夫に先立たれ、古い商店街の小さなビルに一人で住む私、斎藤静子。静かな朝の日課は、ベランダの草花に水をやり、一枚一枚葉を拭いてあげること。子供たちは皆独立し、この家に一人残された私にとって、言葉を話さない草花が友であり、子供のような存在だった。
朝の連続ドラマを見ながら、意地悪な嫁が義母の財産を狙うという筋書きに、他人事とは思えず苦笑いをしていた。テレビの中の出来事だと思いたかった。だが、その日の午後、電話のベルがその平穏を打ち破った。画面に表示された名前は、嫁の未来。お盆も正月も、私の誕生日でさえ、用がなければ電話ひとつしてこない嫁からの、突然の電話だった。
出たくない気持ちを抑え、深く息を吸って通話ボタンを押すと、聞こえてきたのは、いつもの無愛想な声とはまるで違う、蜂蜜を塗ったように甘ったるい声だった。
「お義母さん、私です。未来です。おはようございます。最近、お義母さんのことがすごく気になってしまって…。もしよろしければ、今晩、うちで食事でもいかがですか?」
驚いて言葉も出なかった。私を思いやる気持ちがあるなら、先日の母の日に、花の一本も贈ってこなかったことへの説明が先だろう。間違いなく、何か裏がある。だが、電話の最後に聞こえた「徹也さんも喜びます」という言葉に、私は心を揺さぶられた。もう何ヶ月も顔を見ていない、たった一人の息子。彼の平穏を思えば、少しくらいの我慢はしなければならない。そう思った。
「分かったわ。じゃあ夕方に行くわね。」
ふと不吉な予感がしたが、頭を振って息子の顔を楽しみにすることにした。バスに乗り、息子の家の近くの果物屋で、息子が好きなりんごを買った。手ぶらで行くのがどうにも気が引けたからだ。エレベーターで15階へ向かいながら、どうか無事に夜が過ぎますようにと祈った。
玄関のベルを鳴らすと、ドアが勢いよく開き、華やかなワンピース姿の嫁が、さも私の訪問を心待ちにしていたかのような大げさな笑顔で迎え入れた。家の中はモデルルームのように整理され、妙に冷たく感じられた。そこへ、息子の徹也が出てきた。無理に笑ってはいるが、目がまったく笑っていない。疲れ切った表情で、私と目を合わせることも避けているようだった。
「仕事は順調なの?」
「うん。まあ、なんとか。」
会話はそこで途切れ、気まずい沈黙が流れた。
食卓に並んだ料理は、三人で食べるには途方もない量だった。私は介護職を長く務めたが、こんな手の込んだ料理をあの嫁が一人で作ったとは思えなかった。全てが過剰で、不自然だった。未来は、中央に置かれた角煮を私の茶碗に乗せながら、声を張り上げる。
「お義母さん、これを召し上がってみてください。お義母さんのことを思いながら、何時間もじっくり煮込んだんですよ。」
その瞬間、私の全身の神経が逆立つのを感じた。私は生涯、重度のピーナッツアレルギーと共に生きてきた。ほんの少量でも命に関わる。このことを嫁が知らないはずはない。
「とても美味しそうね。もしかして、これにナッツ類は入っているかしら?」
私の質問に、未来はキャッキャと笑い声をあげた。
「もう、お義母さんったら考えすぎですよ。お義母さんの体に悪いものを使うわけないじゃないですか。心配なさらずに、さあ召し上がってみてください。」
隣にいた徹也も、無邪気に私を促す。
「母さん、未来が母さんのために頑張ったんだ。心配しないで食べてみてよ。」
私は完全に追い込まれた。ここで頑なに食べなければ、息子の夫婦関係を壊してしまう。まさか、自分の命で悪ふざけをするわけがない。私は息子を信じることにした。震える手で一切れの角煮を口に運んだ。それが、地獄への扉を開く一歩になるとも知らずに。
柔らかい肉質と甘辛いタレの味が広がったのも束の間、すぐに喉の奥から異変が始まった。最初は軽い痛みだったが、それは瞬く間に喉全体を突き刺す痛みへと変わり、息ができない。鉄の味のする唾液が溢れ、喘ぐように咳き込んだ。私の異変に、徹也が驚いて立ち上がる。
「母さん、どうしたんだ? 喉に詰まらせたのか?」
