銀座の高級寿司店の前で、私は耳を疑った。12月の冷たい風が、息子の妻・綾音の声よりも身に沁みる。「お母さん、まさか一緒に座るおつもりですか?」
今日は息子・琢磨の38歳の誕生日。心を込めて作った手作りのケーキと、息子が好きだったネクタイを手に、夫の進と二人で息子夫婦を待っていた。しかし、カウンターには予約席のプレートが二つ。奥のテーブルには、ぽつんと一人分の席が用意されている。
「お母さんはあちらのテーブルでお待ちになって」
68年生きてきて、これほど心が凍りつく瞬間があっただろうか。震える手でプレゼントを握りしめながら、私は一人でテーブル席へと向かった。カウンター席で楽しそうに寿司を頬張る三人を眺めながら、私は38年前のことを思い出していた。
夫が定年退職してから10年。私たちは年金生活に入り、それでも息子のためにすべてを捧げてきた。大学4年間で1200万円、結婚祝いに500万円、マイホームの頭金に1000万円。孫が生まれてからは毎月10万円ずつ、5年間で600万円。合計3300万円もの援助を続けてきたのだ。
「やっぱり銀座は違うわね。私の父がよく連れてきてくれるお店なの」
綾音の自慢話が聞こえてくる。カウンターでは大トロ、ウニ、いくらと高級なネタが次々と運ばれていく。一方、私の目の前にあるのは小さな茶碗蒸しが一つだけ。2000円と書かれたメニューを見て、年金生活の私には決して安くない金額だと感じる。それ以上に辛かったのは、息子の誕生日を祝いに来たはずなのに、まるで招かれざる客のように扱われていることだった。
「お母さん、一人で大丈夫ですか? 茶碗蒸しだけで遠慮しないで好きなもの頼んでくださいね。でも、お母さんには回転寿司の方が合ってるかもしれませんけど」
隣の席のカップルがこちらをちらりと見る。恥ずかしさで頬が熱くなるのを感じながらも、私は何も言い返せなかった。
「お母さん、何か飲み物でも」琢磨が気を使ってくれるが、綾音がすぐに遮る。「あなた、お母さんはお酒飲めないでしょう。それに、もう遅い時間だし、高齢者は早く休んだ方がいいわよ」
まるで私が邪魔物であるかのような扱い。店員さんも気まずそうな表情を浮かべている。しばらくすると、綾音はスマートフォンを取り出して何やら検索を始めた。
「ねえ、あなた、この老人ホーム、なかなか良さそうよ。月額15万円で個室もあるし」
「今、その話は」琢磨が小さく言うが、綾音は構わず続ける。「早めに準備しないと、いい施設は埋まっちゃうわよ。お母さんも一人暮らしは大変でしょう」
私の存在を無視して、まるで物件でも選ぶかのように老人ホームの話を続ける綾音。胸が締めつけられるような思いが広がっていく。
「お母さん、正直に言わせてもらいますけど、毎週のように家に来られるのも負担なんです。私たちにもプライバシーがありますから」
「でも、私は孫の顔が見たくて」そう言いかけると、綾音はきっぱりと遮った。「孫はもう小学生ですよ。お母さんがいなくても全然平気です。むしろ、古い考えを押し付けられるのは教育に良くないんです」
琢磨は黙って寿司を食べ続けている。何も言わないということは、綾音の意見に同意しているということなのでしょう。そして、隣に座る夫の進も口を開いた。
「よしえ、お前もそろそろ息子夫婦の負担にならないようにしないとな」
まさか夫までもが私に対してそんな言葉をかけるなんて。38年間、二人で必死に育ててきた息子なのに。
食事が終わり、会計の場面になった。「お会計、別々でお願いします」綾音の言葉に店員が困惑した表情を見せる。「お母さんの分はそちらのテーブルでお願いします」
私は震える手で財布を取り出した。茶碗蒸し一つで2000円。年金で暮らす私には決して軽い金額ではない。琢磨も進も財布を出そうとする気配はなかった。
「お母さん、大丈夫ですか? 年金で払えますよね」綾音の言葉が冷たく心に刺さっていく。
