その縁談は最初から私に来たものよ――。
両親の金婚式の祝いの席で、妹のリサがカップを押しのけて声を張り上げた。店中の視線が集まる。私は返す言葉が見つからなかった。確かにこの縁談は元々リサに届いた話だった。私は妹の代わりにこの古びた喫茶店の店主のもとへ行ったのだ。
その時、隣にいた夫の光一さんがゆっくりと腰を上げた。穏やかな目のまま妹をまっすぐに見る。
「あなたが欲しいのは僕ではなく、このビルと毎月300万円の家賃収入ですよね」
リサの顔から血の気が引いていく。なぜ一度は自分から捨てた縁談を返せと言い出したのか。なぜ夫の口から家賃収入という言葉が出たのか。貧乏な店主に嫁いだはずの私の結婚には、妹の知らない事実がいくつも隠れていた。
話は一年前に戻る。
私はミカ。旧姓は田島。当時48歳で、顕在会社の経理を二十年以上続けていた。数字を扱う仕事は性に合っていた。趣味といえば読書くらい。休みの日に文庫本を一冊持って喫茶店で過ごす時間が、私のささやかな贅沢だった。
結婚はしていなかった。できなかったという方が正しいのかもしれない。二十代の頃に父が体を壊し、母は膝を悪くした。六つ下の妹のリサは家のことを一切しない。気づけば全部私の役目になっていた。付き合っていた人もいたが、家のことを優先するうちに縁が切れた。
「姉ちゃんって生きてて楽しいの?」
正月に顔を合わせたリサは開口一番そう言った。
「48歳で独身で休みの日は親の病院の送り迎えでしょ?私だったら耐えられない」
リサは当時42歳。化粧も服も派手で、SNSには高そうな料理やホテルの写真ばかり並べていた。独身なのは私と同じなのに、リサの中では自分だけが選ぶ側らしい。
「リサ、お姉ちゃんにお雑煮のお代わりもらって」
こたつから動かずに茶碗だけをこちらへ突き出す。私が黙って受け取ると、リサは笑った。
「やっぱりお姉ちゃんは気が利くわ。一生実家のお手伝いさんでいられるものね」
おせちの重箱を写真に撮っていたのもリサだった。詰めたのは全部私なのに。投稿には「手作りしました」と書いてあった。指摘する気も起きなかった。父は新聞から顔も上げなかった。
父は昔からリサに甘い。リサが幼い頃から欲しがるものは何でも買い与えてきた。就職してからも車の頭金やら旅行代やらこまごまと援助を続けている。この正月もリサは帰り際に父から白い封筒を受け取っていた。
「バッグの支払いが残っているの」
甘えた声で言えば、父の財布はいつでも開く。私は48年間、一度もそれをしたことがない。
「リサはまだ若いんだから好きにさせてやれ」
四十を過ぎた妹のどこが若いのか。私にはそう言いながら、家の用事を一つでも断ると露骨に不機嫌になる。去年の暮れに残業で買い出しに行けなかった時は、電話口で一時間近く説教をされた。
「長女のくせに」
母だけは台所で私にそっと頭を下げた。
「ごめんね、ミカ。あんたにばっかり苦労をかけて」
「いいのよ。お母さんは膝を治すことだけ考えて」
母の膝は年々悪くなっていた。週に一度の通院は私の車が頼りだった。待合室で母と並んで順番を待つ時間は嫌いではない。ただ、リサが母を病院へ送ったことは一度もない。その「一度もない」という事実だけが、小さな棘のように胸に残っていた。
二月の初め、夕食の後片付けをしていると実家の電話が鳴った。相手は土倉エツ子さん。両親の古い知人で、昔から世話焼きで知られる人だ。
「あら、お見合いのお話?ええ、それは是非」
電話を切った母は手を振り返り、弾んだ声で言った。
「リサに縁談ですって。駅前でお店をやっている方だそうよ」
台所で皿を拭きながら、私は他人事のように聞いていた。42の妹に来た縁談。生き遅れの姉には関係のない話。そのはずだった。
縁談の相手は駅前の喫茶店の店主で、名前は青柳光一さん。当時50歳。早くに両親をなくし、祖父が始めた店をついで一人で切り盛りしているという。結婚歴はなし。土倉さんは電話口で「人柄は私が保証します」と繰り返したそうだ。
「駅前でお店をやってる人かしら?駅前って土地代が高いのよね。もしかして資産家かも。会うだけ会ってあげてもいいけど」
「あげてもいい」という言い方がリサらしかった。リサは42歳になっても結婚相手の条件を下げなかった。年収は一千万円以上、職業は経営者か医者か、都心のマンション、それに清潔感のある外見。結婚相談所に登録した時も、希望欄に書き並べて担当者を呆れさせたと本人が笑い話にしていた。
数日後、リサは正式な見合いの前に相手の店を見ておくと言い出した。
「念のためよ。写真じゃ分からないことってあるでしょう」
車を出させられたのは私だった。平日の午後、半休を取らされてのことだ。駅前通りの一本裏。年期の入った雑居ビルの一階にその店はあった。「純喫茶コモレビ」。木の看板は日に焼けて色あせ、日除けの布はほつれている。窓越しに見える椅子は座面のビロードがすり切れていた。客は白髪の常連ばかりで、新聞を広げたおじいさんが窓際で居眠りをしている。店の脇の駐車場には古い軽自動車が一台止まっていた。
カウンターの奥に店主らしい男性が見えた。コーヒーの前掛けに洗いざらしのシャツ。柔和な物腰で年配の客に何か話しかけ、相手が笑うと釣られたように目尻を下げる。杖をついたおばあさんが席を立つと、すぐに寄ってきて扉を押さえた。
「いいお店じゃない」
私は素直にそう思ったけれど、助手席のリサは車から降りもしなかった。窓ガラス越しに三分ほど眺めて、はっきりと顔をしかめた。
「ないわ。まだ会ってもいないじゃない」
「見れば分かるわよ。こんな古びた喫茶店。絶対に赤字でしょ。朝から晩までコーヒーを運ぶ生活なんて無理。私、ああいう油と埃りの匂いが染みつく場所ってダメなの。店主って言っても、ただの貧乏な自営業じゃない。乗ってる車を見てよ。あの軽よ」
リサはスマホを店に向けて、写真を素早く撮った。
「友達に送ってあげるの。こんな縁談が来たのよって」
笑い物にするために写真を撮る神経が私には分からなかった。それからリサは鼻で笑い、化粧直しのコンパクトを開いた。
「50歳で結婚歴なしっていうのも怪しいのよね。どうせ女に相手にされてこなかったのよ。帰って時間の無駄だった」
その夜、リサは両親の前で言い放った。
「あの話、断る。正式なお見合いなんてするだけ無駄だから」
「会いもせずに断るのか」
さすがに父も渋い顔をした。土倉さんは父の幼馴染の娘に当たる人で、義理をかけない相手らしい。母も困り果てていた。
「先方にはもう写真もお渡ししてるのよ。一度だけでも会ってくれないと、土倉さんの顔が潰れちゃう」
「知らないわよ。私の人生でしょ」
リサは悪びれもせずソファーに寝転がり、スマホをいじり始めた。両親とリサの押し問答は三日続いた。そして四日目の晩、リサは不意に体を起こし、こちらへ視線をよこして思いついたように言った。
「だったらお姉ちゃんが行けばいいじゃない」
その場の空気が止まった。
「私の代わりにお見合いに出るの。それなら土倉さんの顔も立つでしょ」
「何を言ってるの、リサ」
「お姉ちゃん、相手もいないんだし。結婚できれば住む場所だけは手に入るでしょ」
悪気のない顔だった。それが却って刺さった。
「古い喫茶店の手伝いならお姉ちゃんにもできるんじゃない?実家のお手伝いで鍛えてるんだから」
父は腕を組んで唸っただけだった。母は何かを言いかけて口をつぐんだ。誰もリサを叱らない。この家ではいつもそうだ。48歳の姉を断り役の身代わりに差し出す。リサにとって私はその程度の駒なのだと、はっきり分かった夜だった。
それでも私が店へ足を運んだのは、リサの差し図に従ったからではない。会いもせずに断るという仕打ちがどうしても気になったからだ。写真まで渡しておいて、店を外から三分眺めて袖にする。相手はどれほど傷ついただろう。せめて謝罪だけでもと思った。
週末の午後、私は一人でコモレビの扉を押した。カウベルが鳴り、コーヒーの香りに包まれる。カウンターの奥から光一さんが顔を上げた。私が名乗ると、彼は驚いたように瞬きをして、それから丁寧に頭を下げた。
「わざわざお越しくださったんですか?」
「妹がその大変失礼なお断りの仕方をしまして」
言葉を選びながら詫びる私に、光一さんは穏やかに首を振った。
「結婚は無理にするものではありませんから、気になさらないでください。わざわざ謝りに来てくださっただけで十分です」
怒りも嫌味もなかった。それどころか、コーヒーを一杯ご馳走させてくださいと席を進めてくれた。窓際の席で私は店の中を眺めた。杖のおばあさんが席を立つと、光一さんはカウンターを出て荷物を席から入口まで運んだ。一人暮らしだという常連のおじいさんには包みを持たせている。「夕飯にどうぞ」と小声が聞こえた。リクルートスーツの学生にはお代わりを継ぎながら何かを話しかけ、学生は繰り返し礼を言って笑顔になった。レジの前では作業着姿の男性が光一さんに何か相談していた。
「二階で事務所をやっているのだが、空調の調子が悪い」
「明日、業者さんに見てもらいましょう」
喫茶店の店主がなぜビルの空調の相談を受けるのだろう。その時は大家さんに顔が効くのだろうと思っただけだった。
古い店だったけれど、椅子のすり切れも飴色に磨かれたカウンターも、通い続けた人の年月そのものだった。壁には古い写真が一枚だけ飾ってある。開店当時の店の前で若い男性が誇らしげに立っている白黒写真だった。
「長い間たくさんの人に愛されてきたお店なんですね」
ぽつりと感想を口にすると、光一さんの手が止まった。
「そんな風に言っていただいたのは初めてです。皆さん『古い店だね』とおっしゃるので」
照れたように笑う顔が、なんだか少年のようだった。
