「あの格好でよくここに来られましたね。うちの客層とは少々違うようですけれども。」
恵比寿の高級寿司店のカウンターで、白髪の老人と隣に寄り添う少女は、その言葉にただ静かに座っていた。少女の名は宮本ひまり、15歳。第一志望の高校に合格し、その祝いに祖父の吉一が連れてきてくれた店だった。
ひまりがその店を選んだのは、テレビの旅行番組で紹介されていたからだ。お任せコースは一人五万円以上。予約の取れない恵比寿の名店として知られていた。吉一は迷わず「行ってみよう」と言った。
その夜、二人はグレーのカーディガンと清楚なワンピース姿で、きらびやかな恵比寿の街を歩いた。店の引き戸を開けると、カウンターにはスーツ姿の男たちがいた。大生銀行青山支店の融資部長、白田慎司とその同僚たちだった。
大将の佐木は、吉一とひまりを見た瞬間、表情を変えた。明らかに値踏みするような目だった。
「うちはお任せコース専門ですが、ご紹介はございますか?」
吉一は穏やかな顔のまま答えた。
「予約はしていませんが、席が空いていれば二名お願いしたいのですが。」
すると白田がグラスを持ったまま口を挟んだ。
「はは。じじとガキがお任せコースですか。恵比寿の名店も随分落ちたものですね。」
同僚たちが笑いをこらえた。ひまりの顔が熱くなった。でも、じっと我慢した。
大将は続けた。
「うちはそういったゴミ分のお客様はちょっとお断りなんですよ。」
ひまりは唇を噛んだ。学校を理由に来るなと言われているようだった。
吉一は怒らなかった。ただ静かに言った。
「そうですか。それは残念ですね。では、どのようにすれば利用できますか?」
白田が再び笑った。
「笑える。その格好でお任せとは恐れ入りますね。間違いってわかんねえのかな?」
聞こえるように、わざとはっきりと。店内の視線が二人に集まった。誰も止めなかった。
ひまりは我慢の限界だった。
「じいじ、私もういいよ。帰ろう。」
吉一は静かにひまりの肩に手を置いた。
「ひまりは謝らなくていい。何も悪いことをしていない。」
その声は変わらず穏やかだった。しかし、吉一の目には、怒りでも悲しみでもない、決意に似た静かな光があった。
「お年配の方に言いにくいのですが、うちはTPOをわきまえた方にしかご案内できません。」
ひまりはじいじの手をぎゅっと握った。その手は大きくてゴツゴツしていて、温かかった。
吉一はゆっくりと立ち上がり、静かに一礼した。
「お邪魔しました。」
店を出る間際、白田の声が背中に追いかけてきた。
「ああ、恥ずかしかったですね。ちゃんと調べてから来ればいいのに。」
引き戸が静かに閉まった。ひまりには店の中から上がる笑い声が聞こえていた。
外に出ると、吉一はひまりの顔を覗き込んだ。
「ひまり、悔しかったか?」
「うん。すごく。」
「そうだな。じいじも悔しかった。ひまりが悔しい思いをしたことが、じいじは一番悔しい。」
ひまりは涙をこらえた。吉一はポケットから古いスマートフォンを取り出した。
「この店とあの銀行、潰そうか。」
その声は、まるで今日の夕飯を相談するように静かだった。ひまりは息を飲んだ。
「じいじ、無理しなくていい。」
「じいじがつけるけじめだ。」
吉一は迷いなく電話をかけた。
「霧川か。今夜少し時間があるか?」
「はい。会長。いつでもお時間を。」
吉一は淡々と状況を伝えた。最後にこう付け加えた。
「明朝八時に動いてくれ。ただし、私の名前は一切出すな。」
電話は一分足らずで終わった。ひまりはじっとその様子を見ていた。
「じいじ、本当にできるの?」
吉一は振り向いて微笑んだ。
「できるよ。でも、ひまりはそんなことより腹が減っただろう。」
ひまりは思わず笑った。
「うん。すごくお腹空いた。」
「じゃあうまいところに行こう。じいじが知ってる静かな店がある。」
その夜、二人は裏路地の小さな蕎麦屋でそばとおでんを食べた。大将は気さくに声をかけ、二人は一緒に笑った。紹介も格好の値踏みもここにはなかった。
翌朝、八時ちょうどに霧川から連絡があった。
「会長、確認が取れました。寿司佐木が入居するビルは、宮本不動産の管理物件です。賃貸契約は来月更新予定でした。」
「そうか。では、シクシと進めてくれ。私の名前は一切出すな。」
