初めてその親子を見たのは、近くのスーパーだった。母親は一瞬で目を奪われるほど綺麗な人で、肩には色褪せたカーディガンを羽織っていた。整った顔立ちで作る笑顔は綺麗だけど、どこか寂しそうな目をしていた。隣には小学校低学年くらいの男の子。場所は、近所で「ボロアパート」と呼ばれている、外壁にひびが入り、屋根の一部はブルーシートで覆われた建物の前だった。あんなところに住むなんて、よほど訳ありなんだろうな。そう思った。
あの親子と接点を持ったのは、スーパーのレジで息子が落とした牛乳を拾ったのがきっかけだった。
「あの、落としましたよ。」
「あ、すみません。ありがとうございます。」
丁寧に頭を下げてお礼を言う母親。俺が「このスーパーの近所に住んでいて、いつもここに来るもので」と言うと、彼女は「実は私たち、つい先日この町に引っ越してきたばかりなんです。あそこの、やばそうな…」と、あのボロアパートのことを恥ずかしそうに言った。
「あ、そうなんですか。大変ですね。」
そうとしか言えなかった俺に、息子がニコッと笑いかけた。
「ママの作るカレー、うまいんだよ。」
なぜだか分からないけど、その言葉がずっと心に残った。
数日後、スーパーでまた親子に会った。母親はどこか疲れた表情をしていた。あのボロアパートに住んでいるくらいだから、金銭的に余裕がないのだろう。子育てと仕事に追われて、ろくに休む暇もないのかもしれない。なんだか気の毒になって、手助けしてあげたくなった。でも、まだ二回しか会ったことがない男に手助けされても困るよな、と思い直した。
またある日、スーパーで息子がお菓子を片手に無邪気な笑顔で声をかけてきた。
「あ、おじさん、こんにちは!」
「いやあ、こんにちは。今日はお菓子を買ってもらうのかい?」
「うん。明日、遠足なんだ。」
その言葉を聞いて、俺は息子が持っているお菓子を見て固まってしまった。全て駄菓子だったからだ。10円で買えるようなお菓子をいくつも持っていて、合計でも100円にも満たないくらいの数だ。今時の小学生で、遠足に駄菓子しか持っていかない子がいるだろうか。きっと息子は、自分の家の経済事情が分かっていて、少しでも母親の負担にならないように駄菓子を選んだのだろう。そう感じた。
「おじさん?」
俺は息子の声に反応した。
「ああ、ごめん、ごめん。美味しそうだなと思って見てたんだよ。」
「だったらおじさんも買えばいいじゃん。」
「そうだよね。でもおじさん、あまりお菓子を買わないから、どれが美味しいか分からないんだ。」
「え、そうなの?お菓子、美味しいよ。」
「じゃあ良かったら、俺に美味しいお菓子を教えてくれないかな?」
「うん、いいよ!」
「ありがとう。じゃあ、教えてくれるお礼に、おじさんも君にお菓子を買ってあげるよ。明日は遠足なんだろ?好きなだけ買っていいよ。」
俺の言葉に、母親は慌てて止めに入った。
「あ、あの、それは申し訳ないですから、いいんですよ。」
「俺、結婚もしてなくて子供もいないから、子供にしてあげられることって、こんなことしか思いつかなくて。遠足ですよね。その遠足の荷物に、ちょっと足せるくらいのものを買ってあげたいだけです。俺の単なる自己満足ですから、気にしないでください。」
そう言うと、俺は息子と一緒にお菓子コーナーへと足を運んだ。楽しく会話しながらお菓子を選んでレジへ進むと、買い物を終えた母親がやってきて、何度も何度も頭を下げた。
それから何度かスーパーで親子に会い、その度に息子に手頃な値段のお菓子を買ってあげた。息子はお菓子をもらうたびに、本当に嬉しそうな顔をする。その笑顔を見るだけで、なんだか心が癒されるような気がした。
何度かそれが続き、親子との距離も縮まってきた頃だった。他愛のない会話をしながら、俺はふと思い浮かんだことを聞いてみた。
