有数の新興企業グループ。30年間、本行最大の預金者として取引を継続していた。

「なぜこの顧客が今日に限って全額移動したのか。徹底的に調べろ。今すぐ原因を突き止めるんだ。」

担当者が村井グループの連絡先に電話をかけた。しばらくして、1人の秘書から返答が来た。

「村井名誉会長から、大王銀行の平田正也様と木原リナ様の件について、ご連絡をいただきたいとのことです。」

平田、木原。高木の顔色が変わった。その名前を聞いた瞬間、高木は全てを悟った。先ほど木郎から受けた電話の中で出てきた名前だった。高木は静かに立ち上がり、役員たちに告げた。

「全員に告げる。これは今日の午前中に起きた事件と繋がっている。」
「本行が村井名誉会長に対して何かしたのか。しかも今日、一体何が…」

役員たちの間で動揺が広がった。高木は苦い表情で口を開いた。

「本行の行員が、本日、村井名誉会長の孫娘の結婚式を台無しにした。」

部屋が凍りついた。誰1人声を出せなかった。

個人営業第2部の担当者を通じて、2人に呼び出しが来た。その時、平田は木原と共に銀行近くのカフェにいた。2人は優雅にコーヒーを飲んでいた。あの電話の老人なんて、どうせ大した人間じゃない。そう思いながら、木原はさっぱりした顔で「これで邪魔者はいなくなった」と笑っていた。

平田のスマートフォンが鳴った。

「え、今すぐ本部? なんで?」

平田と木原は顔を見合わせた。

「何? ちょっと行ってくれば済む話でしょ?」

2人は本部に向かった。しかし、取締役会議室に入った瞬間、2人の顔色が変わった。高木遠取と6人の役員が険しい顔で2人を見つめていた。部屋の空気が凍りついていた。

「君たち、今日、村井木郎という方と何があった?」
「え、それは今日、その結婚式の件で…」
「結婚式だと? 村井木郎は本行の30年間の最重要取引先だ。」

平田の顔から血の気が引いていった。

「その孫娘の結婚式を、今日台無しにしたのは君か?」
「あの老人が、まさか村井グループの…」
「老人と呼ぶな。名誉会長だ。」

高木の声が部屋に響いた。平田の手が小刻みに震え始めた。

「俺はただ、木原さんに言われて。知らなかったんです。あの老人がそんな人だなんて。知らなかった…」
「30年の本行最大顧客の孫娘だ。それで『知らない』で済むと思うのか。」

次に、木原が呼ばれた。木原は部屋に入るなり、いつも通りの高圧的な態度を見せようとした。しかし、役員全員の視線が自分に集まるのを感じ、一瞬足がすくんだ。

「木原課長、村井名誉会長の孫娘に電話して、何を言った?」
「それは、事実をお伝えしただけで…」
「どんな事実だ? 『下の家柄の女と結婚しても平田の将来に響く』と? 君は部下の婚約者に向かって、銀行員として最も恥ずべき行為だ。」

木原が初めて言葉に詰まった。これまで木原はどんな状況でも言葉を失ったことがなかった。しかし今、全てが崩れていくのを感じた。

高木はさらに続けた。

「平田と木原の個人的な関係は、行内でも噂になっていた。部下へのパワーハラスメント、不倫行為、銀行の信用失墜。これが銀行員として許される行為か。」

木原の表情が、ゆっくりと凍りついていった。「隠しは隠し」と言い放ったその口が、今は言葉を失っていた。高木は2人に向かい、静かに言い放った。

「平田正也、本日付けで懲戒解雇とする。退職金は没収。金融業界への紹介も行わない。」
「そんな! 俺は知らなかったんです! あの方がそこまでの人だとは!」
「知らなかったで済む問題か。30年来の最重要顧客の孫娘だぞ。」
「そんな…俺の、俺の銀行員としての人生が…」

平田の言葉が途切れた。

「木原リナ。減給の上、依願退職を勧告する。不正行為の調査も続行する。」
「…分かりました。」

木原は初めて声が小さくなった。2人が取締役会議室を出た後、廊下で足が止まった。俺は何をしたんだ、と平田は思った。なんでこうなったのよ、と木原は思った。しかし、互いに相手を責める言葉すら出なかった。

その夜、平田は母親の鈴子に懲戒解雇を告げた。

「あの…あの嫁のじいさんが、村井グループの…」

電話の向こうで、鈴子の声が震えた。「相応の家柄でない」と言っていたあの言葉が、今は全く別の意味を持っていた。

木原は退職届を書きながら、ペンを止めた。「あの老人に負けた。」その言葉が木原の頭の中でぐるぐると回った。これまで全ての部下を踏み台にしてきた木原にとって、これは初めての敗北だった。しかも、自分が「隠し」と見下した老人に。

木原は静かに退職届に署名した。

高木遠取は、椅子に深く沈んだ。30年間大切にしてきた客だった。それを自分の部下が1日で台無しにした。銀行員として、人として、基本が欠けていた。高木は静かに、しかし深く2人の行為を断罪した。

高木は深いため息をついた後、村井グループの秘書に電話を入れた。

「村井名誉会長に処分内容をご報告いたします。平田は本日付けで懲戒解雇。木原は減給の上、依願退職です。」
「ご報告ありがとうございます。名誉会長には申し伝えます。」

