課長がニヤニヤしながら言った。「やめるんだってなあ。お疲れ様。次の職場で頑張ってくれ。」
長期休暇明けの出勤初日、俺は何が起こっているのか全く分からなかった。課長の言葉に俺は口を開こうとしたが、課長は俺のことを無視して話を進める。同僚たちもざわつき始めていた。
俺の名前は藤田健一。通信会社の営業として働いている。自分で言うのもなんだが、仕事に対してはかなり真面目に取り組んできた。分からないことがあればすぐに先輩や上司に質問し、誠実に、素直に行動することを心がけてきた。そのおかげで、俺は見る見るうちに成長し、営業成績トップの座を毎月維持し続けるまでになった。
二十六歳にして係長への昇格が決まり、周囲からも祝福された。最初こそ順調すぎて怖いくらいだったが、それでも誠実さを欠かさないように気をつけていた。最近では後輩もできて、教える立場にもなってきていた。
ただ、職場の中には俺のことをよく思っていない人間もいる。それが課長の中山公平さんだ。俺が彼よりも実績を上げていることや、周囲から可愛がられていることが気に入らないらしく、普段から当たりが強い。俺自身に迷惑がかかる分には構わないと思っていたが、最近はその嫌がらせがエスカレートしてきていた。
以前も夕方の時間帯に、片道二時間かかる取引先に「今から行って来い」と言われたことがある。俺が営業のアポイントを入れていた日には、わざと別の相談を入れられたこともあった。自分だけで済むなら我慢できたが、取引先にまで迷惑がかかるようになってきたのはさすがに我慢ならなかった。
その矢先のことだ。
俺はお盆休みと有給を合わせて十日間の長期休暇を取り、久しぶりに実家へ帰っていた。両親や地元の友人とも会えて、充実した休暇を過ごせた。そして休暇が終わり、気合いを入れ直して出勤した日の朝。課長に「やめるんだってな」と言われたのだ。
同僚の間宮が近づいてきて言った。「藤田、お前やめたんじゃなかったのか?」
「は? どういうことだよ」
「お前、退職届け出したって聞いてたぞ。お盆に入る少し前に」
全く覚えのない話だった。退職届けなんて出した覚えはないし、そもそも退職なんて一切考えていなかった。誰かが勝手に俺の名前で退職届けを出したのだろうか。そんなことをするような人物は一人しか思い当たらない。
俺が部屋の奥を見ると、中山さんと目が合った。彼はニヤニヤしながらペットボトルのお茶を飲んでいた。俺に向かって片手を上げると、立ち上がってこちらに近づいてくる。
「ああ、藤田君。話は聞いているよ。やめるんだってな」
わざとらしく両手を広げる中山さん。俺が口を開こうとすると、彼は俺のことを無視して続ける。
「いやあ、残念だよ。君は優秀だからな。だが、君みたいな優秀な人材は確かにうちには合わないかもしれないな。お疲れ様。次の職場で頑張ってくれ」
そう言って俺の肩を叩いた。表面的には部下をねぎらう上司のように見せかけているが、その態度や、俺に話す暇を与えずに話を終わらせようとするところから、中山さんが犯人だと確信した。
確かに自分だけにしか害がなければ構わないと思っていた。だが、まさかここまでやるとは思ってもみなかった。
俺は中山さんを見たまま、言った。
「どうなっても知りませんよ」
そう言って、俺はその場を離れ、会社を出た。
それから半月ほど経ったある日、俺の携帯に電話がかかってきた。表示された名前は菊京介さん。前の会社での事業部長だ。
「藤田君か。俺が電話に出ると、すぐに焦った声が聞こえてきた」
「そうですけど、何かあったんですか?」
「これはこっちのセリフだ。出張から帰ってきたら、君が退職したと聞いて驚いたぞ」
菊さんは俺の営業成績を知っているから、なぜいきなり辞めたのか分からずに驚いているのだろう。俺は事情を知らない人に本当のことを話して変な噂が立つのを恐れ、外聞的には「スキルアップのため」と話すことにしていた。だが、菊さんはどうしても俺の力が必要だと言い、一度会社に来て欲しいと頼んできた。
