「どうせ相手に振られて終わるだけの見合いだ」と思っていた。大企業の社長の娘と、育ての親である豆腐店の夫婦が用意した縁談。俺はただ、両親の生活が楽になればいいと思い、その場にいた。 なのに、彼女は俺の手を握り、顔を真っ赤にしてこう言った。 「諦めないでよかった。やっと、やっと会えた。」…

「どうせ相手に振られて終わるだけの見合いだ」と思っていた。大企業の社長の娘と、育ての親である豆腐店の夫婦が用意した縁談。俺はただ、両親の生活が楽になればいいと思い、その場にいた。 なのに、彼女は俺の手を握り、顔を真っ赤にしてこう言った。 「諦めないでよかった。やっと、やっと会えた。」...

諦めないでよかった。やっと、やっと会えた。

ただ来ればいいだけの見合いだと思っていた。どうせ相手に振られて、それで終わるはずだった。何も深い意味はないはずだった。あるとすれば、大企業の社長との縁談が、育ての親である二人の生活を少しでも楽にしてくれるかもしれない、ということだけだった。

なのに、彼女は俺の手を握り、顔を真っ赤にして言ったのだ。

俺の名前は佐木聡。大手食品会社の営業部に所属しているが、いわゆる営業周りはしていない。営業マンがうまく話を進められるように、ひたすら下調べと資料作成をする、窓際社員だ。

「佐木君、頼んでた資料はまだ出来てないの?俺、もう行かないといけないんだけど。」
「え、今日なんですか?出社してから言われたので、まだですが。」
「はあ。行ってからもう1時間経ったじゃん。早く早く。今回は分析、佐木君にしといてよ。全く。」

このニヤニヤしながら大声で嫌味を言ってきたのは、和田さん。俺より少し先輩にあたる、いわゆる超エリートだ。親は大手企業の重役。そしてうちの社長と卒業大学が同じということもあり、出世は確実と言われている。

ギリギリに大手相手の資料を頼むなよ、と。俺は顔に苛立ちが出そうになるのをぐっと抑えた。だが、その後の彼の言葉には我慢ならなかった。

「はあ。やっぱり家庭環境が及ぼす影響ってやつかな。四春に親戚回しにされちゃってたら、コミュニケーション能力とか厳しいのかな。」

俺が音を立てて立ち上がったのを止めたのは上司だった。
「佐木君、仕事ができなかったのは君だろう。和田君に八つ当たりなんてして、みっともないと思わないのかね。」
「さあ、さっさと仕事をしたまえ。」

俺は爪を食い込ませた拳をそのままに、パソコン前へ戻った。

和田さんの言ったことは半分合っている。俺の両親は、本当の親ではないからだ。

中学2年の時、俺は事故で両親を一度に失った。数少ない親戚は当然揉めた。小さくもなくかと言って一人立ちもできない、中途半端な年頃。当時はたらい回しにされ、最終的に引き取ってくれたのが、母の幼馴染みだった佐木夫妻だった。

血の繋がらない俺を、本当の子供のように優しく、時には厳しく育ててくれた。俺は恩返しのために必死で勉強し、特待生となった。体も部活で鍛えた。全ては、あんな風に両親を、自分を馬鹿にされないためだった。

少しやんちゃな頃もあったかもしれないが、恩返しへの気持ちは変わらず。俺は大手企業の営業に入り、やっと二人に金銭的な恩返しができる。どんどん出世してやる、と思った。

その矢先だった。
「どういうことですか?」
「だからさ、佐木君。この前連れて行った営業先からクレーム来ちゃってるよ。こっちの意見を全然聞かないから、教育し直してくれってさ。」

ある日、和田さんが課長を連れて俺のデスクへ来たのだ。この前の営業というのは、俺が挨拶回りとして和田さんについて行った、あの日のことだろう。俺はすかさず言い返した。
「いや、あれは和田さんがしょっぱなから『ぶちかますのが肝心だから新商品売り込んでみろ』って。営業の基本は相手に喋らせるな、って。」

俺の言葉を冷やかに聞き流して、課長は淡々と言った。
「限度というものがあるだろう。改めるならまだしも、先輩に対してその生意気な口応えは何だね。」
「まあまあ課長。小耳に挟んだんですけどね。佐木君って、過酷な青春時代を過ごしたようなので、色々ね。」

俺がなぜ知っているのかと目を見開いていると、和田さんはその顔を待ち望んでいたかのような笑みを浮かべ、耳打ちして俺に背を向け戻っていった。

翌日、俺のデスクは離れ小島のような場所にあった。課長へ訴えても、「場所があるだけ感謝しろ」の一点張りだった。そんな俺を見る周りの目はどんどん冷ややかになっていき、言われた仕事しかできない現在に至る。俺の描いていた出世の道は、ここで断たれてしまった。一ついいことと言えば、確実に定時で上がれることだった。

今日も俺は大急ぎで家へ帰る。夕焼けの寂れた商店街。そこに俺の家、豆腐店はある。
「ああ、サトシ。」
「ゆき子さん、ただいま。あの、片付けますよ。」
「疲れてるのにありがとうね。すぐご飯の用意するからね。」

母の幼馴染みであるゆき子さんは、親から引き継いだ商店街の豆腐店を今でも続けている。旦那である浩司さんも、結婚と同時に豆腐職人になったらしい。俺が店の片付けをしていると、浩司さんも「お帰り」と声をかけてくれた。

晩御飯は豆腐たっぷりの味噌汁に豆腐サラダ。豆腐と挽き肉を混ぜて焼いたステーキなど、今日も豆腐尽くしだ。
「サトシ、ご飯お代わりするかい?」
「うん。ありがとう。」

昔から変わらない賑やかな食卓だが、時流には逆らえなかった。売れ残る豆腐はどんどん増えていく。俺が同居したままなのも、出世の希望が見えなくなった今、一人暮らしで使う金をこの二人のために使いたいからだった。

その夜は少し様子が違った。自室に戻ろうとした時、浩司さんに呼び止められたのだ。居間へ戻るとゆき子さんもいた。二人とも神妙な顔つきだった。嫌な予感が頭を駆け巡る。だが、切り出した浩司さんから出た言葉は、予想だにもしないものだった。
「サトシ、お見合いをして欲しいんだ。」
「は?」

俺の呆けた顔とは違い、二人の顔は真剣だった。本気だと悟った俺は一応尋ねた。
「お見合いって、相手は誰?」
「俺の昔馴染みの娘さんなんだ。サトシも同業だから知ってると思うが、あの食品会社の社長の娘さんだ。」

