「君が今日買ってきた洗剤だが、量販店で買えば一本あたり四十円は安く済むはずだ。生活費というものはもっと最適化できる」。定年退職した初日の朝、目覚まし時計すら必要ない生活が始まった。六十五歳の私は、四十年間築き上げてきた管理職としての自分の価値を、家族や地域で証明しようと必死だった。冷蔵庫のラベル、妻の洗濯物の畳み方、買い物リストまで完璧に管理し始めた。しかし、妻は無言のまま、勤務時間を延長し…

「君が今日買ってきた洗剤だが、量販店で買えば一本あたり四十円は安く済むはずだ。生活費というものはもっと最適化できる」。定年退職した初日の朝、目覚まし時計すら必要ない生活が始まった。六十五歳の私は、四十年間築き上げてきた管理職としての自分の価値を、家族や地域で証明しようと必死だった。冷蔵庫のラベル、妻の洗濯物の畳み方、買い物リストまで完璧に管理し始めた。しかし、妻は無言のまま、勤務時間を延長し...

月曜日の朝、松原肖像は六時ちょうどに目を覚ました。長年染みついた体内時計が、まだ彼を会社員のままにしていたのだ。布団の中で一瞬、今日は出社しなければという感覚に襲われ、体が反射的に強張った。しかし、次の瞬間には自分がすでに退職していることを思い出し、その高ぶりは行き場を失ったまま体内に残り続けた。

彼は起き上がり、洗面所で歯を磨き、キッチンで湯を沸かしてインスタントコーヒーを入れた。その手順の一つ一つは、これまでの三十数年間と寸分も変わっていなかった。コーヒーカップを手に食卓の椅子に腰を下ろし、いつものように新聞を広げようとしたところで、彼の手はふと止まった。この後、何をすればいいのか。肖像にはまるで検討がつかなかった。

確認すべきスケジュールもなければ、出席すべき会議もない。ただ、白く塗りつぶされたような空白だけが、目の前にどこまでも広がっていた。窓の外では、近所の人々が忙しなく駅へ向かって歩いていく。スーツ姿の若い男性が小走りに角を曲がり、制服姿の女子高生が自転車のペダルを勢いよく踏み込んでいった。それらの光景を目で追いながら、肖像は生まれて初めてと言ってよいほどの恐ろしいほどの静けさが、自分の住むこの家の中に満ちていることに気づいた。

六十五歳で定年を迎えた肖像は、長年勤めた物流会社の物流調整部門で中間管理職を務めてきた男だった。毎朝、五十台を超えるトラックの動きを頭の中で組み立て、遅延一つ許さぬよう部下たちに指示を飛ばす。それが彼の日常であり、誇りでもあった。退職の日、フロアの片隅で開かれた質素な送別会。紙コップに注がれた安物のスパークリングワインとコンビニで買ってきたような菓子折り。部下の田中という青年が「長い間、本当にお世話になりました」と頭を下げた。肖像は「いや、こちらこそ」といつもの落ち着いた声で応じたが、この場の空気がどこか事務的で、拍手の音だけが虚しく響いているように感じられた。

上司からの短いスピーチが終わると、あっという間に社員たちはそれぞれの持ち場へと戻っていった。肖像は最後にもう一度だけ自分の使っていたデスクを見に行った。すでに次の担当者の私物が置かれ始めており、自分の痕跡はほとんど残っていなかった。エレベーターを降り、自動ドアをくぐって外に出る時、彼は一度だけ振り返り、四十年近く通い続けたそのビルの外壁を見上げた。しかし、その一瞬、受付の女性が別の来客に向かって深々と頭を下げている姿が目に入った。会社という場所の時間は、肖像の存在などまるで最初からそこになかったかのように、すでに次の場面へと進み始めていた。

数日後、退職金の一部が銀行口座に振り込まれた。その数字を見た瞬間、彼の口元には一人ではにかむような笑みが浮かんだ。長年染みついた「頑張った自分へのご褒美」という感覚が、彼を動かした。肖像は雑誌の広告で目をつけていた高級腕時計を購入することにした。翌日、彼は自ら電車に乗って百貨店まで足を運んだ。時計売り場の店員が白い手袋をはめた手で丁寧にケースから時計を取り出し、肖像の手首につけてくれた。文字盤が照明を受けて鈍く輝くのを見て、肖像は満足げに何度も腕を返し、角度を変えて眺めた。「長年のお勤め、本当にお疲れ様でした。この時計はきっとこれからの新しい人生にふさわしい一本になるかと思います」という店員の言葉が、まるで自分の人生に対する公式な評価であるかのように感じられ、彼は迷うことなく会計を済ませた。

家に帰る途中、肖像は自宅のリビングに置かれた古びた布張りのソファのことを思い出していた。長年使い込まれ、座面がわずかに沈んだそのソファを見るたびに、彼は漠然とした不満を覚えていた。その日のうちに、彼は革張りの新しいソファも迷うことなく注文してしまった。夕食の席で肖像はその日の二つの買い物について妻の千鶴子に淡々と告げた。千鶴子は箸を止め、少し困ったような表情を浮かべながら「そんなに大きな買い物を続けて二つもする必要があるのか」と静かに尋ねた。肖像は「自分が長年かけて稼いだ金だ。今こそその金を使って楽しむべき時なのだ」と、まるで聞き捨てならないもののように片手で軽く払いのける仕草をしながら答えた。千鶴子はそれ以上何も言わず、ただ小さく頷いただけだった。その沈黙の奥にどれほどの意味が込められていたか、肖像はまだ気づくことができなかった。

最初の一週間は、まるで長い休暇のような自由な感覚のうちに過ぎていった。朝は好きな時間に起き、好きな時間に食事を取り、新しい革張りのソファに深く腰をかけてテレビを眺める。近所を軽く散歩しながら「これが定年後の穏やかな暮らしというものか」と肖像は密かに満足していた。しかし、二週目に入った月曜日の朝、あの空白が彼を襲った。コーヒーは冷め切っており、口に含んでも味をほとんど感じなかった。

その静けさに耐え切れなくなった肖像は、着替えて上着を羽織り、財布だけを手に取ると近所のコンビニエンスストアへ向かうことにした。新聞を買うという名目を与えたものの、本当の目的は誰でもいいから人と言葉を交わすことなのだと、肖像自身も薄々気づいていた。自動ドアが開き、聞き慣れた入店音が店内に軽やかに響いた。レジに立っていたのはまだ大学生ぐらいに見える若い男性店員で、肖像は「今日は雨も上がって少し過ごしやすくなりましたね」と声をかけてみた。しかし店員はその言葉に全く反応を示さず、視線を手元の端末へと落としたままだった。一瞬の間が生まれ、その沈黙が肖像の胸の奥を静かに締めつけた。自動ドアの外に出た肖像は、その場に立ち止まったまましばらく動くことができなかった。

家に戻ると、肖像は自分でも説明のつかない落ち着かなさを抱えたまま日々を過ごしていた。新聞を読み終えても時間はまだ午前七時を回ったばかりで、その先にどれほど長い一日が待っているのか考えるだけで胸の奥が重くなった。そんなある朝、台所に立ち、何気なく冷蔵庫の扉を開けた時、彼は強い違和感を覚えた。野菜室には傷みかけたキャベツの葉が押し込まれ、その隣にはいつ買ったのかも分からない豆腐のパックが無造作に置かれていた。奥の方には賞味期限の欄がすでに滲んで読めなくなった調味料の瓶が埃をかぶったまま並んでいた。チルド室の隅には賞味期限を大きく過ぎた納豆のパックが二つ押し込まれ、ラップもかけられずに置かれた残り物の入ったタッパーは中身がすでに色を変え始めていた。肖像はそれらを一つずつ手に取り、まるで検品作業でもするかのように匂いを確かめ、色を確認し、賞味期限の表示を目を細めて読み取っていった。数十年間、会社で何百ものトラックの運行を管理し、納期や優先順位を頭の中で組み立てることに誇りを持ってきた男の目には、目の前の冷蔵庫の中身はあまりにも無秩序で、あまりにも非効率的に見えた。

