「失礼いたします。佐藤先生でいらっしゃいますね」
振り返ると、一人の女性が立っていた。五十代半ばだろうか。手入れの行き届いたスーツに、染み一つない白いブラウス。姿勢の良さと、静かな真剣さが印象的だった。
「白瀬と申します。今日のご講演を最後まで聞かせていただきました」
俺は名刺を受け取った。白瀬――聞き覚えのある苗字だった。
俺の名前は佐藤正文。四十五歳。難病研究を専門とする医師だ。ある進行性の神経疾患について、新しい治療薬の研究を続けてきた。今日の学会発表も、その途中経過を報告したものだった。
「無理を承知でお願いに参りました。娘の主治医をお引き受けいただけないでしょうか」
俺は彼女の次の言葉を待った。
「娘は白瀬凛と申します。ピアニストをしておりまして――」
その名前を聞いて、ようやく繋がった。白瀬凛。二十代にして世界の舞台に立つ若手ピアニスト。クラシック音楽に疎い俺でも、名前くらいは知っていた。
「半年前に進行性の神経疾患と診断されました。複数の病院を回りましたが、皆様、もう打つ手がないと」
俺は彼女の手元がわずかに震えているのを見た。
「先生のご研究を新聞で拝見いたしました。最後にもう一度だけ、希望を信じてみたいのです」
俺は黙ったまま、机の上の名刺を見つめた。研究中の新薬はまだ臨床段階にも至っていない。彼女はそれを承知の上で来ているのだろう。
「お気持ちは分かりました。一度お嬢さんを診させてください。判断はそれからにしましょう」
「ありがとうございます。本当にありがとうございます」
深く頭を下げた彼女の白いうなじが、夕日の中で揺れた。
――二日後、診察室で俺は彼女と向き合った。
白瀬凛。診察台に腰かけた姿は、想像していたよりずっと小さく見えた。青白い顔だが、目には不思議な光があった。
「先生、初めまして。白瀬です。本日はよろしくお願いします」
よく通る、澄んだ声だった。病人の声ではなかった。
診察を進めるうちに、症状の進行が思っていた以上に速いことが分かった。指先の感覚低下。時折起こる手の震え。ピアニストにとっては致命的な兆候だった。
「演奏は続けていますか」
「はい、続けています。続けないと、私、自分がなくなってしまうので」
俺はカルテに目を落とした。彼女の年齢の上の数字が、急に重みを増した気がした。
「治療にはいくつか選択肢があります。ただ、どれも保証できるものではありません」
「先生、私、まだ弾きたい曲があるんです。それだけは分かっておいてほしくて」
笑顔だった。だが俺は、その笑顔の奥にある焦りを見逃さなかった。
「分かりました。あなたがやれる方法を、一緒に探していきましょう」
「はい、よろしくお願いします、先生」
診察室を出ていく彼女の背中は、まっすぐだった。俺はカルテを閉じ、しばらく動けなかった。
一週間後、俺は都心のホールにいた。彼女のリサイタルだった。
医師として患者の体調を把握しておきたい。そう自分に言い聞かせてチケットを取った。
満席のホールがゆっくりと暗くなる。舞台袖から白いドレスの凛が現れた。拍手の中、彼女はピアノの前に座る。照明が落ちる前のわずかな間、彼女が深く息を吸うのが見えた。
最初の一音が鳴った瞬間、俺は体を固くした。
なんという音だろう。強く、繊細で、どこか切実だった。ピアノが鳴っているのではない。彼女の体の内側から、何かが流れ出している。そう感じた。
聴衆は誰一人、咳一つしなかった。俺は息をするのも忘れて、舞台を見つめていた。
中盤、叙情的なバラードが始まった。旋律が立ち上がるたび、彼女の指先が音の中で迷うように見える瞬間があった。これは演奏ではない。生きることそのものを音にしている。
最後の和音が消えた後、客席は数秒静まり、それからなだれのような拍手が起こった。立ち上がる人々。頬を濡らしている女性もいた。
俺は座ったまま、両手をきつく組み合わせていた。
楽屋に向かう廊下で、汗を拭く凛とすれ違った。
「先生、来てくださったんですね」
「ええ、素晴らしい演奏でした」
「お世辞でも嬉しいです」
「お世辞ではありません。あなたの音を聞かせていただいて、お世辞を言える人間はいませんよ」
凛は少し驚いた顔をして、それから子供のように笑った。
「先生、意外と褒め上手なんですね」
「研究室では滅多に言わない言葉です」
「じゃあ、特別ですね」
軽口のように響いた言葉が、なぜか胸に残った。俺は会釈をして、彼女の前を離れた。
帰りの車の中で、俺は何度もハンドルを握り直した。医師として、距離を保たねばならない。分かっていた。だが彼女の音は、もう俺の中に住みついている。
