休憩室の鏡の前で、千鶴は白い錠剤を一粒、奥歯で噛み砕いた。胃の痛みを紛らわせるために覚えた方法だった。65歳。物流倉庫の清掃員として、毎日トイレを磨き、廊下を拭いている。
休憩は残り3分。本当は今すぐ横になりたかったが、体は言うことを聞かない。痩せた体に、腕だけは妙に筋張っていた。長年の清掃仕事で鍛えられた体そのものだった。
休憩室のドアが勢いよく開いた。江口が入ってきた。35歳の現場管理職で、千鶴より頭一つ分背が高い。効率と数字以外のものを見ない種類の人間だった。
「休憩終わりましたよね」
江口はバインダーを見たまま言った。千鶴はすでに立ち上がっていた。
「はい」
軽く頭を下げた。その下げ方が必要以上に深いのは、長年染みついた癖だった。
トイレの掃除を再開して間もなく、江口がまた戻ってきた。
「今月の稼働時間、確認しました。先月より12時間少ない」
「はい。先月は月末に残業が出ましたので」
江口は答えなかった。しばらく間があって、床の一点を指差した。
「そこ、取れてないですよ」
千鶴がすでに磨いた箇所だった。近づいて目を凝らすと、爪の先ほどの黒い点が一つ。千鶴は頭を下げた。
「申し訳ございません」
江口が去った後、千鶴は胃の下の締めつけられる感覚に耐えながら、白い錠剤をもう一粒口に含んだ。残りは二粒。今日の分だった。
その日の帰り道、千鶴は駅前のスーパーに寄った。値引きシールの貼られた弁当を探すためだ。50%オフの幕の内弁当が二つ残っていた。賞味期限は今日。それでよかった。今夜食べる分だ。
レジに向かおうとして、千鶴の足が止まった。隣接する回転寿司店のカウンター席に、見覚えのある女が座っていた。ウールのコートを着て、髪は緩くまとめ、顔には艶があった。鉱子。42歳。千鶴の娘だった。三年間、一度も連絡がなかった娘だった。
気がつくと、千鶴は店の中にいた。鉱子は顔を上げ、一瞬表情を変えた。驚きではない。何かを計算するような、極短い間。すぐに元の穏やかな顔に戻った。
「お母さん、どうしたの?ここで会うなんて」
「三年間、あなたから何の連絡もなかった」
鉱子はバッグから折りたたまれた紙を取り出し、千鶴の前に置いた。生活保護の受給証明書だった。受給額の欄に「13万円」と書いてあった。
「うつ病と診断されてるから、働けない状態なの。だから保護を受けてる。家賃と医療費も出てるから、今は安定してる」
13万円。千鶴が毎朝五時に起きて、倉庫でトイレを磨き、江口の視線を受けながら胃の痛みを薬で抑えて、一か月かけて手にする金額と同じだった。
「お母さんも申請すればいいのに。お父さんと二人で働いてるんでしょ。働かなくても良くなるよ」
「なぜ連絡が取れなかった?」
「謝らないよ。私はただ自分の生活を立て直す必要があった」
「あなたのために入れたものがある。三年前、あなたが起こした問題の後始末のために」
鉱子の顔に小さな動揺が走った。でもすぐに消えた。
「それは親がすることでしょ。私が頼んだわけじゃない」
千鶴は何も言えなかった。鉱子はもう母を見ていなかった。スマートフォンを手に取っていた。千鶴はただその場を離れた。
その夜、千鶴は夫の陣に話した。陣は67歳。かつては背筋の通った男だった。右手に目薬の小瓶を持ったまま、黙って聞いていた。
「シャオンのことは、もう考えなくていい」
陣は言った。
「あの子が今どこでどうしているかは、我々には関係ない」
「あの子は今、生活保護を受けている。月23万円、家賃も医療費も出ている。うつ病の診断書があると言っていた」
陣はしばらく黙っていた。そして言った。
「我々はそれをしない。保護を申請すること、人に頼って生きること、それは我々には合わない」
その夜、千鶴は陣の横で、スマートフォンで警備会社の求人サイトを開いている夫の背中を見ていた。何も言わなかった。