「そういえば、あのアパートって、お風呂がないって聞いたことはあるんですけど…」
俺の言葉に、母親は少し困ったような微笑みを浮かべた。
「そうなんです。それなのに、一階の銭湯がしばらく休みになってしまって…」
「今日から工事が始まったのか。それじゃあ、お風呂をどうするんですか?」
「少し遠くなっちゃいますけど、駅の向こうの銭湯に行こうと思ってます。車は持っていないので、歩きで。多分、片道40分くらいかかると思います。」
「え、そんなにかかるんですか?そんなに遠い銭湯じゃ、大変すぎますよ。まだ小学校低学年の息子さんが可哀想だ。」
深く考えずに、俺は口にしていた。
「それなら、うちの風呂を使いませんか?このスーパーから歩いて5分ほどのところに住んでるんですよ。多分、あのアパートからだと3分くらいだから、駅向こうの銭湯に40分かけるより、息子さんの負担になりませんよ。」
母親は少し悩んだ顔を見せたが、すぐに決断したようだった。
「そうですよね。子供には遠すぎますよね。お言葉に甘えてもいいですか?」
「もちろんですよ。」
買い物を済ませ、スーパーを出た後、俺たちは改めて自己紹介をした。母親は千尋さん、30歳。息子はケント君、小学2年生。そのまま一旦アパートに着替えを取りに行き、その後俺のアパートへ移動した。初めて二人が来た時は、何とも言えない緊張感だった。
「すみません。何度も何度も…」
千尋さんとケント君は頭を下げてくる。俺はただ「そんなに気にしないでください」と言うだけだった。湯上がりの二人はなんだか嬉しそうで、俺もつい笑顔になった。
それから千尋さん親子は、週に何度か風呂を借りに来るようになった。最初は玄関で挨拶をして、お風呂に入るとすぐに帰るという感じだったけど、その間にも少しずつ会話は増えていった。
「おじさんの家、あったかいね。」
「そうか。まあ、風呂場は広くないけどな。」
「でも、うちよりずっと綺麗だよ。ママも嬉しそうなんだ。」
ケント君の言葉になんだか胸が温かくなる。そのうち、風呂上がりに麦茶を出すようになり、ケント君とゲームをしたり、三人で一緒に簡単な夕飯を囲んだりするようになった。
「今日もありがとうございます。これ、うちのあまり物なんですが。」
そう言って千尋さんは手作りの弁当を差し出してくれた。卵焼きにちくわの天ぷら。質素ではあるけれど、どこか懐かしい味だった。
「うまい。本当に美味しいです。」
「よかった。ケント以外の人に食べてもらうの、久しぶりです。」
その言葉の奥に、少しだけ影が見えた気がした。
そうして2週間も経つ頃には、ケント君は一人で風呂を借りに来るようになっていた。すっかり俺の家に馴染んで、まるで親戚の子のようだ。そして千尋さんは、仕事を終え家事を片付け、夜遅くに一人でお風呂に入りに来るようになっていた。
「遅くなってすみません。今日はバイトが長引いちゃって。」
「大丈夫ですよ。今日も大変だったようですね。お疲れ様です。湯船にゆっくり使って、疲れを取ってくださいね。」
「ありがとうございます。」
千尋さんは笑顔で返事をすると、そのまま風呂へと向かった。この時にはもう、俺は千尋さんへの恋心を抱いていたのかもしれない。彼女の笑顔を見るだけで、俺まで安心できたんだ。
「今日もありがとうございました。よしきさんのおかげで、疲れがすっきり取れます。だから家に帰るとそのまま爆睡しちゃって、睡眠の質まで良くなったんですよ。本当にありがとうございます。」
「そうですか。お役に立ててるようで良かったです。」
「よしきさん、この恩は絶対に忘れませんからね。それじゃこれで失礼します。」