店を出た後も、綾音の容赦ない言葉は続いた。「それから、認知症の兆候が出てからじゃ遅いんですよ。最近、物忘れも多いじゃないですか。この前も約束の時間を間違えてましたよね」それは綾音が急に時間を変更したからだったが、言い返す気力も失われていく。
タクシーを待つ間、綾音が老人ホームのパンフレットを取り出した。「これ、お母さんに渡しておきますね。真剣に考えてください」琢磨も横から口を添える。「母さん、僕たちも生活があるから、正直面倒を見るのも限界があるんだ」
そして進が言った。「よしえ、俺たちもこの年だ。息子夫婦に迷惑はかけられない」
一人で帰宅した私は、リビングで涙を流していた。手には渡せなかった誕生日プレゼントが重く感じられる。38年間必死に育ててきたのに、夫も息子も私を邪魔者扱いしている。
翌朝、琢磨から電話がかかってきた。「母さん、昨日の話の続きなんだけど、老人ホームの件、考えて欲しいんだ」
「たくま、私はまだ自分のことは自分でできます」
「母さん、現実を見てよ。もう68歳でしょう」背後から綾音の声が聞こえてくる。「あなた、はっきり言わないと」
電話が綾音に変わった。「お母さん、率直に申し上げますね。私たちも生活設計があるんです。お父さんの年金もありますし、お二人で施設に入られた方がお互いのためですよ」
電話を切った後、私は一人リビングに取り残されていた。もう限界かもしれない。そんな思いが心を覆っていく。
その日の午後、私は孫に会いたくて、小学校の帰り道で待っていた。せめて孫だけでも私の味方でいてくれると信じていた。
「あら、翔太君」10歳の孫を見つけて声をかけると、翔太は一瞬立ち止まったが、すぐに歩き出そうとする。
「待って、翔太君。おばあちゃんよ」
「知ってる」
翔太の声は冷たく、目も合わせようとしない。「どうしたの? おばあちゃんと話すのが嫌なの?」
すると翔太は振り返って、信じられない言葉を口にした。「おばあちゃん、もう来ないでって言ったでしょ」
その言葉に、私は凍りつくような思いを感じる。「翔太君、なぜそんなことを」
「友達に見られたら恥ずかしいから。みんなのおばあちゃんは若くて綺麗なのに、おばあちゃんは古臭いしダサいんだもん」
古臭い。ダサい。10歳の孫からそんな言葉を聞くなんて。
「でも、おばあちゃんは翔太君のことが大好きよ。毎月お小遣いもあげているし、塾の費用も」
「それがうざいんだよ」翔太は突然声を荒げた。「お金出してるから偉いの? 違うでしょ。ママもパパも言ってた。おばあちゃんは邪魔だって」
私の足から力が抜けそうになっていく。息子夫婦が孫にまでそんなことを吹き込んでいたなんて。
「もう学校にも来ないで。授業参観とか運動会とか来られると迷惑なの。友達のおばあちゃんと比べられるのが嫌なんだ」
そう言って翔太は走り去っていった。私はただ立ち尽くすことしかできなかった。
その夜、琢磨から電話があった。「母さん、翔太に会ったそうですね」
「え? 偶然よ」
「偶然じゃないでしょう。待ち伏せしていたんでしょう」私は否定しようとするが、琢磨は続ける。「もうストーカーみたいな真似はやめてください。翔太が怯えています」
怯える。私が孫を怯えさせているというのだろうか。
「それから、はっきり言います。今月で援助は完全に終わりにしてください。もう大人ですから、自分たちで生活できます」
「でも、住宅ローンは」
「それは僕たちの問題です。母さんには関係ありません」
関係ない。1000万円も頭金を援助した私に、関係ないというのか。琢磨の声が急に事務的になった。
「それから、土地の名義変更の件、今週中に必ずお願いします。これはお互いのためです」
「なぜ、そんなに急ぐの?」
「実は土地を担保に事業資金を借りる予定なんです。でも母さんの名義のままでは銀行が融資してくれません」
事業資金。初めて聞く話だった。「どんな事業を?」
「それも母さんには関係ありません。とにかく名義変更をお願いします」
