「高卒の契約社員が経理の数字に口を出すな。目障りなんだよ。」
経理部長の黒瀬がフロア中に響く声で私を怒鳴った。周りの社員たちがくすくすと笑う中、私は伝票の束を抱えてうつむいた。でも、この時の彼らは知らなかった。その伝票の山に、3億円が消えた痕跡が隠れていることを。
私は霧島しおり、26歳。鞄の中には、彫刻職人だった祖父が私のために掘ってくれた一本の印鑑がある。祖父はいつも言っていた。「一本の線で字は化ける。うわっつらだけ見るな。」その言葉の本当の意味を、私はこの数日後に思い知ることになる。
朝の8時、私は誰よりも早く経理部のフロアに入った。自分のデスクに積まれた伝票の束を見て、小さく息を吐く。この統合物産で契約社員として3年目を迎えていた。正社員たちが出社してくる頃には、私はもう半分近くの入力を終えている。それでも、その働きに誰かが気づいてくれることはなかった。
「霧島さん、これもお願い。私、今日ちょっと立て込んでるから。」
相馬が自分の担当の集計表を私の机にぽんと放り投げた。水口も島田も、面倒な作業はいつも当たり前のように私へ回してくる。私は「はい」とだけ答え、黙って引き受けた。文句を言ったところで、契約社員の立場が変わるわけではない。
ただ、数字と静かに向き合うこの時間だけは、不思議と嫌いではなかった。その日も、私はある取引先の請求書を打ち込みながら、ふと手を止めた。計上された金額が先月の単価とわずかにずれている。桁を追い直すと、担当者が単位を一つ間違えていた。放っておけば、会社は30万円を余計に払うことになる。私はそっと訂正のメモを添えて、相馬の机に書類を戻しておいた。こうして人知れず会社の損を防いだことは、これまで一度や二度ではなかった。
翌朝、相馬はそのメモを一瞥しただけで、礼の一つも口にしなかった。むしろ「余計なことをするな」と言いたげな目で私を睨んだだけだ。それでも私は構わなかった。祖父がいつも言っていた言葉が胸にあったからだ。
「見ている人がいなくても手を抜くな。仕事はな、お前自身を掘る仕事だ。」
その言葉だけを支えに、私は今日も黙って伝票をめくり続けた。
—
私がこれほど数字にこだわるのには理由があった。両親は私が幼い頃に事故で相次いで他界した。残された私と妹の芽衣を育ててくれたのは、彫刻職人の祖父だった。祖父は下町の小さな印鑑屋を営みながら、男手一つで私たち姉妹を育て上げた。朝から晩まで刃に向かい、一本の刀で印鑑に文字を掘り続ける人だった。
「一本の線で字は化ける。うわっつらだけ見るな。」
そう言いながら、祖父は私の手を取り、刀の運び方を根気よく教えてくれた。高校を出た私が大学へ進まなかったのは、芽衣を進学させてやりたかったからだ。その頃には祖父の体も少しずつ弱り始めていた。早くに社会へ出て、家計を支えたいという思いもあった。
私は働きながら祖父の看病をし、芽衣を大学へと送り出した。その選択を、私は一度も後悔したことがない。
祖父が最後に残してくれたものが二つある。一つは使い込まれた一本の彫刻刀。今も自宅の棚に大切に飾ってある。そしてもう一つが、祖父が私のためだけに掘ってくれた私の印鑑だった。
「しおりの名は、しおりだけのものだ。誰にも真似できない印を掘ってやる。」
祖父は私の名の一画に、ほんのわずかな返しをそっと忍ばせていた。それは職人にしか分からない、私だけの秘密の印。私はその印鑑をいつも小さな布に包んで持ち歩いていた。お守りのようなものだった。どんなに見下される日でも、この印を握れば背筋を伸ばしていられた。
祖父が丹込めて掘ってくれたこの名前を、汚すような生き方だけはしたくない。それが私のたった一つの誇りだった。
—
統合物産の経理部を実質的に牛耳っているのは、黒瀬部長だった。数字の裏も表も知り尽くし、役員たちでさえ彼には一目置いている。発注も精算も監査法人への対応も、全て黒瀬の一存で回っていた。
