その信頼の裏で、お席の胸には長い年月をかけて育てられた望みが、静かに根を張っていた。里の外れにある桜井家の台所で、嫁の千代は夜明け前から火を起こしていた。指先が凍えるような寒さの中で、乾いた松の薪を一本ずつくべる。そこへ、幼い頃から千代に仕えてきた女中のお席が駆け寄ってきた。彼女は千代の手を自分の袖で包み込みながら言った。
「お嬢様、この手は氷のようです。どうぞお席に任せてくださいませ」
千代はその心遣いに目頭が熱くなった。この広い屋敷で、自分を一人の人間として見てくれるのは、この娘だけだった。しかし、お席の心の奥底には、幼い日に刻まれた忘れがたい記憶があった。かつて裕福だった頃、千代と一緒に客の前に出ようとした幼いお席は、年配の女中に強く引き離され、「お前は初詮人に使える身の上ぞ」と打ち据えられたのだ。その夜、幼い千代がこっそり薬と握り飯を運んできてくれたことも、お席はよく覚えている。ありがたさと拭い去れぬ悔しさが、彼女の胸の中でいつまでも絡み合っていた。
朝の支度が終わると、千代が大きな亀に水を満たそうとすると、お席がそれを奪い取った。わざと天秤をきしませながら庭を横切り、通りかかった使用人たちに、「若様の分までお前がやっているのか」と言わせるように仕向けるのだった。お席は決して千代を貶める言葉は口にしない。それでいて、人々の目には千代が自分の仕事をお席に押し付けて休んでいるように映るのである。
やがて姑の死野の鋭い声が響いた。「嫁や、どこにおるのだ。何をグズグズしておる」千代は急いで駆けつけると、死野は冷めた味噌汁を睨みつけていた。「これか汁がすっかり覚めておるではないか。何が嫁だ」さらに死野は言い放つ。「そういえば、そなたの実家から他を何か分けると言っていた話はどうなったのだ。腰入れしてから何年経つと思っておる。未だに取り決めがないではないか」
千代の胸は沈んだ。実家はすでに傾き果て、父が亡くなってから残ったものといえば、古びた箪笥と母が譲ってくれた品々だけだった。死野がこれほど田畑にこだわるのには訳があった。家の暮らし向きは数年で目に見えて悪くなり、跡取りの京之助の学問所の費用もかさんでいた。亡き夫が「何としても家を守れ」と言い残した言葉が、死野の胸に重くのしかかり、それはいつしか田畑への執着となり、その矛先が嫁である千代に向けられていたのだ。
千代は何も言い返せず、部屋を辞し、涙を袖で拭った。その姿を庭の片隅から、お席が静かに見つめていた。彼女はすぐに駆け寄って慰めようとはせず、ただその光景を目に焼き付け、胸の内でつぶやいた。「あの奥方が欲しいものが田畑であるならば、それさえあればこの家の心を動かすのはさほど難しくはあるまい」
その夜、夫の京之助が学問所から戻ってきた。心の優しい男だったが、家のことにはとんと疎く、妻がどのような辛さを味わっているかもよくは知らなかった。「今日も母の世話をしてくれたそうだな。苦労をかける」と言う京之助に、千代は「いいえ、旦那様こそ日々の学問、さぞお疲れでしょう」と答えるばかりで、二人の間にはいつも通り気まずい沈黙が流れた。
夜も更けて、千代は眠れずに隣の間へ渡ると、お席はまだ起きて、行灯の下で千代の紐を作っていた。「どうしたのだ」と驚くお席に、千代は昼間の辛さを打ち明けてしまう。「私はこの家で一体何なのであろうな。お母様は私を田畑を運ぶ器としか見ておられぬ。旦那様は私の心をまるで分かってくださらぬ。実家は傾き、帰る場所さえない」お席は千代の手をそっと握りしめ、言った。「そのようなことをおっしゃらないでくださいませ。この世の誰がお嬢様に背を向けようとも、お席だけは最後までお嬢様のお味方でございます」
