「お嬢様、夜が明ける前にどうかぼっちゃまをお連れください。このままではお二方とも命がございません。」
十一歳の雪乃は、震える手で差し出された小さな紙包みを見つめた。中には毒の粉がわずかに残っていた。義母の沖乃が、異母弟の千代松を自分の子に見せかけて乗っ取ろうとしている屋敷から、彼女は母の形見の銀の簪と、父から託された薬籠とだけを抱え、真夜中の裏木戸を抜け出した。
足の裏は血に滲み、木の枝が頬をかいても、少女は決して振り返らなかった。
物語は二人がまだ何も知らぬ幼子だった頃に遡る。
品野の国の山あいの町に、大和屋現造という酒問屋があった。江戸とも取引をする名の知れた商人で、妻の椎野と一人娘の雪乃がいた。椎野は生まれつき体が弱く、病がちな母の手を握ることが雪乃の日課だった。
「おっか様、今日はお加減はいかがですか?」
雪乃が尋ねると、椎野はいつも笑って頷いた。床に伏す前、親子は縁側に並んで針仕事をした。糸を引く母の指先を、雪乃はいつまでも見つめていた。
「おっか様、この結び目がどうしても曲がってしまいます」
「あわてることはない。ゆっくり心を落ち着けて、もう一度やってご覧」
その手の温もりを、雪乃は長く忘れることができなかった。
その年の冬、椎野は男の子を産み、千代松と名付けた。しかし産後の疲れが祟ったのか、椎野は床に伏したまま、二度と起き上がれなくなった。雪乃は生まれたばかりの弟を胸に抱き、母の枕元を離れなかった。
椎野は息も絶え絶えになりながらも、娘の手を離そうとしなかった。
「雪乃、この母がいなくなっても、そなたはこの子を守ってやらねばなりませぬ。良いですね」
雪乃は涙をいっぱい溜めながら、こくりと頷いた。椎野は銀の簪を一つ、娘の手に握らせた。椎野の実家に伝わる品だった。
「人の値打ちというものは、生まれではなく、いかに生きるかにある。どのような境遇に置かれようとも、それだけは忘れてはなりませぬ」
数日後、椎野は静かに息を引き取った。半年ほどが過ぎたある春の日、現造は後妻を迎えた。名を沖乃といい、近隣の商家の娘だった。よく話しも達者で、誰もが好ましく思うような娘だった。
「私、お二人のお子のように大切に育てまする」
しかしその言葉がいかに薄っぺらいものであったか、雪乃はほどなくして思い知ることになる。
沖乃が屋敷に入ってから一ヶ月も経たない頃、雪乃は奥の間を通りかかり、沖乃が下女に低い声で言いつけているのを耳にしてしまった。
「あの子は利口に育つというではないか。大きくなれば厄介なことになろう」
沖乃は実家の商いに行き詰まり、兄の特米から度々無心をされる身の上だった。初めはただ大和屋の財を少しずつ実家へ移せれば良いと考えていただけだった。しかし雪乃の賢さに気づいた時から、いつか自分の仕業が露見するのではないかという恐れが沖乃の胸にじわじわと広がり始めていた。
雪乃はその場に立ち尽くした。自分に向けられた言葉であることは直感したが、それが何を意味するのかまだ十分には飲み込めなかった。
その頃、現造もまた店の帳面にいくつか不審な数字があることに気づき始めていた。ある夜、現造は遠い江戸への旅に出るにあたり、雪乃を呼び寄せた。
「雪乃、これを受け取れ。これは大和屋の薬籠じゃ。近頃どうも帳の勘定が合わぬ。父の留守の間、誰にも見せずに、そなたが預かっておれ」
雪乃は薬籠を母の銀の簪と共に、着物の襟の奥深くにしまい込んだ。現造はさらに古くから店に仕える万造の治助を呼び、兄弟のことを頼むと言い含めた。現造は娘の頭を撫で、店の者たちを引き連れて遠い江戸の旅へと立っていった。
雪乃は懐の薬籠をそっと押さえ、父の後ろ姿が見えなくなるまでその場を動くことができなかった。