浩司さんの言った会社は、日本のトップ3には入るであろう大企業だった。そこの社長の娘が俺とお見合いなんて。いくら昔馴染みだとはいえ、到底信じられなかった。さらに俺は質問した。
「向こうから話を持ってきたっていうこと?」
「ああ、こないだ酒を飲む機会があってな。お互いのことを話しているうちに、一度合わせてみるかと。すまない、サトシ。」

頭を下げる浩司さんを見て、俺は納得と共に若干の虚しさを感じてしまった。要するに、昔馴染みである浩司さんの現状を知って、社長は娘との結婚を提案したんだろう。戸籍上の息子が大企業の娘婿になれば、この店もどうにかなるだろう。そして邪魔な俺もいなくなる。これはある意味、結婚だ。

根拠のない負の感情がふつふつと俺の中に湧いてきた。だが、そんなもの捨ててしまえば、これは最高の二人への恩返しにもなる。例え相手がどうであれ、俺さえ我慢すればいいのだ。今までとなんら変わらない。そう思うと、不思議と肩の力が抜けた。俺は二人の手を取り、笑顔で交互に顔を見ながら言った。
「浩司さん、ゆき子さん、こんな素晴らしい縁談をありがとう。気に入ってもらえるか分からないけど、俺、お見合いするよ。」

二人は安堵したように俺を抱きしめたり、肩を撫でた。俺は二人に、今のこの表情が見えていないことを願った。

3日後、お見合いの日がやってきた。俺は大急ぎで服の準備をし、見合いには浩司さんと共に向かった。一生縁のないようなレストランだった。ガーデンパーティーを行ったりもするらしく、綺麗な庭が広がっていた。少し奥まった席へ案内されると、いかにも厳格そうな男性と、上品そうな着物を着た女性がすでに座っていた。
「待たせてしまったか。すまんな。息子のサトシです。」
「今日はありがとう。娘の詩織だ。」

俺は紹介されたので、反射的に一礼をした。すると、詩織と呼ばれた女性と顔をあげるタイミングが一緒になり、俺は初めて見合い相手の顔を見た。光を吸い取るような黒い髪を綺麗に束ね、和装がよく似合う。美人だと素直に思った。だが、それがなおさらこの見合いの意味を分からなくさせた。友人である浩司さんのためにできることはしよう、といったところだろうか。結果、娘が断っても、それなら角は立たない。俺は改めてこの見合いの無意味さを感じ出していた。

いや、でも、視界に入る彼女をちらりと見ると、はにかんだ顔で俺を見ている。ますます分からない。
「まあこれはあくまで食事会だ。佐木君、あまり固くならずに、娘と話してやってくれ。」
「あ、はい。」

ポーズだけの見合いとはいえ、浩司さんの昔馴染みだ。態度を悪くするわけにはいかない。俺は無理やり詩織さんへ話を振った。
「あの、とても綺麗な着物ですね。似合ってます。」
「ありがとう。」

話は続かなかった。何度か試したが、彼女は相変わらず俺の顔をチラチラと盗み見るだけで、全く会話が弾まない。いい加減諦めかけた俺に、社長は話に割って入ってきた。しかしそれは、俺の脳内シミュレーションのはるか外を行くものだった。
「いや、なんだかんだ相性が良さそうでよかったよ。サトシ君、不器用な娘だが、末永くよろしく頼んだよ。」

え。俺は持っていたグラスを落としそうになりながら、慌てて浩司さんの顔を見た。ポカンとしている浩司さんも、話を受けたとはいえ破談を予想していたということだろうか。いや、社長の先走りという可能性もある。俺は急いで目の前の詩織さんへ目線を変えた。すると今までキョロキョロとしていた彼女が、今度はじっと俺の顔を見ていた。

初めに一瞬だけ見えた顔だったが、改めて見ると、大きな目に、影を落とすような長いまつ毛。そんな目が俺をじっと見つめていた。

いや、あの、でも、俺は状況が飲み込めず、思わず慌ててしまった。俺の手を、詩織さんはそっと掴み、俺にしか聞こえないような声でそっと呟いた。
「諦めないでよかった。やっと、やっと会えた。」

俺はただ来ればいいだけの見合いだと思っていた。どうせ相手が俺を振って、それで終わるはずだった。何も深い意味はないはずだったんだ。あるとすれば、俺の両親の生活が少しでも楽になるかもしれない、ということだけだ。なのに彼女は俺の手を握り、顔を真っ赤にして、そんな言葉を言った。

詩織さんの言葉の意味は分からなかった。だが、俺はこの見合いの目的を改めて思い出した。これが両親への恩返しになれば、俺にはそれで十分だった。
「不慣れなことばかりですが、よろしくお願いいたします。詩織さん。」
「はい。」

さあ、改めて乾杯をしようと社長が言ったことをいいことに、俺は彼女に強く握られ出した手を、すっと引き抜いた。

このお見合いから数日もしないうちに、俺と詩織さんは同棲を始めた。
「はあ。とりあえず、社長の持っている物件を使うことになった。」
どうやら向こうは、ここまで決めていたらしい。正直驚きだ。いくら窮地の中だとはいえ、自分の娘をここまで使うものだろうか。

実家を出る日、ゆき子さんと浩司さんは泣きながら送り出してくれた。見合いの時は気持ちは複雑だったが、二人を見ていると、ただ感謝の思いだけが溢れてきた。
「しっかり恩返しするから。」

俺は二人にそう伝え、家を後にした。社長が用意してくれたマンションは、およそ俺の給料では手が届かないタワーマンションだった。部屋が多いことは救いだった。詩織さんと極力合わずに済むからだ。オートロックを開けると、詩織さんが出てきた。今から同棲が始まり、何もなければそのまま結婚するのだろうかとの気持ちと、結婚しなければ恩返しにならないとの気持ちが交差したまま、俺は新しい家へ入った。

きっと食事は毎日外食で、掃除は業者に頼む。そんな生活になるんだろうと俺は思っていた。しかし、玄関を開けて待っていた光景は、そんな気持ちをひっくり返した。
「サトシさん、お帰りなさい。」

そこには、つけエプロンで手を吹きながら玄関へ駆けてくる詩織さんがいた。奥からは出汁のいい香りがしてくる。俺は彼女の姿にあっけに取られながら、思わず言ってしまった。
「どうも。」
「荷物はもう届いて、部屋に置いてますよ。」
「あ、リュック持つね。」
「いや、重たいから俺が持っていきます。てか、何か焦げてません?」
「あ、お魚。」

奥のキッチンから、黙々と黒い煙が出始めていた。ガチャガチャとした音と、必死さを含んだ彼女の声が聞こえてくる。早々に新居は焦げ臭い香りに包まれてしまった。俺はさっさと部屋を探し、着替えてキッチンへ向かった。
「ごめんなさい。網で焼いた方が美味しいと思ったんだけど、グリルにするべきだったな。あはは。」