その言葉に千代は涙が溢れ、箪笥から小さな銀掘りの簪を取り出した。亡き母が病の床で、幼い名を呼びながら差し出してくれた、母の形見だった。「席よ、この片方を受け取っておくれ。一つを分け、片方は私が差し、片方はお前が指しておくれ。この家で私たち二人は姉妹も同然ではないか」そう言って、千代はお席の髪に簪を差してやった。お席は頭を深く下げ、涙を拭うふりをして、「この恩は必ずお席がお返しいたします。今にご覧に入れます」と答えた。その瞬間、千代の胸の奥で何かがちくりと痛んだが、お席はすぐにその痛みを押し殺し、「今更情に流されれば、これまで積み重ねてきたものが水の泡になる」と自らに言い聞かせた。
お席は一人、行灯の前に残ると、涙はすっと消えていた。彼女は腰に下げた赤い帯飾りをゆっくりと撫でた。貧しい暮らしの中で早くに去った母が唯一残した赤い珊瑚珠の塊だった。お席はどれほど困窮しても、この帯飾りだけは決して手放さなかった。「お嬢様がそこまで信じてくださるならば、あの座をいただくのも思うたより容易い」そう一言だけつぶやき、行灯の火を消した。
雪が降り積もるうちに、お席の仕掛けは火を噴くように大胆になっていった。千代が味噌を冷たい板の間に移すと、お席がそれを隠しては、千代が夜中に蔵を出入りしたかのように話す。死野の疑いは深まり、屋敷の者たちも千代よりお席の言葉を先に信じるようになった。死野は普段使いの鍵をまずお席に預けるようになり、屋敷の力の均衡は静かに傾いていった。
ある日、千代はお席が蔵の鍵を腰に下げているのを目撃した。言い訳を聞いても、千代は信じられなかったが、幼い頃から共に育った娘をすぐさま罪人と決めつけることもできなかった。さらに二日後の夜、千代はお席が布に包んだ包みを胸に抱え、自分の部屋から抜け出してくるところを見てしまう。布の間から銀の食器のようなものが一瞬覗いた。千代は詰問しようとしたが、お席の髪に刺された自分の簪が光る瞬間、幼い日の顔が重なって浮かび、最後の一度だけ信じてみることにした。しかし翌朝、長持ちの底板に見覚えのない泥の跡が残っているのを見つけ、台所の女中に「もし自分の身に何か起きたならば、必ず京之助へ伝えて欲しい」と頼んだ。
まさに翌日、ついに大事が起きた。死野が嫁入りの時に持ってきた銀の懐中時計が忽然と消えたのだ。梅の花が彫られた貴重な品で、屋敷中が大騒ぎとなった。死野は使用人たちを集め、「この家で我が家の物に手をつけた大胆な者は誰だ」と声を荒げた。すると、お席が震える手で布包みを差し出した。「奥様、これを若様のお部屋の長持ちの下から見つけましてございます」布を解くと、梅の彫られた懐中時計が鈍く光りながら現れた。庭にいた者たちが一斉に息を飲む。千代は真っ青になり「それは私の預かり知らぬこと」と叫んだが、死野の耳には届かない。死野は千代の頬を容赦なく打ち、「このような盗人を嫁に迎えたとは、この家の恥をどう始末すれば良いのだ。二度と私の前をうろつくな」と言い放った。
千代は庭に一人残され、ただ涙を流し続けた。その夜、廊下を通りかかったお席の口元には短い笑みが浮かんでいた。千代は、冷たく映された汁の輪と蔵の鍵、夜の包みの間に見えた銀食器、そしてお席の手から出てきた懐中時計が、一本の糸となって繋がっていることに気づく。お席の仕業ではないか、千代は初めてその疑いを抱いたが、確かな証がないまま、京之助が戻ってきたら全てを話そうと心に決めた。
盗人の濡れ衣を着せられて三日目の朝、京之助は学問試験を控え、しばらく城下に止まるべく屋敷を立つことになった。門先で千代に見送られながら、京之助は妻の目の赤みに気づいたが、母の呼び声に遮られ、何も言わずに出てしまった。「私が留守の間、母上のご機嫌をよく取っておきなさい」という言葉が、京之助が妻にかけた最後の言葉となるとは、二人とも知る由もなかった。
京之助が去ると、千代は台所番にも劣らぬ扱いを受けるようになった。ちょうどその頃、お席が笑みを浮かべて千代の元へ近寄ってきた。「お嬢様、ここでこうしておられてはいけません。裏山の岩壁には今、珍しい岩茸が群れております。お嬢様ご自身が山に登り、真心を込めて摘んで姑様に上げれば、お怒りの奥様もお心を和らげましょう。お席がご案内いたします」