コーヒー代を受け取ってもらえなかったので、私は棚の豆を一袋買って店を出た。帰り道、私は不思議に思っていた。夕飯の包みも学生への励ましも、お金になることではない。あの値段であの豆のコーヒーを出して、商売として成り立つのだろうか。それなのに光一さんには切羽詰まった影がまるでなかった。
数日後、土倉さんから実家に電話があった。
「青柳さんがお姉様に一度お食事をとおっしゃっていますが、いかがでしょうか」
受話器を握ったまま、私は自分の胸が高鳴っていることに戸惑っていた。この誘いを受けたことをリサが後にどれだけ悔むことになるか、この時はまだ誰も知らない。
最初の食事は三月の初めだった。駅前の小さな洋食屋で、光一さんはハンバーグを頼んだ。気取らない人だと思った。
「ミカさんはどんな本を読まれるんですか?」
私が鞄に文庫本を入れているのに気づいて、彼はそう聞いた。そこからの二時間はあっという間だった。光一さんも本の虫だった。店のバックヤードには祖父の代からの本棚が眠っていて、祖父の存命中は常連さんに貸し出していたのだという。
それから私たちは月に何度か会うようになった。美術館を歩き、川を散歩し、閉店後の店で彼の入れるコーヒーを飲んだ。光一さんは自分のお金の話を一切しなかった。店の売上も蓄えもこれからの見通しも。私も聞かなかった。年収で人を選ぶリサのやり方をずっと横で見てきたからかもしれない。この人の値打ちはそんなところにはない。それだけは会うたびに確かになっていった。
四月の日曜には、二人で川辺の桜を歩いた。屋台で買った甘酒を飲み交わしながら、光一さんは常連さんたちの話をした。窓際で居眠りをするおじいさんは元教師で、祖父の代の貸出しノートに名前が残る一人であること。杖のおばあさんは開店当時からのお客で、今も会員であること。話の中心にはいつも人がいて、お金の話はやっぱり出てこなかった。
「裕福な暮らしはさせてあげられませんが」
一度だけ、光一さんが申し訳なさそうに言ったことがある。私は首を振った。
「贅沢がしたいなら、こんな年まで独身でいませんよ」
彼は目を丸くして、それから声を立てて笑った。笑ってから、独り言のように付け足した。
「お金は道具ですから、誰かのために回ってこそ、と祖父がよく言っていました」
その時はほほえましい店の哲学だと思って聞いていた。この言葉の本当の重みを知るのは、ずっと後のことだ。
五月の連休に、その空気を壊す夕食があった。連休中日の勤めから帰ると、実家の前に見慣れない白い車が止まっていた。居間にはリサと、初めて見る男性がいた。
「紹介するね。峰岸タクヤさん。会社を経営してるの」
タクヤさんは当時45歳。光沢のあるスーツに大きな腕時計。手土産は有名店の詰め合わせで、母は恐縮しきっていた。輸入雑貨の会社をやっていて、近いうちに二号店を出すのだとリサが代わりに自慢した。タクヤさんの話は景気が良かった。住まいはタワーマンションの上の方。外の白い車は会社の新型で700万はしたという。時計の話になると袖をまくって見せ、「これも車が買える値段です」と笑った。
「タクヤさんの会社って、何を輸入してるんですか?」
私が尋ねると、タクヤさんは一瞬だけ間を置いた。
「まあ、雑貨全般ですね。細かい話は企業秘密ってことで」
はぐらかすような答え方が引っかかったけれど、父の笑い声で流れていった。
その流れでリサがこちらへ矛先を向けた。
「そういえばお姉ちゃん、まだあの喫茶店の人と会ってるんだって」
箸が止まった。母から聞いたのだろう。リサはタクヤさんに聞こえよがしに続けた。
「私が断った縁談なのよ。駅前のボロボロの純喫茶。私が捨てたハズレを拾うなんて。お姉ちゃん、プライドないの?」
「リサ、そういうものじゃない」
母が制しても、リサは笑いを引っ込めなかった。
「だって本当のことだものね。タクヤさんもそう思うでしょう?」
「喫茶店ね。今時個人経営は厳しいですよ。うちの業界から見ても、ああいう店は五年持たないなあ」
会ったこともない人の店を、タクヤさんは断言した。
「もう48だ。選べる立場じゃないのは分かるが、何も貧乏くじを引くことはないだろう」
貧乏。この人たちは光一さんの何を知っているのだろう。店の椅子がどうして40年もすり切れるまで使われてきたのか、考えたこともないくせに。言い返す言葉は喉まで来ていたけれど、言えばリサが倍にして返してくる。長年の癖で、私はまた黙ってしまった。
悔しかったのはその後だ。台所で片付けをしていると、リサが入ってきて声を落とした。
「忠告してあげるけど、やめておきなよ。お姉ちゃんが向こうで女中をやらされるのが目に見えてる。で、店が潰れて実家に戻ってくるの。迷惑なのよね、それ」
女中。実家で二十年も働きをさせてきた妹が、よく言えたものだ。
「心配してくれてありがとう。でも私のことは私が決めるから」
「はいはい。強がっちゃって」
リサは冷蔵庫からデザートの箱を勝手に開けながら、軽口に続けた。
「まあいいわ。お姉ちゃんがボロ喫茶の奥さんで、私が社長夫人。並んだ時の格差が楽しみだもの。同窓会のネタにさせてもらうわね」
妹の目には、私はいつまで経っても引き立て役なのだった。
その夜、私は家を抜け出すようにしてコモレビへ向かった。閉店後の店で、光一さんは何も聞かずにコーヒーを入れてくれた。カップを置いた私の顔を見て、彼はぽつりと言った。
「何か辛いことがありましたね」
その一言で堰が切れた。気がつけば、私は泣いていた。48年分の何かが、あの言葉で緩んでしまった。光一さんはカウンター越しに待ってくれた。私が泣き止むのを、慰めもせず、そして湯の冷めたカップを下げながら、こう言った。
「ミカさん、私とこの店で一緒に生きていただけませんか?」
プロポーズの言葉に指輪も夜景もなかった。それが光一さんらしくて、私は笑いながらまた泣いた。
「はい、こちらこそよろしくお願いします」
声が震えて、それ以上は言えなかった。カウンターの向こうで光一さんが深く頭を下げる。顔を上げた時、彼の目もうるんでいた。反省期近くを別々に生きてきた者同士の、静かな婚約だった。
帰宅してから、ふと思い立ってタクヤさんの会社を検索してみた。教わった社名を打ち込んでも、それらしい会社は出てこない。妙な胸騒ぎがしたが、その時は深く考えなかった。この違和感の正体を、私はやがて嫌というほど知ることになる。
六月、実家での夕食時に告げた。
「光一さんと結婚することにしました。秋には式を挙げます」
最初に吹き出したのはリサだった。
「嘘でしょ?本当にあの店に嫁ぐの?」
テーブルに肘をついて、芝居がかったため息をつく。
「新婚なのに毎日コーヒーとトースト生活。よくやるわ」
「私は光一さんと一緒に暮らしたいと思ったの。それだけよ」
言い返したのはそれだけだった。リサは肩をすくめた。
「あ、いいんじゃない?お姉ちゃんには釣り合いが取れてて。あ、でも言っておくけど」
人差し指をこちらへ向ける。
「家賃も払えなくなって実家に泣きつかないでよ。あの店の稼ぎで二人暮らしなんて、どうせすぐ行き詰まるんだから」
父は祝いの言葉の代わりに条件を並べた。
「嫁に行っても、母さんの病院はこれまで通りお前が頼むぞ」
リサは左手の薬指を撫でて見せた。
「近いうちにタクヤさんと大事な話になりそうなの。準備で忙しいのよ」
指にはまだ何もついていない。それからリサは「頼みたい」を次々に並べた。式には出てほしくない。あんな店の人と親族席に並ぶのを、友達や親戚に見られたくないから。もし食事会をやるにしても、自分は呼ばないでほしい。行く価値がないから。その代わり、自分とタクヤさんの時は盛大にやるから、ご祝儀は姉妹価格で多めによろしく、と。
数日後、嫁入りの荷物を整理していると、私が自分の給料で買い換えてきた家の家電に付箋が張ってあるのに気づいた。台所の冷蔵庫、洗面所の洗濯機、電子レンジ。全部にリサの字で「置いていくこと」とある。
「向こうは店をやってるんだから、家電くらいあるでしょ。こっちで使うわ」
使うのは実家ではなくリサ自身らしい。買い換えたばかりの洗濯機は、そのままリサのマンションへ運ばれていった。文句を言う気力も湧かなかった。早くこの家を出よう。そう思う気持ちの方が強かった。
母だけが後で私の手を握った。
「ごめんね。こんな家で。青柳さんによろしく伝えて。あんたが選んだ人なら、お母さんは信じるから」
七月に土倉さんの仲介で両家の顔合わせをした。光一さん側の親族は、亡くなったご両親に代わって土倉さんが座った。祖父母もすでに他界していて、彼は本当に一人だった。光一さんは古いが手入れの行き届いた背広で現れ、両親に深く頭を下げた。
「ミカさんを大切にします。一生をかけてお約束します」
飾らない挨拶だった。父は品定めするような目で彼を眺め、悪びれもせずに言った。
「まあ、うちのミカは苦労性ですから、贅沢は言わんでしょう。店の方は、その、食べていけるくらいには回っとるんですか?」
「おかげ様で、細く長くやっております」
光一さんは穏やかに答えただけだった。
その帰り道、土倉さんが私を呼び止めた。
「ミカさん、一つだけお節介を言わせてね。光一さんはね、昔、結婚の話が壊れたことがあるの。相手の方の事情でね。それはそれは傷ついて、『もうご縁はいらない』と言っていた人なのよ。だからあなたのことを聞いた時、私は驚いたの。あの人がもう一度誰かと生きようと思ったんだって。それがどれだけのことか、覚えておいてあげてね」
結婚の話が壊れた。相手の方の事情。それ以上は土倉さんも語らなかった。帰りの電車で私はその言葉を反芻していた。あの穏やかな人の過去に、何があったのだろう。
