会長、どうぞお楽に。息子さんからそう頼まれております―そう言って、レインコートの男は鈍く光るナイフを六十五歳の老人の腹に深く突き刺した。息子の命を受け、父親を殺しに来た男たち。だが彼らが土をかけて立ち去った後、奇跡が起こった。一人の女性が現れ、素手で墓を掘り返し、瀕死の財閥会長を救い出したのだ。この老人が生き延びてこそ、真実が明らかになるのだから―その日から、四十代の独身女性と財閥会長の、生き残りを懸けた壮絶な逃亡が始まった。
空が崩れ落ちるような激しい雨の降る真夜中。深い山奥の闇は、一寸先も見えないほどに濃かった。坂本静は長靴が泥に沈む音を聞きながら山の斜面を登っていた。昼に植えた薬草の苗が、この雨で流されてしまうのではないかと心配でならなかった。静が懐中電灯で濡れた草むらをかき分けた、その時だった。はるか遠くの三叉路の橋に、大きな黒い車が二台止まっているのが見えた。
静は本能的に懐中電灯の光を消し、岩に身をぴったりと隠した。黒いレインコートの男たちが後部座席から何かを引きずり出していた。男たちは縛られた老人を乱暴に地面に叩きつけた。静は唇を震わせながら岩の隙間からその様子を覗き見た。レインコートの男の一人が、キラリと光るナイフを老人に近づけた。男は老人の腹を深く突き刺しながら低くつぶやいた。
「会長、どうぞお楽に。息子さんがそう頼んでおりました」
ナイフで刺された老人は、こらえきれないうめき声を漏らしながら穴の中へと転がり落ちた。男たちは無表情でシャベルを手に取り、土を浴びせ始めた。静は手で口を塞ぎ、込み上げる悲鳴を必死にこらえた。シャベルの先が土を引っかく不快な音が、雨音を突き抜けて耳に刺さった。男たちは老人の財布と携帯電話を集めて火をつけ、証拠を完全に消した。車が泥を跳ね上げながら遠ざかる音を、静は最後まで確認した。
車が完全に視界から消えるや否や、静は狂ったように穴へと駆け寄った。泥の上に膝をつき、素手で土を掘り起こしながら叫んだ。
「しっかりしてください! どなたか、どうかもう少し耐えてください! 」
爪の間に鋭い小石や土が食い込み、血が流れたが、静は構わなかった。しばらく掘り進めると、土の中に埋もれて震える老人の手が現れた。静は老人の上半身を掴み、ありったけの力で穴の外へ引きずり上げた。老人は口に詰まった泥を吐き出し、荒い息を整えた。静は自分の上着を脱ぎ、老人の腹から溢れ出る血を強く押さえた。
「おじいさん、私の声が聞こえますか? 意識を失っちゃだめですよ。目を開けてください」
老人は焦点の合わない目を開き、静の手を力なく握りしめた。
「た、助けてくれ。頼む」
静は老人の腕を自分の首に回し、背負った。自分よりずっと大きな体を背負った静の足は震えた。ぬかるんだ道は沼のように足首に絡みつき、歯を食いしばって山の向こうの山小屋へ歩いた。背中で感じる呼吸が次第に浅くなるたび、静は叫んだ。
「死んじゃだめです!

ここで死んだら悔しくてどうするんですか! もう少しで着きますから! 」
山小屋にたどり着いた静は、老人を古びた板の間に寝かせた。急いで火を起こし、アルコールを布に浸した。震える手でシャツのボタンを外すと、腹には刃物が深く通った跡が生々しく残っていた。静は消毒した針と糸を手に取り、言った。
「病院には行けません。今、ここで私が縫合します。痛くても、少しの間我慢してください」
静は看護師だった頃の記憶を必死に呼び覚ましながら傷口を縫い合わせた。針が肉に食い込むたび、老人の体は痙攣した。静は汗を拭いながら丁寧に縫合し、包帯を巻いた。しばらくして老人が意識を取り戻し、静の手を引き寄せた。血に濡れた指で、静の手のひらに震える文字を描いた。静はその文字をじっと見つめ、尋ねた。
「…ですか? どういう意味ですか?
おじいさんのお名前ですか? 」
老人は答える代わりに目を閉じ、再び深い昏睡状態に陥った。
静が不安な気持ちで窓際に近づくと、遠くの山の麓から数十個の懐中電灯の光が、山を舐めるように登ってきていた。老人を探し出そうとしていると直感した。静は急いで床のむしろをめくり、狭い地下の貯蔵庫の扉を開けた。老人を慎重に抱え、狭い空間に押し込んだ。
「絶対に声を出さないでください。何があっても息を殺していてください」
静は扉を閉め、むしろを敷き、平然と座った。しばらくして、乱暴な足音と共に山小屋の扉が勢いよく開かれた。黒いレインコートの男三人が懐中電灯を静の顔に照らした。一人が険しい表情で訪ねた。
「おい、ここで一人で暮らしてるのか。さっき、ここで年寄りを見なかったか? 」
静はわざと口の端からよだれを垂らし、焦点の合わない目で男たちを見た。乾いた木の枝を指でいじりながら、ニヤニヤと笑った。
「おじさんたちは誰? 私のお母さんに会いに来たの?