一面に焦げた魚と、しょんぼりしている詩織さんを見て、俺はつい笑ってしまった。
「サトシさん?」
「いえ、すみません。つい昔を思い出してしまって。」

俺は代わりにキッチンに立ち、焦げを取り除きながらほぐし身にしていった。すると、興味心と言った満面の笑顔を詩織さんはこちらへ向けてきた。
「その話、聞いていい?サトシさんの話、聞きたいの。」

俺の話なんて聞いてどうするんだと少し迷ってしまったが、ここで止めるとかなり印象が悪い。食事をテーブルに並べ、俺は話を始めた。
「詩織さん、俺のことは聞いてますか?」
「佐木さんが、義理のご両親だということは聞いているわ。」
「そうですか。俺が引き取られたのは中2の頃だったんですけど、少しでも役に立たないといけないと思って、もらった小遣いで魚を買ってきて焼いたんです。でも、火加減が分からなくて焦がしてしまって、豆腐屋から焦げた魚の匂いがしちゃって。」

俺は半笑いで話した。ふと詩織さんを見ると、口元を上げながらも真剣に話を聞いていた。本当はここで話を終わらせるつもりだったが、俺は自然と話を続けてしまった。
「店から二人とも飛んできて、魚を捨てたとしても匂いはどうしようもなくて、俺はひたすらに謝ったんです。そしたら二人とも『火傷してないか』って、別の意味で大騒ぎになって。その日の晩御飯は、その魚のほぐし身がおかずになりました。こんな感じに。」

俺が話終わると、詩織さんはほぐし身を箸でつまんで食べて、笑顔で言った。
「うん。美味しい。」

それは、あの日、ゆき子さんと浩司さんが俺に向けてくれた笑顔と同じだった。

食後、洗い物は俺がすると言ったが、詩織さんは全く譲らないので、結局二人で分担しながらやることになった。必死に網の焦げを取ろうとしている詩織さんが見ていられず、奪い取ると、詩織さんは見合いの時のようにはにかみながらありがとうと言った。そしてそのまま話し続けた。
「サトシさん、あの、お部屋ってどうしますか?」
「え?」

顔を真っ赤にしながら、詩織さんは俺から目をそらした。見合いの日は見えなかった、その仕草に少しドキリとしてしまったが、俺は深呼吸して冷静に返した。
「部屋はいくつかありますし、お互い荷物のある場所でいいんじゃないですか?」
「あ、そ、そうよね。さすがに早すぎるね。」

冷静に返したつもりが、俺は彼女の言葉につい余計な想像をしてしまった。詩織さんは「暑い」と言いながら顔を手で仰ぎ出したが、手に洗剤の泡がついていることを忘れていたらしい。彼女の顔に泡が飛んでいってしまった。俺は目を白黒させ、あたふたする彼女の顔を片手で抑え、そばにあったタオルでゆっくり拭いた。盛大に飛んだので、顔全体に泡がついている。
「さ、サトシさん、ごめんなさい。」
「今喋らないでください。口に入るから。」

そう俺が言うと、彼女は唇をキュっと閉じた。泡を拭いていく内に、目を見開き、口を閉じ、俺に全てを委ねている、綺麗な詩織さんの顔が露わになっていく。確かに、少しの間、俺は我を忘れてしまった。
「……顎を支えている手に力が入ってしまったのが、彼女にも伝わったらしい。」

目を閉じたまま、彼女は訪ねてきた。
「サトシさん、もう目を開けていいかな?」
「あ、もう取れたんで大丈夫です。」

今度は俺が彼女から目をそらした。自分でも分かるほどに熱くなった顔を見られたくなかったからだ。

どうせ初日はこんな風にバタバタとした気持ちで終わった。それからの詩織さんとの日々は、俺にとって何とも居た堪れないものだった。朝は「行ってらっしゃい」と見送られる。昼間には「夕食は何がいいか」とメールが来ている。そして家へ帰ると、いい香りと共に「お帰りなさい」と彼女が玄関まで迎えに来てくれる。

俺はこの生活に、明るい気持ちは一切持っていなかったはずだった。だが、優しく接してくれる詩織さんとの生活は、明らかに俺の曇った気持ちを少しずつ晴らしてくれていた。俺は詩織さんの待つ家へ帰るのが、楽しみになってきていた。

だが、それは長くは続かなかった。詩織さんが帰って来なくなったのだ。正確には、ほぼ深夜に帰ってくるようになった。彼女は親の会社の社長秘書をしているのだが、この縁談が決まった時に、社長から残業はないからと聞いていた。しかし詩織さんは遅くなる理由を、「仕事が今忙しい」と俺に言ったのだった。

やはり全てが面倒になったのだろうか。まだ彼女の帰りが遅くなって3日目だというのに、俺の心はまたざわつき始めてしまった。

その日はさらに運が悪かった。朝から和田さんが絡んできたのだ。
「佐木君にぴったりな仕事を頼みたいんだけど、今日中によろしくね。」
「わかりました。」

いつものことだったはずなのに、その提出先を見て、手が止まってしまった。それを待っていたかのように、和田さんは片手にコーヒーを持ち、笑いながら俺に言った。
「そこ、懐かしいだろ。君が新人の時やらかした、あの取引先だよ。あの後、大変だったな。ま、謝罪の気持ちも込めて、しっかりやってくれよ。」

ひらひらと手を振って去っていく和田さんを、俺はあの日以来に睨みつけた。明らかな俺への嫌がらせに、閉じ込めたはずの悔しさが込み上げてきた。それでも仕事はしなければならない。俺は昼食も抜いて無心でその仕事を終わらせ、定時で職場を後にした。

帰り道、俺は何もかもに腹が立っていた。和田さん、詩織さん、両親。今までの感情が一気に吹き出したようになっていた。久々に焼き酎でもしようかと思い、家のドアへ鍵を乱暴に刺すと、なぜか鍵は開いていた。不審者の可能性もあるので、俺はそっと玄関を開けた。しかし家の中は、意外なことになっていた。いい香りが漂っている。俺は思わず手を離してしまい、ドアが音を立ててしまった。

すると奥から、エプロンをつけたままの詩織さんが、数日前のように笑顔で駆けてきた。
「お帰りなさい、サトシさん。よかった。間に合って。」

詩織さんが笑顔で何かを言いながら俺の荷物を取り、部屋の奥へ行こうとした。だが、玄関から一向に動かない俺を見て、心配そうな顔で再び戻ってきた。
「サトシさん、お仕事で何かあった?」

俺は無言で、彼女が持った荷物を手で払いのけ、靴を脱ぎ捨てると、その勢いのままキッチンへ向かった。後ろから彼女は俺の名前を呼びながら追いかけてくる。
「サトシさん。サトシさん、何があったの?落ち着いて。」
「もう、こんな生活終わりにしましょう。」