その日、肖像はわざわざ駅前の百円ショップまで足を運び、マスキングテープと小さなラベルシールを買い求めた。家に戻ると、彼は冷蔵庫の中身を全てテーブルに並べ、一つ一つ手に取りながら購入日と賞味期限を確認してはラベルに書き込んでいった。キャベツの葉には鮮度を保つための湿らせた新聞紙を巻き、豆腐のパックには賞味期限を大きく書いたシールを貼り付け、調味料の瓶には全て開封日を記したテープを巻いた。作業は思っていた以上に時間がかかり、気づけば昼近くになっていたが、肖像は疲れる様子もなく、むしろ懐かしい充実感を覚えながら手を動かし続けていた。冷蔵庫の中身を全て分類し終えると、彼は扉を閉め、腕を組んでその扉を眺めながら久しぶりに満足げな表情を浮かべた。

その満足感に味を占めた肖像は、翌日には冷凍庫の中身を、さらにその翌日にはパントリーに置かれた調味料や缶詰の賞味期限まで一覧表にして書き出した。彼はノートに手書きで表の形を引き、品目、購入日、期限、在庫数という項目を作り、まるで会社の在庫管理台帳のようなものを完成させていった。さらに彼は家の中を見回し、他にも改善できる点はないかと考え始めた。玄関の靴箱を開けると、そこにも彼の目には見過ごせない乱雑さが広がっていた。千鶴子のパンプスと自分の革靴、来客用のスリッパまでもが棚の中で特に決まりもなく重なり合うようにして置かれていた。肖像は靴箱の中身を全て床に並べ、持ち主ごと、季節ごとに棚を分け直し、普段よく使う靴は取り出しやすい位置に、季節外れの靴は上段に収めるという配置を作り上げた。作業を終えると、彼は靴箱の扉の内側に小さな紙を貼り付けた。そこには誰の靴をどの位置に置くかを示す簡単な図が几帳面な文字で描かれていた。ゴミ収集カレンダーが古いままであることに気づき、市の公式サイトを調べ直して新しい一覧表を作成し、冷蔵庫の扉に磁石で止めた。洗濯物の畳み方が家族ごとにバラバラであることに気づき、彼はタオルの畳み方や収納の順番についても自分なりの手順を頭の中で組み立て始めた。

ある日の昼下がり、千鶴子が洗濯物を庭先に干しているところに出くわした肖像は、「風向きを考えると、大きい洗濯物を奥に、小さい洗濯物を手前に干した方が乾きが早いのではないか」と横から口を挟んだ。千鶴子は物干しにかけたばかりのシャツを一瞬持ったまま手を止め、「そうですね」と短く答えると言われた通りに掛け直した。肖像はその様子に満足し、さらにタオルの畳み方についても「よこをきちんと合わせて三つ折りにする方法」を実演して見せた。千鶴子はその手本をじっと見つめ、「はい」と小さく頷いてから残りの洗濯物を静かに畳み続けた。別の日、肖像はアイロンをかける千鶴子の手元を見ながら、「襟の部分はもっと力を入れて伸ばした方がいい。袖にシワも残っている」と細かく指摘し始めた。千鶴子はアイロンを持つ手を止め、「はい」と答えてから言われた部分にもう一度アイロンを当て直した。食料品の買い出しについても、肖像は独自にノートを一冊用意し、日用品ごとの価格をスーパーごとに書き出し、どの店でどの商品を買うのが最も経済的かを比較する表を作り始めた。ある週末、肖像は自らその手作りの表を片手に駅前のスーパーと少し離れた場所にある量販店の両方を回り、洗剤やティッシュペーパー、調味料などの価格を一つ一つ書き移していった。家に帰ると肖像はその表を千鶴子に見せ、「今後はこの店でこの商品を買うようにしてほしい。そうすれば月に数千円は節約できるはずだ」と説明した。千鶴子は「わかりました。そうしますね」とだけ答え、それ以上は何も言わなかった。

電気代の明細を見ながら、肖像はエアコンの使用時間や照明のつけ方についても細かく計算し始めていた。使っていない部屋の照明がついていることに気づくたびに、彼は「電気を消し忘れているぞ」と声を張り上げ指摘するようになった。テレビをつけたまま台所に立つ千鶴子に対しても「見ていない時間はテレビを消した方がいい。待機電力もバカにならない」と、まるで会議で数字を提示するかのような口調で言うことが増えていった。千鶴子が風呂から上がり脱衣所の暖房を付けっぱなしにしていた時には、肖像はすぐさま「体を拭き終えたら、すぐに消すように」と念押しした。千鶴子はその都度「はい、ごめんなさい」と小さく謝り、暖房のスイッチに手を伸ばした。謝る必要のないことにまで謝る妻の姿を見ても、肖像はそれを生きすぎた鑑賞だとまでは思いつかなかった。

夕方近くになり、玄関の鍵が開く音が聞こえると、肖像は待ちかねていたようにリビングの椅子から立ち上がった。千鶴子がクリーニング店のパートを終えて帰宅すると、肖像はすでに食卓の椅子に腰を下ろし、両手を組んだまま彼女を待ち構えていた。千鶴子が上着を脱ぎ、買い物袋を台所のカウンターに置こうとしたその瞬間、肖像は落ち着いた、しかしどこか詰問するような声で口を開いた。「君が今日買ってきた洗剤だが、駅前のスーパーではなく量販店で買えば一本あたり四十円は安く済むはずだ。生活費というものはもっと最適化できる」。千鶴子は買い物袋を持ったまま一瞬だけ手を止めた。彼女の視線は買い物袋の中身に落ちたまま、しばらく動かなかった。やがて千鶴子は「そうですね。次からは気をつけます」とだけ小さく答え、それ以上言葉を続けることなく買い物袋の中身を冷蔵庫やパントリーへとしまい始めた。肖像はその流れのままノートを取り出し、「他にも見直せる項目がある」と言って米や醤油、トイレットペーパーの値段まで一つ一つ読み上げ始めた。ノートのページには商品名、容量、単価、割引率という項目ごとに罫線が引かれ、赤ペンで最安値の欄に丸印がつけられていた。まるで会社の経費精算書を提出しているかのような錯覚すら覚えるほど整った書面だった。「米はこの銘柄よりも別の銘柄の方が同じ量で二百円ほど安い。醤油も特売の日を狙えばもっと安く買えるはずだ」と肖像は淡々と続けた。千鶴子はその度に「そうですね。次からはそうします」と同じ調子で短く答え続けた。その一定した返事の素っ気なさに、肖像はむしろ安心感を覚えていた。自分の言葉が一つも無駄になっていない。そう感じられることが、退職後の生活の中で数少ない手応えの一つになっていた。しかし、千鶴子の背中はいつもよりわずかに強張って見えた。夕食の準備をしながら千鶴子はそれ以上何も言葉を発しなかった。包丁がまな板に当たる音だけが、いつもより硬く規則正しく台所に響いていた。肖像はその沈黙を、抵抗の意思がない証拠として受け取っていた。

翌日、肖像は洗濯物を干す順番についても「風通しの良い順序があるはずだ」と言い出し、千鶴子の干し方をさりげなく指摘した。さらにその翌日には食器を洗う際の水の使い方についても「無駄が多いのではないか」と口を挟んだ。「水を出しっぱなしにせず、洗剤をつける時は水を止めるように」と肖像は台所の入り口に立ったまま腕を組んでその手順を見守った。千鶴子は言われた通りに蛇口をこまめに締め、洗い物を続けた。翌週末、千鶴子が朝から台所で味噌汁を作っていると、肖像は横から鍋を覗き込み、「出汁を取る際の昆布とかつお節の分量が目分量になっている。正確に計量した方が味が安定するはずだ」と口を挟んだ。千鶴子は少し驚いたように肖像を見たが、すぐに「そうですね」と答え計量スプーンを取り出した。肖像はさらに「味噌を入れるタイミングについても、沸騰させすぎると風味が飛んでしまう」とどこかで読んだ知識を披露するように説明を続けた。千鶴子は火加減を調整しながら「はい」と繰り返すばかりで、自分がこれまで何十年も作り続けてきた味噌汁の作り方について改めて説明されることの奇妙さを顔には出さずにやり過ごしていた。

