「くみ子、今日から息子夫婦を同居させるからな。子供もいるし、部屋が足りない。お前は出ていけ。専業主婦の嫁に拒否権はない。ただ俺に従えばいいんだ」
散々私に家事と育児を担わせておいて、用が済んだらバイバイか。そう思って夫・シ太を見つめると、彼は記入済みの離婚届を差し出した。隣では息子のカズヤと嫁のミサが、クスクスと笑いながらその様子を眺めている。
ミサと会うのは久しぶりだった。結婚前の顔合わせでそりが合わないと感じてから、私はほとんど彼女に会っていなかった。夫だけは時々ミサに会っていて、そのせいかすっかり私に冷たくなってしまった。私がそのことを指摘しても、夫はいつもミサの肩を持ち、「ニートの役立たずが嫉妬するな」と私を悪者扱いする始末だった。
誰が聞いても、嫁に事前に一言も告げずに同居を決め、離婚までして追い出すなんて酷い仕打ちだと言うだろう。だが私は眉一つ動かさず、淡々と告げた。
「応じるわ。でもね、私はあなたの所有物じゃないの。だから素直に従う理由は一つもないわ。あくまで私は私の意思で離婚を選び、この家を出るのよ」
夫もカズヤもミサも、想定外の返答に目を丸くした。しかしすぐに全員揃って笑い始めた。
「何強がってんの? 母さん。専業主婦の規制中に何ができるんだか」
「みんなお母さんのこと、死なない政府くらいにしか思ってませんよ」
「自分の意思って言うけど、追い詰められて出ていくしかなくなっただけじゃない」
息子夫婦の言葉を聞いて、夫は一層大きな声で笑った。私は無表情で彼らをじっと眺める。何も知らずに好き放題言う様は滑稽だ。私は全てを知っているというのに。
「離婚届を書いたらすぐに荷物をまとめるんだぞ。俺たちはこれから国内の離島に一週間旅行へ行ってくるからな。間違っても電話とかしてくんなよ。戻る前に家の掃除も終わらせた上で退去しろ」
夫の言葉を合図に、彼らは荷物を持って出発した。生まれたばかりの男の子、私の孫でもあるヒロを抱えて。
「ごめんね、君。あなたには辛い思いをさせちゃうわね。でもあなたのためにも、おじいちゃんとパパとママには仕置きが必要だから許してね」
私を奴隷扱いしていた三人は、ヒロの世話も丸投げだった。それなのに感謝するどころか、みんなで専業主婦扱いして捨てていく。妻より息子の嫁を取る夫なんて、こちらから見切りをつけよう。私は荷造りをする一方で、洗面所にも足を向けた。今までの仕打ちにふさわしい復讐の準備に取りかかるのだった。
一週間後、新居で朝から私のスマホが鳴った。旅行から帰ってきた夫からの電話だ。通話ボタンを押した瞬間、幽霊に話しかけられたかのような怒鳴り声が聞こえてくる。
「おい、お前、一体何をやらかしたんだ!? 」
夫は相当頭に来ているようで、最初の一言以降は何と言っているか聞き取れないほど大声かつ早口で捲くし立てる。私はスマホを耳に当てるのを諦め、スピーカーにしてテーブルに置いた。
「落ち着いてちょうだい。何をそんなに怒っているの?」
「さっき自宅に帰ってきたら、扉に売却中って看板が下がってて中に入れなかったんだよ! やっと旅行から帰ってきたのに、踏んだり蹴ったりだ。どういうことだよ。説明しろ!」
声を荒げる夫に対して、私は穏やかに笑った。それが余計に気に障ったようで、また電話の音声が割れるほどに怒鳴り声をあげる。
「入れなくて当然よ。私が不動産屋に依頼して自宅を売却したの。だってあの家の名義は私だったでしょ? あなたは一般的な平均より収入が多いから、私を養っている感覚だったんでしょうね。でも実際には給料の多くを自分のために使っていたでしょ。例えばキャバクラとかね。生活費に当ててくれたのはほんの一部よ。おまけに独身時代からの借金まであって、マイホームを考え始めた時にローンも通らない状況だったのは驚いたわ。結局、親から譲り受けた家にそのまま住むことになって名義変更もしてないから、その家は私のものなの。自分の家をどうするかなんて私の勝手でしょ。みんなの荷物はナミが預かってるから安心して」