黒瀬に取り入っているのが、相馬たち三人の取り巻きだ。彼らは部長の機嫌を伺いながら、面倒な雑務を下へと押し流していた。そして、その一番下で受け止めているのが、契約社員の私だった。
「学歴もない契約社員は、黙って手を動かしてりゃいいんだよ。」
黒瀬は私と目が合うたびに、そう言い放った。決して逆らわない私は、彼らにとって都合よく切り捨てられる駒だったのだろう。けれど、私はこの会社のお金の流れを、誰よりも近くで見ていた。末端で伝票を捌く者にしか見えない景色というものが、確かにあったのだ。
ある日の昼休み、私は給湯室でそっと涙を拭っていた。午前中、相馬に大勢の前で書類の不備をなじられたばかりだった。本当は、そのミスを作ったのは相馬自身だったというのに。そこへ、子会社のパート社員の田村さんが入ってきた。
「しおりちゃん、無理してない?あなたは本当によくやってる。私はちゃんと見てるからね。」
田村さんだけは、いつも私の仕事ぶりを見ていてくれた。その一言で、詰まっていた息が少しだけ楽になった。
ちょうどその頃、社内では一つの噂が流れ始めていた。近く、道会長が全部署の代表を集め、緊急の会議を開くというのだ。一代でこの会社を築き上げた会長を、社員は皆恐れ敬っていた。その会議が私の運命をどれほど大きく動かすことになるのか。この時の私はまだ何も知らずにいた。
—
その週の金曜日、経理部の飲み会が開かれた。契約社員の私も雑用として、会場の予約や準備を任されていた。料理を取り分けていると、酒の入った相馬たちの声が耳に届いた。
「そういえば霧島さんって、実家が印鑑屋だったっけ?」
水口がニヤニヤしながら言うと、島田が大げさに笑い声をあげた。
「印鑑屋の孫が大手の経理とはね。まあ、印でも押してるのがお似合いだよ。」
相馬もグラスを傾けながら、追い打ちをかけてくる。
「大学も出てないのに、よく恥ずかしくないよな。育ちってのは隠せないもんだ。」
私は取り分けの手を止めた。自分が何を言われても耐えられる。だが、男手一つで私を育ててくれた祖父を、あの誇り高い職人の仕事を笑われることだけは許せなかった。それでも私は、震える唇を噛んでじっと黙っていた。ここで感情をぶつければ、彼らの思う壺になるだけだ。
その時、隣に座っていた田村さんがすっと立ち上がった。
「相馬さん、人の家族を笑うのは、いくらお酒の席でも感心しませんよ。」
場の空気が一瞬で凍りついた。相馬は小さく舌打ちをして、そっぽを向いた。
帰り道、田村さんは私の肩をそっと叩いてくれた。
「しおりちゃん、あんな人たちの言葉なんか間に受けちゃだめよ。あなたの仕事ぶりは、私がちゃんと見てるからね。」
その一言に、堪えていた涙がこぼれそうになった。冷たい会社の中で、たった一人でも自分を見てくれている人がいる。それだけで、私はまた明日も背筋を伸ばして立てる気がした。
家に帰ってから、私は棚に飾った祖父の彫刻刀にそっと指を触れた。おじいちゃん、私はまだ負けてないよ。
—
翌週、黒瀬部長が私を呼びつけた。彼の机の脇には、過去3年分の発注伝票がダンボールごと積み上げられていた。
「霧島さん、これ全部データ化して、取引先ごとに整理しといて。監査法人が来る前に片付けたいんだ。」
それは膨大で、誰もやりたがらない仕事だった。
「かしこまりました。取引先別に分類すればよろしいですね。」
黒瀬は一瞬、探るような目で私を見た。
「ああ、ただ整理するだけでいい。余計なことは考えなくていいからな。」
その念を押すような言い方が、なぜか少しだけ引っかかった。私はダンボールを自分の席へ運び、一枚ずつ丁寧に入力を始めた。祖父の教え通り、細部まで目を凝らしながら数字を追っていく。