式は九月の末に店の近くの小さな神社で挙げた。参列者は両親と土倉さん、店の常連さんが数人。リサは来なかった。タクヤさんと箱根に行く予定が入ったからと、前日に連絡があった。元教師のおじいさんはこの日ばかりは背広にネクタイで来てくれた。杖のおばあさんは涙で「マスターの花嫁さんを見るまで、死ねないと思っていたのよ」と私の手を握った。式の後の食事会は店を貸し切って開いた。常連さんたちの祝いの声で、古い店は一日中温かかった。
その夜、リサのSNSには箱根の高級旅館の写真が並んだ。露天風呂付きの部屋や和牛の会席。「タクヤさんと」という文章が添えてあった。姉の結婚式より旅行を選んだことへの言い訳のように思えた。最後に「本物の愛はお金の使い方に出るのよね。私は絶対に妥協しない」と。
妹の幸せの基準は、写真に撮れるものだけでできている。画面を閉じて、私はそっといいねを取り消した。
白無垢の代わりに、母が自分の花嫁衣装を仕立て直してくれた。荷物をまとめて実家を出る朝、母は玄関で深々と頭を下げた。
「長いことありがとうね」
それだけ言うのが精一杯という顔だった。私も涙をこらえるのに苦労した。
「病院にはちゃんと行くからね。安心して」
「バカね。新婚さんがこっちの心配なんかしないの」
そうして私は青柳ミカになった。食事会を終えた夕方、光一さんは私の荷物を軽自動車に積んでいった。
「じゃあ、うちに案内します」
うち。それが店の入っている雑居ビルの最上階だと聞いた時、私は正直身構えた。あの古いビルの上に住むのか。日当たりはどうだろう。お風呂は追い焚きができるのだろうか。
エレベーターは六階で止まった。古い雑居ビルだと思っていたから、箱の中が新しいことにまず驚いた。扉が開くと、フロアには一世帯分の玄関しかない。
「さあどうぞ」
光一さんが開けた扉の先に、私は立ち尽くした。広い。窓が大きい。磨かれたフローリングの床が廊下の奥まで続いて、リビングからは駅前の街並みが一望できた。作り付けの本棚が壁一面にあり、台所は使い込まれてはいるが手入れが行き届いている。六階の角部屋で、二方向から夕日が入った。
「ここが、うちですか?」
「祖父が住んでいた部屋なんです。私が引き継いで、水回りだけ直しました」
寝室が二つに書斎が一つ。お風呂は檜の木の香りがして、追い焚きどころか浴室乾燥まで付いていた。ボロアパートを覚悟していた私は、荷物のダンボールを抱えたまま暫く玄関から動けなかった。
その夜は二人で片付けをした。壁一面の本棚に光一さんの本と私の本を並べていく。彼の棚に私と同じ文庫が三冊もあって、私たちは声を上げて笑った。窓の外に駅前の明かりがまたたいていた。この景色を、私はまだ他人事のように眺めていた。
どう見ても、駅前の一等地の広さも作りも立派な住まいだった。こんな部屋を借りたら家賃はいくらになるのだろう。十五万か、二十万か。喫茶店の稼ぎでは重すぎるのではないか。おそらく大家さんとの長い付き合いで破格に借りているのだろう。私は勝手にそう結論付けた。だとしたら、なおさら甘えてばかりはいられない。私は会社をやめていない。48まで自分で食べてきたのだ。養われるだけの結婚をするつもりは、最初からなかった。
十月の給料日、私は会社の帰りに銀行へ寄って通帳を眺めながら考えた。家賃の相場は調べてある。駅前徒歩二分、六階角部屋、広さから見て月二十万は下らない。全額は無理でも、せめて気持ちの分は出したい。その夜、夕食の後片付けを終えてから、私は貯金通帳を食卓に置いた。
「光一さん、お金の話をさせてください」
「はい」
「家賃、五万円は私も払います。それから生活費も、できるだけ負担させてください」
精一杯の誠意のつもりだった。この部屋の家賃が二十万なら、五万円はその四分の一がやっと。それでも気持ちとして、受け取って欲しかった。光一さんは面食らった。
「家賃?」
「え、この部屋、高いでしょ?大家さんにいくら払ってるのか、私ちゃんと聞いておきたくて」
彼は口を開きかけ、閉じ、それから困ったように呟いた。
「ミカさん……言ってなくてすみません。この部屋は、うちの物なんです」
数秒、意味が分からなかった。
「『うちの物』というのは、私のものなんです。このビルも、下の駐車場も。大家は私です」
私は笑ってしまった。またそんな冗談を。
「冗談じゃないんです。ちょっと待っていてください」
光一さんは部屋を出て、店へ降りて行った。戻ってきた彼の手には、古い革の鞄があった。その下の金庫にしまってあるという、分厚い書類の綴りが出てくる。一番上の書類の表紙にはこう書いてあった。
『全部事項証明書 土地・建物』
当規模です。祖父の代からの、この土地と建物の権利の記録です。所有者の欄に、青柳光一の名前があった。祖父の名前から、父の名前へ。そして、光一さんへ。相続の記録が几帳面な文字の並びで綴っている。土地の取得の日付は昭和二十年代まで遡っていた。抵当権の欄には「抹消」の文字。借金は一円も残っていないという意味だ。
経理を二十年やってきた私には、それが本物であることが一目で分かってしまった。綴りの下には、隣の駐車場と裏手の土地の証明書も重なっていた。駅前の一等地が、何筆も全部この人の名義だった。
「だって、あなた軽自動車に乗って……」
「車は荷物が詰めれば十分ですから。服だっていつも同じシャツで、洗い替えは三枚あります」
真顔で答えるものだから、私は力が抜けて椅子に座り込んだ。妹が「貧乏な自営業」と切り捨てた人。父が「貧乏」と呼んだ縁談。その人は、駅前のビル一棟と土地の持ち主だった。
「……分かりました。事情は、ゆっくり聞かせてください。でも、一つだけ」
「はい」
「家賃の五万円は、それでも払わせてください。私の気持ちの問題なので」
光一さんは目をしばたかせ、それからおかしそうに、けれどどこか嬉しそうに頷いた。
「分かりました。では、毎月お預かりします」
ビルの持ち主に家賃を払う妻。世間から見れば滑稽だろう。それでも彼は笑い飛ばさずに、受け取ると言ってくれた。
ちょうどその晩、リサから電話があった。引っ越しから半月も経って、今頃思い出したように新居はどうかと、からかい半分の声だった。
「あのビルの上に住むんでしょ?六畳一間に二人とか、罰ゲームじゃない?」
「思ったより広いわよ」
「強がっちゃって。お風呂は付いてるの?まさかシャワーだけ」
「檜のお風呂よ」
「はいはい。見え張り。あのね、うちは今週タクヤさんとレストランの貸し切りだから。亭主が目の前で焼いてくれるお店。お姉ちゃんはコーヒーのお代わりでも楽しんでね」
ケタケタと笑い声が響く。知らないというのは、こんなにも間の抜けたことなのか。私は部屋の広い窓から夜の駅前を見下ろしながら、そうね、つましくやるわ、と答えて電話を切った。
言わなかったのは意地悪ではない。光一さんがこの事実を隠して生きてきたことには、きっと理由がある。それを聞くまでは、誰にも話すべきではないと思ったのだ。
翌朝、光一さんは食卓に湯気の立つコーヒーを二つ置いて、「話があります」と切り出した。
「隠すつもりはなかったんです。ただ、順番に聞いて欲しくて」
光一さんはコーヒーを一口飲んで、ゆっくり話し始めた。このビルは六階建てで、一階が喫茶コモレビ。二階と三階は貸し店舗と貸し事務所。居酒屋に税理士、学習塾、それに小さな工務店の事務所。四階と五階は賃貸の住宅で八世帯が暮らしている。六階がこの自宅。隣の平面駐車場と裏手の月極めの土地も、青柳家のものだという。
「祖父が戦後に屋台から始めて、コツコツ買い足した土地です。ビルを建てたのは父の代で、借入金は父の代に完済しています。ですから今は返済のない家賃が、そのまま残ります」
「あの……参考までに、おいくらくらい?」
経理の性で聞いてしまった。光一さんは湯気の向こうで、少しも自慢げでなく答えた。
「収入は、月に三百万円ほどです」
月に三百万。年にすれば三千六百万。私の年収の何倍という数字が、この古びたビルから毎月生まれている。書類の綴りには賃貸契約の一覧も挟まっていて、部屋番号と賃料が番号と並んでいた。暗算で足し算をしても、確かにその金額になった。
「どうして、それを隠して生きてきたんですか?」
光一さんはカップを置いた。十五年ほど前、彼にも縁談があった。見合いで出会った人と、結婚の話が進んだ。相手は明るい人で、古い店も面白がってくれた。けれど話が固まりかけた頃、先方が調査会社を使って青柳家の資産を調べた。ビルの価値、土地の広さ、家賃の額。それを知った途端、相手の態度が変わった。
「店は畳んで、ビルを建て替えましょう。喫茶店なんて儲からないでしょう」
彼女は当然のようにそう言った。ご両親は結婚前から部屋を一つ、弟さんの事務所に無償で貸して欲しいと要求してきた。
「私が愛されていたのではなく、資産が愛されていたんです。破談にした時、彼女は言いました。『あんな店しかない男。資産がなければ誰が選ぶの』と」
土倉さんの言っていた「壊れた結婚の話」。相手の方の事情というのは、これのことだったのだ。
「それからは、お見合いの話が来ても全部お断りしていました。今回だって、土倉さんがどうしてもと言うから、写真だけは、と。妹さんは会いもせずにお断りしましたけど……正直、ほっとしたくらいです。ところがその数日後に、お姉さんが謝りに来てくださった」
光一さんはそこで、ふっと目元を緩めた。
「店を三分で眺めて帰る人と、店のために頭を下げにくる人。同じ家で育った姉妹でも、人はこんなに違うのかと驚きました」
それ以来、彼は資産の話を一切しないと決めていた。店の主人としてだけ生きて、それでも隣に立ってくれる人がいるなら、その人と生きよう、と。