「そ、そういう問題じゃないだろう…」
夫の声に動揺が見られる。言われたことが図星だったのか、ずっと従順だった私が反抗的になったことが受け入れられないのか。おそらくは両方だろう。あまりの驚きに、続きの言葉も出てこないようだ。娘のナミの名前が出てきたことも意外だったのかもしれない。彼女はとても忙しい人で、結婚して家を出てからはなかなか会えないから。
「私はもうあなたとはやっていけないの。あなたに言われたからじゃなくて、私自身が離婚を望んでいたのよ。希望通り離婚届は出しておいたわ。これからは別々の人生を歩みましょう」
「悔しがるなよ。こっちは嬉しくてたまらないんだ! 後からやっぱりやめた、なんて泣きついてきても絶対撤回してやらねえからな!」
私の声には一切の動揺がない。それが悔しかったのか、夫は悔し紛れに捨て台詞を吐き、そのまま電話を切った。私はニヤリと笑みを浮かべる。この程度で逃がしはしない。復讐は始まったばかりなのだ。
私はすぐに夫からまた連絡が来ることを分かっていた。二週間後、その日は忙しくてなかなかスマホを触る時間がなかった。昼過ぎに確認すると、上から下までびっしりと夫からの着信履歴で埋まっている。湧き上がる気持ちを抑え、冷静を装ってから電話に出ると、できる限り早く夫と息子一家が暮らすアパートに来いということだった。ちょうど隣の部屋から娘が会いに来ていたので、一緒に指定されたアパートへと向かう。
部屋に足を踏み入れると、夫もカズヤもミサも、幽霊でも見るような目で私達を睨みつけてきた。
「これを見ろ。通信費が見知らぬ相手に支払われていると請求が来た。離婚前の生活費の支払いに使っていた口座の通帳を渡すんだ。お前一人の生活より、こっちの方が人数が多くて金がかかるんだよ。勝手に通帳を持っていかれたら困る」
「何か誤解があるようだけど。今はそんなことを話しに来たのではないわ。もっと重要な問題があるのよ」
私が話の流れを断つと、夫は目に見えてムッとした表情になった。昔から何でも自分の思い通りにならないと気が済まない人だ。かつては刺激しないように彼の機嫌を伺っていたが、今となってはなぜあんなに神経質に過ごしていたのか分からない。人に合わせてばかりの人生は生き苦しいばかりなのに。
「私が今日来たのはね、ナミから相談を受けたからなの。あなたたちと暮らした家を出ると決めた時、すぐ隣の部屋からナミが駆けつけてくれてね。そしたらナミの婚約者のサトシ君が落ち込んでるっていうの。サトシ君は結婚相談所のパーティーで知り合った女性と真剣交際していて、お相手が妊娠したらしいの。それだけならおめでたいことなんだけど、サトシ君は本当にその女性のことを思っていたから、とても高い婚約指輪を用意したし、相手から奨学金の返済が残ってると言われて200万円も用意したんですって。でも女性はそれらを受け取った直後、連絡が取れなくなってしまったの」
「…なんだ、それは」
「君のお相手が姿を消したのは妊娠二ヶ月の頃よ。これは今から一年と少し前のお話。ミサさん、あなたもそのくらいの時期にヒロを宿したんだったわね。無事に出産して、私とシ太もお祝いを渡したわ。昨日のことのように覚えてるわ。ヒロの父親は本当にカズヤなのかしら? サトシ君が愛した相手の名前もミサなのよ」
そこまで言うと、夫もカズヤも弾かれたように顔を上げた。ミサはついに笑みを失って、ブルブルと肩を震わせ始めている。私はじっと瞬きもせずにミサを見つめた。
