「化け物は消えなさいよ。その顔を見ていると気分が悪くなるの」—…

「化け物は消えなさいよ。その顔を見ていると気分が悪くなるの」—...

「化け物は消えなさいよ。なんだかその顔を見ていると気分が悪くなるの。分かるかしら?」

井口部長のその一言で、営業部の空気が凍りついた。いい年をしたお嬢様育ちの部長が、若い部下の女性を侮辱した。最初は仕事のミスを叱っているだけだった。しかし、それは次第に悪口へと変わり、しまいには彼女がコンプレックスにしている顔のことまで言い出したのだ。

あまりに情けない言葉を浴びせ続ける井口部長に、俺は耐えきれず猛然と抗議した。

「いつもあなたはそうやって彼女をちやほやして、随分気に入っているみたいね。だったら、あなたが彼女の代わりにこのミスの責任を取って、首になってあげたらどうかしら?」

井口部長は検討違いなことを言って、まともに取り合ってくれなかった。それに俺もカッとなった。

「わかりました。じゃあそうしましょうか。私が首になる筋合いはありませんが、私はもうこの会社をやめますよ」

井口部長とくだらないやり取りを繰り返し、俺はもうほとほと嫌気が差していた。これからもこんな非常識なことがまかり通っていくのかと思うと、もうたくさんだった。

突然の退職でみんなに心配をかけてしまったが、俺にはある秘策があった。お嬢様育ちだからと言って、勝手なことを言っていられるのも今のうちだ。俺は一人つぶやくと、退職届を出し、会社を後にした。

俺の名前は高田。5年前に機械メーカーに転職し、営業部に配属された。

「本当にどん臭いったら、報告書はまだできてないの?一体いつまでこの私を待たせるのよ」

今日も営業部には井口部長の高い声が響いている。井口部長の部下に対する高飛車な態度はいつものことで、俺たちはもう慣れっこだった。嫌味ばかり言う井口部長は苦手だが、仕事にはやりがいがあった。俺の一生懸命仕事に取り組む姿勢を、他の先輩や同僚たちは高く評価してくれるので、転職して良かったと思っている。

「江本さん、あなたは仕事ができないくせに、男の人には媚を売って、本当に困った人ね。仕事はもっとテキパキとやってもらわないと」

井口部長が営業事務の江本さんに目を吊り上げて文句を言っている。江本さんを目の敵にしている井口部長は、日頃から特に彼女に対して当たりがきつい。

「私は今日、お父様の誕生日でフレンチのお店に予約を入れているの。だから報告書ぐらい、さっさと仕上げなさいよ」

井口部長は40代ほどだろうか。20代の江本さんよりはずっと年上だが、資産家で名家出身というのが自慢らしく、何かにつけて実家の話をする。いい年をお嬢様気質が抜けていないようで、常に上から物を言ってくるので社員たちには人気がない。

「井口部長はどうして江本さんに小言ばかり言うんだろうな」
「江本さんが営業補佐についてくれると、仕事がしやすいし、俺たちは助かるのに」
「ああ、江本さんは仕事ができるのに、いつも叱られてばかりで気の毒だ。井口部長は、同性の江本さんが若くて美人だから気に入らないだけだろう」

井口部長は知らないだろうが、彼女が席を外すと社員たちはこぞって影口を言っている。

うちの会社は産業機器やその部品の開発、製造、そして販売まで手掛けていて、俺たちの仕事は地密で正確さが要求される。江本さんの仕事はいつも迅速丁寧で、営業社員たちの間でも評判が良く、俺も彼女の仕事にはいつも助けられていた。お嬢様で負けず嫌いな井口部長は、そんな江本さんの姿が余計に腹立たしいのだろう。

「すみません、部長。報告書ならもうすぐできますので」

今日も急に報告書の作成を頼んだ井口部長が悪いというのに、江本さんは謝っている。江本さんはいつもこうして言われるがまま、旗から見ているといじらしい。

社員たちの江本さんに対する高評価は本人にも伝わっているはずだが、彼女は自己肯定感がかなり低い。実は江本さんは顔立ちが整っていて美人なのだが、左の頬に大きな黒子があり、いつも髪を垂らして隠すようにしている。そのためか普段から俯いたまま仕事をしていることが多く、表情が暗く見えてしまう。江本さんの顔の黒子は生まれつきだと聞いているが、仕事もできるのだからもっと堂々としていればいいと思う。若い女性なら顔の黒子が気になるのはごく当然で、仕方がないのかもしれない。