困惑している彼女を横目に、俺はキッチンで立ち尽くしていた。いつものように晩御飯の準備がされているのを見て、俺の頭の中の整理はさらにつかなくなり、思わずキッチン台に拳を叩きつけてしまった。響いた音にはっとし、途端に冷静になったが、そばで作られていた鍋の味噌汁が振動で少しこぼれてしまった。詩織さんは下を向いていた。その姿に罪悪感が押し寄せてきたが、今の俺には彼女に声をかける権利はもうないと痛感していた。

だが、ふとこぼれた味噌汁に目をやった時、俺は愕然とした。
「この味噌汁、なんで?」
俺がそう呟くと、詩織さんは目を拭いながら立ち上がっていった。
「うん。お豆腐と若布とお揚げの。」
「なんでこれ?しかもこの豆腐、うちの……」
詩織さんはその問いには答えずに、俺の顔を見つめた。
「私が悪かったの?サトシさん、ごめんなさい。」
「え?」

彼女はゆっくりと食事の準備を再開し出した。俺の頭は混乱していたが、キッチンにいるわけにもいかず、一旦自分の部屋へ向かった。

詩織さんは今までも毎日味噌汁は作ってくれていたが、豆腐は市販のものだったし、ましてやお揚げを入れたことなんてなかった。さっきの味噌汁には『最寄り豆腐店』の豆腐が使われていたし、お揚げは俺が好きで、母さんがよく入れてくれていた。切り方も同じだった。

答えは出ることはなく、俺が頭を抱えていると、キッチンから再びいい香りがしてきて、詩織さんが俺を呼んだ。テーブルには、俺の見慣れた料理がいくつかあった。作り直されたさっきの味噌汁だ。料理をじっと見つめる俺に、詩織さんは言った。
「サトシさん、召し上がれ。」
「いただきます。」

俺は先ほどの自分の行動が後ろめたかったが、食事を進める彼女に言われるがまま、食事に手をつけた。それは、食べ飽きた味と、もう食べることがないと思っていた味だった。そして、どちらも大好きな味だった。
「サトシさん。」

俺の目は自然と涙を溜めていた。詩織さんがティッシュを持って、俺の涙を拭いてくれた。
「詩織さん、これ、なんで?」
詩織さんは俺の止まらない涙を拭きながら、この真相を話し出した。
「私が言えなかったの。サトシさんを驚かせたくて、変にごまかしたりしたから。本当は仕事じゃなくて、佐木さんのところへ、仕事帰りに行っていたの。」
「うちへ、どうして?」
詩織さんは眉を下げながらも、少しだけ顔を赤らめて俺に言った。
「サトシさんの好きなものを教えてもらいたくて。喜んでもらうつもりだったのに、本当にごめんなさい。」

俺は椅子から立ち上がり、詩織さんを支えながらソファーへ移動した。俺は詩織さんの話も聞かず、他のストレスも合わせて八つ当たりしてしまった自分が、心底情けなかった。
「俺の方こそすみません。何も聞かず、いろんなストレスをぶつけるような真似をしてしまった。詩織さん、俺のためにありがとう。」

俺がそう言うと、詩織さんは潤んだ瞳のまま俺の方へ顔を向け、笑ってくれた。そして、小さな声を出した。あ、自然と抱きしめてしまった俺に驚いたようで、詩織さんは硬直している。俺もまた自分の行動に緊張してしまっていたが、不思議に思っていたことを彼女に聞いてみた。
「あの味噌汁、俺の母親のレシピですよね。ゆき子さんも知らないはずなのに、どうして?」

俺がそう言うと、詩織さんはそっと俺から離れ、本棚から1冊のノートを持ってきて俺に見せた。はるか昔の、見覚えのある字だった。
「これ、佐木さんが昔、お母様からもらったレシピノート。佐木さんが結婚する時におすすめの料理をまとめたからって。でも、佐木さんはサトシさんにはこのレシピの料理は作れなかった。きっとサトシさんも食べてきたもので、お母さんを思い出してまた悲しくさせてしまうんじゃないかと思ったって、言ってたわ。」

俺は固く目を閉じた。佐木家に来た俺は、またたらい回しになるのが嫌で、好物は一切出さなかった。思い出の料理も何もかも、心に閉じ込めた。だが、そんな気持ちはゆき子さんと浩司さんにバレていたんだろう。あえて何も言わずにいてくれたのだ。

俺はずっと、自分は我慢するしかないと思っていた。でも、ほんの少しでも甘えて良かったのかもしれない。信じれば良かったのかもしれない。だんだんと思いが溢れ、また情けない顔になっていた。そんな俺の手を笑顔で取り、詩織さんは言った。
「お母様のレシピを、佐木さんのお豆腐を使って私が作りたいの。サトシさんのために。いいかな。」

俺は彼女の思いの深さに、ありがとうとごめんを繰り返し言い続けた。詩織さんは体重ごともたれかかってしまっている。俺の背をぎゅっと抱きしめ、優しく撫でながら頷いていた。

その後、俺たちは食事を済ませ、改めてゆっくりとソファーへ腰掛けた。詩織さんが用意してくれた紅茶の香りのおかげで、俺の気持ちはさらに落ち着きを取り戻していった。
「詩織さん、改めてだけど、さっきは本当に悪かった。俺、仕事の苛立ちも全部ぶつけてしまって。」
「仕事、何かあったの?聞いてもいいかな?」

同棲を始めた頃は全く想像もしなかったが、俺は今まで誰にも言ってこなかった胸の内を、詩織さんに話していた。思い描いたようにいっていないこと。もう諦めたつもりだったのに、やはり悔しいということ。ゆっくりと言葉を探すように話した。詩織さんはじっと、話を聞いてくれていた。
「俺は結局、認めさせたかったんだと思う。必要ないとたらい回しにされた俺が、必要なんだって思って欲しかった。誰も分かってくれないと決めつけて、へそを曲げる。まるで素直になれない子供だ。思えば思うほど、自分勝手な人間だよ。」

すると、俺に向かって詩織さんは被せるように叫んだ。
「そんなことない!」
「え?」
「自分勝手だなんて、必要ないなんて、ないわ。つか、言うとは思っていたんだけど、今、言う!」

詩織さんはポカンとしている俺から紅茶を受け取りテーブルに置き、改めて背を伸ばし座り直した。
「私、ずっと一人だったの。社長令嬢に寄りついてくる人は多かったけど、影では嫌みを言われていたり、中川詩織を見てくれる人はいなかった。だから学生の頃、もう人を信用しないと決めたの。ある日の夜、何も言わず家を飛び出したの。夜遊びに慣れてないって顔に出てるんでしょうね。慣れない街で男の人に絡まれて怖かったけど、もうどうでもいいって思った。」