そう言って千尋さんは帰って行った。彼女が帰ってから風呂の掃除をすると、浴室の中に千尋さんが使ったシャンプーの香りが残っていて、それが俺を余計にドキドキさせる。
千尋さんが一人で来るようになって1週間が過ぎた頃には、俺の心は好きという気持ちで溢れそうになっていた。ただ、気持ちを伝えたらもううちに来なくなるんじゃないかと考えてしまい、なかなか伝えられずにいた。そんなある日のことだ。
「いつもすみません。今夜もお風呂お借りします。」
「はい、どうぞ。」
「あの、よしきさん。私たちがお風呂を借りるようになって、結構経ちますよね。それで、よしきさんに何かお礼をしたいと思いまして…何か私にできること、ありませんか?」
千尋さんにそんなことを言われた俺は、無意識に口が滑ってしまった。
「じゃあ、今日から一緒に風呂入る?」
この頃には俺たちは冗談を言い合うくらいには仲良くなっていたけど、さすがにぶっ飛びすぎていたと思う。焦った俺は慌てて冗談であることを言おうとした。でも、俺が言い終わる前に千尋さんが答えてきた。
「分かりました。一緒に入りましょう。私、背中を流しますよ。」
「は?ああ、いや、冗談ですよ。さすがに一緒に入ったら、俺どうなるか分からないし。」
「大丈夫です。それも覚悟しての返事ですから。」
「え、はあ…それって、そういうことになってもいいってことですか?」
「はい。よしきさんとなら。」
そう言って千尋さんは顔を真っ赤にしている。そんな表情を見せられては、俺も止まれるわけがない。理性が飛びそうになるのを感じながら、溢れる思いを伝えることも忘れ、俺は無言で千尋さんと風呂場へ行き、抱きしめた。千尋さんも久しぶりだったようで、初めてすぐに絶頂に達する。行為が終わった後、俺たちは湯船に浸かりながら少しだけ会話をした。
「こんな風に触れられたの、すごく久しぶり。」
「俺も…こんなに大事にしたいと思ったのは、初めてかもしれない。」
湯船の中で交わす視線。肌だけじゃなく、心が近づいた瞬間だった。
それからは、千尋さんがお風呂を借りに来るたびに、自然と体を重ねるようになった。それはどこか懐かしくて、切実で、癒しに満ちたものだった。体を重ねるようになってから、俺と千尋さんはより一層距離が近づいた気がする。それは俺だけじゃなく、千尋さんも同じように感じてくれていたようで、彼女はぽつりぽつりと語り始めた。
「前の夫には、かなりひどいことをされていたんです。怒鳴られたり、無視されたり…“働け”って言われたから仕事を始めると、今度は“家事がおろそかになってる”って責められて。私は若い頃に両親を亡くしているから、頼れるところがなかったんです。だからなんとか夫に離婚してくれるよう説得しました。」
彼女の目にはうっすらと涙が滲んでいた。
「やっとの思いで離婚して、ケントと二人で暮らすようになりました。でも夫は、どこで知ったのか私たちが住んでるアパートを突き止めて、押しかけてきたんです。もちろん対応はしませんでしたが…場所を知られていると思うと怖くて。だから逃げるようにして、あのボロアパートに来たんです。」
「警察には相談したんですか?」
「しました。最初は警察もパトロールを強化してくれましたが、ほこりが覚めるとそれもやめてしまって…最終的には“離婚してるなんて嘘なんでしょ”って。だからこれまでは、どこに行っても夫に居場所が知られているように思えて怖くて、毎日怯えて過ごしてました。でも…よしきさんに出会えて、少しずつ呼吸ができるようになったんです。だから本当に、よしきさんには感謝しているんです。ありがとう。」
俺は彼女の手をそっと握った。
「もう一人で抱えなくていいです。俺がいますから。」
俺がそう言うと、千尋さんは小さな声で「ありがとう」と言ってくれた。