――翌週の診察日、血液検査の結果を説明しながら、俺は彼女の表情を観察していた。数値はやはり思わしくない。
「先生、難しい顔してますね」
「そう見えますか」
「先生も難しい顔をするんですね。今日は特に難しい顔です」
「これは失礼。職業病だと思って許してください」
俺がそう言うと、彼女はくすっと笑った。笑った拍子に、シャツの襟元から細い銀の鎖が覗いた。小さな楕円のペンダント。古びた銀の色合いが、彼女の若さに不釣り合いに見えた。
「えっ、ああ、これ。父の形見なんです」
「お父様の」
「私が五歳の時に亡くなって。顔もよく覚えていないんですけど、これがあるとなんとなく一緒にいる気がして」
何気ない言葉だった。だがなぜか、胸の奥がざわついた。理由は分からない。銀のペンダントを見つめながら、俺は一瞬何かを思い出しかけて、見失った。
「大事になさってください」
「はい。これだけは舞台にも持って上がるんです」
俺はカルテに視線を戻した。余計なことを考えている場合ではない。試験の準備、データの整理、論文の補強。やるべきことは山積していた。
時間がない。それだけははっきりしていた。
「先生、私、頑張ります。だから先生も頑張ってください」
「ええ、約束します。あなたが弾きたい曲をもう一度弾けるように」
凛は深く頷き、診察室を出ていった。
――院長室のドアを叩いたのは、朝の九時だった。
俺は治験申請書の控えを手に、黒川院長の前に立っていた。
「佐藤君、座りたまえ」
ソファに腰を下ろすと、黒川は分厚い眼鏡の奥からこちらをじっと見た。
「申請書は目を通した。結論から言おう。私は反対だ」
俺は何も言わず、相手の言葉を待った。
「君の研究は確かに先進的だ。しかし、第一相試験のデータが揃っていない段階で人に投与するのは早すぎる。成功率は、君自身が算出した数字でも三割を切っている」
「数字は承知しています。ですが、対象患者の余命を考えれば、待っている時間はありません」
「待つことができないのは、その患者の事情だろう。病院の事情ではない」
穏やかな言い方だったが、言葉の端々に釘のようなものがあった。黒川は紙の束を机に置いた。
「失敗すれば、君の研究者としての将来は終わる。それだけじゃない。この病院の信頼も損なわれる。学会からの目もある。私はこの椅子を守る立場として、許可は出せない」
「責任は私が全て取ります」
「君一人で取れる責任ではないんだよ、佐藤君」
俺は黒川の顔を見据えた。この人も間違ったことを言っているわけではない。組織の論理としては正しい。正しいからこそ、始末が悪い。
「院長、あの患者はピアニストです。指が動かなくなれば、生きていても死んだのと同じだと、本人が言っています」
「感情論で医療を動かしてはいけない」
「感情論ではありません。医師としての判断です」
黒川はため息をついて、椅子の背に持たれた。
「君は昔からそういう男だったな。一週間、考える時間をくれ。その間にデータを補強したまえ」
退出して廊下に出た瞬間、俺は壁に手をついた。許可はおそらく出ない。それでも、止める気はなかった。
研究室に戻ると、女性医師の藤堂マリがカルテを抱えて立っていた。俺の表情を見て、彼女は全てを察したらしい。
「先生、無理を通すおつもりですね」
「ああ、止めても無駄だぞ」
「止めません。ただ、私も巻き込んでください。一人で暴走されると、後で困りますから」
俺は彼女の目を見て、小さく頷いた。
「すまない、借りができたな」
「借りはたくさんありますから、気にしないでください」
――その夜、俺は研究室に残り、データの再解析を始めた。窓の外はもう真っ暗だ。キーボードを打つ手が、いつもより重かった。
凛の入院が決まったのは、その週の終わりだった。
病室の窓からは中庭の銀杏の木が見える。彼女はベッドの上で本を読んでいることが多かった。
その日、俺は回診の最後に彼女の部屋に寄った。点滴の様子を確認し、容態を尋ねる形式的なやり取りのはずだった。
「先生、今日は時間ありますか」
「少しなら」
「じゃあ、座ってください。先生を見上げてると、首が疲れます」
俺は丸椅子を引き寄せて、腰を下ろした。
「先生、私、最近夜になると怖いんです」
「怖いというのは?」
「眠ったまま、もう目が覚めなかったらどうしようって。子供みたいですよね」
笑おうとして、笑いきれない顔だった。
「子供みたいではありません。誰だって怖いものです。それを口に出せる人の方が、ずっと強いと私は思います」
「先生、医者なのに優しいこと言うんですね」
「医者だから言うんです」
凛はしばらく黙って、それから天井を見上げた。
