「中卒君、原料10倍な。無理なら他者に売る」
その言葉が会議室に響いた瞬間、俺は逆に冷静になった。38歳、杉山。自動車用精密部品の製造工場で働き始めて18年。現場を叩き上げ、昨日、会社創業以来最年少で工場長に就任したばかりの俺に、仕入れ先の新担当者はそう言って見積もり書を突きつけた。
俺は中学を卒業してすぐ働き始めた。家が貧しかった。高校には行かず、働きながら独学で大検を取り、工学部のある大学の夜間コースに通い、卒業と同時に技術の資格を取った。そのままこの工場に就職し、現場一筋で13年。その後、社長の岩田から「地元の大学と組んで新素材を開発したい」と持ちかけられた。それが山岳連携プロジェクトの始まりで、俺は試作から生産ラインの設計まで主導してきた。
工場長就任の翌日、俺は30年来の付き合いである仕入れ先の会社へ挨拶に出かけた。作業着ではなく、普段あまり着ないスーツを着て。案内された応接室で待っていたのは俺より10歳近く若い男だった。
「今月着任した担当の落合です」
挨拶を終えると、俺は工場の規模とこれまでの取引実績を話し始めた。しかし落合は腕を組んだまま目も合わせず、時折ため息混じりに相槌を打つだけ。話が半ばに差しかかった頃、彼は不意に口を開いた。
「ああ、連絡手段なんですけど、ファックスはもう使ってないんですよ。メールかチャットツールでお願いできますか?うち完全にデジタル化してるんで」
まるで俺が時代遅れの現場人間だと決めつけているかのような言い方だった。そして話が一区切りした時、落合は顔を上げて言った。
「私は海外留学してMBAを取得しているんですがね。杉山さんはどちらの大学ですか?」
業務上、関係のない質問だ。だが答えないのも変だと思い、俺は正直に答えた。
「中学卒業後、大検を取って夜間の工学部を出ています」
落合の口元がほんのわずかに動いた。
「へえ。それなら中卒みたいなもんですよね」
含み笑いを含んだその声に、俺はこれまで積み上げてきた全てを「中卒」の一言で見下された気がした。深夜まで働いた後に大検の参考書を買い求めた夜、作業着のまま工学の教科書をめくった夜。そんな日々が頭をよぎったが、俺はその場を笑顔で去った。「まあこれからもよろしく」とだけ言って。
しかし工場長就任から間もなく、落合から連絡が入った。
「明日、時間あるよね。急ぎで確認したいことがあるから来てくれ」
挨拶とも命令とも取れる口調。要件の説明は一切ない。翌日、応接室に通されると、落合の隣に初めて見る顔があった。
「うちの野村営業部長です」
短い紹介の後、野村は黙って腕を組んだ。椅子に深く腰を沈め、こちらを見ようともしない。まるで話し合いではなく通告を言い渡す場に来たという顔つきだった。落合がテーブルに分厚い書類の束を置いた。
「相談したいのは来月からの単価の件だ」
書類を広げると、品目ごとの単価が並んでいた。数字に目を走らせた瞬間、俺は思った。桁が1つ多い。従来の10倍の単価だ。沈黙する俺に、落合は続けた。
「まあ、世界的に素材がシビアなのは知ってるよね。あるいはこの単価にしてもらえるかな」
国際的な需給の崩れは業界紙でも報じられている。しかしこの数字は市場の変動を踏まえた見直しではない。素材が手に入らなければ部品は作れない。他社に頼っても、今は同じような単価が出てくるだけ。落合はその2つの出口を読み切った上で10倍という数字を叩きつけてきたのだ。
そこへ、これまで黙っていた野村が口を開いた。
「これは弊社として正式に決定した話だ。ご理解いただきたい」
落ち着いた口調だが、覆す余地はないという響きがある。落合は野村の援護を受け、さらに語調を強めた。
「工場長になったばかりで大変だと思うが、うちもうちで大変なんだよ。分かるよね。まあ、早めに判断した方がお互いのためだ」
落合は書類をこちらへ押し出し、ペンを置いた。
