六十歳の誕生日、私は高級料亭の個室で一人きりだった。 スマートフォンには、息子からの冷たいメッセージが表示されている。
「完暦祝いぐらい一人でしろよ。あ子の母ちゃんと用事が入ったからさ。」
目の前が真っ暗になった。 私は三十八年間、家族のために全てを捧げてきたのに。
二十二歳で結婚し、専業主婦として家庭を守り、息子の正斗が生まれてからは、全てを息子に捧げる日々だった。 毎朝五時に起きて弁当を作り、塾の送り迎え、受験のサポート。 大学までの教育費は総額二千万円。 それでも惜しいと思ったことはなかった。
母さん、俺のために本当にありがとう。 幼い頃の正斗は、そう言って母の日には必ず手紙をくれた。 しかし、嫁のあ子が来てから全てが変わった。
「お母さんは専業主婦だったから、社会のことが分からないんですよ。」
初めて言われた時のショックは今でも忘れられない。 それから、私への扱いは日に日に冷たくなっていった。 孫が生まれた時は希望が生まれたと思ったが、あ子は私と孫の接触を極端に制限した。 月に一回三十分だけ。 それもあ子の監視付きで。 一方、あ子の母親は毎日のように家に来て、好きなだけ孫と過ごしていた。
「うちの母は元教師だから教育にいいんです。 お母さんとは違いますから。」
その言葉が、私の心に深い傷を残した。
理不尽な扱いは、誕生日プレゼントの差から始まった。 あ子の母親には十万円のブランドバッグ。 私にはスーパーで買った三千円の花束。
「お母さんは地味な顔好きでしょ? 高いものなんて似合いませんよ。」
あ子はそう言って笑った。 正斗も「母さんは派手なの嫌いだもんな」と同調するだけ。 母の日の扱いも同じだった。 あ子の母親には高級レストランでのディナー。 私には「今年は忙しくて」の一言。
金銭的な要求も始まった。
「お母さん、正斗の父の遺産まだありますよね。 生前贈与してもらえませんか?」
突然の申し出に驚いたが、息子のためならと思い、五百万円を渡した。 さらに毎月十万円の仕送りも始めた。 しかし、後で知ったのは、あ子の母親は一円も援助などしていなかったということ。 私からの仕送りは、全てあ子の実家に流れていたのだ。
孫の接触制限もどんどん厳しくなった。 私が孫に絵本を読んであげようとすると、あ子はすぐに取り上げる。 手作りのおもちゃを作っても「衛生的じゃない」と捨てられた。 クリスマスプレゼントすら禁じられた。 正月の集まりでは、あ子の母親は神座に座らされ、私は真ん中に座らされ、まるで使用人のような扱い。 料理も私だけ違うものが出された。
「お母さんは高級なもの食べ慣れてないでしょうから。」
親戚の前でもこの扱い。 恥ずかしさと悔しさで歯が震えた。
ある日、正斗の部屋で家計簿を見つけてしまった。 そこには衝撃的な内容があった。 あ子の実家への援助が月に十万円、あ子の母親へのお小遣いが月五万円。 家族旅行は年三回。 私からもらった仕送りは、全てあ子の実家に流れていた。
正斗があ子に話しているのも偶然聞いてしまった。
「母さんには内緒だよ。 どうせ理解できないだろうし。」
最近では、私の存在自体を否定する発言も増えた。
「お母さんがいると家の雰囲気が暗くなるんですよね。 正直来てほしくないんです。 孫も懐いてないし。 お母さんの時代遅れの価値観が迷惑なんです。」
病院の付き添いも差別された。 あ子の母親が体調を崩した時は、正斗は仕事を休んで付き添った。 私が高熱を出した時は「タクシーで行けば?」の一言だった。
「あ子の母さんは大事な人だから。 母さんはまあ大丈夫でしょう。」
息子の口から出た言葉に、心臓を掴まれたような痛みを感じた。
法事での扱いもひどかった。 夫の三回忌で私は喪主なのに、あ子は自分の母親を亀座に座らせようとした。 正斗があ子の方を向くので、結局従うしかなかった。
「お母さんはもう家族じゃないんです。 正斗も同じ気持ちです。 分かってください。」