菊さんの声にはどこか切実な思いが感じられた。俺は迷ったが、以前、係長への昇格を約束してくれたのは他ならぬ菊さんだった。断りにくかった。
「分かりました。今からでも構いませんか?」
俺がそう答えると、菊さんは喜んだ。
言われた時間に会社に到着し、俺は会議室に向かった。半月離れていただけだが、わずかに懐かしさを感じるのは退職したという事実が大きいのだろう。
会議室には菊さん一人だけがいた。俺は着席するよう促され、菊さんの正面にある椅子に座った。面接のような状況に、査定の面談を思い出す。
「会議室は失敗だったかもな。これじゃあ面談みたいだ」
菊さんが冗談めかして言う。俺もそうですねと笑い混じりに答えると、それまで穏やかだった菊さんの表情が真面目なものに変わった。
「それで本題だが、単刀直入に聞く。どうしてやめたんだ?」
俺は少し悩み、用意していた嘘の理由を答えた。スキルアップのためだと。中山さんに対して思うことがないわけではないが、不必要に大事にしたくないと思っていたのだ。
だが、菊さんは俺の嘘の理由を聞いても一切納得しなかった。腕を組んだまま険しい顔をしていた彼は、一つため息をついて身を乗り出した。
「藤田君の様子を見ていれば、今の話が嘘だとすぐに分かる。どうか本当のことを話してくれないか」
まっすぐに目を見てそう言う菊さんからは、こちらを疑っているような雰囲気は感じられなかった。俺は俯いて悩んだが、再び菊さんの目を見て、ついに決心した。
「実は、勝手に退職届けを出されたんです」
菊さんは何も言わず、黙って続きを促した。
「お盆休みに有給を合わせていたんですが、その間に出されていて、休暇が明けた時にはもう広まっていました」
菊さんは再び腕を組んで険しい表情になった。
「それが本当なら大問題だ。誰がやったか、心当たりはあるのか?」
俺は課長である中山さんのことを話した。明確な証拠があるわけではないが、あの様子は間違いないだろう。それ以前にも俺に対する嫌がらせが多く、特に最近は取引先を巻き込むほどエスカレートしていたことも合わせて話した。
菊さんは「そうか」とだけ言って、しばらく悲しそうに俯いていた。課長という役職についている人間がそんなことをしでかしたことがショックなのだろう。あるいは、以前からあった嫌がらせ行為に気づけなかったことだろう。
しばらく俯いていた菊さんは、不意に立ち上がると携帯を取り出した。
「中山君を呼び出す。いいかい?」
俺が頷くのを見ると、菊さんはすぐに電話をかけた。
「中山君か。すぐに会議室まで来るんだ」
短くそれだけ言って電話を切る。菊さんからは、うむを言わせない圧力を感じた。
ほどなくして会議室の扉がノックされ、中山さんが入ってきた。俺の姿を見て驚いていたが、菊さんに座るよう促されると、俺の隣の椅子に座った。
「藤田君の名前で勝手に退職届けを出したのは君か?」
菊さんの言葉に、中山さんは一瞬で顔を歪めた。
「それは……彼がそう言っていたんですか?」
中山さんは俺の顔を見て言う。菊さんがそうだと答えると、中山さんは食い気味に話し始めた。
「彼が私を落とし入れようとしているんでしょう。大体、退職届けを勝手にだなんて、そんな非常識なことをする人が我が社にいるわけがありません。彼が自分の意思で提出したんです」
もっともらしいことを言っているが、明らかに焦った様子から見て嘘だということが丸分かりだった。当然、菊さんも中山さんの話を信じるわけがない。
「言い訳をするな」
菊さんの怒声が会議室に響く。中山さんは青ざめた顔から大量の汗をかき始めた。
「君が勝手に退職届けを出したんだな」
菊さんのうむを言わさない雰囲気に、中山さんはわずかに震えながら頷いた。
「はい。大変申し訳ございません」
頭を下げようとした中山さんを、菊さんが止める。
「私ではなく、藤田君に謝罪するんだ」
中山さんは何も抵抗せず、言われた通りにした。
「大変申し訳ございません」
その姿は、かつての上司とは思えないものだった。俺が頷くと、菊さんは中山さんの顔を上げさせた。