お母さんは山の神様に連れて行かれちゃったんだよ」
一人の男が鼻をつまみながら小屋の中を蹴り飛ばした。
「こいつ、完全に頭がおかしいな。なんだこの匂いは? 」
別の男が、静の前に置かれた血のついた布切れを見つけて目を光らせた。男は静の髪を掴んで引き寄せ、叫んだ。
「この血は何だ、お前! さっきの年寄りを隠しただろう。正直に言え! 」
静は怯える代わりに、さらに大声でケタケタと笑い出した。隅に置かれた死んだウサギの死体を指差しながら、とぼけた答えをした。
「ウサギだよ。ウサギ。うちのウサギが病気だから、私が薬を塗ってあげたの。おじさんたちもウサギの肉食べる?
」
男は気持ち悪そうに静を突き飛ばし、静は床に転がった。男たちは小屋の中を見渡した後、外に出て無線機を取り出した。
「…会長、ここには頭のおかしい女しかいません。上の方をさらに徹底的に探してみます」
男たちの足音が遠ざかるのを確認した静は、床にうつ伏せになったまま息を整えた。心臓は胸から飛び出しそうだった。急いで貯蔵庫の扉を開け、老人の顔色を確認した。
「もう大丈夫ですよ。あいつらは行きました。おじいさん、しっかりしてください」
老人は薄く目を開け、静の袖を固く掴んだ。
「誰も…誰も信じるな…私の息子が…息子が私を…」
老人は言葉を終えられず、また意識を失った。静は「息子」という言葉に全身の鳥肌が立った。父親がわが子の手で殺されかけたという事実が信じられなかった。静は老人の冷たい手を温かく包み込み、毅然とつぶやいた。
「心配しないでください。私が必ず助けます。絶対にここで死なせはしません」
夜明けになると雨は小降りになったが、山には深い霧が立ち込め始めた。霧の中から、また別の誰かの足音が聞こえ始めた。静は貯蔵庫の上に座り、入り口の方を睨みつけた。誰にもこの老人を連れて生かせはしない、という決然とした意志が、その目に宿っていた。
夜明けの空気が胸を刺すように冷たかった。空の上で不快な機械音が山奥に響き始めた。静はむしろをめくり、地下貯蔵庫の扉を開けながら老人に囁いた。
「じいさん、私の声が聞こえますか? もうここから出なければなりません。あいつら、空にドローンまで飛ばしています」
老人は薄く目を開け、震える声で答えた。
「私のせいで君まで危険な目に合わせてしまうな。私を置いて行きなさい」
静は老人の顔の泥を拭いながら、きっぱりと言った。
「そんなことを言うくらいなら、生きるのを諦めてください。私が助けると言ったでしょう」
静は床の泥を両手で掬い、老人の顔と服に丁寧に塗り広げた。
「これを塗れば、熱感知カメラに映りません。少し冷たいですが、我慢してくださいね」
老人は体を縮こませて尋ねた。
「こんなことをどこで習ったんだ? 君は只者ではないな」
静は苦笑しながら言った。
「生きていると、色々なことを覚えるものですよ。さあ、私の背中にしっかりつかまってください」
静はロープで老人を自分の背中に固定し、山小屋を出た。深い霧が視界を遮っていた。一般的な登山道ではなく、草が腰まで生い茂る道へ足を踏み入れた。遠くから男たちの怒鳴り声が聞こえてきた。
「おい、こっちには足跡がないぞ。下の湿地帯の方をもっと探せ」
静は履いていた長靴の片方を脱ぎ、わざと反対側の湿地帯の方へ力いっぱい投げた。
「靴の片方をあっちに投げました。その間に私たちはあの岩壁の方へ行かなければなりません」
老人が静の肩を強く掴み、かれた声で言った。
「ありがとう。本当にありがとう。私が生きて帰れたら、この恩は決して忘れない」
二人は岩壁の狭い隙間に身を隠しながら進んだ。頭上をドローンが通過するたび、静は岩のように固まって息を止めた。やがて巨大な滝の裏側にたどり着いた。滝の内側には、大人が二人座れるほどの小さな洞窟があった。静が老人を下ろし、傷口を確認していると、老人は内ポケットから濡れたビニールの塊を取り出した。中から小さなマイクロフィルムを取り出し、震える声で言った。
「これがあれば、私の息子を破滅させることができる。金剛グループの全ての不正がここに記録されている」
静はフィルムを自分の上着の深いポケットに入れた。
「本当に息子さんが…させたんですか? どうして子供が父親にこんなことをできるんでしょう?
