大雪が積もる寒い夜、私は駅から五キロの道を歩いて帰るしかありませんでした。ICカードの残高はゼロ。財布の中の小銭を数えても、バス代すら足りなかったのです。つい一か月前まで、私は課長として部下を率い、誰もが認める「真面目な社員」でした。しかし六十二歳の嘱託社員になった今、私を頼ってくれるのは、夫に逃げられ、住む家まで失いかけた娘だけ。娘を救うための三十万円を振り込んだ後、私の口座には何が残った…

大雪が積もる寒い夜、私は駅から五キロの道を歩いて帰るしかありませんでした。ICカードの残高はゼロ。財布の中の小銭を数えても、バス代すら足りなかったのです。つい一か月前まで、私は課長として部下を率い、誰もが認める「真面目な社員」でした。しかし六十二歳の嘱託社員になった今、私を頼ってくれるのは、夫に逃げられ、住む家まで失いかけた娘だけ。娘を救うための三十万円を振り込んだ後、私の口座には何が残った...

十一月の雨が横殴りに降る大阪の駅。六十二歳の男が一人、ホームの橋の上に立っていた。靴のつま先は雨水を吸い、歩くたびに靴下の中でぐしゃりと音を立てた。しかし、彼はそれを気にするそぶりさえ見せなかった。ただじっと自分の足元を見下ろしていた。

その男の名は野村兵吉地といった。白髪交じりの髪はきちんと整えられていたが、髪際はすでに薄くなり始めている。痩せた体つきに、長年パソコン作業で丸まった背中。それでも外に出る時だけは、最後の意地のように背筋を伸ばそうとする癖があった。着古したベージュのステンカラーコートは袖口がすり切れていたが、しわは一つなくアイロンがかけられていた。

兵吉地の目はいつも濁って疲れていた。人と話す時も相手の顔ではなく、自分の靴のつま先か机の上のどこかを見ていることが多かった。だが、数字が並んだ表を見る時だけは、その目つきが急に鋭くなる。長年経理と総務を渡り歩いてきた男の癖だった。

電車が来るまでの数分。兵吉地は青い手帳を取り出し、鉛筆で今日使った金額を書き込んでいた。百二十円のコーヒー。それだけだった。手帳の表紙はもうふやけて丸まっている。彼はそれを大事そうに抱え、ポケットにしまい、また靴のつま先に視線を落とした。

やがて電車がホームに滑り込んできた。乗り込んだ車両には、彼と同じような都会風の格好をした男たちが何人も無表情に釣り革を握って揺られていた。誰も口を聞かない。ただ雨に濡れた窓の外をぼんやりと眺めているだけだった。

兵吉地が務めているのは、大阪にある物流センターの事務所だった。彼はそこで伝票整理や請求書のチェックといった事務作業を担当している。かつてこの会社で彼は課長という立場を持っていた。部下を十人以上抱え、取引先との折衝も一手に引き受けていた時期があった。

六十歳を迎えた時、会社は彼に再雇用契約という形での継続を提示した。断れば収入は完全に途絶える。兵吉地は迷わずその契約書に印を押した。だが、契約の中身は以前とはまるで別物だった。役職はなくなり、給与は六割近く減らされ、それでいて雑務だけは以前よりこまごまと増えていった。

事務所に着くと、兵吉地はまず自分の机の上を丁寧に吹いてから座った。今日の仕事は先月分の伝票の再チェックだった。老眼鏡を鼻先にかけ、数字を一つ一つ指でなぞりながら確認していく。集中していると、周りの視線も自分の立場もしばらくは忘れられた。

しかし、午前十時を過ぎた頃、若い管理職の男が兵吉地の席にやってきた。名前は中原といい、まだ三十五歳だった。十年前、兵吉地が課長だった時代に部下として仕事を教え込んだ相手だった。今では立場が逆転し、中原が兵吉地の直属の上司にあたる。

中原はタブレットの画面を兵吉地に向け、先週分の入力ミスを指摘した。数字の桁が一つずれていたらしい。兵吉地はすぐに自分の間違いを認め、深く頭を下げた。

「申し訳ございません。確認を怠りました」

と小さな声で繰り返した。中原は特に責めるでもなく、「次から気をつけてくださいね」とだけ言って自分の席に戻っていった。その口調に悪意はなかった。むしろ淡々としすぎていることが兵吉地の胸を余計に締めつけた。

かつて自分が教えた相手に、業務上の注意を受ける側になっている。その事実だけで腹の底が重く沈んでいくのを感じた。兵吉地は一言の弁解もしなかった。若い頃であれば、状況を説明し、原因を分析し、改善案まで提示していただろう。だが今の自分にそんな権利はないと彼はどこかで思い込んでいた。周りに迷惑をかけている。それだけで十分に恥ずべきことだと。

昼休み、兵吉地は休憩室の隅の席に座り、家から持ってきた弁当箱を開いた。中身は白米と卵焼きと沢庵が二切れだけだった。周りの若い社員たちはコンビニの新商品の話や休日に行った店の話で盛り上がっている。兵吉地はその輪に加わることもなく、黙々と箸を動かしていた。

午後になると雨は上がっていた。兵吉地は伝票の山を片付け終えると、休憩室の掃除や資源ゴミの分別といった雑用も引き受けた。これは誰かに命じられた仕事ではない。誰もやりたがらないから自分がやっておいた方がいいと、彼自身が考えて始めたことだった。

ゴミ袋を持って裏口に出た時、若い女性社員が通りかかった。彼女は一瞬気まずそうに兵吉地の方を見たが、何も言わずに会釈だけをして通りすぎていった。兵吉地もまたマスクの下でわずかに顔を引きつらせ、会釈を返した。その距離感が、今の自分の居場所そのものだった。

夕方になり、兵吉地は事務所を出た。空はすでに暗く、街灯が濡れたアスファルトに滲んでいた。彼は駅前のスーパーへ向かった。時刻は午後八時四十五分になろうとしていた。この時間には消費期限の近い弁当に半額のシールが貼られる。それを狙って毎晩この時間に来るのが兵吉地の習慣だった。

棚の前で、兵吉地は弁当を選ぶのに数分をかけた。半額シールの中でも、少しでも量の多いものを選ぶ。スマートフォンを取り出し、ポイントアプリのバーコードを提示してさらに十円分のポイントを貯める。レジの店員は慣れた様子で機械的に処理をするだけで、彼のことを気に留めない。それが兵吉地にはむしろありがたかった。

スーパーを出ると、兵吉地は徒歩で自宅へ向かった。彼が暮らしているのは団地の一室だった。かつては妻と娘との三人暮らしだったその部屋も、離婚時に妻が出ていき、娘も就職と同時に東京へ移ってからは、兵吉地一人が住むだけの空間になっていた。

団地の敷地に入ると、街灯は所々切れていて薄暗い。兵吉地は一階の郵便受けの前で足を止めた。錆びついた小さな扉を開けると、中にはチラシに混じって分厚い封筒が一通入っていた。差出人の欄には「大阪市役所」という文字と赤い印が押されていた。

兵吉地はその封筒を一瞬見つめたまま、動きを止めた。心臓が自分でも分かるほど早く打ち始めた。役所からの封筒に赤い印が押されているのを見るのはこれが初めてではない。だが、これほど分厚い封筒は初めてだった。彼は郵便物を一まとめに抱え、階段を上がった。

部屋に入ると、兵吉地はまず電気をつけた。天井の蛍光灯は寿命が近いのか、点灯する度に一瞬ちらついてから安定する。彼は買ってきた弁当を茶台の上に置き、コートを脱いで丁寧にハンガーにかけた。それからあの封筒だけを手に取り、しばらくの間開封せずに眺めていた。

台所に立ち、兵吉地は湯を沸かした。緑茶の葉を急須に入れながら、頭の中では別のことを考えていた。市役所からの通知といえば、大抵は保険料や税金に関するものだ。もし何かの間違いであれば、電話一本ですぐに解決するだろう。そう自分に言い聞かせるようにしていた。

湯のみを片手に、兵吉地は茶台の前に座り直した。冷めかけた弁当の蓋を開けようとした手を止め、代わりに封筒を手に取った。指先がほんのわずかに震えていた。長年、数字と伝票を扱ってきた男の指は、封を切る時だけは妙に不器用だった。

封筒の中には、住民税の更正に関する通知書と詳細な計算書、そして納付書が入っていた。二年前の住民税の算定に誤りがあったため、追加で納付が必要になったという趣旨の説明が事務的な文言で並んでいる。金額の欄に目をやった瞬間、兵吉地の呼吸が一瞬止まった。

二十五万円という数字がそこに記載されていた。納付期限は三十日以内。現在の契約社員としての月給、ほぼ三か月分に相当する額だった。

兵吉地は何度もその数字を見直した。桁を読み間違えているのではないか、自分の目がおかしくなったのではないか。そう疑いたかった。だが、何度確認しても数字は変わらなかった。

兵吉地はしばらくの間、身動き一つ取れなかった。茶台の上の弁当箱から白米の湯気がゆっくりと消えていくのが視界の端に映っていたが、それを気に留める余裕もなかった。彼の頭の中では、これまで積み上げてきた小さな計算が全て崩れていく音が響いていた。毎晩の半額弁当も、百二十円のコーヒーも、細かな節約も、全てはこの先の生活を少しでも安定させるための積み重ねだった。それが一枚の通知書で根こそぎ持って行かれようとしている。

兵吉地は膝の上に置いた両手を無意識に握り締めていた。やがて彼は震える手で弁当箱の蓋を開けた。半額シールの貼られたその弁当はもうすっかり冷え切っていた。箸を持とうとした手が滑り、弁当箱が茶台の縁からずれて畳の上に落ちた。中身の汁が畳の目に沿ってじわりと染み込んでいく。兵吉地はそれを拾い上げることさえせず、ただ畳に広がっていく汁を見つめていた。