「ま、待てよ。お前、何とんでもないこと言い出してんだ。ヒロは可愛い俺たちの孫だぞ。お前も毎日のように世話してたじゃないか。ヒロが本当は家族の繋がりのない他人だなんて。そんなことあるはずない」
「そうだよ。確かにヒロは目元も口元も俺には似てないけど、それはミサにそっくりだからだろ。俺の子供じゃないことにはならないじゃないか。それに俺は毎日この子のために必死になって働いてるんだ。今更親子じゃないとか言い出すなんて。あんた鬼だよ!」
必死になって私の言葉を否定する夫とカズヤを見て、ミサも素直に顔を上げる。すっかり余裕のある表情に戻っており、彼女が嘘をついている様子など微尘も見られない。
「お母さん、私のことが気に入らないからって、あんまりですよ。こんなひどい嘘をつくなんて。私は命がけでカズヤの子を産んだんですよ。それなのに根も葉もない疑いをかけるなんて。私、傷つきました」
彼女は目尻まで濡らしてくるではないか。大した女優っぷりだ。さすがは他人の子を無関係な人たちに育てさせるなんて無謀なことに挑戦するだけのことはある。
「でも、もうこれ以上騙されてやる気はないわ。ナミ、見せて」
私は目配せをして、ナミに一つの書類を出してもらった。黙ってそれを三人の前に差し出す。タイトルを読んだ夫とカズヤの顔色がさっと変わった。
「見てもらったら分かる通り、これはDNA鑑定の結果よ。今回、私は二組の親子鑑定を行ったわ。一人とカズヤ、そしてサトシ君とヒロのね。検体を入手するのは簡単だったわ。あなたたちは旅行に行って家を開けていたから、洗面所にあるカズヤの歯ブラシを拝借したの。ヒロに至っては、ずっと毎日のように私がお世話をしていたんだから、唾液の入手なんていつでもできたわね。そしてナミに協力してもらってサトシ君の毛髪を用意してもらった結果、カズヤとヒロに親子の繋がりは見られなかった。代わりにサトシ君とヒロの親子関係が認められたのよ。さあ、これでもう疑いは晴れたわね」
夫とカズヤは一斉にミサを振り返る。さすがの彼女もビクリと肩を震わせた。今度は完全に観念したらしい。ミサは顔も見えないくらい深く俯いた。
「どういうことなんだ、ミサちゃん? なぜ俺たちを騙すようなことをしたんだ?」
「俺は君のような可愛い子が娘になってくれて、本当に嬉しかったんだぞ。君に喜んでもらおうと、君が行きたいところには休みを取って連れて行ったし、欲しいものがあればできる限り買い与えてきたのに、その好意を裏切る気なのか?」
「俺、ずっとミサのことが好きで口説きまくってたけど、ミサは全然相手してくれなかったよな。それなのに、ある時から急に俺を受け入れてくれた。ちょっとして…その時すでにお腹にヒロがいて、俺に父親をさせるために近づいたのか。俺、疑ったこともなかった。だってミサは俺のことが世界で一番大好きって言ってくれたし、愛情表現だっていっぱいしてくれたじゃないか。だから俺もミサのためなら何でもしてあげたくて、付き合ってる頃からたくさんプレゼントしてきたのに…」
夫もカズヤも手のひらを返したように、今までミサにどれだけ貢いできたかを競うように攻め立てる。聞いている方は正直興ざめだ。確かに彼女は二人を騙していたが、夫もカズヤも盲目的に彼女を愛してお金を出していたのだから。私に対するこれまでの態度を顧みると、正直ざまあみろとしか思えない。
しかし、ここで黙って聞いていたミサが行動を起こした。なんと今度は大粒の涙をこぼしながら二人に無実を訴え始めたのだ。