現造が立って間もなく、沖乃は万造の治助が旦那様の目を盗み外の商人と不正な取引をしておるなどと言い立て、あっさりと暇を出してしまった。現造より帳の勘定が合わぬことを聞かされていた治助は、暇を出される前に店の出入りを記した帳面の一部をこっそり写し取っておいた。
頼れる大人を一人失った屋敷では、日ごとに空気が変わっていった。雪乃は名前ではなく「その子」と呼ばれるようになり、飯時になっても食事は乏しくなった。それなのに蔵には確かに米が山と積まれていた。その事実を知りながら、雪乃は何も言うことができなかった。
ある晩、千代松が腹をすかせて泣き出した。下女のお服がこっそりと届けてくれた握り飯を、まだ歯も生え揃わぬ千代松はうまく飲み込むことができない。雪乃はためらうことなくその握り飯を少しずつ口に含んで噛み砕き、柔らかくしてから弟の口に含ませてやった。
「よしよし、千代松はこうすれば食べられるのじゃな」
「奥方様がご実家へ度々お米を送っておられると聞いたことがございます」
下女のお服はそう言ってから、しまったという顔で口をつぐんだ。雪乃はその一言を胸の奥深くに刻みつけた。
そうして半年が過ぎても現造は戻ってこなかった。代わりに万造が持ち帰ったのは、一通の知らせだった。
「旦那様がお亡くなりになりました」
旅の途中、不意の流行病で現造が息を引き取ったとの知らせだった。屋敷は悲しみに包まれたが、その悲しみの中にあっても、雪乃の目には奇妙に映るものが一つあった。沖乃が声を上げて泣きながらも、その目には一粒の涙も浮かべていなかった。
父の葬儀が開け切らぬうちに、沖乃の態度はすっかり変わった。ある日、雪野が弟を背負って庭を歩き、つまづいて転びでもすれば、沖乃は竹の枝で何度も雪乃の足を打ち据えた。
「申し訳ございませぬ、奥方様」
雪乃はその度に歯を食い縛って耐え、声を上げて泣くことすらしなかった。声を上げれば千代松が驚いて目を覚ましてしまう。痛みよりも、誰にも助けを求められぬという孤独の方が、幼い雪乃の心には深く突き刺さっていた。
そんなある日、雪乃は奥の間の近くを通りかかり、またしても沖乃と特米の話し声を耳にしてしまう。特米が沖乃に、あの蔵への出入りが多いのはまずい、いずれは誰かの仕業に気づかれるかもしれぬと言っていた。
「ならば、心配の種を絶ってしまえば良いことじゃ」
特米の懐に手が伸び、小さな紙包みが取り出された。紙には薬種屋の証を示す小さな印が押されていた。
「薬種屋より手に入れたこの毒。飯に混ぜても匂いはせぬ。蔵の者たちが葬儀の後始末で気を取られておるうちに、静かに片付けよう」
雪乃は背筋が凍りつくのを覚えた。もはや自分たちを亡き者にしようとしていることを疑う余地はなかった。その夜、雪乃は一睡もできなかった。逃げねばならぬという思いと、まさかそこまではという淡い望みとが、代わる代わる胸を締めつけた。
その時、部屋の襖が静かに開いた。お服だった。その顔はろうのように白く、これまで見たこともないほど切羽詰まった様子だった。
「お嬢様、もはや猶予はございませぬ。夜が明けるより前に、ぼっちゃまを連れてお立ちくださいませ。これなるは特米様が毒を仕込み取り落とされた包みにございます。薬種の印も、わずかな粉も残っております。これは私が命に変えても守り抜きます。いつか道が開けた時、必ず証としてお渡しいたしましょう」
雪乃はしばし迷った。このまま出ていけば二度と戻ることは叶わぬかもしれない。しかしお服の言葉に、雪乃はついに心を決めた。眠る千代松を背負い、薬籠と銀の簪、お服から渡された銭と握り飯を懐にしまい込んだ。
「お服、この恩は忘れませぬ」
「早うお生きくださいませ、お嬢様。決して振り返らずに」
雪乃はお服の手を一度強く握ってから離し、裏木戸を抜けて真っ暗な闇の中へと足を踏み出した。
