「大げさだな、あんなの。寝かせとけば治る」—…

「大げさだな、あんなの。寝かせとけば治る」—...

足を引きずりながら玄関を出ると、背後から達也の声が聞こえた。
「大げさだな。あんなの。寝かせとけば治る。」
義母も続けて言う。
「全くよね。心配してもらいたいんだろう。」
私は無視してタクシーに乗り込んだ。病院で診察を受けると、診断結果は右足の骨折。即入院となった。

連絡を受けた達也は大笑いだったらしい。彼は医師の島田に「明日、笑いに行く」と伝えたそうだ。
翌日、病室にやってきた義父と義母は、開口一番こう言った。
「あれ?嫁は?」
島田が不敵に笑う。
「警察署です。すぐに帰ってきますよ。警察官と一緒に。」
「え?」
義父たちは呆然と立ち尽くしていた。

私は自分が何に巻き込まれていたのか、ゆっくりと思い出していた。

最初は、すべては些細なことから始まった。
私はエリ。31歳。夫の達也と結婚して2年になる。だが、私にとって家は居心地の悪い場所でしかなかった。義父は私を召使いのように扱い、義母はそれを見て見ぬふりをしていた。達也に相談しようと思っても、彼は私にまったく興味がない。

「離婚?お前が慰謝料を払うなら、いくらでも考えてやるぞ。」

結婚したこと自体が間違いだった。私の周りは敵だらけ。最近は本気で離婚を考えることが多くなっていた。

そんな私たちの結婚は、妹のミナの一言がきっかけだった。結婚前、父が経営する金属加工会社で事務をしていた私は、来客の相手をすることが多かった。達也は父の会社の取引先で働いていて、私が接客していた人物の一人だった。個人的な話をする機会はあまりなかったが、世間話はよくしていた。

その様子を見ていたミナが私にこう告げた。
「お姉ちゃん、あの人と結婚すれば?」
「え?何を急に。」
ひどく慌てた。私は恋愛経験が少なく、結婚は半ば無理だと諦めていたからだ。だが、なぜかミナは私と達也をくっつけようとする。彼に私の印象を聞いたり、強引にデートをセッティングされたこともあった。

「ごめんなさい。妹が強引で。」
「いや、俺は別に。君だったら結婚相手にも文句なしだよ。」

この会話の直後、私たちは正式に付き合い始めた。結婚したのは1年後のことだ。諦めていた結婚ができたのもミナのおかげだと、彼女に感謝した。

新婚生活は、達也の頼みで義実家での同居となった。義母はいい人で、彼女と2人で家事を分担することに。私の新婚生活は静かに始まった。
そこまでは良かったが、思いのほか義父が私に厳しかった。

「エリさん、ちょっと来てくれ。」
仕事から帰ってきた義父が私を呼ぶ。玄関先まで飛んでいくと、彼は荷物を渡してきた。
「これ、頼んだぞ。」
「え?何ですか?」
鞄を受け取りながら尋ねると、彼は呆れたようにため息をついた。
「何って鞄だろ?片付けておいてくれ。私が嫁なんだから、これくらいは当然だろ。」
不愉快そうな顔をする義父に、私は愛想笑いを返した。
「あ、分かりました。」
「風呂に入ったら飯を食うから、ちゃんと用意しておけよ。いいな。」
「あ、はい。」

反射的に返事をしてしまう。義父は満足そうに頷いていた。これが私の仕事なの? ついつい心の中で呟く。

キッチンへ戻ると、義母は申し訳なさそうに話しかけてきた。
「ごめんなさいね。迷惑をかけて。」
「いえ。あの人、未だに頭の中が昭和だから。」
「一家の大黒柱である男が偉いと思っているようだ。逆らうと機嫌を損ねるから、ご機嫌を取っておくのが一番よ。」
「そうですね。」

引きつった顔で首を縦に振った。しかし、これが良くなかった。義父は私が逆らわないと気づくと、要求をエスカレートさせていった。

「エリさん、腰のマッサージを頼む。」
「え?私が?」
「これも嫁の仕事だろう。」

強く言われる。とっさに私は口をつぐんだ。
「どうした?返事は?」
「はい。」

しぶしぶ頷くが、次第に「どうして私が」という気持ちが強くなっていった。やがて耐え切れなくなり、実父に電話で相談してみる。
「父さん。義父にこき使われてるんだけど、これって普通なの?」
「俺たちの時代は普通だったが、今はどうだろうな。」
父は随分と考え込んでいた。
「一応ね、嫁だから多少のことは言いつけられるのは分かるの。でもさすがに召使いじゃないんだから。」
「そうか。じゃあ、達也君に相談してみるのはどうだ?彼なら今時の夫婦関係にも理解があるんじゃないか。」
「達也か。そうね。聞いてみる。ありがとう。」

愚痴をこぼしたこともあり、少しだけすっきりした。よし、達也が帰ったら話してみよう。

夕方になり、先に義父が帰宅する。彼はいつも通り私を玄関先で呼びつけた。
「おい、エリ。帰ったぞ。」
この頃になると、完全に私を呼び捨てにするようになっていた。
「どうしましたか、父さん。」
「玄関で出迎えるのは当然だろ。ほら、鞄を持っていけ。」
「はい。」

嫌々ながら鞄を受け取る。義父はそんな私の気持ちに気づかないのか、平然と話を続けた。
「今日は先に飯を食うからな。用意できてるか?」
「え?ああ、いつもは義父は先にお風呂に入る。だからまだ夕食の準備は終わっていなかった。」
「どうした?」
「いえ、すぐに準備しますので、どうぞお上がりください。」

上がるように促すと、義父は顔をしかめた。
「なんだ、まだ終わっていないのか。使えない嫁だな。」
「申し訳ありません。」
「ふん。まあいい。嫁なんていくらでも替えが聞くからな。」

カチンと来た。私は達也と結婚したのであって、この家の嫁になったわけではない。
「では、いつでもお取り換えください。」
小さな声で言い返した。義父にも聞こえたようで、彼はむっとする。
「なんだその口の聞き方は?嫁が偉そうに。」

怒鳴りつけてくる義父。そこへ達也が帰ってきた。
「玄関先で何をしているんだよ、父さん。恥ずかしい。」
「おお、達也。実はな、この嫁が俺に口応えをして。」
義父が私のことを指差す。達也は呆れた顔でこちらを眺めていた。
「こんな生意気な嫁は初めてだ。」
「あら、達也って前に誰かと結婚していたの?初耳だけど。」
揚げ足を取るように言ってやる。その瞬間、達也が慌てた。
「そんなわけないだろう。父さん、余計なこと言うなって。」
「し、しかし、もういいから。ほら、早く行けよ。」

追い払うような仕草をする。義父は私を睨みつけた後、リビングの方へ歩いて行った。
「まったく。それで、お父さんの言っていたことは事実なのかしら?」
ただの言葉のあやだと分かっているけれど、ここぞとばかりに達也に聞いてみた。
「何を馬鹿な。嘘に決まってるだろう。」
ため息混じりに否定される。
「本当に?でもお父さんは随分と嫁の扱いに慣れているわよ。私のことなんか召使いみたいに使うし。」
「はあ?なんだよそれ。」
「そのままよ。」

少し語調を強めて、いつもの義父の態度を話した。詳しく話すうち、達也の顔色が変わっていく。
「それ、本当なのか?」
「嘘をついても仕方がないでしょ。私もお母さんも困っているわ。」
「全く。昭和の男なのは仕方ないとしても、今は考えられないぞ。まあいい。後で俺から注意しておくよ。」

私の頭を撫でる達也。怒ってくれる辺り、彼は違うようだ。私は少しだけほっとした。
その後、部屋に戻った義父の元へ達也が向かう。中から言い争うような声が聞こえていた。
やがて静かになると、達也が義父の部屋から出てくる。扉の前で立ち止まった彼は、中を睨みつけたまま大きな声で言い放った。
「今度エリに迷惑をかけたら、承知しないからな。」

翌日から、義父は私に大きな態度を取らなくなっていた。帰宅した時も静かで、そっと家に入ってきて自分で鞄を片付ける。かなり懲りているのだなと、私は内心ほくそ笑んでいた。しかし、数日後には元通りになってしまう。大声で怒鳴ることはなかったが、義父は平然と私に命令してきた。
「おい、エリ。腰が痛いから揉め。」
「またですか?」
「仕方ないだろ。普段から座りっぱなしなんだから。」

義父の仕事は運送業だ。主にトラックに乗っていると聞いていた。腰が悪くなるのも理解できる。
「少しだけですよ。」
「ええから、さっさとやれ。」

口調は荒いけれど、以前よりはいい。こちらが嫌そうにすれば諦めるからだ。ただ、この日は夕食の片付けも終わっていたため、少しだけマッサージに付き合った。
「ここですか?」
「もっと強くしろ。本当に使えないな。」

ふと見ると、義父はうつらうつらしている。すぐに寝るだろうと思い、私は両手に力を込めた。
10分ほど経ってから声をかけてみる。
「どうですか?」
義父からの返事はなかった。眠ったようだ。
「お母さん、あとはお願いします。」
義母と交代し、私は席を外した。

部屋に戻った途端、達也がこちらを向く。
「お、エリ。さっき父さんに呼ばれていただろう。何だって?」
「腰を揉めって。でももう寝ちゃったわ。」
「そっか。悪いな、色々とやらせて。」

達也はスマホを握っていた。手元を覗き込もうと顔を近づけると、次の瞬間、彼はさっとスマホを隠した。険しい表情でこちらを睨みつけてくる。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない。」

達也の態度に違和感を覚えた。まさか浮気じゃないでしょうね。
「違う違う。ちょっとアニメ風のゲームだから。」
「何?恥ずかしかったの?」
「まあ、ほら。」

仕方なくスマホを見せてくる達也。画面には子供向けのアニメのゲームが表示されていた。
「何よ、これくらい。恥ずかしがることはないわ。」
ポンと彼の肩を叩く。浮気を疑った自分が恥ずかしくなると同時に、私はほっとした。

翌日、同じように義父に腰を揉めと言われたが、あいにく片付けが終わっていない。
「すみません。今日は…」
丁寧に断ろうとした途端、義父がめくじを立てた。
「嫁のくせに生意気なことを言っていると、実家がどうなっても知らないぞ。」
「え?実家?」
思わず聞き返す。義父は勝ち誇ったように笑った。
「お前の実家の会社、達也の会社と取引をしているだろう。俺に文句を言うなら、それを潰してしまうぞ。いいのか?」
明白な脅し文句に、鼓動が速くなる。
「それ、お父さんには何の権限もないですよね。」
「ああ、でも俺が達也に指示したら、無理じゃないだろ。頭が悪いから分からないか。」