「ヒロの父親のことを隠していてごめんなさい。でも決して悪意のある思いで黙っていたわけではないの。実は私は子供は望んでいなかったのに、サトシがあまりに切望するものだからつい流されて…本当に御懐妊だったの。とても不安になっていた時、カズヤに優しくしてもらったから。カズヤを愛している気持ちは本物なの。お父さんのことも大好き。本当よ、信じて」
演技歴20年のベテラン女優も脱帽しそうな名演である。さすがの私も目を見張ってしまった。夫とカズヤに至っては、目に見えてオロオロし始めて、二人で顔を見合わせながら無言でアイコンタクトを取り合っている。見ているこちらは情けないの一言に尽きる。ナミも同じ気持ちだったようで、隣から盛大なため息が聞こえた。
「全く、うちの男性陣の愚かさには嫌になるわね。なんだってそんな女の手のひらの上で転がされてるんだか」
「まあいいわ。彼女の化けの皮を完全にへし折ってあげる。これを見て」
ナミは自分のスマホをテーブルの上に置いた。画面には一人の男性が映っている。それを見てミサは大きくのけぞった。
「久しぶり。俺のこと覚えてる? サトシだよ。実はこの家に入った時からずっとナミさんとビデオ通話状態になっていたんだよね。だから今までの会話は全部聞こえてた。随分と俺のことを好き勝手に言ってくれたな、ミサ」
「何よ。あなたが現れたからって、状況は何も変わらないでしょ。だって私が言ったこととあなたがこれから主張すること、どちらが真実かなんて誰にも分からないんだから。私の方が有利なはずよ。顔を合わせたこともないような人と、一つ屋根の下で暮らしていた人。どっちが信用できるかなんて分かりきったことじゃない」
鼻息荒く捲くし立てるミサを見ながら、サトシは電話越しに低く笑い声をあげる。彼女は気づいていないのだろう。焦って本性を晒した彼女を目の当たりにして、夫とカズヤが引き気味になっていることを。
「お前さ、もっと頭使えよ。何の仕掛けもないのに、わざわざビデオ通話越しに現れるわけないだろ。皆さん、これを見てください」
サトシはスマホ越しにタブレットの映像を見せてきた。それはサトシがレストランを貸し切って、とても大きなダイヤのついた婚約指輪をミサに差し出し、プロポーズをする瞬間だった。ミサは嬉しそうに微笑んで指輪を受け取り、満面の笑顔で「二人で子育て頑張ろうね」と口にしている。さらに「200万も振り込んでくれてありがとう。これで奨学金を返せるわ」との音声も入っていた。
映像が終わると、重い沈黙だけがその場を支配した。ミサは真っ青を通り越して、顔が土色になっていた。
「これはストランの店員に撮ってもらった映像です。結婚式でこのプロポーズ映像を使いたいと思っていたから。残念ながら結婚式まではたどり着けませんでしたけどね」
サトシは画面越しにはっきりとミサを睨みつけた。ミサの額に大量の汗が滲んでいる。すると突然、バンと大きな音が響いた。夫がテーブルを思いきり叩きつけたのだ。
「ふざけるな! 今の映像を見て、どこが望まない妊娠だなんて言えるんだ! やっぱり俺たちを騙していたんだな、この詐欺師!」
「違う、違うの!」
ミサは今度は演技ではない涙を浮かべながら必死で首を振るが、もう彼女の言葉は彼らには届かない。人の信頼を裏切る行為をしたのだから当然だろう。
「子供はこちらで引き取るよ。俺の両親とも話はついている。断るなら結婚詐欺を訴えるつもりだ。もちろん指輪と一緒に渡したお金も返してもらうから。どうせ奨学金の返済っていうのも嘘なんだろ。騙された分はきっちりやり返すから。そのつもりでな」
「この子はダメ! 確かにあなたの子供ではあるけど、私の子供でもあるのよ。ヒロのことは愛してるの。お金は多めに払うわ。きっとカズヤが支払ってくれるはずだから」