」
老人は虚しい笑みを浮かべた。
「金が恐ろしいのだよ。人を怪物に変えるのが金だ。あいつは、もう私の息子ではない」
静は老人の体温を確認しながら言った。
「お金より怖いのは、人の心ですよ。私はお金のために人を捨てる姿を数えきれないほど見てきました」
老人は静の手首を掴み、真剣な目で尋ねた。
「君はなぜ私を助ける? 私が誰かも知らず、このことがどれほど危険かも分かっているだろうに」
静は淡々と言った。
「私も世間に捨てられたことがあるんです。その時、誰かが一度でも私の手を握ってくれたら、と思いました」
その時、滝の下の方から殺し屋たちが猟犬を連れて近づいてくるのが見えた。静は刺激の強い唐辛子の粉を取り出し、風が吹く方向に撒いた。犬たちが苦しそうに吠えながら地面に鼻を擦りつけ、転がり始めた。
「おい、このクソ犬ども、どうしたんだ。匂いを見失ったみたいだぞ」
静は素早く洞窟に戻り、老人を背負った。山の上の監視小屋を指さして言った。
「あの小屋まで行けば通信機があるはずです。そこが最後の希望です」
老人はうなずき、静の背中に顔を埋めた。
「すまないな。この年寄りのせいで君の足が血だらけになってしまった」
静は自分の足から流れる血を見ようともせず、急な道を登った。霧の中に小屋へ続く古びた一本橋が現れた。橋の向こうから、明るい懐中電灯の光が近づいてくるのが見えた。静は安堵のため息をついた。
「おじいさん、警察です! 助かりました。見てください」
静が喜んで橋の方へ走り出そうとした、その瞬間。背中に背負われていた老人が、ありったけの力で静の肩を後ろに引き寄せた。老人は切迫した低い声で警告した。
「止まれ! 出ていくんじゃない。あいつは我々の味方ではない!
」
静は戸惑って足を止めた。警察の制服を着た男の口元に、奇妙な笑みが広がっていた。男は橋の真ん中に立ち、ポケットから拳銃を取り出し、カチャリと音を立てて銃を構えた。低く冷たい声で霧の中に向かって話しかけた。
「静さん、そこにいるのは分かっている。会長を連れて出てくれば、君の命だけは助けてやろう」
静は心臓が止まるかという恐怖の中で、老人の手を固く握った。老人が静の手のひらに指で文字を書き、決然とした目を送った。『橋を切れ』。静は橋の横に結ばれた古いロープの束を見つけ、唇を固くかみしめた。男のシルエットが次第に鮮明になる中、静は決心したようにロープを掴んだ。
静は男に向かって時間を稼ぐため、叫んだ。
「鈴木巡査、本当に私を助けに来てくれたんですか? 嘘じゃないですよね? 」
男は歩みを止め、銃口を静の声の方へ向けながら答えた。
「もちろん。私が静さんをどれだけ大切に思っているか。さあ、ゆっくりと出てきなさい」
静はロープの結び目を支えている杭を力いっぱい蹴り倒した。橋が揺れ動き始め、男は慌てて手すりに掴まった。静は岩の裏に身をひそめ、鋭い石の破片を拾い上げた。
「巡査さん、あなたは私たちの村の人でしょう。どうして藤堂のような人間と手を組むことができるんですか? 」
鈴木巡査は狂ったように笑いながら橋の手すりを握りしめた。
「静さん、世の中なんてそんなものさ。一生この田舎で巡査をやっていても、何が残る?
向こうがくれる金があれば、俺の人生は変わるんだ」
静が石の破片をロープの杭に振り下ろそうとした、その刹那。森の中から黒い影が稲妻のように飛び出し、鈴木巡査の手首を掴んだ。
「お前は誰だ! 話せ! 」
鈴木巡査は悲鳴を上げて発砲したが、弾丸は空へ飛んでいった。古い軍用レインコートを着た男が鈴木巡査の手首を捻り、拳銃を川へ落とした。男はそのまま鈴木巡査を地面に転がし、丈夫なロープで手足を縛り上げた。彼は田島という、村に住む元特殊部隊の男だった。静は驚いた様子で言った。
「田島さん、どうしてここが分かったんですか? 本当に危ないところでした」
田島は息を整えながら老人の顔色を確認した。
「静さん、山の中で銃声が聞こえて、俺が黙っていられると思うか。この方の状態はかなりひどいな」
田島は元特殊部隊員だった腕前を発揮し、鈴木巡査の口に猿ぐつわをかませて縛りつけた。老人は田島を見上げ、かれた声で尋ねた。
「あなたは誰かね。静さんの知り合いか?
