「中卒で働き出したなんて、よほどの貧乏暮らしなんだろうな。身内に中卒のバカがいるなんて、わしには信じられんよ」
見合いの席で、相手の父親は兄を馬鹿にした。義理で来てやったという態度を隠そうともせず、俺のたった一人の家族であり、親代わりに俺を育ててくれた兄を侮辱したのだ。
「ちょっとお父さん、失礼にも程があるわよ」
「失礼なものか。わしは真実を言っているだけだ」
娘の制止も聞かず、言いたい放題の父親。そんな男に対し、兄は実に冷静な表情で口を開いた。
「あなたのおっしゃることは分かりました。安心してください。これ以上あなたが中卒のバカの顔を見なくても済むようにいたしますから」
兄の言葉を鼻で笑った父親だったが、その直後、兄の正体と言葉の意味を知り、顔面蒼白となったのだった。
俺の名前は伊藤琢磨。俺が中学生の時、両親は事故で亡くなった。それまでは兄と優しい両親の元で何不自由なく暮らしていたが、それからというもの、俺たちは親戚中をたらい回しにされることとなった。一時期は二人バラバラにされて施設へ預けられそうになったのだが、その時、遠方に住んでいた父の末の弟が俺たちを引き取り、後見人になると名乗り出てくれたのである。
叔父は父とは年が離れていたが、兄弟の中でも特別仲が良く、俺たちも小さい頃はよく遊んでもらったものだ。叔父にしてみれば独身の身でありながら、急に中学生の子供二人を引き取ることとなり、きっと不安もあっただろう。それでも俺たちの前ではそんな素振りなど見せなかった叔父に、俺も兄も随分救われたのだった。
そして中学三年生だった兄は、卒業後すぐに叔父が経営する小さな会社で働き始めた。はっきりとは言われなかったが、それが俺の進学費用を稼ぐためだということくらい分かっていた。だから進路希望の調査票には叔父の会社に就職と書いたのだが、それは学校を通してすぐに叔父と兄の知るところとなってしまう。
「お前は頭がいいんだから、高校へ行け」
俺より二歳だけ年上とは思えないほど大人びた兄は、その顔に渋い色を浮かべて俺を説得しようとする。
「でもなあ、おじさん、俺も会社に入れてよ。一生懸命働くから」
「たくま、」
そう詰め寄られる俺に、兄は真摯な表情で訴える。
「なあ、琢磨。俺は元々勉強は好きじゃなかったけど、働くことは好きでやってる。お前、勉強好きなんだろう? もちろん働きながらだって勉強はできるけど、チャンスがあるならそれを無駄にするな」
兄の言うチャンスとは、叔父と兄が俺のために作ってくれたものだ。その思いがひしひしと伝わってきて、結局俺は高校へと進学した。また会社が軌道に乗り始め、経済的にも少し余裕ができた叔父からの援助もあり、その後俺は有名大学にも通うことができ、卒業後は大手自動車メーカーへと就職したのだった。
それからあっという間に十年が経った。仕事は大変ながらも楽しくやりがいがある。幸い必死で働くうちに出世コースにも乗れたようで、年収も安定していた。だが、気づけば独り身。この年になると周りには既婚者も増えてくる。独身で俺たちを引き取って育ててくれた叔父も、三年前ほどに縁があり、同世代の女性と結婚した。兄こそまだ独身だったが、この頃は自分のことを棚に上げて、何かと俺に彼女の有無を聞いてきたりする。別に俺だって結婚したくないわけではないが、これといった出会いもなく仕事も忙しいので、なんとなくそのままになっているのだった。
そんなある日、兄が俺に見合い話を持ってきた。
「仕事の繋がりでな。…って言っても、あったからって絶対結婚しなきゃいけないわけじゃないぞ。先方にお前と同い年の娘さんがいるって話を聞いただけだし、もちろん向こうの好みもあるだろうから」
そう言いながらも兄の顔は、まるで自分のことのようにほころんでいる。そこまで言うなら分かったよ。責任感の強い兄のこと、弟が結婚するまでは自身も身を固める気などさらさらないようで、そんな兄の気持ちを無視できず、俺は渋々ながらもその話を承諾したのだった。