突然自分の名前を出されて、カズヤは目を丸くする。これには私ですら驚いた。騙された上に、全く関係のないことでお金を出すように要求されるなんて。誰だってたまったものではない。しかも勝手に本来払うはずの額より上乗せされるなんて、暴挙以外の何者でもないだろう。
「なんで俺が他人の子供のために金を払わなきゃなんねんだよ。自分で巻いた種なんだから、自分で払えよ。むしろ俺もお前に慰謝料請求したいくらいだ。勝手に子供の父親にされてたんだからな」
カズヤは青筋を浮かべながら吐き捨てた。
「カズヤさん、その点に関してだけは同意します。俺たちの問題に巻き込んでしまってすみません。ミサ、つくづくお前は予想を上回ってくるな。もちろん悪い意味で。いい加減観念するんだ。これ以上わがままを言うなら、お前の両親にも全てを打ち明けるからな」
両親を引き合いに出されて、ミサはようやく身を引いた。サトシは口元を歪め、苦い表情を浮かべた。それから私とナミに礼を述べた。今後は両親と協力しながらヒロを育てていくそうだ。ミサが姿を消してから半年、食事も喉を通らず会社も休んでいたそうだが、これからは一生懸命働いて教育費を稼いでいくと約束してくれた。
サトシとの電話を終えると、家の中はお通夜状態だ。夫とカズヤは肩を落として沈み込んでいるし、ミサは両手で顔を覆いながら身を震わせている。夫にとっては初孫だったし、息子にとっては待望の第一子だったのだ。ヒロの誕生に心から感動したからこそ、手放すことになってショックを受けているのだろう。
しかし、ことの発端であるミサはすっかり開き直ってしまって、私にもナミにも好き放題言ってきた。
「ねえ、これで満足? せっかく私とお父さんとカズヤとヒロで幸せな家族を築いていたのに。幸せな家族をぶち壊して、あなたは楽しいの? ナミだったわね。あなたもあなたよ。どうして今更あんな過去の男を持ち出してきたのよ。彼とはもう終わっていたの。今はここが私の家なのよ。それなのに、あなたたち二人にメチャクチャにされた。絶対許さないんだから」
「おかしなことを言わないでちょうだい。家庭を壊したのは私ではなくあなたよ。しかも二つもね。シ太に取り入って私を追い出し、カズヤを傷つけた上で騙した。今こういう結末に至ったのは、全てあなたの自業自得よ。私やナミに当たるだなんて、図々しいにも程があるわ」
私が強めに言い返すと、彼女はぐっと唇を噛む。少しくらいは自分のせいでこうなったという自覚はあるのだろう。
これで静かになると思ったら、今度は夫とカズヤが騒ぎ始めた。
「いい加減にしてほしい。孫がいなくなるのは全部お前のせいだ。くみ子が余計なことを暴いたばっかりに。嘘で固められた生活だったとしても、俺もカズヤも幸せだったんだ。稼ぎもゼロの専業主婦が責任を取って、もう一度俺たちのために尽くせ」
「そうだよ。どうせ今も生活費をくれる人もいなくなって困ってるんだろ。それとも誰か恵んでくれる人でもいるのか。この孫もいない母さんみたいに、人並みのことさえできないどうしようもない人間は、みんなにそっぽを向かれる運命なんだ。面倒を見てくれるのは父さんだけだよ。今ならまた家政婦としてこの家に置いてあげるからさ。賢明な選択をしなよ」
「いや、結構です」
私がきっぱりと言い返すと、夫もカズヤも目が点になった。高速で何回か瞬きをした後、今度は瞬きの動きを止めてじっとこちらを見つめてくる。私に穴が開いてしまいそうなので即刻やめてもらいたい。
「本当にお金に困ってるなら、そもそもあんなに潔く離婚して家なんか飛び出していかないわよ。今更シ太の稼ぎを当てにするまでもないから、本当に賢明な選択ができたのよ。それに、わざわざこんな手狭なアパートになんて引っ越したくないわ。今、私、一億の豪邸に住んでるんだもの」