「承知しました。それと、白田慎司氏の所属する大生銀行ですが、宮本ホールディングスは現在一八・三%の株式を保有しています。筆頭株主です。」
吉一は小さく息を吐いた。
「そうか。では、手順通りに。」
日曜日の朝九時十五分、大将の佐木は仕込みを始めていた。九時二十二分、店の固定電話が鳴った。
「宮本不動産の担当者でございます。テナント契約に関する件でご連絡いたしました。来月以降の契約更新をお断りする運びとなりました。」
佐木の手が止まった。
「な、なんで急にそんなこと言われても、うちは十年以上ここで…」
「誠に恐れ入りますが、上からの指示でございます。詳細は書面でお送りします。」
電話は一方的に切れた。直後、馴染みの不動産コンサルタントからも着信が入った。
「佐木さん、宮本不動産って知ってますか? あそこは宮本ホールディングス系ですよ。総資産七兆円とも言われる巨大コングロマリッドです。下手に当たれば、業界ごと相手にしきれませんよ。」
佐木は昨夜のことを思い出した。あのカーディガンの老人と少女。まさかあの老人が――。
手が震え、何度も謝罪の電話をかけ直したが、誰も取り合ってくれなかった。
同じ朝、大生銀行青山支店にも電話が入っていた。
「統括部から直接だ。宮本ホールディングスから本部当てに連絡が入った。青山支店の白田融資部長の行動について調査依頼、および取引全面見直しの通知だ。」
支店長の顔が蒼白になった。
「何をした? 昨夜、恵比寿の飲食店で、同社筆頭株主に関わる人物への不適切な言動があったとのことだ。」
白田は最初、笑いながら答えた。
「ああ、帰りにちょっと寄った店で、おかしな老人と子供が来てたもんで、つい笑っちゃって…」
その声はだんだん小さくなった。電話の向こうの沈黙が異常に重かった。
一時間後、白田は人事部長の前に立たされていた。
「当面の間、自宅待機を命じる。懲戒委員会で審議する。」
「笑っただけでしょ? 俺は何も…」
「笑っただけで済むと思うな。相手は宮本ホールディングスの筆頭株主関与の人物だ。」
白田は何も言えなかった。同僚の田村も、すでに事情聴取を受けていた。
「部長がじじとガキは間違いだと言って、自分も一緒に笑ってしまいました。止めなかったのは、部長に逆らえませんでした。怖くて同調しました。」
「同調も責任だ。君の処分も検討する。」
接対先の担当者からも、同様の証言が届いていた。事実上の担当変更の申し入れだった。
銀行本部では緊急会議が開かれ、会長はただ一言だけ伝えた。
「謝罪は求めていない。ただし、公員の処分はそちらで責任を持ってください。」
自宅待機の部屋で、白田は宮本ホールディングスのサイトを開いた。創業者会長――宮本吉一。白髪が際立つ短い髪に穏やかな目元。あの老人そのものだった。
「う、嘘だろ…」
妻が心配そうに声をかけた。
「顔色が最悪よ。何があったの?」
「仕事のトラブルだ。俺が笑いすぎた。」
「笑いすぎただけで自宅待機なの?」
白田は深く俯いた。
その夜、吉一はひまりに一本だけ電話をした。
「ひまり、今日はゆっくり休みなさい。また会おうな。」
「うん。じいじもありがとう。昨日、一緒にいてくれて。じいじが大丈夫だって言ってくれたから、今日は眠れたよ。」
「それはよかった。」
電話を切った後、吉一は静かに目を閉じた。ひまりの「ありがとう」が一番の報酬だった。
翌週の懲戒委員会で、白田の処分が正式に決まった。
「本日付けで懲戒解雇とする。退職金は不支給だ。」
「待ってください! 減給で許してください。お願いします!」
「筆頭株主への侮辱だ。銀行の信用を落とした責任は、それだけでは済まない。」
「家族がいます。懲戒解雇だけは…」
「懲戒解雇になる前に、なぜ笑ったかを思い出せ。処分は覆らない。」
白田は椅子から崩れ落ちそうになった。誰も手を差し伸べなかった。
続いて田村。
「君は停職三ヶ月、係長への降格とする。」
「はい。反論ありません。止めなかった私が悪いです。」
「今後は二度と同調で人を傷つけるな。」
「はい。次は必ず止めます。」
一方、寿司佐木にはもう一つの嵐が来ていた。飲食業界のSNSに「恵比寿の名店で老人と子供を格好だけで追い出した」という目撃投稿が上がった。一晩で一万件を超える拡散。予約サイトには低評価が殺到した。テレビで「格式ある名店」と紹介されていた店が、一夜にして「差別店」と呼ばれていった。