そして迎えた見合い当日。あまり堅苦しいところもどうかということで、見合い場所はホテル内のダイニングの個室で行われることとなっている。こちらからは兄と俺。先方からは見合い相手である娘と、そして父親が付き添う予定だと聞いた。だが二十分前には着席していた俺たちとは対照的に、相手の方は約束よりも数分遅れて姿を現したのだった。
店員に案内されてきた父親ともう一人の男性は、自分たちの遅刻には特に何も触れることなく、ただ俺と兄を一瞥するだけ。その態度に俺たち兄弟は面食らい、思わず顔を見合わせた。続いて娘が顔を出す。そして彼女は自身の父親の分まで謝罪するがごとく、席に着く前に深々と俺たちへ頭を下げてきた。
「遅れて申し訳ありません。車が渋滞に巻き込まれてしまって」
「そうなんですか。いえいえ、こちらのことはお気になさらず。どうぞおかけください」
慌てふためく彼女に、兄も俺も笑顔で返す。しかし彼女の父親だけは自分だけさっさと席に着き、「遅刻というほど遅れてもおらんだろうが」とこぼしながら、不機嫌そうに鼻を鳴らすだけだ。その様子に「すみません」と笑顔で再び頭を下げながら、彼女も席に着く。
とりあえず飲み物を注文し、互いの自己紹介となった。まずは兄と俺が、そして先方の順となると、父親はその強面な顔に不満げな表情を浮かべて名乗った。
「最初に言っておくが、今日は仕事の付き合いで仕方なく来たんだ。お気楽なサラリーマンのあんたらと違って、俺は工場を経営している社長だからな。忙しいんだよ」
男はそう言うと、これ見よがしにため息をついて、あからさまに面倒くさそうな態度を取ってきた。そんな父親を何度か目で制して、娘は「カナと申します」と名乗り、改めて俺たちへ挨拶をしてくれる。さらに俺を見て、にこりと微笑んだ。そのふっくらとした白い頬にできるえくぼを見て、俺はなんとなく既視感を覚える。
だが俺が口を開きかけたその時、男が我先にと割って入ってきた。
「で、どっちが娘の見合い相手だ?」
「はい、私です」
その返事に男がじろりと俺を睨みつける。
「うん。じゃあ大手企業に務めてるってのはあんたか。で、こっちの兄貴はどこの大学出たんだ?」
会話というよりは一方的に投げつけてくる相手の物言いにも臆さず、兄はハキハキと答えた。
「いえ、私は大学には通っていません。中学生の頃、両親を事故で亡くしまして、それからは叔父に引き取られ、私は中学卒業後、その叔父が経営する会社で働き始めました」
兄は昔から、中卒で働き始めたという自身の経歴を言い訳したり偽ったりしない。それは俺に負担をかけないためでもあるだろうし、何より兄自身が今の仕事を誇りに思っているからである。だが世間的には少なからず驚かれることも多く、目の前の男もまたその類いの人間であった。
「はあ…中卒」
男は厚い肉のついたその体を大げさなほどに揺らして意味ありげに頷く。その横では、娘のカナさんが必死に自身の父を咎めているが、その甲斐もなく、一度開いた父親の口はどうにも止まらない。
「おいおい、それ本当の話かよ。いくら弟が大手に就職してるからって、その兄は中卒だぞ。よくそれでわしのところに見合い話を持ってきたもんだな。わしなら身内に中卒のバカがいるなど耐えきれんよ」
男が頬を歪めて兄を睨みつける。
「ちょっとお父さん、失礼すぎるわよ。謝って」
娘は可哀想なほどに顔を青ざめさせてそう言っているが、肝心の父はカナさんの抗議などどこ吹く風だ。注文したアイスコーヒーをがぶ飲みし、ドンと乱暴にグラスをテーブルに戻すと、男は完全に兄を見下した目をしてさらなる暴言を吐いた。
「叔父が会社を経営してる? ふ。お前のバカ面を見るに、その会社とやらも大したことなくて、未だに貧乏生活なんだろう。貧乏な上に中卒のバカじゃ、救いようがねえな」
何がおかしいのか、そこまで言って男は我が物顔に声をあげて腹を揺らした。もはやカナさんは父の暴言を止める術がないのか、身を縮こまらせて俺たちに向かって何度も頭を下げている。
俺たちのことは何を言われてもまあいい。叔父を除いた親戚を始め、近所の人間や学校のクラスメイトなどにも常に有る事無い事言われていたので、そういう言われようにはすっかり慣れてしまっている。ただ、自身の言動の後始末を娘にさせて、それを悪いとも思っていない様子の男に、俺はただただ呆れ果ててしまったのだった。