「先生、もし私が生きられたら、普通に恋とかしてみたいです。映画を見たり、ご飯を食べに行ったり。そういうこと、ずっと我慢してきたから」
俺は返事ができなかった。
「変なこと言ってごめんなさい。聞き流してください」
「聞き流せませんよ。患者さんの言葉は全部聞いておく主義です」
「ずるい言い方ですね、先生」
笑った彼女の頬に、わずかに赤みが戻っていた。
部屋を出て廊下を歩きながら、俺は自分の鼓動に気づいていた。医師として超えてはならない線がある。四十五年生きてきて、それを破ったことは一度もない。だが今、その線の上に俺は立っている。
研究室に戻り、椅子に深く座り込んだ。机の上には凛の血液検査の結果が広がっている。データを見るたび、その向こうに彼女の顔が浮かぶ。
これは恋なのか。それとも、救えないかもしれない命に対する、別の感情なのか。区別がもうつかなかった。
――事態が動いたのは、移植適合検査の途中だった。
万一の場合に備え、血縁者からのドナー候補も調べておく必要があった。母のサンプルが先に届き、続いて凛のデータが揃った。俺は通常こういう作業を技師に任せている。だがその日はなぜか、自分の手で照合したくなった。
マリと二人、深夜のラボで画面を見ていた。
「先生、これ、おかしくないですか」
「どこだ」
「ここの遺伝子マーカーの並びです。先生のデータと、不自然なくらい近い」
俺は画面を覗き込んだ。自分の遺伝子サンプルは研究の都合で以前から登録してある。比較対象の一つとして、機械が自動的に表示したらしい。
並びは、偶然と片付けるには近すぎた。
マリが静かにこちらを見た。
「先生、白瀬さんのお父様について、ご存知ですか」
「凛が五歳の時に亡くなったとしか」
「お名前は?」
「聞いていない」
その夜、俺は母に電話をかけた。受話器の向こうの彼女は、しばらく無言だった。それから震える声で、こう言った。
「やはり、その日が来たのですね」
――翌日の午後、病院の談話室で、俺は白瀬美と向き合った。彼女は膝の上で両手を組み、深く息を吸った。
「夫の名は、佐藤和彦と申しました」
その名前を聞いた瞬間、俺の中で何かが崩れる音がした。
俺の実の父の名だ。
俺は幼い頃に両親が離婚し、父の顔を覚えていない。ただ書類の上で何度か見たことのある名前だった。
「夫には、別の家庭がありました。私と知り合ったのは、その後のことです。夫は最後まで、あなたのことを忘れていませんでした。会いに行きたいと、何度も口にしていました」
「では、凛は――」
「あなたの妹です」
談話室の壁の時計が、やけに大きく聞こえた。俺は膝の上で両手をきつく握りしめていた。
「先生のお名前を新聞で見た時、まさかと思いました。でも、佐藤という苗字は珍しくない。確かめる勇気もなく、ただ娘の命を救ってくださる方なら、それでいいと。ずるい母親です」
俺は何も言えなかった。
あのペンダント。凛が父の形見だと言った、小さな銀の楕円。胸の奥でざわついた違和感の正体が、今、目の前に並んでいた。
「凛には、私から話します」
「いえ、私が話します。それが医師として、そして――兄としての務めです」
恋をしかけていた人は、妹だった。妹である人を、医師として救わなければならない。
――夕方の病室には、西日がカーテンの隙間から細く差し込んでいた。
凛はベッドに座り、楽譜を開いていた。俺が入っていくと、いつものように顔を上げて笑った。
「先生、今日は早いんですね」
「ええ、少し話したいことがあって」
椅子を引き寄せ、腰を下ろした。俺は膝の上で手を組み、彼女の顔を見た。言葉がすぐには出てこなかった。
「先生、何か悪い結果ですか」
「結果の話ではありません。あなたと、私自身の話です」
俺は一度、深く息を吸った。
「移植適合検査の過程で、分かったことがあります。あなたのお父様の名前は、佐藤和彦さんですね」
「はい。母からそう聞いています」
「それは――私の父の名前でもあります」
凛の顔から、ゆっくりと表情が抜けていった。俺は続けた。
「私は幼い頃に両親が離婚し、父の顔は覚えていません。ですが、書類で何度かその名前を見ています。お母様にも確認しました。間違いありません。私とあなたは、同じ父を持つ兄妹です」
凛は何も言わなかった。胸元の銀のペンダントを、指でそっとつまんでいた。
「じゃあ、私が先生に向けていた気持ちは――」
「あなたが悪いのではありません。知らなかったのです。私もです」
「先生は知ってましたか。少しでも気づいていましたか」
「気づきませんでした。ただ、あなたのペンダントを見た時、説明のつかないざわつきがあった。それだけです」