「さっさとサインしてくれよ。中卒君。原料10倍な。無理なら他者に売る。言っておくが他社もシビアだぞ」
「中卒君」という言葉が頭の中で静かに反響した。この男の目には、俺は学歴のない工場長としか映っていない。だが、落合は知らない。俺がこの5年間、何のために動いてきたかを。俺は静かに椅子から立ち上がり、言い放った。
「では、取引契約は解除で」
落合の動きが止まった。野村も顔を上げた。2人の視線が俺に向く。俺はテーブルに広げられた見積もり書を手に取り、一瞥して会議室を出た。
工場には戻らず、本社ビルへ向かう。社長室のドアをノックして中に入ると、岩田は来客用ソファーに座り書類に目を通していた。
「社長、ご報告があります」
俺は勝者での出来事を端的に伝えた。単価を一方的に10倍に引き上げると通告されたこと、その場で契約解除を告げて見積もり書を持ち帰ったこと。岩田は一瞬目を見開いたが、すぐに表情を引き締め、電話を手にした。
「三浦、今すぐ部屋に来てくれ」
三浦は経営に関する数字を一手に預かる役員だ。山岳連携プロジェクトを始めて以来、予算配分も投資計画も全て三浦を通してきた。ほどなく三浦が社長室に入ってくる。俺はもう一度、先ほどのやり取りを最初から説明した。三浦は腕を組んで眉を寄せた。
「契約解除をもう告げてきたのか」
攻める色はないが、声には経営者としての慎重さが滲んでいる。
「はい。あの場で判断しました」
俺は短く答え、机の上に持ち帰った見積もり書を置いた。10倍の数字が並んだ書類を、岩田と三浦は黙って見つめた。先に口を開いたのは岩田だった。
「杉山、お前、こうなることを見越して動いてきたのか?」
「はい。ただ、今日あの場で切ると私自身思っていたわけではありません。ただ、いずれは勝者1本の依存から抜ける時が来ると、社長にも三浦さんにもこれまでご報告してきた通りです。切り替えへの準備はすでに整っています」
岩田が小さく頷く。説明の度に岩田は余計な口を挟まなかった。それがこの人の信頼の示し方だと、俺はいつからか理解している。
「分かった。やれ」
言葉は短かったが、俺が積み上げてきたものを丸ごと受け止めた一言だった。三浦が口を開いた。
「杉山、1つだけ確認させてくれ。勝者との交渉を続ける選択肢は本当にないのか?30年の付き合いだ。野村部長が出てきたなら、上の判断で条件を引き戻す余地もあるんじゃないか」
三浦の問いは、経営を預かるものとして当然のものだった。俺は見積もり書を指で示した。
「この10倍という数字は、書面で正式に通告されたものです。1人の暴走ではなく、野村部長は『弊社の正式決定』と言い切りました。口頭の値上げ要求と書面通告では重みが違います。それともう1つ、一方的に10倍を通告する行為は独占禁止法上の優越的地位の濫用に当たる可能性があります。この見積もり書を持って、まずはうちの法務に相談させてください。正式な契約解除の通知は内容証明で送る形が望ましいと考えています」
岩田は深く頷いた。三浦もようやく腕を解いて言った。
「杉山がそう言うなら進めてくれ」
俺は見積もり書をもう一度ポケットにしまい、社長室を出た。その足で同じビルにある法務のフロアへ向かい、法務部長に見積もり書を広げて事の経緯をそのまま伝えた。法務部長は見積もり書を入念に確認し、独占禁止法上の問題として正面から指摘できると断言した。さらに契約解除の通告を内容証明郵便で送る手続きをその場で進めてくれた。
3日後、工場の事務室に勝者からの電話が入った。事務員から「勝者の落合というものが俺と話したがっている」と伝えられ、俺は内線を取る。
「杉山さん、先日の単価の件で社内で改めて協議いたしました。条件を見直すご相談をさせていただきたいのですが」
3日前まで「無理なら他者に売る」と恫喝していた当人が、あっさり見直し対象に切り替えている。内容証明が届いたのだろう。
「すでに法務を通じて手続きを進めています」