数日後、千鶴子はクリーニング店の店長に勤務時間を伸ばしてもらえないかと相談を持ちかけた。店の裏手にある小さな休憩室で、千鶴子は店長に向かい「これまで一日五時間だった勤務を七時間に増やしてもらえないか」と控えめな声で切り出した。店長は少し驚いた様子を見せながらもちょうど人手が足りずに困っていたところだったこともあり、二つ返事でその申し出を受け入れた。「助かります。松原さんにはこれからもっとお願いすることになりそうです」と店長は笑顔で答えた。千鶴子はその言葉に小さく頭を下げ、「こちらこそよろしくお願いします」とだけ答えた。休憩室を出て店の奥に戻る途中、同じパートの同僚が「無理しないでね」と声をかけると、千鶴子は小さく笑い、「大丈夫。体を動かしている方が気が楽なの」とだけ答えた。

それから千鶴子は朝早くに家を出て、夕方遅くまで店で働くようになった。家に一人で残される時間が増えたことについて、肖像は当初深く気に留めていなかった。むしろ妻がそれだけ長く働けるということは、それだけ体力があり元気な証拠だという風に都合よく解釈していた。しかし、千鶴子の帰宅時間が遅くなるにつれ、夕食の風景は少しずつ変わっていった。ある日の夕方、肖像が台所を覗くと食卓の上にプラスチック容器に詰められた煮物と焼き魚がラップで丁寧に包まれた状態で置かれていた。容器の脇には小さなメモ用紙が添えられており、「お店で先にご飯を済ませてきたので、こちらは温めて食べてください」と書かれていた。肖像はそのメモをしばらく見つめ、それから黙って容器のラップを剥がし、電子レンジで温め直した。一人で食卓につき、テレビの音だけが響く中、肖像はそのおかずを黙々と口に運んだ。翌日もまた同じようにプラスチック容器と短いメモが食卓に残されていた。一週間が過ぎる頃には、そうした夜が当たり前のものとして定着していった。肖像はいつしかメモに書かれた料理名を見ただけで今日は何曜日かを判断できるようになっていた。かつて運行表を見て曜日を把握していた感覚が、今は妻の作るおかずのローテーションを把握することに置き換わった。土曜日の夜でさえ、千鶴子は近所の寄り合いや親戚の用事に出かけることが増え、食卓にはラップに包まれたおかずだけが残されるようになった。

家の中からかつてのような何気ない会話や他愛もないやり取りが少しずつ姿を消した。夫婦の間で大きな喧嘩が起きているわけではなかった。声を荒げることも物に当たることも一切なかった。ただテレビから流れるバラエティ番組の笑い声だけが、夜けに大きくリビングに響くようになっていた。夜の九時を過ぎると千鶴子はすでに寝室に引き上げていることが多くなり、肖像は一人でリビングの明かりをつけたまま夜遅くまでテレビを眺め続けるようになった。かつて部下たちを前にして遅延一つ許さぬ指示を飛ばしていた自分の姿を思い出すと、あの頃の緊張感と充実感が今の静けさとあまりにも対照的に感じられた。会社では自分の指示一つで五十台ものトラックが動き、部下たちが機敏に動き回っていたはずだった。それなのに、この家の中では自分の言葉一つが妻を少しずつ遠ざける結果にしかなっていないのではないか。そんな疑念が胸の奥に静かに広がっていった。一度だけ、肖像は「今日は疲れただろう。ありがとう」という言葉を千鶴子にかけてみようかと思い立ったことがあった。しかし、寝室から漏れる明かりがすでに消えていることに気づき、その言葉は行き場を失ったまま彼の口の中で静かに溶けて消えていった。

しかし、その感覚をはっきりと認め態度を改めるには、肖像の中に長年積み重ねてきたプライドがあまりにも大きく立ちふさがっていた。冷蔵庫のラベルも玄関の靴箱の配置図も家計管理ノートの几帳面な数字の列も、どれもが肖像の努力の証であるはずだった。しかし、それらを見つめれば見つめるほど、家という場所がまるで彼自身の手によって静かに管理された一つの倉庫のように感じられてくるのだった。かつて職場で誰よりも頼りにされていたはずの管理能力が、この家の中ではなぜか誰の心も温めることのないまま、ただ淡々と積み重なっていくばかりだった。家の中でできる改善はすでに大方手を付け尽くしてしまい、新たに見つけ出せる項目もほとんど残っていなかった。かつては次から次へと目についていた無駄や非効率が、今ではもう見当たらなくなり、その代わりに行き場のない時間だけが手元に残されていた。ある晩、いつものように一人で冷めたおかずを口に運びながら、肖像は「このままでは自分という人間が家の中だけで完結していくだけではないか」と考えた。家の外にもう一度自分の居場所を見つけなければならない。そんな思いが彼の中で日に日に強くなっていった。

そんな考えに至った肖像は、翌朝、久しぶりに気持ちを引き締め、クローゼットの奥から現役時代に着ていたスーツの一着を取り出した。クローゼットの扉を開けた時、防虫剤の匂いがふわりと漂い、その匂いだけで肖像の記憶は一気に現役時代へと引き戻されるようだった。袖を通してみると以前よりもわずかに肩回りがゆったりと感じられたが、それでもネクタイを締め直すと鏡の中の自分の姿には久しぶりに現役の頃のような緊張感が戻ってきたように見えた。千鶴子は朝食の支度をしながらそのスーツ姿を見て「どこかへ行かれるのですか」と尋ねた。肖像は「ハローワークに行ってくる。まだ自分にもできる仕事はあるはずだ」とだけ短く答え、それ以上の説明はしなかった。千鶴子は「そうですか」と小さく頷いただけで、それ以上深くは尋ねてこなかった。

ハローワークの建物は駅前の商業ビルの三階にあり、肖像が最後に利用したのはまだ新卒だった頃の就職活動の一環で一度だけ訪れた時のことだった。四十年近く前の記憶しかない肖像にとって、久しぶりに足を踏み入れるその場所は想像していたものとはまるで違う姿に変わっていた。自動ドアをくぐると、そこには昔ながらの受付窓口の代わりに大型のタッチパネル式の発券機がずらりと並んでいた。画面には求職相談、職業訓練のご案内、雇用保険についてなどいくつもの項目が並び、それぞれをタッチして選択するようになっていた。肖像は画面の前に立ち尽くし、どの項目を選べば人と話せる窓口にたどり着けるのか、しばらくの間判断がつかなかった。求職相談という文字の下にはさらに一般求職、障碍者求職、学卒者求職といった細かな区分が並んでおり、どれが自分の該当する項目なのか肖像には即座に判断がつかなかった。彼は眼鏡を押し上げ、画面に顔を近づけるようにして文字を読み込んだが、小さな文字が並ぶ画面はどこか目ま苦しく感じられ焦りを誘った。一度は誤って別の項目を選んでしまい、画面が切り替わったことで肖像はさらに戸惑い、最初からやり直そうと戻るボタンを探し始めた。後ろに並び始めた若い利用者がちらりと視線を寄越したのを感じ、肖像の背中にはうっすらと汗が滲んだ。見かねた様子で館内を巡回していた警備員の男性が近づいてきて「どちらのご相談でしょうか? よろしければご案内します」と声をかけてくれた。肖像は「いや、仕事を探しに来たのだが、この機械の使い方がよくわからなくて」と幾らか動揺した声で答えた。警備員は慣れた手つきで画面を操作し、「こちらの求職相談のボタンを押していただければ番号札が出てまいります」と説明しながら代わりにボタンを押してくれた。発券機から出てきた番号札を受け取りながら、肖像の指先はかすかに震えていた。長年部下たちに機械の操作を教える側であった自分が、今ではこうして手取り足取り教えられる側に回っていることに、彼は言いようのない恥ずかしさを覚えた。