」
田島は傷口を強く押さえながら静かに答えた。
「助けてもらった人間の友達だと思ってください。今話している時間はありません。奴らはヘリコプターまで飛ばしています」
その時、空の上から巨大なプロペラ音が聞こえ、強いサーチライトが地面を照らし始めた。ヘリから放送が流れた。
「坂本静、あなたは今、重犯罪を犯している。会長を傷つけず、直ちに外に出てこい」
静は呆れた表情で空を見上げ、拳を固く握った。
「父親を殺そうとした奴らが、誰に向かって犯罪者ですって? 本当に腹立たしいにもほどがある」
田島が静の肩を押し、監視小屋の中へ導いた。
「悪態をついている時間はない。奴らはすぐに地上部隊を下ろしてくる。早く中へ入れ」
三人が小屋に避難するや否や、催涙弾が炸裂し始めた。刺激的な煙が流れ込むと、老人は激しく咳き込んだ。静は水を浸したタオルで老人の鼻と口を覆った。
「田島さん、この方は肺が悪いんです。この煙を吸ったら危険です。どこか出られる場所はありませんか? 」
田島は小屋の隅の無線機を分解しながら奮闘していた。
「くそ、妨害電波をかけてやがる。通信ができない。静さん、そこの貨物用ケーブルカーの鍵を探してくれ」
傭兵たちがロープを伝って小屋の屋根に降り立つ音が響いた。静は埃まみれの引き出しを漁り、錆びた鍵の束を見つけた。
「ありました! でもこれ古すぎて動くかどうか…」
田島は老人を担架に固定し、静の手を引いて裏口へ走った。
「動かなきゃ、俺たちが手で回すしかない。ここで捕まったら全員死ぬんだぞ」
裏口を開けると、切り立った崖の下へ続く古びた貨物用ケーブルカーが見えた。傭兵たちが小屋に侵入し、四方で窓ガラスが割れる音がした。田島は老人をケーブルカーの床に寝かせ、静を押し込み、操縦席のレバーを握りしめた。
「静さん、おじいさんをしっかり掴んでろ。衝撃が激しいぞ」
田島が錆びたレバーを引くと、ケーブルカーはガタンと揺れて谷へ滑り降り始めた。遅れて出てきた傭兵たちが無差別に射撃を加えた。銃弾が薄い鉄板を貫通し、老人の頭の横をかすめた。静は自分の体で老人を覆い、床に伏せた。
「じいさん、私の下にもっと隠れてください。大丈夫。私が全部防ぎますから」
老人は自分を守る静のか細い腕を感じ、涙を流した。
「すまない。私が…悪い息子を持ったせいで…君たちまで死地に追い込んでしまった」
静は振り注ぐ銃弾の中でも冷静に答えた。
「息子の過ちは、おじいさんの過ちではありません。そんなことを言う元気があるなら、大きく息を吸ってください」
ケーブルカーが谷の真ん中に到達した時、上部のワイヤーが銃弾を受けて切れ始めた。ワイヤーが一本ずつ解け、張り詰めた音がした。田島が叫んだ。
「ワイヤーが切れる!
飛び降りるぞ! 下に深い池が見えるだろう。そこに向かって身を投げろ! 」
静がケーブルカーのドアを開け、眼下の真っ暗な渓流を見下ろし、ごくりと唾を飲み込んだ。
「田島さん、この方は怪我人なのに、この高さから飛び降りたら本当に死んでしまいます! 」
田島はきっぱりと言った。
「ここにいれば100%死ぬ。飛び降りれば、1%でも生きる可能性がある。静さん、3つ数えたら飛ぶぞ!
」
ケーブルカーが最後の一本のワイヤーにぶら下がり、危なっかしく揺れ始めた。田島が三つと叫んだ瞬間、三人は闇の中へ身を投げ出した。冷たい水に墜落した瞬間、気が遠くなるほどの圧迫感が全身を襲った。静は水中で必死にもがき、老人が浮かび上がってくる方へ泳いだ。田島が老人を捕まえて水面に上げると、静も彼らに近づいた。
「おじいさん、しっかり! 水は飲んでいませんか? 返事をしてください! 」
老人は意識を失い、青白い顔で水面に浮かんでいた。二人は急流に身を任せ、ヘリの光を逃れて暗い谷の河原へ流されていった。静は水の中でも、老人の傷口が開かないように自分の手で固く押さえていた。指先の感覚がなくなるほど冷えたが、決して手を離さなかった。
田島は老人を安全な岩の下に引き上げた後、静を助けて陸に上がった。
「静さん、あそこの下に廃校が見えるだろう。まずはあそこの保健室に行かなければ」
静は震える体を支え、老人の呼吸音を確認した。まるで金属をこするような音に変わっていた。
「行きましょう。ここで終わらせるわけにはいきません。あの年寄りを必ず生かして、あの悪い息子の前に立たせてやります」
田島が静の頭を一度撫で、重くうなずいた。
「ああ、その根性だけは認めてやる。さあ、動くぞ」
三人は廃校の建物に向かって重い足取りで進んだ。静は老人の冷たい体温を自分の胸で温めながら、絶えず話しかけた。
「おじいさん、着きましたよ。もうすぐ温かい場所に行けますからね。私の声、聞こえますか?