何百枚もの伝票を打ち込むうち、ある取引先の名前が何度も出てくることに気づいた。「オフィスサポート千田」という、聞き慣れない会社だ。消耗品の発注ということになっているが、金額がどれも妙に切りがいい。しかも、請求の度にわずかな数字だけがほんの少しずつ違っている。
私は思わず首をかしげた。本当に物品を納めているのなら、金額はもっと細かくばらつくはずだ。けれど、その時の私はまだそれをただの違和感としか受け止めていなかった。契約社員の自分が、部長の担当する取引に口を挟めるはずもない。「余計なことは考えなくていい。」黒瀬のあの言葉が耳の奥でかすかに響いていた。
それでも私は、メモ帳の隅にその会社の名前だけをそっと書き留めておいた。なぜだか、そうしておかなければならない気がしたのだ。
—
それから数日後の朝、社内は普段とは違う空気に包まれていた。会長の新道が全部署の代表を集めた緊急会議を開くというのだ。新道会長は一代で統合物産をここまで育て上げた、社員なら誰もが恐れ敬う人物だった。
経理部からは黒瀬部長と相馬、それに水口が出席する予定になっていた。ところが、会議の直前に水口が取引先のトラブルで急遽外出することになった。
「各部必ず三名。頭数が足りないと会長の機嫌が悪いんだ。」
黒瀬は苛立たしげにフロアを見回し、その視線がふと私で止まった。
「霧島さん、あんたが来い。ただの顔合わせだ。」
相馬が露骨に顔をしかめた。
「部長、こいつを連れて行くんですか?契約社員ですよ。会長の前で恥でもかせたら。」
黒瀬は低い声で相馬を黙らせた。
「余計なことを喋らせなければいい。霧島さん、いいか?会議中は一言も口を開くな。何を聞かれても『分かりません』とだけ答えろ。」
私はただ静かに頷いた。「はい、承知しました。」
自分がただの人数合わせに過ぎないことは痛いほど分かっていた。それでも、あの会長がいる会議室に入れるというだけで、胸の奥がわずかに高鳴った。急いで一番きちんとしたブラウスに着替え、私は二人の後に着いて会議室へ向かった。
廊下を歩きながら、相馬は小声で何度も私に釘を刺してきた。
「いいか、本当に黙ってろよ。お前が妙な口を聞いたら、俺たちまで恥をかくんだからな。」
私は何も言い返さず、ただまっすぐ足を進めた。分厚い扉の前に立つと、自然と背筋が伸びる。この時の私はまだ想像もしていなかった。その扉の向こうで、耐え続けてきた日々が音を立てて壊れ始めることを。
—
会議室に入ると、中央の大きな円卓にすでに各部署の代表が着席していた。その一番奥に、新道会長が背筋を伸ばして座っている。白髪混じりの髪に鋭く光る目。一目で隻物ではないと分かる貫禄があった。私は黒瀬と相馬に続き、末席にそっと腰を下ろした。
会議は各部署の業績報告から始まった。やがて経理部の番が来て、相馬が立ち上がる。だが、会長を前にした緊張からか、彼の声はうわずり、資料の数字を読み違えてばかりだった。黒瀬が隣で顔を青くし、小声で必死に言葉を継いでいる。その不甲斐ない様子に、会長は静かに眉を潜めた。
一通りの報告が終わると、会議室には重い空気が漂っていた。すると、会長がふっと表情を柔らげて口を開いた。
「少し空気が硬いな。一つ、頭の体操と行こうか。」
彼は卓上に指で一文字を書く仕草をして見せた。
「田んぼの『田』。この字に一本だけ線を足すと、何という字になるかね。」
真っ先に手を上げたのは相馬だった。手柄を立てようとばかりに声を張り上げる。
「はい!会長であります!」
だが、会長はゆっくりと首を横に振った。
「違うなあ。もっとよく考えてみたまえ。」
水口も、島田も、書類のエリートたちも、口々に「由」と答えていく。けれど、会長はその度に首を振るばかりだった。
「一流大学を出た君たちが、たった一つの答えしか出せないのかね。」
会長の小さなため息が、静まり返った会議室に落ちた。相馬は真っ青になった顔のまま、「まだ由で間違いないはずだ」と小声でつぶやいている。