私は深呼吸をして尋ねた。「もし私が名義変更を拒否したら?」
電話の向こうで、琢磨が息を呑む音が聞こえた。「母さん、分かってないようですね。これはお願いじゃありません。当然の権利です。5年も住んでいるんですから、時効取得というものもあります。法的手段に訴えることもできるんですよ」
法的手段。実の息子が、母親を相手に裁判を起こすというのか。そして電話の向こうから綾音の声が聞こえてきた。「あなた、私の父にも相談しましょう。弁護士の知り合いもいるって言ってたし」
琢磨が再び話し始める。「それから母さん、もう一つ大事なことがあります。今後、僕たち家族に連絡する時は、事前にメールで予定を教えてください。突然訪ねてこられても対応できませんから」
「でも、家族なのに」
「家族だからこそ、お互いの境界線を尊重すべきなんです。綾音の実家はそうやって円満な関係を保っているんですよ」
電話が切られた。私は拳を握りしめたまま、しばらく動けなかった。そしてリビングのソファに座り込む。夫の進が新聞を読みながら言った。
「よしえ、お前が息子夫婦に執着しすぎなんだよ」
執着。私は母親として当然のことを。
「もういい年なんだから、息子の邪魔をするな。俺だって琢磨の味方だ」
進の言葉が最後の一撃となって、私の心を打ち砕いていく。「綾音さんの言う通り、俺たちは施設に入った方がいいかもしれない。息子夫婦の負担になりたくないからな」
その夜、私は一人リビングに取り残された。夫も息子も孫も、みんな私を拒絶している。涙を流しながら、ある決意が心の奥から湧き上がってきた。
その瞬間、私の中で何かが完全に切れる音がした。もう我慢する必要はない。これ以上、理不尽に耐える必要はないのだ。今度は私の番です。彼らはまだ知らない。私がどれほどの力を持っているかを。
翌朝、私は早く起きて書斎に向かった。そして長年誰にも見せたことのない金庫を開ける。中には大量の不動産権利書、株券、そして預金通帳が整然と並んでいた。
実は私には、誰も知らない秘密があった。30年前、夫が仕事に忙殺されていた頃、私は独学で株式投資を始めた。最初は小さな金額からだったが、IT企業が台頭し始めた時代にいち早くその可能性に気づいたのだ。当時はまだ無名だった企業の株を購入し、それが後に大きく成長していった。そして利益を不動産投資に回していった。都心の一等地に小さなビルを購入し、それを賃貸に出す。その収益で次の物件を買う。そうして30年間、誰にも言わずに築いてきた。
現在の総資産は約5億円。そして何より重要なのは、琢磨が今住んでいる土地が実は私の名義だということ。時価約8000万円。息子は母親の土地の上に家を建てていたのだ。
それだけではない。琢磨が務める会社の大口取引先の一つ。その企業の大株主も私だった。投資会社を通じて保有している株式は、経営に影響を与えられるほどの規模になっている。そして夫の進が受け取っている年金の口座。あれは私との共同名義なのだ。
私は静かに微笑んだ。彼らは何も知らない。自分たちの生活が、実は私の資産の上に成り立っていることを。
金庫から必要な書類を取り出すと、私は信頼できる弁護士・佐々木先生に電話をかけた。
「佐々木先生、お久しぶりです。野口です」
「よしえさん、どうされました? 珍しいですね」
私はこれまでの経緯を淡々と説明していく。高級寿司店での屈辱、老人ホームへの入居強要、そして息子からの恫喝と土地の名義変更要求まで。佐々木先生は驚きながらも、的確なアドバイスをくれた。
「なるほど。それは法的にも問題がありますね。よしえさんが所有する土地に、賃貸借契約を結ばずに住んでいるのであれば、立ち退きを要求できます。ただ、まずは適正な賃料を請求する方が現実的でしょう。都心の一等地であの広さであれば、月額20万円は妥当な金額です」
月額20万円。
「そして過去5年分も遡って請求できます。つまり1200万円ですね」
1200万円。その金額を聞いて、私の中で何かが動き始めた。