「ミカさんを試したわけではありません。ただ、財産を結婚の判断材料にして欲しくなかった。順番が後になったことは、謝ります」
深々と頭を下げる光一さんに、私は首を振った。この人は嘘をついていたのではない。四十年着続けた誠実を着て、ただ立っていただけだ。目の前の人柄を見ようとしなかった人たちが、勝手に素通りしていっただけのこと。
「怒っていません。でも、一つだけ聞かせてください。あのお金は、何に使っているんですか?」
光一さんは指を折って数え始めた。ビルの修繕の積み立て。地震に備えた補強工事の費用。店を手伝ってくれる人の給料。景気の悪い年のテナントさんの家賃の減額。いずれ来る建て替えのための蓄え。
「テナントさんの減額ですか?」
「二階の居酒屋さんは、ご主人が入院した年に半年分を無しにしました。塾の先生は開業の時、機材が揃うまで三ヶ月待ちました。皆さん、うちのビルで商売をしてくれている仲間ですから」
彼は革の鞄からもう一冊ノートを出した。『修繕計画』と書かれた大学ノートには、外壁の塗り替えは何年、給水管の交換は何年と、十年先までの予定と積み立て額が細かい字で並んでいた。『災害用』と書かれた通帳もあった。入居者や近所で困った人がいた時のためのお金だという。
帳簿を見れば、人が分かる。経理を長くやっていると、そう思うことがある。この帳簿の主は、自分のための欄だけがやけに薄かった。あの日、空調の相談を受けていた光一さんの姿を思い出した。大家に顔が効くどころではない。あの人自身が大家で、そしてこのビルの誰よりも自分のためにお金を使っていなかった。三百万という数字より、その使い道に私は胸を打たれていた。
その週末、光一さんは私をビルの中へ案内してくれた。二階の居酒屋では、ご主人が箸を置いて出てきた。
「あちらが噂の奥さんですか?オーナー」
「オーナー」。その呼び名に、私の方がまだ慣れない。三階の学習塾の先生は、開業の時の恩を私に語って聞かせた。四階の廊下では買い物帰りの住人に呼び止められ、五階では赤ちゃんを抱いた若い奥さんに頭を下げられた。皆、光一さんに親しみやすく、そして深い信頼を寄せていた。
「大家というのは、入居者さんの暮らしを預かる仕事です。祖父の受け売りですが」
月に一度、管理会社の小野寺さんという人が報告書を届けに来ることも知った。当時五十代の実直な人で、集金と修繕の窓口を任されている。書類の宛名には「青柳光一様 オーナー様」と。喫茶店のカウンターで、店主は毎月その報告書に目を通し、判を押す。あの光景の意味を、常連さんの誰も知らない。
「働くことは、これからも続けていいですか?私は養われるだけの暮らしは、性に合わなくて」
「もちろん。その代わり、休みの日にたまに店を手伝ってもらえたら嬉しいな」
最後に私たちは一つだけ取り決めをした。このことを実家には、私からは言わない。光一さんは「ミカさんにお任せします」と言った。言わないでおこう。お金の話をした途端態度が変わる人たちなので、自分の家族をそういう目で見るのは情けなかったけれど、光一さんの過去を聞いた後では、それが一番の守りだと分かっていた。彼は頷いて、コーヒーのお代わりをついでくれた。
そうして私は平日は経理の会社員、週末はコモレビの手伝いという暮らしを始めた。エプロンの結び方から焙煎の加減まで、覚えることは山ほどあった。そして、この店の奥には、四十年も眠ったままの宝があった。
その前に、一つだけ書いておきたいことがある。あの夜の申し出の後、私は宣言通り毎月五万円を光一さんに渡し続けた。ビルの持ち主に家賃を払う滑稽さは分かっていたが、これは私の筋の通し方だった。光一さんは笑いもせず、毎月きちんと受け取ってくれた。そのお金がどこへ行っていたのかを知るのは、ずっと先のことになる。
さて、書。宝というのは、店の奥の物置き部屋だった。祖父の代からの本棚が三本、誇りをかぶって眠っていた。文学全集に画集、古い映画の雑誌。貸出しノートには、何十年も前の常連さんたちの名前が鉛筆で残っている。
「光一さん、これ、店に出しましょう」
十月の定休日、私は思い切って提案した。物置き部屋を片付けて読書スペースにする。祖父の本棚を解放して、コーヒー一杯で好きなだけ本が読める席を作る。昔の良さは、何も買えません。出すだけです。
「祖父が喜びます。あの人は『店は町の縁側だ』と言っていましたから」
週末ごとに、二人で少しずつ手を入れた。壁には開店当時からの写真を年代順に飾った。白黒の祖父の写真から、昭和の店内、常連さんたちの集合写真まで。古いメニュー表が出てきた時は、二人で声を上げた。クリームソーダに、固いプリン。ホットケーキは銅板焼き。
「全部復活させましょう。今こういうのが、逆に新しいんです」
店を手伝ってくれているパートのエリちゃんが目を輝かせた。宮下エリちゃん、当時26歳。近所の生まれで、学生の頃からコモレビでアルバイトをしている子だ。
「奥さん、SNSやりましょう。うちの店、絶対に映えます」
エリちゃんが写真を撮り、私が文章を書いた。琥珀のクリームソーダ。銅板で膨らむホットケーキ。窓際で新聞を読む常連さんの後ろ姿。宣伝というより、店の日記のようなつもりで続けた。効果は秋に入る頃から出た。若い人たちがスマホを片手に扉を開けるようになったのだ。
「これが噂の固いプリンですか?レトロで素敵」
「この椅子、いつからあるんですか?」
「四十年です」
光一さんが答えると、店の中に小さな歓声が上がる。読書スペースは近くの大学の学生に見つかって、試験前には席が埋まった。土曜の午前には地域の読書会を開き、元教師のおじいさんが司会役に収まった。
「退職してから立てなかった教壇の分を取り返しとるんです」
おじいさんは冗談めかしたが、課題の本を配る手つきは本物の先生だった。杖のおばあさんは若いお客さんに店の歴史を語る係になり、張り切って通ってくる。
「あの椅子はね、ご先祖がね……」
始まると長いのだが、若い人たちは面白がって聞いていた。年末には地元の情報誌が小さな記事にしてくれた。「駅前の純喫茶、60年目の新しい風」という見出しの扱いだったが、記事を読んだという初めてのお客さんが年明けまで途切れなかった。光一さんは記事の切り抜きを、祖父の白黒写真の隣に貼った。
嬉しい再会もあった。年の暮れ、スーツ姿の青年がお礼の品を持って現れたのだ。就職活動の頃、光一さんにお代わりをついでもらっていた、あの学生さんだった。
「マスターのおかげで、内定をもらえた会社に春から正式に配属が決まりました」
「私は何もしていませんよ。あなたが頑張っただけです」
そう言いながら、光一さんはその日一番の顔で笑っていた。青年は今も週に一度、コーヒーを飲みに来る。読書会には思わぬ効き目もあった。一人暮らしの常連さんたちが、顔を合わせる約束の日を持てたことだ。元教師のおじいさんは課題の本を選ぶのに一週間かけるという。杖のおばあさんは、その日だけ口紅をさしてくる。
十二月の初めからは、月に一度、日曜の夕方に店を解放して、ご近所の持ち寄りの会も始めた。居酒屋のご主人が肉じゃがを、塾の先生が手土産を持ってくる。五階の若い奥さんは赤ちゃんを連れてきて、常連のおばあさんたちに代わる代わる抱かれていった。「町の縁側」という祖父の言葉通りの光景が、そこにあった。古い常連さんと新しいお客さんが、同じカウンターで肩を並べる。売上は前の年の倍になった。
「君が来てくれて、店だけでなく僕の人生まで明るくなった」
閉店後のカウンターで、光一さんがぽつりと漏らした。私は洗い物の手を止めずに笑った。
「大げさですよ」
「大げさなものか。祖父の本棚が、四十年ぶりに仕事をしてるんだ」
夫婦になってから、彼の言葉遣いは時々砕けたものになった。その距離の縮まり方が、私にはくすぐったくて嬉しかった。
一方その頃、リサからは時々メッセージが届いた。「まだお店潰れてないの?」「女中業は順調?」「私は今週もタクヤさんとホテルのアフタヌーンティー」。写真付きの近況自慢に嫌みを一さじ添えるのが、リサの流儀だ。店のSNSのことは知らないらしい。教える気もないので、順調にやっていた。
気になったのは、十二月の半ばに届いた一通だった。
「タクヤさんの新しい事業、私も応援することにしたの。妻になる人間が出資するのは当然でしょう」
出資。その二文字に、あの夜の検索結果が蘇った。実態の見えない会社。はぐらかされた質問。嫌な予感がして、「出資って、何のお金?」と返信したが、リサからの返事はそっけなかった。
「お姉ちゃんには関係ないでしょ。貧乏人は黙ってて」
関係ないなら、それでいい。ただ「出資」という言葉が、やがて妹の足元を崩す最初のひびになる。
正月、私は光一さんを連れて実家へ挨拶に行った。玄関を開けた瞬間から、リサの独壇場だった。
「見て見てお姉ちゃん。婚約指輪」
突き出された左手の薬指で、大粒の石が光っていた。タクヤさんとは年内に結婚の約束を交わしたのだという。
「1カラットよ。お姉ちゃんはもらった?」
「はあ」
「ごめん。喫茶店じゃ指輪は無理よね。豆でも数えてなさいってことね」
光一さんが隣にいるのに、リサは平気でそれを言った。光一さんは怒るでもなく、「おめでとうございます」と頭を下げた。その丁寧さすら、リサには弱みの証拠に見えたらしい。
「本当に低い旦那さんね。商売人だから、誰にでもへこへこするんだ」
おせちの席でもリサは止まらなかった。
「私はお姉ちゃんみたいに妥協しないの。結婚相手で女の人生は決まるのよ。タクヤさんの事業ね、今度は心斎橋に店舗を出すの。私も妻になる人間として応援してるの」