「江本さん、報告書が出来上がったら、喉飴を買ってきてちょうだい。喉がひどいのよ」

井口部長はまだ江本さんに何か言い続けているが、江本さんは黙って頷いている。

「井口部長に喉飴でよかったら、一つ差し上げますよ」

俺は立ち上がると、井口部長のデスクに喉飴を置いたが、井口部長はお礼も言わずに不機嫌そうにしている。急ぎで報告書を仕上げている江本さんに対し、よくもこう次々と何か頼めるものだと思うが、これについて何か言う人はいない。井口部長が今日は江本さんに当たり散らしていても、気まぐれな彼女のことだ。それがいつ自分に向けられるのか分からない。みんなはやはりそれを恐れているのだろう。この営業部にいる以上、部長のご機嫌を伺いながら働いていくしかないのだ。

そんなある日の夕方のことだ。俺が営業先から戻ると、部屋には江本さんだけが一人、まだ残って仕事をしていた。

「今戻りました。江本さんは残業ですか?もしかして、また井口部長に?」
「あ、ええ、まあ」

俺が声をかけると、江本さんは頷きながら答えた。

「江本さん、これは大変だ。私も手伝います。1人では無理ですよ」

見ると江本さんはパソコンで作業を進めているが、デスクには大量のファイルがうず高く積み上げられている。どうせまた井口部長が急に指示した仕事なのだろうが、この量ではいつ終わるのか分からない。しかもファイルの中身を見てみると、これは井口部長がやるはずの仕事だ。一人で終わらせる内容でもない。

最近よく見るのだが、井口部長は夕方になると江本さんに自分の仕事を押し付けて帰ってしまったり、急ぎでもないのに急かして仕事をさせている。

「あれ、どうしたんですか?何かファイルが山積みですけど」

俺がデスクに座ると、後輩の営業社員が帰ってきた。

「え、もしかして、これ、まさか井口部長に頼まれたとか?」
「ああ、そのままだよ。ひどいもんだな。部長は仕事を江本さん一人に押し付けて帰ってしまったんだ。お前が戻ってきてちょうど良かったよ」

後輩も手伝ってくれることになり、みんなで仕事を片付けることになった。

「ありがとうございました。助かりました」

仕事が終わり、江本さんは俺たちに丁寧に頭を下げたが、俺たちもいつも江本さんにはお世話になっているので、おあいこでもある。気がつけば時計は9時を過ぎていた。会社を出て、みんなで最寄りの駅まで歩いた。

俺たちがいなかったら、江本さんはいつ帰ることができたか分からない。井口部長も分かってやっていることだろうから、これはかなり悪質な嫌がらせだ。そんなことが度々あるとは、にわかには信じがたい。俺たちも疲れたが、いつもポーカーフェイスの江本さんも、今日はさすがに疲労感が伺える。こんな根拠のない嫌がらせが続けば、心身共に疲れきってしまうのも当然だろう。泥のように疲れた俺たちは、その後それぞれの駅で降りて帰宅した。

そんな中、1ヶ月ほど経ったある朝のことだ。

「本当に申し訳ありません。こちらのミスでご迷惑をおかけいたします。すぐに伺わせていただきます。はい、失礼いたします」

新人の営業社員がペコペコとお辞儀しながら、電話で取引先に謝っている。

「井口部長、申し訳ありません。私の発注ミスで、部品を大量に取引先へ送ってしまいました」

電話を切った新入社員は井口部長に近づき、自分の発注ミスを報告した。数量を一桁間違えて発注し、取引先には大量に部品が送り付けられてしまい、驚いていると連絡が来たようだ。

「あら、こういうことは気をつけないとね」
「はい、わかりました」

井口部長はミスを報告されても、目を丸くして、いつになく甘えたような緩い口調で話すだけで、新人社員を強く叱る様子はない。

「そうよ。こういうところは間違いやすいものなの。まあ、仕方がないわね」
「ええ、私もついうっかりしてしまって」

井口部長は新人に言い聞かせるように話しているが、取引先に迷惑をかける大きなミスがあったようには感じられない。二人でのらりくらりと話し続けている。

実はこの新人は井口部長のお気に入りなのだ。井口部長は彼に早く結果を出させたいという思いがあるらしく、新人だというのにすでに大きな案件を多く任されていた。だが、どう考えても入社してまだ半年の彼にさばける量ではない。今回のミスも、キャパオーバーを起こしたことが原因のように思えた。