」
老人の指が微かに静の腕をつねるのが感じられた。静はその小さな反応に、まるで世界を手に入れたかのような笑みを浮かべ、涙を拭った。廃校の保健室にたどり着き、静は老人を古びたベッドに寝かせ、濡れた服を脱がせ始めた。戸棚を漁り、非常用の医薬品を探しながら再び灯りを燃やした。静の手付きは荒々しかったが、その指先から老人の命が再び繋がれていった。
静が老人の額を拭きながら低く囁いた。
「生きなければなりません。おじいさんが生きてこそ、真実が明らかになるのですから」
老人が目を閉じたまま小さくうなずくと、静はようやく安堵のため息をついた。
老人の状態は悪化していった。ひどい熱が出ていた。田島は古い電話機をこじ開けながら、簡易通信装置を探し始めた。静は老人の傷口を消毒しながら尋ねた。
「田島さんは、どうしてこんなことを全部知っているんですか? 普通の人じゃないですよね」
田島は電線をつなぎ合わせながら苦笑した。
「昔、国のために働いていたとだけ言っておこう。その時、静さんに傷を直してもらった借りがあるんでな」
突然、老人が目をカッと見開き、静の手首を掴んだ。
「君は…医者なのか? 」
静は首を横に振った。
「看護師でした。病院で不正を告発して、追い出されたんです」
老人は静の手を離さず、震える声で言った。
「ありがとう。本当にありがとう。私のような年寄りのために…」
静はきっぱりと答えた。
「年寄りだなんて軽々しく言わないでください。おじいさんは必ず生きて、真実を明らかにしなければならないんです」
田島が通信機から雑音を聞き取り、喜びの声を上げた。
「静さん、電波を拾ったぞ。昔の仲間に連絡できそうだ」
田島は通信機に向かって低い声で暗号を告げた。しばらくして、相手の声が聞こえてきた。田島が手短に事情を説明し、老人の存在とフィルムのことを伝えた。老人はベッドから起き上がろうとしながら、静に手招きした。
「君、私の服の内ポケットにあるフィルムを…それを取ってくれ」
静がビニールに包まれたマイクロフィルムを取り出すと、老人は説明した。
「金剛グループの全ての不正がここに記録されている。信吾がそれを狙っていたんだ」
その時、廃校の外から車の音が聞こえ始めた。田島が窓から外を覗き、緊張した。
「奴ら、ここまで来たか。裏口から出るぞ」
静が老人を支えて立たせた。
「おじいさん、また動かなければなりません。頑張ってください」
老人は静の肩にもたれかかりながらうなずいた。
「君のような人が私の娘だったら、どれほど良かったか」
静は胸が詰まり、答えを返した。
「今からでも遅くありません。おじいさんが生きていらっしゃる限り、娘ですよ」
三人が裏口から出ると、田島が隠しておいたバイクがあった。
「静さん、君は俺と一緒に町へ行って証拠を渡すんだ。会長はここでしばらく隠れていてください」
静は首を横に振った。
「だめです。おじいさんを一人置いてはいけません」
老人が静の手を握り、切なそうに言った。
「静さん、君が行かなければならない。私は大丈夫だ」
田島は老人を地下室へ案内し、説明した。
「ここで一日だけ隠れていてください。私たちが証拠を渡して戻ってきますから」
静は残りの薬と水を渡し、涙をこらえた。
「おじいさん、薬は必ず飲んで。何があってもここから出ないでくださいね」
老人は静の頭を撫で、微笑んだ。
「心配するな。私がどこへ行くものか。早く行ってきなさい」
田島のバイクに乗り、三人は別れた。町の郊外に入ると、後ろから黒い乗用車が追跡してきた。田島は路地を縫うように走り、見事に追跡を振り切った。法律事務所が入るビルの前に到着し、田島は封筒を静に渡した。
「この中にフィルムが入っている。弁護士に必ず渡してくれ」
静は封筒を受け取り、清掃員のベストを着てビルの中へ入った。エレベーターで二十階に上がり、K&パートナーズ法律事務所の扉をノックした。スーツを着た中年男性が出てきた。
「どなたですか? 」
静は封筒を差し出し、急いで言った。
「金剛グループの藤堂会長のお使いで参りました。非常に急な要件です」
弁護士は疑わしげな顔をした。
「会長ですか?
今、会長は行方不明の状態ですが…」
静はフィルムを取り出して見せた。
「会長は生きていらっしゃいます。息子さんが殺そうとしたのです。このフィルムに証拠が全て入っています」
弁護士はフィルムを受け取り、静を事務所の中へ案内した。静は老人が描いた文字を見せ、筆跡が本物であることを証明した。弁護士は虫メガネで確認し、驚いた。
「これは間違いなく会長の筆跡です。一体どういうことですか? 」
静がこの二日間に起こった出来事を詳しく説明した。フィルムの内容を確認した弁護士は、さらに驚愕した。
「これは藤堂信吾副会長の不正の証拠が全て入っているじゃないですか。これで告発できます」
静は安堵の涙を流した。
「それなら…おじいさんを助けることができるんですね」
弁護士はうなずき、電話を取った。
「今すぐ検察に連絡します。会長はどちらにいらっしゃいますか? 」
金剛グループ本社三十階の役員会議室。藤堂信吾は黒いスーツを着こなし、壇上に立って株主たちを見下ろしていた。
「尊敬する株主の皆様、本日はお集まりいただき誠にありがとうございます。父が突然行方不明になってから四日が経ちました。我々家族は皆、悲しみに沈んでおります」
信吾は涙を拭う素振りをしながら、芝居を始めた。
「父は最近、認知症の症状がひどくなっておりました。ある日突然、衣装一枚だけを残して姿を消したのです」
一人の株主が立ち上がって尋ねた。
「それでは会長は本当に亡くなられたのですか? 」
信吾は頭を下げて答えた。
「警察が捜索を続けておりますが、生存の可能性は低いとのことです」
その時、会議室後方の制御室で田島がコンピューターを操作し始めた。突然、大型スクリーンに山の中の映像が現れた。レインコートの男たちが老人を穴に突き落とす場面が映し出された。
「うわ、あれは何だ?