おせちを詰めたのは今年も私だった。嫁いだ後も、結局こうして実家の台所に立っている。母の通院の送り迎えも、宣言通り続けていた。リサは一度も変わらない。それどころか正月早々、こんなことを言った。
「お姉ちゃんがお嫁に行ってから、実家が不便で困るのよね。呼んだらすぐ来られる距離に住んでてよかったわ」
悪気なく人を嫌な気持ちにさせる才能だけは、年期が入っている。こたつから動かない娘に代わって、膝の悪い母が立ち上がろうとする。私はそれを押しとどめて、台所へ立った。何も変わらない。この家はいつまでも、何も変わらない。
タクヤさんは調子よく事業の話を膨らませた。輸入雑貨の二号店。次はカフェ業界への進出も考えている。投資家仲間からは利回りのいい案件だと太鼓判をもらっている、と。「仲間」「案件」「利回り」。神のない横文字の言葉が、宴の中を滑っていく。カフェという言葉のところで、タクヤさんはこちらへ目配せをした。
「先輩、コツを教えてくださいよ。ああいう昔ながらの店って、逆に原価が安く済むんでしょ?」
「原価の話は、お客さんの前ではしない主義です」
光一さんは笑顔のまま、それだけ返した。タクヤさんは引かなかった。
「駅前ってことは、あのビルの家賃も相当でしょう。よく回りますね。いくら払ってるんですか?」
「さあ、大家が良い人なので、助かっています」
嘘は一つも言っていない。私は吹き出しそうになるのをこらえた。タクヤさんは張り合いのない相手と見たのか、肩をすくめて父の盃に酒をついだ。
「お父さんもどうです?うちの事業に一口。身内価格で持ち分を回しますよ」
「わしはもう年金暮らしだからな」
父は笑って濁したが、まんざらでもない顔だった。私は膝の上で拳を握った。「持ち分」という言葉を、こんなに軽く口にする人を初めて見た。
台所で洗い物をしていると、母がそっと隣に立った。
「ミカ、お店、随分繁盛してるんですって。土倉さんから聞いたわよ。若い人がいっぱい来てるって」
「うん。おかげ様でね」
「お母さん、今度こっそり行こうかしら」
そこへリサが割り込んできた。
「ねえ、お母さんまであのボロ喫茶の肩を持つのはやめてよね。身内が客のふりして並ぶとか、痛いじゃない」
「痛いって、あんた……」
「大体お姉ちゃんもさ、48にもなって休みの日にエプロンつけて手伝って、恥ずかしくないの?私の友達に見られたらどうしよう。『姉は喫茶店の使用人です』って言えばいい?」
女中。使用人。リサの頭の中で働く人は、いつも下働きだ。
「リサ、お店を手伝うのは女中じゃなくて、店主の妻の仕事よ」
「はいはい。貧乏暇なし。私は結婚したら専業よ。タクヤさんが働かなくていいって言うから」
そのタクヤさんの財布から支払いが出たところを、私は一度も見たことがない。帰りに皆で初詣に寄った時も、お守り代を出したのはリサの財布だった。彼女のバッグの口からは、見慣れない札束が覗いていた。
帰り道、私は光一さんに小声で聞いた。
「ねえ、事業に出資って、普通は契約書とか事業計画書とかあるものよね」
「あるべきでしょうね。額にもよりますが」
「リサ、多分何も見てない」
胸騒ぎの正体を確かめたくて、私は仕事の昼休みに法務局へ行った。会社の登記なら誰でも取れる。経理の仕事で取引先の信用を調べる時、何十回とやってきたことだ。教わっていた社名で、法人の登記事項証明書を請求した。出てきた紙は、表紙が抜けるほど薄かった。
設立は一年半前。資本金は百万円。本店の住所は都心のレンタルオフィス。役員は峰岸タクヤ。ただ一人。二号店どころか、支店の登記すらない。
帰りの電車で、私は二つの登記を思い比べていた。昭和から積み上がった、うちの分厚い綴り。ペラリと一枚切りの、タクヤさんの紙。同じ登記でも、嘘のつけない場所にこそ、その人の正体は出る。登記は嘘をつかない。経理を二十年やって、骨身に染みていることだ。
まず母に電話をした。
「リスザル、出資はやめさせた方がいい。会社の実態が怪しい」
母は困ったように言った。
「お父さんがね、乗り気なのよ。リサの結婚相手になる人だから、応援してやらんと」
「お願いだから、お父さんのお金は出さないで。約束して」
母は重い声で「分かった」と答えた。その夜、私はリサに電話をかけた。会社の実態を調べたこと。出資はやめた方がいいこと。できるだけ穏やかに伝えたつもりだった。帰ってきたのは、突き刺すような笑い声だ。
「はあ?お姉ちゃん、タクヤさんを調べたの?それって嫉妬でしょう」
「嫉妬じゃなくて、心配してるの。役員はタクヤさん一人だけ。お店の登記もない。せめて出資は、お金が戻る形の契約書を」
「うるさいなあ。タクヤさんは大きな仕事をしてる人なの。書類がどうとか、細かい女は嫌われるのよ」
「リサ……」
「自分が失敗した結婚したからって、人の玉の輿の邪魔しないでくれる?貧乏喫茶の奥さんに心配されることなんて、何もないから。もう電話してこないで」
一方的に切られた電話を、私はしばらく見つめていた。隣で聞いていた光一さんが、低い声で言った。
「言うだけのことは、言いましたね」
「聞かない耳だと分かってても、言わずにいられなくて。それが姉というものでしょう」
「あとは、本人の宿題です」
忠告を鼻で笑ったことを、妹は翌月思い知ることになる。
崩壊は二月に音を立てて始まった。最初の知らせは、母からの電話だった。声がおかしかった。
「ミカ、リサがね、お金のことでタクヤさんと揉めてるみたいなの」
聞けば、年明けからタクヤさんの金の相談が増えていたという。二号店の内装費が足りない。取引先への支払いが先に来た。ほんの一時的に二百万だけ。リサは言われるまま、定期を崩して振り込んだ。それだけではなかった。後から分かったことだが、あの1カラットの婚約指輪も、支払いはリサのカードの分割払いだった。プロポーズの店の会計も、二人の旅行代も、気づけばリサ。彼氏に貢がせる女のはずが、いつの間にか貢ぐ側に回っていたのだ。
「貯金がもうないっていうのよ。あの子、六百万はあったはずなのに」
六百万。父が長年封筒で渡し続けてきたお金も含めての、六百万だろう。それが一年足らずで消えた。
「お父さんは、出してないでしょうね」
「ええ、あんたと約束したから断ったわ。そしたら急にうちへ寄りつかなくなって」
金にならないと分かった家には、もう用がないということだ。分かりやすいにもほどがある。とどめは、その二週間後に来た。リサが結婚の話を具体的に進めようとした夜、タクヤさんの態度が急に冷たくなった。式場の見学の約束はすっぽかされ、連絡は途切れがちになり、問い詰めたリサに彼はこう言い放ったという。
「金がないなら、君と一緒にいる意味もない」
そして彼は姿を消した。正確には、リサの前から消えて、別の女性の隣に現れた。SNSに写真が上がっていたのを、リサの友人が見つけた。新しい相手は、飲食店を数件持つ会社役員の一人だそうだ。
納得できないリサは、湾岸のタワーマンションへ押しかけた。ところが出てきたのは知らない住人だった。とっくに引き払われていたのだ。管理人に食い下がって分かったのは、あの部屋が短期契約で、名義もタクヤさんではなかったこと。連絡先は全て着信拒否。連絡アプリのアイコンも反応しなくなった。
「電話番号しか知らないのよ、あの子。住所も、実家も、本名かどうかすら」
母の言葉に、私は言葉を告げなかった。一年も結婚を語り合った相手の、住民票一つ確かめていなかったのだ。
残されたものを数えれば、惨憺たるものだった。タクヤさんに渡した出資金は、合わせて三百五十万。一年の交際で減っていた貯金は、定期の二百万を崩したところで底をつき、残りの百五十万はカードローンで工面していた。もちろん、契約書の一枚もない。そこへ婚約指輪や旅行や着物の分割払いの残りが、三百万近く。カードローンと分割払いを合わせて、四百五十万もの借金がリサの身の上に残った。
後を追うように、残りのメッキも剥がれていった。白い車は残価設定のローンで支払いが滞って、すぐに引き上げられたと聞く。輸入雑貨の会社は、私が登記で見た通りの空箱だった。二号店の計画など、初めから存在しなかったのだ。あの腕時計だけは本物だったらしいが、それも今頃はどこかの質屋だろう。
「弁護士さんには、相談したの?」
母の声は疲れきっていた。
「でもね、出資はリサが自分の意思でした振り込みだから、騙し取られたと証明するのは難しいって。返してもらう約束の書面もないし、裁判をしても、あの人に財産がないんじゃ、回収しようがないでしょうって」
法律は、寝ている人を助けてくれない。悔しいが、それが現実だった。
「私は悪くない。騙した男が悪い」
リサはそう繰り返すばかりだという。仕事はどうしているのかと聞けば、派遣の契約が年度末で切れるのに、更新の手続きもしていないという。返済の当てなど、どこにもなかった。
確かに一番悪いのはタクヤさんだ。それでも、思わずにはいられなかった。身なりと車と時計で人を選んだ結果が、これなのだ。リサはタクヤさんの中身を一度も見ようとしなかった。外側だけを愛して、外側だけの男に選ばれて、外側が剥がれたら捨てられた。店の外観だけを見て光一さんを切り捨てた時と同じ、その目でしか人を見てこなかった。
「お姉ちゃんは言ったからね。忠告したからね」――そう言ってやりたい気持ちがなかったと言えば嘘になる。けれど母の憔悴した声を聞いていると、その言葉は飲み込むしかなかった。
「お母さん、ご飯ちゃんと食べてる?」
「ええ。でもね、ミカ、お父さんがすっかり塞いじゃって」
「お母さんまで倒れたら、元も子もないでしょ。今度の通院の時、うちの店によって。美味しいものを食べさせてあげる」
「あんたって子は、妹の借金の話をしてるのに」