「ちょっと、江本さん」

しかし井口部長は突然立ち上がると、厳しい表情で江本さんの背後に立ち、声をかけた。

「私はあなたに新人の補佐をするように言ったはずよ。それなのに、こんな大きなミスを起こして。これはあなたの責任ね。大量に余ってしまう部品を、一体どうしてくれるのよ」

井口部長は今まで新人と暢気に話していたくせに、突然の高い声で江本さんを怒鳴りつけた。この豹変ぶりには、営業部員たちはみんな呆然としたし、俺は拳をぎゅっと結んだ。

「はい。すみません」

みんなの面前で叱責された江本さんは、やはり小声で申し訳なさそうに謝罪するだけだった。

江本さんはこの新人社員の補佐役ではあったが、他の社員の営業補佐もしており、さらには井口部長に様々な雑用まで押し付けられていて、最近は飲み物や食事の買い出しまでさせられている。これだけ忙しいのだから、新人の仕事の全てを補佐するのは不可能だということは、営業部のみんなもよく分かっている。

「江本さん、そんな小さな声で謝って、あなたは本当に悪いと思っているの?謝罪するなら、きちんと私の目を見て、はっきりと謝ったらどうなの?」

井口部長は江本さんにさらに近づき、耳元で大声をあげた。見れば、営業部だけでなく、他の部署の人たちまでも、何事かというように井口部長と江本さんを見つめている。新人社員はもう取引先に出かけてしまったが、あまりにも彼への態度とは違いすぎる。

そもそも、元を言えばあの新人のミスだ。しかも、入社半年の新人にいくつもの大きな案件を任せるように仕事を指示したのは井口部長だし、ミスが起きたのは、それをきちんとフォローしきれていない部長自身の責任だろう。だから本来なら、江本さんが謝っただけでも十分なことなのだが、井口部長はまだネチネチと江本さんに責任をなすりつけようとしている。

「申し訳ありません」
「あら、よく聞こえないわよ、江本さん。だから声が小さいって言っているの。もう一度私を見て、大きい声で言ってくれる?」

江本さんはわざわざ立ち上がり、井口部長の指示通り、はっきりとした声で言ったというのに、井口部長はまだ意地悪く言葉を続ける。そして、もう一度謝罪の言葉を言おうとしたのだろう。江本さんが顔を上げた時だ。

「嫌だわ。ひどい顔ね。見にくいったらありゃしないわ。化け物は消えなさいよ。なんだかその顔を見ていると気分が悪くなるの。分かるかしら?」

井口部長は今度はジッと江本さんを睨みつけると、低い声で吐き捨てるように言った。江本さんはもう何も言わずに、その場に立ち尽くしている。俯いている江本さんの表情は髪に隠れてよく見えないものの、その隙間から何か光るものが見えた。

「あなたのこの化け物みたいな顔が不愉快でたまらないの。あなたはいつも男の人に仕事を手伝わせて、自分は楽ばかり。だからこんなミスが起きるのよ。あなたはもうこの会社に必要ないわ」

項垂れる江本さんに、井口部長は追い打ちをかけるように容赦ない言葉を浴びせ続け、しかもニヤッと笑っている。

その姿に、俺は気づいたら動いていた。

「待ってください。井口部長。それはおかしいですよ」

俺はその場で立ち上がり、猛然と抗議した。

「江本さんの仕事はいつも完璧で、誰も手伝ってなんかいません。大体、人の容姿をとやかく言うなんて、どうかしていますよ」

一瞬驚いた井口部長だったが、すぐにギロリと俺を睨みつける。

「高田さん、これはあなたには関係のないことよ。口を挟まないで」
「関係ありますよ。江本さんは同じ営業部の仲間ですから。目の前でひどい目に会っているのに、黙ってはいられません」
「ひどい言い方をするのね。それじゃあ、まるで私が江本さんをいじめているみたいじゃない?」
「その通りですよ。これがいじめや嫌がらせ以外の何だって言うんですか?」

俺もつい大声を出してしまい、今度は俺と井口部長の言い合いのようになってしまったが、ここで俺も簡単には引き下がれない。江本さんに対する嫌がらせは、俺が見てきただけでも度を越していて許しがたいし、こんな傲慢な言動は江本さんだけの問題ではなく、営業部全体にも関わることだ。