その時、私の頭の奥であの日の祖父の声がはっきりと蘇った。「一本の線を足す場所で、字はいくつにも化けるんだ。」
私は膝の上でそっと拳を握りしめた。黙っていろという黒瀬の言葉が頭をよぎる。けれど、この答えを知っているのはおそらくこの部屋で私だけだ。祖父が残してくれたものを、ここで飲み込むわけにはいかなかった。
私は静かに立ち上がった。一斉に全員の視線が私に突き刺さる。黒瀬が顔色を変え、相馬が私のブラウスの裾を強く引いた。「やめろ、座れ。」
だが、もう遅かった。
「会長、発言をお許しいただけますでしょうか?」
会長は面白そうに目を細め、私を見た。
「もうそこの君、答えが分かるのかね?言ってみなさい。」
私は震える声を抑え、まっすぐに会長を見つめた。
「はい。『田』に一本足す形は、一つではありません。上へ突き出せば『由』、下へ突き出せば『甲』、そして上下に貫けば『申』になります。答えは『由』『甲』『申』の三つです。」
言い終えた瞬間、会議室は水を打ったように静まり返った。黒瀬が真っ青な顔で立ち上がる。
「会長、申し訳ございません!この者はただの契約社員でして、出鱈目を…」
だが、次の瞬間、会長は腹の底から笑い声をあげ、力強く手を打ち鳴らした。
「見事だ。実に見事な答えだ。」
彼はまっすぐに私を見て、深く頷いた。
「君は、たった一つの『由』で満足しなかった。答えの裏に隠れた別の答えを、自分の力で探し当てた。物事を多面的に見る、その目こそ今の我が社に最も足りないものだ。」
そして、会長は立ち上がり、部屋中に響く声で宣言した。
「霧島君と言ったな。今日この時を持って、君を社長の特別補佐待遇として迎える。来週から役員室へ出社しなさい。」
その瞬間、私の頭の中は真っ白になった。黒瀬と相馬は、雷に打たれたようにその場に立ち尽くしていた。
—
会議が終わると、書類の役員たちが次々と私の元へ歩み寄ってきた。「素晴らしい発想だったよ。」「役員室でも頑張りなさい。」差し出される名刺を、私は震える手で受け取った。つい昨日まで雑用と侮辱に耐えるだけの契約社員だった私にである。
黒瀬と相馬は逃げるように足早に会議室を出ていった。すれ違い様、相馬が押し殺した声で吐き捨てた。
「調子に乗るなよ、契約社員が。」
その目には、憎しみと焦りがはっきりと滲んでいた。
フロアに戻ると、田村さんが駆け寄ってきて、私の手を両手で包んでくれた。
「しおりちゃん、聞いたわよ。本当に良かった。あなたの努力がやっと報われたのね。」
私は込み上げるものをこらえ、何度も頷いた。その夜、私は妹の芽衣に電話をかけた。この次第を話すと、芽衣は電話の向こうで泣き出した。
「お姉ちゃん、すごいよ。私、ずっとお姉ちゃんは特別な人だって信じてたもん。ありがとう。」
「芽衣が頑張ってくれてるから、お姉ちゃんも頑張れるんだよ。」
電話を切り、私は棚に飾った彫刻刀にそっと指を触れた。おじいちゃん、私、あなたの教えでここまで来られたよ。窓の外の夜景を眺めながら、私は静かに心に誓った。役員室で力をつけたら、必ずこの会社の理不尽な仕組みを変えてみせる。学歴だけで人を図るあんな冷たい職場を、二度と誰も苦しまなくていい場所に変えるのだと。
数日後、私は緊張しながら役員室の扉をくぐった。会長は穏やかに私を迎え、内部監査室長の白石さんを紹介してくれた。
「霧島君、これからは白石と共に、社内の数字に目を通してもらう。」
だが、この新しい日々の裏で、一つの不穏な影が静かに動き始めていることに、この時の私はまだ気づいていなかった。
—
役員室での仕事は、これまでとはまるで違っていた。社長直属の特別補佐として、私は各部署の予算や取引の流れに目を通すことになった。白石さんは物静かだが、驚くほど鋭い人だった。
