俺は今でも忘れられない。あの日、俺の人生がひっくり返るまで、俺はただの平凡な会社員だった。高校を卒業してすぐ地元の建設会社に就職し、家族を支えるために必死で働いてきた。5人兄弟の長男として、そして父が蒸発し、母が一人で俺たちを育ててくれたからこそ、俺は早く稼いで恩返しをしたかった。
入社して8年、28歳になった頃、俺は同期の中でも出世頭と言われるまでになった。そんな俺を目にかけてくれたのが、取引先の森本社長だった。高卒の俺に酒の飲み方や高級料理のマナーまで教えてくれた恩人だ。その森本社長から、突然こんな提案を受けた。
「正典君、うちの娘とお見合いをしてみないか? 」
相手は森本社長の娘、柚月さん。社長令嬢と聞くと気難しい印象だが、彼女は違った。工業高校の建築科を出て、大学では都市デザイン工学を学ぶ才女。髪型が崩れるのも気にせずヘルメットを被り、現場を熱心に見学する姿を何度も見かけた。俺が彼女に初めて会ったのも現場だった。
「お見合いさせてください。是非! 」
俺は即答した。ずっと互いに気持ちがありながら、立場の違いから一歩を踏み出せずにいた二人。ようやくその想いが実る時が来たんだと、俺は心が躍っていた。
しかし、人生はそう上手くいかない。そのお見合いの前日、俺は地獄へ突き落とされた。会社の部長室に呼び出され、冷めた笑みを浮かべる部長が言った。
「森本さんの娘さんとのお見合いが控えている中で申し訳ないが、第13支社へ行ってほしいんだ。」
第13支社。それは本社から遠く離れた南の離島にある。俺が動揺していると、部長はそれを楽しそうに眺めていた。周りにいる部長派の連中もクスクスと笑っている。これは決定事項で、何を言っても覆らない。俺は拳を握りしめたが、表情だけは冷静を保った。ここで取り乱したら彼らの思う壺だからだ。
こうして俺は、ずっと恋心を抱いていた柚月さんとのお見合いの前日に、左遷を命じられたのだ。翌日、目の前で涙を浮かべる柚月さんを置いて、俺は逃げるように帰った。俺は最低な人間だ。
それから8年。俺は離島の支社で小さなリゾートホテルや別荘の建設・修繕の仕事をしている。本社で部長派と社長派がバチバチやっていたのが嘘のような穏やかな毎日。仕事の前に海に出て波に乗り、午後は穏やかな海を眺めながら仕事をする。事務員に「また海を見てるんですか? 」と叱られることもよくある。
8年も経てば、柚月さんのことも薄れていくと思っていた。彼女ももう30歳になる頃だ。きっと素敵な家庭を築いているだろう。そう言い聞かせていた。それでも彼女を思い出すと、未だに胸の奥がちくりと痛む。
そんなある日、俺がぼんやりと窓の外を眺めていると、外から声をかけられた。
「今日も暇そうだなあ。」
この島に移住してきた星野さん。俺より2歳年上の頼れる兄貴的存在だ。小さな牧場を経営し、観光客相手に乗馬体験をしている。不登校の学生や問題を抱えた子供たちの受け入れもしているらしい。
「仕事ならちゃんとあるよ。」
そう言い返すと、星野さんの後ろから見たことのない小柄な女性がひょこっと現れた。肌は透き通るように真っ白で、島に来たばかりだとすぐに分かった。
「こらこら、星野さん。お仕事中の人の邪魔をしちゃだめよ。」
「ああ、こいつは俺の従姉妹で、今日から牧場を手伝ってくれるんだ。」
「二宮さやと申します。よろしくお願いします。」
彼女は笑顔で自己紹介をした。その綺麗な顔に、俺はドキッとした。性格もルックスも星野さんとは真逆なのに、どこか似ている気がした。柚月さんを思い出したからだろうか。自分でもよく分からなかった。
「それで今晩、うちでさやの歓迎会をするんだ。どうせ家に帰ってもすることないんだろう。正典、お前も来いよ。」
俺の回答も聞かずに星野さんは去っていった。俺は手土産に、この島特産の果実酒を持って行くことにした。星野さんが大好きな酒だ。
歓迎会の晩、エプロン姿のさやさんが出迎えてくれた。テーブルには、普段星野さんと二人で飲む時には絶対に出てこないような豪華な料理が並んでいる。
「自分の歓迎会なんだから座ってろって言ってるのに、全然言うこと聞かないんだよ。」
「だって牧場の仕事で忙しいのに、余計なことはさせられないでしょう。私の料理が食べたくないって言うなら考えるけどね。」
彼女は大人しそうに見えて、意外とはっきり物を言うタイプのようだ。
「そういえばさ、そんなにあいつの料理が気に入ったのか?