「私からも謝罪しよう。そんなことになっていたとは全く気づかなかった。本当に申し訳ない」
そう言って、菊さんまでもが俺に頭を下げた。
「勝手なことを言うようだが、どうか戻ってきてもらえないか。もちろん中山君には相応の処分を下す。君の昇格も変わらず約束する」
顔を上げた菊さんは俺にそう懇願してきた。この提案は確かに魅力的だった。だが、俺にはもう戻ることのできない事情があった。
「そう言ってもらえるのはありがたいですが、もうすでに転職していて、戻れないんです。すみません」
俺の答えに菊さんは驚いた様子だった。実は俺は以前から、ライバルの通信会社からスカウトされていたのだ。わざわざそちらに移る理由もなかったのでずっと拒否していたが、今回の件で俺はその会社に転職することにした。退職した日の翌日に相談すると、先方は快く受け入れてくれた。だから半月しか経っていないが、もうすでに勤務も始まっている。俺が今日ここに来られたのは、偶然外回りの最中だったからだ。
「菊さんにはお世話になりましたし、評価してくれていたことも感謝していますが、さすがに今からは戻れないんです。すみません」
俺はそんな事情を菊さんに話した上で、改めて自分の意思を伝えた。菊さんは残念そうな顔をしていたが、少ししてから「そうか」とだけ呟いた。
「今日は時間を取らせてしまってすまなかったな。何か相談事でもあれば連絡してくれ」
俺は「ありがとうございます」と言って、菊さんと握手した。そして席を立って退出する際、ずっと下を向いて固まっていた中山さんを、菊さんが叱責する声が聞こえた。
その後、俺は転職したライバル会社でも営業成績一位を収めていた。ライバル会社と言うだけあって、事業内容やサービスにそこまで違いがないため、俺は即戦力として活躍していた。前の会社で係長への昇格がほぼ決まっていたことから、この会社では入社してすぐ係長として勤務することになっていた。新しい環境でいきなり係長というのは少し不安だったが、今までの経験や身近にいた先輩たちを参考にして働くうちに、すぐに慣れることができた。
元からいた社員たちから反発を買うのではないかと思っていたが、それも杞憂だった。どうやら俺はちょっとした有名人のようになっていて、以前からのスカウトもここの社員からの要望があって行われていたらしい。そのため俺がいきなり係長に就任しても、誰も文句を言うことはなかった。
以前の中山さんのように理不尽な嫌がらせをしてくる上司もおらず、俺は伸び伸びと働くことができていた。そして転職から三ヶ月という異例のスピードで、俺は課長の地位に着くことになった。以前の経験から課長という役職には思うところがある。俺はその経験を無駄にしないように、成果を出している部下にはちゃんと褒めるようにした。自分よりも優れた点がある部下には自らそれを聞いてみるなど、誠実に素直にということを改めて意識することで、少しでもいい上司になるべく努力しているのだ。
その考えは間違っていなかったようで、部下たちの成績はぐんぐん伸びていった。そんな部下たちに負けないよう、俺自身も努力を続ける。そうすることで、俺は充実した毎日を過ごしていた。
そんな日々だが、たまに菊さんから連絡が来ることがある。基本的には俺のことを気遣ってくれているのだが、最初のうちは「やっぱり戻ってきて欲しい」という話が多かった。ただ俺の意思が硬いことを察したのか、最近は諦め気味のようで、近況報告のようなものが多くなっている。
また、その近況報告によると、中山さんは自主退職したとのことだった。処分については懲戒処分で、平社員からやり直しと聞いていたのだが、どうやら周囲の目が痛かったらしい。社員を一人勝手にやめさせたという話は懲戒処分と同時にすぐに広まっていたらしいのだ。現在は転職活動をしているようだが、あまり芳しくないようだ。
何にせよ、真面目にやり直そうとしているのなら好ましいことだろう。俺は中山さんの顔を思い出し、改めて部下への思いやりを忘れないようにしようと心に決めた。