また、横に座る兄がさほど顔に出さないまでも、相当苛立っているということを俺は察している。ちなみに兄は怒れば怒るほど冷静になっていくタイプの人間で、その冴えた目で静かに見つめられた時の恐怖といったら、身内の俺でもできればお目にかかりたくない代物なのだ。それに気づいているのか、カナさんが先ほどからチラチラと兄を見ては、その目を逸らしている。きっと父に思いやりで、気遣いのできる女性なのだろう。立ち振る舞いからもそれが伝わってくる。だが父がこれでは、彼女も相当苦労しているに違いないと俺は勝手に彼女へと同情してしまった。
そして兄は、実に穏やかに最後通告を突きつけた。
「あなたのおっしゃることは、よく分かりました。そうですね。そこまで中卒のバカが気に入らないのなら、それで結構です」
兄がふっと口元を持ち上げる。それだけで、普段は頼もしくも明るい兄の表情は随分と険悪なものとなる。男を見据え、兄は淡々と続けた。
「こちらの会社と弊社とで進行中の案件ですが、安心してください。これ以上あなたが中卒のバカの顔を見なくても済むように、今後は別の会社と話を進めていきますね」
声も口元も柔らかく微笑んでいるのに、目だけが異様なほどに相手を睨んでいる。そんな兄の様子に娘のカナさんはますます顔を青ざめさせていくが、残念ながらその父親には娘の恐怖がこれっぽっちも伝わっていないようだ。兄の言葉の意味を測りかね、軽薄な顔で首をかしげている男に、俺はたまらず横から口を挟んだ。
「私が勤めているのは自動車メーカーで、兄はその下請けの部品メーカーの社長なんです。確かあなたの会社と兄の会社は、今度大きな取引をする話になっていたかと」
男は最初、怪訝そうに俺の方を見ていたが、告げられた事情を飲み込むと同時に、その顔は音がしそうなほど一気に青ざめていく。彼にしてみれば仕事の付き合いで無理やりねじ込まれた見合いだと高を括って、碌に相手の確認もしていなかったのだろう。兄は三ヶ月ほど前に叔父から会社を継いだばかりだ。プロジェクト自体には以前から関わっていたようだが、取引相手として改めて挨拶をするのは今回の見合いの後にしようと思っていたらしい。そこには、互いに何のしがらみもなく相手を見て欲しいという思いの他に、会社が絡んでいないところで男がどういう人間なのかということを知っておきたいという、兄の経営者としての一面も含まれていた気がする。そして当然ながら、男は兄のお眼鏡には叶わなかった。
言葉にならないのか、陸に上がった魚のように口をパクパク開閉させるだけの男を尻目に、兄はしごく冷静に告げた。
「それでは、この見合いも商談の件も、一旦白紙とさせていただきます」
それだけ言って兄はさっさと席を立つ。そして醜態を晒す父の横で、その父に代わって頭を下げ続けるカナさんのことを気にしながら、俺も兄の後に続いて店を出たのだった。
さて、それから一ヶ月が経った。あれから男の親子、特にカナさんがどうしているのか気になっていた俺は、さりげなく兄にそのことを尋ねる。だが帰ってきたのは、経営者としての声だった。
「父親の方からはあれから何度も謝罪が入ってきているが、まあ案件を白紙に戻す方向で話は進んでいる。黙っていた俺も俺だが、それでも佐藤社長の態度には目に余るものがあった。いくらビジネスと言っても、互いに信頼できるかどうかは大事なことだからな」
兄は難しい顔をして続ける。兄はこういう時、感情に流されない判断ができる。それは早くから社会人となった経験が元にあるのだと、俺は思っていた。
「そう。…その兄貴の会社と取引がなくなった場合、佐藤社長の会社はどうなるのかな?」
「そうだな。実は社長のところはこのところ業績不振でな。今回の取引が叶えば持ち直したのだろうが、それがなくなるとすると、もしかしたら持ちこたえられないかもしれん」