膝を抱え、背中を丸め、視線だけが通知書の上に張り付いたまま動かない。まるで自分の人生そのものに突きつけられた死刑宣告を前にしているかのような、そんな感覚だった。蛍光灯がまた一度ちらついた。冷え切った部屋の中で、兵吉地は一人、いつまでもその場から動くことができなかった。

畳に染み込んだ汁の跡は、翌朝になっても薄く残っていた。兵吉地は着替えもせずにそれへ目をやり、しばらくの間畳の上に座り込んだまま動けなかった。頭のどこかでは昨夜のことがまだ夢の続きのように感じられていたが、枕元に置いた通知書を手に取った瞬間、その現実の重みが一気に体へ戻ってきた。

この団地に越してきたのは、まだ娘が小学生だった頃だ。あの頃は、畳の傷も壁のしみも家族三人で話せるだけの余裕があった。今、同じ畳の上に一人で座り、兵吉地はその記憶と今の自分との落差に静かに息を飲んだ。

彼は台所へ行き、いつもより多めに水道の水を出して顔を洗った。鏡はない。ただ蛇口の上の曇った金属の縁に、ぼんやりと自分の輪郭が映っているだけだった。兵吉地はその輪郭をしばらく見つめてからタオルで顔を拭った。

朝食は炊いておいた白飯に塩をかけただけの簡単なものだった。茶台の前に座り、兵吉地は箸を動かしながらも何度も通知書を横目で確認していた。降りたんだ白い飯はすでに冷めて、固まり始めている。身支度を整え、兵吉地はいつもより十五分早く家を出た。

団地の階段を降りながら、彼は自分の靴の底が薄くなっていることに気づいたが、それを買い換える余裕など今はどこにもない。そう思い直してそのまま駅へ向かった。

駅へ向かう途中、兵吉地はコンビニの店先に貼られた求人のチラシに目を止めた。深夜の品出し、日払い時給千九百円という文字が並んでいる。彼はしばらくその前で立ち止まったが、自分の年齢でこの仕事が勤まるだろうかという迷いが先に立ち、結局は何も確かめずにその場を離れた。

事務所に着くと、兵吉地はまず自分の机の上を丁寧に拭き、コートを椅子の背にかけてから中原の席へと向かった。

「今日の午後、市役所での手続きがありまして、半休をいただけますでしょうか」

と彼は視線を伏せたまま告げた。中原はパソコンの画面から顔を上げ、驚いたような表情を浮かべたが、すぐに「分かりました。お気をつけて」と返した。理由を深く尋ねようとはしなかった。その手軽さに、兵吉地は安堵と同時にどこか寂しさに似た感覚も覚えていた。

午前中、兵吉地はいつも通り伝票の確認作業に取り組んだ。だが数字を目で追いながらも、頭の中では別のことばかりが渦巻いていた。分割で払えないだろうか。猶予をもらえないだろうか。何度も同じ考えが浮かんでは消えていった。

その時、隣の島で作業をしていた同じ再雇用契約の同僚、桑田が声をかけてきた。桑田は兵吉地よりも三つ年上で、以前は倉庫の管理職を務めていたという。兵吉地の顔色が優れないことに気づいたのか、湯のみを片手に控えめに尋ねてきた。

兵吉地は一瞬言葉を濁そうとしたが、桑田の落ち着いた口調に釣られ、少しだけ本音がこぼれ出た。

「役所からの書類で、思わぬ出費が重なりまして」

と兵吉地は苦笑いを浮かべながら答えた。桑田はそれ以上深く詮索することはせず、ただ「こういう年になると、思いがけないことばかり起きますがな」とだけつぶやいた。

桑田自身も数年前に妻を介護施設に入れる際、想定外の一時金を求められ、貯金の大半を使い果たしたのだという。

「あの時は、真面目に働いてきた分だけ余計に悔しさが募りましたよ」

と桑田は遠くを見るような目で言った。兵吉地はその言葉に、自分だけではないのだという小さな慰めと同時に、この社会の底に沈んでいくものはいくらでもいるのだという思いを実感した。

昼が近づく頃、兵吉地は弁当を食べる間もなく、鞄の中に入れてきた通帳を確認した。数字を見るたびに胸の奥がキリキリと締めつけられるようだった。それでも彼は表情を変えず、いつも通りの落ち着いた顔で机に向かい続けた。

午後を過ぎ、兵吉地は事務所を出た。曇った空の下、駅までの道を歩きながら、彼は何度も自分に言い聞かせていた。

「誤りがあったのなら、役所できちんと説明すればきっと訂正してもらえるはずだ」

と。

電車に揺られながら、兵吉地は車窓に映る自分の顔を見つめていた。疲れた表情の初老の男がそこに映っている。長年数字と向き合ってきた自分が、今度は自分自身の生活の数字に追い詰められている。その皮肉を、彼はどこか他人事のように感じていた。

市役所に着いたのは午後一時を少し過ぎた頃だった。兵吉地は震える指で番号札の発券ボタンを押した。表示された数字を見て、思わず小さくため息をついた。待ち人数は四十人を超えている。彼はロビーの隅にあるプラスチックの椅子に腰を下ろした。

周囲には兵吉地と同じような都会風の格好をした男女が何人も座っている。誰も口を開かない。ただ壁の電光掲示板に映る番号をじっと見つめているだけだった。隣に座っていた老婦人は、膝の上に置いた書類袋の中身を何度も確認していた。その仕草から、彼女もまた何か重い用事を抱えていることが伝わってきた。

少し離れた席では、幼い子供を連れた若い母親が、あやしながら順番を待っていた。子供がぐずるたびに、母親は疲れきった顔で小さく揺り続けている。その向いの席には、車椅子に乗った高齢の男性が介添えの職員に何かを尋ねている姿もあった。声は聞き取れなかったが、その表情には兵吉地自身のものとよく似た静かな焦りが浮かんでいるように見えた。

三十分ほど経った頃、隣に座っていた老婦人の番号が呼ばれた。彼女はゆっくりと立ち上がり、書類袋を抱えたまま窓口へと向かっていった。その後ろ姿を見送りながら、兵吉地はふと、自分もああしていくのだろうかと思わずにはいられなかった。

さらに一時間近くが経過した。兵吉地の足はしびれを感じ始めていたが、立ち上がって歩き回る気力もなかった。ようやく彼の番号が呼ばれたのは、待ち始めてから一時間半以上が経った頃だった。

窓口に座っていたのは、三十歳前後に見える男性職員だった。職員はパソコンの画面と兵吉地の顔を交互に見ながら、事務的な口調で要件を尋ねてきた。兵吉地は通知書を差し出し、二年前の算定に誤りがあったのではないか、金額があまりに大きすぎると声を絞り出すように訴えた。

職員はキーボードを何度か叩き、画面を確認してから、

「システム上、こちら側の記録に基づいて再計算された結果です。算定自体に誤りはございません」

と淡々と答えた。その口調には悪意も同情もなく、ただ機械的な事実確認だけがあった。

兵吉地はさらに食い下がった。支払いを分割にすることはできないだろうか。時期を少しだけ送らせることはできないだろうかと。声はできる限り穏やかに保とうとしたが、語尾がわずかに震えているのが自分でも分かった。

職員は少し困ったような表情を浮かべたが、それでも口調はあくまで丁寧なまま変わらなかった。

「分割については別途ご相談いただけますが、期限日までに納めていただけない場合、口座の差し押さえなど法的な手続きに移行することもございます。法律で決まっておりますので」

と告げた。

法律で決まっている。その一言を聞いた瞬間、兵吉地の体から力が抜けていくのが分かった。何十年も真面目に税金を納め続けてきた自分が、今その同じ制度によって首を絞められている。そのことが頭では理解できても、心のどこかではどうしても受け入れられなかった。

兵吉地はそれでももう一度だけ尋ねた。

「何か他に方法はないでしょうか? 私はこれまで一度も滞納したことはございません」

と。職員は書類の隅に何かを記入しながら、「そういった事情も含めて、後日改めて分割の窓口でご相談ください」とだけ答えた。その返答が突き放すようなものではなく、むしろ淡々とした事務処理の延長に過ぎないことが、かえって兵吉地の胸を重くした。

窓口を離れる時、兵吉地は深く頭を下げた。

「お手数をおかけしました。ありがとうございました」

と小さな声で言い、それ以上は何も言わなかった。職員はすでに次の番号を呼び上げていた。

ロビーを出る時、兵吉地はもう一度だけ振り返った。先ほどの老夫婦がまだ別の窓口の前に座っているのが見えた。書類袋を抱えたままじっと順番を待ち続けているその姿は、まるで自分自身の未来を見ているようだった。先ほどの車椅子の男性も、まだ同じ場所で職員と話し込んでいる。

市役所の外に出ると、空は先ほどよりも一段と灰色に沈んでいた。兵吉地はしばらくの間、玄関前の階段に立ち尽くしていた。行き交う人々は皆、自分の目的地に向かって足早に歩いていく。その流れの中で自分だけが取り残されているような感覚があった。

階段を降りながら、兵吉地はふと若い頃に部下たちへ語っていた言葉を思い出していた。

「ルールは守るためにある。それが社会というものだ」

と。今、その同じ言葉が刃のように自分自身へ返ってきていることに、彼は皮肉な思いを抱かずにはいられなかった。

帰りの電車の中で、兵吉地は釣り革を握ったまま窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めていた。頭の中では何度も同じ計算を繰り返していた。二十五万円、月々の手取り、貯金の残高。どう並べ替えても答えは同じところに行き着いた。