「妹の借金の話だからよ。お母さんが背負う話じゃないもの」
電話の向こうで、母が小さく鼻をすする音がした。父は、タクヤさんを玉の輿と持ち上げ、酒を酌み交わした自分を恥じているらしい。年に一度の心が動いた一瞬があっただけに、なおさらだろう。
リサのSNSは、二月の半ばを最後に更新が止まった。最後の投稿は、いつかのホテルのアフタヌーンティーの写真の使い回しだった。あの華やかな画面の裏で、預金残高だけが静かに底をついていたのだ。電話を切ってから、光一さんに一部始終を話した。彼は腕を組んで黙って聞き、最後に一言だけ言った。
「お金は、人を映す鏡ですね」
「私、忠告はしたのよ。それでも、こんなにあっけなく」
「人は見たいものしか見ませんから。特に、鏡の中の自分が一番綺麗に見える場所ではね」
光一さんの言葉は、時々怖いくらいに的を射る。十五年前、彼自身が資産という鏡に群がる人たちを見てきたからだろう。
三月に入って、母から改めて連絡が来た。両親の金婚式の祝いを、コモレビでやらせてもらえないかという。
「五十年の記念だから、家族で祝いたいの。リサも呼ぶけど、いいかしら」
断る理由はなかった。ただ、あの妹が今のコモレビを見た時、何が起きるのか。予感めいたものがなかったわけではない。その予感は、最悪の形で当たることになる。
金婚式の祝いは、三月の最後の日曜に開いた。店は昼過ぎから貸し切りにした。両親と土倉さん。それに両親の強い希望で、常連のおじいさん、おばあさんも数人加わった。祝いの相談の時、母が「もしや」と膝を打ったのだ。五十年前、交際の日に二人でコーヒーを飲んだのが、確か駅前の純喫茶だったという。店の名前までは覚えていなかったが、下見に来た母は一目で思い出した。「この店だ」と。母の記念日の思い出の店が、娘の嫁ぎ先になっていた。
「そんな縁もあるのかしら」
土倉さんがしみじみ言った。エリちゃんが腕によりをかけて、銅板のホットケーキに「50」の字をチョコレートで描いた。私は母の好きな桜餅を和菓子屋に頼み、光一さんは五十年前と同じ配合の深煎りのブレンドを再現した。
「当時の豆の銘柄が残っていましたから」
祖父の血は、こういう時に効を奏する。母は店に入るなり口元を押さえた。
「まあ、まあ、まあ。素敵じゃないの?」
壁の写真を一枚ずつ眺め、読書スペースの本棚に感動し、固いプリンに目を細めた。父は終始居心地が悪そうだったが、コーヒーを一口飲んで「うまいな」と小さく言った。光一さんへの、あの人なりの詫びなのかもしれなかった。
リサは一時間遅れて現れた。黒いコートに見覚えがあった。1カラットの指輪は、手放したはずだと思ったが、まだ指にあった。売るに売れないのか、意地なのか。
「何これ?パーティー?」
店内を見回したリサは、ふんと鼻を鳴らした。
「リニューアルしたんだって?ちょっと綺麗になっただけで、古い喫茶店には変わりないじゃない?よくこんなところで五十年のお祝いなんてやる気になるわね」
「リサ、座りなさい」
父に制められ、端の席に着いた。近くで見ると、化粧の下の顔色はさえなかった。爪の装飾も、根元が伸びている。それでもリサは、すり切れた意地を着たままだった。
「私、コーヒーは苦手なの。もっとちゃんとした店の、酸味のあるやつしか飲めないから」
「では、紅茶を入れますね」
エリちゃんが小憎らしくもなく流す。リサは返事もせず、運ばれたホットケーキを写真だけ撮って、一口も食べなかった。
「ねえ、お姉ちゃん、いつまでこの店続けるの?若い客なんて、どうせ一時のブームでしょ。飽きられたら終わりよ」
「そうならないように、みんなで工夫してるの」
「ふうん。まあ、頑張って。私、こういうしけた商売を見てるだけで気が滅入るけど」
祝いの席でこれなのだから、大した一貫性だ。祝いの間も、スマホから顔を上げたのは数えるほどだった。
ケーキの前に、両親が並んで頭を下げた。「五十年ありがとうございました」と母が言い、常連さんたちが拍手をした。父は五十年前と同じ深煎りを一口飲んで、目をしばたかせた。
「ああ。この味だ。親父さんの入れたやつだ」
「配合表の通りに入れました。祖父も喜んでいると思います」
光一さんの言葉に、父は何か言いかけて、黙って二口目を飲んだ。いい祝いだった。この後に起きたことさえなければ、完璧な日だった。
夕方近く、店の扉が控えめに開いた。
「お楽しみのところ、恐れ入ります。オーナー、月末のご報告だけ置かせてください」
小野寺さんだった。二十五日の報告書をその月のうちに届ける取り決めで、祝いの席とは知らずに来てしまったらしい。光一さんはカウンターの端で書類を受け取り、いつものように目を通して判を押した。そのやり取りを、リサの目が追っていた。書類はクリップで止められてカウンターの端に置かれた。一番上の紙の、タイトルの一行が見える位置だった。
『今月の家賃収入合計 約300万円』
リサの席は、ちょうどその斜め向かいだった。スマホを持つ手が止まる。細めた目が、紙の上を二度、三度と往復する。折しも二階の居酒屋のご主人が、祝いの花を持って降りてきた。
「オーナー、奥さん、お邪魔します。ご両親の五十年、おめでとうございます。いやあ、うちもこのビルには三十年もお世話になりっぱなしで」
「オーナーって、誰のこと?」
リサの声は嗄れていた。ご主人は屈託なく、カウンターの光一さんを手のひらで示した。
「あれってマスターですよ。このビル丸ごと青柳さんの持ち物だもの。駐車場も、裏の土地もね。この辺で青柳さんを知らないのは、もぐりだ」
店の時計の音が、やけに大きく聞こえた。リサはゆっくりと首を回し、光一さんを見た。古びた前掛けの、質素な店主を。それから壁の白黒写真を、磨かれたカウンターを、窓の外の駅前通りを、じんぐりと見た。目の色が、見る見る変わっていった。膝の上のスマホが、忙しなく動き始める。覗き見るつもりはなかったが、隣の席からは嫌でも見えた。検索の窓に「駅前 ビル 青柳」と打ち込まれていく。地図が出て、何かの画面が出て、指の動きが止まった。リサは電卓の画面を開いた。桁の多い数字を打っては消し、打っては消している。あの綴りを見た日の私と、やっていることは同じだった。ただ、浮かべている表情だけが決定的に違った。私は動けなくなったのに、妹は下の目釣りをするような顔をしていた。
やがてリサは席を立ち、「お手洗い」と言って奥へ消えた。戻ってきたのは、十分も経ってからだった。その間に裏で何をしていたのかは、後で分かることになる。
「ねえ」
リサが椅子を鳴らして立ち上がる。口元だけで笑って、猫なで声を出した。
「光一さんって呼んでも、いいかしら」
その瞬間、私は悟った。この祝いの日は、もう祝いの日では終わらない。
「光一さんって、本当に素敵な方よね。私、初めて会った時からそう思ってたの」
初めて会った時。それは正月に面と向かって「低い旦那さん」と吐き捨てた、あの日のことだろうか。誰もが耳を疑う中、リサは傲慢にもカウンターへ近づいていった。
「『光一さん』なんて、他人行儀よね。光一さん、疲れでしょ?私がお酌でもしましょうか?あ、ここ、コーヒーの店だっけ?」
光一さんの腕に伸びかけた手は、彼が盆を置く自然な動きで躱わされた。光一さんはカウンターの中から出てくると、私の隣の椅子に腰を下ろす。それでもリサはめげない。テーブルの脇まで追ってきて、声を一段甘くした。
「さっきの書類の方、管理会社さん?ふーん。そういう方がいらっしゃるのね。ビルの管理って大変でしょ?私、そういう事務のお仕事、得意なのよ」
さっきまで「しけた商売」と言っていた口が、「事務のお仕事得意なのよ」である。常連さんたちは怪訝に受け取り、エリちゃんは盆を抱えたまま固まっていた。
「本当は私、最初から光一さんのことが気になっていたのよ。ほら、縁談の話が来た時、真っ先に私が下見に行ったでしょ。あれって、気になってた証拠じゃない?」
下見という名の嘲笑だったことは、この場の全員が知っている。常連さんたちが顔を見合わせ、父の眉間に皺が寄った。
「ねえ、光一さん。言いにくいんだけど、正直に言うわね」
リサは髪を耳にかけ、上目遣いで続けた。
「お姉ちゃんより、私の方がこの店に似合うと思わない?接客業って、花があるでしょ?私、昔から人に注目される側だったから」
「ちょっと、あなた何を言ってるの?」
私が割って入ると、リサはくるりとこちらを向いた。さっきまでの猫なで声が、一段低くなった。
「お姉ちゃんこそ、何よ。大体、おかしいと思ってたのよね」
そして、あの言葉が来た。
「その縁談は、最初から私に来たものよ。お姉ちゃんは私の代わりだっただけでしょ。光一さんを返して」
「返して」。人ではなく、物の言い方だった。母が腰を浮かせ、土倉さんが息を飲む。私は返す言葉が見つからなかった。確かにこの縁談は、元々リサに届いた話だった。その事実だけを盾に、妹は一年で結婚を横取りしに来たのだ。
「リサ、あなた、なんてことを」
母が悲鳴のような声を上げた。父も立ち上がりかけたが、リサは聞く耳を持たなかった。
「だって、順番の話をしてるだけよ。縁談は私に来た。私が先。お姉ちゃんは代打。代打が得しちゃってるでしょ。指名した本人がお膳立てしたのに、代打がホームラン打って、返してって言ってるんだから、別れてくれるわよね。お姉ちゃんは元々おまけなんだし」
リサは畳みかけた。
「あ、それとね、四階か五階に空いてる部屋あるでしょ?私、今ちょっと住むところに困ってるの。家族なんだから、無料で出してくれてもいいわよね。それと、当面の生活のこともね、家族会議しましょうね。光一さん」
「リサ、いい加減にしないか!」
父の声は、もうリサには届かない。彼女は指を折って数え上げた。