凛は天井を見上げ、それから顔を覆った。肩が小さく震えていた。
俺は何もできなかった。手を伸ばすことも、肩に触れることも、もう許されない気がした。ただ椅子に座り、彼女の震えが収まるのを待っていた。
長い時間が経った後、凛は手を下ろした。頬が濡れていた。それでも彼女は俺をまっすぐに見た。
「先生、私、一つだけわがまま言っていいですか」
「言ってください」
「それでも私は――生きたいです。お兄さんでもいい。先生に助けてほしいです。まだ弾きたい曲があるんです」
その言葉を聞いた時、俺の中で何かがようやく定まった。
「助けます。必ず助けます。それが私がこの世にいる理由だと、今、分かりました」
凛は小さく頷いた。
――翌朝、俺は院長室の前に立っていた。ノックする手に、迷いはなかった。昨夜のうちに、マリと二人で最後のデータをまとめ上げていた。
「佐藤君、返事を聞きに来たのか」
「いえ、報告に参りました。手術を行います」
黒川は眼鏡を外し、こちらを見上げた。
「許可が降りないことは承知しています。責任は全て私が取ります。退職届も、辞表も、必要であれば差し出します。ですが、今日これから、白瀬凛の手術を行います」
「君は何を言っているのか、分かっているのか」
「分かっています。あの患者は――私の妹です」
黒川の顔から、表情が消えた。俺は構わず、机の上に書類を並べていった。新たに揃えたデータ。類似症例の海外論文。マリと共に練り直した投薬プロトコル。
「院長、私はこれまで組織の論理に逆らったことはありません。今回が最初で最後です。妹を見捨てた医師として残る人生は、私には耐えられません」
黒川はしばらく書類を見つめていた。
「君がそういう顔をするとはな」
「申し訳ありません」
「謝るな。私は許可を出さない。出さないが――見なかったことにする。それが私にできる精一杯だ」
俺は深く頭を下げ、部屋を出た。
手術はその日の午後に組まれた。マリがスタッフを集め、機材の最終確認を進めていた。
オペ室の前で、術衣に着替えた俺と、ストレッチャーに乗せられた凛が交差した。
「先生」
「はい」
「ちゃんと戻ってきますから。先生も、ちゃんと戻してくださいね」
「ええ、約束します。あなたの指でもう一度、ピアノを弾かせます」
凛は小さく笑った。胸元の銀のペンダントが、看護師の手でそっと外され、ビニール袋に収められた。
オペ室の扉が閉まる。俺は手を消毒しながら、深く息を吸った。
ここから先は、兄でも、恋をしかけていた男でもない。ただの一人の医師だった。
――手術は長時間に及んだ。新薬の投与、神経への精密な処置。血圧の変動。何度も危うい場面があった。その度、マリの冷静な声が飛んだ。
「先生、血圧戻りました。続行できます」
「ありがとう。このまま行く」
俺は指先に意識を集中させた。何時間が経ったのか、もう分からなかった。
最後の縫合を終え、メスを置いた時、マリが小さく呟いた。
「先生、成功です」
俺はマスクの中で、長く息を吐いた。オペ室の天井の照明が、急に眩しく見えた。
――数ヶ月後の春、都心のコンサートホールは開演前のざわめきに包まれていた。
俺は二階の隅に座っていた。隣には白瀬美が静かに腰を下ろしている。
「先生、本当にここでよろしいのですか」
「ええ。客席で聞くのが一番です」
照明が落ちた。拍手の中、白いドレスの凛が現れた。半年前より、ほんの少しだけ細くなった。だが、その歩みはしっかりとしていた。
胸元には、あの銀のペンダントが光っていた。
ピアノの前に座り、彼女は深く息を吸った。
最初の一音が、ホールに落ちた。
新曲だった。プログラムには「兄へ」とだけ書かれていた。
旋律は静かに始まった。何かを失った人の足音のような、ためいちような音。それが少しずつ広がり、やがて、澄んだ光のような音へと変わっていく。
失われた時間と、新しく結ばれた絆。言葉では表せないものが、音の中に確かにあった。
隣で美が静かに涙を流していた。ハンカチを口元に当て、肩を震わせている。通路の向こうのマリも、目を伏せていた。
俺は泣かなかった。ただ、客席の暗がりの中で、舞台の上の妹を見つめていた。
最後の和音が、ゆっくりと消えていった。数秒の静寂の後、拍手が始まった。
立ち上がる人々の中で、凛は深く頭を下げた。顔を上げた時、彼女の視線が一瞬、二階のこちらに向いた気がした。
俺は軽く、右手を上げた。
ホールを出た後、美が小さな声で言った。
「先生、あの子はいいお兄さんを持ちました」
「いいえ――私の方こそ、いい妹をいただきました」
夜風が、街を抜けていった。