夫とカズヤは揃って素っ頓狂な声をあげた。あまりに間の抜けた顔だったので、隣でナミが吹き出している。私もできることならカメラに収めたかった。しかし一呼吸置くと、今度は二人同時に大笑いし始める。
「専業主婦が一億の豪邸? 夢を見るにも限度ってもんがあるだろう。頭の中お花畑がよ」
「いや、笑えたわ。腹が痛い。俺と父さんの稼ぎに合わせたって、そんな豪邸買えないのに。無力な母さんに何ができるの?」
「いやでも、俺たちの気分転換くらいはできたかな? 思いっきり笑ったおかげでちょっと気分がスッキリしたわ。そのお礼に、この家で家政婦始めたら月々100円くらいはお小遣いあげてもいいよ」
夫もカズヤも息をするように私を馬鹿にしてくるが、私は傷つく代わりに彼らを思いっきり鼻で笑ってやった。二人の笑い声の端がピクリと痙攣する。ざまあみろ。少しは馬鹿にされ続けた私の気持ちが分かっただろうか。
「でも私の反撃はまだまだこんなものではないわ。さっきからみんな私のことを何もできない専業主婦だって言うけど、そうじゃないのよ。私、実は料理家として働いているの。元々、妊娠するまで調理師として働いていたことはシ太も知っているわよね。栄養士の資格も持っているから、料理に関しては自分でも自信を持っていたの。育児中も子供が喜ぶ栄養満点のメニューをいくつも生み出したし、時短料理も研究したわ。ママ友の間でも私のレシピは大好評だったんだから」
「私も結婚してから、料理に関して何度も相談に乗ってもらってるわ。だって下手にネットでレシピを検索するより、お母さんに教わった方がずっと美味しくて簡単に作れるんだもの。まあ、お父さんとカズヤはお母さんの才能に全く関心がなかったみたいだけどね」
ナミも私の援護をしてくれる。彼女が実家を出てからは、私の味方をしてくれる人は誰もいなかったから、ナミの存在が本当に心強い。不覚にもちょっと涙が出そうになってしまった。私は軽く咳払いをしてもう一度気合いを入れ直す。
「どうせあなたたちは、料理なんて家事の一環だから誰でもできることだとでも思ってたんでしょうね。でもいざ私がいなくなると困ったんじゃない? ミサさんの料理は大して美味しくないって、シ太に愚痴ってたこと知ってるわよ。偉そうなこと言ってるけど、要はまた私の料理が食べたいから、ここに置いてやってもいいとか言ったんでしょ」
図星だったようで、二人は同時に私から目をそらした。ミサは料理に不満を持たれていたと知り、顔を真っ赤にしている。
「前々からお母さんの腕前はお金になると思ってたんだよね。だから就職してからアドバイスしたの。私もウェブデザイナーとして働いていたから、お母さんのためにホームページやSNSを作成して、管理も手伝ってたわ。流行りに乗って料理動画チャンネルも開設したら、これが大ヒットでね。お母さんのレシピはまたたく間に人気が出たの。今じゃ100万人以上の登録者がいて、再生回数も常に10万回以上。ばっちり収益化してるんだから。しかも出版社からも声がかかって、去年はとうとうレシピ本まで出たわ。合計すると利益はとっくにお父さんの稼ぎを超えてるの。今じゃ料理教室も開いて、SNS界隈ではかなり話題になってるんだから。今更相手に偉そうにしないで」
まさか自分の娘から給料について言及される日が来るとは思っていなかったようで、夫は石のように固まってしまった。ナミについてきてもらって本当に正解だった。時には本人が言うより、第三者が説明する方がずっと効果的なこともある。
それに夫がここまで打撃を受けたのには、私だけではなく夫自身の境遇にも原因がある。実は夫は数年前に突然子会社に出向することになり、給料が激変していたのだ。その理由も知っている私は、ニヤリと笑みを浮かべた。