千代はしばらく迷った。この女が何を企んでいるのか、この目で確かめておきたいという思いもあった。彼女は台所の女中に「これからお席と裏山へ岩茸を取りに行く。昼を過ぎても戻らなければ、京之助へ知らせるように」と言い残し、二人は山へ登った。
山道はお席が先に立ち、どんどん深く秘密な谷へと分け入っていく。千代は不安を覚え「お席、ここは初めて通る道だが、誠にこの道で良いのか」と問うたが、お席は「はい。もう少しでございます。この上に人の手の入らぬ岩茸の群れがございます」と答えるばかりだった。やがて、二人は目もくらむような崖の上に辿り着いた。足元には霧に沈んだ谷がはるかに広がっている。「お嬢様、あちらをご覧くださいませ。あの岩の間に岩茸がびっしりと生えております」お席に指し示す方へ、千代は腰をかがめて下を覗き込んだ。その瞬間、背後で人の気配がぐっと迫り、お席は両手で千代の背中を力の限り押した。
「お嬢様、あの座はこれからは私がいただきまする」
その声と共に、千代は悲鳴を上げ、谷底へと転落した。落ちる一瞬、千代は本能的に手を伸ばし、お席の帯飾りを掴んだ。ビリと乾いた音が響き、帯飾りは木目の筋に沿って真っ二つに裂けた。片方は千代の手に握られたまま谷へ落ち、もう片方はお席の腰に残った。崖の上に一人残されたお席は、一瞬「助けを呼べば良い」という思いが胸をよぎったが、すぐに振り払った。「ここで引き返せば、これまでのことが全て無駄になる」彼女は足元に転がっていた千代の笠を拾い上げ、岩に引っかかったように見せかけて崖の端に置き、自分の笠は谷底へ投げ捨てた。そして髪を振り乱して山を降りていった。その様子を、麓で薪を割っていた木こりが遠目に見ていたが、顔までは分からず、余計なことに首を突っ込むのを恐れて口を閉ざした。
屋敷に着くなり、お席は庭にうずくまり、大声で泣き叫んだ。「奥様、お嬢様があの深い谷の底へ」死野はその場に凍りつき、驚きと恐れの後、ある計算がよぎった。「このことは決して外へ漏らすでない。嫁が病でひっそりと息を去ったとだけしておけ」死野は村の医者に金を渡し、千代は急な熱病で亡くなったと口裏を合わせた。村の記録からも、千代は死んだものとして消し去られた。
しかし、天は千代を完全には見捨てなかった。崖は一気に谷底まで切り立っておらず、幾段もの急な斜面が折り重なっていた。千代の体は松の枝に何度も当たりながら勢いを殺され、湿った落ち葉が厚く積もった沢の上に落ちた。全身は傷だらけだったが、細い糸のような命だけは辛うじて繋がっていた。
ちょうどその頃、その山の奥を一人で彷徻う男がいた。薬草を採って暮らしを立てている老婆だった。老婆は落ち葉の間から白い手が突き出ているのを見つけ、驚いて駆け寄り、千代を引き出した。息が微かに続いている。老婆は持っていた布で傷口を縛り、自分の羽織りで体を包み、炭焼きの男を呼び集めた。二人は木の枝と縄で簡易の担架を組み、千代を乗せて険しい山道を一歩一歩下ろしていった。何度も足を滑らせながらも、決して手を離さなかった。
こうして千代は、深い山中の老婆の小さな庵へと運ばれ、薬草で手当てを受けた。目を覚ました時、千代は過去の記憶をほとんど失っていた。名前も顔も浮かばない。ただ、背後から自分を押した二つの手の感触だけが、体の奥深くに残っていた。老婆は、千代の右手に握られていた赤い帯飾りの塊れを見つけ、それを綺麗に拭って差し出した。千代はそれが何であるかは思い出せなかったが、赤い珊瑚珠が手のひらに触れた瞬間、背後から足音が迫り、体が傾く感覚が一瞬よぎった。
「覚えておらんでもよい。名がなければ、わしが付けてやろう。雪の朝に見つけた命、雪野と名付けようぞ」老婆は千代の手をそっと包み込んだ。こうして千代は、山の中で新しい命と新しい名を得た。
山の冬は長く厳しかった。力を取り戻した雪野は、老婆の薬草の手伝いをした。手はためらいもなく動き、薬の名が記された書物も自然と読み解いていく。老婆は雪野が何も知らないことを見抜き、息を楽にする方法や脈の測り方を自ら手本を見せて教えた。雪野は幾度も見て、幾度も真似た。何をすべきかは体で覚えていった。