得意げな義父。会社同士の取引に私情を持ち込むのは許せない。まして義父は無関係の人間だ。
「そっちがその気なら。」
私はスマホを取り出し、義父の方へ向けた。
「今の言葉、達也や関係者に聞かせましょうか。録音していたんですけど。達也の会社の人が聞いたら、どう思うでしょうかね。無関係の人間が口を出すなと訴えられるかもしれませんよ。」
軽くスマホを振ってみる。義父は反射的に視線を逸らした。
「会社の名前を勝手に使うと、名誉を毀損して訴えられますよね。取引を中止にするというのは脅迫ですし。大丈夫ですか、お父さん?」
「あ、違う。私はそういうつもりで言ったわけでは…」
「じゃあ、どういうつもりだったんですか?」
強く問い詰める。

実は、これは義母が考えた作戦だった。義父のせいで離婚になった場合、その証拠が必要になる。普段の言動を録音しておけば必ず役立つと義母は言ってくれた。こんな形で使うとは思わなかったが、実に効果的だった。
「だから、その…」
「父さんの負けだよ。謝りな。」
背後から達也の声がする。振り返ると、私の肩に手を置いた彼が間に割って入った。
「父さんからすれば、エリは嫁だから少しくらいは用事を言いつけてもいい。でも、勝手に俺の会社を引き合いに出すのは許せないな。」
「な、なんだよ、達也。俺の味方じゃないのか?」
「味方をしたいけど、父さんがしたことは法的にまずい。俺も会社を首になるのはごめんだからね。」
達也がため息をつく。義父は悔しそうに俯いた。
「とにかく、次は許さないって言ったよな。」
「もう待ってくれ。ほんの冗談だったんだ。ちょっと気が立って。」
「ああ、そうかよ。じゃあ見逃すけど、言うことがあるよな。」
達也が義父を睨みつける。彼は視線を逸らしたまま頭を下げた。
「エリさん、申し訳ない。」
「はい。今の所、映像も録画しましたので。」
「あっ!」
さっと義父が顔を上げる。スマホを向ける私と目が合い、彼はその場に崩れ落ちていた。

達也が間に入ったことと録音のおかげで、義父はすっかり大人しくなる。仕事から帰っても私を無視して、義母にばかり用事を言いつけていた。
「お母さん、大丈夫ですか?」
「ええ、私は慣れているから平気よ。」

言葉とは裏腹に、義母は辛そうにしている。しかし、そんな日々も長くは続かない。ある日、父が入院したと、彼の会社の取締役から連絡が入った。
「すみません。父の見舞いをしたいので。」
「いいわ。家のことは私に任せて。」

疲れきった顔をしている義母。彼女を置いて行ってもいいのだろうか? 迷いつつも、私は父が入院した病院へ急いだ。向かった先は地元の総合病院。あまり大きくはないが、父の友人である島田という男性医師がいる。
「おお、大きくなったね、エリさん。」
「お久しぶりです、島田さん。父の容体は…」
「僕は詳しいことは分からないけど、うん。」

言葉を濁す島田さん。父の病気はガンだと聞いていた。専門が違うとはいえ、彼なら私よりは詳しいはずだ。その彼が明言しないということは…私はすぐに気づいてしまった。
「そうですか。」
「ああ、大丈夫だよ。担当医だし、僕からもよく言っておく。こう見えても発言力はあるからね。」
島田さんがガッツポーズをする。私を励まそうとしているのが見え見えだ。

その後、父の病室へ向かう。ベッドの上に座っていた父は、意外にも元気そうだった。
「お父さん、起きてていいの?」
「エリか、久しぶりだな。生活はどうだ?ちゃんとやっているか?」
「うん。心配ないわ。それよりも具合は?」
ベッドの脇にあったカーディガンを父にかける。彼は袖を通しながら答えた。
「まあ、ぼちぼちだ。ところで、ミナは何か聞いているか?」
「ミナは…」

どう返すべきか迷ってしまう。昔はそれなりに仲が良かったけれど、今はそうでもなかった。一つは私が結婚したため、会う機会が減ったからだ。もう一つは、ミナの就職の件で揉めたのが原因だった。大学を出た後もミナは就職せずにブラブラとしている。心配した私は彼女にこう言った。
「結婚したら私は仕事をやめるわ。私の代わりにあなたがお父さんの仕事を手伝うのはどう?」
「あ?就職しろってこと?」
「え?そうよ。でも、アルバイトだと駄目でしょ。」
真面目に話す。するとミナは口を尖らせた。
「何それ?アルバイトを見下しているの?」
「そうじゃないけど。」
「じゃあ何?そんなに正社員が偉いの?私は自由に働きたいだけなのに。」

不満タラタラだった。別に正社員がいいと思っているわけではない。ただ自分が抜けた穴を埋めてもらいたかっただけ。信頼できる誰かに父を支えてもらおうと思っていた。
「私の言い方が悪かったわ。実はね…」
「はいはい。そこまでお説教は聞きたくないわ。」
ミナが前を向く。私はとっさに口ごもった。
「結婚して出て行ったお姉ちゃんは、余計な口を出さないで。私は自由を謳歌したいの。」
「でも、お父さんの会社は…」
「ああ、そんなのは遺産の時に考えればいいじゃん。お父さんだって、私たちに世話になろうとは思っていないわよ。」

こういう具合で話にならなかったのを、よく覚えている。
「お前の顔を見れば大体分かる。何も言うな。」
「ああ。うん。ごめん。」
「いいさ。ミナにも自由に生きる権利があるからな。」

力なく笑う父。その横顔が病状の深刻さを物語っていた。

帰宅した後、ミナに電話をかけてみるが、彼女は出ない。話の内容を察していたのか、メールを送っても無視される。結局、ミナと連絡を取り合うことはできなかった。
通院する間にも、父の病状は悪化していく。私は頻繁に病院へ通っていた。しかし、父の元へ行けば家のことがおろそかになってしまう。家事は義母に任せきりになっていた。そんな状況に、義父が怒り出す。
「なんだ、お前は?嫁のくせに、家のことはほったらかしか。」
「すみません。今は父が…」
懸命に頭を下げるが、義父は私を怒鳴りつける。
「それは聞いているけど、家事をサボっていい理由にはならんだろう。」
「あ、はい。」
「だったら、明日からちゃんと家事をしろ。いいな。」

私はうなだれるしかなかった。今回ばかりは義母に甘えていたこちらが悪い。
キッチンへ向かうと、義母が一人で夕食の支度をしていた。
「すみません、お母さん。任せきりにしてしまって。」
「いいのよ。別に。大変な状況だもの。」
優しい言葉に、涙が出そうになる。しかし、次の瞬間、振り返った彼女の顔にドキッとした。
「それより、子供の方はどうなの?まだ?」
笑っているはずなのに、まるで睨まれているかのような表情だった。
「どうなの?子供は?」
「あ、いえ、実は最近達也は仕事が忙しいようで、帰りが遅くて。帰ってきて食事したらすぐに寝るという具合で。私も父の見舞いだけで手いっぱいで。」
互いにこんな調子で、子供ができるはずもなかった。義母に素直に事情を話すと、彼女は急にため息をつく。少し考えた後、私にこう言った。
「あ、そう。聞くんじゃなかったわね。」
「え?」
「別に。早く夕食の支度をしましょう。」

私に背を向ける義母。この直後、彼女の態度が豹変するとは、夢にも思わなかった。

翌日、私は一つの誓いを立てる。義母に家事を任せきりにしないことだ。父の病院へ向かう前に家事を片付け、夕方は早めに帰宅し、食事の用意を手伝うようにした。
しかし、普段通りに家事をしても、義母は不満そうにしている。
「お母さん、私、何か?」
「え?別に。」
義母はふんと鼻を鳴らした。結婚して以来、こんな態度の彼女は初めてだ。
ある日、リビングの掃除を済ませ、廊下に出ようとしたところで、背後から誰かに突き飛ばされた。思いきり転倒してしまう。顔を上げるが、近くには誰もいなかった。でも、その時家にいたのは義母と私の2人だけ。もう犯人は分かっていた。
「お母さん、どこですか?」
「何?」
義母がいたのは浴室の中だった。扉を少し開けて顔だけを出している。
「ずっとそこにいたんですか?」
「ええ、掃除をしていたのよ。何か用事かしら?」
口元に薄い笑みを浮かべる義母。急にゾッとした。
「いえ、今、後ろから誰かに突き飛ばされ…」
「ああ、うちには私とあなたの2人だけよ。」

「ですよね。」
思わず同意してしまう。なぜ義母がこんなことをするのか、私には理解できなかった。
義母も警戒した方が良さそうだ。私は常に録音するようにした。さらに証拠映像も残せるよう、室内にカメラも置く。自分では用意周到に準備したつもりだったが、不十分だったのだろう。義母と2人きりの家の中でも、何度も突き飛ばされるということが起きた。しかも、1度も瞬間の映像がカメラに映っていない。どうやらカメラの存在がバレていたようだ。

「どうしたの?何もないところで転んで。」
まるで私が勝手に転んだと言わんばかりだった。お母さんが押したんじゃ…と言っても、証拠がないと反論できない。だから私は強く言い返せなかった。

手早く家事を終わらせ、逃げるように父が入院する病院へ行く。ここにいる間が、唯一心が休まる時だ。
そんなある日のこと。入院中の父の元へ行くと、病室に1人の男性がいた。会社で働いている時に何度か会った覚えがある。名前は…と考えていたら、先に挨拶をされてしまった。
「お久しぶりです。弁護士の両領一です。」
父の会社で顧問弁護士をしている彼。以前名刺をもらったことがあった。
「今日はどうしてここに?」
「はい。お父様に遺言書の作成を頼まれまして。」
「遺言…」
確かに病状は良くなかった。担当医の島田さんの話を聞く限り、余命は数ヶ月くらいだろう。頭では分かっていたが、遺言と聞くと現実味を帯びてきた。
「もう帰りますので。では。」
彼はそそくさと病室を後にする。私に気を使ってくれたようだ。
「エリ、こっちへ来なさい。」
「はい。」
ベッドの脇にある椅子に腰を下ろす。父は、領一と話す時に持っていた封筒を私の前に置いた。
「中身は見る必要はない。お前が持っていなさい。」
「どういうこと?」
「いいから、大事にしていればいい。」
言葉の真意は不明だけれど、私は素直に従った。

父は静かに言った。
「ミナのことだが、最近はどうだ?」
「分かんない。会ってないし。電話にもメールにも出ないから。」
「そうか。それは仕方ないな。」
寂しそうな父。やはり最後くらいは会いたいのだろう。
「無理やりにでも連れてこようか?」
「いや、構わない。あいつの好きにさせてやれ。どうなっても自業自得だがな。」