事務所に戻ると、すでに定時は近かった。兵吉地は残っていた伝票の確認だけを済ませ、他の社員たちが帰り支度を始めるのを横目に見ながら、いつものように休憩室の片付けを始めた。今日は特にこれといった理由もなく、少しでも遅くまで職場にいたい気持ちがあった。

休憩室では、給湯機の周りに使い終えたコーヒーカップがいくつも置き去りにされていた。兵吉地はそれを一つ一つ丁寧に洗い、乾いた布で拭いてから棚に戻した。誰かに頼まれた仕事ではない。だが体を動かしていないと、頭の中の重さに押しつぶされそうだった。

片付けを終えると、兵吉地は資源ゴミの分別にも取りかかった。新聞紙を紐でまとめ、ペットボトルのラベルを一本ずつ剥がしていく。単調な作業の中で、彼はようやく少しだけ心を落ち着けることができた。

その様子を見ていた若い男性社員が通りかかり、「いつもすみません」と声をかけてきた。兵吉地は顔を上げ、「いえ。これくらいしかできませんので」と穏やかに答えた。相手はそれ以上何も言わず、軽く会釈をして立ち去っていった。

片付けを終えると、兵吉地はゴミ袋をまとめて裏口へ向かった。夜の冷たい空気がコートの隙間から入り込んでくる。彼はゴミ集積所まで歩き、袋を丁寧に置いてからしばらくその場に立ち止まっていた。頭の中を空っぽにしたかった。

その時、コートのポケットの中でスマートフォンが震えた。画面には滅多に表示されることのない名前が浮かんでいた。東京に住む娘、牧からの着信だった。

兵吉地は一瞬迷ったように画面を見つめてから、通話ボタンを押した。電話の向こうから聞こえてきたのは、いつもの落ち着いた声ではなかった。牧の声は最初から震えていて、しゃくり上げるような息遣いが混じっていた。

「どうした? 何かあったのか?」

兵吉地は思わず声をかけた。牧はしばらく言葉にならない嗚咽を漏らしていた。兵吉地はその場に立ち尽くしたまま、娘が落ち着くのをじっと待った。遮ることも、急かすこともせず、電話の向こうの呼吸だけに耳を済ませていた。

少しずつ牧は事情を話し始めた。夫の浮気が発覚し、離婚の手続きを進めていること。今住んでいるマンションは夫名義であるため、近いうちに出ていかなければならないこと。仕事だけでは急な引っ越しまで到底賄えないこと。新しい部屋を借りるための敷金と礼金がどうしても足りない。

「三十万円ほどあれば、なんとか小さなアパートを借りられそうなの。こんなこと頼んでごめんね」

という言葉が電話越しに小さく漏れてきた。

兵吉地は電話を握る手に思わず力がこもるのを感じた。頭の中では、先ほど市役所で見たばかりの二十五万円という数字と、牧の言った三十万円という数字が同時に重なり合って浮かび上がっていた。

その場に立ったまま、兵吉地はしばらく何も言葉を発することができなかった。ゴミ集積所の周りには誰もいない。街灯だけが湿ったアスファルトを鈍く照らしていた。彼の中で二つの現実が激しくぶつかり合っていた。

もし今、牧に本当のことを話せば、この子はさらに追い詰められるだろう。夫に裏切られ、住む場所さえ失おうとしている娘に、自分もまた助けてやれない。そう伝えることが、兵吉地にはどうしてもできなかった。

一方で、あの二十五万円を払わなければ、自分の給与口座そのものが差し押さえられる。会社での立場もこれ以上ないほど危うくなるだろう。頭ではそのことを理解していながら、兵吉地の口から出てきた言葉は、まるで別の人間が話しているかのようだった。

「泣くな。父さんは仕事に出ているだけだ。大丈夫だ。心配するな」

と兵吉地は静かに言った。声が震えないよう、彼は意識して喉の奥に力を込めた。長年部下の前で弱さを見せまいとしてきた時と同じ呼吸だった。

牧は少しの沈黙の後、「でも急にそんなお金、お父さんも大変なんじゃないの」と小さく尋ねてきた。兵吉地はその問いに一瞬だけ息を詰まらせたが、すぐに「心配いらない。貯金にはまだ余裕がある」と務めて明るい声を作った。

「本当に大丈夫なの? 無理してない?」

と牧はもう一度尋ねた。兵吉地はその問いに「無理なんてしていない。お前が心配することじゃない」と少し語気を強めて答えた。娘を安心させたい一心で発した言葉が、自分自身の胸をも同時に締めつけていることに、彼はうっすらと気づいていた。

「貯金ならまだ少し余裕がある。明日にでも振り込んでおくから」

そう言ってから、兵吉地はゆっくりと息を吐いた。電話の向こうで、牧の泣き声が少しだけ柔らいでいくのが分かった。

「ありがとう、お父さん。本当にごめんね」

という声を聞きながら、兵吉地は視線を落とし、自分の足元の暗がりをじっと見つめていた。娘の声にわずかに戻った安堵の色が、彼の胸を締めつけると同時にわずかな救いにもなっていた。

通話を終えた後も、兵吉地はしばらくその場から動けなかった。スマートフォンを持つ手が、寒さのせいなのか、それとも別の理由なのか、細かく震えていた。ゴミ集積所の脇に立ち尽くしたまま、彼は夜空を見上げた。星一つ見えない曇った空だった。

事務所に戻ると、すでに他の社員たちの姿はほとんど残っていなかった。兵吉地は自分の机につき、通帳とキャッシュカードを鞄から取り出して確認した。残高の欄に並ぶ数字を何度も指でなぞる。どれだけ見返しても、両方を賄えるだけの余裕はどこにもなかった。

兵吉地はしばらくの間、電卓を叩き続けた。生活費をどこまで削れるか、食費をどこまで抑えられるか、光熱費をどこまで我慢できるか。一つ一つ数字を並べていくうちに、夜はさらに更けていった。

途中、兵吉地は手を止め、机の引き出しの奥にしまってあった古い名刺入れを取り出した。かつての取引先の名刺が色あせたまま何枚も残っている。この中の誰かに頭を下げれば、何かの助けになるのではないか。そんな考えが一瞬頭をよぎったが、彼はすぐに首を振り、名刺入れを引き出しの奥へと戻した。かつての肩書きにすがることは、兵吉地の中でどうしても許せない選択だった。

やがて彼は電卓を置き、深く息を吐いた。どれだけ計算を重ねても、二つの支払いを両方満たすだけの答えは見つからなかった。それでも、牧への振り込みだけは何があっても先に済ませようと、彼は静かに心を決めていた。

その夜、兵吉地は団地の部屋に帰りついても、電気をつける気力さえなかった。しばらく玄関先に立ったまま、暗闇の中で靴を脱いだ。台所の水道からポタリポタリと水滴が落ちる音だけが響いていた。

彼は茶台の前に座り、通帳を開いたままじっとそのページを見つめ続けた。頭の中ではいくつもの選択肢が浮かんでは消えていった。税金の支払いを一部だけ待ってもらう。生活費をさらに切り詰める。何か別の方法でお金を工面する。どれも現実的な答えには思えなかった。

兵吉地は目を閉じ、しばらくそのまま動かなかった。瞼の裏に浮かんできたのは、幼い頃の牧がこの団地の近くの公園で自転車の練習をしていた光景だった。何度も転びながら、それでも泣かずにペダルをこぎ続けていたあの姿を、兵吉地は今も鮮明に覚えていた。

あの頃、自分はまだ何でも守ってやれる父親だったと兵吉地は思った。だが今の自分には、娘の涙を止めてやることさえ本当の意味ではできていない。ただ嘘をついてその場をしのいだだけだ。そのことが、彼の胸の奥に重く沈んでいった。

深夜、兵吉地はようやく布団に入った。だが目を閉じても、頭の中では数字と娘の泣き声が交互に浮かび上がり、なかなか眠りは訪れなかった。何度も寝返りを打ちながら、彼はただ夜が開けるのを待ち続けた。

翌朝、兵吉地はいつもより早く目を覚ました。まだ暗いうちに布団から起き上がり、台所で湯を沸かしながら、昨夜考えていたことを整理し直していた。牧への振り込みだけは何があっても先に済ませようと、彼は改めて自分に言い聞かせた。

通帳とキャッシュカードを持ち、兵吉地は始発に近い電車で駅前の銀行へ向かった。まだシャッターの開いていないATMコーナーの前で、彼は稼働時刻までの十数分を立ったまま待ち続けた。凍え込んだ朝の空気の中、兵吉地の吐息は白く、街灯の光の下でゆっくりと消えていった。

ようやくATMの前に立った兵吉地は、震える指で操作画面をタップした。振り込み先の口座番号を、以前受け取ったメモを見ながら慎重に入力していく。金額の欄に三十万という数字を打ち込んだ時、彼の手はほんの一瞬止まった。

画面には振り込み後の残高が表示された。数字はあまりにも小さかった。兵吉地はそれをしばらく見つめた後、確認ボタンを押した。機械から吐き出された明細書を鞄の底にしまい、コートの内ポケットにしまう。

彼はそのまましばらくATMコーナーの前に立ち尽くしていた。この紙切れ一枚が、これから先の自分の生活を大きく変えてしまうかもしれないという予感を覚えた。それでも後悔はなかった。ただ、これからどうやって二十五万円を工面するか、その答えだけがまだ見えていなかった。

事務所に着くと、兵吉地はいつもと変わらない様子で自分の席に座った。老眼鏡をかけ、伝票の束に向き合う。だが数字を目で追いながらも、頭の中では別のことばかりが渦巻いた。あと二十日あまりで二十五万円をどう用意すればいいのか。その答えはまだどこにも見えていなかった。