」
株主たちが悲鳴を上げて席を飛び上がった。信吾は慌てて叫んだ。
「なんだ、何をしている! すぐに消せ! 」
しかし映像は再生され続け、老人がナイフで刺される場面まで映し出された。その瞬間、会議室の正面扉が大きく開き、静が入ってきた。静はフィルムを高く掲げ、大声で叫んだ。
「ここに、藤堂信吾副会長の全ての犯罪の証拠があります! 」
信吾の顔色が真っ青に変わった。
「あの女は誰だ!
どうやってここに入ってきた!? 」
静は壇上に向かって歩きながら、株主たちに告げた。
「藤堂信吾は父親を殺そうとしました! 今スクリーンに映っているのがその証拠です! 」
株主たちがざわめき始め、信吾を疑いの目で見つめた。信吾は警備チームに命じ、焦って叫んだ。
「あの女をすぐに引きずり出せ!
精神異常者だ! 」
その時、会議室の扉が再び開き、車椅子に乗った老人が現れた。田島が車椅子を押し、老人を壇上の前まで案内した。会議室は一瞬にして静まり返った。
「父さん…! 」
信吾が信じられない表情で老人を見つめた。老人は車椅子からゆっくりと立ち上がり、マイクを握った。
「皆さん、私は藤堂豪紀です。私の息子が私を殺そうとしたという事実を、ここで明らかにしたいと思います」
株主たちが一斉に起立し、拍手を送り始めた。信吾が後ずさりして逃げようとしたが、すでに検察の捜査官たちが扉を塞いでいた。
「藤堂信吾さん、殺人未遂の容疑で逮捕します」
捜査官が信吾に手錠をかけながら言った。信吾は暴れながら叫んだ。
「これは捏造だ! あの女が父さんを洗脳したんだ!
」
老人はマイクに向かってきっぱりと言った。
「信吾、お前がしたことは許されることではない。もう法の裁きを受けなさい」
信吾は連行されながらも、恨めしそうな目で老人を見つめた。
「父さん、どうして一度も愛していると言ってくれなかったんですか? 」
老人は息子を見つめ、悲しい表情を浮かべた。
「愛は金で買うものではない。お前がそれを知らなかったから、こうなったのだ」
信吾は最後まで叫びながら会議室から姿を消した。
「これで終わりじゃないぞ! 俺は必ず戻ってくる! 」
会議室が再び静まり返ると、老人は静に言った。
「静さん、本当にありがとう。君がいなければ、私は本当に死んでいた」
静は老人の手の甲に自分の手を重ねて答えた。
「おじいさん、もう終わったんですよね。本当に安全になったんですよね」
老人はうなずき、微笑んだ。
「ああ、もう終わった。我々はもう普通に生きることができる」
田島が近づいてきて、老人に挨拶した。
「会長、これからはお気をつけください。信吾以外にも、会長を狙う人間がいるかもしれません」
老人は田島の手を握り、感謝を伝えた。
「君もありがとう。静さんをよく助けてくれた」
会長室に戻った老人は弁護士を呼び、静の養子縁組の書類を準備するよう指示した。
「これから静さんは私の娘だ。全ての法的手続きを進めてくれ」
静は慌てて老人を止めた。
「じいさん、そんな大事なことを急に決めないでください!
」
老人は静の手を握り、心を込めて言った。
「静さん、私にはもう信吾しかいなかったのに、その子さえも私を裏切った。君が私の本当の家族だ」
静は涙を浮かべながらうなずいた。
「おじいさん、私にも家族がいませんでした。本当に…嬉しいです」
一週間後、老人は会長室でいつも通り業務にあたっていた。静は養子縁組の手続きを終え、秘書室で働きながら新しい生活に慣れていた。
「お父様、本日のスケジュールを確認いたしましょうか? 」
静が書類を持って会長室に入ると、老人は顔を上げて微笑んだ。
「ああ、静、今日は何があるかな? 」
その時、会長室のドアが乱暴に開かれ、五十代半ばの女性が入ってきた。藤堂英子は高価なスーツを着こなし、傲慢な表情で老人を見下ろしていた。
「お兄様、お久しぶりですわね」
老人は表情を硬くした。
「英子か。なぜ来た? 」
英子はソファに座り、冷たく言った。
「信吾が刑務所に入りました。今、私が来ないわけにはいかないでしょう。この会社は私の家のものですもの」
英子は静を上から下まで見渡した。
「この女が、あの有名な坂本静ですのね。お兄様をたらし込んで、養女にまでなったとか」
静は冷静に答えた。
「初めまして。坂本静と申します」
英子は書類の束を取り出し、老人に突きつけた。
「お兄様、これを読んでください。精神鑑定の診断書ですわ」
老人が書類を受け取り、驚いた。
「これは何だ?