翌週、陣は週末の夜間警備の仕事を始めた。千鶴がそれに気づいたのは、土曜の朝に夫が四時半に起きるところを目撃したときだった。緑内障を患い、夜間の視力が落ちていることも知っていた。止めようと思った。けれど、言葉にできなかった。
「眠れてる?」
「眠れてる」
二人とも嘘だと分かっていた。
十一月第三週に入った頃、千鶴の胃の具合は目に見えて悪くなっていた。朝、コップ一杯の水を飲むだけで胃が痛んだ。病院に行こうとは思わなかった。社会保険に入れてもらっていないから、医療費は全額自己負担。胃カメラ一本で一万円以上かかる。そんな余裕はなかった。
その週の火曜日、事件が起きた。千鶴が廊下をモップで拭いていると、後ろから江口が来た。手に使い捨てカップを二つ持っていた。江口は何も言わず、片方のカップを床にひっくり返した。コーヒーが、拭いたばかりの床に半円形に広がった。
「ここ、まだ汚れてますよ」
声のトーンは平坦だった。怒っているわけでも、からかっているわけでもない。ただ事実を述べるようだった。それが、千鶴の胸の奥に何かを刺した。
「申し訳ございません」
「お年を召した方々は、体力的にこういう仕事がきついのは分かるんですけどね。うちの倉庫清掃の質を上げていかないといけないって、本社から言われてるんで」
それだけ言って、江口は歩き去った。千鶴は腰をかがめ、モップをコーヒーに当てた。頭の中は静かだった。怒りはあった。でも、それがどこへ向かえばいいのか分からなくて、出口を失ったまま体の中に留まっていた。
その夜遅く、陣が帰ってきた。
「今夜は少し問題があった」
「怪我は?」
「ない。ただガラスが割られた」
陣の顔は疲れていた。ただ疲れているだけでなく、別の重さを乗せていた。
「私が外に出た時、うまく状況が把握できなかった。暗かったし、連中が何人いるかも分からなかった」
翌朝、陣の携帯が鳴った。短い返事の後、電話が切れた。陣が台所に来た。
「解雇になった。昨夜の件で、警備の能力に問題があると判断された。それと、ガラスの修理費用を一部負担する書類に署名させられた」
千鶴は頷いた。一回だけ小さく頷いた。
陣は毎日、求人サイトを開いては閉じた。どこも年齢で引かれる。千鶴は何も言えなかった。
十一月の末、千鶴はコンビニで胃薬の値段を見ていた。980円の薬を棚に戻し、隣にある480円の安い方を手に取った。
十二月に入って最初の月曜日、江口がシフト確認書を渡した。来月から週四日になると書いてあった。先週、他の清掃員から、来月から入れる日が減るという話を聞いたばかりだった。手取りが十万円を切る計算だった。
その夜、千鶴は陣に言った。
「区役所に相談に行こうと思う。生活保護の相談ではない。どういう支援があるかを聞くだけ。状況を整理するために」
陣は履歴書を見たままだった。しばらくして言った。
「君が行くなら、それでいい」
区役所の福祉相談窓口で、四十代の女性職員が手続きの説明をした。
「資産はお持ちですか?」
「住んでいる家は抵当に入っています。他は特にありません」
「お子さんはいらっしゃいますか?」
「います。42歳の娘が一人。現在別居しています」
「お子さんとのご関係は、どういった状況ですか?」
「三年前から連絡が取れない状態です」
職員は少し表情を動かした。
「現状ですと、審査の上でいくつか難しい点があります。まず、お子さん名義の不動産がなければ問題ありませんが、もしご自宅の不動産が登記されている場合、資産として扱われます。抵当に入っていても、名義があれば原則として審査の対象になります」
「売れない状態です。抵当に入っていて、残債の方が大きい」
「もう一点ですが、収労可能なお子さんがいらっしゃる場合、まずお子さんに親御さんへの扶養の意思確認をする手続きが入ります」