一方、山の麓の桜井家では、お席がじわりじわりと権力の座へ足を踏み入れていた。「奥様、午前は必ずお席がお守りいたします」お席は死野の世話を懸命にし、日ごとにお席なしでは一日とも過ごせぬようにしていった。死野は自らの手で蔵の鍵をお席に手渡した。やがて村の仲介の女が、「若旦那様がこのままでは、お席をいずれ次の嫁に」と提案し、お席は「待てば必ず嫁の座が得られる」と信じるようになった。しかし京之助は、母がいくら進めても千代の話に一切耳を貸さず、お席の顔を見ることすら避けた。数年が経っても望みが叶わないと悟った時、お席の執着は、家の奥向きと財産を我が者にする欲へと姿を変えていった。彼女は蔵の米を、村に流れてきたばかりの商人の真谷に密かに売り流し始めた。
数日後、京之助が戻ってきた。妻の死を知らされ、彼はその場に倒れ込んだ。あまりに急な話だと詰め寄るが、母は言葉を濁すばかり。お席に問いただしても、話には微妙な食い違いがあった。京之助は確かな証を持たず、悶々とした日々を過ごした。彼は魂の抜けたように裏山を彷徻ったが、お席が示した谷は実は本当の崖とは二つの山を隔てた反対側で、いくら探しても手がかりは見つからなかった。彼は近隣の猟師や樵に金を渡し、山中で人の噂を聞けば必ず知らせてくれるよう頼み続け、再婚の話も全て断り続けた。妻の部屋には誰も手を触れさせず、いつか妻がそこに座っているのではないかと思い続けていた。
一方、雪野は少しずつ立ち上がりつつあった。ある日、村外れに住む行商人の老婆が、雪野の袖の折り方を見て「おや、その仕草、誰かに似ておるような」とつぶやいた。「栗谷村の嫁は亡くなったと聞いたが」その言葉に、雪野は初めて自分が誰かに見付けられるかもしれないという恐れを胸に刻んだ。その夜、老婆にその話をすると、老婆は「その名を忘れぬように、胸のうちに仕舞っておくが良い」と答えた。
さらに数日後、茶屋の前で騒動があった。一人の老人が餅を食べていて喉を詰まらせて倒れたのだ。雪野は老婆に教わった通り、老人の背中を強く叩いた。喉に詰まっていた餅のかけらが落ち、老人は息を吹き返した。その老人は、この里で最も高い身分を持つ大和田家の当主だった。「娘よ、この恩は忘れぬ。一体どこの家の者じゃ」雪野は静かに首を振った。「私は名も家もすでに失ったものでございます。山で私を拾ってくださった老婆と暮らし、雪野と呼ばれております」大和田は雪野を自らの家へ招き入れ、娘のように慈しんだ。
ある日、大和田の家に大切な客が訪れた。反藩の旗本に仕える若き役人、桐之丞だった。温厚でありながら仕事は構成で、上役の信頼も熱い人物だった。ある日、桐之丞が大和田の家を訪れると、一人の下女が茶碗を割ってしまい、周りが叱責する中で震えていた。雪野はすかさず進み出て、「この者の落ち度ばかりではございません。片付けをせかした私にも過ちがございます」と自らも責任を引き受けた。桐之丞はその姿に深く心を動かされた。数日後、桐之丞の元でも似たようなことがあった。部下の手違いで書類に誤りが生じた時、桐之丞は上役の前で「これは自分の確かめ不足でございます」と、部下の名を出さずに一人で頭を下げたのである。その話を聞いた雪野は、「人の上に立ちながら人を庇うことのできる方」だと、桐之丞への思いを深めた。
ある晩、桐之丞は雪野の懐にある赤い帯飾りに目を止め、「それは」と尋ねかけたが、雪野の顔がにわかに曇るのを見て、すぐに言葉を飲み込んだ。その心遣いに、雪野はようやく胸の内を明かす気になった。「私は、この先どこかで誰かが私を待っているのではないかと、恐ろしゅうございます」それを聞いた桐之丞は、しばし黙ってから言った。「それでも、私はその方を一緒に探しましょう。たとえその果てに、そなたを手放すことになろうとも」その言葉に、雪野の凍りついていた心は少しずつ解けていった。大和田は雪野の身の上を確かなものにしようと思い立ち、主君へ養女の願いを差し出し、許しを得て、雪野は大和田の名を名乗ることになった。やがて、大和田が二人の縁を取り持ち、雪野は桐之丞の妻となった。