病院を出た後、帰りのバスを待つ間にミナに電話をかけてみる。偶然かもしれないが、すぐに彼女は出た。
「もしもし、ミナだけど。」
弾んだ声。恋人からの連絡と勘違いしたのだろうか。
「ミナ、私。エリ。」
「え?なんだ?お姉ちゃんか。なんか用事?」
ふてくされているミナの顔が見えるようだ。
「お父さんのことだけど、お見舞いだけでもいいから。」
「またその話。私は忙しいの。」
電話はそこで切れた。しかし、通話が終わる瞬間、聞き覚えのある声がした気がする。今の声…達也?
直接話したわけではないので、はっきりとは言えない。だが、達也の声だったと思ってしまう。もし彼なら、どうしてミナの電話から声がするのか。嫌な予感が脳裏をよぎる。

すぐに達也に電話をかけた。時間的には彼は仕事中のはずだが、急に電話が繋がった。
「もしもし。エリ?」
「あ、達也。今どこにいるの?」
怖いと思いながら確認する。
「会社だけど。」
「会社?じゃあ仕事中…」
「いやあ、休憩中だよ。それがどうしたの?」
会社にいるなら、ミナの電話から彼の声が聞こえるはずがない。私の勘違いだと安心した。
「大丈夫?うん。うん。ごめんね。」
「全く。お父さんに何かあったのかと思ったじゃないか。」
達也が笑う。私も釣られて口元を緩めていた。
その瞬間、電話の向こうからこんな声がする。
「バカみたい。」

かなり小さいが、確実にミナの声だった。私が聞き返そうとすると、達也が急に口を開く。
「悪い、俺戻らないと。」
「あ、待って。ちょっと聞きたいことが…」
「ごめん、帰ったら聞いてあげるから。じゃあね。」
そこで電話は切られてしまった。

達也とミナが一緒にいたのは確実だ。あの2人が…浮気? 私の中で、考えたくもない想像が膨らんでいた。
帰宅後、私は達也を問い質すが、彼は否定した。
「就業時間中に浮気とか無理に決まっているだろ。」
「営業なんて、昼間は会社の外にいてもおかしくないわ。」
「だとしても自由な時間なんかない。スケジュールが詰まってるからな。」

結局、話は堂々巡り。その日の夜、帰宅した達也は自分の同僚に電話をした。相手の了解を得た後、私と代わる。
「お前が連絡した時、俺は確かにこいつと一緒にいたぞ。」
同僚が証言した。こうなると追求が難しくなる。相手が嘘をついている可能性もあったが、ことを荒立てても意味がないので、私の方が引き下がっておいた。直後に父の容体が悪化したのも、理由の1つだった。

父が亡くなったのは、それから3ヶ月後のことだ。
葬儀の間、達也はいい夫を演じていた。私を気遣い、参列者にも丁寧に挨拶をする。けれど、葬儀が終わった途端、彼の態度は一変した。
「お父さんも亡くなったし、もうお前に気を使う必要はないよな。」
「どういうこと?」
「俺が地味で大人しいお前と結婚したのは、家事をさせるため。お前なら黙って奴隷のことをやる、都合のいい女になると思ったからだ。」
むっとする。顔をしかめて言い返した。
「お言葉ですが、私、意外と芯は強いので。」
「だろうな。父さんにやり返した時に思ったよ。だから、お前からお父さんに告げ口されたら面倒だと考えた。」
達也が優しかったのは、父を警戒していたからだったようだ。私の愚痴を聞いた父が、達也の上司に話をする可能性がある。万一、それがバレれば出世に響くかもしれない。彼はそう考えていた。
「でも、お父さんは亡くなったし、安心だ。お前の味方はいないから、遠慮する必要はないよな。」
「最低。そんな人だと思わなかったわ。」
とっさに顔を背ける。すると達也は笑いながら言った。
「じゃあ、離婚するか。でも、お前が1人になってもやっていけないだろ。」
「そんなことないわよ。お父さんの会社だって。」
「お前が後継者になるのか?遺産相続で会社の株を手にしても、それで社長業をやっていけるとは限らないだろう。」
言葉に詰まる。確かに、社長業を引き継ぐ自信はなかった。結婚してからは家事ばかり。会社の仕事についていけない可能性もあった。
「とにかく、お前はうちで大人しく家政婦をやってろ。それが嫌なら離婚するか。でも、理由もなしに離婚するなら慰謝料は払わない。よく覚えておけ。」
現状、どちらにも責任はない。達也の浮気も曖昧なままだ。これで離婚をするなら、性格の不一致というところか。やはり相手から慰謝料をもらうのは難しい。
「あなたの浮気の証拠を見つけるわ。絶対に。」
「ああ、好きにしろ。悪いが、俺は浮気なんかしていないけどな。」
笑いながら部屋を出ていく達也。あまりにも悔しくて、自然と涙が溢れ出す。

そんな時、庭の方から達也の声がした。
「ああ、追い詰めておいたよ。そのうち弁護士に泣きつくだろ。」
彼の言葉を聞いた瞬間、両領一の顔が思い浮かぶ。弁護士の彼に頼めば、浮気の件もなんとかなるかもしれない。しかし、達也が私の希望を打ち砕いた。
「弁護士と会っているところを撮影すれば、浮気の証拠の完成だ。あいつの有責で離婚できるよ。簡単だろう。」

もう打つ手がない。私はその場にうなだれた。達也の言う通り、大人しく家事をしていよう。家政婦のように働いていれば、少なくとも生きていける。今までの生活が続くだけだと思った。
ゆっくりと立ち上がり、キッチンへ向かう。扉を開けると、義母と目があった。
「ほら、食事の準備をしなさい。」
「お母さん、悪いけど、もう遠慮はしないわよ。だって、あんたは捨てられたんだから。あははは。」
義母が大声で笑う。カチンと来たが、言い返せなかった。
「さっさと始めなさい。」
義母が怒鳴る。私は大人しく食事の準備を始めた。
「ああ、次の嫁は後継ぎを産んでくれるといいんだけど。」
背後で義母が呟く。反射的に私は振り返った。
「それ、どういうことですか?」
「聞いたわよ。達也には新しい彼女がいるって。あんたの代わりの。」
「浮気相手のことか!」
思わずカッとなり義母に掴みかかると、彼女は私を突き飛ばした。
「何をするのよ?」
「新しい彼女って、浮気じゃないですか?」
「ああ、浮気じゃないわよ。まだ付き合っていないみたいだから。」
ふんと鼻を鳴らす。
「関係がある証拠がなければ、浮気と断言するのは難しいわ。さっさと離婚してくれない?その方がお互いのためよ。」

確かに、離婚したいと思っている。だが、一銭も渡さずに離婚するまでは…と私は歯を食いしばっていた。

その後、義母と義父の攻撃はエスカレートしていく。2人とも達也の新しい彼女に期待しているからだろう。
「おい、さっさと飯の準備をしろ。」
背後から義父が私の頭をこづく。暴力というには少し弱い。おそらく力加減を考えているからだ。万が一の際、必ず言い訳ができるようにしているのだろう。

ただ、私も黙って耐えていただけではない。達也の証拠を集めるため、両領一に協力を依頼していた。直接会えば達也の思う壺になる。そこで電話で彼の浮気調査を依頼していた。彼がうまくやってくれるはず。
そんなある日のこと。自分の部屋の前を掃除していた時、背後から思いっきり突き飛ばされた。廊下に置いていたバケツがひっくり返り、床は水浸しになっていた。
「あらあら、何をしているの?」
顔を上げると、義母がこちらを見ている。絶対に犯人は彼女だ。
「お母さんですよね。突き飛ばしたのは。」
「あら、証拠はあるの?」
ポケットの中のスマホを出した。
「録音しています。」
「音声は証拠にならないわよ。他には?」
得意げに聞いてくる義母。私は首を横に振った。
「じゃあ無理ね。とにかく、さっさと片付けなさい。風邪を引くわよ。」

このところ随分と気温が下がっている。早く着替えないと風邪を引くだろう。立ち上がった途端、義母が強引に私を座らせた。
「廊下の掃除が先よ。」
「私が風邪を引いてもいいんですか?」
「自己管理もできない嫁は必要ないわ。」
平然と言ってくる義母。しぶしぶ、私は廊下を拭いた。バケツを片付けた後、部屋に戻って着替える。体はすっかり冷え切っていた。

夕食の準備を始めたところ、体に異変があった。何か寒気がする。本来なら早く寝るところだが、義母はそんなに甘くなかった。
「ちゃんと後片付けをしておくのよ。最後にお風呂の掃除もね。」
夕食後、私は後片付けを押し付けられる。入浴は一番最後で、浴室の掃除をするというおまけ付きだった。これで体調が良くなるはずがない。案の定、翌日は熱っぽかった。だが、日曜日ということで家事も休めない。朝から義父に用事を言いつけられ、義母からは家事をしろと命じられる。バタバタと忙しくする中、廊下で一息ついた瞬間だった。
「おっと、悪い。」
義父の声がしたと思った途端、右足に強い痛みが走る。追い打ちをかけるかのように義母の声もした。
「邪魔よ。どきなさい。」

自分でも何が起きたのか全く分からなかった。しかし、最近の彼らの様子から考えて、おそらくは蹴られたのだろう。偶然ぶつかったふりをしたのだと思う。
「おい、邪魔だよ。まさか寝てるんじゃないだろうな。」
「すみません。足が…」
顔をしかめる。義母は笑いながら私の右足を叩いた。
「これくらい平気でしょ?大げさなのよ。」
「痛い。」
「全く。そうやって家事をサボるつもりなんでしょう。」
急にこちらを睨みつけてくる義母。私はそれどころではなかった。もしかして折れたんじゃないか…いや、それは大げさか。
「大げさだよ。そんなの。」
2人して笑っている声が聞こえるが、痛みで文句も言えなかった。

「ただいま。」
どこかへ行っていた達也が帰ってくる。リビングに倒れる私を見た途端、彼はこう言った。
「何の真似だそれは?虫か?猫だろ?構ってほしいって?」
「どっちでもいいわよ。とにかく、こんなところにいたら邪魔でしょ。」
「どうするんだ?達也、あんたが部屋に連れて行きなさい。」
追い払うような仕草をする義母。達也は顔をしかめた。
「なんで俺が?」
「仮にもあんたの妻でしょ。」
「そうだけど。」

口を尖らせる達也。あれこれと言い訳をしていて、話がまとまらない。もう無理だと思った私は、右足を引きずりながら立ち上がった。
「折れているかもしれません。病院へ行きます。」
3人に背を向け、右足を引きずったままリビングを出た。

実家に戻り、保険証を探す。さらに財布を持ち、上着を羽織った。そこへ達也がやってくる。彼は笑いながら言った。
「お前、何が折れているかもだよ。」
「悪いけど、前に骨折の経験があるの。」
中学生の時、不注意で手首を折ったことがある。鈍い音がして、強い痛みが走った。全身から脂汗が吹き出すような嫌な感覚。今の私は、当時と全く同じ感覚を覚えていた。
「偉そうに。これでどうするんだ?」
「病院へ行くわよ。」
「ああ、お父さんの知り合いの医者がいるんだろ。島田のことか。」
頷くのも面倒だった私は、知らん顔のままスマホを手にした。自らタクシーを呼ぶ。ちょうど近くに空車があるらしく、すぐに来てくれるということだった。