「その子は、すでに生活保護を受けています」
職員の手が止まった。
「娘は生活保護の受給者です。私たちが保護を申請した後にそれを知りました。三年間、私たちへの連絡も援助もありませんでした」
「その場合でも、手続きの上ではお子さんへの意思確認の連絡が必要になります。省略することはできません。申請が入った段階で必ず行われます」
「審査にはどのくらい時間がかかりますか?」
「早くて二、三か月です」
二、三か月。収入がほぼゼロの状態で待つということだった。千鶴は言った。
「申請書類はいただけますか?書類だけもらって帰ります。考えます」
職員は書類一式を袋に入れて渡した。
三日后、千鶴は一人で鉱子のアパートに向かった。陣には「倉庫の帰りにちょっと用がある」とだけ言った。住所は三年前に残していった郵便物に書いてあった。捨てられなかった住所だった。
エントランスのオートロックに部屋番号を入力した。呼び出し音が三回なった。応答がなかった。もう一度押すと、インターホンから鉱子の声がした。
「お母さんです。少しだけ話をしたい。中に入れて欲しい」
インターホンが切れた。五分待った。扉は開かなかった。もう一度ボタンを押すと、今度もすぐに鉱子が出た。
「何度も押して迷惑でしょ」
「シャオン、お父さんが仕事を失った。私も来月から収入が減る。あなたに援助して欲しいわけじゃない。ただお父さんの目薬の代金だけ、毎月3000円でいい。目の病気が進んでいる」
「私は病気なの。お金がない」
「3000円でいい。毎月じゃなくてもいい。一回だけでもいい。会わなくていい。顔を見せなくていい。振り込みでいい。ただお父さんの目のことだけ」
インターホンが切れた。千鶴はもう一度押した。応答はなかった。もう一度押した。応答はなかった。
千鶴がエントランスを離れた瞬間、背後で扉が開く音がした。振り返ると、鉱子が出てきた。部屋着のままだった。髪も整えていなかった。でも顔の肌は艶があって、頬に赤みがあった。
「これ以上来たら、警察に言う」
「私はあなたの母親です」
「関係ない。私は今、精神的に不安定な状態にある。こういう接触は療養の妨げになる。弁護士に相談することもできる」
「お父さんもお母さんも、自分たちの選択で子供を産んだんでしょ。私はそれを頼んでいない。育ててもらったからって、無限に責任を追うわけじゃない。私には私の生活がある」
鉱子はそう言って、ドアを閉めた。
千鶴はエントランスの前に立っていた。体の中に何かが溜まっていく感じがした。言葉にならないまま、ただ重くなっていった。
家に帰ると、陣はまだ起きていた。ノートに何かを書いていた。
「シャオンのところに行ってきた。話にならなかった」
陣は頷いた。
「区役所の書類、書こう」
陣は言った。
「シャオンへの連絡が行っても、もう関係ない。どうせ向こうはそう思っている」
「一緒に書こう」
二人はテーブルに向かい合って座り、区役所の書類を開いた。千鶴が鉛筆を持った。
「名前から書く」
「ああ」
二人は黙って書き始めた。部屋は静かだった。鉛筆が紙を擦る音だけが、しばらく続いた。
十二月の第三週、千鶴は区役所の申請書類を仕上げ、封筒に入れて翌朝、区役所の郵便受けに投函した。帰り道の自転車の上で、後ろめたさがあった。だが、その後ろめたさがどこから来るのかは分からなかった。
その週、江口が新しいシフト表を渡した。来月は週三日になっていた。先月の予告より、さらに一日減っていた。千鶴はシフト表をポケットに入れた。何も言わなかった。
十二月、ある夜の八時過ぎ、千鶴の携帯電話が鳴った。知らない番号だった。
「高月ひさんのご家族の方ですか?警察のものです。旦那様が駅のホームで転落されて、今、救急で病院に運ばれています」
病院に着いたのは夜の九時過ぎだった。担当の医師が言った。