昼休み、兵吉地はいつものように休憩室の隅の席に座り、弁当を開いた。だが今日は箸がなかなか進まなかった。周りの若い社員たちの笑い声が、やけに遠くから聞こえるように感じられた。

食事を終えた頃、桑田がまた隣の席に腰を下ろした。

「あれから何か進展はありましたか?」

と桑田は静かに尋ねてきた。兵吉地は少し迷ったが、思い切って「娘の方にも急な物入りが重なりまして」と本音の一部を打ち明けた。桑田はしばらく黙って聞いていたが、やがて「子供のためなら仕方がない。それが親というものです」とだけ言った。その一言には、桑田自身の経験に裏打ちされた重みがあった。

午後になり、中原が兵吉地の席にやってきた。

「市役所の用事は無事に済みましたか?」

と中原は特に気にしていなさそうに尋ねた。兵吉地は一瞬言葉に詰まりそうになったが、すぐに表情を整え、「はい、おかげ様で」と短く答えた。それ以上詳しく話すつもりはなかった。

中原が立ち去った後、兵吉地はしばらくの間、書類を見つめるふりをしながら心の中でだけ深いため息をついていた。誰にも本当のことを言えない。会社にも娘にも。この重荷は自分一人で背負うしかないのだと、彼は改めて思い知らされていた。

その日の夕方、兵吉地は残業を申し出た。特に急ぎの仕事があったわけではない。ただ少しでも残業代を積み上げておきたいという計算が、頭のどこかで働いていた。中原は少し驚いた様子を見せたが、「無理はしないでくださいね」とだけ言って承諾した。

暗くなった事務所に一人残り、兵吉地はパソコンの画面に向かい続けた。窓の外では車のヘッドライトが行き交い、その音が遠く低く響いている。彼は手を止め、ガラスに映る自分の顔を見た。疲れきった、それでいてどこか強ばった表情の男がそこにいた。

作業の合間、兵吉地は何度も電卓を取り出し、残業代を含めた今月の見込み収入を計算し直した。それでも二十五万円には遠く及ばない。彼は電卓の画面をしばらく見つめた後、静かにそれを机の引き出しにしまった。

午後十時を過ぎ、事務所の外はすっかり暗くなっていた。兵吉地はようやくパソコンの電源を落とし、コートを羽織った。誰もいない廊下を歩きながら、彼は自分の足音だけが響く静けさにかえって落ち着きを覚えていた。

駅までの帰り道、兵吉地は先ほどコンビニの前で見た求人チラシのことをふと思い出した。日払い時給千九百円という文字がまだ頭の片隅に残っている。彼は一瞬立ち止まり、もう一度あのチラシを確かめに行こうかと考えたが、結局は疲れきった体を引きずるようにしてそのまま駅へ向かった。

その夜遅く、団地の部屋に帰り着いた兵吉地は、電気をつけるとまず通帳を開いた。振り込みを終えた後の残高をもう一度確認する。何度見てもその数字は増えることはなかった。彼はゆっくりと通帳を閉じ、茶台の上に置いた。

兵吉地は畳の上に横になり、天井を見上げた。蛍光灯の紐の先で小さな埃が揺れている。頭の中では、牧の泣き声と市役所の職員の事務的な声とが交互に響いていた。どちらの声からも逃れる術は見つからなかった。

しばらくして、兵吉地はスマートフォンを取り出し、牧から届いていた短いメッセージを開いた。

「振り込んでくれてありがとう。お父さんも無理しないでね」

という短い文章が並んでいる。彼はその文字を何度も読み返し、やがて画面を消した。「無理をしないでね」という娘の言葉が、兵吉地の胸の奥で妙に重く響いた。自分がどれほど無理をしているか、牧は知らない。知らせるつもりも兵吉地にはなかった。ただ、これから先どうやってその無理を続けていけばいいのか、彼自身にもまだ答えは見えていなかった。

天井を見上げたまま、兵吉地は目を閉じた。眠りはなかなか訪れなかったが、それでも彼はじっとその暗闇の中に横たわり続けていた。窓の外では冷たい風がガラスをかすかに鳴らし続けていた。遠くで始発前の貨物列車が通過する低い音が、地面を伝って響いてきた。兵吉地はその振動をぼんやりと感じながら、まだ何も答えの出ていない頭の中で、ただ夜が開けるのを待ち続けていた。

その日を境に、兵吉地は食費をこれまで以上に切り詰め始めた。毎晩楽しみにしていた半額弁当さえも、棚の前で手に取ることをやめた。財布の中の小銭を数えながら、彼は自分の生活をさらに小さく畳んでいくような感覚を覚えていた。

夕食は、家から持ってきた白米に生卵を割り入れ、醤油を垂らしただけの卵かけご飯になった。茶台の前に一人で座り、兵吉地は茶碗をゆっくりと箸でかき混ぜながら、それを黙々と口に運んだ。味を感じる余裕さえ、今の彼にはなかった。

食べ終えた茶碗を洗いながら、兵吉地は若い頃に妻と牧と三人で食べた鍋料理のことを思い出した。あの頃は卵かけご飯さえも贅沢な朝食の一つだった。今、同じ卵かけご飯が切り詰めた末の夕食になっていることに、彼はどこか居たたまれない思いを抱かずにはいられなかった。

食器を洗い終えると、兵吉地は茶台の前に座り直し、家計簿代わりの青い手帳を開いた。今月これまでに使った金額を一つ一つ足して、残りの日数で割ってみる。一日に使える金額は、驚くほど小さな数字になった。彼はその数字を鉛筆でなぞり、しばらく黙り込んでいた。

翌日の昼、兵吉地は事務所の休憩室には向かわず、近くの公園まで歩いた。ベンチに座り、家で握ってきた梅干だけのおにぎりを取り出す。冷たい風が吹きつける中、彼は一人、口の中に広がる酸味だけを頼りに黙々とおにぎりを食べ続けた。

公園には、兵吉地と同じように一人で弁当を広げている高齢の男性が何人か見えた。誰もが無言のまま遠くを見つめながら箸を動かしている。互いに声をかけることもなく、ただ同じ寒さの中にそれぞれの孤独を抱えて座っているだけだった。

おにぎりを食べ終えると、兵吉地はしばらくベンチに座ったまま冬枯れの木々を眺めていた。事務所に戻れば、また若い社員たちの笑い声に囲まれる。その賑やかさから少しでも距離を置きたいという気持ちが、彼をこの寒いベンチへと向かわせていた。

昼休みの時間を使い、兵吉地は近くのクリーニング店に立ち寄った後、図書館に寄った。館内の一角にある利用者用のパソコンで、借入金利や審査基準について思いつく限りの言葉を打ち込んで調べてみる。画面に並ぶ文字の多くは専門用語ばかりで理解しづらかったが、年齢や雇用形態が審査に大きく影響するという記述だけは、はっきりと読み取ることができた。

図書館を出た後、兵吉地はふと思い立ち、駅前にあるハローワークの案内板の前で足を止めた。土日だけの短期の仕事があれば、少しでも足しになるかもしれない。そう考えたのだった。だが案内板に貼られた求人の多くは年齢制限や体力を要する条件が並んでおり、兵吉地が応募できそうなものはほとんど見当たらなかった。窓口の職員に声をかけてみると、六十歳以上の求職者向けの求人は数が限られており、条件に合うものが見つかるまでには時間がかかることが多いと説明された。兵吉地は礼を言ってその場を離れたが、期限まであとわずかしかない自分にとって、その説明はほとんど何の助けにもならなかった。

事務所に戻ると、兵吉地はいつも通り伝票の確認作業に取りかかった。だが頭の中では依然として二十五万円という数字が重くのしかかっていた。給与だけでは到底足りない。残業代を積み上げても埋まる額はわずかだった。

その夜、兵吉地は自宅で通帳を何度も見返しながら、これまで考えないようにしてきた一つの選択肢に目を向けていた。金融機関から一時的に借り入れをするという方法だった。利息はかかるが、期限までに間に合わせるにはそれしか思いつかなかった。

翌日、兵吉地はまた半休を願い出た。今度は理由を詳しくは言わず、「所用で」と簡潔に告げた。中原は特に追求することなく、「分かりました」と短く答えた。その簡潔さに、兵吉地は救われるような、それでいて少し寂しいような気持ちを抱いた。

兵吉地が向かったのは、駅前にある地元の信用金庫だった。窓口ではなく、ローン相談専用の小さなブースに通される。担当者はまだ若い女性で、パソコンの画面を確認しながら丁寧な口調で聞き取りを始めた。年齢と現在の雇用形態、年収の見込みを尋ねられ、兵吉地は正直に全てを答えた。六十二歳、再雇用契約の嘱託社員、年収はおよそ二百万円に届くかどうか。

担当者はキーボードを打ちながら、時折画面をじっと見つめる素振りを見せた。しばらくして、担当者は申し訳なさそうな表情を浮かべながら、

「大変恐縮ですが、契約形態と年齢の面から、審査をお引き受けすることが難しいという結果になっております」

と告げた。

兵吉地はその言葉をすぐには飲み込むことができなかった。兵吉地は食い下がった。担保になるものは何もないが、これまで一度も返済を滞らせたことはない。勤続年数も長い。自分にできる限りの説明を並べた。担当者は困ったように目を伏せ、「審査基準はこちらの一存では変えられないんです」と小さく謝罪の言葉を繰り返すだけだった。

それでも兵吉地は、勤務先の在籍証明書やこれまでの給与明細を鞄から取り出し、机の上に並べた。少しでも信用してもらえる材料があればと、前もって用意してきたものだった。担当者はそれらの書類を丁寧に受け取り、目を通してくれたが、最終的な結論が変わることはなかった。