詩織さんは少し上を見上げながら話していたが、一呼吸ついた途端、俺の方へぐいっと向き直った。
「ついていこうとした、その時ね、その男が次々に倒れていったの。私、驚いて急いで視線を追ったの。倒れた人たちの先には、大きな袋を持った男の子がいたわ。『こいつら、あんたの知り合い?』彼は無表情で私に聞いてきたの。私が首を横に振ると、『あっそ』って言って、叫びながら立ち上がろうとしていた一人の首根っこを掴んだの。」

まるでヒーロー映画を語っているような熱量で、詩織さんは話を続けた。
「彼は、ブンブンと男を揺らしながら言ったの。『てめえらがこんなとこでくだらねえことしてっから、配達の豆腐に当たっただろうが』って。街灯でようやくはっきり見えたその人は、学ラン姿で、持っていた袋には『最寄り豆腐』って書いてあった。」

詩織さんはワクワクした顔で、俺をまじまじと見てきた。俺は顔をあげられなかった。

高校に入った頃から、俺は夜の料理店などに豆腐を配達していた。だが、一時期、思春期で喧嘩などによく割って入っていた。だが、浩司さんに説教を食らってしまい、喧嘩も配達も禁止になった過去があった。今思うと、親に心配かけてしまう自分が恥ずかしくなる過去だ。詩織さんとそんなところで出会っていたのは驚いたが、それがそんなに大きな出来事とは俺には思えなかった。

俺の疑問を察したのか、詩織さんは話した。
「サトシさん、覚えてない?二人きりになった後、サトシさん、袋の中を確認して頭をかきながら、私に豆腐をくれたの。形が崩れちゃった豆腐。」
「何をやってるんだ、俺は。」
「『平和いらないから、証拠隠滅を手伝ってくれ。この豆腐、形が崩れてるけど、うまいから、さっさと帰って家で食え』って。そう言って、大急ぎで来た道を帰って行ったわ。私は一人で潰れた豆腐を持ちながら立ってる自分が、なんだかおかしくて、そのまま家に帰ったの。」

詩織さんの話を聞きながら、俺はなんとなく話の繋がりが見えてきた気がした。
「もしかして、俺が浩司さんから説教されたのって?」
「やっぱり怒られてたんだ。家に帰ったら怒られたんだけど、パパが豆腐のパッケージを見て、どこかへ電話していたの。」

あの日、数を間違えた取りに行ったのに、なぜ喧嘩がバレたのか、ずっと俺は不思議だった。まさか、こんな繋がりがあったなんて。感心していると、詩織さんの声のトーンが急に変わった。
「私ね、あの日から少し変わったの。どんな理由があったのかは分からなかったけど、あの人は初めて会った私を助けてくれた。何も知らないただの人間を、あの人は助けてくれたんだって。」

詩織さんは俺の手を改めて握った。そして、俺の目を見ていった。
「あの出会いが私をずっと支えてくれていたの。探そうとは思わなかったわ。もし運命があるなら、今度は胸を張って会いたいって思ってた。でも、パパが佐木さんと会うと聞いた時、あの日の気持ちに戻ってしまった。会いたい。あの人に会いたいって。」

「詩織さん。」
俺もまた、いつの間にか彼女を見つめ、添えられた手を無意識に握っていた。
「運命があればなんて言ってたのに、チャンスを逃したくない気持ちが勝ってしまった。商店街で頑張り続けるって言ってた佐木さんに、パパは力を貸したいと思っていた。それと同時に、私の人間不信も心配していた。それで……」
「俺に会いに来たんですか?」

口をつぐんだ詩織さんは、俺の手を離そうとしたが、俺は離さなかった。
「パパは私に甘いから、佐木さんに話して、お見合いをセッティングしてくれたの。きっとサトシさんは驚いたよね。私もまさか同棲まで進むなんて思ってなかったけど、いつか終わってしまうとしても、全力であなたのパートナーになりたかった。」

詩織さんが話終わるのを待たず、俺は彼女の腕を自分へ引き寄せていた。
「終わるって、何なんですか?」
「今までずっと、サトシさんは頑張ってきたんだよね。頑張りすぎるくらい、辛い気持ちにも蓋をしてた。佐木さんはね、サトシさんには自分の人生を思いっきり生きて欲しいって言ってたそうよ。サトシは本当に優秀な息子だから、何でもできるはずだって。佐木さんご夫婦のサトシさんへの思いと、パパの私への思い。それがあの、お見合いの真相なの。」

複雑な表情をしている俺の顔を、詩織さんは空いている方の手でそっと撫でた。そして、悲しそうな、優しいような声で俺に言った。
「私は十分すぎる思い出をサトシさんからもらったわ。次はサトシさんの番。サトシさんなら、必ず現状を打開できるわ。そして自分が描いていた未来を目指せる。私も影で応援してる。大丈夫。私のヒーローは最強なんだから。」

言葉の強さとは裏腹に、彼女の目は涙でいっぱいだった。だが、詩織さんは俺から目を離さず、笑顔だった。俺は引き寄せたままの彼女の体をさらに引き寄せ、抱きしめた。耳には彼女の鳴き声がこだまする。くっついた部分からは、どんどん詩織さんの熱が俺に流れてきた。

俺は彼女の耳元で言った。
「今日は泣かせてばっかりだ。ヒーローでも何でもないよ。」
「ヒーローだよ。私の願いを叶えてくれたんだから。」
「じゃあ、俺の願いはどうなるんですか?」
「え?」

俺の顔を見ようと離れようとする詩織さんを、俺は話す前よりさらに強く抱きしめた。
「詩織さんを話したくないっていう、俺の願いは、詩織さんにしか叶えられないんです。」
「え、ちょっと待って、それってどういうことですか?」

ばたばたと俺の腕から抜け出そうとする詩織さんを、俺は抱きしめ続け、少しずつ力が抜けていくのをじっくり待った。俺は大人しくなってきた詩織さんをようやく離し、ソファーへそっと寝かせた。そして、俺は上から改めて聞いた。
「詩織さん、どういうことですか?」
詩織さんは真っ赤な顔で、俺の方へ両手を伸ばしていった。
「初恋の人に、話すわけないじゃない。」

形だけで、いつか終わるものだと、お互いに思っていたこの関係は、この夜から動き出したのだった。

翌日、俺はいつも通り営業のための資料作成をしていた。何も考えず淡々とこなすだけの仕事だったはずなのに、なぜか気持ちは前を向いていた。詩織さんが言ってくれた「俺なら打開できる」という言葉が、心に刻まれたからだろうか。人からもらう言葉に、こんなに力があっただなんて。少し驚きながら、俺が改めてパソコンに向かった時だった。突然、肩を叩かれた。
「佐木君、ちょっと第1会議室までいいか?」
「は?はい。」