「転落の際に両脚に重度の損傷を受けています。右足は複数箇所の骨折と神経の損傷があります。今後、自力での歩行が可能かどうかは、回復を見ながら判断していくことになります。高い確率で長期的なリハビリが必要になります。頭部も強打されています。検査が必要です」
陣はベッドに横になっていた。両脚に包帯と固定具がつき、頭に包帯が巻かれていた。
「どうして転んだ?」
「暗くて、橋が見えなかった。目薬を切らしていた。三日ほどさしていなかった。節約しようとして」
千鶴は何も言えなかった。陣の目薬を節約させていたのは、月々の支出を声に出して数えるようになっていた自分だった。
「あなたが目薬を切らしたのは、私が毎月の出費を声に出して数えていたからでもある。責任はお互いにある」
検査の結果、脳への直接的な損傷はなかった。ただ、右足の神経損傷の程度によっては、補助なしでの歩行は難しくなる可能性が高いと言われた。医療費の自己負担は三割。毎月の収入を超える数字だった。
その週の木曜日、千鶴が病院から家に戻ると、倉庫の会社から封筒が届いていた。契約終了の通知だった。理由の欄には「業務上の都合による契約期間満了」と書いてあった。無断欠勤をしたという扱いだった。病院に電話を入れたはずだった。だが、電話一本は書類の上では何の証拠にもならなかった。
翌日、千鶴は区役所に電話をした。審査の状況を確認すると、追加資料の提出が必要だと言われた。
「お子さんへの意思確認の連絡については、先週文書を発送しています。ご本人から返答があるかどうかは分かりません」
その日の夜、病院で千鶴は話した。区役所のこと、娘への連絡が行ったこと、緊急小口資金の話もそのまま話した。
陣は天井を見ながら黙って聞いていた。長い間があって、言った。
「また借りるのか?」
「他に今月を凌ぐ方法がない」
陣は何も言わなかった。それから、静かな声で言った。
「千鶴」
夫が自分の名前を呼ぶことは、最近ほとんどなかった。
「すまなかった。ずっと意地を張り続けた。区役所の書類を書く時、もっと早く君と一緒に決めるべきだった。一人で全部抱えさせた」
千鶴は陣の手の上に自分の手を置いた。冷たかった。それでも、置いたまま言った。
「今は、勝ったならそれでいい」
一月に入って最初の週が終わる頃、千鶴は新しい住所を手に入れた。区から紹介されたNPO法人が管理する簡易宿泊施設の一室。四畳ほどの広さだった。窓は一つ、北向き。壁に染みがあり、天井の隅にヒビが走っていた。
元の家は年明けに銀行が差し押さえた。千鶴は陣に知らせるタイミングを測り続け、退院の見通しが立った段階で話した。陣はただ頷いた。何も言わなかった。
医療費の高額療養費の手続きは済ませていた。それでも、毎月の自己負担額は千鶴の今の収入では賄えなかった。緊急小口資金を借りた。十万円だった。
その翌週、区役所から封筒が届いた。生活保護の受給決定通知書だった。月額13万円。医療費は別途給付されると書いてあった。
「保護の通知が来た。受給が決まった」
病院に電話をすると、陣は少し黙って、それから言った。
「そうか」
それだけだった。千鶴は言った。
「月23万円。あなたの医療費は別に出る。これで当面の食費と生活費は何とかなる」
「分かった」
電話を切った後、千鶴は部屋の中を見た。四畳の部屋だった。壁の染みを見た。天井のヒビを見た。
月23万円。千鶴がかつて倉庫のトイレを磨いて、江口の視線を受けながら胃の痛みを薬で抑えて、一か月かけて手にしていた金額と同じだった。それが今、何もしなくても振り込まれてくる。千鶴はその事実を頭の中でゆっくりと回した。怒りが来るかと思ったが、来なかった。感謝が来るかと思ったが、それも来なかった。ただ何かが胸の奥でじわりと広がった。それが何かは千鶴には分からなかった。