数年後、反藩で飢饉があり、桐之丞はその対策に奔走し、役人たちの信頼を得た。年を重ねた末、桐之丞はついに反藩の奉行職という重職についた。雪野も今や、誰一人として粗末に扱うことのできない奉行の御内儀となった。それでも二人は、自分を救った老婆と大和田を、一時も変わることなく大切にし続けた。
桜井村から消えて六年目となる春の夜、雪野は焚き火の音を聞きながら、見知らぬはずの台所の情景がまぶたの裏をよぎるのを覚えた。誰の顔も浮かばないが、竈の前にうずくまる自分の姿だけははっきりと見えたのだ。数日後、梅の紋の入った品を目にした時には、金庫の何かを握る手の感触が指先に蘇ってきた。そしてある夜、一人の下女が赤い帯飾りを持って雪野の元を訪れた。「奥様、結び目が解けてしまいました。これをもう一度お結びいただけませぬか」雪野が帯飾りを受け取り、赤い糸口を指に絡めた。結び目を閉めた拍子に、懐に仕舞っておいたもう一方の帯飾りが畳に落ちた。赤い珊瑚珠が石とこに当たり、澄んだ音を立てた。「片方の糸口が切れると、もう片方もすぐに綻びますものね」という下女の何気ない言葉と同時に、雪野の指先に霧の立ち込める崖がパッと蘇った。背後から迫った足音、背中を押した二つの手、裾から引き裂かれた赤い帯飾り、そして忘れていたはずの声が耳元でありありと響いた。
「お嬢様、あの座はこれからは私がいただきまする」
その声と共に、雪は降り積もるように記憶が蘇った。盗人の濡れ衣、理不尽に追われた日々、そして崖から突き落とされた瞬間。自分を陥れ、突き落としたのは、幼き日から共にいたお席だった。雪野はその夜、桐之丞に全てを打ち明けた。桐之丞は驚いたが、まず何よりも先に震える雪野の手を握り、「そなたに罪はない。今こそ、奪われた名と無念を共に取り戻そうぞ」と言った。
雪野は落ち着きを取り戻すと、あの日の出来事を一つ一つ思い返した。台所の下女ならば、あの晩お席が包みを運ぶ姿を見ていたはず。裏山の木こりならば、あの日崖の上で何かを見たはず。そして蔵から流れた米の行方を辿れば、必ずや証が見つかるはず。桐之丞は信頼のおける家来たちを桜井村へ使わした。数日のうちに、あの夜の台所の下女と崖近くの木こりの行方が確かめられた。二人はすでに奉行所へ密かに呼び出され、覚えていることをありのまま申し述べていた。加えて、商人の真谷が長年付けていた帳面も奉行所の手によって確保されていた。真谷は厳しい追及の末、罪を軽くしてもらう代わりに知る限りのことを全て話すと訳したのだ。
ちょうどその頃、死野の還暦の宴が近く開かれるとの知らせが届いた。雪野はしばし考えてから言った。「人目のないところで問い詰めれば、また偽りで逃げ切ろうとするでありましょう。お席が最も高い座に登ったと信じているその日、皆の見ている前で真実を明らかにいたします」ただし、「あの帯飾りの片割れをお席がまだ持っているかどうかは、その日にならねば分かりませぬ。それゆえ、あまり早くにお席を捕まえてはなりませぬ」とも言い添えた。
ついに死野の還暦の宴の日が明けた。桜井家の庭には朝から大きな幕が張られ、料理が並べられた。その中をお席が晴れがましい着物を着て取り仕切っていた。頭にはあの夜、千代から贈られた銀の簪が今も光り、腰には六年ぶりに再び下げた片割れの帯飾りが揺れている。これほど誰の目にも触れさせなかった帯飾りをこの日ばかりは晒したのは、己がこの家を誠に手にしたことを村中に示したいがためだった。
そして、門の外で騒がしい物音がし、駕籠が庭の前に止まった。反藩の奉行桐之丞様の御内儀が来られたとの噂に庭がどよめく。駕籠の簾が上がり、綿帽子をかぶった女が静かに降り立った。お席がすぐさま駆け寄り、腰を折る。「まあ、たっきお方様。このような田舎へ心を込めておもてなしを」すると、綿帽子の内から漏れる声は低く澄んでいた。「心を込めて、と言うか。そなたは『心を込めて』という言葉を、随分と軽々しく口にするのじゃな」お席は思わず身を竦ませる。御内儀が静かに綿帽子を外した。その顔を見た瞬間、お席の手から手甲が落ち、石の戸に砕けた。庭は息を殺した。