やがて電光掲示板に自分の番号が表示され、肖像は指定された窓口へと歩いていった。カウンターの向こうに座っていたのは、肖像の息子と同じくらいの年齢に見える小柄な女性の相談員だった。肖像は椅子に腰を下ろすと、あらかじめ自宅で手書きで丁寧に仕上げてきた履歴書を両手でカウンターの上に差し出した。その履歴書には几帳面な文字で「相模ロジスティクス物流調整部門長」という肩書きが太字でなぞられて強調されていた。肖像は「自分はここで長年部門の責任者としてトラックの運行管理と人員配置に携わってきた。実務経験には自信がある」と落ち着いた声で自己紹介を始めた。相談員は履歴書に軽く目を通しながら「はい、拝見しますね」と短く相槌を打った。しばらくの沈黙の後、相談員は手元の端末に何かを入力しながら、「松原様、失礼ですが、現在六十五歳でいらっしゃいますね」と確認するように訪ねた。肖像は「そうだ。しかし体力にも判断力にも現役時代とほとんど変わりはない」とやや前のめりになりながら答えた。相談員はその言葉には特に反応を示さず、端末の画面を見つめたまま淡々とした口調で続けた。「松原様の年齢ですと、事務の管理職の求人は現在ほとんど出ておりません。ご紹介できる案件としましては、商業施設の客室清掃業務か、軽量の宅配便仕分け作業の二つになります」。その声には抑揚がほとんどなく、まるで定型文を読み上げているかのように聞こえた。

肖像はその言葉を理解するのに一瞬の間を必要とした。清掃、仕分け。それらの単語が自分の耳を通り過ぎていく間、彼はまるで自分が別の誰かの話を聞かされているかのような奇妙な感覚に襲われた。窓口の壁に貼られた求人票の見本には「清掃スタッフ募集 時給1200円 深夜手当あり」といった文字が並んでいるのが視界の端にちらりと映り込んだ。その文字の羅列が、これまで自分が積み上げてきたキャリアとあまりにもかけ離れているように思え、肖像は思わず視線をそらした。いつもの癖が出て、肖像は無意識のうちに眼鏡を外し、シャツの裾でゆっくりと拭い始めた。「自分は何百人という部下を束ね、毎日五十台を超えるトラックの運行を管理してきた人間だ。それが今更トイレ掃除をしろというのか」と肖像の声にはわずかな震えがにじんでいた。相談員はその剣幕にも表情を変えることなく軽く息を吐き、「松原様のご経歴は本当に立派だと思います。ですが、再就職を希望される六十五歳以上の方に現在最も多くご紹介できるのが、こうした現場作業系の求人になるのです」と丁寧だが淡々とした口調で繰り返した。肖像は「では、企業の経営相談や物流コンサルタントのような形での再雇用はないのか。経験を生かせる形はいくらでもあるはずだ」と食い下がった。相談員は端末の画面をさらにいくつかスクロールし、「そうした管理職の求人は基本的に人材紹介会社を通じたハイクラス求人となり、こちらのハローワークでは扱っておりません」と静かに答えた。肖像はその返答に思わず言葉に詰まった。自分が思い描いていた再就職の形は、そもそもこの窓口が扱う範囲の外にあるのだということを、彼はこの時初めて理解した。相談員はしばらくの沈黙の後、手元の端末から視線を上げ、「松原様のような方は、実は毎週何人もいらっしゃるんです」と本音を漏らすように付け加えた。その一言には、これまでの淡々とした業務口調とは違うわずかな疲れのようなものが滲んでいた。しかしその言葉は肖像の心を慰めるどころか、自分と同じような屈辱を味わう人間がこれほど多く存在するという事実を突きつけ、彼の胸をさらに重くするだけだった。肖像はしばらくカウンターの上の履歴書を見つめ、それから何も言わずにその紙をゆっくりと自分へ引き寄せた。「結構だ」と肖像は短く答え、履歴書を折りたたむこともせずそのまま手に握りしめた。

建物を出ると、肖像はしばらく行く当てもないまま駅前の通りを歩き続けた。昼が近づき、周囲にはスーツ姿の若い会社員たちが昼食を求めて足早に行き交っていた。その光景を眺めながら、肖像は自分がすでにその流れの中には属していない人間なのだと改めて思い知らされる気がした。通り過ぎるビルの窓ガラスに映る自分の姿を見て、肖像は思わず足を止めた。そこに映っていたのは、少し猫背気味に肩を落とし、履歴書を握りしめたまま歩く一人の初老の男の姿だった。その姿は、彼が思い描いていた自分自身のイメージとはあまりにもかけ離れていた。少し歩いた先にある小さな公園のベンチに腰を下ろし、コンビニで買ったサンドイッチの包みを開けた。遠くから聞こえてくる親子のキャッチボールの音と子供たちの笑い声が、肖像の耳にはやけに遠く、まるで別の世界から響いてくるもののように感じられた。半分ほど食べ終えたところで、上着の内側ポケットに入れていたスマートフォンが小さく震えた。画面を確認すると、そこにはかつて自分の部下だった田中という青年からのメッセージが表示されていた。「部長、その節は本当にお世話になりました。その後お変わりありませんか? 今週末、有志で集まって一杯飲みに行こうという話が出ています。もしご都合がよろしければ、是非ご一緒したいのですが」。肖像の指先はその画面に触れたまま、しばらく動かなくなった。数ヶ月前までであれば「部長」という呼びかけはごく当然のものとして受け止められていたはずだった。しかし、今その二文字が画面に表示されているのを見た瞬間、肖像の胸の奥にはなぜか鋭い痛みにも似た感情が込み上げてきた。自分は今日、清掃員か仕分け作業員としての再就職を進められ、それを断って帰ってきたばかりの人間なのだ。そのことを田中たちはまだ知らない。もし今この誘いに応じて顔を出せば、必ず誰かが「部長、今はどんなお仕事をされているんですか」と尋ねてくるだろう。その問いに自分はどう答えればいいのか。肖像には見当もつかなかった。まさか客室清掃の仕事を探している、深夜の仕分け作業を進められたなどと、かつての部下たちの前で口にできるはずもなかった。肖像の中では、田中たちの前で惨めな自分をさらけ出すくらいなら、最初から顔を合わせない方がましだという結論が静かに固まりつつあった。やがて彼は画面の上でゆっくりと指を動かし、そのメッセージを長押しした。表示された選択肢の中から「削除」という文字を選び、迷うことなくそれを押した。メッセージが画面から消えたのを確認すると、肖像は続けて田中の連絡先の画面を開き、そこに表示されていた「ブロック」という項目にも指を伸ばした。指先がその文字の上でわずかに止まったが、それも一瞬のことで、彼はすぐにそのボタンを押し込んだ。画面には「この連絡先をブロックしました」という短い通知が表示され、それを最後に田中とのやり取りの履歴は全て彼の視界から消え去った。肖像はしばらくの間、真っ黒になった画面をただ見つめていた。自分が今、社会と繋がっていた最後の細い糸を自らの手で断ち切ったのだということに、肖像自身うっすらと気づいていた。しかし、それを認めることは今日一日で受けた屈辱をさらに深く自分の中に刻み込むことに他ならず、彼にはそれを直視するだけの余力が残されていなかった。