「さっきから聞いていれば、屁理屈を作り上げて庇うのは結構だけど、取引先にまで迷惑がかかっているのは現実なのよ」
「そんな屁理屈だなんて。今回のミスは元々、江本さんの責任ではありませんよね」
「へっ、いつもあなたはそうやって江本さんをちやほやして、随分気に入っているみたいね。だったら、あなたが江本さんの代わりに、この責任を取って首になってあげたらどうかしら」

井口部長は俺を馬鹿にしたように笑っている。どうせ彼女は俺とまともに話をするつもりなどないのだろう。どうせ口先だけで何もできやしない。そう見下されたことで、俺もカッとなった。

「わかりました。じゃあ、そうしましょうか。私が首になる筋合いはありませんが、私はもうこの会社をやめますよ」

井口部長とくだらないやり取りを繰り返し、俺はもうほとほと嫌気が差していた。これからもこんな非常識なことがまかり通っていくのかと思うと、もうたくさんだった。喧嘩言葉に買い言葉で、気づけば退職を受け入れていた。

「待ってください。そんなことをされたら、私が困ります。私がやめますから。高田さんはやめる必要はありません。いくらなんでも急にやめるだなんて。落ち着いてくださいよ。高田さんがやめたら、私たちはどうしたらいいんですか?」

俺が突然会社をやめると言い出したことに、江本さんや他の営業部員が取り成そうと俺を引き止めてくれた。

「大丈夫ですから、心配いりませんよ」

俺は笑顔でそれだけ言うと、椅子に座り仕事に戻った。

「いい厄介払いができて、ちょうど良かったわ。みんなもこれに懲りたら、余計な口は出さない方が身のためだと分かったわね」

井口部長は満足そうに高笑いを響かせている。江本さんやみんなは心配そうに俺を見ている。俺はみんなを見回してもう一度ニッコリと笑ってみせたが、みんなは困惑したように俺を見つめるだけだった。

その日の夕方、俺は仕事終わりに社長宛てに退職届を出すと、ある人に連絡を入れた。

「もしもし。久しぶり。ちょっと頼みたいことがあって」

相手も忙しいこともあり、俺は要件だけ話すと、もう一度連絡をもらうことにして、すぐに通話を終わらせ帰宅した。

そして、その数日後のことだ。その日は俺が担当していた取引先との大口の商談が予定されていたが、もちろん退職した俺が出席することはない。同僚から聞いた話では、その仕事の担当になったのは、案の定、井口部長のお気に入りの新人だそうだ。さて、どうなるかな。そんなことを考えていた矢先、携帯が鳴った。見てみると、井口部長からの着信だった。

「高田さん、今どこにいるの?すぐ会社に来てちょうだい。急なのよ」
「まさか、おかしなことをおっしゃるんですね。私を首にすると言ったのは、井口部長。あなたですよ。今更、何の用ですか?」
「お願い。とにかく、すぐに会社に来て」

いつになく必死な井口部長が、電話の向こうで泣き出さんばかりに懇願している。それに思わず吹き出しそうになったが、それをぐっとこらえ、代わりに大きなため息をついた。

「ああ、今すぐですか?わかりました。では、今から出ますよ。仕方ないですね」

俺はわざと渋々といった感じで返事をすると、目の前のドアを開けた。

「高田さん!」

悲鳴と悲鳴の間のような声を出し、井口部長は応接のソファーから転げ落ちた。そこは商談が行われている応接室で、突然現れた俺の姿に、井口部長はよほど驚いたのだろう。井口部長の隣に座る新人も、転げ落ちてはいないが、目を丸くしている。

さらに俺の後から、社長と江本さんも応接室に入ってきた。もう井口部長は床に座り込んだまま、呆然と大きく口を開けたままでいる。

「おお、高田君、会うのは久しぶりだな」

そこで、取引先の社長が俺に親しげに声をかけてきた。それに、俺もニッコリ笑ってみせる。

「父さん、久しぶり。元気そうでよかった」

そう、実は今日の商談の相手は、俺の父の会社だった。そして、俺が以前勤めていた会社でもある。

俺は社長の息子として、子供の頃から周囲にちやほやされ、気を使われるのが当たり前の環境で育ってきた。だからといって、俺は周りの人間とトラブルを起こすようなタイプではなかったが、両親が心配していたのは、社会に出た俺が「社長の息子」という肩書きありきでしか周囲と接したことがないということだった。そこで父は、俺に社長の息子であることを隠して働くよう命じた。父の取引先であり、友人が経営するこの機械メーカーに転職することになったのである。