先月、あ子にそう言われた時、正斗は否定もせず、ただ黙って頷いていた。 三十八年間全てを捧げてきた息子が、私を家族ではないと。 その瞬間、私の中で何かが壊れる音がした。 そして今日、完暦という人生の節目の日に、とどめを刺されたのだ。
完暦祝いの前日、私は正斗に電話をかけていた。
「母さん、明日の件なんだけど…」
正斗の声はいつもより歯切れが悪かった。
「実は明日、あ子の母さんの誕生日なんだ。 それで…」
「でも私の完暦祝いは半年前から決めていたじゃない。」
「分かってるよ。 でもあ子が向こうの母さんの方が大事だって言うから。」
電話の向こうであ子の声が聞こえた。 「正斗、はっきり言いなさいよ。 お母さんなんていつでもいいでしょ。」
そして正斗は信じられない言葉を口にした。
「母さん、悪いけど明日は無理だ。 あ子の母さんの七十歳の誕生日の方が重要なんだ。」
「でも完暦は一生に一度よ。」
「七十歳だって大事だろ。 それに完暦なんて六十歳になっただけじゃないか。 大げさなんだよ。」
その後、当日の朝、一縷の望みをかけて連絡したが、帰ってきたのはあの冷たいメッセージだった。
料亭で二時間待った後、私はSNSを開いた。 あ子が投稿した写真。 高級ホテルのレストランで、正斗とあ子、孫たち、そしてあ子の両親が笑顔で写っている。
「大切な家族と母の七十歳をお祝い。 家族みんなが集まれて幸せ。 やっぱり家族が一番。」
コメント欄には正斗が書き込んでいた。
「あ子のお母さん、七十歳おめでとうございます。 これからも家族でお祝いしましょう。」
家族。 その言葉が鋭いナイフのように心に突き刺さった。 写真には、あ子の母親に渡されたプレゼントも映っていた。 高級ブランドの財布、時計、花束。 どれも私が一度ももらったことのないものばかり。 さらにショックだったのは、孫たちがあ子の母親に抱きついている写真。 私には触らせてもくれない孫たちが、満面の笑顔で「おばあちゃん大好き」と書かれたカードを持っている。 私もおばあちゃんなのに。
コメントを読み進めると、あ子の友人とのやり取りがあった。
「正斗君の母親? ああ、あの人は今日じゃないから。 それに家族じゃないし。」
「え、お母さんでしょ?」
「形だけね。 正直いない方が気楽なの。」
正斗もそれに「いいね」を押していた。
料亭の個室でたった一人。 完暦の日に、息子から「家族じゃない」と公言される。 これ以上の屈辱があるだろうか。 これ以上の裏切りがあるだろうか。
料亭からの帰り道、雨が降ってきた。 用意していた着物も髪型も全て台無しになった。 でももうどうでもよかった。 家に着くと、郵便受けに手紙が入っていた。 あ子からだった。
「お母さんへ。 完暦おめでとうございます。 でもこれからは私たちに干渉しないでくださいね。 お互いのために距離を置きましょう。」
最後の一撃だった。 完暦の日に、絶縁状を渡されたのだ。
雨に濡れた着物を脱ぎ捨て、私は書斎に向かった。 亡き夫が残してくれた金庫を開ける。 中には夫が生前整理していた書類の束。 土地の権利書、預金通帳、株券、そして遺言書。
「年子へ。 君が一人になった時のために全て君の名義にしておいた。 息子には十分してやった。 これからは君自身のために使ってほしい。」
夫の手紙を読み返し、涙が溢れた。 夫は分かっていたのかもしれない。 息子がいつか私を裏切ることを。 財産を確認すると、想像以上の額だった。 自宅の土地と建物が評価額三千万円、定期預金二千万円、株式千五百万円、普通預金八百万円。 さらに私個人の貯金も五百万円。 正斗には財産はほとんどないと伝えていたが、本当は全て私が相続していたのだ。
翌日、私は行動を開始した。 まず向かったのは、夫の友人でもある知り合いの弁護士事務所。 私は全てを話した。 息子夫婦からの仕打ち、金銭的搾取、そして完暦の日の裏切り。 弁護士の表情がだんだん厳しくなっていった。