数分後、家の前にタクシーが到着する。玄関前で待っていた私は、足を引きずりながら立ち上がった。
「じゃあ。」
私のことを呆然と見ている達也に手を振る。彼はため息をつきつつ言った。
「大げさだな、あんなの。寝かせとけば治る。」
「全くよね。心配してもらいたいんだろう。」

背後から声が聞こえるが、私は無視してタクシーに乗り込んだ。
その後、病院で診察を受ける。診断結果は右足の骨折で、入院することになった。
連絡を受けた達也は大笑いだったらしい。彼は医師の島田さんに「明日、笑いに行く」と伝えたそうだ。

翌日、病室に来た義父たちは、開口一番こう言った。
「あれ?嫁は?」
島田さんが不敵に笑う。
「警察署です。すぐに帰ってきますよ。警察官と一緒に。」
「え?」
義父たちは呆然としていた。

私が島田さんからその話を聞いたのは、警察署を出た直後だ。逃げようとした3人は、警備員に取り押さえてもらった。証拠も揃っているし、もう絶対に逃さない。私の隣には警察官がいる。連絡をすれば、弁護士の両領一も駆けつけてくれるはず。復讐という名の舞台を始めるのは、今が好機だと。私はそう思った。

そんなことを考えている間に、私が乗っていた警察車両が病院に到着する。車椅子に乗ったまま車から下ろされた。
「大丈夫ですか?瀬野さん。」
声をかけてくれたのは、原田という男性の刑事だ。年齢は私よりも少し上の40代。真摯に話を聞いてくれ、私は安心して全てを打ち明けられた。話を聞いた彼が怒ったのは言うまでもない。私が見せた証拠にも目を通し、「必ず罰します」と約束してくれた。

病院内に入ると、島田さんの案内でカンファレンスルームへ向かう。奥へ進んでいると、どこかで聞いたことがある声が響いてきた。
「俺が何をしたって言うんだ。ただ嫁の見舞いに来ただけじゃないか。」
義父だ。呆れていると、島田さんがその部屋をノックした。中から返事があり、静かに扉が開かれる。
「ああ、エリ。お前…」
目を丸くして私に向かってくる達也。しかし、直前で原田さんが止めてくれた。
「なんだ、お前は?」
「さて、こいつが相手か。そうだろ。」
達也が私を睨む。
「こちらは刑事さんよ。」
「刑事?」
達也はぎょっとし、わずかに後ずさる。
「どうして刑事さんが来たか、分かるわよね。」
「知らねえよ、そんなこと。」

強がる達也。実際、彼は自分には関係ないと分かっていたのだろう。私の怪我に達也は関係していない。後で映像を見せたとしても、罪に問われるような話ではないからだ。しかし、問題は義父と義母だった。
「俺は蹴ってないぞ。何の話だ?」
「あなたじゃないわ。後ろの2人よ。」
義父と義母を交互に指差す。途端に義父が前に出てきた。
「嘘をつくな。俺が蹴ったという証拠でもあるのか?」
「あるわよ。ここに。」
ポケットからスマホを取り出す。義父はニヤリと笑った。
「音声データは証拠にならないぞ。声だけなら、蹴ったかどうか分からないだろう。」
「音声?何のこと?」
「とぼけるな。お前、前に入口は怒っている。録音を盾に脅しやがって。」

以前の件を随分と根に持っているようだ。私はこれ見よがしにため息をついた。
「勘違いしていませんか?スマホに入っているのは映像ですよ。」
「は?」
義父の顔が引きつる。私は思いきり笑顔を作った。

話は少しだけ遡る。義母に対しての警戒を強めた直後のことだ。私は度々攻撃されるようになった。そんな彼女から身を守るため、室内のあちこちにカメラを仕掛ける。けれど、なかなか証拠が録画できない。いつもカメラの撮影範囲外で事件が起きていた。
「これって、カメラの位置バレてる?」
すぐに私はそう考えた。実際、カモフラージュされているとはいえ、初見はカメラだ。よく見ればレンズがあると分かってしまう。
「じゃあ、それを逆手に取ればいいだけじゃない。」
隠そうとするから見つかるわけだ。だから、私は隠すことを諦めた。具体的には、分かりやすい場所にそれっぽいカメラを置いただけ。義父も義母も、撮影中だと分かれば何もしてこない。そして、何もない場所では手を出す。
「見える場所にカメラがあれば、それで撮影すると思うのが人間の心理よ。他に隠されているものがあるとは、なかなか思わない。」
笑いながら義父と義母に言ってやった。見えているダミーに目を奪われ、彼らは本物のカメラの存在に気づかなかった。

「映像、確認されますか?」
「はあ。当然だ。俺が蹴ったところが映ってないかもしれないからな。」
堂々と言い放つ義父。しかし、今のセリフで自分が蹴ったと自白したことに気づいていないのか。呆れた私は、スマホを原田さんに託した。
原田さんが再生したのは、昨日リビングで撮影された映像だった。最初に映っていたのは掃除中の私。そこへ義父が近づき、見えないところから右足を蹴った。痛みで転がっている私。さらに背後から、義母が私の右足を踏みつけた。
「どうですか?お2人が手を…まあ、この場合足ですが、出しているところははっきりと映っています。」
「出鱈目だ。フェイクだろ。」
「そのようにおっしゃられても…」
困惑しながらも、原田さんは続けた。
「お2人の言い分は分かりました。では、この映像が作られたものか、鑑定回しましょうか。」
「いいね。そうしてくれ。俺たちは無実だ。」
「ですが、仮に作られたものでない場合は、2人を逮捕する証拠になりますよ。」
「逮捕?」
義父の顔が引きつる。原田さんは平然と続けた。
「はい。現状、私はこちらの瀬野エリさんの証言のみを聞いています。彼女の訴えが事実だと考え、あなたたちに話を聞きに来ました。」
「だから、その女が嘘をついているだけだろう。」
「否定するのは自由です。ですが、今事実と認める場合と、否定した後で逮捕された場合では、裁判官の印象が大きく異なりますよ。」

簡単に言うと、素直に罪を認めたかどうかということだ。事件の内容や状況によっても異なるが、素直に認めた場合は、概して罪が軽くなるケースが多い。反対に、否定した上で証拠を提示されて逮捕されれば、情状酌量は難しいとなる。
「さて、もう一度お伺いします。あなた方が彼女を蹴ったというのは、事実ですか?」
原田さんが義父と義母に厳しい視線を向ける。義父は顔を背け、義母は俯いていた。
「お、俺は知らん。」
強く否定する義父。その隣で、義母は小さな声でこう言った。
「認めるわ。確かに蹴ったのは事実よ。」
「お前!」
義父がぎょっとする。しかし、義母は彼の方を向こうともしなかった。
「でもね、私は何も悪くないわ。夫がそうしろと言うから、仕方なく。」
「なんだと?俺のせいだっていうのか?」
「そうじゃない。あなたが嫁いびりを始めたからよ。」
正しいようで、義母の言い分はどこか間違っていた。人がしたから自分もやったというのは無理がある。まして、義父が義母に指示しているところなど、私は見た記憶にない。明らかに義母が勝手に行っているだけだ。
「大体、俺がお前に嫁いびりを指示したことがあるか?」
「あるじゃない。私が嘘をついているっていうの?」
「ああ、嘘だろ。俺はそんなこと言った覚えはない。証拠でも出すか?」
義母に掴みかかる義父。反射的に原田さんが止めに入った。
「落ち着いて。2人とも、順番に話を聞きますから。」

横で話を聞いている限り、義母は自分が助かりたいだけだと思える。義父に罪を着せられれば、同じ共犯でも罪の重さは変わるはず。本当に義母は賢い人だ。
「ごめんなさい、エリさん。私がバカだったわ。こんな人の言うことを聞いて。」
「はい。それ、本当ですか?」
「当たり前じゃない。結婚当初を思い出して。私が何度も助けてあげたでしょ。」
確かに、義母は私を助けてくれた。困った時には相談に乗ってくれている。実際、義母のアドバイスがあったから、義父にやり返すこともできていた。
「でも、お父さんの指示だとしたら、どうして2人きりの時まで?」
「え?だから、2人の時は何もしなくても良かったじゃないですか。後から、私はしていたとごまかすこともできたと思いますよ。」
「え、あ、それは…」
急に口ごもる義母。チャンスだと思った私は、義父に話を振った。
「お父さんも反論した方がいいですよ。このままだと、お父さんが主犯になり、全部の罪を押し付けられるかもしれませんよ。」
「おい、ヒロコ。お前、俺に罪を擦りつけるつもりか?」
「私は本当のことを言っただけ。」
「証拠があるのか?」
「ふざけるな。お前、そんな女だったのか。」
義父が手を振り上げる。すぐに原田さんが彼を止めた。
「暴力行為があれば、現行犯で逮捕しますよ。」
「なんだと?」
「でも、こいつが嘘をつくから。」
義父を指さす義母。
「知りません。私は夫の指示通りにしただけ。分かってくれるわよね、エリさん。」
「え?分かりませんよ。」
平然と答えると、義母は呆気に取られた。
「私が知りたいのは、私を蹴ったかどうかだけです。罪を認めるなら、2人とも仲良く刑務所へどうぞ。」
「だから、それは…」
「聞き飽きました。反論がないなら、お2人を傷害で訴えます。あ、警察署にはもう被害届を出していますから。」
義母の顔が引きつる。私は笑顔で続けた。
「証拠もありますし、2人で仲良く出頭してくださいね。」
「ま、待ってよ。」
「待ちません。」

次の瞬間、義父がすがりついてきた。
「待ってくれよ、エリさん。逮捕なんてことになったら、仕事はどうするんだ?」
「仕事ですか?」
冷たく答える。
「なんだ、その言い方は?すごく冷たくないか?」
「全然、私には関係ないですし。第一、捕まるようなことをするからですよ。」
ピシャリと言ってやった。これには反論ができなかったらしい。義父は悔しそうに口をもごもごと動かしただけだった。
「やがて、椅子の背もたれに体を預けていた。」
「この先の話は、所の方で伺いましょうか。」
「待ってくれ。俺は…」
「もういいでしょう。先ほどの映像は警察署でも保管しています。逮捕状が出るのも時間の問題ですよ。」

いくら否定しても、逮捕状が出ればそれまでだ。一度、2人は逮捕されることになる。その後、釈放されるかどうかは捜査の行方を見守るしかない。
「瀬野正尾さん、瀬野ヒロコさん。ご同行お願います。」
義父と義母に声をかける原田さん。2人は悄然としたまま立ち上がった。
「私はこのまま入院に戻ります。どうぞお大事に。」
「ありがとうございました。」
丁寧に頭を下げる。私の横を通り過ぎる時、義母は苦々しく言った。
「覚えていなさい。絶対に復讐してやるから。」
「傷害罪は15年以下の懲役。当分は外に出られないかもしれませんよ。」
「え、嘘?」