担当者はしばらく画面を見つめた後、少し声を落としてこう付け加えた。

「こういったご事情でしたら、市の社会福祉協議会にも生活資金の貸付制度がございます。そちらもご検討いただけるかもしれません」

規則の外側で示されたその小さな親切に、兵吉地はわずかに救われる思いがしたが、同時にそれすらも審査と手続きに時間がかかるだろうことは容易に想像がついた。

ブースを出た兵吉地は、しばらくロビーの片隅に立ち尽くしていた。ガラス張りの窓の向こうを、スーツ姿の若い会社員たちが足早に通りすぎていく。彼らの多くは、審査に通ることを心配することもなく、当たり前のようにローンを組み、家を買っているのだろう。そう思うと、兵吉地の胸の奥がずしりと重くなった。

信用金庫を出た兵吉地は、次に駅の反対側にある消費者金融の店舗へ向かった。かつて部下たちに「あそこだけは絶対に利用してはいけない」と言い聞かせていた場所だった。今、自分がその扉をくぐろうとしていることに、兵吉地は乾いた笑いすら浮かべたくなった。

店内は明るく清潔で、想像していたような陰湿さはどこにもなかった。カウンターの向こうに座る若い男性職員は、機械的ながらも丁寧な態度で応対した。兵吉地は同じように年齢と収入、契約形態を伝えた。職員はタブレットの画面を操作しながら、しばらく無言で数値を確認していた。やがて顔を上げ、

「申し訳ございません。当社の基準でも、今回はご希望に沿うことができない結果となりました」

と告げた。理由を尋ねると、「年齢と雇用の安定が主な要因です」という説明が返ってきた。

兵吉地はもう一度だけ、「何とかならないだろうか」と小さな声で尋ねた。職員はしばらく沈黙した後、語気を潜めてこう言った。

「個人的な意見ですが、こういった制度はどうしても数字だけで判断されてしまうんです」

規則の外側にある本音を、わずかに漏らした。その一言には、職員自身のやりきれなさのようなものが滲んでいた。

兵吉地はその場に立ち尽くしたまま、しばらく何も言葉が出てこなかった。信用金庫でも消費者金融でも同じ理由で断られる。真面目に働き、税金を納め、一度も返済を滞らせたことのない自分が、六十二歳という数字と嘱託社員という肩書きだけで社会から弾き出されている。その事実が、彼の中でゆっくりと形を持ち始めていた。

店を出ると、兵吉地はしばらく駅前の歩道に立ち尽くしていた。行き交う人々の顔を一人一人、見るともなく眺めながら、彼はふと自分が今どれほど透明な存在になっているのかを初めて実感したような気がした。会社に長年尽くし、家族のために働き、税金も年金も欠かさず納めてきた。それなのに、いざという時に頼れる場所はどこにもない。

若い頃に信じていた「真面目に生きていればいつか報われる」という言葉が、今の自分には空しく響くだけだった。

事務所に戻ると、すでに午後の時間はかなり過ぎていた。兵吉地はいつも通り伝票の確認作業に戻ったが、数字を目で追うことすらままならないほど、頭の中は先ほどの出来事でいっぱいだった。

隣の島で作業していた桑田がまた声をかけてきた。今日はどこかへ行ったのかと尋ねられ、兵吉地はしばらく黙り込んだ後、「少し借り入れの相談に」とだけ短く答えた。桑田はそれ以上深くは尋ねず、ただ「この年になると、銀行というのは冷たいものですからな」と小さくつぶやいた。その一言が、兵吉地の胸に妙に重く響いた。

二人はしばらく無言のまま、それぞれの伝票に目を落としていた。言葉にしなくても、互いの状況が伝わっているような、そんな沈黙だった。しばらくして桑田はぽつりと、

「若い連中には分からんでしょうが、コツコツ真面目にやってきた人間ほど、いざという時に冷たくされますわ」

と付け加えた。兵吉地はその言葉に頷くこともできず、ただ小さく目を伏せた。頷いてしまえば、自分の中の何かが崩れてしまいそうな気がした。

夕方になり、兵吉地は事務所を出た。夕暮れの空はすでに薄暗く、雨がポツポツと落ち始めていた。彼はいつものように駅前のスーパーへ立ち寄ったが、今日はどの棚の前にも足を止めることなく、ただ通り過ぎていった。買うものはもう何も思いつかなかった。

スーパーのレジを出てから、兵吉地はポイントカードの提示を忘れていたことに気づいた。いつもなら十円のポイントのために必ず提示していたそれを、今日は思い出す余裕さえなかった。彼はレジを離れてから、自分のその変化にかなり戸惑いを覚えた。

団地への道を歩きながら、兵吉地は自分の足音だけが響く静けさの中で、これから先どうやって二十五万円を用意すればいいのか、何度も考えを巡らせていた。だがどれだけ考えても、答えらしい答えは浮かんでこなかった。

部屋に戻ると、兵吉地は電気もつけずにしばらく玄関先に立ち尽くしていた。暗闇の中で靴を脱ぎ、手探りで茶台の前まで歩く。明かりをつける気力さえ、今日はどこにも残っていなかった。

しばらくして、兵吉地はようやく蛍光灯の紐を引いた。ちらつきながら灯る光の下で、彼は通帳と、信用金庫と消費者金融でそれぞれ渡された案内資料を茶台の上に並べた。どちらの資料にも赤い文字で「審査結果:否」という一文が印字されていた。

兵吉地はその文字を何度も指でなぞった。長年経理の仕事で数字を扱い、伝票の一円のずれさえ見逃さなかった自分の指が、今は自分自身の価値を否定する文字を撫でている。その滑稽さに、彼はしばらくの間動くことができなかった。

その夜、兵吉地は夕食を作る気力もなく、湯を沸かしてお茶だけを飲んだ。空腹はあったが、それを満たすための気力の方がすでに尽きていた。彼は茶台に肘をつき、両手で顔を覆ったまましばらくじっとしていた。

やがて兵吉地は立ち上がり、押し入れの奥から古いダンボール箱を取り出した。中には若い頃の写真や会社での表彰状、そして家族三人で撮った古い写真が納められていた。彼はその一枚一枚を、久しぶりに手に取って眺めた。写真の中の自分はまだ課長として部下たちの前に立ち、自信に満ちた表情を浮かべていた。隣には幼い牧を抱いた妻の姿もある。兵吉地はその写真をしばらく見つめた後、静かに元の箱へ戻し、押し入れの奥にしまい込んだ。

表彰状の中には、勤続二十年を記念して会社から送られたものもあった。当時は誇らしく壁に飾っていたその紙も、今ではただの色あせた記念品でしかなかった。兵吉地はそれを丁寧に折りたたみ、箱の底へと戻した。

ダンボール箱を戻した後、兵吉地は茶台の前に座り直した。会社に尽くしてきた三十年は何だったのか。今こうして何の力にもなっていない。真面目に生きてきたことの意味を、彼はもう一度自分に問いかけずにはいられなかった。

翌朝、兵吉地はいつも通り事務所に出勤した。だが数字を扱う仕事に向き合いながらも、頭の中では昨日の出来事が繰り返し渦巻いていた。年齢と雇用形態だけで判断される社会の冷たさが、彼の胸の奥に消えることのない痛みとして残っていた。

昼休み、兵吉地は今日も公園のベンチへ向かった。冷たい風の中、梅干だけのおにぎりを頬張りながら、彼はふと「自分の価値とは一体何なのだろうか」と考えずにはいられなかった。会社への忠誠も真面目さも、今の社会では何の担保にもならない。

ベンチに座ったまま、兵吉地はしばらく目を閉じた。瞼の裏に浮かんできたのは、かつて自分が部下たちに語っていた言葉だった。

「信用というのは一朝一夕には築けないものだ。地道な積み重ねが全てだと」

今、その積み重ねてきたはずの信用が、たった一枚の審査結果によってあっさりと否定されている。

隣のベンチに座っていた見知らぬ高齢の男性が、兵吉地の様子に気づいたのか「寒いですね」と一言だけ声をかけてきた。兵吉地は小さく会釈を返しただけで、それ以上の会話は続かなかった。だがその短いやり取りだけで、少しだけ肩の力が抜けたような気がした。

事務所に戻ってからも、兵吉地は仕事にほとんど集中できなかった。数字を目で追いながらも、頭の中では別の考えが渦を巻いていた。あと何日で期限が来るのか、その日までに何ができるのか。彼は繰り返し指を折って数えていた。

その日の夕方、中原が珍しく兵吉地の席に立ち寄り、「最近少しお疲れのようですが、大丈夫ですか」と声をかけてきた。兵吉地は一瞬言葉に詰まったが、すぐに表情を整え、「いえ、大丈夫です。ご心配をおかけして申し訳ございません」と頭を下げた。中原はそれ以上深く尋ねることはせず、「無理はなさらないでください」とだけ言って自分の席に戻っていった。その言葉に嘘はなかったが、兵吉地にはその優しさを受け取るだけの余裕さえ、もう残されていないように感じられた。

定時後、兵吉地はまた事務所に一人残り、資源ゴミの分別や休憩室の掃除を続けた。単調な作業を繰り返すことでしか、頭の中の重さを紛らわせる方法が見つからなかった。彼はダンボールを一枚一枚丁寧に紐でまとめていった。

作業を終えた兵吉地は、暗くなった事務所の窓から外の街並みを眺めていた。行き交う車のヘッドライトが規則的に流れていく。その光の流れを見つめながら、彼はふと自分だけがこの流れから取り残されているような感覚に襲われた。

団地への帰り道。兵吉地は冷たい風に肩をすくめながら歩いた。街灯の下を通るたびに、自分の影が伸びたり縮んだりする。その影を見つめながら、彼はこれまでの人生で自分が本当に大切にしてきたものは何だったのかを改めて考えずにはいられなかった。