「霧島さんは、現場で伝票を実際に触ってきた。数字の手触りを知っている。それは我々にはない強みだ。」
その言葉に背中を押され、私はある資料を白石さんに差し出した。以前メモ帳に書き留めた、「オフィスサポート千田」という取引先のことだった。
「この会社への発注だけ、どうしても違和感が拭えないんです。」
私は経理部にいた頃に気づいたことを、順を追って説明した。金額がどれも切りが良すぎること。現物を受け取った記録がどこにも残っていないこと。発注の決裁が全て黒瀬部長一人で完結していること。白石さんの表情が、みるみる険しくなっていった。
「これは放っておけないな。」
私たちはその取引先を静かに調べ始めた。すると、恐ろしい事実が次々と明らかになっていった。オフィスサポート千田は、登記上の住所が古い雑居ビルの一室で、社員も実態もないペーパーカンパニーだったのだ。そして、その会社の口座は黒瀬の身内の名義になっていた。
つまり、黒瀬はありもしない消耗品の発注をでっち上げ、会社のお金を自分の懐へ流し込んでいた。その総額は、この3年間で3億円近くに上っていた。
「一本の線を足す場所で字は化ける。」祖父の言葉が、またそっと胸に響いた。表面だけを見ていたら、決して見抜けなかっただろう。だが、隠された一本の線を、私は確かに見つけ出したのだ。
—
私と白石さんは証拠を固めて、会長に報告する準備を進めていた。だが、こちらの動きは黒瀬にも伝わっていたらしい。追い詰められた彼は、信じられない反撃に出た。
ある朝、私は突然会長室へ呼び出された。扉を開けると、そこには険しい顔の会長と、勝ち誇った表情の黒瀬、そして相馬が立っていた。黒瀬は数枚の書類を私の顔の前に突きつけた。
「会長、ご覧ください。架空発注で会社の金を横領していたのは、この霧島だったのです。」
私は言葉を失った。その書類は、オフィスサポート千田への発注伝票の控えだった。そして、決裁欄には私の名前と印がはっきりと押されていた。
「これは私の印ではありません。誰かが偽造したものです。」
相馬がすかさず畳みかけてくる。
「往生際が悪いぞ。この振り込み先の口座を調べさせてもらった。名義人はお前の親族だそうじゃないか。」
私は頭が真っ白になった。親族名義の口座。それは、黒瀬自身の手口そのものだった。彼らは自分たちの罪をそっくりそのまま私に着せようとしているのだ。契約社員上がりの私なら、いくらでも切り捨てられると踏んだのだろう。
「会長、信じてください。私はそんなことは絶対にしていません。」
だが、会長は氷のように冷たい目で私を見下ろした。
「霧島君、これが事実なら、私は君に心から失望することになる。」
その一言が、胸の奥深くに突き刺さった。昇進のきっかけをくれたあの会長にまで疑われている。足元が音もなく崩れ落ちていくような、暗い絶望が私を包み込んだ。
それでも、私は奥歯を噛みしめて顔を上げた。ここで泣き崩れてしまえば、彼らの筋書き通りになる。私にはまだ切れる札が一枚だけ残っていた。
私は震える足に力を込め、まっすぐに会長を見据えた。
「会長、その決裁印を、どうかよくご覧ください。」
私はバッグから一本の古い印鑑を取り出した。
「これが私の印鑑です。亡くなった祖父が、彫刻職人として掘ってくれたものです。」
祖父は私の名の一画に、他の誰にも真似できないごくわずかな返しを掘り込んでいた。それは職人にしか分からない、私だけの秘密の印。
「偽造された印鑑には、その返しがありません。祖父が掘った本物とは、明らかに別物です。」
黒瀬の顔がさっと強張った。それに、契約社員だった私に、そもそも発注の決裁権限などありませんでした。
まさにその時だった。会長室の扉が勢いよく開き、白石さんが分厚い報告書を手に飛び込んできた。
「会長、お待ちください!霧島さんは嵌められたのです!」
黒瀬が慌てて声を張り上げた。
「白石室長、何を根拠にそんなことを!」