「ひどい話ですね。 それで、年子さんはどうしたいのですか?」
「もう息子に振り回される人生は終わりにしたいんです。 私の残りの人生は、私のために生きたい。」
「分かりました。 まず生前贈与の件ですが、これは贈与契約を解除できる可能性があります。 弁護士の説明によると、贈与には悔恨行為による取り消しがあるとのこと。 息子さんの行為は明らかに悔恨行為に該当します。 贈与の取り消しを求めることができますよ。」
さらに、今後の対策も相談した。 現在の遺言書は全財産を息子に、という内容だった。 書き換えることを勧められた。 次に向かったのは不動産会社。 私は、セキュリティがしっかりした高級マンションを探していた。 駅近の高層マンション、最上階の角部屋。 担当者は「こちらは女性のお一人暮らしの方も多く、セキュリティも万全です」と言った。 私は即決した。
「ここにします。 すぐに契約したいのですが。」
そして、現在の自宅の売却も相談した。 査定額は三千五百万円。 土地の値上がりもあり、予想以上の金額だった。
帰宅後、私は断捨離を始めた。 正斗の子供時代の写真、思い出の品々。 でももう執着はなかった。 これは全て過去のもの。 私には未来がある。
その夜、友人から電話があった。
「年子、完暦おめでとう。 お祝いはどうだった?」
正直に話すと、友人は激怒した。
「信じられない。 そんな息子、縁を切って正解よ。 実はもう準備を始めているの。」
「さすが。 私も応援するわ。 新しい人生の始まりね。」
翌日、銀行へ行き、息子への毎月の仕送りを停止する手続きをした。 全ての準備が整いつつあった。 生前贈与の取り消し、遺言書の書き換え、新居への引っ越し。 三十八年間の人生に区切りをつけ、私は新しい人生への第一歩を踏み出したのだ。
新居に引っ越して一週間後、インターホンが鳴った。 モニターを見ると、正斗とあ子が立っている。
「母さん、いるんでしょ? 開けてよ。」
私は冷静に応答した。
「何の用かしら?」
「何の用って? 母さん、勝手に引っ越すなんてどういうことだよ!」
「勝手に? 私の人生は私のものよ。 それより、どうやってここが分かったの?」
「郵便局で転送先を聞いたんだ。 それより、なんで連絡しないんだよ!」
私は玄関のドアを開けたが、チェーンはかけたままにした。
「連絡? 家族じゃない人に連絡する必要があるの?」
正斗の顔が青ざめた。
「何言ってるんだよ、母さん。」
「あら、忘れたの? あ子さんがはっきり言ったじゃない。 『お母さんは家族じゃない』って。 あなたも頷いていたわよね。」
あ子が慌てて口を挟む。
「お母さん、あれは…言い過ぎでした。 SNSに書いていたことも誤解なの。 『家族じゃない』し『いない方が気楽』なんて…」
二人は言葉を失った。
「それで、今日は何の用?」
正斗が口を開いた。
「実は…金に困ってて。 三百万円貸してほしいんだ。」
「あら、お金? 投資で失敗して、来月までに返さないと大変なことになるんだ。」
私は心の中で笑った。 因果応報とはこのことだ。
「三百万円…大金ね。 でも、外の人にお金を借りるのはおかしいんじゃない?」
「外の人って…母さん。 俺は息子だよ。」
「息子? でも、あなたたちが言ったのよ。 私は家族じゃないって。 外の人だって。」
あ子が必死に取り成す。
「お母さん、お願いします。 本当に困ってるんです。」
「そう。 じゃあ、あ子さんのお母さんに借りればいいじゃない。 大切な家族なんでしょう?」
「母は…お金がなくて。」
「あら、おかしいわね。 毎月五万円のお小遣いを渡していたはずよ。 私からの仕送りを横流ししていたんでしょう? それに、毎月の仕送り十万円はどうしたの? 貯金していればかなりの額になるはずよ。」
「それは生活費で…」