当てもない山道を、足の裏は傷だらけになり、着物の裾は破れても、雪乃は歩みを止めない。ただ弟を生かさねばという一念だけが、彼女を突き動かしていた。やがて力尽き、雪乃は大きな木の根元に倒れ込んでしまった。背の千代松が空腹を覚えたのか、泣き始める。
「もう少し、もう少し辛抱をしておくれ」
雪乃は辺りを手探りし、赤く熟した木の実を見つけ出し、指先でそっと潰して汁を出すと、それを弟の唇にそっと含ませてやった。
その時、どこからか木魚の音が聞こえてきた。
「これはまた、こんな山中に幼子が。どうしてこうしておるのか。いずれにせよ、山まで運ぼう」
雪乃が力を振り絞って目を開けると、灰色の法衣をまとった三人の僧侶が兄弟を見下ろしていた。先頭に立つのが寛光上人、続く二人が真琴和尚と自然和尚だった。観音院は山の中腹にひっそりと佇む小さな庵だった。
「ゆるりと召し上がれ。急いで食べれば腹を壊します」
その言葉に、雪乃はぽろぽろと涙をこぼしながら頷いた。これまで堪えてきた辛さが一ぺに溢れ出るようだった。
「私ども、何ゆえ子供ように拾うてくださいますのか」
「山で出会うも何かの縁。それにこれほど幼い子らを見て、見捨てるなどできようか」
その頃、大和屋では兄弟が消えたことを知った沖乃が、お服が手を貸したに違いないと決めつけ、その日のうちに暇を出してしまった。さらに数日のうちに、沖乃と特米は山中にて幼子二人の遺体が見つかったという偽りの届けを役所へ出した。兄弟が死んだことにしてしまえば、大和屋の跡を継ぐ者は誰も残らぬからだ。
雪乃と千代松がそのようなことになっているとは知る由もなく、観音院で静かに暮らしを始めた。雪乃は自ら台所の火を起こし、庭を掃き、水を汲んだ。千代松はよちよちと歩けるほどに育ち、「姉様、姉様」と雪乃の裾を掴んで離れようとはしなかった。
原省は兄弟に仏教を解いて人としての道を教え、真琴和尚は千代松の心と体を鍛えて、海安上人は雪乃に薬草の見分け方を教えた。
「この歯が三つに分かれておるのが特徴でな」
雪乃はその一つ一つを頭の中に丁寧に刻み込んでいった。真琴和尚の許で千代松はいく度も転びながらも、泣くこともなく、ケラケラと笑いながらまた起き上がる。
「小やつめ、転んでもまたやろうとはなかなかのものじゃ」
季節が幾度も巡り、千代松は姉より先に一節を諳んじるほどに育ち、夜明け前には誰より早く起き出して机に向かい、庭に出て体を動かすことを一日として欠かさなかった。
そんなある日、観音院で一夜の宿を借りた小物売りが、こんな噂を口にした。
「そういえば大和屋の話にございますが、女主人が変わってから、信用がどうも落ち着かぬそうにございます。蔵が空になったという話も聞きましてな」
雪乃は火をかき混ぜていた手を止め、胸のあたりが冷えるのを覚えながらも、努めて何げない顔で頷くばかりだった。
雪乃は十六歳の娘になっていた。ある年の冬、山の麓の村で名主の孫が突然高熱に苦しむという騒ぎが起こった。名の知れた医者を呼んでも一向に良くならず、村人たちは藁にもすがる思いで観音院を訪ねてきた。雪乃は薬草のかごと針を手に、海安上人と共に村へ向かった。
雪乃は落ち着いた手つきで細い針を取り出し、手首と足首、額の要所に順に施しながら、海安上人と共に一晩中付き添って看護を続けた。明け方近く、孫の額に浮いていた脂汗が次第に引き、うっすらと目を開いた。
「おじい様」
「おお、おお!」
名主は孫を抱きしめ、声を上げて泣いた。この出来事をきっかけに、雪乃の名は近隣の村にまで広く知れ渡ることとなった。屋敷でただの厄介者のように扱われていた日々とは、あまりにも違う日々だった。
同じ頃、千代松の学問もまた深まっていた。ある春の日、近隣を見回る学問所の役人が観音院を訪れ、千代松の書いた文章を目にして大いに驚いた。