もちろん、単なる脅しだ。大抵は3ヶ月から数年の刑になるという話だ。状況次第では執行猶予がつくこともよくある。ただ、私は情状酌量をするつもりがないので、その可能性はかなり低かった。
義父と義母が連行されていく。その様子を横目に、達也が私に呟いた。
「お前、こんなことして無事に済むと思っているのか?」
「何?脅迫かしら?」
「ふざけるな。こっちはいい迷惑なんだぞ。」
「あなたには何も迷惑をかけていないわ。」
「は?両親が逮捕されたと知られたらどうする?俺は恥ずかしいんだぞ。」
「仕方ないじゃない。それだけのことをしたんだから。被害者の私が悪いというの?」
「とにかく、俺はお前のことは許さない。絶対に。」
「それはこっちのセリフよ。今回は手を出していなかったからって、無事に済むと思わないことね。」
ふんと鼻を鳴らすと、達也が私を睨みつけてくる。
「俺たちはもう終わりだ。」
「何?別れたいの?慰謝料を払うなら、離婚してあげるわよ。」
達也に言われたセリフをそっくり言い返す。彼は不愉快そうにしていた。
「俺を本気にさせたんだから、覚悟しておけ。じゃあな。」
「はいはい。あなたも覚悟しておいてね。さようなら。」
軽く受け流す。この会話が、私の離婚宣言となった。

達也が出ていった後、私は病室へ戻る。骨折の治療が終わるまで、当分は入院生活となった。
しばらくは平穏な生活ができる。私はそう考えていたが、入院中も達也が何度か尋ねてきた。用事は離婚のことばかり。本当に別れるのかとか、慰謝料は払わないという宣言までされてしまう。呆れつつも、随分としつこかった。

倉庫をするうちに、足の具合も良くなっていく。全治3ヶ月という話だったけれど、思いのほか症状は軽かったようだ。気づけば、1ヶ月ほどで退院の目処が立っていた。
「良かったですね、エリさん。」
「はい。ありがとうございます。」
いつも通り担当医の島田さんと話している時のことだ。不意に病室の扉がノックされた。
「はい。俺だ。ちょっといいか?」
達也の声に、顔をしかめる。
「同席しましょうか?」
「はい、お願いします。」
「じゃあ、僕が開けますね。」
扉を島田さんが開けてくれた。次の瞬間、達也が笑顔で入ってくる。
「待たせたな。」
「別に待ってないわよ。何か用事?」
「今日は離婚届を持ってきた。さっさとサインしろ。」
偉そうに離婚届を渡してくる達也。すでに彼の名前は書いてあった。
「悪いけど、話し合いもせずに離婚届にはサインできないわ。」
「は?どういうことだ?」
「だから、離婚には理由が必要でしょ。例えば、あなたの浮気とか。」
確信をつく。けれど、達也は全く動揺しなかった。平然と私を見て、顎で離婚届を示す。
「バカなこと言ってないで、早くサインしろ。あんまり騒ぐようなら、お前が不利になるだけだぞ。」
「私がどうして?」
「浮気しているからだよ。ほらよ。」
達也がベッドの上に数枚の写真を放り投げる。そこに映っていたのは、私と両領一だった。
「お父さんの会社の弁護士だっけ?そいつと付き合っているんだろ?」
「違うわ。これは遺産相続の話をしていただけ。」
事実だから、これ以外の言い方は難しい。それなのに、達也は納得しなかった。
「嘘つけ。遺産相続の話なら、なんで2人きりなんだ?」
「え?」
「法定相続人は、お前と妹さんの2人だったよな。2人で話すならまだしも、なんでお前だけなんだ。怪しいだろ。」
「別に怪しくないわよ。途中経過の報告を受けただけだから。それに、ミナにも連絡したけど、あの子には断られたわ。『途中経過はどうでもいいから、相続が決まってから連絡して』と言われたのが事実よ。」
「知ったことか。そんな言い訳。」

最初から信じるつもりはないようだ。私の発言を嘘だと決めつけ、浮気をしたことにしたいらしい。
「この写真だけでは、浮気とは言えないわよ。もっと決定的なものがないと。」
「決定的?」
「例えば、ホテルに入るところとか。」
視線をそらしながら答える。達也は不機嫌そうに眉をひそめた。
「うるせえ。浮気した人間の屁理屈なんて知らねえよ。」
「はいはい。とにかく、離婚届にサインはしない。」
「なら、この写真をばらまくぞ。浮気じゃないなら構わないよな。でも、『浮気中』という文字を入れたら、勘違いするやつが出ると思うぞ。」
ニヤニヤする達也。
「それ、名誉毀損になるわよ。お前のせいで、弁護士の名誉が傷つく。」
「俺は罪に問われても構わねえ。でも、弁護士の仕事は信用が大事だから、大変になるだろうな。きっと。」
半ば脅迫だ。それが嘘だったとしても、広まってしまうと訂正が難しくなる。私はまだしも、両領一は仕事に直結する。迷惑をかけたくなかった。
「本当に最低の男ね、あなた。」
「嫌なら、俺の頼み事を聞いてくれるだけでもいいぞ。」
「頼み事?」
首をかしげる。達也は大きく頷いた。
「遺産相続のことだが、少しだけミナに配慮してやれ。」
「ミナに?」
彼の口からミナの名前が出たことに驚く。これではっきりした。やはり達也とミナはグルだ。私が考えていた通り、2人は浮気の関係だと思われた。
「いいだろ、別に妹に配慮するくらい。」
「残念だけど、お父さんの遺言書があるわ。」
「遺言?」
達也が表情を曇らせる。私が頷くと、彼はため息をついた。
「そんなもの、無視しろよ。」
「無理よ。法的に有効なものだから。」
「内容は?」
わずかに声を荒らげる達也。
「特にないわ。自分の遺品は私に管理してほしいって。それくらい。」
本当に具体的な記載はほとんどなかった。明記されていたのは、遺品と預金の話だけ。時計やレコードなど、父が趣味で集めた品は私に譲ると書かれていた。そして、預貯金の大半はミナに渡すように指示されていたのだ。
「じゃあ、それでいい。俺の要求と大差ないからな。」
「でも、どうしてあなたがミナを気にかけるの?はっきり言って。」
「お前と別れたら、ミナと一緒になるつもりだからだよ。」
達也が名言する。
「やっぱり、浮気していたのね。」
「違うな。浮気じゃない。なぜなら、付き合っていないからだ。」
あっけらかんと答える達也。私はしかめつつ聞き返した。
「じゃあ、どういう関係なの?」
「兄妹みたいなものだよ。ちょっと遊んでやるだけ。あの子と。」
ようやく納得できた。達也にとって、私もミナも、利用するだけの都合のいい駒なのだろう。
「ミナは分かってるのかしら?」
「無理だろ。あの子、頭が…」
自分の頭を軽く叩く達也。はっきりとは言わなかったが、ミナは頭が良くないと考えているらしい。
「遺産相続でミナを有利にしなかったら、写真をばらまくつもり?」
「そんなことは言っていない。弁護士が困るんじゃないかって言っただけだ。それに、ミナのこともほったらかしだろ。あの子がどうなっているか、確認するべきだな。」
達也が笑う。少し腹が立ったが、文句を言う力はなかった。
「分かったわ。離婚届にはサインしてあげるわよ。それでいいのね。」
「手早く頼む。」
「はいはい。」
奥歯を噛みしめて、離婚届にサインする。書き終えると、すぐに彼の方へ突き出した。
「ほら、持っていきなさい。私の荷物は、全て実家へ送って。」
「分かったよ。サンキュー。」
軽く返す達也。
「ちょっと、ミナのこと、ちゃんと自分で確認しなさいよ。」
「じゃあな。」
達也は足早に病室を出ていく。ベッドの上に残された写真を、私は握りしめた。

口を挟む暇もなかったけど、大丈夫かしら。
私はスマホが使える場所へ移動し、ミナに電話をかける。彼女はすぐに出た。
「もしもし。何?もうすぐ仕事なんだけど。」
けだるい感じの声がする。深呼吸をしてから、私は彼女に尋ねた。
「ちょっと聞きたいんだけど。ミナ、借金とかしていないわよね?」
「え?借金?別にしてないわよ。」
あり得ないと言わんばかりの口調。しかし、次の瞬間、自分の耳を疑った。
「少しならお金は借りてるけど。世間ではそれを借金っていうか…」
イラッとしたが、懸命にこらえて話を続けた。
「誰に、どのくらい借りているの?」
「お姉ちゃんには関係ないでしょ。」
「関係あるわよ。遺産で返せるくらいなの?」
少し強い口調で聞く。私の迫力に負けたのか、ミナはしぶしぶ答えた。
「知り合いの人よ。100万くらい?」
思ったよりも大きな額だ。達也が言っていたのは、このことだったのか。
「どうしてお金なんか借りたのよ?」
「私の勝手でしょ?」
「まさか、誰かと付き合うために…」
嫌な想像が膨らむ。達也が自分と付き合うために、ミナに借金をさせた。私にはそう思えてならない。
「いいえ。ほっといて。」
勢いよく電話を切られる。信じたくはないが、達也の話は正しかった。今の私が何を言っても、ミナは聞かないだろう。私にできるのは、達也が言った通り遺産でミナに配慮してやることだけ。必要以上に多く渡してしまうと、それを当てにされる。調整をしろってことか。
ミナに遺産を渡しても、借金の返済に消える。残りは達也の手に入るだけだと思われた。しかし、何もしなければミナが困る可能性がある。私に残された選択肢は、ないに等しかった。

それから1ヶ月ほどが経ち、私の元に両領一から連絡が入る。内容は遺産相続の件だ。準備が整ったから、ミナを交えて話をしたいとのこと。指定されたのは実家だった。
達也との離婚届を提出した後、私は1人暮らしをしている。一度は実家に送ってもらった荷物も、全て自分のマンションに引き取った。そこは元々父が仕事部屋として使っていたらしい。1階の上、あまり広くはないけれど、1人で暮らすには十分だった。
遺産相続では、私はこちらのマンションをもらうつもりだ。実家の方はミナに譲りたいと考えている。固定資産税は必要になるけれど、価値は実家の方が高い。借金の額が正しいと断言できない以上、私の選択肢はこれだけだった。

実家に到着すると、リビングからミナが返事をした。
「お姉ちゃん、こっち。早く。」
「はいはい。そんなに急かさないで。」
リビングに入ると、室内にいたのは両領一。テーブルの上にはいくつかの書類が広げられていた。
「すみません。ご足労かけして。」
「ええ、こちらが依頼したことですので。」
頭を下げながら席につく。すると、両領一が私の前に1枚の書類を置いた。
「とりあえず、こちらを。」
「ありがとうございます。では、始めますね。改めまして、遺産の分配について協議いたします。」