家に着き、玄関の鍵を開けると、家の中には相変わらず誰もいない静けさが広がっていた。スーツを脱ぎ、いつものポロシャツに着替えながら、肖像は鏡の中の自分の顔をしばらくの間じっと見つめていた。その顔には、朝家を出る時にあったあのわずかな緊張感も高揚感も、もうどこにも残っていなかった。リビングのソファに腰を下ろし、テレビをつけるでもなく、肖像はしばらくの間何もない空間をただぼんやりと見つめ続けていた。折りたたまれたままの履歴書が、上着のポケットの中で静かに存在を主張しているように感じられた。その夜、千鶴子が帰宅しても肖像はハローワークでの出来事について一言も口にすることはなかった。千鶴子もまたあえて多くを尋ねようとはせず、いつも通り静かに夕食の支度を進めていった。台所から漂ってくる出汁の匂いだけが、いつもと変わらぬ調子でリビングまで届いていた。その匂いに肖像はほんの少しだけ心が緩むのを感じたが、それもすぐに今日の屈辱の記憶に押し戻されてしまった。食卓に並べられたラップ付きのおかずを前にして、肖像はテレビの音を消し、しばらくの間ただ箸を動かすことだけに集中しようとした。しかし、頭の中では履歴書を差し出した時の自分の得意げな表情や、相談員の淡々とした声、そして削除したばかりの田中からのメッセージの文面が代わる代わる浮かんでは消えていった。自分は今日、社会に対してまだ何かを差し出せる人間だと信じて家を出たはずだった。それなのに、家に戻ってきた今の自分には、差し出すべき肩書きも受け取ってくれる相手も何ひとつ残っていないように感じられた。食卓の向こうで、テレビの音のない静けさの中、千鶴子が黙々と箸を動かす音だけが規則正しく響いていた。肖像はその音に耳を済ませながら、「今日一日の出来事を誰かに話したい」という衝動が一瞬だけ胸をよぎった。しかし、それを口にすれば自分がどれほど惨めな一日を過ごしたかを千鶴子にも知られてしまうことになる。その考えが肖像の口を再び固く閉ざさせた。

ハローワークでの一件から数日が過ぎても、肖像の中に募っていた焦りは少しも和らぐことはなかった。田中との連絡を断ってからというもの、彼のスマートフォンには以前にもましてメッセージの通知が届かなくなっていた。画面に何の表示もないまま黒く沈んだスマートフォンを眺めるたびに、肖像は自分がどれほど社会との接点を失ってしまったかを改めて思い知らされる気がした。家の中では冷蔵庫の整理も家計管理ノートの見直しもすでにやり尽くしてしまい、新たに手を加える余地はほとんど残されていなかった。千鶴子との会話も必要最低限のやり取りだけが交わされる日々が続いていた。このままでは自分という人間は、家の中でも外でも誰からも必要とされない存在になってしまう。そんな危機感が肖像の胸の奥で日に日に膨らんでいった。そんなある日、郵便受けに一枚のチラシが投函されているのを見つけた。そこには「桜台町内会 役員募集のお知らせ」という文字と共に、夏祭り実行委員会のメンバーを募集している旨が記されていた。チラシの端には「経験や年齢は問いません。地域のために一緒に汗を流してくれる方を歓迎します」という文言が添えられていた。その一文を読んだ時、肖像の胸にはまるで自分に向けて書かれた言葉であるかのような錯覚にも似た感情が湧き上がってきた。町内会という言葉には、かつての職場のような組織だった活動という響きがあり、彼の胸には久しぶりに小さな高揚感が湧き上がってきた。自分にはまだ人を動かし物事を取り仕切る力があるはずだ。そうした思いに突き動かされるようにして、肖像はその日のうちに町内会の会長を訪ね、実行委員会への参加を申し出た。会長は当時七十代後半の穏やかな人物で、肖像の申し出を快く受け入れた。「松原さんのようにしっかりした方は入っていただけると心強いです」と会長は笑顔で言い、その場で肖像を夏祭り実行委員会の委員長に任命した。会長はさらに「これまでの委員長は高齢のため今年から代わることになっていて、ちょうど後任を探していたところだった」と付け加えた。その言葉を聞いた肖像は、まるで自分がこの役割のために選ばれたかのような、そんな運命めいたものすら感じていた。その肩書きを聞いた瞬間、肖像の胸には久しぶりに何か大きな役割を任されたという確かな手応えが広がった。家に戻る道すら、肖像の足取りはハローワークから帰ってきたあの日とは比べ物にならないほど軽やかなものになっていた。その夜、夕食の席で肖像は千鶴子に町内会の夏祭り実行委員長を引き受けることになったと、久しぶりに明るい声で報告した。千鶴子は少し驚いた様子を見せながらも「それは良かったですね」と静かに答えた。肖像はその反応に気をよくし、「今年の祭りはこれまでとは違う、もっと立派なものにして見せる」と珍しく饒舌に自分の構想を語り始めた。千鶴子は箸を動かしながら「はい、頑張ってください」とだけ応じ、それ以上深くは踏み込まなかった。その控えめな相槌の中に、どこか一歩引いたような不安のようなものが滲んでいたことに、肖像はこの時まだ気づいていなかった。

翌日から肖像は早速夏祭りの準備に取りかかった。彼はまずこれまでの祭りの規模を調べ、それを大幅に上回る内容にすることを独断で決めていった。近隣の商店や業者に片っ端から電話をかけ、提灯の飾り付けや紅白幕、テントや長机の手配について次々と見積もりを取り寄せていった。電話の向こうの担当者が話し終わる前に次の要件を切り出し、まるで部下に指示を出すかのような早口で必要な数量と希望する納期を一気に伝えた。電話だけで済ませず、翌日にはテント業者の事務所まで直接足を運び、担当者と対面で打ち合わせをすることまでした。肖像はテントの骨組の強度や設営にかかる時間について担当者に細かく質問を重ね、まるで大口の取引先であるかのような態度で交渉を進めた。担当者は「町内の夏祭りにしては随分と本格的なご依頼ですね」と笑みを浮かべながらも、肖像の熱意に押されるようにして要望通りの見積もりを作成してくれた。肖像はさらに、これまで町内の有志による手作りの看板で済ませていた案内表示についても業者に発注して規格品のスタンド看板に更新することを決め、音響設備についてもこれまでの家庭用スピーカーでは物足りないと判断し、業者からレンタルのPAシステムを借り受けることまで決めてしまった。支払いについては一旦肖像が自分の口座から立て替え、後日町内会の会計から精算してもらうつもりでいた。その総額は、テント代、紅白幕、机や椅子のレンタル料、さらには看板と音響設備の費用を合わせて十五万円近くに上っていた。肖像はその領収書の束を一枚一枚丁寧に日付順に並べ、クリアファイルに収めていった。これだけの規模の祭りを実現できれば、町内の住民たちもきっと喜んでくれるはずだ。そう信じて疑わなかった。