私が認知症だと? 」
英子は腕を組み、ほくそ笑んだ。
「山で拉致された後遺症で、深刻な精神的問題が生じたそうですわ。判断能力が低下し、経営を続けることはできないという診断です」
静が書類を奪い取り、怒りをあらわにした。
「これは捏造です! お父様は何ともありません! 」
英子は静を睨みつけた。
「証拠はありますの。これは大学病院の精神科の課長が直接診断したものですわ」
突然、老人が頭を抱え、倒れるようにふらついた。静が驚いて老人を支えた。
「お父様!
どこかが悪いのですか? 」
老人は突然意識を失い、床に倒れ込んだ。静が悲鳴を上げ、老人を揺さぶった。英子は冷静に携帯電話を取り出し、一一九番に通報した。
救急車が到着し、老人は病院へ搬送された。一時間後、医師が出てきて結果を告げた。
「脳圧が急激に上昇しています。しばらくは意識を回復するのは難しいでしょう」
静が医師にすがりつき、泣きじゃくった。
「では…いつ目覚めるのでしょうか? 」
医師は首を横に振った。
「はっきりとは申し上げられません。数日かもしれませんし、数ヶ月かもしれません」
英子は医師に近づき、尋ねた。
「もしかして…この状態でずっといらっしゃる可能性も…」
医師はうなずいた。
「そういうケースも排除はできません」
静は集中治療室の窓越しに、意識不明のままの老人を見つめ、涙を流した。
翌日、英子は裁判所に成年後見人の申し立てを行った。裁判所の職員が説明した。
「患者様が意識不明の状態であれば、成年後見人の指定が可能です。ご家族からの申し立てがございますので」
英子は満足そうにうなずいた。
「では、いつから私が兄の財産を管理できるのですか? 」
職員は書類を整理しながら答えた。
「審査の後、一週間ほどで決定が下されるかと思います」
静は病院で老人を見守り、夜を明かしていた。
「お父様、私の声が聞こえますか?
早く目を覚ましてください…」
田島が病室を訪れ、静を慰めた。
「静さん、あまり心配するな。会長は強い方だ」
静は不安げに言った。
「田島さん、あの英子という人が何か企んでいるようです。お父様の後見人に指定されようとしています」
田島は深刻な表情で答えた。
「それはまずいな。あの女が後見人になったら、会長の財産を好き放題にできる」
二日後、裁判所は英子の後見人申し立てを受理した。英子は記者たちとインタビューを行い、自身の立場を表明した。
「兄の経営権を私が代行することになりました。坂本静という女は、兄が正常でない時に近づいた詐欺師です」
静はテレビのニュースを見て、怒りに震えた。
「詐欺師だなんて…どうしてあんな嘘を…」
田島が静の肩を掴んでなだめた。
「怒るな。俺たちが必ず阻止する」
その夜、病院に怪しい男が現れた。男は介護士の服を着て、老人の病室へ入っていった。静は廊下でその男を目撃し、慎重に病室のドアの隙間から中を覗き見た。男は老人の点滴に怪しい薬物を注入しようとしていた。静は驚いてドアを押し開けて入った。
「何をしているんですか!? 」
男は慌てて注射器を隠した。
「介護士です。薬を投与しているところです」
静は男の手首を掴み、問い詰めた。
「嘘をつかないでください! あなたは介護士じゃないでしょう! 」
男は静を突き飛ばして逃げようとしたが、静が必死に捕まえた。揉み合っているうちに、男が隠していたナイフを取り出した。
「どけ!
さもないと怪我をするぞ! 」
静はナイフを避けようとして脇腹に傷を負い、床に倒れ込んだ。男が再び老人に近づこうとした瞬間、病室のドアが開いた。田島が入ってきて男を制圧し、床に押さえた。
「静さん、大丈夫か!? 」
静は脇腹を押さえながら立ち上がった。
「大丈夫です。お父様はご無事ですよね? 」
田島は男を縛りながら答えた。
「ああ、幸い薬物は入っていない。しばらくした後、田島は携帯電話でこの全ての状況をリアルタイムで撮影し始めた。
「これで英子の正体が明らかになります」
その時、老人の心拍が不安定に揺れ始めた。静は傷の痛みをこらえながら、老人に心臓マッサージを行った。
「お父様!