「この年でこれほどの文章を表すとは、誠のものじゃ。江戸にて開かれる学問吟味に進んでみぬか」
その数日前のことだった。狩人のみをした見知らぬ男が、観音院の近くの山道を一日中彷徨っていたことがあった。火を切るふりをしながら庵の方を伺う目つきが尋常ではなかった。自然和尚がその様子を察し、男の姿が見えなくなるまで雪乃と千代松を岩陰にしばし隠しておいた。幸い男は「やはりこの山ではないようだ」と呟きながら、別の山道へと去っていった。
千代松は決然とした面持ちで頷いた。
「やってみとうございます。和尚様方と姉様に恥ずかしくない者になりとうございます」
千代松は原省の認めた身元保証の書状を携え、江戸へと旅立っていった。
「姉様、必ず良き知らせを持って戻ってまいります」
千代松が江戸へ立ってから一ヶ月が過ぎた。試験の場では千代松の答案が試験官たちの間で大きな評判を呼んでいた。
「この論の展開、文の運び、いずれも山中で学んだものとは思えぬ見事さじゃ」
その喜ばしい噂は、江戸に商用で登っていた沖乃の兄、特米の耳にも入った。山中の庵で育った少年、年の頃は十五と聞く。髪形も着物も合致する。特米の指先が震えた。もしや十五年前に姿を消したあの兄弟が、あいまいまだ生きておるのではないか。
品野へ引き返した特米は、沖乃にこのことを知らせた。沖乃の顔は見る間に青ざめ、やがて冷たく引き締まった。
「いずれにせよ、このまま捨ておけば、あの子が取り立てられるようなことになれば我らはおしまいじゃ。あの子が取り立てられれば、いずれ帳面を洗い直され、私どもはその日で終わりでございます。いかなる手を使うとも、あの子が取り立てられるのを阻まねばなりませぬ」
その日から二人は密かに動き始めた。特米は再び江戸に登り、あちこちの茶屋や役所の周りで金をばらまきながら、千代松の身元を取り調べた役人に近づいた。書状を今しばらくお預かりぞうしようというもっともらしい理由をつけて、原省の書状を一旦取り上げさせ、密かに偽物とすり替えさせた。さらに千代松の名が戸籍にないことをことさらに言い立て、偽りの訴えを金で雇った者に言わせた。噂はまたたく間に江戸中に広まった。
一方、品野では沖乃が人を放ち、庵の行方を探らせていた。見慣れぬ者たちが山の麓の村を巡っては、それとなく訪ね回る。村人の一人が迂闊にも観音院の場所を教えてしまった。
数日後、観音院に見知らぬ男が三人、押しかけてきた。大官司の取り方を語り、頭から原省を問い詰めた。
「この庵にて、大和屋の血を引く兄弟を育てておるそうだな。そうではないか」
原省は動じることなくその者たちと向き合った。
「山にて迷うた幼子を拾うたまでのこと。それが何の咎になろうか」
男たちの口調は次第に険しさを増し、自然和尚がその前に立ちはだかったが、男の一人が荒っぽく和尚を突き飛ばし、自然和尚は後ろへ倒れ、庭石に肩を強く打ちつけてしまった。騒ぎに驚いて雪乃が駆けつけると、男たちの目が一斉に雪乃へと向けられた。そのうちの一人が雪乃の顔をまじまじと見つめて、低く呟いた。
「聞いていた人相と違わぬ顔をしておる」
雪乃はその一言に全身が凍りつくのを感じた。十五年の潜伏が、完全に露見してしまったことを悟った。男たちは庵を散々に荒らすと、足早に山を降りていった。
その直後、さらに痛ましい知らせが飛び込んできた。江戸から急ぎの使いが訪れ、千代松が試験不正の疑いをかけられ、牢につながれたと伝えてきたのだ。
「そのようなことがあろうはずもございませぬ。あの子はただひたむきに励んでおったばかりですのに」
雪乃はその場に崩れ落ちてしまった。十五年の間、息を潜めて生きてきた全てが、一瞬にして崩れ落ちていくかのようだった。弟を守ろうとこの山奥まで逃げてきたのに、結局は自分が弟に災いを招いたのではないかという自責の念が胸を押しつぶす。