課長は何も言わずにオフィスを出て行ってしまった。俺はパソコンを閉め、嫌な予感を振り払うように深呼吸してから会議室へ向かった。ノックをして入ると、窓際に課長が立っていた。表情は見えない。
「課長。あの、わざわざ何のご用でしょうか?」

俺がそう言うや否や、課長は俺の両肩を掴み、弾むような声で話し出した。
「いやあ、最近、よくやってくれたよ。」
「は?」
「あの大型スーパーへの営業、和田君が担当先だったんだがな。少し難航していたから、君に資料を頼んだだろう。確か、その日の午前中に作ってくれと言っていたやつだ。」
「それが、どうしたんですか?」

笑顔で俺に話し出した課長だったが、少しバツが悪そうに頭をかきながらまた話し出した。
「あの契約は無事成立したんだが、向こうの上の人がな。『分析をした佐木君とはどういう人なのか』と問い合わせがあったんだ。『内容がとても素晴らしい』とな。『細かいリサーチ内容と実績との比較、欠かす方がもったいないと、まんまと感じ入ってしまったよ』ってさ。」

その件はよく覚えている。前回の営業の時は、和田さんが珍しく自分で作った資料を使っていたが、契約は先送りにされてしまっていたのだ。誰もそのことには触れなかったが、和田さんとしては全ての責任を俺にしたかったのだろう。2回目のアポの日、俺に短時間で作れと言ってきたのだ。これで失敗すれば、俺の資料がダメだったからだと、責任転嫁ができるからだ。

俺の複雑な感情を読み取ったのか、課長は申し訳なさそうな顔で、思いもよらないことを言ってきた。
「すまんな。最近、和田君にちょっとした嫌がらせをされていたのは、俺も気づいていたんだ。」

課長の言いたいことは、俺にはよく分かった。バックに大きな権力を持つ和田さんに目をつけられている俺の肩を持つということは、自身の立場を危うくする。まさに、今の俺のようになるということだ。俺はこの部署での、見せしめなのだ。

俺は課長に頭をしっかり下げ、そして言った。
「課長、俺を認めてくださって、ありがとうございます。俺は、俺の仕事をこれからも頑張っていきます。」

さあ、課長が何か言おうとした時だった。課長のスマホが鳴り、俺たちはオフィスへ戻った。どうやら課長宛ての急ぎの電話が入ったらしかった。俺は少し落ち着こうと、自販機へ向かった。こんな少しのことだったが、俺の気持ちは浮き立っていたようだ。

だが、それはまだ終わりではなかった。自販機へ向かう俺を、課長が走ってきて止め、オフィスへ連れ戻したのだ。みんながオフィスに揃う中、課長は自分の横に俺を立たせ、手を叩き、みんなを注目させた。
「みんな、一度手を止めてくれるか。発表がある。」

みんながざわざわする中、俺は流されるまま突っ立っていた。そんな俺の肩を叩きながら、課長はみんなへ向かって話し始めた。
「あの大型スーパー契約の件だが、さっき先方から連絡があってな。売り場が決定した。あちらさんが、資料の出来に信頼を置いてくれたんだ。」

な、なんと。拍手が起こった。俺は驚き、思わず課長の顔を見た。課長は心を決めたかのように口元を上げ、俺の背中をドンと叩いた。それを見てか、遠慮がちだったみんなも大きな拍手を送ってくれた。ただ一人、こちらを睨んでいた和田さんに、課長は言った。
「和田君、もちろん君の営業もよくやってくれた。今回はちゃんと分析を買えたんじゃないか。それで、佐木君の頑張りが認められたんだからな。」
「そうですね。佐木君、おめでとう。」

和田さんは俺の方を見ずにそう言った。明らかに苛立っている様子だった。それもそうだろう。全てが裏目に出てしまったのだから。

その日から少し、俺の環境は変わった。みんな和田さんに気を使いながらも、タイミングを見て俺の元へ来る人が増えたのだ。仕事のアドバイスや、ちょっとした雑談まで、色々だ。詩織さんが俺に言ってくれた「打開できる」ということに、少し近づけたのかもしれないと感じていた。そして、俺はその日のことを早く帰って詩織さんに伝えたいと、日々強く思うようになっていた。彼女の存在は、俺の中で大きくなる一方だった。

2週間後、その日は土曜日で、俺と詩織さんはお見合い以来の外食をすることにしていた。詩織さんは朝から部屋から出たり入ったりで、服装をずっと考えていた。俺はと言うと、そんな彼女を眺めつつ決意を固めていた。夕方になり、俺たちはレストランへ向かった。俺にとっては、かなり背伸びして予約した店だ。タクシーで行こうと提案したが、散歩がしたいとの彼女の提案を優先した。俺たちは特に何も言うこともなく、手をつなぎながら歩いていた。

俺はいつものスーツ姿だったが、詩織さんはと言うと、あれだけ服に悩んでいたが、そもそも美人なので、店に着くまでに何度人が振り返ったか分からないほど、周りの目を引きつけていた。店につき、俺たちは何気ない話をしながら食事を進めていった。詩織さんは「美味しい」と連呼していたが、俺は正直あまり味が分からなくなっていた。というのも、ひたすらタイミングを狙っていたからだ。

俺が今日、決意してきたこと。それは、詩織さんへ改めてプロポーズすることだった。ここまで、寄り道ばかりだった。豆腐店がなんとかなるなら、俺の気持ちなんてどうでもいいと思っていた。だが、今は違う。俺は詩織さんと歩んでいきたい。大切な家族になりたいと、心から思っている。それを、男としてしっかり彼女へ伝えたかったのだ。

だが、ここに来てもまだ、俺の人生というのはスムーズに進んでくれなかった。一番会いたくない人間が、現れたのだ。
「え、佐木君、もしかしてデート?マジかよ。この店も質が落ちたな。」

パリッとしたスーツに身を包んだ和田さんが、声をかけてきた。
「サトシさん、お知り合い?」
「会社の先輩だよ。和田さん、奇遇ですね。」

和田さんは俺の挨拶を無視し、詩織さんを品定めするかのように見ていた。俺は気分が悪く、店を出ることまで考えたが、その時、半笑いで和田さんは詩織さんへ話しかけた。
「失礼、お嬢さん。どんな関係かは知らないけどね。こいつと一緒に食事だなんて、自分の価値を下げますよ。知らないのかな?この男は、実の親からも見放されて、高卒でようやく入れた会社でも窓際社員。お嬢さんは、見たところ俺と同じ上流階級だ。忠告はしておきますよ。」

和田さんはそう言い終わると、座っている俺を見下しながら鼻をふんと鳴らし、自分の席へ向かっていった。よりにもよって、すぐそばの席だった。身内での食事会だろうか。いかにもそういう感じの人が、すでに2人席についていた。
「サトシさん。」
「あ、悪い。嫌な気分にさせてしまって。」