この時がチャンスだったんだよな。後になって、告白をするタイミングを逃したと思った。でも、千尋さんの過去を聞いた後で告白するのも、何か違うっていうのもあった。だから告白は改めて別の日にしようと思った。だけど、告白しようと思えば思うほど、俺は臆病になっていった。千尋さんのことを誰よりも近くにいて支えたいし助けたい。そう思ってはいるけど、彼女は自分の環境が整えば、俺のことなんて必要じゃなくなるんじゃないか。そう思ってしまって、告白していいのか迷ってしまい、伝えられずにいた。
でも、そんな俺たちの関係は、突然進展することになった。ある日、三人で夕飯を一緒に食べていた時のことだ。ごちそうさまをして食器をキッチンに持っていった後、ケント君が不意にこう言ってきた。
「ねえ、おじさん、僕のパパになってよ。」
予想もしていない言葉に、思わず箸を持つ手が止まる。隣を見ると、千尋さんも固まっていた。
「どういうこと?」
戸惑いながらも俺がケント君に聞き返すと、少し照れたようにケント君は笑った。
「だってさ、おじさん、ママのこといっぱい助けてくれるじゃん。それに僕ともいっぱい遊んでくれるしさ。そういうのって、家族みたいだなって思ったんだ。」
その言葉に、千尋さんは顔を伏せ、ぽろりと涙をこぼした。
「ママ、ごめんね。僕、変なこと言っちゃった?」
「違うのよ。ありがとう。けんと、ママすごく嬉しかったの。」
その瞬間、俺の胸の奥の何かが静かに弾けるのを感じた。愛しい気持ち。そして千尋さんたちを守りたいという思い。これから一緒に歩んでいきたいという確かな思いが、腹の底から湧き上がってくる。俺は笑ってケント君の頭をぐしゃぐしゃに撫でた。
「そうだな。俺はケント君のパパになりたいと思ってるけど…千尋さんの気持ちを無視することはできないよ。」
隣で涙を拭いながら笑顔を見せる千尋さんの方に、俺はそっと手を伸ばした。
「千尋さん、俺と家族になってください。ケント君に背中を押されたような形になってしまったけど、俺の思いをこの言葉に込めた。」
すると千尋さんも、言葉にはならないほどの思いを込めるように、力強く頷いてくれた。後に、この時の千尋さんの涙には深いわけがあったようで、
「ケントは父親のことをよく覚えていないんですけど…あんな風に言ったのは初めてだったんです。」
と教えてくれた。その話を聞いて、ケント君が俺を心から受け入れてくれていることが分かる。改めて、千尋さんたちに出会えてよかったと深く思った。
こうして俺は千尋さんと付き合うようになった。すぐに結婚というわけにはいかなかったけど、ある程度の交際期間を経たら籍だけ入れて、本当の家族になろうと思っていた。しかし、世の中ままならないこともあるんだよな。ある日突然、千尋の元夫が現れたのだ。その夜はたまたま俺のアパートではなく、千尋のアパートで夕食を囲んでいた。いつもより仕事が早く終わった俺が、千尋の手料理が食べたいとお願いしたのだ。テレビには子供向けの番組が流れていて、そのテーマ曲に合わせてケント君がご機嫌な様子で踊っていた。その時、ピンポンとインターホンが鳴ったのだ。
「誰か来たの?」
何の気なしに千尋に問いかけると、彼女の顔色が一気に青ざめていった。
「ちょっと見てくる。」
玄関ドアの覗き穴を見た瞬間、彼女は硬直したように動かなくなる。
「どうした?」
「あの人…」
「あの人って、もしかして…?」
「うん、元夫の…」
か細い声で千尋は言う。俺は彼女と玄関ドアの間に頭を突っ込み、覗き穴から外の様子を見た。するとそこには、30代後半くらいのスーツ姿の男性が立っていた。鋭い目つきに、どこか不遜そうな口元。スーツ姿はそれなりにきちんとしているのに、なぜか嫌な感じがする。
「元夫がまた探し当てたってことだよね。」
千尋は静かに頷く。