この言葉の重みに、俺は思わず黙ってしまう。元はと言えば社長である父の言動のせいということだろうが、いかにも誠実に見えた娘のカナさんがそれに巻き込まれるのは、どうにも後味が悪い。内心ため息をつく俺を見て、兄が口元を緩めた。
「なんだよ。あれ? お前、もしかしてあの娘さんのこと?」
「違う。ほら、袖振り合うも他生の縁って言うだろ。だからちょっと気になっただけで。それに、彼女、前にもどっかで会ったような気がして」
「え、それってもしかして『俺たち前世で会ったよね』っていうやつか?」
「だから、そんなんじゃないって」
だが慌てる俺を、兄はにやにやと笑いながら面白そうに見つめるのだった。
そしてさらに二週間が経った。その日、俺は車両のことで外に出ていて、会社に戻るべく地下鉄のホームにいた。すると並んでいた列の隣に、たまたま見覚えのある横顔を見つけたのだ。
「え?」
俺の驚く声に、その白い顔が振り返る。そして彼女、カナさんもまた驚いた様子で目を見張った。
「伊藤君」
耳に心地よいその声に名を呼ばれ、俺はまた不思議な既視感を覚える。脳裏を過ぎるのは、学生服を着た彼女の淡い微笑み。その頬にできるえくぼを、俺は前にも一度確かに見たことがあった。
「ああ、もしかして中学の時の…」
「そう。私、あなたの中学時代の同級生だったの」
そのことにようやく気づく俺に、彼女は何度も頷く。
「ほら、あの時、伊藤君、ご両親のことで大変だったでしょう。だから覚えてないのも当たり前っていうか。それに私の方こそ本当にごめんなさい。父が失礼なことを」
そう言って未だ申し訳なさそうに頭を下げるカナさんに、俺は慌てて手を振った。
「カナさんが謝ることじゃないでしょう。それにあの時は俺もちゃんとフォローできなかったし」
ふたりして謝り合っている俺たちを、周りの人々が鬱陶しそうに見てくる。そして互いに仕事の途中ということで、慌ただしく連絡先を交換しただけで別れた俺たちだったが、それをきっかけに食事に行く仲となり、それから俺たちは正式に付き合うこととなった。
そして三ヶ月後。
「兄貴、話があるんだけど」
珍しく改まった様子の俺に、兄には感づくところがあったらしい。どこか期待しているような顔をして弟を見てくる兄に、俺はカナさんと付き合っていること、結婚の約束もしていること、そして佐藤との取引を考え直して欲しいことを一気に告げた。
「父の会社の件は、カナさんが何かを言ったわけじゃない。むしろ兄貴に対してあんな失礼を働いた相手の身内が、その弟と付き合っていいのかって、彼女は今でも気にしている。だからこれは俺の独断なんだ」
カナさんとの交際には兄も薄々気づいていたようで、それについては歓迎こそすれ、特に異論はないようだった。だが商談の件となると、しばらく兄は社長の顔をして黙っていたが、やがてゆっくりと頷いた。
「俺としては、カナさんとの交際をそれとは別に考えているが、まあそういうわけにもいかんだろうな。分かった。商談の件、当初ほどの優遇ではなくなるだろうが、考え直してみるよ」
「兄貴、ありがとう」
そう言って頭を下げる俺を、社長の顔から身内としての顔に戻った兄は、考え深げに見つめて笑ったのだった。
結局、佐藤さんの会社との商談はまとまった。と言っても兄の言葉通り、規模は当初の半分となり、もう半分は他社との合同という形となった。だが、佐藤さんは己の傲慢な態度のせいで会社までも失いかけたことを猛省していたらしく、半分ではあってもこうして商談が実現したことに痛く喜んだという。また佐藤さんは後日、カナさんを通して俺にも改めて謝罪してくれ、娘との交際も歓迎してくれたのだった。
それからしばらくして、兄と佐藤さんの会社は今回の取引をきっかけに合同で新たなプロジェクトを立ち上げることとなり、無事に軌道に乗りそうだと知らされた。謙虚さを心がけ、周りの話に耳を傾けるようになった佐藤さんと兄は、今では良きビジネスパートナーとなっているらしい。
そして俺はといえば、カナさんにもきちんとプロポーズをし、承諾をもらったばかりだ。また仕事も順調で、来春の心も決まっている。彼女と築く幸せな家庭を夢見て、俺はより一層仕事にも身が入るのであった。