俺がそう言うと、詩織さんは少し身を乗り出し、小声で俺に囁いた。
「あの人でしょ?会社の嫌な感じの人。私も苦手。これでサトシさんの気持ちに共感できるわね。」

詩織さんの小悪魔のような笑顔に、思わず笑ってしまい、和田さんの振る舞いなど吹き飛んでしまった。だが、すぐそばでそれを見ていた和田さんには、それが面白くなかったようだった。

メインディッシュが来た時、ソムリエが俺たちの席へやってきた。ワインはお任せにしていたので、詩織さんと首をかしげていると、彼はにこやかに言った。
「和田様からでございます。お好きな物音とのことで、こちらのメニューを。失礼いたします。どちらになさいますか?」

ちらりと和田さんの方を見ると、にやけた笑顔で軽く手を振っている。俺は嫌な予感しかしなかった。だが、詩織さんはこう言った。
「こうなったら、思いっきり高いの頼んじゃおう。と言っても、私あまり詳しくなくて。サトシさんと同じものにしようかな。」

俺もさすがに、これで嫌がらせに繋がることはないだろうと思い、メニューを見た。だが、嫌な予感はさらに増し、メニューを開くと確信に変わった。全てイタリア語だったのだ。高級レストランともなると、何カ国語かでメニューを用意しているのだろう。おそらく和田さんは、うまいこと理由をつけ、俺にイタリア語のメニューを持ってこさせたのだ。改めて和田さんを見ると、吹き出しそうな顔でこちらを見ている。詩織さんに日本語メニューを見せるにしても、そっと店員にメニュー表を変えてもらっても、そのことをまた会社で笑い話にする気なのだろう。

俺は、絶好の機会が来たと思った。俺はメニューにざっと目を通し、ソムリエに言った。
「この店はイタリアワインが豊富ですね。このキャンティ、味に厚みに自信があると書いてありますが、メインとどうでしょうか?パフュームはベリー系か。」

俺とソムリエは、ワインの話に花を咲かせながら選定し出した。詩織さんは呆気に取られている。ちらりと和田さんの方を見ると、目を見開きながら俺を見ている。それもそうだろう。俺とソムリエは、イタリア語で話をしていたのだ。続けて俺は言った。
「なるほど。では、こちらのダスティは。ああ、あの名門ワイナリーとありますね。素晴らしいな。渋みと渋みが。」
「詩織さんは、少し苦手かな。おお、このバローロは良さそうですね。説明にも気合いが入っている。非常に華やか、エレガント。もちろんピエモンテ産。」

俺とソムリエの話が白熱しているところに、詩織さんが割って入ってきた。
「あ、あの、サトシさん。」
「ああ、詩織さんもバローロでいいかな。イタリアワインの王様だ。」
「え?うん。それはいいんだけど。」

詩織さんはそっと横に目線を送った。そこには、肩を震わせながら和田さんがこちらを見ていた。俺はワインを頼み、ついでにソムリエに耳打ちした。彼が去った後、俺は和田さんの席へ向かった。同席していたのは、どうやら和田さんの両親のようだ。俺はにこやかな笑顔で言った。
「お食事中、失礼いたします。私、佐木と申します。和田さんにはいつもお世話になっております。先ほどもワインをご馳走くださいまして。和田さん、ありがとうございます。」
「おお、部下だったのかい。」
「君が噂の息子か。思いっきり学ばせてもらったよ。」

この豪快な人が、和田さんのコネを作っている重役の父親だろう。横でいかにもセレブと言った表情を浮かべているのが、奥さんか。俺はさらに笑顔を強め、二人に向かって話した。
「実は、失礼に当たるかと思ったのですが、普段お世話になっている和田さんに感謝の意を伝える機会はなかなかないと思いまして、私からもワインを送らせていただきました。」
「おや、まあ、日頃の感謝と言われると、断れんなあ。しかし、すまんが佐木君。わしと妻は、基本はウイスキー派でね。ワインは店に任せっきりなのだが。」

その言葉を待っていた俺は、すかさず言った。
「いえいえ、和田さんはよく店を利用していらっしゃるようですし、親御様を困らせることはありませんよ。ぜひ、ご子息にお任せしてみては。説明もちゃんとしてくれるでしょう。営業のエースなんですから。」

そして、俺は小声で和田さんに言った。
「和田さん、ソムリエには、彼もイタリア語の方が話しやすいのでよろしくと伝えておきましたので。もちろん、メニュー表も。では、失礼いたします。」

顔から血の気が引いていく和田さんは、俺の方へ向けて口をパクパクさせていた。そして、そんな和田さんに両親は「楽しみだ」と笑いかけていた。俺は横目でソムリエがやってきたのを見送り、席へと戻った。
「詩織さん、ごめん。待たせて。」
「いいえ、一発ぶん殴ってきたんでしょ。」
「さあ、どうかな。」

間もなく、店内に和田さんへのワインが届いた。イタリア語で話し出すソムリエに対して、親の手前イタリア語が分からないとも言えず、たじたじしている和田さんを、両親が不審に思い詰め寄ったのだ。俺への嫌がらせを知り、周りのことも忘れ、父親は怒鳴り続けた。周りは騒然としてしまい、支配人が来る事態にまでなった。父親は俺に謝罪し、和田さんを引きずりながら店を出て行ってしまった。あんなに気になりながら引きずられる和田さんは、さながら悪さをした子供が親に叱られるそのものだった。周囲からはクスクスと笑いも出ていたが、次第にまた穏やかな空間へ戻っていった。

「やりすぎたかな?」
俺がそう言うと、詩織さんは笑いながら言った。
「全然、スカッとするよ。それより、サトシさんってイタリア語できるの?」
「ああ、現地に行ったことはないけどね。読み書きやは、独学で勉強できるからさ。イタリア語、フランス語、英語くらいはね。ワインは、近くの酒屋でよく話を聞いてたんだ。」
「話を聞いていただけで、あんなにプロと話せるものなの?しかもイタリア語だし。やっぱり、かっこいいよ。サトシさんは、私にとってずっとずっと、かっこいい人だわ。」

そう言いながら胸に手を当てて、詩織さんはじっと俺を見つめている。そんな彼女の姿にどぎまぎしてしまったが、と同時に今日の最重要案件を思い出した。詩織さんは何も言わず、こちらを見ている。さっきはそんなに緊張しなかったのに、どんどん体が熱くなってきた。俺は深呼吸を2回ほどし、ぐっと彼女の方を見た。
「俺は、俺たちの始まりは、少し変わったものだったのかもしれない。君を傷つけもした。でも、毎日俺を迎えてくれて、笑いかけてくれる詩織さんの顔を、いつまでもそばで見ていたいんだ。」