「そうみたい。でもケントには絶対に合わせたくない。」
その時、元夫はしびれを切らしたのか、ドアの取っ手をガチャガチャと動かす。鍵は閉めてあるから、無理やり中に入られることはない。そう思った次の瞬間、
「おい、千尋いるんだろ?話があるんだ。お前たちがここにいるのは分かってるんだぞ。住民票を使ってお前たちの居場所は調べたんだからな。」
玄関ドアの向こうから男の怒鳴り声が響く。その声にケント君は体を振るわせ、
「ママ、誰?」
と言って不安そうにこちらを見つめる。千尋が慌てて抱きしめた。
「ごめんね。大丈夫よ。ちょっとだけ静かにしてようね。」
俺は千尋とケント君に目配せをして、玄関から離れるよう促す。二人が離れたのを確認し、俺はドア越しに声をかけた。
「どちら様ですか?」
「ああ、千尋の夫だよ。お前こそ誰なんだよ。」
「夫だって?元夫の間違いだろ。もうとっくに千尋さんとは離婚が成立しているはずですよね。話があるというのなら、まずは連絡をするべきじゃないですか。」
「うるせえ。お前、何様なんだよ。千尋いるんだろ。ケントに合わせろ。」
ドアを叩く音にケント君は再び肩を振るわせ、千尋はその小さな体を抱きしめながら、自分も震えていた。
「帰ってください。私はもうあなたに会いたくありません。」
千尋は勇気を振り絞り、震える声で言う。だが、ここまで執拗に追いかけてくる男が簡単に引き下がるはずもない。
「俺には会う権利がある。親権はそっちが持ってるけどな。でも血の繋がった息子に、父親が会いたがるのは当然のことだろ。ケントは俺のものでもあるんだからな。」
そう声を張り上げて男は言うが、その口調からは父親というより所有者のような雰囲気が滲み出ていた。
「ケントはあなたのことを覚えていません。あの子は、あなたの存在がなくてもちゃんと生きてきてるんです。」
「御託はいいから、ケントを出せ!」
「警察呼びますよ。」
俺が静かに告げると、ドア越しの空気がピリと凍った。
「…まあいいだろう。だがな、これで終わりじゃないからな。次に会うのは裁判所だ。」
男は捨て台詞のような言葉を残し、足音を立てて去っていく。男の足音が聞こえなくなったところで部屋の方へ移動し、窓を開けて男が去っていくのを確認する。ようやく男の姿が見えなくなったところで千尋に声をかけた。
「千尋、行ったよ。」
「うん…ごめん。ごめんね。」
そう言いながら千尋は震えている。そんな千尋を、ケント君は心配そうに見上げた。
「ママ、大丈夫?」
「大丈夫よ。心配かけてごめんね。」
その日から、念のため千尋さんたちは俺の家で過ごすようにさせた。千尋さんは俺に迷惑をかけるのは嫌だと言って最初は断ったが、「何かあってからじゃ遅いから」と説得し、何とか承諾を得たのだ。
だが、その日以降、元夫が千尋さんたちのところに姿を表すことはなかった。その代わり、通知書や呼び出し状、弁護士との面談と、慌ただしい日々が続いた。というのも、元夫が宣言通り家庭裁判所に親権回復を求めて申し立てをしてきたからだ。
「収入も安定したし、今の暮らしぶりなら親として問題ないはずだ。連れ戻す正当な理由はある。」
そう主張してきたそうだ。まるで子供を物みたいに、と千尋さんはそうつぶやきながら、何度も何度も手を握ってきた。泣きはしなかったが、唇をぎゅっと噛みこらえていたのだ。ケント君は何も言わなかったが、不安だったのだろう。夜中に何度も目を覚ましては、「ママ」とすがりつくように言っていた。俺はそんなケント君の声を聞くたびに、元夫の身勝手さに怒りが増していく。
そして迎えた調停の日。俺は少し下がって千尋さんの隣に座る。正面に座る元夫は、淡々とした口調でいかにも真面目な父親を演じていた。