「悔しいわよね。ずっと稼ぎがないって軽んじていた相手が、いつの間にか自分より裕福になっていたんだから。でも自分の稼ぎが少ないのは自業自得なところもあるでしょう。あなたは上司の妻に手を出したことがバレて、左遷されてしまったんだから。なぜそのことを私が知っているのかって? お金があるんだもの。大抵のことは調査できるわよ。それに、あなたの給料が減ってからは、我が家の生活費を負担していたのは私なんだから」
これにはカズヤもミサも目をまん丸に見開いた。カズヤに至っては顔色も悪くなっている。それもそうだろう。カズヤがシ太に同居を持ちかけたのは、生活費の節約のためだった。不況の煽りで給料が上がらないのだ。結婚前は実家暮らしだったから、同居すればその時の裕福な暮らしぶりを自分たちも味わえると思っていたのだろう。しかしそれは私がいればの話だ。実際には私が出ていったことで世帯収入は激変。ミサは同居と同時に仕事をやめてしまった上で育児の協力を主張するし、夫は生活費のために家に金を入れろと催促していた。その状況で今まで裕福だった理由が明かされたのだ。つまり今後はますます状況が悪くなっていくばかり。
私は満面の笑みでカズヤに告げた。
「昔みたいに贅沢な暮らしができると思わないことね」
カズヤはがっくりと項垂れた。三人それぞれが落ち込んでいる様子を見ながら、私はとどめを刺すべく、とある封筒を夫に渡す。疲れきった顔で中身を確認した夫は、その場で立ち上がって奇声を放った。
「なんだこれは!」
「見ての通り、浮気の事実確認と慰謝料の請求を綴った手紙よ。凝りずに既婚女性に手を出したんでしょ。相手の旦那さんが浮気に気づいて、シ太の旅行中にこの封筒を送ってきたのよ。運が悪かったわね。旦那さんが会社の取引先の人間だったなんて。私は直接手紙を見たわけじゃないけど、事前にSNS経由で旦那さんからメッセージをもらっているから、およそ何が書いてあるか知ってるわ。期限までに返答しなければ会社に連絡すると書かれているはずよ。その期限、昨日だけどね」
「なんで、もっと早く教えてくれなかったんだ!? 」
夫は涙目な状態で、叫び声もすっかり裏返っていた。いい年をした大人が、自分の行いのせいで痛い目にあっただけなのに泣くなんて、なんと情けない。
「あなた、自分で言ったじゃない。旅行中は電話するなって。だから連絡しなかったわ。きっとそのうち会社から事情を確認する電話が入るはずよ。二度目の事態だし、今度は外部の人が絡んでるから、解雇の可能性が高いんじゃないかしらね」
私が淡々と説明すると、夫は全ての気力を失ったかのように放心状態になってしまった。昔から借金を作るほど遊びにお金を使う人だったから、当然貯金なんて全然ない。働き先がなくなれば、今後苦しい生活を送ることが予想できたのだろう。いい気味だ。
夫が完全に使い物にならなくなったのを見て、ミサは素早くカズヤにすり寄った。
「ねえ、同居解消して二人でやり直そう。私、本当に申し訳なかったと思ってるの。反省してるから、もう一度だけチャンスをちょうだい」
この後に及んでまだやり直せると思っていることに驚きを隠せないが、そんな図々しいことをやってのけることはもう分かっている。私はカズヤが返答する前に、確実にミサをさらなる奈落の底へと突き落とすことにした。