違う。これは間違いなくあれだ。私の体が、生涯の苦しみが証明している。視界がぼやける中、私は本能的に嫁を見た。その瞬間、見てしまった。慌てたふりをして私に近づくあの娘の顔。そこにあったのは、心配でも驚きでもない。ようやく計画通りに進んでいる。そう語るかのような、冷たい満足感に満ちた笑みだった。あの娘が、本当に私を殺そうとしている。そう確信した。
意識が遠のく中、食卓の隅に置かれた小さなビニール袋が目に入った。商店街に行く時、万が一のためにとポケットに入れておくくせのある、小さな袋。若い頃の貧しかった記憶が、私を生かした。私は最後の力を振り絞り、二人の制止を振り切って、残っていた角煮とタレをその袋に掻き集めた。嫁の驚愕の声が聞こえたが、もう構っている余裕はなかった。証拠を手に、私は玄関へと走った。裸足のまま、非常階段へ。冷たい床が足裏に伝わるが、それどころではない。生きて、病院へ行かなければ。
暗く冷たい階段を転げ落ちながら、最後に見たのは、驚いた顔で私を見つめる隣人の姿と、私が離さなかったビニール袋。そして、意識は完全に闇に沈んだ。
目を覚ますと、白い天井と消毒液の匂いがあった。病院の救急室だった。看護師が言うには、もう少し遅かったら本当に危なかったらしい。転げ落ちた時も、私はそのビニール袋を離さなかった。警察は、事件性を疑い、私の証言を録り、袋の中身を鑑定に出してくれた。そして数日後、担当刑事は申し訳なさそうに言った。
「お嫁さんから、ピーナッツ成分が検出されました。しかし、被疑者は否認しています。昔ながらの商店街で買ったタレに、間違って混ざっていただけだと。」
嘘だ。あの娘は私のアレルギーを誰よりも知っている。だが、意図的に混入させたという直接証拠がなく、立証は難しいと言う。
絶望的な気持ちで病院で過ごす中、見舞いに来た息子と嫁。嫁は涙を流して私を心配するふりをしていた。それを見て、息子は私にこう言った。
「母さん、もうやめてくれ。未来がわざとそんなことをするはずがない。」
私の訴えは、息子にも退けられた。世界が崩れ落ちる音がした。
退院の日、息子夫婦には連絡しなかった。私を裏切った息子と、私を殺そうとした嫁のいる家には帰りたくなかったからだ。代わりに、私は長年の友人、鈴木順子に電話をかけた。彼女だけが私の味方だった。順子はすぐに病院まで来てくれ、私をぎゅっと抱きしめてくれた。
「しず子、大丈夫。私がついているわ。」
順子の家に身を寄せ、私はこれからどうすべきか考えた。順子は言った。
「しず子、大事なのは感情じゃない。証拠よ。警察が探せないなら、私たちで見つければいい。」
私たちの調査が始まった。刑事ドラマのやり方を知っている順子の知恵を借り、まず嫁の金回りを調べた。すると、驚愕の事実が浮かび上がった。嫁は銀行はもちろん、消費者金融や闇金にも手を出し、借金が雪だるま式に膨らんでいた。そして彼女は、私が所有する商店街のビルを狙っていた。そのために、私を殺して保険金を手に入れる計画を立てた。全ては金のためだと確信した。
次に私たちは、嫁がピーナッツを買った場所を探した。彼女が嘘をついた商店街ではなく、わざと遠くの誰も自分を知らない場所へ行ったはずだ。息子の家から遠く離れた商店街を一軒ずつ当たり、ようやく豆専門店で証言を得た。店の主人は言った。
「そういえば、数日前に若い奥さん風の人が来て、ナッツを小麦粉みたいに細かく引いてくれって頼まれたことがあった。変わった人だなって記憶に残ってるんだ。」
防犯カメラの映像は、決定的な証拠になった。事件の二日前、嫁がマスクをして、その店でピーナッツを粉にしてもらう姿が映っていた。
これで終わりにできる。私は順子と二人、警察署へ行く前に、息子と会うことにした。全ての真相を告げるために。浅草の甘味処で待つと、後悔と疲れの色を顔に浮かべた息子が現れた。私は黙って、嫁の借金の記録や闇金の借用書、そして生命保険の契約書をテーブルに並べた。
「これが、あなたの嫁が準備した最後の贈り物よ。」
契約書に私の名前が記されている。私が死んだ場合に保険金を受け取るのは、息子。だが、署名は偽造だった。保険金は一億円。それを見た瞬間、徹也は全てを悟った。彼はその場で小さくなり、声を上げて泣き始めた。