諦めないでください! 」
田島が警察に通報し、英子の犯行を報告した。静のライブ配信を見た市民たちが病院に押し寄せ始めた。
「藤堂英子は辞任しろ! 坂本静を守れ! 」
市民の叫び声が病院のロビーに響き渡った。静は意識が遠くなる中でも、老人の手を離さなかった。警察が医務室に到着して男を逮捕し、英子も間もなく拘束される予定だった。
静のライブ配信映像はインターネットを通じて全国に拡散した。数百人の市民が病院を埋め尽くし、英子の退場を要求するデモを行った。一方、田島は昔の仲間の助けを借りて、英子と結託した主治医の自宅を突き止めた。
「この野郎、偽の診断書を作ったことは全部お見通しだ」
田島が主治医を壁に押し付けると、主治医は震える声で白状した。
「申し訳ありません…英子様がお金をくださるというので…」
田島は主治医の金庫から、捏造された診断書の原本を発見した。田島は直ちに検察に証拠を提出し、英子を告発した。検察官は証拠を確認し、驚いた。
「これは明白な文書偽造ですね。直ちに逮捕状を請求します」
英子は役員会に出席するため会社へ向かう途中、警察に逮捕された。
「何をするんですか!
私は合法的に後見人になったんですよ! 」
英子は暴れて抗議したが無駄だった。捜査官が手錠をかけながら言った。
「藤堂英子さん、文書偽造及び殺人教唆の容疑で逮捕します」
病院では静が脇腹の傷の治療を受けていた。医師が縫合しながら、静に言った。
「幸い傷は深くありません。数日安静にしていれば大丈夫でしょう」
静は車椅子に乗って老人の病室に戻った。
「お父様、全て解決しました。もう目を覚ましてください」
奇跡的に、老人がゆっくりと目を開け始めた。
「静さん…私はどうしたんだ? 」
静は喜びに満ちて老人の手を握った。
「お父様! 本当に良かったです!
とても心配しました! 」
老人は静の顔を見て微笑んだ。
「ありがとう。本当にありがとう。君がまた私を救ってくれたんだな」
裁判所は英子の後見人としての地位を即時剥奪し、静に臨時後見人の権限を付与した。裁判官は法廷で宣言した。
「藤堂英子の後見人資格を取り消し、坂本静に臨時後見人の権限を付与します」
静は法廷で安堵の涙を流した。老人はリハビリを経て再び歩けるようになった。弁護士が病室を訪れ、法的手続きの完了を知らせた。
「藤堂信吾と藤堂英子の相続権は全て剥奪されました。グループからも永久追放です」
老人はうなずき、満足した。監査チームは英子が横領した裏金を全て検出し、検察に引き渡した。
「会長、英子氏が横領した金額は実に五百億円に上ります」
老人は怒りで机を叩いた。
「五百億だと…あの女がそれほど強欲だったとは」
その後、老人と静は金剛財団を設立し、医療の行き届かない人々を支援する活動を始めた。静が記者会見で発表した。
「これからは、社会から取り残された方々への医療支援を惜しみません」
全ての法的紛争が集結した後、老人と静は最初に会った山奥へ向かい、新しい人生を始める準備を整えた。
一年後、山小屋があった場所には現代的な美しい建物が立っていた。「金剛森の図書館」という看板が掲げられた二階建ての建物は、村人たちの新しい文化の拠点となった。静は作業着を着て畑で薬草を育て、図書館の中では老人が近所の子供たちに本を読み聞かせていた。田島は図書館の警備及び管理室長として働き、平和な日常を送っていた。
ある秋の日、老人が静を庭に呼んだ。
「静さん、こっちへ来て。渡したいものがあるんだ」
静が近づくと、老人は正式な家族関係証明書を差し出した。
「これで法的にも、完全に私の娘になった」
静は書類に書かれた自分の名前を見て、感極まった。
「お父様、本当にありがとうございます」
老人は静を抱きしめた。
「私の方こそありがとう。君が私の人生を変えてくれたんだ」
村人たちは静の勇気を称え、村の入り口に小さな記念碑を建てた。「命を救った義人 坂本静」という文字が刻まれていた。静が出版した『素手で掴んだ奇跡』はベストセラーになり、多くの読者が勇気をもらったと手紙を送った。
図書館の壁には、老人が自ら書いた言葉が飾られていた。
「真の財閥とは、金の量ではなく、そばにいる人の数で決まる」
ある夜、二人は図書館の前のベンチに並んで座り、星を見上げていた。老人は静を見て、心からの言葉を伝えた。
「静さん、君に出会えたことが私の人生で最高の幸運だった」
静は老人の手を握り、うなずいた。
「私もです、お父様。お父様のおかげで、本当の家族が何であるかを知りました」
その夜、窓の外では美しい月が昇っていた。沼で撮った泥の穴の跡には、今では美しい野生の花が咲き誇っていた。かつて死の場所だったその場所は、今や生命と希望の象徴となった。静と老人の物語は、多くの人々に勇気と希望を与える伝説となった。真の家族の意味と、人間の尊厳についての深いメッセージを残して。