死んだとばかり思っていた千代が、反藩の奉行の御内儀となって自分の目の前に立っていたのだ。「お嬢様」と後ずさるお席の前を、雪野に従ってきた者たちが進み出て道を塞いだ。「自らこの手で私を突き落としたのだ。生きて戻るはずがないと思ったのじゃろう」お席は激しく首を振る。「違います。あれは事故でございました」しかし、今日の女中がお席の腰から片割れの帯飾りを外し、雪野の前へ差し出した。雪野が懐から取り出したもう一方と合わせると、木目の筋も割れた断面もぴったりと重なり合った。庭のあちこちで低い吐息が上がった。雪野はさらに、お席の髪に刺された銀の簪にも目を向けた。「その簪も、まだ差しておったか。あの夜、私が姉妹の証と差し上げた物よ」そこで初めて、お席の目から涙が溢れ出たが、今度は誰もそれを助けようとはしなかった。
門の外から、証人たちが連れて来られた。台所の下女は「あの晩お殿が布包みを抱え、若様のお部屋から出てくるのを見ました。布の間から銀の食器が見えておりました」と述べた。木こりは「私はあの日、麓で薪を割っておりました。女の悲鳴が聞こえた後、赤いものを腰に下げた女が崖の橋に何かを置き、一人で山を降りていくのを見ました」と述べた。二人の証言はそれぞれ別々の事柄を語っており、それが重なり合って初めて、あの日の出来事の全貌が浮かび上がったのだ。
そこへ、奉行所の役人に伴われた真谷が帳面を手に庭へと入ってきた。お席は最後の望みを見出したかのように「真谷殿、お話しくださいませ」とすがりついたが、真谷はお席の方を見ようともせず、「これにお関殿が売却した穀物の日付と量が全て記されております。手前はすでに調べを受け、正直に申し述べて罪を軽くしていただく約束でございます。これ以上、赤を立てることはできませぬ」と述べた。長年通じ合ってきた男に顛覆されたお席は、その場に崩れ落ちた。「私はただ、良き暮らしをしたかっただけにございます」とすがるお席に、雪野は静かに答えた。「良き暮らしを望む心が、人の命を奪う理由にはならぬ。貧しさゆえにそなたを疎んだことなど一度もない。私が与えた恩を、そなたが刃に変えたことが、ただただ無念でならぬのだ」
門の外で待機していた捕り手が庭に入ってきた。お席はそこでようやく観念し、顔を伏せて泣き出した。連れ去られていくお席の髪から銀の簪が抜け落ち、石の戸の上を転がっていった。お席は振り返ってその簪を見つめ、震える唇が微かに動いたが、ついに何も言えぬまま連れ去られていった。
お席が消えると、雪野は神座の死野へと向き直った。「お母様、私は今日、お母様を害しに参ったのではございませぬ。盗人の濡れ衣を晴らし、死んだものとして消された我が名を取り戻しに参ったのでございます」死野はついに答えることができなかった。宴は誰一人として手をつけないまま終わった。
その後、お席は奉行所での詮議において、懐中時計を隠したこと、雪野を突き落としたことなど、全てを白状した。偽りで積み上げた座は一夜にして崩れ去った。お席は奉行所の裁きを受け、二度と桜井村へ戻ることはなかった。あれほど望んだ家も財産も全て失い、頼みとした商人にも見放され、千代が手ずから差し出してくれた簪を取り戻すことも叶わなかった。
一方、雪野は京之助にも真実を知らせねばならぬと考え、桐之丞に頼んで使いをやった。京之助は全てを投げ打って駆けつけた。「そなた、誠に生きておられたのか」その目には涙が光っていた。京之助は懐から古びた羽織を取り出した。それは千代が嫁入りの時より使っていた品で、京之助があの日から一度も手放さず、妻の部屋をそのままにして持ち続けていたものだった。京之助は膝を折り、母の非を代わりに詫び、妻を守ってやれなかった不甲斐なさを露にした。