それなら嫁にもらってくれよ。あいついつまで経っても結婚しねえんだからさ。」
星野さんが小声で言った。さやさんはまだ独身らしい。
「あんなに綺麗なのに独身だなんて信じられないな。」
俺がそう言うと、星野さんの表情が少し暗くなった。
「まあ、色々あるんだよ。色々な。」
これ以上は聞かない方が良さそうだと、鈍感な俺でも分かった。
翌朝、約束通りさやさんに乗馬を教わることになった。彼女は馬術大会で県の代表になるほどの腕前らしい。初めて乗る馬の背中は思っていたよりも高く、少し怖かった。しかし、馬の歩くリズムに合わせているうちに、恐怖心は消えていった。塩風を感じると、今までに感じたことのない爽快感が広がった。
「これ、最高ですね。」
「そう言ってもらえて嬉しいです。」
彼女はそう言うと、馬の顔をこちらに向けて近づいてきた。
「そういえば、昨日星野さんから変なこと言われませんでしたか? 」
「変なこと? 」
「何か私のことで。」
真剣な目で見つめられ、俺は嘘をつけず昨晩のことを正直に伝えた。
「ああ、昨日は結構酔ってたんですかね。星野さんって、酔うと冗談ばかり言うんだから。」
そう言って話をはぐらかすと、さやさんは俺に背を向けて海の方へ行ってしまった。ただ、彼女の背中は小刻みに震えている。もしかして泣いてる? 慌てる俺に、さやさんは言った。
「あなたも、星野さんがそんな簡単に『嫁にもらってくれ』って言う人じゃないこと、知ってるでしょう。」
そう言って彼女は馬ごと海へ入っていった。肩が隠れるくらいの深さまで行くと、口笛を吹く。すると俺の馬も海へ入っていく。馬の背中越しに波を感じると、何とも言えない快感があった。目を閉じて波の音に耳を澄ませていると、さやさんが近づいてくるのを感じた。
「私、星野さんを追いかけてこの島まで来たんです。あの人のことが好きだから、少しでも彼の近くにいたくて。」
思いもよらない告白に、俺ははっと現実に戻った。
「確か、二人は従姉妹ですよね。」
「法律上では問題なく結婚できるのに、あの人は臆病なんです。親族の目や世間の目を気にして、私から逃げてるんです。本当は私のことが好きなのに。」
彼女は悔しそうに唇を噛んだ。
「私の親友は、大好きだった人と結ばれる前に逃げられてしまって、今でも未練が残っているようです。私は絶対にそんな思いをしたくないんです。」
牧場への帰り道、彼女は強い口調でそう言っていた。最初はかわいそうな親友だなと他人事のように聞いていたが、話を聞いているうちに俺は息を飲んだ。その親友は、お見合いの席で大好きな人から断られたと言う。すぐに柚月さんの顔が脳裏をよぎった。いや、でもまさか、そんな偶然があるわけがない。俺は悟られないように、必死に深呼吸を繰り返した。
しかし、その努力も牧場に到着した途端、全て無駄に終わる。牧場には星野さんともう一人の人影があった。俺は思わず目をこすって何度も確認したが、そこにいたのは間違いなく大人の女性になった柚月さんだった。
「突然いなくなっちゃったから、みんな心配してるよ。お父さんもお母さんも警察に届けを出そうとするし、止めるのが大変だったんだからね。」