一方、式場の控室では、木郎は真紀の隣に腰かけ、静かに時を待っていた。真紀の目は赤かった。しかし、泣き声は止まっていた。

「じいちゃん、あの人たちはどうなるの?」
「それは心配しなくていい。じいちゃんが全部やった。」
「でも、じいちゃんに迷惑を…」
「迷惑なんかじゃない。」

木郎が静かに真紀の手を握った。

「じいちゃんって、本当は何者なの?」

木郎は少し間を置いて、穏やかに言った。

「ただのじいちゃんだよ。でも、真紀のためなら何でもできる。」

真紀は祖父の顔を見つめた。古い礼服を着た質素な老人。この人の本当の姿を、真紀は23年間知らなかった。それでも、この人が自分の祖父であることは変わらなかった。本当の価値は、その人が誰かをどれだけ大切にできるかで決まる。真紀は今日、そのことを心の奥で理解した。99億円という数字ではなく、古い礼服を着てそこにいてくれたこと。「じいちゃんがいる。大丈夫だ」という一言。それがどれほど大きな力を持っていたか、真紀は一生忘れないだろう。

「お父さんもお母さんも、ずっと真紀を見守ってるよ。」

真紀の目から涙がこぼれた。

「じいちゃん、ありがとう。ありがとう。」

真紀は祖父の胸に顔をうずめた。木郎は無言で孫娘の背中を撫でた。控室の窓から夕日が差し込んでいた。オレンジ色の光が真紀の涙を照らした。笹川恵が静かにドアを開け、2人の姿を見てそっとドアを閉めた。その目には光るものがあった。

しばらくして、笹川が再びドアを叩いた。

「村井様、少しよろしいでしょうか?」

真紀が顔を上げると、笹川が深々と頭を下げていた。

「本日は本当に申し訳ありませんでした。村井様、必ず幸せになってください。心からお願いします。」

真紀はそっと頷いた。

「ありがとうございます。笹川さんも、今日は本当にありがとう。」

笹川はもう一度頭を下げ、静かにドアを閉めた。廊下に出た笹川は「あのおじい様がいてくれて、本当に良かった」と静かに目頭を抑えた。

春の朝。世田谷区の一軒家に、卵焼きの香りが漂う。あの日から3ヶ月が経っていた。台所では木郎がいつも通りに立っていた。

「真紀さん、今日もありがとう。卵焼き、うまくいった?」
「今日は砂糖を少し増やしてみた。どうだ?」
「うん。甘くて美味しい。」

真紀の笑顔が戻っていた。まだ完全ではなかったかもしれない。でも、確かに前を向いていた。

一方、平田正也はと言うと、懲戒解雇となり、金融業界への就職は全て断られ続けていた。調査が進むにつれ、業界全体に噂が広まっていた。「太陽銀行から99億円を失わせた男」として、どこも雇おうとしなかった。

平田は就職活動を続けたが、面接の度に同じ質問が来た。

「太陽銀行をやめられた理由を、詳しくお聞かせください。」

平田は言葉に詰まった。「一身上の都合で」と言う度に、面接官の目が冷たくなった。

ある日、町中で偶然かつての同期に出会った。

「平田、久しぶり。俺、先月係長になったんだ。」

同期は明るく言った。平田は引きつった笑いを浮かべ、「そうか、おめでとう」とだけ答えた。

帰り道、平田は自分の靴を見つめながら、あの日のことを思った。もし、もしもあの時、真紀を選んでいたら……その答えは今も出ないままだ。

木原リナも同様だった。依願退職後、別の会社に転職を試みたが、数ヶ月で噂が広まった。

「木原さん、太陽銀行で何があったんですか?」

上司に問われた。木原は「一身上の都合です」と答えたが、その後すぐに退職した。かつて誰より優秀だと信じていた木原が、履歴書1枚で判断される。木原はあの電話での木郎の声を思い出した。「分かりました。」ただそれだけ。あの静かな一言が、今になって木原の胸に重く刺さっていた。

出世のために、と言い続けた2人の野心は、完全に潰えていた。

真紀は、時々あの日のことを夢に見た。白いドレスで床に崩れ落ちる自分の姿。しかし、夢の中でも、木郎の温かい手が肩に置かれた。そこで必ず目が覚めた。目を開けると、台所から卵焼きの香りがした。それだけで、真紀は前を向けた。

木郎は、ある朝、真紀に言った。

「真紀、次に出会う人を見る時は、その人の財産や肩書きより、その人が誰かを大切にできる人かどうかをよく見なさい。」
「うん、分かった。」

木郎は満足そうに頷いた。窓の外、桜の花びらが風に乗って舞っていた。木郎は静かに立ち上がり、台所の窓を少し開けた。春の空気が部屋に流れ込んできた。老人はそれを胸いっぱいに吸い込んだ。

「しげるよ、息子よ。真紀は大丈夫だ。また笑っている。」

木郎は空に向かって静かに呟いた。桜の花びらが1枚、窓から舞い込んできた。木郎はそれをそっと手のひらで受け止め、微笑んだ。「返事をしてくれたな」と老人は思った。

木郎は台所に戻り、また今日も卵焼きを焼き始めた。人を地位や資産で判断した者には、必ず相応の報いがある。しかし、人を大切に思う心だけは、何があっても奪われない。祖父と孫娘の絆は、どんな力よりも強く、これからも続いていく。

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