雪野はしばらく黙ってから、静かに首を振った。「旦那様、私はあの日、崖にて一度死にました。今の私はあの頃の私ではございませぬ。私を生かしてくれたのは、山のお婆様でございました。何も覚えぬ私をあるがままに慈しんでくださったのは、今の私の夫でございます」京之助はうなだれた。「そなたの言うこと、全て正しい。そなたの新しい人生を、私が遮りはせぬ」彼は一言の書をしたため、己にはもうそなたを妻として迎え戻す資格もないこと、そなたの新しい生活を妨げぬことをはっきりと書き記した。雪野はそれを受け取り、「旦那様のことは忘れませぬ。けれど、もうこの家の中へは戻れませぬ」と答えた。
京之助は母が仕立て上げた偽りを自ら明らかにし、正式な離縁を奉行所へ差し出した。奉行所は偽りの死亡届を取り消した上で、その離縁を受理し、大和田の養女かつ桐家の妻としての身分を正式に認めた。千代という名に着せられた汚名は注がれたが、彼女はこれからも雪野として生きる道を選んだのだ。
数日後、雪野は大和田と老婆を訪ね、深々と頭を下げた。「ご隠居様、お婆様。全てを失っておりました私を、娘のようにお育てくださいました。これからは私がお二人をお養いいたします」大和田は肩を撫でながら幾度も頷き、目を潤ませた。老婆は、刀傷のある自分の目元をそっと拭って、小さく鼻をすすった。雪野は老婆を自らの側に迎え、温かな部屋で穏やかに過ごさせた。
その秋、桜井家にはさらなる変化が訪れた。還暦の宴の後、村の人々は桜井家への足を遠ざけ、田畑の一部は人手に渡り、蔵にはただ空の俵だけが残った。使用人たちも一人また一人と去っていき、息子の京之助も必要な言葉以外は母と目を合わせようとはしなくなった。財産を守ろうとして人を失った者の末路がそこにはあった。
ある日、死野は杖をつきながら大和田の家を訪れた。腰の曲がった見すぼらしい老婆となって、雪野の前に力なく膝を折った。死野は懐からかつてお席に預けていた蔵の鍵と、千代の死を記した偽りの届け出の写しを取り出し、静かに畳の上に置いた。「私は家を守ったつもりで、家そのものを壊してしまった」と震える声で言った。雪野はしばし言葉なくその古びた鍵を見下ろしていたが、やがて静かに言った。「私は忘れませぬけれども、憎しみの中では生きませぬ」死野はゆっくりとうなずき、残された寂しい屋敷で一人、後悔を噛みしめながら過ごすこととなった。
翌年の春、雪野と桐之丞の家には笑い声が絶えなかった。桐之丞は役人として精励し、雪野は誰からも敬われる御内儀となった。それでも雪野は高い座に登ってなお、決して人を粗末に扱うことはなかった。誰よりも、人の苦しみに寄り添うのである。「奥様はどうして、それほどまでに下の方を大切になさるのですか」と問われれば、雪野は静かに答えた。「私とて、かつては何も持たぬ一人の女でございました。座が高くなったとて、人の値打ちまで変わるわけではあるまい」
ある春の日のこと、雪野は庭に出て長らく空を見上げていた。懐から、一つに戻った珊瑚珠の帯飾りを取り出し、手のひらに乗せた。二年に裂かれて六年を彷徨ったその品は、今や再び一つに戻っている。桐之丞が縁側から歩み寄り、隣に腰を下ろした。「何を思うておられる」と尋ねる夫に、雪野は「過ぎ去った日々のことを。それから、これから先の日々のことを」と答え、帯飾りをその手のひらにそっと乗せた。桐之丞はその手を握り、「そなたが失ったものは大きかったが、そなたが取り戻したものも、それに劣らず大きい。これから先は、失うことより得ることを、共に数えていこうぞ」と言った。雪野は頷き、その肩にそっと頭を預けた。
千代という名に着せられた汚名は、こうして注がれた。されど、彼女が選んだ名は雪野であった。人を突き落とした手はいずれ己の足元を崩し、人を救った手はいつか再び己を支え返してくれる。人を信じるということは、時にその優しさを裏切りへの隙とされることもある。されど、それでもなお、人は誰かを信じることをやめられぬものであろう。雪野の物語は、人に差し出した真心と酒とが、結局はどこへ帰っていくのかを、長く語り伝えることとなったのであった。