「母さん、俺がバカでした。あんな恐ろしい計画を立てていたとも知らず、俺は…。」
翌朝、私たち三人は証拠を抱えて警察署へ向かった。担当刑事は驚いたが、決め手に欠けると指摘した。
「この証拠でも十分争えますが、裁判で確実な有罪判決を勝ち取るには、本人の自白が一番確実です。一度、罠を仕掛けてみませんか?」
刑事の提案は、息子が嫁を呼び出し、私が認知症の初期症状を見せ始めたと嘘をつき、財産を譲ると餌をまくというものだった。強欲な嫁なら、きっと飛びつくはずだという。私は演技をすることに同意した。
当日、刑事が仕掛けた録音機の存在を知らない嫁は、私がぼんやりとしたふりをしたのを見て、すぐに警戒を解いた。彼女は私の耳元で、勝利宣言をするかのようにささやいた。
「お義母さん。あの時、病院でそのまま静かに目を閉じてくださっていれば、こんな面倒なことにはならなかったのに。ピーナッツで人があんなに簡単に死ぬとは知りませんでしたよ。お義母さんのアレルギーは、いい薬になりました。これで夫と私は、借金を返して楽になれます。」
その言葉全てが、録音されていた。私は彼女に、財産を譲るための書類を差し出させた。彼女が過ぎた欲望を顔に浮かべて署名しようとした、まさにその瞬間だった。
「動くな! 警察だ!」
刑事たちが一斉に踏み込んだ。全ては罠だった。嫁は悲鳴を上げ、その場に崩れ落ちた。私は刑事の肩越しに、ゆっくりと立ち上がり、連行されていく嫁を見つめた。
「自分の罪は自分が一番分かっているでしょう。さあ、償う時よ。」
こうして、嫁は殺人未遂と詐欺未遂の容疑で逮捕された。
裁判では、私たちが集めた証拠が次々と明らかにされた。多量のピーナッツ成分が検出された食べ物、莫大な借金の記録、偽造された生命保険契約書、そして防犯カメラの映像。法廷で自分の声が流された時、嫁は何も言えなかった。判決は、懲役十二年。私は、その言葉を聞いた時、安堵と共に言葉にできない疲労感が全身を襲った。ようやく、長く長い戦いが終わったのだ。
息子は離婚し、毎週末のように私の家に来ては、黙って私の隣に座るようになった。無骨で不器用な息子だけど、私は彼の手作りの味噌汁が何よりのご馳走だと感じられるようになっていた。私たちは、少しずつ、崩れてしまった母子の関係を再び築いていた。私はこの全ての不幸の種となった、商店街のビルを売却することにした。金欲しさに他人を害するような者を生む、呪いの財産に別れを告げたかった。ビルの売却金で、小さな日当たりの良いアパートに引っ越し、ベランダで草花を育てる、穏やかな日々が始まった。そして、残った大きな金は、家庭内で苦しむ女性を支援する団体に、匿名で全額寄付した。このお金で、少しでも誰かの力になれるのなら。「あなたは一人じゃない」という温かい手になれるのなら、それはあの嫁に殺されかけた私の人生が、誰かの役に立ったことになると思った。
そんな平和な日々を過ごしていたある日のことだ。郵便受けに、見慣れない名前の差出人が書かれた、安っぽい茶色の封筒が届いた。差出人の欄には「刑務所」の文字。血の気が引く思いがした。中から出てきたのは、震える手でびっしりと書かれた便箋二枚。そこには、反省の言葉の代わりに、私への怒りと、息子への侮辱、そして呪いの言葉が綴られていた。「あなたさえいなければ…。あなたの息子は無能で…。首を洗って待っていなさい。」全ての責任をなすりつけ、私と息子の不幸を願う、一方的な文章。しかし、私はもう弱い老婆ではなかった。私は、便箋を丁寧に折りたたみ、引き出しの奥深くにしまい込んだ。それから数日後、今日は、息子が持ってきてくれた大福を食べている。私たちは、ベランダの庭に並んで座り、夕暮れの風に吹かれながら、他愛のない話をしている。私はふと、あの日のことを思い出す。裸足で冷たい廊下を駆け抜けた、あの夜のことを。あの日、あの瞬間、私は私の人生を諦めなかった。今、こうして大切な人と共に居られること、それが何よりも尊い。私の人生は、これからも、続いていく。