その夜、雪乃は一人、本堂の前に座していた。空には星が輝いていたが、雪乃の心はそれよりも暗く沈んでいた。雪乃は懐から銀の簪を取り出し、両手で包み込んだ。冷たい銀の感触が指先に伝わると、ふと遠い昔の母の声が耳の奥に蘇るようだった。
「人の値打ちというものは、生まれではなく、いかに生きるかにある」
その言葉がようやく今、心の底に染み入ってきた。雪乃はこれまでただ生き延びることだけが全てなのだと思い込んでいた。しかし母が真に伝えたかったのは、いかなる境遇に置かれようとも屈することなく自らの道を切り開いていくということだったのだ。
「そうじゃ。私はこれまで隠れて生きてまいったが、もはやそうしてはおれぬ」
雪乃は立ち上がり、着物の襟をしと整えた。涙で濡れていた顔には、いつしか硬い決意が宿っていた。
「和尚様、私は江戸へ参ります。もはやこの山奥に隠れて、弟が危うい目に会うのをただ見ていることなどできませぬ」
原省はしばし待つ、雪乃を見つめていた。やがて息を吐きながら口を開く。
「お嬢様、実はこれまで和尚がお嬢様に申し上げずにおったことが一つございます。和尚が若かりし頃、お嬢様のお母上でおられた椎野様とは古きご縁がございましてな。椎野様が一時大きな苦しみに見舞われた折、和尚が椎野様にしばしの隠れ場所を貸したことがございました。お嬢様とぼっちゃまを初めて山で見つけた時、その銀の簪を目にし、和尚はすぐに気づいたのでございます」
「では、あの頃から和尚様は全てをご存知でございましたか。何ゆえこれまでお証しくださらなかったのですか」
「お母上は、二人の身に危難が起こった時に、これを開けと和尚に言い残されました。心けはすでに衰え、頼れる後援もございません。早くに素性を明かせば、かえってお二方の居所を知られる危うさもございました。されど椎野様のこのお書状だけは、なお和尚が肌身離さず守っておりました」
原省は懐から椎野の残した古い書状を取り出し、震える雪乃の手にそっと握らせた。紙こそ年季に黄ばんでいたが、母の筆跡が今なおくっきりと残るその書状に、雪乃はしばし言葉を失ったまま指先を震わせていた。
「和尚も共に江戸へ参りましょう。真琴も同じ思いでございましょう」
痛む肩を庇いながら、自然和尚が足を引きずるようにして歩み寄ってくる。
「和尚も参りまする。この程度の傷、何の障りもございませぬ。ぼっちゃまを差しおいて、和尚一人の身とここに残ってどうおられましょうか」
海安上人は庵に残り、いざという時のための役所を整えておくと申した。
その夜のうちに、雪乃と原省、自然和尚は江戸へと向かう途についた。道中、品野の屋敷近くに立ち寄った雪乃は、かつて屋敷を追われたお服の行方を人に尋ね、近隣の宿場に身を寄せているとの知らせを得た。お服は雪乃の姿を見るなり、その場に膝をつき、声を上げて泣き出した。
「誠にお嬢様でございますか?」
雪乃もお服をしっかりと抱き寄せる。
「お服、そなたに助けられたあの晩から、この日が来るのを待っておった。もう一度力を貸してはくれぬか」
「いいえ、お嬢様。お礼を申し上げたいのはこちらの方にございます。あの晩以来、お二方がご無事でおられるかどうかだけをずっと案じておりました」
お服は懐に、あの晩以来大切にしまっていた毒の包みを取り出した。霧の小箱に入れ、湿気の入らぬよう油紙で幾重にも包み、「これさえあればいつかきっとお役に立つ」と信じ、手放さずに持っていたという。