白石さんは鋭い目で黒瀬を睨んだ。
「証拠なら、ここにあります。」
「この偽の発注伝票が作成されたのは、社内システムの記録によれば深夜の一時。使われた端末は、黒瀬部長、あなたのものです。」
さらに、白石さんはもう一枚の書類を会長に差し出した。
「そして、問題の口座の名義は霧島さんの親族ではありません。黒瀬部長、あなたの飯です。会社から消えた金は、全てこの口座を通じてあなたの元へ流れていました。」
その瞬間、黒瀬と相馬の顔からみるみる血の気が引いていった。黒瀬はガタガタと震えながら、隣の相馬に責任を押し付けようとした。
「違います!これは相馬が勝手にやったことで…」
すると、相馬も負けじと叫び返した。
「何を言うんですか!部長が指示したんじゃないですか!」
瑕をなすりつけ合う二人を、私はただ静かに見つめていた。
—
会長はゆっくりと立ち上がった。その全身から、静かな、しかし凍りつくような怒りが放たれていた。
「黒瀬、私はお前を信頼して、経理という会社の心臓を任せてきた。その私を、社員を、3年もの間欺き続けたのか。」
黒瀬は床に膝をつき、縋るように命乞いを始めた。
「会長、どうかお許しを!ほんの過ちがさしただけなのです!」
「過ちがさしただけだと?」
会長の声が、部屋の空気を低く震わせた。
「3億もの金を計画的に盗み続けておいて、その上、あろうことか罪もない社員にそれを着せようとした。人として最も許しがたい行為だ。」
会長は相馬たちにも冷たい視線を向けた。
「相馬、お前が霧島君の仕事を幾度も自分の手柄として報告していたことも、すでに調べがついている。水口、島田、見て見ぬふりをしたお前たちも同罪だ。」
三人は呆然とした顔で、ただ震えるばかりだった。
「お前たち四人は、本日付けで諭旨解雇とする。退職金は一文たりとも払わん。」
会長は内部監査の書類を静かに取り上げた。
「そして、これは社内の処分だけでは済まされない。横領、文書偽造、全て警察と司法の手に委ねる。」
ほどなくして、会長室に警備員と駆けつけた警察官が現れた。黒瀬は泣き叫びながら、引きずられるように連行されていった。
「私だけじゃない!こんな会社、みんな汚れてるんだ!」
相馬たちも、がっくりと項垂れ、力なく連れ去られていった。
—
後日、この横領事件は業界中に知れ渡った。黒瀬は実刑判決を受け、四人は二度とまともな会社に迎えられることはなかった。高い学歴を鼻にかけ、人を見下し続けた末路だった。
全てが終わり、会長室に静けさが戻った。新道会長は私の元へ歩み寄り、深く頭を下げた。
「霧島君、会社を代表して詫びる。君の誠実さを、私たちは危うく踏みにじるところだった。」
私は慌てて首を振った。会長は隣に立つ白石さんへ穏やかな視線を向けた。
「真っ先に君の潔白を信じたのは、この白石だ。内部監査室長として、社内に不正を出すため、ずっと数字を追い続けてくれていた。」
白石さんは少し照れたように口を開いた。
「霧島さんは、誰も見ていない残業の夜も、決して手を抜かなかった。伝票の一枚一枚に、あなたの真面目さが現れていましたよ。」
その言葉に、胸の奥がちくりと熱くなった。私はいつも持ち歩いている祖父の印鑑を、布の上からそっと握りしめた。
「しおり、仕事はな、お前自身を掘る仕事だ。恥じない生き方をしなさい。」
印鑑を握ったあの日の祖父の声が、確かに耳の奥に蘇る。会長はまっすぐに私を見て言った。
「霧島君、特別補佐は続けてもらう。その上で、今度は君の目で、この経理部を一から立て直してほしい。二度と誰かが理不尽を受けない場所に。」
私は込み上げる涙をこらえ、深く頷いた。窓の外にはあの朝と変わらない空が広がっていたけれど、俯いて歩いていた昨日とは、何もかもが違って見えた。祖父が掘ってくれたこの名前を、私はもうまっすぐ胸を張って名乗れる。