俺はそれだけ告げて内線を切った。法的な手続きと並行して、工場の中では切り替えに向けた準備が動き始めていた。俺は地元大学の研究チームに連絡を入れ、生産ラインの最終調整に立ち会ってもらう日程を組んだ。試作段階を経て、半年前には量産設備の据え付けが完了しており、各工程の作業手順書も整備済みだった。稼働確認は研究チームの立ち合いのもと、数日にわたって慎重に進められた。加工精度、生産速度、不良品の発生率。それぞれの数値が目標の範囲に収まっていることを、工程ごとに1つずつ確認していく。
俺は従業員たちを集めて切り替えの全体像を説明した。
「来月から新素材の量産を本格的に立ち上げる。これまで使ってきた特殊素材の仕入れは止める」
試作段階で何度も工程を回してきた従業員たちは、表情を引き締めた。一方、勝者からの連絡は途切れなかった。落合と野村部長が入れ替わりながら、ほぼ毎日のように工場の事務室に電話が入る。俺は法務を通すよう取り次ぎを断った。1週間が過ぎ、2週間が経過する頃には電話の頻度はむしろ増していた。事務からの取り次ぎ報告には、相手の声が次第に切迫している様子が滲んでいる。勝者はこちらが折れて戻ってくると見込んでいたのだろう。ところが俺は一度も席を立たない。焦っているのは勝者の方なのだ。
俺が次に動いたのは、納入先の大手自動車部品メーカーの窓口だった。試作段階で新素材のサンプルを受け取り、従来の部品を上回る試験データを出してくれた数社のうち、評価が特に高かった2社の調達担当者に、俺は自ら電話を入れる。
「量産体制が整いました。正式な量産サンプルをお持ちします」
反応は早かった。どちらの担当者も、その日のうちに打ち合わせ日程を折り返しで送ってきた。俺は手帳に2件の予定を書き入れ、ペンを置いた。ここから先はこちらの段取りで進む。
契約解除の内容証明を送ってから1ヶ月後。勝者の野村から取引再開を打診する電話が事務所に入った。これまでは量産ラインの構築と受注対応に集中するため、勝者からの連絡は全て断ってきた。それが片付いた今なら、勝者と向き合ってもいい頃合いだろう。俺は「工場までお越しください」とだけ告げ、受話器を置いた。
翌日、野村と落合は揃って工場の正面玄関に現れた。俺は2人を応接室へ通し、テーブルを挟んで向かい合う。最初に口を開いたのは野村だった。
「先日の単価通告については、社内で改めて検討しております。価格条件を大幅に引き下げる用意がございます。30年の付き合いを、なんとかこの先も続けさせていただきたい」
言葉は丁寧でも、その声には契約をつなぎ止めたい必死さが滲んでいた。俺はゆっくりと口を開いた。
「弊社から御社の素材を仕入れる計画はもうありません」
野村が顔を上げた。
「杉山さん、それは…」
「お話を進める前に、まず確認させていただきたいことがあります」
俺は野村の言葉を遮り、隣の落合へ視線を移した。
「落合さん、1ヶ月前、あなたと最初にお会いした日のことを覚えていますか?」
落合は唇を結んだまま目を伏せている。
「あの日、あなたは私の経歴を聞き、『中卒みたいなもんですよね』とおっしゃった。私はあの一言であなたという人物を理解しました。取引相手の中身を見ようとせず、学歴という記号でしか人を見ない。2週間後の会議室では、私を中卒と嘲りながら笑いを含んだ声で10倍の単価を押し付けた」
俺はポケットからあの日持ち帰った見積もり書のコピーを取り出し、テーブルの上に置いた。
「この書類が何を意味するかお分かりですか?すでに私どもの法務部から、優越的地位の濫用にあたる事案として対応中です」
野村の顔がわずかに強張った。落合の指先が膝の上でかすかに震え始めている。
「落合さん、あなたは私を完全に見誤った。30年の取引依存を盾にすればサインせざるを得ない。他社調達も逼迫している。そう読んだのでしょう。あなたの読みでは、私はあの場で渋々ペンを取る人間だったはずだ」