「それにしても、ミサさんにもびっくりさせられたわ。まさか男性と揉め事が一度や二度じゃなかったなんて。初めて会った時からトラブルメーカーの予感はしていたけど、大当たりだったわね。私、あなたのこと探偵事務所に依頼して細かく調べてもらったの。一度に何人もの男性と付き合っていたなんて驚きよ。それも好きだからではなく、相手を騙してお金をもらってばかり。サトシ君のことも、人柄がいいから結婚もトントン拍子に進んで、家のことを押し付けた上で自分は好き放題に遊ぶつもりだったんでしょ。それで早めに妊娠という事実を作ったけれど、ちょうどカズヤが裕福な家庭で育ったと聞いて、乗り換えたのよね」
「ち、違う! そんな悪意のある思いで近づいたわけじゃないの。本当に真実の愛に目覚めただけよ。カズヤ、信じてちょうだい」
ミサはカズヤの服を掴んで縋り願したが、カズヤが彼女を見下ろす視線は氷のように冷たい。夫に至っては見向きもしておらず、ミサは完全に味方を失っていた。
「本当に勘弁してくれ。俺を馬鹿にするのもいい加減にしろ。もう離婚だ。この家から出て行ってくれ」
カズヤの言葉を合図に、夫も加勢して二人はその場でミサを家から追い出す。最後まで聞こえていた断末魔のような悲鳴も、扉を閉めれば静かになった。
すると夫とカズヤは満面の笑みで私に近づいてくる。
「これで邪魔者はいなくなったな」
「ようやく家族水入らずになった。さあ母さん、まずはご飯にしよう。久しぶりに母さんの美味しい料理が食べたいよ」
私に向かって差し出された二つの手を、私は容赦なく払いのけた。ナミが手早く私の荷物をまとめて担ってくれる。やっぱり頼りになるのはこの子だけだ。
「何、今更何もなかったような顔をしているの? 私と離れることを選んだのはあなたたち自身よ。もっと自分の言葉に責任を持ってちょうだい。それに、あなたたちは私が必要でも、私はあなたたちのことが不要なの。これからは男二人で助け合って暮らしてちょうだい。私も娘と助け合って暮らしていくから」
私は呆然と立ち尽くす彼らを残して、ナミと一緒にさっさとアパートを出た。
その後、カズヤとミサは正式に離婚。彼女の荷物は宅配で実家に送り返したらしい。そのことがきっかけで、ミサは今回の経緯を親に話さざるを得なくなり、結局勘当されてしまった。またカズヤは夫に対しても思うことがあったようで、同居を解消してアパートを出たらしい。夫は正式に会社を辞めさせられた。収入がなくなった上、取引先の男性と私から慰謝料を請求されたため、夫は借金に手を染めたとか。借りたところが悪かったらしく、今は利子の返済に追われているらしい。
「頼む。もう一度戻ってくれ。お金が必要なんだ。数日中に用意できなければ、大変なことになってしまう」
「お金のために再婚してくださいと言って、喜んで承諾する人がどこにいるのよ。あなた、稼ぎのない専業主婦は嫌いなんでしょ? 今、自分が専業主婦になろうとしているわよ。皮肉だけどね。私も寄生中は嫌いなの。あなたはもう離婚して他人になったわ。自分のことは自分でなんとかしてちょうだい」
きっぱりと断り、スマホも新しくしたことで、ようやく夫とも縁を切ることができた。
それから、カズヤは自分に人を見る目がなかったこと、そして私に甘えていたことを心から反省した。きちんと謝罪もしてくれたので、無事に和解。さらにナミの紹介で給料のいいところに転職ができたため、なんとか自力で生活できているようだ。
カズヤが落ち着いた頃、今度はナミが待望の第一子を授かった。私は孫の世話の手伝いで大忙し。娘夫婦に料理を振る舞うと、ナミの旦那もその美味しさと手際の良さにとても感動していた。彼は広告会社の人間と繋がりがあるため、後日テレビ局の料理番組を任せてもらえることになった。ますます仕事も順調な私は、年を取ってからの資金も十分に貯めてある。家族間の協力は大切だが、必要以上にナミたちにもたれかかりたくはないからだ。これからも自分にできることは自分でしながら、今の幸せな暮らしを楽しみたいと思う。