ホールスタッフの倉田静香は震える手で画面を見た。
「あの夜、私、止められなかった。見て見ぬふりをした。あの子の目が今も残ってる。」
倉田は佐木に退職願を出した。
「私も連帯で責任を取ります。」
「お前までやめなくていい。悪いのは俺だ。」
「いいえ。止めなかった私も、同じ席にいた人間です。お願いします。あと一ヶ月だけ、せめて謝罪の機会をください。」
しかし、契約更新の拒否は覆らなかった。弁護士と不動産会社に掛け合っても、管理会社は「個別の経緯は把握しておりません」と繰り返すだけだった。
予約はキャンセルの連鎖で、磨き上げたカウンターは静まり返ったまま光っていた。十年以上守ってきた恵比寿の名店は、今月末を持って退去となった。
後日、佐木は別のオーナー店で雇われることになった。新しい店主は、佐木に言った。
「佐木さん、今日からの方針を復唱して。紹介のないお客様も丁寧にご案内する。見た目で断らない。言葉だけじゃ足りない。手で示せ。」
昼過ぎ、予約も紹介もない親子連れが恐る恐る入ってきた。
「すみません。予約もなくて、入れますか?」
「大丈夫です。どうぞ。こちらへ。おすすめからご案内します。」
「あ、ありがとうございます。高い店ばかりで怖くて…」
「怖がらなくて大丈夫です。今日はゆっくりしていってください。」
「今の顔を忘れるな。お前が昔、拒んだ顔だ。」
「はい。あの夜の自分は間違っていました。格式を立てに人を切るのは、職人の仕事じゃなかった。」
一方、白田は懲戒解雇の後、同業への就職面接を受けていた。
「前職の退職理由を正直に述べてください。」
「自分の軽率な言動です。公の場で老人と子供を笑いました。それで懲戒解雇となりました。」
「弁解はありません。あの夜の笑いは取り返しがつきません。」
「同席者は止めなかったのか?」
「同僚も笑いました。止めた人間は一人もいません。」
結果はすべて不採用だった。面接の度に、あの夜の噂が先回りしていた。
ある面接官が最後に言った。
「あなたはまだ銀行に戻れると思ってるの?」
「戻らない。戻れません。笑った自分がそこにいるから。」
「じゃあどうするの?」
「小さくてもいい。人を見下さない仕事からやり直します。」
「その言葉、嘘じゃないといいわね。」
「嘘にはしません。」
それから三週間後、宮本吉一とひまりは、下町の小さな寿司屋のカウンターに並んでいた。十二席だけの、年期の入った店だった。
吉一は迷わず「お任せで二人前」と言った。大将は「よっ」とだけ答えた。
「じいじ、ここよく来るの?」
「昔からな。うまいよ。」
「ここは紹介とかいらないんだね。」
「いらない。腹が減った人が来る店だ。」
ひまりがのりを一口食べて、目を丸くした。
「美味しい。すごく美味しい。」
「だろう。学校も紹介も関係ない。うまいものはうまい。」
「じいじ、あの夜のこと、結局どうなったの?」
「知らなくていい。終わったことだ。」
「うん。でも、じいじが静かだったの、覚えてる。私もそうありたい。」
「ちゃんと動いても、静かでいられるのが本当の強さだ。人の価値は、どう生きてきたかだ。見た目でも名前でも財産でもない。」
「誰かを見下したくなった時は、あの夜を思い出しなさい。」
「約束する。絶対に。」
「いい子だ。合格も今日の笑顔も、じいじの宝だよ。」
大将がウニを出した。ひまりの一番好きなネタだった。
「じいじ、ウニだ!」
「ほら、その顔が見たかったんだ。」
二人は肩を並べて笑い、タコや子も頼んだ。下町の夜は静かに更けていった。
白田はそれ以来、恵比寿の近くを通ることができなかった。あの夜、自分が笑ったカーディガンの老人の顔が、ふとした瞬間に浮かぶからだ。少なくとも白田はもう、笑って人を値踏みしようとはしなかった。
ひまりは合格した高校に通い始めた。入学式の日、ひまりは桜の下で祖父に電話をかけた。
「じいじ、今日から高校生だよ。」
「そうか。よく頑張ったな。」
「じいじの言う通り、静かに強く生きるよ。あの夜のことを忘れない。」
「うん。じいじも、ひまりの笑顔を忘れない。」
電話を切った後、ひまりは空を見上げた。春の青い空が広がっていた。あの夜、じいじが潰すと言った店も銀行も、もう二度と、誰も見下すことはない。ひまりはそう信じていた。