柚月さんはさやさんをきつく睨んでいた。それでもさやさんは悪びれた様子がない。
「どうせまた『世間体がどうとか』言ってるんでしょ。私の人生なんだから、どうやって生きたって私の勝手じゃない。」
「誰にだって色々と事情があるでしょう。人生全てが思い通りに行くわけじゃないの。」
涙を浮かべてそう言う柚月さんを、さやさんは鼻で笑った。
「ふん。あんたって本当に昔から変わらないのね。『社長令嬢』って言われるのが嫌で、わざと髪の毛を短くしたり、男の人みたいな生き方をしてさ。そんなことしたって、本質は何も変わってないのよ。この先もずっと世間体ばかり気にして周りの様子を伺って、たとえ後悔したとしても大切なものを諦めろって?
そんなの私はごめんだわ。」
柚月さんは耳を塞ぎ、その場にしゃがみ込んだ。
「もうやめて。そんなこと分かってるし、聞きたくない。」
俺はこの状況に耐え切れず、馬から飛び降りて柚月さんの元へ駆け寄った。
「柚月さん、俺のことを覚えてますか? 」
俺がそっと声をかけると、柚月さんはゆっくりと俺の顔を見上げた。
「え、嘘? 嘘でしょ? 」
「嘘じゃないです。正典です。」
俺がそう名乗ると、柚月さんはすっと力が抜けた。俺は慌てて彼女の体を両腕で支えた。
「そういうことだったのね。あなたが柚月の好きだった人なんだ。」
さやさんがそう言って、俺たちの横にしゃがみ込んだ。
「柚月、これは神様がくれた最後のチャンスかもしれないよ。どうするかはあんた次第。」
そう言って柚月さんの肩をポンと叩くと、さやさんは立ち上がり俺の方を向いた。
「柚月のこと、よろしくね。」
ニコっと笑うと、彼女は馬を連れて去っていった。
「正典さん、ちょっとだけ私の話を聞いてほしい。」
柚月さんは、初めて出会った時から俺のことが好きだったという。それなのに俺にお見合いを断られたことで、人生が終わってしまったと感じていたらしい。彼女は世間体や親の目を気にして俺のことを追いかけなかったことを、ずっと後悔していたのだ。
「私ね、ずっとさやに憧れていたの。周りに反対されても、星野さんに冷たくあしらわれても、あの子は絶対に諦めないから。」
さやさんのように、自分が愛されているという自信がなかった。それは俺も同じだった。
俺は深く深呼吸して、柚月さんの目を見た。
「今更こんなことを言って遅いって思うかもしれないし、卑怯だって思うかもしれない。それでも、もし君が俺のことをまだ好きでいてくれるなら、俺と一緒にいてくれませんか?
」
すると柚月さんの目からは涙が溢れ出した。
「好きです。今でも大好きです。これからもずっと正典さんのことが大好きです。」
その口調は、まるでさやさんのように自信に満ち溢れていた。彼女なりに勇気を振り絞って、あんな酷いことをした俺に歩み寄ってくれたんだ。
「俺が柚月さんのことを絶対に幸せにするから、ずっとそばにいてほしい。」
彼女は何度も頷いてくれた。俺は溢れ出しそうな涙をぐっとこらえた。今は泣いている場合じゃない。これから彼女を世界一幸せにすると決めたんだから。
すると、さやさんが馬に向かって口笛を吹いた。俺にはそれが「おめでとう、幸せになってね」と言っているように聞こえた。