部屋に戻ると、兵吉地はいつものように電気をつけ、茶台の前に座った。今日も夕食は簡単なものだった。白飯に塩をかけただけの茶漬けを、彼は黙々と口に運んだ。味付けは薄く、ほとんど水のような味しかしなかったが、それでも彼は残さず食べきった。

食べ終えた後、兵吉地は通帳と、信用金庫と消費者金融の案内資料をもう一度茶台の上に並べた。何度見返しても状況は変わらなかった。彼はそれらの紙を丁寧に重ね、輪ゴムで一まとめにしてから引き出しの奥にしまい込んだ。

その夜、兵吉地はなかなか寝つくことができなかった。布団の中で何度も寝返りを打ちながら、頭の中ではこれまでの人生で積み重ねてきたはずのものが、次々と崩れていくような感覚が続いていた。

深夜二時、兵吉地はふと目を覚ました。時計を見ると、まだ夜中の二時を過ぎたばかりだった。彼は布団の中で仰向けになったまま、天井の暗がりをじっと見つめ続けた。眠気は一向に戻ってこなかった。

しばらくして、兵吉地は静かに体を起こし、台所へ向かった。水道の水をコップに注ぎ、それを一口飲む。冷たい水が喉を通り抜けていく感覚だけが、今の彼にとって唯一はっきりと感じられるものだった。コップを流しに置いた後、兵吉地はしばらくその場に立ち尽くしていた。

頭の中では、牧の泣き声と、信用金庫の担当者の申し訳なさそうな声と、消費者金融の職員の事務的な声とが、次々と交錯していた。兵吉地は両手で顔を覆い、しばらく肩を震わせた。声を出すことはなかったが、体の奥から込み上げてくるものを必死に押し殺していた。長年誰の前でも弱さを見せまいとしてきた癖が、こんな夜中に一人でいる時でさえ彼を縛りつけていた。

込み上げてくるものが喉元まで達した時、兵吉地は自分の頬を軽く叩いた。

「しっかりしろ」

と自分自身に言い聞かせるように、もう一度だけ頬に手を当てる。牧の前でも、会社の誰の前でも、涙を見せるわけにはいかない。その一心だった。

しばらくして、兵吉地は台所の椅子に腰を下ろし、深く息を吐いた。感情の波が少しずつ引いていくのを感じながら、彼はもう一度、これから先の日々をどう乗り切るべきか静かに考え始めた。窓の外を見ると、街灯の光が凍えるように冷たい空気の中で揺れていた。

かつて自分が部下たちに語っていた「真面目にコツコツ働けばいつか必ず報われる」という言葉が、今の兵吉地にはひどく薄っぺらいものに思えた。それでも彼はその言葉を捨てきることもできずにいた。捨ててしまえば、これまでの三十年が全て無駄だったと認めることになる。そんな気がしていた。

夜が明けるまでにはまだ時間があったが、兵吉地はそのまま台所の椅子に座り続けた。窓の外はまだ深い闇に包まれている。彼はただじっとその暗がりを見つめながら、答えの出ない問いを繰り返し自分自身に投げかけていた。

十二月に入り、大阪にも本格的な寒さが訪れた。団地の窓から見える景色は、日ごとに白さを増していった。兵吉地は暖房のスイッチに手をかけるたびに電気代の請求を思い出し、結局その手を止めることを繰り返していた。その夜も、兵吉地は暖房をつけずに過ごすことに決めた。厚手のセーターを二枚重ね、膝には古い毛布をかける。部屋の中だというのに、自分の吐く息がうっすらと白く見えるほどだった。

茶台の前に座り、兵吉地は震える指先に息を吹きかけながら、通帳と、信用金庫と消費者金融でそれぞれ渡された案内資料をもう一度眺めていた。どちらの道もすでに閉ざされている。残された時間は日に日に少なくなっていた。

兵吉地はしばらくの間、天井を見上げたまま動かなかった。頭の中では、もう何度も繰り返してきた計算がまた同じように巡っていた。二十五万円という数字は、どれだけ考えても彼の目の前から消えてはくれなかった。

やがて兵吉地は押し入れの奥に手を伸ばした。奥の方にしまい込んであった古い書類ばさみを取り出し、茶台の上に置く。表紙には「生命保険の証券」という文字が記されていた。兵吉地はその証券をゆっくりとした手つきで開いた。

三十年以上前、まだ牧が生まれたばかりの頃に加入した保険だった。毎月の保険料を、どんなに家計が苦しい時も一度も欠かすことなく払い続けてきた。それは「もしも」の時に家族を守るための、兵吉地なりの覚悟の証だった。

契約した日のことを、兵吉地はまだ鮮明に覚えていた。当時務めていた会社の休憩室で、若い保険外交員に勧められるまま、「少しでも家族のためになるなら」と迷わず印を押した。あの時の自分は、これから先この契約を自らの手で終わらせる日が来るとは、想像すらしていなかった。

証券に並ぶ数字を、兵吉地は何度も目で追った。もしこの契約を解約すれば、いくらかの解約返戻金が戻ってくるはずだった。それが今の自分にとって、最後に残された手段であることを彼はすでに分かっていた。

その夜、兵吉地はなかなか寝つくことができなかった。三十年間家族のために積み立ててきたものを、自分の手で手放してしまうことへのためらいが、胸の中で渦を巻いていた。それでも、他に選べる道はもうどこにも残されていなかった。

翌朝、兵吉地はいつも通り身支度を整え、事務所へ向かった。だが頭の中では、昨夜見た保険証券の数字がずっと消えることなく残り続けていた。伝票を確認する手も、いつもよりかなり遅かった。

その様子に気づいたのか、中原が通りすがりに「顔色があまり良くないようですが、大丈夫ですか」と声をかけてきた。兵吉地は慌てて表情を整え、「少し寝不足なだけです。ご心配なく」と答えた。中原はそれ以上追求することなく、「無理はなさらないでくださいね」とだけ言って自分の席へ戻っていった。

昼休み、桑田がいつものように隣の席に腰を下ろした。

「何かあったんですか?」

と桑田は静かに尋ねてきた。兵吉地は少し迷った後、「長年入っていた保険を解約しようかと考えていまして」とだけ答えた。桑田はしばらく黙り込んだ後、「それは簡単に決められることではないでしょう」と静かに言った。兵吉地は小さく頷いた。

「それでも、他に方法が見つからないのです」

と、兵吉地は自分自身に言い聞かせるようにつぶやいた。

その日の午後、兵吉地はまた半休を願い出た。中原は今度も特に理由を深く尋ねることなく、「承知いたしました」とだけ答えた。その手軽さに、兵吉地はいつものように安堵と寂しさを同時に覚えていた。

兵吉地が向かったのは、駅前の郵便局だった。長年この保険の契約を管理してもらってきた場所だった。窓口には見覚えのある年配の局員が座っていた。何度も顔を合わせてきた相手だったが、今日ばかりは兵吉地の足取りは重かった。

兵吉地は保険証券を差し出し、「解約の手続きをお願いしたい」と告げた。局員は証券を受け取り、しばらく画面を確認した後、少し驚いたような表情を浮かべた。

「長年真面目にお支払いいただいていた契約ですが、本当によろしいのでしょうか」

と局員は尋ねた。さらに「失礼ですが、何か急なご事情でも?」と遠慮がちに聞いてきた。兵吉地はしばらく黙り込んだ後、「少し家計が苦しくなりまして」とだけ短く答えた。局員はそれ以上深くは尋ねず、静かに頷いた。

それでも局員は、念のため前置きした上で説明を続けた。今このタイミングで解約されますと、戻ってくる金額はごくわずかになります。それに、これから先もし何かございましても、保障は一切なくなってしまいます。という内容だった。

兵吉地はその説明を黙って最後まで聞いていた。局員の言葉の一つ一つが、これまで三十年かけて積み上げてきたものの重みを、改めて突きつけてくるようだった。それでも彼の心はすでに決まっていた。

「それでも構いません。手続きを進めてください」

と兵吉地は静かに、しかしはっきりとした声で告げた。局員はしばらく兵吉地の顔を見つめていたが、やがて「承知いたしました」と頷き、書類を準備し始めた。

書類に記入をしながら、兵吉地の手は何度も止まりそうになった。三十年間毎月欠かさず払い続けてきた保険料の総額を思うと、指先が震えた。それでも彼は一つ一つの欄を丁寧に埋めていった。認印を押す段になり、兵吉地は一瞬だけ手を止めた。この一押しで、これまで築いてきた最後の備えが完全に失われてしまう。頭の中で理解しながらも、兵吉地は静かに認印を押した。乾いた音が、窓口の静けさの中に小さく響いた。

手続きを終えた局員は、「後日、指定の口座に解約返戻金が振り込まれる予定です」と説明した。兵吉地は深く頭を下げ、「お世話になりました。長年ありがとうございました」と局員に告げた。局員もまた、深く頭を下げ返してきた。

郵便局を出ると、外はまだ雪がちらついていた。兵吉地はしばらくの間、軒下に立ち尽くしていた。三十年という歳月を、こんな形で手放すことになるとは。若い頃の自分は想像もしていなかった。

数日後、兵吉地の口座に解約返戻金が振り込まれた。通帳を記帳した兵吉地は、その数字を見て思わず息を飲んだ。想像していたよりもはるかに少ない金額だった。局員の説明通り、長年積み立ててきたはずの金額のごく一部でしかなかった。

それでも、その金額とこれまでの貯金の残りを合わせれば、なんとか二十五万円の一部には届きそうだった。兵吉地は通帳の数字を何度も指でなぞりながら、頭の中でもう一度計算をやり直した。