まずは両領一が一礼する。続けて私も頭を下げた。少し戸惑っていたが、ミナも真似をする。こうして遺産分割協議が始まった。
「具体的な遺産ですが、こちらの家と土地、マンション、預貯金などがございました。これらをお2人で分けていただくことになります。」
「分かりました。一応、私とエリさんでどう分けるかを決めておきましたので、そちらの書類からご確認ください。」
両領一はミナの前にある書類を指差した。
実家はミナ。マンションは私がもらうことになっている。その他、預貯金は全てミナのもの。私がもらうのは、父の遺品となっていた。
「ねえ。お姉ちゃんがもらう遺品って、何?」
ミナが口を尖らせる。
「生前、父が着ていた服などですね。」
「服?」
わずかに顔をしかめるミナ。
「お父さんの服とか、私には必要ないでしょ。」
「そうだけど。他には会社の株とか、お父さんが趣味で集めたスクラップ記事もあるわよ。雑誌とかレコードなんかも、遺品という形でまとめているわ。」
無言で話を聞いていたミナが、急に顔を上げる。睨むような視線を私に向けると、彼女はこう言った。
「ねえ、それって価値のあるものもあるんでしょ?」
「そうね。高価なレコードもあるみたい。あとは時計も価値があるかしら。」
「なるほど。私は騙すつもりね、お姉ちゃん。」
ミナの顔が歪む。
「騙すってどういうこと?」
「だから、高価なものを黙って持っていくつもりでしょ。騙されないわよ。」
いつになく強い口調だ。そっと視線を外し、両領一に助けを求めた。
「遺品の価値に関しては、こちらで調査済みですよ、ミナさん。」
「本当に?」
「はい。詳細を調べるのも私の仕事ですから。」
両領一の答えに、ミナはあまり納得していない様子だ。私と彼の顔を交互に見て、難しい表情になっていた。
「気になるなら、遺品のリストを確認してみるのはどう?」
「リスト?」
「ええ、別の紙に遺品がリストアップされているでしょ。それを見れば何があるか分かるわ。気になるものがあれば、すぐにスマホで検索してみなさい。」

下手に説得しても意味がない。本人が納得することが重要だ。多少時間はかかるだろうが、後で文句を言われるよりは良かった。
ミナはリストの中から選んだ時計の型番をスマホに打ち込んでいた。
「これは5000円か。こっちは…1万。」
検索するたびに難しい顔をしている。どうやら自分の思い通りの結果ではなかったようだ。
「どう?特に高い時計とかないでしょう。」
「うん。レコードも安いものが多いし、一番高いものでも1万円くらいね。」
「はっきり言って、お金じゃないわ。お父さんの趣味なのよ。全部売ってもいいけど、私は大事にしておきたいから。」
「分かった。」
リストの査定が正しいということが、ようやくミナも納得する。
「じゃあ、配分はそれでいい?」
「いいけど…なんか変じゃない?」
ミナが首を傾げる。
「何が?」
「だって、私の方が多いもの。釣り合わないよ、絶対に。私の分は家と貯金で、現金だけでも1000万円以上あるわ。」
「そうね。」
作り笑いで頷く。そんな私の反応に、ミナは顔をしかめた。
「でも、お姉ちゃんはマンションと遺品でしょ。どうして?」

本当のことを言うべきか、少し戸惑う。その時、両領一が割り込んでくれた。
「エリさんは、会社の後継者になるつもりだからですよ。」
「え?後継者?」
「はい。政治さんの会社は株式会社です。しかし、彼が持っていた株式は、遺産には含まれていません。どうしてだと思いますか?」
「どうして?」
「実は、後継者に託すことになったからです。政治さんは生前、会社の株式を取り締役の数人に売却しました。彼らが選んだ後継者に売却することを条件に。」
「分かりにくいので、かいつまんで話すね。父は金属加工会社の社長だった。中小企業だが、一応は株式会社。当然、社長である父が大半の株式を有していた。普通なら、それらも遺産になる。私かミナが株式を相続した方が、社長に就任するのが一般的だった。しかし、父はそれを良しとしなかった。一つは、私が結婚退職をしていたこと。すでに会社を離れた人間が遺産相続をしただけで戻ってくる。それは社員の賛同を得られないと父は考えた。もう一つは、ミナが会社と無関係だということ。彼女は一度も会社に在籍していない。株式を相続しただけで、社長ができるだろうか。考えた末、父は取締役に託すことにした。自分が有していた株式を取締役に預け、彼らが認める人を社長に推してほしい。父はそう言い残したそうよ。」
「後日、取締役会で後継者が決まります。現状は副社長が代行を務めていると伺っております。」
「副社長の親戚の人だ。当人のことは知らないけど。」
「私は取締役会で認めてもらえるように努力するつもりよ。」
「うん。だから、私に多くの遺産を譲ってもいいってこと。」
「まあ、そういうことね。」
私が素直に達也の言う通りにした理由の1つがこれだ。ミナに多くの遺産を譲ったところで、最終的に私が会社の後継者になれば、会社が手に入ることになる。評価額だけ考えると、ミナの分と私の分は同じくらいだろう。
「結果的には、トントンになるってこと。」
「あ、そう。でも、私も後継者になれるチャンスあるのよね?」
ミナが聞いてくる。すかさず両領一が頷いた。
「その通りです。」
「じゃあ、私も後継者を目指すわ。」
あっけらかんと答えるミナ。そんなに簡単ではないと思うが、言わずにいた。
「では、まずは遺産の分け方につきまして、問題がないか確認お願いします。」
「いいわよ。これで、お姉ちゃんが少なくても文句を言わない理由も分かったし。」
「私も同意します。」
「それでは、遺産分割協議書を作成しますね。」

両領一は鞄の中から書類を取り出し、私たちの前に置いた。その後、私とミナが署名し、実印を押す。最後に必要書類を添付し、遺産分割協議書の作成は終了した。
「お疲れ様でした。これで遺産相続は終了です。」
「家の名義変更などは、私が懇意にしている司法書士の先生に頼もうと思いますが、私はそれで構いません。」
「ミナは?」
「いいわよ。」
どこかふてくされたような返事だ。
「では、私はこれで。」
両領一が席を立つ。次の瞬間、ミナが彼の腕を引っ張った。
「待って。まだ聞きたいことがあるの。」
「何でしょうか?」
「会社の後継者って、どうすればいいの?」
先ほどの発言は本気だったのか。どう考えても、ミナが後継者になるのは無理があった。
「ミナ、あなた本当に後継者を目指すの?」
「当然よ。社長になるチャンスだもん。」
「簡単に社長って言うけど、大変よ。」
アルバイトの経験しかないミナにとって、社長業がどれだけ大変なのか分かるのだろうか。そんな私の思いとは裏腹に、彼女は両領一に尋ねた。
「ねえ、後継者の条件って何?」
「私が知る限りでは、会社のことを正しく理解しているかどうかだと…」
曖昧な返答に、当然というべきか、ミナは少しも理解していなかった。
「どういうこと?」
「会社の業務や取引先との関係、資金調達方法など、社長に必要なスキルがあるかどうかだと、私は思いますが。」
「どうやって確認するのよ、そんなこと。」
「その点は私も同感だ。きちんと見極められるか、私も何とも言えない。」
「私が聞いた話ですと、その辺りのことをまとめた書類があるそうです。おそらく、遺品の中にあるのではないかと。」

彼の言葉を聞いた途端、私はピンと来た。以前、父が私に渡してくれた封筒のことだ。今でも大切にしまっていた。「大事にしていればいい」と言われただけなので、中身は一度も確認していない。
「あ、それ、お父さんが…」
とっさに口に出す。その途端、ミナが目くじらを立てた。
「分かった。お姉ちゃんが受けた遺品の中にあるのね。」
「違うの。私も今聞いたばかりで…」
「うるさい。私のことはバカにして。そんなに遺産を奪われたことが悔しいの?」
こちらを睨みつけるミナ。私はドキッとした。
「奪われた?」
「ええ、私が…達也と仲良くしているから、悔しいんでしょ。」
「それは、私が浮気をしたと言っているのかしら?」
少し探りを入れてみる。残念ながら、彼女は引っかからなかった。
「違うわよ。仲がいいだけ。離婚するまでは付き合わないって、彼に言われてるわ。」
「あ、そう。じゃあ、もう付き合えるわね。」
「え?」
ミナの顔色が変わる。この反応からして、彼女は私たちの離婚を知らなかったようだ。
「私たち、離婚したのよ。離婚届にサインしたのは、1ヶ月くらい前ね。」
私の中に「仕返し」という言葉が思い浮かぶ。ここでミナに離婚した件を告げれば、彼女は達也に交際を迫るはず。良い気味だ。
「それ、本当?」
「ええ、本当よ。きっと彼は、あなたに真実を打ち明ける機会を探っているのね。」
「じゃあ、私たちの交際に問題はないのね。」
彼女の問いかけに、私は大きく頷いた。ミナに迫られた達也が困ればいい。私は静かにほくそ笑んだ。
「では、私はこの辺で。エリさんも一緒にいかがですか?」
「そうですね。私も帰るわ。」
ミナは話を聞いていなかった。
「じゃあね、ミナ。何かあったら連絡するのよ。」
「はいはい。」
適当に返される。大丈夫だろうかと不安になりながら、実家を後にした。

家を出たところで、両領一が頭を下げる。私は首をかしげた。
「あの、何か?」
「いえ、黙っていて申し訳ありませんでした。今の遺産分割…実は。」
両領一がある事実を打ち明けてくる。話を聞いた途端、私はぎょっとした。
「それ、本当ですか?」
「はい。これで、あなたを苦しめた人間に復讐できます。」
「復讐?でも、遺産を分けただけですよね。」
「そうですが、これで向こうは動かざるを得なくなりました。この先、私の言う通りに行動してください。まずは…」
細かい指示を出される。分からなくなりそうだったので、私はメモを取った。
両領一の話を聞く限り、確かに復讐できそうな気がする。けれど、本当に彼の考えている通りに相手が動いてくれるだろうか。不安がよぎるが、彼は言った。
「これは、政治さんが練りに練った作戦です。きっと成功しますよ。」
そう言われると、本当に自信が湧いてくるから不思議だ。