俺が胸元に手をやると、詩織さんの目はどんどん潤んでいき、ついに涙が溢れてきた。
「俺と、結婚してください。」

指輪を差し出した俺に、左手をそっと前に出して、詩織さんは泣きながら満面の笑顔で答えてくれた。
「はい。」

左手の薬指へ指輪をはめたと同時に、店内に拍手が湧き上がった。どうやら先ほどの一件で、俺たちも注目を浴びてしまっていたらしく、意図せず公開プロポーズになってしまっていた。俺たちは立ち上がり一礼をして、そそくさと座り、二人とも両手で顔を覆ってしまった。「おめでとうございます」と、横でシャンパンが注がれる音が聞こえていた。

週明けの月曜、出社するとなぜか和田さんが噂の的になっていた。たまたま店の前を通りかかった別部署の人が、店の前で怒鳴りつけられている和田さんを見ていたらしく、噂があっという間に広がったのだ。「泣きながらパパママ、ごめんなさい」という和田さんは動画にも撮られており、今までのふんぞり返りが嘘のように大騒ぎになっていた。上司からは「落ち着くまで営業には出るな」と言われた。挙げ句の果てに、以前俺に行ってきたような強引な営業スタイルが社として問題になり、ますます肩身の狭い状態だ。親もかばう気はないようで、地方への移動が決定していた。

俺はその和田さんの後を引き継ぐ形で、再び営業中心の業務へ戻ることができた。資料はもちろん自分で作っている。イタリア語の取引先に対して、イタリア語での資料も作ったことがかなり話題となり、多数の取引先からも信頼を得ることができた。また、その取引先がイタリアで豆腐を扱ってみたいという要望があり、うちの豆腐をサンプルで送ると大層気に入った様子で、なんとイタリアとの取引が決まったのだ。今では、1日作業しても追いつかないほどの仕事に追われているらしい。俺を信じてくれていた詩織の言う通りになったのだ。

そして週末、俺たちは『最寄り豆腐店』にいた。ゆき子さん、浩司さん、そして詩織の両親、いわゆる結婚前の顔合わせだ。
「二人とも、結婚おめでとう。」
「嬉しいわ。おめでとうね。」

ゆき子さんも浩司さんも、とても喜んでくれている。詩織の両親も、にこやかに頷いている。そんな光景を見ながら、俺は懐から封筒を出した。
「皆さん、俺たちのためにありがとうございます。どうも緊張しそうだったので、手紙を読む形ですみません。ゆき子さん、浩司さん、これが俺の気持ちと決意です。」

二人とも、優しい目で頷いてくれた。俺はゆっくりと手紙を読み出した。
「ゆき子さん、浩司さん。二人は覚えているでしょうか。二人の元に来て、何も問題を起こさなかった俺が、一時期荒れ出したこと。俺も今まで理由は忘れていたけど、思い出しました。それは、俺は一人なんだと気がついたからです。両親もいなくて、いるのは当時の、二度と会わないであろう親戚だけ。血の濃い繋がりが、俺にはない。切っても切れない繋がりというのが、俺にはないんだと感じた時、俺は自分の必要性を感じなくなりました。」

みんな、下を向きながらじっと話を聞いてくれている。俺は唇が震えるのを耐えながら話を続けた。
「でも、家出ができるほど度胸もない俺は、恩返しをするという生きる意味を、自分につけたんです。就職も、見合いも、恩返しのためだなんて。俺を引き取ってからずっと、二人はいつでも俺と真剣に向き合ってくれていたのに。他の家族と何も違わない。思いっきり褒めてくれて、思いっきり怒って、俺を息子として育ててくれたのに。」

縮こまってしまった俺の背に、横に座っている詩織がそっと手を当ててくれた。詩織は俺の方を見て、「大丈夫だよ」と笑顔で頷いてくれた。俺は頷き、今度は詩織の両親の方を向いた。
「そんな情けない俺を、全てを認めてくれたのは、詩織さんです。俺自身の未来を、諦めなくていいと言ってくれました。俺は、詩織さんと家族になりたいと思っています。家族っていうのは、どういうものなのか。俺は、ちゃんと教えてもらってきたんですから。」

俺は再び、ゆき子さんと浩司さんの方へ向いた。自分でも、涙が流れていることが分かった。
「ありがとう、ゆき子さん。浩司さん。二人が俺に教えてくれたこと。今なら分かるよ。俺も、家族って、うまくできるかな。母さん、父さん。」

そう言った途端、ゆき子さんは俺の方へ来て、思いっきり抱きついた。
「当たり前だよ。うちの息子は、こんなにも優しくていい子なんだから。詩織さん、サトシのこと、よろしくね。」

詩織は泣きながら、何度も頷いていた。浩司さんは手で目を拭い、詩織の父に肩を叩かれていた。

ゆき子さんが俺から離れた時、詩織の父は俺に言った。
「元々は、娘を幸せにしたい親の暴走だったのかもしれん。見合いのことも、最初は反対されていたんだ。それを、娘の人間不信を直してやりたいと言って、無理やり話を通した。サトシ君には、悪いことをしたと思っていたよ。しおりにも、ね。本当に、二人が幸せになってくれて、嬉しいのなんのって。」

言い終わらないうちに、詩織の父は泣き出してしまった。今度は自分が、肩を叩かれている。その姿を見て、俺と詩織は思わず笑ってしまった。すると、みんなも笑い出した。

俺は改めて思った。ここにいる全員が、俺の家族なんだ。血の繋がりがある人は、誰もいない。だけど、誰よりも愛しく、守りたいと心の底から思った。そしてようやく、感謝の気持ちが溢れてきた。すると、詩織が俺の背に置いた手を離し、俺の頬を撫でた。
「サトシさん、泣いてるの?」
「やっと、やっと、お父さんとお母さんに感謝できそうなんだ。落ち込むといつも思っていた。俺だけなんで置いていってしまったんだって。何年もずっと、恨みばかり抱えていたよ。でも、やっと言える。ありがとうって。」
「私も、会いに行っていいかな。直接会えなくても、家族だもん。」

俺たちは改めて手を握り合い、笑い合い、奥の棚を見つめた。そこには、飾ってある写真があった。海の向こうの、実の親と、育ての親。そして、その真ん中で大事に抱かれ、気持ちよく眠っている赤ん坊の俺が映っていた。これからきっと、この写真の横に、たくさんの家族写真が並んでいくのだろう。

人の心は見えない。疑えば切りがないし、信じて痛い目を見ることもあるけれど、人は人から離れられないものだ。失敗することもあるだろうが、人生の最後の時、信じた人の方が多かったと、俺は笑いながら言えるような人でありたいと思う。

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