「それから遺言書の作成も急ぎましょう。今のままでは息子さんにすべての資産が相続されてしまいます」
「遺言書ですの? 琢磨の相続をすべて無効にしたい」
佐々木先生は少し沈黙した後、静かに言った。「分かりました。では法定相続人からの排除という形で進めましょう。全財産を慈善団体に寄付するという内容にすれば確実です」
電話を切った後、私はノートに計画を書き出していく。まず、土地の賃貸借契約を要求する。月額20万円、そして過去5年分の1200万円を請求する。次に、毎月10万円の援助を即座に停止する。そして遺言書を変更し、琢磨の相続を完全に無効にする。5億円の資産はすべて慈善団体へ。さらに琢磨の会社の取引先に私の影響力を行使する。大株主として取引の見直しを提案する。最後に、夫の進の年金口座を凍結する。共同名義である以上、私にはその権利がある。
すべての計画が頭の中で明確になっていった。今度はあなたたちが来る番です。覚悟してください。
翌朝、私は高級スーツに着替えた。普段は着ることのない、デパートで購入したスーツ。髪もしっかりとセットし、薄くメイクを施す。鏡の前に立つと、そこには普段とは違う自分が映っていた。これまで68年間、家族のために尽くしてきた野口よしえではなく、5億円の資産を持つ投資家としての野口よしえが。
さあ、反撃の始まりです。私は静かに微笑みながら、書類の入ったバッグを手に取った。今日で全てが変わります。彼らが私をどれほど軽く見ていたか、そしてその代償がどれほど大きいものか、これからしっかりと思い知ってもらいましょう。
朝9時、私は佐々木法律事務所に向かうため玄関を出た。冬の朝の空気が冷たく触れていく。でも私の心は、不思議なほど穏やかだった。もう迷いはない。正義は必ず実現されるのだ。
翌朝9時、琢磨の自宅に一通の内容証明郵便が届いた。差出人は佐々木法律事務所。琢磨は封を開け、そこに書かれた内容を読んで、顔面が蒼白になっていく。
「なんだこれ? 土地の賃貸借契約締結要求、過去5年分の賃料請求、総額1200万円」
手に持った書類が小刻みに震えていた。「母さんの土地ってどういうことだ?」
綾音が横から覗き込む。「そんなはずないわ。お母さんにそんなお金があるわけない。年金暮らしのただの専業主婦なのに」
しかし書類には確かに記載されていた。琢磨が住む土地の所有者は野口よしえ。そしてその土地の時価は約8000万円であると。
「嘘だろ? この土地、母さんの名義だったのか?」琢磨の声が震えている。彼は今まで当然のように両親が譲ってくれた土地だと思い込んでいたのだ。
同じ頃、夫の進の携帯電話が鳴った。銀行からの連絡だ。
「野口様、共同名義の年金受け取り口座が凍結されました」
「凍結? なぜだ?」
「共同名義人である野口よしえ様からの申請です。ご本人確認と手続きが完了いたしましたので」
進は慌てて私に電話をかけるが、私は出ない。何度かけても応答がない。
「よしえ、一体何をしているんだ」進の声は焦りに満ちていた。年金が止まれば生活ができない。彼は初めて、自分がどれほど妻に依存していたかを思い知ることになる。
その日の午後、琢磨の会社で異変が起きていた。
「野口部長、大口取引先のサンライズ商事から連絡です」
「ああ、今月の契約更新の件だろう」
しかし電話口から聞こえてきたのは、予想外の言葉だった。「申し訳ありませんが、今後の取引を見直させていただきます」
「え? なぜですか? 何か問題でも?」
「上層部からの指示です。詳細は申し上げられませんが、取引の規模を大幅に縮小する方向で検討しております」
琢磨は慌てる。サンライズ商事は会社の売上の30%を占める重要な取引先だ。
「ちょっと待ってください。何か誤解があるのでは?」
「こちらも突然のことで、詳しい事情は分かりかねます。ただ、大株主からの強い要請があったとのことです」