「私は子供と向き合いたいと思っているだけです。あんなボロボロなアパートで母親と暮らして、子供の将来を考えると不安になります。」
その言葉に千尋さんは小さく肩を揺らす。そしてその瞬間、俺の手を彼女がぐっと握ってきた。
「それについては、ちゃんと理由があります。私は婚姻関係中に、あなたからひどい扱いをされていました。それから逃げるために離婚し、追いかけてくるあなたから逃げるために、あのアパートを選んでいたんです。」
彼女はすっと背筋を伸ばす。
「その中で、よしきさんと出会いました。ケントは…あの子は、よしきさんのそばでよく笑うようになったんです。不安になって夜泣くこともなくなって、ゲームの話をするようになって…普通の子に戻っていきました。」
母は強し、ってこういうことを言うんだろうな。それまで怯えた目をしてたのに、今は凛として、息子のために戦っている。
「私たちはもうあの頃のような家族には戻れませんし、戻るつもりはありません。私とケントの幸せは、今ここにあるんです。」
千尋さんの言葉に、調停員がゆっくりと頷く。その瞬間、その場の空気が変わったのだ。
家庭裁判所からの帰り道、千尋さんは俺に寄り添いながら呟いた。
「私、よしきさんがいなかったら、また逃げ出していたかもしれない。あの人が怖くて、裁判所にも来られなかったと思うの。でも…守ってくれる人がいるって、こんなにも心強いんだね。」
その時、初めて俺は確信したんだ。この人たちを、何があっても守っていきたいと。
あの調停の日から半年。その日は俺と千尋さん、それにケント君が新しく生活する新居への引っ越し日だ。あのボロアパートの玄関先で、三人で記念写真を撮った。その後、俺たちは新居へと移動する。小さなリュックを背負ったケント君が新しい部屋のドアを開けた。
「わあ、すごく広い!」
「そうか。」
「うん!それに、みんなの家って感じがする!」
ケント君の言葉に、千尋さんはくすっと笑った。あれ以来、元夫は俺たちに関わってこようとしなくなった。親権回復を簡単に考えていたのだろう。過去の自分の行いが明るみに出ていく中で、調停員に諭され、諦めたようだ。俺たちは一緒に暮らすことを選び、そして籍を入れた。最初の夜、三人で囲んだ食卓は夢のようだった。
「パパ、お醤油取って。」
「パパって呼ぶの、早すぎだろ。」
「そうかな?じゃあ、お兄さんって呼ぶ方がいい?」
「…パパでいいです。」
照れながら千尋さんの方を見ると、彼女は優しく微笑んでいた。
夜になり、眠りに着いたケント君の寝息を聞きながら、二人でベランダに出る。
「ありがとう。」
「何が?」
「全部。逃げないでくれたこと。待っていてくれたこと。私とケントを、家族にしてくれたこと。」
「俺の方こそ、信じてくれてありがとう。」
俺たちの新しい門出を祝うように、星がまたたいている。
「ねえ。」
「ん?」
「もう一人欲しいなって思ってるの。ケントに、弟か妹を。」
そう言ってきた千尋さんの声は、春のそよ風のようだった。
「俺も、同じこと考えてた。」
そっと触れた彼女の手から感じたぬくもり。それは、以前からずっと描いていた未来のような気がした。
その2年後、娘が誕生した。ケント君は年の離れた妹を、とても可愛がってくれている。血が繋がってない父親に、半分しか血が繋がっていない妹。旗から見たら複雑に見えるかもしれない。それに、母親のたくましさに比べたら、俺なんかまだまだひよっこの父親だ。頼りないところや至らないところもあるだろう。けど、俺は今、心からのお兄ちゃんに心からのパパになるべく、ケント君と競争しながら楽しくやっている。こんな素敵な家族を守っていくのが、俺の生きがいだ。
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