さらに暇を出された治助もまた近くの町で暮らしており、屋を追われて後も「いつか役に立つ日が来るやもしれぬ」と、店の出入りを記した帳面の写しを密かに手元に残していた。お服の包みに押された印を見た治助は、かつて取引のあった薬種屋を訪ね、ようやくその店を探し当てた。店の古い帳面を改めると、十五年前、特米がまさにその毒を買い求めた記録が色あせながらも確かに残っていた。店の薬種にあった者もまた、証言のため江戸へ向かうことを承知した。
雪乃はこの三人を伴い、急ぎ江戸へと向かった。
江戸に一足早くたどり着いた雪乃たちは、役人が特米より多額の金銭を受け取っていたことを突き止め、その役人を押さえた。しかし役人は口を閉ざしたまま、真実を語るかどうかは裁きの場に委ねられていた。
雪乃たちがようやく江戸に辿り着いた時、千代松はすでに牢につながれて半月余りが経っていた。杠下もその日は、千代松の罪を最終的に裁く沙汰が開かれる日だった。大官司の庭前にはすでに大勢の人が集まっており、その中には沖乃と特米の姿もあった。
「本日この場は、山中の庵の出しにて名を名乗るものの、試験不正の罪をただし裁く場である。素性の明らかならざる上は、国法に照らし厳しくすべし」
すでに裁きの定まったも同然の空気が、庭に重く漂っていた。沖乃は勝ち誇った笑みを浮かべていた。
その時だった。
「しばらくお待ちくださいませ!」
雪乃が大きな声をあげながら、大官司の庭へと足を踏み入れた。その場にいた全ての者の目が一斉に彼女へと注がれる。旅人にまみれた姿でありながら、その足取りに迷いはなかった。沖乃の顔がたちまち真っ白に変わった。
「そなた…生きておったのか」
「私は大和雪乃と申す。家の嫡男に生まれし千代松は、私の実の弟にございます。品野の国の大和屋蔵像の子にございます」
雪乃は懐から薬籠を取り出し、大官の前に差し出した。原省に伴われた役人が店の小門と古い記録を照らし合わせると、印章の門葉が寸分違わず一致した。原省もまた進み出て、椎野の残した書状を示し、十五年の縁を証言した。
「なるほど。身元の疑いはそうないようじゃな」
しかし沖乃がすかさず声を張り上げた。
「お待ちくださいませ。その薬籠はあの子が屋敷を出る前に盗み出したものにございます。娘とやらの申し立ては認めても、あの少年が試験にて他人の名を語ったという不正の義は、また別の話にございましょう」
集まった人々の間にもなるほど一理あるという低い動揺が広がり、特米もここぞとばかりに進み出た。
「恐れながら、手前どもの手元には、十五年前の山中にて見つかった幼子二人の遺体についての届けの写しがございます。他の兄弟は、誠にあの折りの子らと申しましょうか」
この偽りの届け出を雪乃は否定したが、それを明かす術を持たなかった。雪乃の額に冷たい汗が伝った。
その時だった。
「恐れながら、申し上げたき儀がございます」
聞き覚えのある震え声に、雪乃ははっと顔を上げた。お服が人々の輪を分けて静かに進み出てくる。手にはあの晩拾った毒の包みをしっかりと掲げていた。
「これなるは十五年前の夜、特米様が取り落とされた毒の包みにございます。包みの折り目には今もわずかな粉が残っております。薬種の印もこの通り、はっきりと残っております。あの晩、お方様と特米様が兄弟の食事に毒を仕込むとの相談を、私はこの耳で確かに聞きましてございます。あの夜、お嬢様とぼっちゃまを裏木戸より逃がし申し上げたのも、この身にございます。偽りは一言たりとも申しておりませぬ」
大官がその紙包みを改めさせると、薬種のあるじが進み出て、この印はまさしく手前の店のもの、十五年前特米様がこの毒をお求めになった記録も残っておりました、と証言した。続いて治助も古い帳面の写しを差し出し、蔵より不当に持ち出された米の記録の宛先が特米の店であることを明かした。
さらに江戸にて千代松の書状をすり替えた役人が引き出され、特米より金銭を受け取り書状をすり替え偽の届け出を手伝ったことを白状した。