電話が切れた。琢磨の背中に冷たい汗が流れていく。そしてその10分後、別の取引先からも同様の連絡が入る。さらに、もう一社。次々と取引の見直しや縮小の連絡が舞い込んできた。
「何が起きているんだ?」琢磨は頭を抱えた。このままでは自分の立場が危なくなる。
夕方、琢磨の携帯に私から電話がかかってきた。
「母さん、一体何をしているんだ?」琢磨は叫ぶように言う。
「あら、どうしたの? 何か問題でもあったかしら?」私の声は驚くほど冷静だった。
「土地の賃料だって、1200万円も払えるわけないだろ」
「あら、おかしいわね。私にはお金はありませんって言ったのは誰だったかしら」
私の言葉に、琢磨は絶句する。
「琢磨、あなたが住んでいる土地は私の名義よ。賃料を払うのは当然でしょう。それとも、無断で人の土地に住み続けるつもりだったのかしら」
「母さん、なぜ今まで黙っていたんだ」
「黙っていたわけではありません。あなたたちが見ようとしなかっただけです」私は静かに続ける。「老人ホームの話、嫌なら頼むのはおかしいんじゃない? あなたたち、私をもう家族じゃないって言ったわよね」
琢磨は言葉を失った。自分たちが言った言葉が、そのまま返ってきたのだ。
「それから、会社の取引先の件だけど」
「母さん、まさか」
「実は私、あなたの会社の主要取引先の大株主なの。投資会社を通じて、ずっと保有していたのよ。30年前から株式投資を始めて、今では総資産が5億円ほどになったわ。誰にも言っていなかったけれど」
電話の向こうで、琢磨が息を呑む音が聞こえた。5億円。
「そして、お父さんの年金口座も凍結させてもらったわ。共同名義だから、私にはその権利があるの」
「母さん、お願いだ。やめてくれ」琢磨の声が震えている。
「やめる? なぜやめなければならないのかしら。あなたたちは私にもう家族じゃない、負担だ、面倒を見るのも限界だと言ったわよね。ならば、これは家族ではないもの同士のビジネスの話です」
同じ頃、綾音の実家にも影響が及んでいた。綾音の父親が務める会社の役員会議で、突然の人事異動が発表されたのだ。
「綾音、大変よ。お父様が関連会社への出向を命じられたって」綾音の母親からの電話だった。「どうして? お父様は順調だったのに。でも、大株主から圧力があったらしいの」
綾音は嫌な予感がした。まさか、あの義母が。そんなはずはない。年金暮らしの地味な義母が、そんな力を持っているなんて。しかし現実は、彼女の予想をはるかに超えていた。
その夜、琢磨と綾音は私の自宅に駆けつけた。玄関の前で、二人は土下座をする。
「母さん、お願いだ。許してくれ」
「お母様、申し訳ございませんでした」
私は玄関を開けたが、中には入れない。ドア越しに冷たく言い放つ。
「あら、一緒に座るって言ったのは誰だったかしら。私、一緒にいるのは嫌なのよね」
綾音の顔が青ざめていく。「お母様、本当に申し訳ございませんでした。寿司店での態度、心からお詫びします」
「謝る? 何を謝るの? 老人ホームの話、確かに検討してみるわ。ただし、私が入るのは最高級の施設よ。月額100万円くらいね」
100万円。琢磨が呆然とする。
「資産5億円の人間が入る施設は、それなりのレベルが必要でしょう。それとも、回転寿司の方が合ってるって言った私には安い施設で十分だと?」
綾音は何も言えない。自分が言った言葉が、そのまま返ってきたのだ。
「母さん、僕が間違っていた。本当に申し訳ない」琢磨が必死に謝る。
「琢磨、あなたは私を負担って言ったわね。面倒を見るのも限界だとな。なら、もう自由になったでしょう。私という負担から解放されて、幸せなのではありませんか?」
「違う。母さんは負担なんかじゃない」
「今更そんなことを言われても、信じられません。38年間すべてを捧げてきた母親を、たった一晚で切り捨てた人の言葉など」
私は冷たく言い放つ。「それから、土地の賃料と援助金の停止はすでに法的手続きを進めています。遺言書も変更しました。私の全財産は慈善団体に寄付します。あなたには1円も渡しません」