その夜、兵吉地は久しぶりに少しだけ肩の力が抜けたような気がしていた。完全に足りるわけではなかったが、それでも道が完全に閉ざされたわけではない。彼は茶台の前で通帳を胸に抱くようにして、しばらくじっとしていた。

翌日、兵吉地は市役所の分割相談の窓口にもう一度足を運んだ。手元にある金額を先に納め、残りを分割で支払わせてもらえないか。そう相談するつもりだった。

窓口の職員は、以前とは別の少し年配の女性職員だった。兵吉地の事情を聞いた職員は、書類を確認しながら、

「分割納付についてはご相談をお受けし、対応することができます。ただし、今回の期限日までにお手続きが完了していない場合、一旦は通常の手続きに沿って処理が進んでしまう可能性がございます」

と説明した。

その言葉の意味を、兵吉地はすぐには飲み込めなかった。

「手続きには時間がかかる。期限には間に合わないかもしれない。そういうことなのか」

と兵吉地は尋ねた。職員は申し訳なさそうな表情を浮かべながら、「システムの都合上、そうなる場合もございます」とだけ答えた。

兵吉地は肩を落としたまま窓口を離れた。せっかく保険を解約してまで用意した金額が、間に合わないかもしれない。その可能性を突きつけられ、彼の中でまた重い不安が広がり始めた。

事務所に戻ると、兵吉地はいつも通り仕事に向き合おうとしたが、頭の中はその日の相談のことでいっぱいだった。桑田が心配そうにこちらを見ていたが、兵吉地は小さく首を振り、「大丈夫です」とだけ伝えた。

その日の夜、兵吉地は牧にだけはなんとか事情の一部を伝えておこうと思い立った。心配をかけたくない気持ちと、一人で抱え続けることの限界とが、彼の中でぶつかり合っていた。結局、兵吉地はスマートフォンを手に取ったものの、メッセージを打つことができず、そのまま画面を閉じた。新しい部屋での生活をようやく整え始めたばかりの娘に、これ以上の重荷を背負わせるわけにはいかない。兵吉地はそう自分に言い聞かせながら、スマートフォンを茶台の隅に静かに置いた。

翌日、桑田に保険を解約したことを伝えると、桑田はしばらく黙り込んだ後、「私も一度、同じことをしたことがあります」とぽつりと漏らした。妻の入院費を工面するため、若い頃に入っていた養老保険を解約したのだという。

「あの時は、悔しさよりも、何もしてやれない不甲斐なさの方が大きかった」

と桑田は静かに付け加えた。その言葉に、兵吉地は深く頷いた。誰かに打ち明けたところで状況が好転するわけではない。それでも、同じ痛みを知るものがそばにいるという事実だけで、兵吉地の胸のどこかがわずかに軽くなるような気がした。

数日が過ぎた。兵吉地は毎朝、口座の残高と送金手続きの進み具合を確認する習慣がついていた。だが職員の言った通り、手続きは思うようには進まなかった。期限日までに間に合うかどうか、はっきりとした答えはどこからも返ってこなかった。

事務所では、兵吉地はこれまで通り伝票の確認や休憩室の片付けを続けていた。誰も彼の内心の焦りには気づかない様子だったが、桑田だけは時折、心配そうな視線をこちらに向けてくることがあった。

期限日が近づくにつれ、兵吉地の生活はさらに切り詰められていった。暖房を使わない夜が続き、食事はさらに簡素になった。それでも、彼は牧や桑田に悟られないよう、いつも通りに出勤し、いつも通りに伝票を確認し、いつも通りに休憩室を片付け続けた。

ある夜、兵吉地は押し入れの奥から、以前見た古い写真の束をもう一度取り出した。三十年前、この保険に加入した日のことを、彼はぼんやりと思い出していた。あの頃は、これから先の人生にこれほどの不安が待っているとは想像もしていなかった。

兵吉地は写真を一枚ずつ丁寧に見返しながら、自分がこれまで大切にしてきたものについて静かに考えていた。会社への忠誠、家族への責任、そして真面目に生き続けること。そのどれもが、今この瞬間には目の前の現実を変えるだけの力を持っていなかった。

それでも兵吉地は、写真を元の箱に戻しながらふと思った。例え保険という形の備えを手放したとしても、牧を守りたいという気持ちそのものは、これまでと何も変わっていない。その事実だけが、今の彼にとって辛うじて残された拠り所のようなものだった。

窓の外の雪は、いつの間にか止んでいた。兵吉地は毛布を肩にかけたまま茶台につっぷすようにして、しばらくの間目を閉じていた。眠りは浅く、何度も目が覚めたが、それでも彼は朝が来るまでその場に座り続けていた。

夜のどこかで、兵吉地はこれまでの人生で自分が下してきた決断の一つ一つを思い返していた。就職、結婚、牧の誕生、そしてこの保険への加入。どれも家族のためを思って選んできたはずの道だった。それが今、こうして一つずつ手放されていくことに、彼はやり場のない寂しさを覚えずにはいられなかった。

それでも、と兵吉地は思い直した。手放したのはあくまで形あるものに過ぎない。牧を思う気持ちそのものは、まだ何も変わっていない。その一点だけを頼りに、彼は寒さの中でじっと夜が明けるのを待ち続けた。

翌朝、兵吉地はいつも通り身支度を整え、事務所へ向かった。窓の外に広がる雪景色を見つめながら、彼はただこれから先に何が起こるのかを静かに待つほかなかった。残された日数は、もうわずかしかなかった。

期限日の日は、思っていたよりも静かにやってきた。兵吉地は朝、いつも通り布団から起き上がり、いつも通り顔を洗い、いつも通り身支度を整えた。ただ一つだけ違っていたのは、財布の中にこれから先の暮らしを支えるだけの余裕が、もうほとんど残っていないという事実だった。

事務所に着くと、兵吉地は自分の机に座り、いつものように伝票の束に向き合った。数字を目で追いながらも、頭の中では今日という日がどういう形で終わるのか、漠然とした予感だけが渦巻いていた。

昼を過ぎた頃、中原が少し困ったように兵吉地の席にやってきた。

「市役所からの通知が、会社の給与担当宛てにも届いておりまして」

と中原は言葉を選びながら切り出した。今月分の給与から、税金の滞納分が差し引かれる形になります。という説明だった。

兵吉地はその言葉を、驚くほど落ち着いた気持ちで受け止めた。すでに覚悟していたことだった。

「ご丁寧にありがとうございます。承知いたしました」

と兵吉地は静かに頭を下げた。中原はそれ以上何も言わず、ただ気遣うような視線を残して自分の席へ戻っていった。

隣の島から、桑田がこちらの様子をちらりと見ていた。何か声をかけようとするそぶりを見せたが、結局桑田は何も言わずに、ただ小さく頷いて見せただけだった。その沈黙の中に、言葉にならない気遣いが込められているのを兵吉地は感じ取っていた。

昼休み、桑田は珍しく自分から兵吉地の隣に腰を下ろした。

「何も聞きませんが」

と桑田は前置きした上で、「こういう時は、体だけは壊さんように」とだけ言った。兵吉地は小さく頷き、「ありがとうございます」と短く答えた。それ以上の言葉はどちらからも出てこなかったが、その短いやり取りだけで、兵吉地の胸のどこかがわずかに軽くなったような気がした。

午後、兵吉地は給与明細のシステムを開き、今月の見込み額を確認した。画面に表示された数字は、これまで見てきたどの月よりも小さかった。家賃と最低限の光熱費を差し引けば、残る額は極僅かしかない。兵吉地はその数字を、何度も指でなぞった。

定時になり、兵吉地はいつものように休憩室の片付けと資源ゴミの分別を済ませた。今日ばかりは、その単調な作業さえいつもより重く感じられた。手を動かしながらも、頭のどこかがずっとしびれているような感覚が続いていた。

事務所を出ると、兵吉地は自動改札の前で足を止めた。交通系ICカードを取り出し、残高を確認する。表示された数字は、今日一回分の運賃にも足りなかった。財布の中の小銭をかき集めても、それを補うだけの余裕はどこにもなかった。

兵吉地はしばらく改札の前に立ち尽くしていた。駅員に相談することも考えたが、その一言を口にする気力さえ、今の彼には残っていなかった。彼は静かに改札から離れ、駅の外へと向かった。

外は、朝からの曇り空がそのまま雪へと変わり始めていた。細かな雪が、街灯の光の中をゆっくりと舞い落ちてくる。兵吉地はコートの襟を立て、団地までの道のりを徒歩で帰ることに決めた。距離にして、およそ五キロほどの道のりだった。

歩き始めてしばらくは、まだ体に力が残っていた。だが十五分、二十分と歩くうちに、靴の中で指先の感覚が少しずつ鈍くなっていくのが分かった。薄くなった靴の底を通して、アスファルトの冷たさが直接伝わってくる。大通り沿いを歩きながら、兵吉地は行き交う車のヘッドライトをぼんやりと目で追っていた。誰もが温かい車内から、雪の中を歩く自分を一瞥することもなく通り過ぎていく。その光景を、兵吉地はどこか他人事のように眺めていた。

一時間ほど歩いたところで、兵吉地は一度バス停の屋根の下に入り、息を吐いた。ベンチに腰を下ろし、かじかんだ両手を擦り合わせる。白い息が、街灯の光の中でゆっくりと消えていった。バス停の時刻表に目をやると、この時間にはもうバスは走っていないことが分かった。兵吉地は小さく苦笑いを浮かべ、また立ち上がった。頼れるものが何もない。そのことに、いちいち驚くだけの気力さえもう残っていなかった。