ここに到り、特米は己が可愛さのあまり、ついに妹を裏切ることを決めた。
「大官様、手前はただ妹の言いつけ通りに動いたまでにございます。毒を仕入れましたのも、書状をすり替えたのも、全て妹の指図にございます」
「兄様! 何とそのように!」
沖乃は慌てふためいたが、もはや取り返しのつかないことだった。追い詰められた沖乃は、震える声で全てを語り始めた。
「私はこの家と兄の家を守りたかったのでございます。初めは大和屋の財を少しずつ実家へ移せればそれで良いと思っておりました。けれども雪乃に気づかれるのが恐ろしくなりました。罪を隠そうとするたびに、さらに深い罪を重ね、ついには幼い兄弟の命まで奪おうとしたのでございます」
雪乃はその姿を見つめ、静かに言った。
「恐ろしかったという一言で、幼いものを苦しめ、実の命まで狙うた罪が消えることはございませぬ。されど私も、今日限りこの恨みに心を縛られることをやめまする」
雪乃はそう言い切った。長らく胸に抱いてきた恨みが、今ようやく軽くなっていくように感じられた。
数日後、千代松は無実と認められ、放免となった。牢薬人の一人が千代松の手を引きながら口を開いた。
「ぼっちゃまは牢につながれた半月の間、一度も取り乱したご様子はございませんでした。夜な夜な静かに姿勢を正しておられる姿に、それがしもただならぬ方であると存じ上げておりました」
雪乃は堰を切ったように溢れる涙を堪えながら、弟を抱きしめた。
「千代松、どれほど苦しかったであろう」
「姉様…姉様が必ず来てくださると信じておりました」
兄弟はしばしそのまま抱き合って泣き続けた。
数々の罪が明るみに出た沖乃には、家財没収の上、故郷へ戻ることを許さぬとの裁きが申し渡された。特米もまた流罪を申し渡された。己が罪を白状したため命こそ助けられたが、生涯故郷へ戻ることは許されなかった。不当に奪われていた大和屋の家督は、改めて正された雪乃と千代松の元へ返された。
雪乃と千代松は故郷の品野へと戻ってきた。荒れ果てた屋敷を、兄弟は心を込めて手入れし、かつての姿を取り戻していった。まず何よりも先に、雪乃はお服と治助を屋敷に招き入れた。
「お服、治助。この恩は決して忘れませぬ。これよりこの家の者として、末永く安らかに暮らすが良い」
雪乃は店を再び起こす一方、町に小さな薬屋を開き、貧しい人々を無償で見てまわった。千代松もまた、姉の教えを忘れず、江戸で結んだ学者の縁を頼りに学びを進めていった。
それから幾度かの月日が流れた、ある春の日。雪乃が開いた薬屋には、朝早くから大勢の人が列をなしていた。その中には、親をなくし、一人残された幼子の姿もあった。雪乃はその子の手を取り、優しく問いかけた。
「どこが痛むのじゃ。怖がらずとも良いぞ。話してご覧」
診療を終えると、雪乃は握り飯を一つ、その子に握らせてやった。
「もうあわてるでないぞ。腹いっぱい食べて、この世にはそなたを助けてくれるものが必ずおるのじゃから」
その子は少しはにかみながらも、初めて小さな笑みを浮かべた。その笑顔を見届けて、雪乃の胸にも温かいものが満ちてくる。雪乃は、遠い昔、自分の手を握ってくれた和尚たちとお服の顔を思い浮かべた。
十五余年、恐怖に震えながら山道を逃げたあの幼い娘は、もはやそこにはいない。そこにあったのは、堂々として穏やかな眼差しで世を見つめる、一人の人の姿だけだった。
「人の値打ちは、生まれでもない。暗い夜に、誰かの手を取り、その者と共に歩けるかどうかにある」
雪乃はそっと呟きながら、懐の銀の簪をそっと撫でた。春風が柔らかく吹き抜け、花びらを舞い散らせていく。かつて和尚たちとお服から受け取った温もりを、今度は雪乃が行き場のない子供へと手渡していた。母の銀の簪は、春の日差しの中で静かに輝いていた。