「母さん!」
「これからあなたたちは、自分たちだけの力で生きていきなさい。私はもう、あなたたちの人生に関わりません」
そう言って、私はドアを閉めた。外から二人の泣き声が聞こえてくるが、私の心はもう揺れない。
それから3ヶ月が経った。私は都心の高層マンションに引っ越し、新しい生活を始めている。窓からは東京の街並みが一望でき、朝日が部屋いっぱいに差し込んでくる、そんな明るい空間だ。
夫の進とも正式に別居した。彼は今、実家の山形に戻って一人で暮らしている。年金口座の凍結は解除したが、もう二度と同じ屋根の下で暮らすことはない。45年間連れ添った夫だったが、最も辛い時に私を見捨てた人だ。簡単に許すことはできない。
琢磨からは時々メールが届く。会社は何とか乗り切れたものの、主要取引先を失い、給料は大幅に減ったそうだ。綾音もパートを始め、二人で必死に生活を立て直しているとのこと。土地の賃料は分割で支払うという提案を受け入れた。毎月10万円ずつ、10年間かけて。それでも彼らにとっては重い負担だろう。でも、それが現実なのだ。人の土地に住むということは、そういうことなのだ。
「よしえさん、今日もお元気そうですね」
マンションのラウンジで、新しい友人たちとお茶を飲む時間が私の楽しみになった。同じように一人で暮らす女性たち、みんなそれぞれの人生を歩んできた人たちだ。以前より、日々が充実している。私は心から微笑んだ。
ボランティア活動として、恵まれない子供たちを支援する団体に毎月50万円の寄付をしている。私の財産は、本当に必要としている人たちのために使いたいのだ。
先月は友人たちと京都に行った。美しい紅葉を眺めながら温泉に浸かり、美味しい懐石料理を楽しむ。そんな贅沢な時間を、心から味わうことができた。
「よしえさん、次はどこに行きましょうか?」
「そうですね。春になったら、桜を見に行きたいですね」
68年間で、今が一番自由で、一番幸せだと感じている。
翔太には月に一度だけ会うことを許可した。ただし琢磨夫婦は同席しない条件で、私と翔太、二人だけの時間だ。先週も翔太と近くの公園で会った。
「おばあちゃん、ごめんなさい。あんなこと言って」
翔太は小さな声で謝る。10歳の子供がどこまで理解しているか分からない。でも、その謝罪を受け入れることはできた。
「いいのよ、翔太君。おばあちゃんは翔太君のことが好きよ」
「おばあちゃん、また会える?」
「ええ、でも月に一度だけよ」
翔太の寂しそうな顔を見ると心が痛む。でも、これが私が選んだ道なのだ。琢磨や綾音とは、もう以前のような関係には戻れない。
翔太と別れた後、一人で帰るマンションの部屋は、少しだけ広すぎるように感じる。でも、それでもいいのだ。私は自分の尊厳を守った。理不尽に屈することなく、正当な権利を主張し、自分の人生を取り戻したのだ。
佐々木先生が言っていた。「よしえさん、あなたは本当に強い方ですね」
「強くなければ、生きていけませんから」
私はそう答えた。
私の経験は、多くのシニア女性が直面している問題だと思う。家族のために尽くしてきたのに軽視され、邪魔物扱いされる。そんな思いをしている人が、どれだけいるだろうか。でも、理不尽に屈してはいけない。我慢し続けることが美徳ではないのだ。自分の尊厳は自分で守らなければならない。
窓の外を見ると、夕日が東京の町を赤く染めていく。私は今、完全な勝利者だ。そして本当に自由で、幸せだ。
家族との温かい食卓はもうない。一人で過ごす時間も限られている。それでも、私は後悔していない。これが私が選んだ人生なのだ。自分を大切にすること、自分の人生を生きること。誰かのために犠牲になり続ける必要はない。
68歳にして、私はようやくそれを学んだ。もしあなたが理不尽な扱いを受けているなら、諦めないでください。必ず道は開けます。自分を信じて、強く生きてください。正義は必ず勝利し、努力は必ず報われるのだから。