「あとね、細かいことだけど、私、ちょっと立て替えてるお金があるの。悪い男に騙されたのよ。可哀想でしょ。家族になるんだから、そういうのも相談に乗ってもらえるわよね。ね、大家さんなんだし。それくらい」
部屋、生活費、借金、ついでに夫。妹の頭の中で、奢りの玉が景気よく転がっているのが見えるようだった。夫を取り替え、部屋をせびり、借金を片付けさせる。あの報告書の数字を見てから、まだ一時間も経っていない。その間に、ここまで描いたのだ。ある意味、天才的ですらあった。
その時、隣にいた夫の光一さんが、ゆっくりと腰を上げた。穏やかな目のまま、妹をまっすぐに見る。
「あなたが欲しいのは、僕ではなく、このビルと毎月三百万円の家賃収入ですよね」
リサの顔から血の気が引いていく。
「何のことだか」
「先ほどからあなたの目は、私ではなく、あの報告書ばかり見ています」
光一さんはカウンターを回り、レジの下の金庫から古い革の鞄を取り出した。分厚い書類の綴りが、祝いのテーブルの上に開かれる。『全部事項証明書 土地・建物』。元教師のおじいさんが眼鏡を持ち上げ、杖のおばあさんが小さく息を飲んだ。常連さんたちにとっても、マスターの正体を目の当たりにするのは初めてのことだった。
「当規模です。ご覧の通り、このビルと土地は、祖父の代からうちのものです。あなたが一年前に車から降りもせずに眺めて捨てた、古びた喫茶店の店主。それが私です」
リサは紙の上の名義の欄を、食い入るように見つめた。「青柳光一」「青柳光一」「青柳光一」。何度めくっても同じ名前が続く。
「嘘でしょ、こんなの。素人を騙す書き物」
すると、部屋の隅から遠慮がちな声が掛かった。まだ帰りそびれていた小野寺さんだった。
「あの、管理会社の者として申し上げますが、こちらの証明書は青柳オーナーの所有です。私どもが二十年、管理を預かっていますので」
「それに、登記は法務局で誰でも取れるのよ。疑うなら、自分で取ってみなさい」
そう付け加えたのは、私だ。おあつらえ向きに、書類の味方なら経理の姉の方が年期が入っている。
「嘘だって、あなた、軽自動車に……」
「車は、荷物が詰めれば十分ですので」
半年前の私と同じ問答を、妹は蒼白な顔でなぞっていた。ただし、私の時と違って、光一さんの目は笑っていなかった。
「それで、今何とおっしゃいましたか?『返して』と聞こえましたが」
店の空気が張り詰めた。リサの唇が震えて、言葉にならない音を漏らす。
「わ、私は、その……」
「あなたは一年前、私に会いもせずに縁談を断った。それ自体は構いません。ご縁とは、そういうものです。ですが、伺いたい」
光一さんは綴りの表紙をとん、と指で叩いた。
「あなたが返して欲しいのは、会ったこともなかった私ですか?それとも、たった今知ったこの資産の中身ですか?」
答えられるはずがなかった。答えは、この場の全員がとっくに知っていた。その静けさの中で、椅子を引く音が一つした。土倉さんが立ち上がっていた。
「土倉さん、私の口から言わせていただいても、いいかしら?」
土倉さんの声は穏やかで、それだけに逃げ場がなかった。
「一年前、あなたはこの縁談をお断りになった。それは構わないの。ご縁は無理するものではないから。でもね、あなたが私に寄越したお断りの言葉を、私は一言一句覚えていますよ」
土倉さんはリサを見据えたまま、ゆっくりと言った。
「『古びた喫茶店の男なんて、貧乏に決まっている』。そうおっしゃいましたね。それから、こうも。『姉がいないから、あんな店でも喜ぶはず。ハズレはお姉ちゃんにちょうどいい』」
店の中がざわめいた。母が両手で顔を覆う。リサは目を泳がせた。
「言ってない。そんな言い方はしてない」
土倉さんは着物の袖から、使い込んだ手帳を取り出した。老眼鏡をかけ、ページを繰る。
「二月十六日、夜八時過ぎ。リサさんからお電話。以下、そのまま読みますよ。『古びた喫茶店の男なんて、貧乏に決まってる。正式に会うだけ時間の無駄。ハズレは、相手がいないから、あんな店でも喜ぶはず。ハズレは、お姉ちゃんにちょうどいい』。以上」
「書いたからって、証拠になんて……」
「電話を切った後、あまりに悔しくて書き留めたの。仲人を三十年やってきて、あんなお断りは初めてでしたからね。それにね、リサさん」
土倉さんは老眼鏡を外し、まっすぐにリサを見た。
「あなた、今この場で、一体何様の話をする立場かしら?ついさっき、みんなの前で何をおっしゃったか、もうお忘れ?」
土倉さんは続けた。断られた話をそのまま伝えれば、光一さんが傷つく。だから言葉を選んで伝えたこと。それでも光一さんは察していたこと。その上で、謝りに来た姉の方の人柄に触れて、「もう一度だけ人を信じてみる」と言ったこと。
「あなたが捨てた縁談を、お姉さんが拾ったんじゃありませんよ。あなたが投げ捨てた人の値打ちを、お姉さんだけが見抜いたの。それだけの話です」
仲人を三十年勤めた人の言葉には、判決のような重みがあった。そこへ、盆を胸に抱えたエリちゃんが、声を殺したように口を開いた。
「あの、私からも、いいですか?」
エリちゃんはリサを指差しそうになる手を抑えて、震える声で言った。
「さっき、台所で、私、その方に言われました。『私は本当はここの奥さんになるはずだった女なの』って。『空いてる部屋を使わせてもらうから、鍵の場所を教えて』って。それから、小野寺さんにも同じことを言って、家賃の額をしつこく聞いてたって、小野寺さんが気まずそうに頷きました」
祝いの席の裏で、リサはもう住人気取りで動き回っていたのだ。
「違うの。あれは、その、冗談で」
「エリちゃんは、笑っていませんでしたよ。台所の隅で、真っ青になって立っていました」
私が言うと、エリちゃんは目を潤ませて頷いた。26歳の子を脅すようにして窓際へ追い込み、鍵の場所を聞き出そうとした。それが、妹の言う「冗談」だった。
「リサ、あなたって人は!」
父が怒鳴った。母は椅子に沈み込むように座って、口元を扇子で押さえていた。五十年の祝いの日に、末娘の正体を最前列で見せられている。二人の姿から目をそらしたくなるほど、それは残酷な光景だった。
リサは追い詰められた顔で店内を見回し、最後に私を睨んだ。
「何よ、みんなして私を悪者にして。お姉ちゃんが黙って男を取ったのが先でしょ」
もう限界だった。私は妹の正面に立った。48年間、一度も言えなかった言葉を、一つずつ口に出す。
「私はあなたから光一さんを奪ってない。あなたが店の外観だけを見て、会いもせずに自分から断ったの、忘れたの?『私の代わりに行けばいい』と言ったのはあなたよ。『相手もいないんだし、住む場所だけは手に入るでしょ』って」
「それは、だって、あの時は……」
「あの時は、価値がないと思ったのよね。だから捨てた。価値があると分かったから、返せという。あなたにとって人は、ずっと値札の付いた品物なのよ」
リサの目が泳ぐ。私は一歩も引かなかった。
「教えてあげる。光一さんの値打ちは、一年前から何ひとつ変わってない。変わったのは、あなたに見えている値札だけ」
「う、うるさいわね。綺麗事ばっかり」
「綺麗事で言ってるんじゃないの?私は、あの登記を見る前に、この人と結婚を決めたの。あなたは、登記を見た後で、返せと言い出した。それが全部よ」
店の中は静まり返っていた。私は最後の言葉を口にした。
「今あなたが惜しんでいるのは、光一さんじゃない。このビルと、月三百万でしょ」
図星を指され、リサの顔が真っ赤に染まった。
「そうよ!それの、何が悪いのよ!」
開き直りの叫びが、店中に響いた。
「姉のくせに、地味で、取り柄もなくて、私の引き立て役だったくせに!私より幸せになるなんて許せない!」
ああ、と思った。これが、42年間の腹の底にあったものだ。悲しいくらいに、ストンと腑に落ちた。言いたいことはそれで全部。私は驚くほど冷静だった。込み上げるものはあったが、声は震えなかった。48年分の言葉が、順番待ちをしていた。
「あなた、お母さんの病院に一度でも付き添ったことがある?あの話よ。急に。一度もないの。週に一度、二十年、全部私。実家の水周りも掃除もおせちも。あなたが『姉は便利だ』と言っていた時間の、一つ一つが私の人生だった」
「そ、それは、お姉ちゃんが勝手に……」
「そうね、勝手にやってきた。家族だから、姉だからって。でもね」
私は息を吸った。
「今日で、『姉だから』という理由で我慢するのはやめる。あなたの送り迎えの当てにされるのも、引き立て役も、今日でおしまい。これから先、私たち夫婦の生活には、一切関わらないで」
「な、何それ?姉妹でしょ?家族でしょ?」
「家族という言葉は、あなたが得をする時だけ出てくるのね」
リサが何か言い返そうとした時だった。それまで黙って聞いていた光一さんが、一歩前へ出て、妹に向き直った。
「リサさん。まず、お伝えしておきます」
光一さんの声は低く、静かだった。怒り声よりも、よほど重かった。
「一年前、あなたに断られたことを、私は恨んでいません。むしろ、感謝しています。おかげで、ミカさんと出会えましたから」
リサの顔に、一瞬だけ安堵の色が浮かんだ。それを見届けてから、光一さんは続けた。
「ですが、財産を知った途端に手のひらを返し、妻を追い出して自分が収まろうとする人を、家族として受け入れることはできません」
「手、手のひらなんて返してない。私はただ……」
「ただ、何でしょう?『部屋を無料で使わせろ』『家賃の額を教えろ』『私は本来ここの奥さんのはずだった』。今日一日で、あなたが従業員と管理会社に行って回った言葉です」
「な、何よ。ちょっと部屋の話をしただけじゃない。冗談も通じないの?」