数週間後、町内会の定例会議が地域の集会所で開かれることになった。肖像は朝からその日のために領収書のファイルと自分で作成した準備状況の報告書を手作りし、いつもより早めに会場へと向かった。会場には会長をはじめとする役員たちの他、比較的若い世代の住民の姿も目立った。肖像は席につくと開口一番、夏祭りの準備状況について自ら進んで報告を始めた。テントを新たに三張り手配したこと、紅白幕を更新したこと、机や椅子を増やしたこと、案内看板を業者発注に切り替えたこと、さらには音響設備までレンタルで用意したことを、彼は一つ一つ詳細に説明を続けた。説明を続ける間、肖像の声は次第に熱を帯び、まるで会社の経営会議で新規プロジェクトの進捗を報告しているかのような口ぶりになっていった。説明を終えると、肖像は用意してきた領収書のファイルをテーブルの中央に置き、「これらの費用については後日町内会の会計から精算していただきたい」とそのファイルを差し出しながら言った。心のどこかで、これだけの成果を見せれば皆が称賛してくれるはずだという期待すら抱いていた。しかし、テーブルを囲む役員たちの表情には、彼が期待していたような賞賛の色はどこにも見当たらなかった。その総額が十五万円近くに上ることを聞いた瞬間、会場の空気が目に見えて変わった。会長や年配の役員たちは顔を見合わせ、困惑した表情を浮かべた。しばらくの沈黙の後、四十代前半と見られる男性が静かに口を開いた。その男性は佐藤という名で、数年前からこの町内会の会計担当を務めている人物だった。佐藤は手元のタブレット端末を操作しながら、「松原さん、大変申し訳ないのですが、今年度から町内会の運営規定が改定されておりまして」と落ち着いた声で切り出した。彼はさらに続けた。「二万円を超える支出については、事前に町内会の専用アプリを通じて役員全員の承認を得ることが必須になっています。松原さんはこのアプリにまだ登録されていないため、今回の発注については事前承認の手続きが取られていないことになります」。佐藤はタブレットの画面を肖像の方に向け、「こちらが規定を定めた総会の議事録です。昨年の秋の総会で満場一致で可決されています」と証拠を示すようにその画面を見せた。肖像はその画面に一瞬目をやったが、細かい文字を読み取ることはできず、視線をすぐにそらしてしまった。自分がその総会に出席していなかったこと、そもそも退職前は町内会の集まりにほとんど顔を出したことがなかったことを、肖像はこの時初めて思い出していた。肖像はその説明を聞きながら、いつもの癖で眼鏡を外しシャツの裾でゆっくりと拭き始めた。彼はしばらく黙り込んだ後、「私は委員長として任された以上、これくらいの判断は自分に任されているものと思っていた」と強張った声で応じた。佐藤は静かに首を横に振り、「委員長という役職があっても、規定上一定額を超える支出は必ず事前承認が必要です。申し訳ありませんが、今回の分については町内会の予算からお支払いすることはできません」と、あくまで淡々とした口調で繰り返した。

肖像の顔が見る見るうちに赤く染まっていった。彼はテーブルに置いていた領収書のファイルを思わず強く握りしめた。「私はこれだけ町内のために骨を折って準備をしてきたんだ。それをそんな事務的な話で片付けるつもりか。あなた方のそういう機械的な考え方こそが人情を失わせているんじゃないのか」と肖像は声を荒げた。その声は普段の彼からは想像もつかないほど大きく、静かな会議室の壁に反響した。肖像はさらに続けて、「自分が若い頃は、こんな細かいアプリだの規定だのに縛られることなく、皆で顔を突き合わせて物事を決めていたものだ。それのどこが悪いんだ」と半ば独り言のようにまくし立てた。会場は一瞬にして静まり返った。誰も肖像の言葉に言い返そうとする者はいなかったが、その沈黙は決して肖像に味方するものではなかった。年配の役員たちは気まずそうに視線を落とし、若い世代の住民たちの何人かはあからさまにため息をつき、隣の人と小声で何かをささやき合っていた。肖像の正面に座っていた若い母親らしき女性は、膝の上に置いた資料に視線を落としたまま一度もこちらを見ようとしなかった。その視線の中に、肖像は「面倒な老人だ」「話の通じない年寄りだ」というような色合いをはっきりと感じ取った。佐藤はしばらく間を置いてから、「松原さんのお気持ちはよくわかります。ですが、規定は規定として皆で決めたルールですので」と静かに、しかしはっきりとした口調で言い切った。その言葉には、これ以上議論を続けるつもりはないという明確な意志が込められていた。会長が場を取りなすように「松原さん、今回のことは町内会としても検討させていただきますが、まずは会議を進めさせてください」と穏やかな声で話を切り上げた。肖像はそれ以上何も言い返すことができないまま、領収書のファイルを静かに閉じた。結局、その日の会議で肖像が立て替えた十五万円近くの費用が町内会から支払われることはなかった。会議が終わり集会所を出る時、肖像は誰とも目を合わせることができなかった。

家に帰った肖像は、玄関先に積まれたままのテントの箱や紅白幕の筒を見て、しばらくその場に立ち尽くしていた。これらの品々は結局、夏祭り当日まで使い道のないまま庭の隅に置かれ続けることになった。雨の日にはブルーシートを被せてしのぐしかなく、そのブルーシートの端が風になびく音が、肖像の耳には夜けにはひときわ美しく響いた。梅雨の湿った空気の中、段ボール箱の一部はふやけて角が崩れ始め、その様子を見るたびに肖像の胸には言いようのない苦さが広がった。それから数日が過ぎたある朝、肖像がゴミを出しに家の外に出ると向かいの家の主婦と出くわした。その主婦は肖像の姿を見ると深々と頭を下げ、「おはようございます」と丁寧に挨拶をしたが、それ以上言葉を続けることなく、そのまま足早に立ち去っていった。以前であれば夏祭りの準備の進み具合や今年の出店の話などで立ち話の一つでも交わされていたはずだった。しかし今では、丁寧な会釈だけが交わされ、それ以上の会話が続くことは一切なくなっていた。別の日、肖像が回覧板を隣家に届けようとしたところ、玄関のインターホン越しに「ありがとうございます。置いておいてください」という声だけが返ってきた。肖像は回覧板を郵便受けの前に置いておき、しばらくその場に立ったまま閉ざされたままの玄関の扉を見つめていた。さらに別の朝には、肖像が燃えるゴミの袋を集積所に置こうとしたところ、分別方法が新しくなっていることに気づかされる出来事があった。近くにいた若い男性住民が「すみません。そのプラスチック製の容器は来月から資源ゴミの日に別で出すことになったんです。町内会のアプリでお知らせが回っているはずなんですが」と遠慮がちに声をかけてきた。肖像は「そうか。知らなかった」とだけ短く答え、袋を持ち帰えることになった。家の中での孤立に加え、今度は町内というもう一つの居場所からも静かに、しかし確実に締め出されつつあることを、肖像は認めざるを得なかった。

その夜、肖像はリビングのソファに腰を下ろし、庭に積まれたテントの箱のことを思い出しながら、これまでの自分の判断のどこが間違っていたのか繰り返し考え続けていた。自分はただ皆のためにより良い祭りを作りたかっただけだった。そのつもりだった。かつて職場で予算を扱っていた時は、決済が降りるまで慎重に手続きを踏むことを部下たちにも厳しく求めていたはずだった。それなのに、今回に限っては自分自身がその手続きというものを丸ごと飛び越えてしまっていたことに、肖像はようやく気づき始めていた。自分が現役時代に築き上げてきたはずの手順を守るということが、退職後の焦りの前では意図も簡単に崩れ去ってしまっていたのだった。それでもなお、自分のやり方の何が根本的に間違っていたのかを肖像は完全には認めることができずにいた。規定やアプリという言葉の背後にある若い世代なりの合理性を、彼はまだ素直に受け入れる準備ができていなかった。かつての職場では、部長という肩書き一つで多少の手続きの省略も大目に見られることが少なくなかった。決済権限を持つ者の判断こそが全てだった時代を、肖像は長く生きてきた。しかしこの町内会では、肩書きよりもアプリの承認履歴の方がはるかに重い意味を持っていた。その事実を受け入れることは、肖像にとって自分がこれまで生きてきた時代そのものを否定されるに等しい感覚だった。長年勤め上げてきた会社でも、これほどまでに自分の判断を正面から否定されたことは一度もなかったように思えた。強固の場で味わった屈辱は、ハローワークで受けたそれとはまた別の、より深いところに突き刺さるものだった。あちらは赤の他人からの事務的な拒絶だった。しかし今日のものは、長年顔を合わせてきたはずの同じ町内に暮らす人々からの静かな拒絶だった。その分だけ、肖像の胸に残った痛みはいつまでも消えずにくすぶり続けた。