自宅に戻った私は、まず父から預かった封筒を探す。クローゼットの奥深くに、封筒は眠っていた。中身を取り出し、両領一の指示に従ってスマホで撮影する。入っていたのは数枚の書類だった。取引先や会社の業務について詳しく記載されていた。じっくりと眺めていて、ふと最後の内容に目が止まる。そこにはこう明記されていた。
「この書類を持つものを後継者とする。」
なるほど。両領一の指示の意図が、この一文で明確になる。同時に、少しだけ怖くなった。
私はクローゼットからキャリーバッグを引っ張り出した。その中に着替えを詰めていく。言うまでもなく、旅行の準備だ。行き先はどこでもいいらしい。近場の温泉旅館へ行こうと考えていた。
ほどなく、両領一に指示された準備が全て終わる。最後に、私は達也に電話をかけた。
「もしもし、達也?」
「あ、エリか。なんだ、急に。」
疑っている様子だ。私は明るい声で話を続けた。
「あのね、ちょっと聞いてもいい?明日から隣の県の温泉旅行に行くことになったんだけど。お土産って何が有名かな?」
「は?そんなの知るかよ。」
「友達にお土産を買いたいのよ。教えて。」
「適当に買えばいいだろう。」
めんどくさそうに答える達也。私は食い下がった。
「明日から1週間も行くのよ。お土産くらい買わないと。」
「はいはい。じゃあ、温泉饅頭とかはどうだ?」
「温泉饅頭か。いいわね。そうするわ。ありがとう。」
必要なことは伝えたので、電話を切る。後は待つだけだと、私はスマホを握りしめた。

翌朝、両領一に言われた時間に家を出る。きちんと鍵を閉めたか、2度確認した。その後は温泉旅行へ向かっただけ。不安は尽きないが、言われたことは全てやった。両領一を信じて旅行を楽しむ。そして、3日ほどが経った時のことだ。
夕食を食べるために食堂へ向かっていると、不意に従業員に呼び止められた。何でも、警察から連絡が入っているとのこと。
「もしもし。ああ、どうも。瀬野エリさんですか?私、原田です。」
相手の警察官は原田だった。知っている人で少し安心する。
「あ、あの節はお世話になりました。」
「いえいえ、こちらこそ。あの、1ついいですか?私、あの後で離婚してもう瀬野では…」
訂正するほどでもないと思ったが、やはり気になる。
「ああ、申し訳ない。では、エリさんとお呼びしても?」
「はい。それで、改めて。エリさん、今はマンションにお住まいではないですか?」
言い当てられてドキッとする。
「そうですけど…」
「やはり、エリさんのお宅でしたか。実は、こちらに泥棒が入りまして。」
「あ、泥棒?」
「はい。1時間ほど前、110番通報が入りました。マンションの窓ガラスが割られているというもので。警察が現場に駆けつけると、お部屋が荒らされていました。部屋の中はめちゃくちゃで、何が盗まれたか分からない状態です。ほどなく刑事も駆けつけました。その中の1人が私でした。表札を見たところ、離婚前の苗字のままだったものですから、あなたのことを思い浮かべました。」
「今はどちらに?」
「あ、温泉旅館です。すぐに戻った方がいいですよね。」
「できれば、どのくらいで帰って来られますか?」
時計の針を見る。時刻は夕方の5時を過ぎたところ。電車の都合もあるが、数時間もあれば帰りつくだろう。
「では、戻っていただけますか?私と他の刑事がおりますので。」

泥棒が入ったのは怖いが、警察官がいるなら安心だ。私は旅館の従業員に事情を話し、すぐにチェックアウトした。旅館の人が呼んでくれたタクシーで駅へ向かい、電車に飛び乗った。自宅に帰り着いたのは、電話から4時間後のことだった。
マンションの前でタクシーを降りる。そこには数台のパトカーが止まっていた。規制線のそばに立っていた警察官に、自宅だと話す。すると、すぐに原田が出てきてくれた。
「お待ちしておりました。こちらへ。」
「すみません。それで、部屋は…」
「片付けるのは大変でしょうね。とりあえず、盗まれたものが何かだけでも分かればいいのですが。」
困ったような表情の原田さん。私は落ち着いて答えた。
「多分、盗まれたものは分かります。でも、しばらくは内密でお願いできますか?」
「はい。どういうことですか?」
実は、こうなった経緯を原田さんに話した。盗まれたのはおそらく書類だということも告げる。事情を理解した原田さんは、私に聞いてきた。
「これは、後継者争いだと?」
「平たく言えば。でも、住居侵入と窃盗は別ですから。そちらは別に追求しましょう。」
原田さん以下、現場の警察官はテキパキと動いている。そんな中、私は原田さんにあるものを調べるように告げた。やがて警察の捜査が終了する。犯人の目星はついていた。その後、割られた窓ガラスを補修して応急処置し、部屋の片付けは諦めて、今日は駅前のホテルに泊まることにした。

翌日、私はすぐに両領一に電話をかける。こちらの話を聞いた彼は、折り返し連絡すると告げて通話を終えた。両領一から電話がかかってきたのは、数時間後のことだ。
「急な話で申し訳ないですが、明日、取締役会が開かれることになりました。」
「え?急じゃないですか?」
「そうですね。ですが、決まったことなので。」
「分かりました。」
結局、家にも帰れずにもう一泊する。次の日は朝から落ち着かなかった。約束通り、両領一がホテルまで迎えに来てくれるはずだ。しばらくすると、目の前に1台のタクシーが止まる。中には両領一が乗っていた。
「エリさん、乗ってください。」
向かった先は、父の会社だ。タクシーを降りると、顔なじみの社員が会議室に案内してくれる。
「お姉ちゃんも来たんだ。」
ミナ。ニヤニヤする彼女と目があった。彼女の手元には、見覚えのある書類がある。
「よく顔出せたわね。」
「どういうこと?」
「だって、ここに来ても恥をかくだけでしょ。それとも、私が後継者に指名されるのをお祝いしてくれたとか?」
勝手に言っていればいいと、私は顔を背けた。そばにいた男性が近くの席を示してくれる。ほどなく、取締役会が始まる。最初に挨拶をしたのは両領一だった。
「本日の取締役会は、新しい社長の指名が目的です。社長が決まりましたら、前社長の遺言通りに株式を譲渡していただきますが、よろしいですか?」
全員が一斉に頷いた。
「では、始めます。最初に、後継者候補の挨拶を。」
両領一が言いかけた時、ミナが堂々と手を上げた。全員を見回した後、彼女はこう告げる。
「前社長の娘のミナです。後継者は私で決まりよ。」
「どういうことですか?」
両領一が問いかけると、ミナは自信満々に答えた。
「これがあるからよ。」
手にしていた書類を高く掲げるミナ。
「これは、お父さんから託された書類よ。最後にこう書いてあるわ。『この書類を持つものを後継者とする』と。」
やはりそうだ。私が父から預かった書類で間違いない。そして、先日の泥棒騒ぎで盗まれたもの。ミナが持っているということは、自然と事件の構図が見えてきた。
ミナの発言を信じた人が、数人軽く拍手をしていた。
「お姉ちゃん、何か言いたいことは?」
「今は、別にないわ。」
「何よそれ。素直に負けを認めればいいのに。」
鼻で笑われたけれど、悔しくはなかった。私は自分が勝つと確信していたからだ。この先の展開も分かっている。だからこそ、無言を貫いていた。
「じゃあ、私が社長ってことでいいですね。」
「その前に、1つよろしいですか?」
「何よ?」
むっとするミナ。両領一は全く気にせずに話を続けた。
「その書類、本物ですか?」
「当たり前でしょ。偽物とか、どうやって作るのよ。本物の内容が分からないのに。」
ミナの言い分は、ある意味では正しい。両領一も納得したふりをしていた。
「確かにそうですね。ですが、本物かどうかを確認する必要がございます。」
「どうやって?」
「実は私、生前の前社長から書類の確認方法を伺っておりました。」
言いながら、両領一は自分の鞄を開く。中にはノートパソコンが入っていた。
「その書類にQRコードがありますが、お気づきですか?」
両領一がミナの方を指差す。眉間にしわを寄せた彼女は、慌てて書類を眺めた。確かに、書類の端にQRコードがある。
「これを読み取れば、本物かどうかが分かります。」
「あ、そう。じゃあ、早くやって。」
ミナがテーブルの上に書類を置く。両領一はパソコンを操作して、会議室のスクリーンに画面を映し出した。
「お待たせしました。では、皆さんでご確認ください。」
見るやいなや、スクリーンに映像が流れる。映っていたのは、私の部屋だ。薄暗い室内の映像だった。それを見たミナは大慌てだ。
「駄目!見ないで!」
ミナはスクリーンの前に立ちはだかった。全員が首をかしげる中、映像が動き始める。最初に流れたのは、ガラスが割れる音だ。
これは、私の部屋に泥棒が侵入した時の、防犯カメラの映像だった。窓をこじ開けて、2人の人物が室内へ侵入する。彼らは部屋の中を荒らし始めた。
「どこにあるの?」
「俺に聞いても分かるわけないだろう。」
「なんで詳しく聞いておかないのよ。」
なぜか喧嘩を始める侵入者たち。声だけでも分かるけれど、この2人組はミナと達也だ。
しばらく言い合いをした後、2人は奥の部屋に行く。数分後、彼らは封筒を片手に戻ってきた。
「部屋を荒らしていくぞ。」
「なんでバカ?泥棒の仕業に見せるんだよ。」
「ああ、そういうことね。」
ミナと思われる人物が部屋を荒らし始める。その横で、達也は棚の中を物色していた。
「そういえば、机の上に置いていたお金もなくなっていたわ。」
思わず呟いてしまう。反射的にミナが反論した。
「は?お金とか取ってないわよ。」
「あら、自分が犯人だって認めるの?」
問いかけると、ミナは顔を引きつらせた。
「な、何のこと?」
「これ、私の部屋に泥棒が入った時の映像なの。盗まれたのは現金と封筒。封筒の中身は書類だったわ。多分、それ。」
ミナの前にある書類を指差す。彼女は首を横に振った。
「違うわよ。盗んだんじゃないわ。」
「違うの?おかしいわね。そっくりなんだけど。」
「似てるだけでしょ。証拠もないのに。」
「証拠、あるわよ。実はね、書類の写真を撮っていたのよね。旅行に出かける前、私は書類を写真に収めたの。リンク先に監視カメラの映像を上げたのも、これがあったからこそだわ。」
「そんなものが証拠になる?」
「写真と見比べれば一目瞭然だわ。そこに映像が流れている理由を考えれば、分かるんじゃないの?」
この映像が流れていること自体が、彼女たちの犯行を証明している。
ミナは、もう言い訳ができないようだった。
「どうされましたか、ミナさん?」
「別に。なんでもないわ。」
ミナは深いため息をつきながら、椅子に座っていた。そこへ、会議室の扉が開き、原田さんが入ってきた。
「矢口ミナさん。住居侵入及び窃盗の容疑で、逮捕状が出ている。」
「は?逮捕状?」
「当然でしょ?人の家に入って、物を盗んでいったんだから。」
「違うわよ。私はお姉ちゃんの部屋に行っただけで。」
「いくら姉でも、無断で入れば住居侵入になるわ。窓ガラスを割っているから、言い訳はできないわよ。」
スクリーンの映像を指さした。ミナはがっくりと項垂れる。その後、彼女は警察に連行されていった。
「じゃあ、もう1人の方に行きましょうか。」
「そうですね。」
両領一と一緒に席を立つ。会議室を出る時、私は全員に向かって頭を下げた。
「妹がご迷惑をおかけしました。社長の件は、後日改めて。」
足早に会社を後にする。恥ずかしさが半分。残りは、ミナが迷惑をかけた後ろめたさだ。