「冗談かどうかは、この一年のあなたの言葉が教えてくれます。『貧乏に決まっている』『ハズレはお姉ちゃんにちょうどいい』『コーヒーとトースト生活』『しけた商売』。よく覚えています。隣で直に聞いたものもあれば、妻の顔色から察したもの。今日この場で明かされたものもありますが」
光一さんは一息置いて、こう続けた。
「実は、タクヤさんの一件を伺ってから、こうなる日が来るかもしれないと考えていました。お金に困った方が、身内の資産を知った時、何が起きるか。私は一度、経験していますので」
そして彼は、一枚の紙をテーブルに置いた。祝いの席には似合わない、事務的な文字が並んでいた。日付は三日前。顧問弁護士の名前が欄に記されていた。
「先回りは、この人の得意なところだ」
「法的に争うつもりはないので、書面でお渡しします。今後、あなたの当店及びビルへの立ち入りをお断りします。妻と従業員への接触も、ご遠慮ください。万一、事実と異なる話を言い広めたり、営業を妨害するようなことがあれば、顧問をお願いしている弁護士を通じて、正式に対応いたします」
立入禁止。接触禁止。法的対応。一つ読み上げるごとに、リサの顔から表情が抜け落ちていった。ほんの一時間前まで「しけた商売」と見下していた店から、正式な書面で締め出される。皮肉というには、あまりにもできすぎた結末だった。
「な、何よそれ。大げさよ。たった一度、縁談を断っただけで、そこまでするの」
最後の抵抗のつもりか、リサは目に涙を貯めた。被害者の顔は、妹の一番の得意技。けれど、光一さんには通じなかった。
「断ったことが問題なのではありません」
彼ははっきりと言った。
「今この瞬間も、私の妻の幸せを奪おうとしていることが、問題なんです」
店の中の誰も、リサを庇わなかった。父も、母も、土倉さんも。42年間、必ず誰かが庇ってくれた妹にとって、それは生まれて初めての景色だったと思う。
「お父さん、お母さん、なんとか言ってよ!私、追い出されるのよ!」
すがる先を間違えていた。父は腕を組んだまま目を閉じ、母は畳んだ扇子を握りしめて首を横に振った。
「リサ。今日という今日は、母さん、あんたが恥ずかしい」
その一言が、とどめだった。リサはコートをひったくるように掴んで、扉へ向かった。閉まる寸前、捨て台詞だけは忘れなかった。
「覚えてなさいよ!みんなに言いふらしてやるから!」
カウベルが乱暴に鳴って、静かになった。誰かのため息が聞こえた。杖のおばあさんが、誰にともなく言った。
「マスター、奥さん。うちの孫にもね、ああはなるなって言い聞かせますよ」
張り詰めていた空気が、それでようやく緩んだ。両親は光一さんに何度となく頭を下げ、光一さんはその度に「金婚式の日に申し訳ありませんでした」と逆に詫びた。誰も悪くないのに、詫び合いほど切ないものはない。
その言葉通り、リサは数日のうちに親戚や友人へ電話をかけまくったらしい。「姉が私の婚約者を奪った」「本来は私がビルオーナーの妻になるはずだった」「騙されたのは私の方だ」。最初の数日は、間に受ける人もいた。叔母から「あんた、それは本当なのかい」と探りの電話が来たくらいだ。「婚約者を奪う」という筋書きは、口さがない人たちの恰好の餌だから。
だが、嘘は長持ちしなかった。親戚には、両親と土倉さんが本当の経緯を説明して回ってくれた。とどめは、リサ自身の古いメッセージだった。縁談の当時、リサが友人に送っていた文面を、呆気にとられた友人が皆に見せたのだ。
「姉にはボロ喫茶店の男がお似合い。私はもっと金持ちを選ぶから」
写真付きだった。あの日、車の中から撮ったコモレビの外観と一緒に。「友達に送ってあげるの」と笑っていた一枚が、一年後に本人の首を絞めた。日付も残っていた。縁談を断った、まさにその週のものだった。
自分から捨てた相手が資産家だと知って、姉から奪おうとした女。リサの評判は、一週間でそこまで落ちた。仲の良かった友人にまで「あなた、昔から人を金で見るところがあったものね」と距離を置かれたという。被害者を装うことすら、妹にはもうできなくなっていた。
四月の初め、リサは実家に泣きついた。四百五十万の借金を、何とかしてほしいと。カードの引き落としが立て続けに来て、催促の封筒が郵便受けに並び始めていた。これまでの両親なら、黙って通帳を出しただろう。車の頭金も、バッグのローンも。そうやって、何食わぬ顔で消えてきた。だが、今度ばかりは違った。祝いの席で、両親は末娘の正体を見てしまっていた。
「リサ。ミカにハズレを押し付けたつもりでいたのは、お前だ」
父はそう言ったそうだ。
「ハズレだと思った相手に、今度は媚びて、姉から奪おうとした。その結果まで、ミカや私たちに背負わせるな。自分で作った借金は、自分で返しなさい」
母も初めて、首を縦に振らなかった。リサは泣き、怒鳴り、最後は昔のように甘えた声を出したそうだ。それでも、二人は動かなかった。ただし、突き放すだけでもなかった。父は区役所の債務相談の窓口を調べて紙に書き、母は米と味噌を持たせた。「生活は取り上げないけれど、金銭の援助はもうしない」。それが、両親の出した答えだった。長年リサのために削ってきた両親の貯蓄は、これからの二人の老後のために使う。そう決めたのだと、後から電話で聞いた。
「今まで、あんたにばかり我慢をさせてきたから」
電話口の母の声は、詫びと決意が半分ずつだった。こうして妹は、生まれて初めて、誰の助けもなしに自分の後始末と向き合うことになった。
それから聞こえてくる妹の消息は、全部が伝聞だ。五月には都心のマンションを引き払い、郊外の古いアパートに移ったという。ブランドのバッグも家具も、あの1カラットの指輪も、買い取り店に持ち込んだらしい。区役所の相談窓口で組み直した返済の計画は、月々五万円ずつ。何年も先まで続くそうだ。昼はジムのパート。夜と週末は、飲食店の厨房で働いていると聞く。華やかだったSNSのアカウントは、いつの間にか消えていた。写真に撮れるものだけでできていた幸せは、写真ごと消えてしまった。親戚付き合いからも、友人の輪からも、リサの名前は聞こえなくなった。
「古い喫茶店で働くなんて惨め」――かつてそう笑った妹が、油の匂いのする厨房で頭を下げて皿を洗っている。誰かが仕組んだ罰ではない。妹が自分で選び続けた道の、行き着いた先がそこだった。
一度だけ、エリちゃんが見たと教えてくれた。閉店間際の夕方、仕事帰りらしいが、店の前で足を止めていたという。窓の中の明かりを眺めて、入口に手を伸ばしかけて、やめて、帰って行ったと。立入禁止を思い出したのか、それとも窓に見えた景色のせいか。「ハズレ」と呼んで捨てた場所が、大勢の人の笑い声で溢れている。その意味を、妹は歩道の轍でどう飲み込んだのだろう。確かめる術はもうない。それでいいのだと思っている。妹の人生の宿題は、妹が解くしかないのだから。
その頃のコモレビは、いつも人でいっぱいだった。読書会は月二回に増えた。持ち寄りの会は、商店街の恒例になった。エリちゃんの発案で始めた日替わりランチは、開店前から並ぶ人が出るほどになった。古い常連さんと若いお客さんが、同じ椅子で笑っている。妹が三分で笑ったこの店は、こんなにも多くの人に愛される場所になった。
母は月に一度、通院の帰りに店へ寄るようになった。窓際の席で桜餅と紅茶を頼み、杖のおばあさんとすっかり友達になっている。父も時々ついてきて、居心地悪そうにコーヒーを飲んで帰る。「うまいな」の一言だけは、毎回置いていく。
「あんたの顔を見に来てるのよ。本当はね」
母は笑ってそう言った。実家との縁は、妹を除いて、前よりずっと風通しが良くなった。
秋の初め、光一さんが一冊の通帳を私の前に置いた。
「これ、君に返さないと」
通帳の名義は、私だった。結婚してすぐ、「手続きがあるから」と銀行の窓口に付き合わされた日があった。あの時作った積み立て口座の通帳を、彼はずっと預かっていたのだ。開くと、毎月五万円の入金が、あの申し出の月から一度も欠かさず並んでいた。私が意地で払い続けた家賃を、彼は一円も使わず、私名義で積み立てていたのだ。
「最初に家賃を払うと言ってくれた時、分かったんです。君は財産ではなく、僕と一緒に生活しようとしてくれているんだと。だから、このお金は使えませんでした」
「もう……じゃあ、これ、どうするんですか?」
「二人の旅行代にしませんか?京都の、本の多い宿がいいな」
笑い合ってから、光一さんは真顔になっていった。
「僕にとっての一番の財産は、このビルではなく、君だよ」
ずるい人だ。こういうことを、前掛け姿で言うのだから。
「私もね、光一さん。妹の代わりとして始まった縁談だったけど、今の私は誰かの代わりじゃない。知っています。自分で選んだ人と、自分で選んだ人生を歩いてる。それが、今一番の自慢なの」
「では、これからも家賃はお預かりします。二人の旅行積み立てとして」
「よろしくお願いします。大家さん」
そんな冗談を言い合える夜が、48年待った私のところへ、ちゃんと来てくれた。
翌朝も、コモレビはいつも通りに開く。光一さんが鍵を開け、私が表の看板を出す。日に焼けた木の看板は、祖父の代から同じ場所で朝日を浴びてきた。妹が笑った色あせもほつれも、そのままだ。変わったのは、店の外側ではなく、ここに集まる人の数と、私の人生の方だった。
磨き込まれた椅子の上を、指でそっと撫でる。
「いらっしゃいませ」
一番乗りは、杖のおばあさんだ。「おはよう」の声とコーヒーの香りで、店の一日が始まる。今日は読書会の日で、午後には母も通院帰りに寄るはずだ。窓際の席に、秋の柔らかな朝日が届いている。この店の看板を、これからも二人で出し続けていきたい。