六月も下旬に入り、桜台の町にはいよいよ本格的な梅雨がやってきた。灰色の雲が幾重にも重なり、空はいつまでも明けないまま、重苦しい湿気だけが町全体を覆っていた。屋根に降り注ぐ雨は朝から晩まで途切れることなく、家の中にまで雨音という単調な響きを届け続けていた。肖像はその雨音を聞きながら、ここ数週間の出来事を繰り返し頭の中で反芻していた。町内会での一件以来、彼が外に出る回数は目に見えて減っていた。顔を合わせれば深々と頭を下げるだけで足早に去っていく近所の住民たちの姿をこれ以上見たくないという気持ちもどこかにあった。そんなある朝、いつものように郵便受けを覗いた肖像は、一通の茶色い封筒を見つけた。差出人の欄には「市役所 税務課」という文字が印刷されていた。宛名には「松原肖像様」という自分の名前が、いつもと変わらぬ事務的な書体で記されていた。封筒を手に取った瞬間、肖像の胸にはなぜか嫌な予感が広がった。リビングに戻り、テーブルの上でその封筒を開けると、中から出てきたのは令和七年度分の住民税の納税通知書だった。封筒を開ける指先がわずかに震えているのを肖像は自分でも感じ取っていた。肖像はその紙面に記された数字を最初は見間違いかと思い、何度も目をこすって見直した。しかし、何度確認してもそこに印された金額は変わらなかった。住民税というものが前年の所得を元に計算されることを、肖像は頭では理解していたつもりだった。しかし、実際にその金額を目の当たりにするまで、彼はその重みを全く実感として捉えていなかった。昨年までは部門長としての高い給与を得ていたため、その所得を元に算出された今年度の税額は、退職後の無収入の身にとってあまりにも大きな負担となっていた。肖像の額にはじわりと冷たい汗が滲み出た。これほどまとまった金額を今すぐに用意できるのか。肖像の頭の中では慌ただしく計算が始まっていた。彼は急いで寝室の引き出しから預金通帳の束を取り出し、テーブルの上に広げた。普通預金の残高を確認すると、そこに記された数字は想像していたよりもはるかに少なかった。肖像はさらに、退職金の大半を預け入れていた定期預金の通帳を開いた。そこには確かにまとまった金額が記載されていたが、その預入期間はまだ満了しておらず、今すぐに解約すれば解約手数料が発生することが契約書の但し書きに小さく記されていた。つまり、目の前にある大きな金額は今すぐには自由に使うことができない。いわば凍りついたお金だった。肖像は電卓を取り出し、普通預金の残高から住民税の金額を差し引く計算を何度も繰り返した。計算結果は、何度やり直しても決して楽観できるものにはならなかった。退職直後に自分へのご褒美として購入したあの腕時計。それに合わせて買い換えた革張りの新しいソファ。そして、町内会の夏祭りのために立て替えたまま戻ってこなかった十五万円近くの金。それらの支出が積み重なった結果、手元に残っていた現金はすでに半分以上が失われてしまっていた。あの時はどれも自分にはそれだけの価値があると信じて疑わなかった買い物だった。しかし、今こうして通帳の数字と向き合ってみると、その一つ一つが今の自分の首を静かに絞めつける結果になっていたことに、肖像は今更のように気づかされていた。このままでは、通知書に記された税額を納付期限までに支払うことすら難しいかもしれない。そんな焦りが彼の胸の中で急速に膨らんでいった。

しばらく考えた末、肖像は通知書に記されていた市役所の相談窓口の番号に電話をかけてみることにした。職員は「分割納付の制度自体はございますが、事前の申請と審査が必要になります。まずは窓口にお越しいただくか、オンラインの申請フォームからお手続きいただく形になります」と説明した。さらに職員は「審査の結果によっては、分割が認められない場合もございます」と付け加えた。その一言に、肖像の胸にはまた別の不安が重くのしかかった。「オンラインの申請フォーム」という言葉を聞いた瞬間、肖像の脳裏にはハローワークのタッチパネルに苦戦したあの日の光景が嫌というほど蘇ってきた。自分はまた、あの慣れない画面と向き合わなければならないのか。そう思うと、肖像の胸には疲労にも似た思いが広がった。電話を切った後、肖像はしばらくテーブルの上に広げたままの通帳と通知書をただぼんやりと見つめ続けていた。彼は震える手でスマートフォンを取り上げ、千鶴子に電話をかけようとした。しかし、彼女はちょうどその日パートの仕事が休みで、家の中で何やら作業をしているところだった。肖像はリビングから寝室へと足を運び、扉越しに「千鶴子、ちょっと話がある」と声をかけた。扉を開けると、そこには大きな旅行かばんを床に広げ、衣類を几帳面に詰め込んでいる千鶴子の姿があった。その光景があまりにも唐突だったため、肖像は一瞬自分が何のためにこの部屋に来たのかを忘れかけるほどだった。畳まれた衣類の山はすでに旅行かばんの半分近くを埋めており、その手つきに迷いは感じられなかった。かばんの脇には普段使いの化粧品や常備薬の入ったポーチまで几帳面に並べられていた。まるでこの日が来ることをずっと前から静かに準備していたかのような、そんな手際の良さだった。肖像は一瞬その光景に戸惑いながらも、住民税の通知書のことを切り出し「来月の支払いについて相談したい」と伝えた。千鶴子は手を止めることなく、淡々とした口調で「東京の息子のところのお嫁さんが体調を崩してしまって、しばらくの間家事と子供の世話を手伝いに行くことになりました」と言った。肖像は「いつからだ? どれくらいの期間になるんだ?

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」と矢継ぎ早に訪ねた。千鶴子は「明日から、一ヶ月ほどになると思います。クリーニング店にはすでにお休みの相談をしてあります」と変わらぬ落ち着いた声で答えた。彼女はさらに「生活費については、今月の分を台所のテーブルの上に置いてあります」と付け加えた。言い終えると、千鶴子は再び手元の衣類に視線を戻し、丁寧に袖を畳み直し始めた。その手つきには、これ以上この話を続けるつもりはないという静かな意志が滲んでいるように肖像には感じられた。

肖像はその説明を聞きながら、何かが決定的に食い違っているという感覚を拭い去ることができなかった。これまで、東京の息子夫婦からそのような相談の連絡があったという話を、肖像は一度も聞いたことがなかった。もし本当に嫁が体調を崩しているのなら、これほど落ち着いた様子で荷造りを進められるものだろうか。そんな疑念が肖像の頭をよぎった。それに、これほど大きな旅行かばんに、一ヶ月分にしては随分と念入りな荷造りをしているようにも見えた。もしかすると、これは一ヶ月では終わらない。もっと長い、あるいは戻らないつもりの旅立ちなのかもしれない。そんな考えさえ肖像の頭の片隅をかすめた。しかし、その疑念を口にする資格が今の自分にあるのかどうか、肖像には自信が持てなかった。これまで家の中では家計簿だと家事の改善だと言っては干渉を続け、町内会では独断で高額な買い物を重ね、その結果家の中にも町内にも自分の居場所をどんどん狭めてきたのは、紛れもない自分自身だった。冷蔵庫に貼られたラベルの列も家計管理ノートの几帳面な数字も、今となっては千鶴子をこの家から遠ざけるための静かな圧力でしかなかったのかもしれない。彼はしばらく黙り込んだ後、何とか「そうか。気をつけて行っておいで」とだけ絞り出すように答えた。千鶴子は荷造りの手を止め、「はい」と小さく答えると、そのまま作業を続けた。その夜、二人の間にそれ以上の会話はほとんど交わされなかった。夕食の席でも、千鶴子はこれまでと変わらぬ様子で箸を動かし、肖像もまた何を話せばいいのか分からないまま黙って茶碗を口に運ぶだけだった。