しばらく休んだ後、兵吉地は再び歩き出した。足の裏にはすでにはっきりとした痛みが広がっていたが、それでも彼は一歩ずつ団地への道を進み続けた。立ち止まってしまえば、そのまま動けなくなってしまいそうな気がした。

歩きながら、兵吉地の頭の中にはこれまでのことが次々と浮かんでは消えていった。二十五万円の納付書、市役所の窓口、信用金庫と消費者金融での審査結果、そして牧の泣き声。どれもが、もう取り返しのつかない過去のことのように遠く感じられた。

ふと、兵吉地の脳裏に幼い牧が自転車の練習をしていた光景が浮かんだ。転んでは立ち上がり、また転んでは立ち上がる。その繰り返しを、あの頃の自分は何も心配することなく見守っていられた。今、雪の中を一人で歩きながら、兵吉地はあの光景をもう一度だけ心の中で反芻していた。

団地の敷地が見えてきた頃には、兵吉地のコートはすっかり雪をかぶり白くなっていた。彼は小声でポケットの中を探り、小銭を数え始めた。十円玉と五十円玉が合わせていくつか転がり出てきた。全部で百円に満たない額だった。

団地の手前にある小さなスーパーの明かりが、まだついているのが見えた。兵吉地はふらつく足取りで、その店の入口へと向かった。閉店間際の店内には、ほとんど客の姿はなかった。コーナーには、消費期限の近い商品にさらに値引きシールが貼られていた。兵吉地はその棚の前で、震える指先で商品を一つ一つ確認していった。手の中の小銭で買えるものは限られていた。

店内に流れる有線放送の音楽が、やけに明るく聞こえた。兵吉地はその音を聞きながら、自分がどれほど場違いな存在であるかを改めて意識させられた。それでも、彼は棚の前を離れることなく、じっと値札を確認し続けた。やがて、彼は値引きシールが貼られた木綿豆腐のパックを手に取った。価格は五十円だった。それだけを持って、兵吉地はレジへと向かった。店員は特に何も言わず、機械的にその金額を受け取り、レシートを差し出した。

店を出ると、兵吉地は豆腐のパックを一つ、コートのポケットに大事にしまい込んだ。団地までの残りの道のりを、彼は最後の力を振り絞るようにして歩き続けた。

部屋に着くと、兵吉地はしばらく玄関先に座り込んだまま、靴を脱ぐことさえできなかった。冷え切った体の芯から、震えが止まらなかった。それでも、彼は少しずつ靴を脱ぎ、コートを脱ぎ、部屋の奥へと進んでいった。蛍光灯の紐を引くと、いつものように光が一度ちらついてから安定した。

兵吉地は茶台の前に座り込み、しばらくの間何をする気力も湧かないまま、ただ暗い畳の目を見つめていた。やがて、彼は震える手で豆腐のパックを茶台の上に置いた。台所から醤油の瓶を持ってきて、その脇に並べる。それだけの動作をするのに、兵吉地はいつも以上の時間をかけていた。

その時、コートのポケットの中でスマートフォンが震えた。兵吉地は少し驚いたように顔を上げ、震える指で画面をタップした。表示されていたのは、牧からの短いメッセージと一枚の写真だった。

写真には、小さな部屋の中で微笑む牧の姿が映っていた。ガランとした部屋には、まだ最低限の家具しか置かれていない。それでも牧の表情には、これまでの疲れを乗り越えた先にある、静かな安堵の色が浮かんでいた。

メッセージには、

「お父さんのおかげで、新しい部屋を借りることができました。本当にありがとう。体に気をつけてね」

という短い文章が添えられていた。

兵吉地はその文字を、何度も何度も読み返した。牧が送ってきた部屋の写真には、まだダンボール箱がいくつか積まれたままの様子も映っていた。それでも、窓辺には小さな観葉植物の鉢が一つ置かれている。新しい暮らしを少しずつでも自分の力で整えていこうとする娘の姿が、その一枚の写真から伝わってきた。

兵吉地はその写真を、しばらくの間じっと見つめ続けた。目の奥が熱くなっていくのを感じながらも、彼は涙をこらえた。長年誰の前でも弱さを見せまいとしてきた癖は、こんな夜、一人きりの部屋の中でも彼を静かに縛りつけていた。

兵吉地はスマートフォンを茶台の上に置き、豆腐のパックの蓋をゆっくりと開けた。冷え切った豆腐の表面に、醤油を少しだけかける。それ以上の贅沢は、今夜の彼には必要なかった。箸を手に取り、兵吉地は豆腐を一口、口に運んだ。

冷たく味の薄いその豆腐が、喉の奥をゆっくりと通り過ぎていく。それは決して美味しいと呼べるようなものではなかったが、なぜか兵吉地の胸の中に、不思議なほど静かな安らぎが広がっていった。

金も、肩書きも、これまで積み上げてきたはずの信用も、気づけばほとんど何も残っていなかった。それでも、娘に新しい暮らしの場所を守らせることができた。父親としての最後の意地だけは、なんとか守り通すことができた。兵吉地はそう自分に言い聞かせるように、もう一口、豆腐を口に運んだ。

食べ終えた後、兵吉地はしばらく茶台の前に座ったまま動かなかった。冷え切った部屋の中で、暖房をつける気力も今夜はまだ湧いてこなかった。それでも、先ほどまでの張り詰めていた何かが、少しずつ緩んでいくのを感じていた。

兵吉地はもう一度、牧から届いた写真を開いた。ガランとした部屋の中で微笑む娘の姿を見つめながら、彼はゆっくりと息を吐いた。この子が、これから少しずつあの部屋で新しい暮らしを築いていくのだろう。そう思うと、自分のことよりもそちらの方が、はるかに大切なことのように思えた。

兵吉地はスマートフォンを閉じ、茶台の上に静かに置いた。窓の外では、雪がまだ静かに降り続いているのが見えた。街灯の光の中を舞い落ちるその雪を、彼はしばらくの間ぼんやりと眺めていた。

明日もまた、同じ一日が始まるのだろう。使い古したベージュのコートを着て、薄くなった靴を履き、団地から駅までの道のりを歩き、事務所に着けば若い中原に頭を下げ、伝票の確認をし、休憩室を片付ける。その繰り返しの中に、これまでと変わらない自分がいる。

それでも、何かが少しだけ変わったような気もしていた。全てを失ったと思っていたその夜、兵吉地の中にはまだ守り通せたものが確かにあった。娘を守るという、ただそれだけのことだったが、それは彼にとって何者にも代えがたい確かな手応えだった。

兵吉地は畳の上にゆっくりと横になった。冷えた体を丸めながら、天井を見上げる。蛍光灯の紐の先で、埃が小さく揺れていた。彼はその揺れを見つめながら、静かに目を閉じた。すぐには眠りは訪れなかった。それでも、これまでの夜とは違う、どこか穏やかな重さが兵吉地の胸の中に残っていた。失ったものは大きかったが、それでもまだ、明日を迎えるだけの力は辛うじて残されているようだった。

翌朝、兵吉地はいつもと変わらない時刻に目を覚ました。窓の外には昨夜の雪がうっすらと積もり、朝の光を受けて白く輝いていた。彼はゆっくりと体を起こし、台所へ向かい、いつも通り顔を洗った。体のあちこちに、昨夜の道のりの疲れがまだ残っていた。それでも、兵吉地はいつも通りの手順で朝の支度を進めていった。決まった動作を一つ一つこなしていくことが、今の彼にとって数少ない拠り所の一つだった。

鏡のない蛇口の縁に映る自分の輪郭を、兵吉地はしばらく見つめた。疲れきった、それでいてどこか静かな表情の初老の男がそこにいた。彼はその輪郭に向かって、小さく一つ頷いた。

身支度を整え、兵吉地はいつものベージュのコートに袖を通した。すり切れた袖口も、薄くなった靴底も、何も変わってはいなかった。それでも、彼はいつものように背筋を伸ばし、部屋を出た。

団地の階段を降りながら、兵吉地は昨夜のことを思い返していた。全てを失ったはずのあの夜。それでも、自分はここに立ち、明日へ向かって歩き出そうとしている。その事実だけが、今の彼にとって確かな支えになっていた。

駅までの道を歩きながら、兵吉地は雪の残る道端に目を落とした。踏み固められた雪の下から、かすかにアスファルトの黒が覗いている。彼はその小さな景色を見つめながら、これから先も同じようにこの道を歩き続けるのだろうと静かに思った。

すれ違う通勤客たちは、誰もが足早にそれぞれの目的地へ向かっていく。兵吉地はその流れの中を、ゆっくりとした足取りで歩いた。急ぐ必要はなかった。今日という日を、これまでと同じように一つ一つこなしていくことだけが、彼にできる全てだった。

厳しい暮らしは、これからも続いていくだろう。若い中原の前で頭を下げる日々も、休憩室の片付けも、半額の弁当を探す夜も、きっと変わらずに続いていく。それでも、兵吉地はその一つ一つを、これまでと同じように静かに引き受けていくつもりだった。

事務所の前に着くと、兵吉地は一度立ち止まり、深く息を吸い込んだ。冷たい朝の空気が、肺の奥までしみ渡っていく。彼はその冷たさを、不思議と嫌だとは思わなかった。

ガラス越しに見える事務所の中では、すでに何人かの社員たちが自分の席についていた。桑田の姿もそこにあった。目が合うと、桑田はいつものように小さく会釈をして寄越した。兵吉地もまた、同じように小さく頭を下げ返した。

ドアを開け、兵吉地はいつも通りの声で、

「おはようございます」

と挨拶をした。まだ数人しか出勤していない事務所の中で、その声は静かに響いた。誰かがそれに応じ、「おはようございます」と返してくる。その当たり前のやり取りの中に、兵吉地は今日という一日の始まりを確かに感じ取っていた。

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