落合は依然として一言も発さない。俺は続けた。
「今、この工場は御社から仕入れた素材を一切使っていません。我々が5年かけて開発した新素材で量産化の目途が立っています。時短系化合物と炭素繊維を複合した金属系複合材料です。従来の特殊鋼と同等以上の引っ張り強度、疲労強度を持ちながら、重量が約3割低い。自動車部品の軽量化規制が世界的に厳しくなる中、納入先各社が最も求めていた数値でした。地元大学の材料工学の研究室と共同開発し、試作段階で複数の大手部品メーカーから従来品を上回る評価をすでに得ています。御社から一方的な通告を受けた時点で、切り替えはすでに射程内に入っていました」
落合の表情がわずかに揺れる。俺は一息置き、声に重さを込めた。
「あなたにはお礼を申し上げます」
落合の目がかすかに見開かれた。
「あの10倍の通告書は、私にとって最高の贈り物でした。一社に原材料を依存し続けることがどれほど危ういか。それを我が社の幹部に証明するため、これ以上ない説得材料を持ち帰ることができた。この見積もり書があったからこそ、私は迷うことなく新素材への全面切り替えを決断できたのです。今この工場が何の問題もなく稼働できているのは、全てあの時のあなたの判断のおかげです。あなたがあの日礼儀正しく交渉していたら、私は今でも御社から素材を仕入れ続けていたかもしれません」
落合の顔から血の気が引いていくのが見えた。俺は視線を隣の野村へ移す。野村の喉がわずかに上下する。
「野村部長、あなたにも申し上げたいことがあります。営業部長として、部下の暴走にチェックをかけるのがあなたの役目だったはずです。ところがあなたは『社の正式決定だ』と言い切り、援護した。いや、正確には違うかもしれない。落合さんに『30年の依存関係があるから強気でいける』とあらかじめ伝えていたのではないですか。着任したばかりの担当者が、あれほど踏み込んだ通告を1人で決断できるとは思えません」
野村は口を開きかけては閉じることを繰り返し、ようやく途切れ途切れの言葉を出した。
「杉山さん、あれは…あの場では私としても…」
「どうだったとおっしゃりたいのですか?あの場で止められなかった部長が、契約を失った今になって頭を下げに来た。それが御社の組織判断の限界だということが、よくわかりました」
野村の唇がかすかに動いたが、もう声は出てこない。俺は立ち上がった。
「お引き取りください。今後、御社との取引が再開されることはありません」
野村と落合は何かを言いかけては言葉を飲み込むことを繰り返しながら、力なく立ち上がった。俺は応接室のドアを開け、2人を正面玄関まで見送る。車が敷地を出ていくのを見届けてから、俺は晴れやかな気分で事務所に戻った。
それから数ヶ月後、業界紙に勝者の名が載った。公正取引委員会が勝者による優越的地位の濫用を認定し、行政処分を受けたと報じられている。取引先への一方的な単価引き上げ要求が、複数社への調査で次々と明らかになったのだという。法務部が言うには、俺が持ち帰った見積もり書が調査の端緒になったとのことだ。記事を読みながら、俺はしばらく手を止めた。理は、時間がかかってもちゃんと通るものだ。
一方、工場の方は引き続き好調で、2社からの正式受注に加え、新たに3社から量産サンプルの提供依頼が届き、設備稼働率は前年の2倍近くに達している。ある日、本社に出向いた時、岩田から声をかけられた。
「杉山、あの時のお前の判断は正しかった」
それ以上は何もない。だが、その一言に、これまで歩んできた道のりの全てが詰まっていた。工場に戻り、製造ラインの脇に立つ。新素材の部品が次々と組み上がっていく。ふと、中学を出たばかりの自分が書店で大検の参考書を手に取った日のことが浮かぶ。あの日の自分に今日のこの景色を見せてやれたら、なんと声をかけられるだろうか。答えは出ない。俺はもう一度製造ラインに目をやり、明日の段取りに頭を切り替えるのだった。