翌朝、まだ雨が降り続く中、千鶴子は大きな旅行かばんを引いて玄関を出ていった。肖像は玄関先まで見送りに出たが、かけるべき言葉が見つからないまま、ただ「気をつけて」とだけ繰り返した。千鶴子は振り返り小さく会釈をすると、傘を差して雨の中を駅の方へと歩いていった。その後ろ姿が路地の角を曲がって見えなくなるまで、肖像はその場に立ち尽くしていた。雨に濡れたアスファルトに、千鶴子のキャリーバッグの車輪が残していった細い水の跡だけが、しばらくの間玄関先に残っていた。その後ろ姿もやがて降り続く雨に洗い流され、跡形もなく消えていった。その日一日、肖像は家の中でこれと言ってやることもないまま時間を持て余していた。冷蔵庫を開けても、几帳面に分類された食材が並んでいるだけで、それを見る気力すら湧いてこなかった。台所のテーブルの上には、千鶴子が置いていった生活費の入った封筒が、几帳面な字で「今月分」と書かれた付箋と共に静かに置かれていた。その几帳面な文字を見るたびに、肖像は彼女がどれほど長い時間をかけてこの家での暮らしに折り合いをつけてきたのかを、今更のように思い知らされる気がした。夕方になると雨足は再び強まり、窓ガラスを叩く雨が部屋の中の静けさを一層際立たせるようになっていった。玄関の扉を閉めると、家の中はこれまでにないほどの静けさに包まれた。肖像はリビングに戻り、革張りの新しいソファに力なく腰を沈めた。数ヶ月前に届いたばかりのそのソファは、今の彼の目にはひどく無機質で冷たい塊のように映った。革の匂いも座面の硬さも、あの頃感じていたような満足感をもう何ひとつ思い出させてはくれなかった。時計の針が進むにつれ、外はさらに暗さを増し、雨足もいくぶん強まっていくようだった。気がつくと時刻はすでに午後七時を回っていた。肖像の胃が朝から何も食べていないことを今更のように主張し始めた。台所に立ってみても食欲をそそるようなものは何もなく、冷蔵庫を開けてもそこにあるのは几帳面に分類されたけれども温かみのない食材だった。仕方なく肖像は上着を羽織り、玄関に置いてあったスニーカーに足を通した。傘立てから透明なビニール傘を一本取り出すと、彼は雨の降りしきる中を一人で歩き出した。

近所の小さなスーパーまでの道のりはいつもなら十分もかからない距離だったが、その日は風が強く足元の水たまりを避けながら歩くせいで、いつもより時間がかかった。店に着くと自動ドアが開き、明るい店内の光が雨に濡れた肖像の顔を照らした。店内には夜のこの時間ならではの独特の静けさが漂っていた。肖像は総菜コーナーへと向かい、値引きシールの貼られる時間を待つ、数人の客の姿を目にした。その中には彼と同年代かそれ以上に見える、一人暮らしらしき高齢者の姿が何人か混ざっていた。ある老婦人は買い物かごを片手に下げたまま、値引きの時間が来るのをじっと立って待っていた。別の老人は杖を壁に立てかけ、両手を後ろで組んだまま陳列棚の弁当のパックを眺めるように見つめていた。誰も言葉を交わすことなく、それぞれがそれぞれの理由でこの静かな待ち時間を過ごしているようだった。やがてエプロン姿の店員が台車を押しながら現れ、冷めた弁当のパックに慣れた手つきで五割引きのシールを貼り始めた。客たちの手が一斉にその弁当へと伸びていった。肖像もまたその流れに押されるようにして一つの弁当を手に取った。パックの中の鶏肉はすでに油が固まりかけており、色合いもどこか沈んで見えた。それでも今の肖像にとっては、それだけがこの夜に自分の空腹を満たしてくれる唯一の選択肢だった。会計を済ませ店を出ると、雨はまだ止みを見せなかった。家までまっすぐ帰る気にもなれず、肖像は近くにあった屋根付きのバス停に足を向けた。その時間帯、バスはすでに運行を終えており、バス停のベンチには誰もいなかった。蛍光灯の光に照らされたバス停の時刻表には、最終便の時刻がとうに過ぎていることが小さな文字で示されていた。肖像はそのベンチに腰を下ろし、雨を避けながら買ってきた弁当の包みを開いた。割り箸を割り、冷え切った鶏肉を口に運ぶと、油の固まった食感が舌の上に重く広がった。味というよりも、ただ空腹を埋めるためだけの作業のように肖像は黙々と箸を動かし続けた。

弁当を食べながら、彼はふと上着のポケットからスマートフォンを取り出した。画面には何の通知も表示されていなかった。田中からのメッセージも、町内会からの連絡も、そして千鶴子からの一言もない。真っ黒な画面がそこにあるだけだった。肖像はその画面をしばらくの間じっと見つめ続けた。自分がブロックしてしまった相手からの連絡は、もう二度とこの画面に映ることはない。そのことを改めて実感すると、胸の奥に鈍い痛みが広がった。腕に目をやると、あの高級腕時計が相変わらず規則正しく時を刻み続けていた。かつてはこの時計を身につけることに確かな誇りと満足感を覚えていたはずだった。その誇らしさは、たった数ヶ月の間にまるで嘘のように色褪せてしまっていた。しかし、今、雨の降りしきるバス停で一人冷めた弁当を口に運びながら眺めるその時計は、ただ無常に時間だけを刻み続ける無機質な機械に過ぎなかった。自分にはもうこの先いくらでも時間があるはずだった。それなのに、その時間を一体何のためにどうやって使えばいいのか、肖像にはまるで見当がつかなかった。屋根の端から滴り落ちる雨つぶが時折風に流されて彼の方にかかった。その冷たさが肖像の意識をわずかに現実へと引き戻した。彼はふとこれまでの自分の人生を振り返った。新卒で入社した日のこと、初めて部下を持った時のこと、大きな取引先との商談をまとめ上げた時のこと。そうした記憶の断片が、雨に紛れて次々と脳裏に浮かんでは消えていった。あの頃は、明日という日が何をすべきかも分からないまま過ぎていくことなど想像すらしたことがなかった。長年、会社という組織の中で与えられた役割を果たすことにだけ全ての力を注いできた。物流表を読み、部下に指示を出し、数字を管理する。そうしたことにかけては誰にも負けない自信があった。しかし、会社という後ろ盾を失った今、一人の人間として日々をどう過ごせばいいのか、誰とどうやって関わっていけばいいのか。そうしたことについて、自分はあまりにも無防備だったのだと肖像はようやく思い知らされていた。自分は会社員になるための準備だけは誰よりも入念に重ねてきたけれども、ただの一人の人間として生きるための準備は何ひとつしてこなかったのだ。その事実が、雨に打たれる肌の冷たさと共に彼の胸に静かに、そして深く染み込んでいった。

肖像は目を閉じ、口の中に残っていた冷たい米粒をゆっくりと飲み下した。その味はほろ苦く、どこまでも味気なかった。これから先、自分を待っているのはおそらくこれまでのような賑やかさとは無縁の、静かで地味で目に見えない苦労に満ちた日々なのだろう。千鶴子が戻ってきた時、自分はどんな顔で彼女を迎えればいいのか。住民税をどうやって完納すればいいのか。そしてこれから先、自分はどこでどんな役割を見つけていけばいいのか。答えの出ない問いばかりが次々と頭の中を巡っていった。かつての部下たちも、町内の住民たちも、そして今は千鶴子さえも、自分のそばから静かに離れていった。それでも、明日という日は変わらずやってくる。朝が来ればまた同じように目が覚め、同じように一日が始まるのだろう。雨が上がろうと降り続こうと、時計の針は止まることなく進み続け、自分はまたその中で生きていかなければならない。肖像は目を開け、空になった弁当の容器を静かに袋にしまった。雨はまだ止み配を見せないまま、バス停の屋根を規則正しく叩き続けていた。彼はベンチから立ち上がり、ビニール傘を開くと、再び雨の中へと一人歩き出した。家までの帰り道、水たまりを踏む自分の足音だけが規則正しく耳に響いていた。やがて雨に煙る住宅地の路地の向こうに、彼の姿は静かに溶け込んでいき、見えなくなった。その後も、屋根を叩く雨だけが長く桜台の町に降り続いていた。