「生活費? あ子さんの実家に月に十万円も援助していたのに?」
完全に言葉を失った二人。 私は続けた。
「ところで、弁護士から連絡は行った? 生前贈与の五百万円、返してもらうわ。 悔恨行為による贈与契約の取り消しよ。」
正斗が声を荒げた。
「そんなの聞いてない! 母さん、ひどいじゃないか!」
「ひどい? 私の完暦の日に二時間も料亭で待たせて、一人で祝えって言ったのは誰? 三十八年間あなたのために全てを捧げてきた母親を、人生の節目の日に裏切ったのは誰?」
私は、事前に用意していた書類を差し出した。 これは内容証明郵便の控え。 生前贈与の返還請求。 それから、これは新しい遺言書の写し。 正斗が震える手で遺言書を読む。
「全財産を…福祉施設に寄付。 そう。 あなたには一円も残さない。」
「母さん、そんな…俺は息子だよ!」
「息子? 完暦祝いにも来ない息子が? 『家族じゃない』って言った息子が?」
あ子が泣き始めた。
「お母さん、謝ります! 本当にごめんなさい!」
「今更謝罪? あなた、私の完暦の日に何て言ったか覚えてる? 『これからは干渉しないで、距離を置きましょう』って。 あれがあなたの本心でしょう。 だから、あなたの希望通りにしているだけよ。」
正斗が土下座をした。
「母さん、頼む! 本当に困ってるんだ! 会社もやめることになるかもしれない!」
「あら、大変ね。 でもそれはあなたの問題。 私には関係ないわ。」
「母さん…」
「それからもう一つ。 この家のセキュリティは万全よ。 勝手に来ても入れないから。 あなたたちは要注意人物として登録済みよ。」
「母さん、本当に見捨てるの?」
私は正斗の目をまっすぐ見つめた。
「見捨てる? 逆よ。 あなたたちが私を見捨てたんじゃない。 完暦の日に。」
そして、最後にこう付け加えた。
「あなたが私に言った言葉、お返しするわ。 『完暦祝いぐらい一人でしろ』… 今度はあなたたちが、その言葉の意味を知る番よ。」
ドアを閉める直前、正斗が叫んだ。
「母さん、こんなの間違ってる!」
「間違い? あなたたちがしてきたことは正しかったの?」
私は静かにドアを閉め、インターホンを切った。 二人の声は聞こえなくなった。
その夜、実家から電話があった。 正斗が親戚中に電話をかけ、私の酷さを訴えていたのだ。 でも私は動じなかった。 親戚には事実を淡々と伝えた。 完暦の日の裏切り、今までの仕打ち、そして家族ではないと言われたこと。 みんな言葉を失い、最後には「年子さんの気持ちも分かる」と理解を示してくれた。
数日後、あ子の母親から電話があった。
「年子さん、うちのあ子がご迷惑を…」
「いいえ、もう関係ありませんから。」
「でも、正斗さんたちが本当に困っているようで…」
「あら、それは大変ですね。 でも、あなたが大切な家族なんでしょう? きっと助けてくださるわよね。 私も余裕がなくて。」
「そうですか…でも、毎月五万円のお小遣いをもらっていたはずでは…?」
電話は気まずく切れた。
一週間後、正斗から手紙が届いた。
「母さん、もう一度だけ会ってください。 本当に反省しています。」
でも私の決意は変わらない。 手紙はそのままゴミ箱へ。
さらに驚いたことに、正斗の会社の上司からも連絡があった。
「お母様、正斗君が最近おかしいんです。 仕事も手につかない様子で。」
「そうですか。 でも私にはもう関係ありません。」
「え、でもお母様でしょう?」
「いいえ、違います。 正斗自身が私を家族ではないと言いました。 ですから、もう関わらないでください。」
上司も絶句していた。 最後の極めつけは、孫たちからの手紙だった。 あ子に書かされたのは明らかだったが、「おばあちゃん、会いたいです」とあった。 でも、今まで合わせてくれなかったのは誰? 私を「古い」と言って触らせてくれなかったのは誰? 私は全ての過去を清算することにした。 家族アルバムも思い出の品も、全て処分した。 新しい人生に、過去は必要ない。