だが、首になったあの日、俺は父に連絡を入れ、井口部長の傲慢な振る舞いを何とかすべく協力を頼んだ。今回だけは、「取引先の社長の息子」という肩書きを使ってでも、井口部長を何とかしなければならないと考えたのだ。今日は事前に社長と江本さんにも事情を話し、協力してもらっている。

井口部長も相当驚いているようで、やっと立ち上がったものの、顔面は蒼白で、汗が流れている。しかし父はそんな井口部長に向かってニッコリと微笑むと、何ともわざとらしく質問をする。

「ところで、さっきはなぜ高田君の姿が見えなかったのですか。君は確か、うちの社の担当のはずですが」

「い、いえ、社長。それは、それは私が説明させていただきます。高田さんは、首になったんです」

父に質問され、戸惑う井口部長の代わりに口を開いた江本さんは、俺が自分の代わりに首になったことを説明し、父に謝罪した。

「あの、そうじゃないんです。元を言えば、高田さんが会社をやめることになったのは、私の責任です」
「私が発注ミスをしたのが悪いのです」

新人もついには喋り始め、俺が首になったことに対して、みんなそれぞれ自分の責任だと言わんばかりだが、もちろん本当の原因は井口部長にある。

「みなさん、ありがとうございます。もういいんですよ。私が勝手にやめると言い出したんですから」

俺が収拾を告げると、社長が小さく咳払いをして口を開いた。

「井口君の日頃の社内での問題行動については、彼が首になってようやく私の耳に入ってきました。大切なご縁をお預かりしておきながら、申し訳ない」

そう父に対して陳謝すると、今度は井口部長へ視線を向けた。

「高田君は営業成績が良く、社内でも評価の高い社員だ。井口君、そんな社員を首にした君の責任は大きいぞ。さあ、高田君に今すぐ謝罪しなさい。それと、江本君にもだ」

自分の行いが社長にも知られていると分かり、ガックリと肩を落としている井口部長に、社長は厳しい口調で言い放った。

「ああ。はい。申し訳ありません」

井口部長は社長に促され、江本さんと俺に、ぐったりとした放心状態のままで謝罪をする。その姿は、今までのあの傲慢な井口部長とは別人だ。

「井口君、ここはもういいから、出ていきなさい。君の処分については追って連絡するから、それまで自宅待機とする。いいな」

社長が静かに告げると、井口部長は力ない足取りでよろよろと応接室を出ていってしまった。

「高田さん、会社に戻ってきてくれますよね。もう井口部長もいないことですし、高田さんが社長の息子さんだということは、黙っていますから」
「俺からもお願いします。俺も甘えを捨てて頑張りますから」
「二人とも、私からも頼む。それに、君の退職届はまだ受理していないよ」

社長までそう言ってくれた。

「わかりました。これからもよろしくお願いします」

そう言って、俺は深く頭を下げた。

「父さん、今日はありがとう」
「何?別に何もしていないさ。お前も、この会社でまたしっかりと働きなさい」

その日、俺は担当に戻って商談を進め、話が終わると父は帰っていった。

その後、井口部長は平社員に降格の上、地方支社へ左遷となったが、日を置かずして退職したようだ。資産家でお嬢様なのだから、どうせ生活には困らないだろうと思っていたが、どうやらそういうわけでもないらしい。いい年をして問題を起こした彼女は、年老いた両親の怒りを買い、勘当されたという風の噂を聞いた。

一方、井口部長のいなくなった職場は実に快適だ。みんな井口部長の顔色を伺う必要もなく、晴れやかな表情で働いている。新人社員も、適正な仕事を任されて働きやすくなったようだ。そして、のびのびと働けるようになった江本さんも、必要以上に顔を隠すことをやめたようで、徐々に自信をつけているように見受けられる。最近は、忙しい時に髪を一つに束ねているくらいだ。

そして、江本さんの溌剌と働く姿に刺激されたように、彼女の補佐を受ける営業部の社員たちにも活気が出ている。俺も一社員として会社に戻り、一度は首になったことなどまるでなかったかのように再出発し、さらに充実した日々を送っている。

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