会社の敷地を出たところで、原田さんと出くわす。彼は私にこう言った。
「これから元旦那さんのところへ行きますが。」
「ええ、もう警察の方が向かっていると思いますが。」
「急がないと、警察に連行されてしまうだろう。その前に、どうしても彼に告げたいことがあるの。」
「車で送りますよ。」
「ありがとうございます。」
私は素直に原田さんの車に乗り込む。隣には両領一が座った。達也の職場までは、車で10分ほどだ。急げば、彼が連行される前にたどり着くはず。
「すみません。急いでください。どうしても、彼にとどめを刺したいので。」
「了解。」
原田さんは可能な限り急いでくれる。その甲斐あってか、私たちが達也の職場に着いた時、彼はまだ現場にいた。数人の警察官が彼を取り囲み、険しい表情で話をしている。私たちはそこへ割って入った。
「申し訳ない。少しでいいから、彼女に話をさせてやってくれないか?」
原田さんの説得のおかげで、達也と話す時間をもらえることに。彼は完全に涙目になっていた。
「エリ、助けてくれよ。」
「え?なんで私が?」
「だから、お前からも説明してくれって。俺は、お前の家を訪ねただけだって。」
呆れた。もうため息しか出ない。
「なんだよ、その態度は。」
「だって、人の家を訪ねる時に、窓から入る人がいる?」
「違うんだよ。お前が留守だったから、ちょっと窓の方に回っただけで。」
1階の部屋だったことが、愛嬌ということか。むっとした私は、最終確認をする。
「ガラスを割って、部屋に侵入した。間違いない?」
「そんな言い方するなよ。俺は妻の部屋に行っただけ。そうだろ。」
「妻じゃないでしょ。元妻よ。」
「そ、そうだった。ごめん。元妻を訪ねただけ。許してくれるよな?」
達也が懇願するように私を見る。
「泥棒が偉そうにするんじゃないわよ。さっさと捕まりなさい。」
「なんだと?」
「聞こえなかった?あなたには逮捕がお似合いよ。」
ふんと顔を背ける。次の瞬間、ガタイのいい警察官が再び達也を取り囲んだ。
「あ、おい、エリ。助けてくれよ。なんでだって?」
オロオロする彼。そんな彼の目を見て、私は言ってやった。
「逮捕されなくても、結果はあまり変わらないわよ。あ、1つ。あなたの浮気を追求するから。」
言いながら、両領一の方へ手を向ける。彼は自分の鞄から封筒を取り出した。私はそれを受け取り、手を突っ込んで、中から写真を取り出した。そして、周囲にばら撒く。遠巻きに見ていた達也の同僚にも届くように。
「ほら、よく見なさい。みんなドン引きよ。」
わざと鼻を鳴らす。達也はゆっくりと周囲を見回した。自分に向けられる白い目に、彼は思わず叫んでしまう。
「な、なんだよ。そんな目で俺を見るな。」
「うるせえ。黙れ。」
大声をあげる達也。暴れようとする彼を、原田さんが抑えつけた。そこに、私は追い打ちをかける。
「そうそう。忘れるところだったわ。ミナのことだけど。」
「そうだ。主犯はあいつなんだよ。俺は利用されただけ。分かるだろ?」
「ええ、分かるわ。だって、遊ばれたのはあなたの方だったんだから。」
達也は意味が分からないという顔をしている。私は笑いながら、別の写真を彼の前に置いた。
「それ、よく見なさい。」
そこには、ミナと男性が映っている。ただし、男の方は達也ではない。私も知らない人だった。
「その人がミナの本命だって。」
「だ、誰だよ。」
「知らないわよ。本人に聞けば。まあ、どうにもおかしいと思っていたのよね。あの子が、あなたなんかと付き合うとか。」

話は少し遡る。達也が離婚届を持ってきた日、彼はミナと遊んでやると宣言した。しかし、ここで私は少し妙だと感じた。ミナが達也を気に入っているのであれば、どうして私との結婚を進めたのか。この時点で矛盾が生じていた。自分のタイプなら、いくら姉でも結婚を進めたりはしない。つまり、達也はミナのタイプから外れているということだ。そんな2人が付き合うのはおかしい。何か理由があるのではないかと考えた。
両領一に調べてもらったところ、すぐに判明する。実はミナには本命の彼氏がいた。その人と付き合うために、借金までしている。達也はお金を借りた理由までは知らなかったようだ。自分に夢中になっている彼女のことだから、自分のために借金をしたとでも思ったのだろう。都合よく解釈できるのは、バカな男の典型だ。
借金を抱えたミナは、返済方法で苦労する。色々と考えた結果、達也を利用することを思いついた。自分が惚れているふりをすれば、彼を都合よく動かせるはずだ。ミナの見込み通り、達也は彼女の言いなりになってしまう。どの程度かと言えば、ミナの指示で私の部屋に侵入するくらいだ。
「じゃあ、俺はミナと遊んでやっているつもりだったけど。」
「残念だけど逆よ。あの子は、あなたに気があるふりをすれば、いい気になって自分を誘ってくることを分かっていたのね。1枚も2枚も、ミナの方が上だったということ。」
さて、そんな彼女は借金を返すために達也を都合よく使った。自分との未来を達也に空想させたミナは、彼を通じて私に遺産相続で譲歩するように指示を出している。達也は自分の金になると思い込み、私は騙されている妹のためだと考えてしまった。全てはミナの思い通りにことが運んだわけだ。ただ1つ、彼女が計算違いをしたことがある。それが、父の存在だ。
自分の子供のことなど、百も承知。ミナの本心に気づいていた父は、最初から罠を仕掛けた。私に渡した封筒がその1つ。何が何でも手に入れようとミナが考えることまで考慮していた父は、あらかじめ両領一に対応策を伝えていた。私が病室で彼と会った時に、指示をしていたと思われる。
とにかく、父の計画は成功し、ミナは私の部屋に侵入した。普通に侵入しただけなら、まだ逃げた可能性がある。事実、彼女は達也を現場に連れて行っていた。家と土地を相続した彼女が守って欲しいと言えば、達也は断らなかったはずだ。仮に逮捕されて仕事を失っても、帰る場所がある。うまくすれば、ミナが社長になって自分が働く場所も作ってくれるという思惑もあっただろう。
しかし、父は両領一を通じて私に監視カメラを置くよう指示している。映像は取締役会の場で公開し、言い訳ができなくする念の入れようだった。金と家をミナに相続させたのも、油断を誘う意味があったと思う。彼女はまんまと父の罠にはまってしまった。
「そういうわけなのよ。残念だったわね。」
「マジか…。俺が遊んでやるつもりだったのに。」
「結局、都合よく使われて、最後は犯罪者。バカね。本当に呆れて物も言えなくなる。元夫がここまで間抜けだったとは。」
「早々に別れてよかったとさえ思ってしまった。そういうわけだから、心の中で反省することね。」
「ちょ、ちょっと待てよ。助けてくれないのか?」
達也がすがってくる。私は首をかしげた。
「どうして私が助けてあげないといけないの?」
「だって俺は、お前の妹に騙されて…」
「詐欺師が詐欺にあったからって、警察に泣き込むことはないでしょ。それくらい分からないのかしら。」
厳しい口調で告げる。達也はがっくりと項垂れた。
「原田さん、あとはお願いします。」
「ああ。瀬野さん。住居侵入及び窃盗の容疑で逮捕する。いいな。」
原田さんの言葉に、達也は静かに頷いた。大人しく連行される後ろ姿を見ていると、なぜか涙がこぼれていた。

警察署に到着した達也は、素直に捜査に協力したと聞いている。窓ガラスを割った件や、室内の現金を盗んだことも自白したそうだ。ただ1つ、私の想像と違ったのは、ミナが主犯だと言い続けたことだった。状況から考えると、彼の言い分には一理ある。しかし、それが真実だと裏付ける証拠はなかった。映像を見る限り、どちらが主犯とも言いがたい。部屋を荒らす指示をした点や、現金に手をつけたことを考えれば、彼の言いはおそらく通らないと思われた。また、ミナも主犯は達也だと主張しているそうだ。自分は誘われただけで、社長になるつもりはなかった。彼が社長になれと言うからやっただけだ。そんな証言を繰り返している。現時点では、不利なのはミナの方だ。先に述べたが、多くの指示をしたのは達也だった。ミナがここまで考えていたとすれば、彼に勝ち目はないだろう。

さて、他の人のことにも少し触れておく。まずは義父だ。私に怪我をさせた件で、彼は逮捕された。時期的に起訴はされなかったため、裁判で彼は有罪となる。1年の禁固刑だったが、不服として今は控訴審の真っ最中だ。義母についても似たようなものだった。1つ違うのは、彼女には執行猶予がついたこと。義父が蹴った時点で致命傷だったため、義母が踏んだ件は大きな影響がなかったという判断だ。私としては不満があるけれど、裁判所の判断が妥当であることは理解もできた。判決後は随分と懲りたのか、大人しくなったようだ。今は1人で静かに暮らしているという噂を聞いた。

最後に、私のことを少し話しておく。事件の後、あのマンションは売却した。理由は簡単。実家に住むためである。実家を相続したミナだが、借金の返済が免除されたわけではない。困った彼女は、私に泣きついてきた。父が残した預金があると思ったが、散々だったようだ。結局は私が実家を買い取り、彼女はそのお金で借金を返済した。金銭的に余裕があると考えていたけれど、随分と私は甘かったらしい。彼女の借金は思った以上に膨れ上がっており、家を買い取ったお金は全て返済に消えてしまったとのこと。
「本当に信じられないですよね。」
一緒に食事をしていた両領一に零す。彼は優しく微笑んでいた。実は、取締役会の数日後のことだ。私の元に、社長にならないかという連絡が来た。簡単に承諾していいのか迷った私は、両領一に相談したというわけだ。
「ところで、気持ちは決まりましたか?」
「うん。本当に私でいいのかなって。」
「大丈夫ですよ、あなたなら。」
両領一は軽く言ってくれるが、本心は分からない。でも、そんなに悩む必要はないと思いますよ。お父さんも、あなたなら大丈夫だと言っていましたから。
父の話を持ち出されると、やるっきゃないという気持ちになる。私は少し考えてから頷いた。
「分かった。やるわ。当分再婚の予定もないし。」
「そうですか。では、私も全力でサポートしますね。」
「え?」
反射的に聞き返す。
「前社長から、共にあなたを支えるよう頼まれておりますから。」
どこまで本気なのか疑ってしまう。けれど、悪い気はしない。両領一が相手なら、改めて人生の道を踏み出してもいいかと思ってしまったから。

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