新居での生活が始まって三か月。 私の人生は、想像もしなかったほど輝いていた。 朝は自然に目が覚め、大きな窓から差し込む朝日を浴びながらコーヒーを飲む。 誰に気を使うこともなく、自分のペースで一日が始まる。 マンションで知り合った同年代の友人もできた。 週三回のヨガ、月二回の料理教室、そして新しく始めた絵画教室。 どれも、正斗たちといた頃には考えられなかった自由な時間だ。
ある日、高級レストランで食事をしていると、偶然にもあ子の母親と出会った。 以前の華やかな雰囲気はなく、疲れた表情をしていた。
「なんて、お元気そうで何よりです。」
「そうですか。 あ子も仕事を増やして必死に働いているんです。 でも…借金が…」
「でも、きっと家族で助け合えば大丈夫でしょう。 お互い、自分の人生を大切にしましょうね。」
そう言って、私はその場を後にした。
ある日、弁護士から連絡があった。
「松本さん、生前贈与の返還請求の件ですが、相手方から分割払いの申し出がありました。 月々五万円の十年払いという提案です。」
正斗たちの経済状況が偲ばれた。 でも私は冷静だった。
「法的に問題がなければ、それで結構です。」
新しく始めた社交ダンスでは、素敵なパートナーも見つかった。 七十歳の紳士で、奥様を亡くされて五年になるという。 「松本さんと踊っていると、人生がまだまだ楽しいと思えます」と言ってくれた。 恋愛感情ではないが、異性の友人がいることで日々に張りが出た。
ある日、郵便受けに手紙が入っていた。 正斗からだった。 開封せずに捨てようと思ったが、ふと思い直して開けてみた。
「母さん、本当にごめんなさい。 あの日のこと、一生悔やんでいます。 あ子とも話し合いました。 母さんがいない生活がこんなに虚しいとは思いませんでした。 もう一度だけチャンスをください。」
涙の跡がある手紙。 でも私の心は動かなかった。
夕方、お気に入りのカフェでお茶をしていると、SNSに通知が入った。 あ子の投稿だった。
「人生山あり谷あり。 でも家族で支え合えば乗り越えられる。」
皮肉なものだ。 私を家族から排除した人が、今は家族の大切さを説いている。 でも、もう関係ない。 私には私の人生がある。
絵画教室の発表会当日。 キラびやかなドレスに身を包み、スポットライトを浴びて踊る私。 観客席からは大きな拍手が送られた。 「まるで二十歳に戻ったみたいだ」とパートナーの言葉に、思わず笑みがこぼれた。
発表会の後、打ち上げパーティーで乾杯をしていると、ふと思った。 もしあの完暦の日に息子たちが来ていたら、私は今もあの狭い世界に閉じこもっていただろう。 嫁の顔色を窺い、孫に会えない寂しさに耐え、自分の人生を諦めていたはずだ。 あの裏切りは、私にとって最高の贈り物だったのかもしれない。
夜、自宅のバルコニーから夜景を眺めていると、携帯電話が鳴った。 知らない番号だったが、出てみると孫の声だった。
「おばあちゃん…会いたい。」
一瞬、心が揺れた。 でも、すぐに冷静になった。
「ごめんなさいね。 おばあちゃんは忙しいの。」
電話を切った後、少し寂しさを感じたが、それ以上に今の自由な生活を手放したくない気持ちが強かった。 私は日記にこう書いた。
「私、松本年子は、今日も幸せです。 完暦からが、本当の人生の始まりでした。」
三十八年間の献身の末に受けた裏切りは、確かに辛かった。 でも、それがなければ、私は自分の人生を生きることができなかったでしょう。 正斗、あ子。 ある意味、あなたたちに感謝しています。 私を自由にしてくれて、ありがとう。 親不幸な息子への最大の仕返し。 それは、息子なしでも幸せに生きる姿を見せることだった。 私は今、完全な勝利者として、自由で豊かな人生を謳歌している。 これが、完暦祝いを一人でした女性の、最高の結末だ。