翌月の初め、振込日が来た。千鶴は郵便局のATMに向かった。早朝の空気は冷たく、吐息が白かった。残高を確認し、引き出しの操作をした。機械が動いて、お札が出てきた。13万円分の紙幣。使い込まれた、少し柔らかくなったお札だった。
郵便局の外に出ると、朝の通りは人が動き始めていた。千鶴は立ったまま、人の流れを見ていた。40年間、この流れの中にいた。倉庫への道、帰り道、電車の中、自転車の上。ずっとこの流れの一部だった。今は違った。自分だけが止まっているような気がした。
病院に向かう前に、千鶴は商店街を歩いた。肉店の前を通りかかった時、ショーケースの中に牛肉が並んでいるのが見えた。長い間、牛肉は買わなかった。値段を確認して、棚の奥に戻すものだった。千鶴は肉店の中に入った。
「200gください」
640円だった。それから野菜の店で白菜を一枚買った。
病室に入ると、陣はリハビリから戻ったところだった。ベッドに腰かけて、タオルで額を拭いていた。陣は千鶴の持っている袋を見た。
「何を買った?」
「今夜、牛肉を焼く」
陣はしばらく袋を見ていた。それから、何も言わずにタオルを畳んだ。
「退院の目途が立ったら、一緒に食べる」
「いつになるか分からないぞ」
「する」
陣はわずかに顔を緩めた。笑ったとは言えなかったが、何かが少し溶けた。
帰り際、千鶴は病室の入口で振り返った。陣はまた窓の外を見ていた。
「また明日来る」
陣は窓を見たまま言った。
「ああ」
その夜、千鶴は部屋に帰って、共有の台所で白菜を刻んだ。牛肉を少しだけ解凍して、塩だけで焼いた。白菜と一緒に炒めて、醤油を少し垂らした。プラスチックの皿に持って、自分の部屋に戻った。
テーブルがないので、床に直接置いた。箸を取って、牛肉を一切れ口に運んだ。噛んだ。胃が反応した。下の方から鈍い痛みが来た。胃痛はまだ治っていなかった。病院にもまだ行けていなかった。来月になったら行こう、と千鶴は思っていた。それでも噛み続けた。飲み込んだ。
目の奥が熱くなった。千鶴は箸を置き、瞬きをした。涙が出るのを止めようとした。止まらなかった。
泣いている理由が千鶴には分からなかった。嬉しいわけではなかった。肉が食べられたからと言って、何かが解決したわけではない。陣の足は戻るかどうか分からない。この部屋は来月も再来月も、ここのままだ。鉱子から連絡は来ない。それなのに、涙が出た。
千鶴は袖で目を拭った。また箸を取った。白菜を口に入れた。飲み込んだ。また涙が出た。また食べた。
食べながら、千鶴は考えた。40年間働いた。誰にも頭を下げ続けた。倉庫のトイレを磨いた。江口に謝り続けた。鉱子のために家を抵当に入れた。区役所の窓口で泣いた。鉱子のマンションの前で立ち続けた。陣の入院費の書類を何枚も書いた。それで今、ここにいる。四畳の部屋に一人で座って、床に置いた皿の牛肉を泣きながら食べている。
これが何なのか、千鶴には分からなかった。勝ちでも負けでもなかった。終わりでも始まりでもなかった。ただ、今日という日が、この形でここにあった。
皿を食べ終えた。千鶴は皿を持って台所に行き、洗った。水が冷たかった。手がかじかんだ。それでも丁寧に洗って拭いて、棚に戻した。
部屋に戻って布団を敷いた。横になって、天井を見た。ヒビが走っていた。千鶴は思った。翌朝も、ここから始まる。区役所に行くこと、病院に行くこと、陣のリハビリの進み具合を聞くこと、来月の支出を計算すること。やることはある。今日が終われば明日が来る。明日が来れば、またそこからやる。それだけのことだった。
窓の外で風が鳴った。一月の夜の風だった。千鶴は目を閉じた。すぐには眠れなかった。それでも、目は閉じたままにした。しばらくして、呼吸が少しだけ深くなった。部屋は静かだった。



