「うちの飯を食っただろう、大御前様に!」―…

「うちの飯を食っただろう、大御前様に!」―...

吹雪の夜、牢の中で目を覚ました男の耳に、炎の記憶の奥から声が響いてきた。
「逃げよう。何としても生き延びよう。」

十歳の頃から自分が何者かも分からぬまま生きてきた岩太郎は、今まさに自分でも知らなかった過去と向き合おうとしていた。されど、そこに至るまでには長く曲がりくねった道のりがあった。時を遡り、この男がまだ何も知らぬ一人の下人として、ただ黙々と働いていた頃から話を始めよう。

それは、ある年の冬のこと。雪の国、西風村という里に、岩太郎という男が暮らしていた。山合の小さな里で、田畑は決して広くはなかったが、土地の者同士の結びつきは深かった。その中でも、倉田十門の屋敷は一際大きく、田畑は近隣の村にまで及んでいた。

岩太郎は尋常ならざる怪力の持ち主だった。牛の代わりに畑を耕し、屈強な男が三人がかりでも持ち上げられぬ米俵を、一人で軽々と担いだという。それほどの力を持ちながら、岩太郎はこの村一番の豪農、倉田十門の家で、ただの下男として働いていた。村の前で、他の下男たちが四人がかりで運ぶ米俵を、岩太郎一人で担ぎ上げて歩いていく姿に、村人たちは「あの男、一人で三人前の仕事をする。飯の分は働くから助かる」と感心した。だが岩太郎は、その言葉に込められた意味をよく分かっていた。自分は人としてではなく、荷を運ぶ牛と同じに見られているのだと。

「お主は、それほどの力を持ちながら、なぜ主に賃上げを願い出ぬのだ」

共に働く下男が、鍬を置いて尋ねたことがあった。
「下手に口を挟んで睨まれれば、今与えられている人間の部屋さえ失いかねぬ」
「それでも、悔しくはないのか」
「悔しくとも仕方あるまい。腹をすかせず、横になる場所があるだけでも、ありがたいことだ」

岩太郎は苦く笑って返すのが常だった。親もなく、祭祀もなく、初体を持つことなど初めから望みもしなかった。腹をすかせず、体を横たえる場所があるだけで御の字だと、自分に言い聞かせながら生きてきた歳月だった。

夜明け前から日暮れまで、彼の一日は判で押したように同じだった。庭鶏が鳴けば起き出して、庭を掃き、牛の世話をし、薪を割り、田畑へ出て一日中腰を曲げて働いた。せっかくの器量を持て余して、なぜ未だに所帯を持たぬのかと誰かが尋ねれば、岩太郎はいつも同じ返事をした。
「この身の上で所帯など。飯にありつけるだけでも御の字でございます」

そう答えては、その場からそっと身を引いた。村人たちは、岩太郎を気の毒な奴だと笑い合ったが、岩太郎は笑う以外にできることが何もなかった。

冬もいよいよ深まったある日、井戸端で体を洗っていた岩太郎の左肩に、手のひらほどの火傷の跡があることに、村でも指折りの年寄りが気づいた。若い頃からこの土地の事を知り尽くしている古老は、その跡をしばらく眺めてから、妙に見覚えがあるような、しかしどうにも思い出せぬという顔をして、首をひねりながら立ち去っていった。その胸の奥には、拭いきれぬ小さな引っかかりが残っていた。

岩太郎はそれに気づかなかった。十歳の頃、燃える家の中で気を失ったその記憶だけがおぼろに残るのみ。誰かが自分を強く抱きしめていたような、燃え盛る熱の中で、切迫した声を聞いたような気もするが、親の顔も、あの日何があったのかも、全ては霧の向こうだった。気がついた時には、すでに倉田の屋敷の庭にいた。それから今日まで、この家の下男として生きてきた。

その朝、庭の片隅では、年配の小作人が膝をついていた。
「今年は不作にございます。年貢を半分なりとも猶予いただきたく」

老人が願い出ると、
「半分を猶予せよとは、わしに損をせよというのか」

十門の声が庭に響いた。
「すぐに俵を開けて収めねば、あの田は来年から人手に渡ると思え」と、十門は吐き捨てた。
「この地獄の民の命に代えましても、何卒」

老人がすがりつくと、
「その命で年貢が出るというなら、いくらでも待ってやろうが」

十門は突っぱねた。傍らで見ていた万頭の次男が、おろおろしながら口を挟もうとしたが、十門に「情に流されて俵を空にすれば、この家は何を食って暮らすのか」と睨みつけられた。岩太郎は、庭の片隅で薪を終えながら、その光景をじっと見ていた。拳が無意識に握られたが、口を出せる身の上ではない。

その時、客の間からふと十門の目が岩太郎の方へ流れた。ちょうど、岩太郎の左肩の火傷の跡が、着物の合わせ目から覗いていたのだ。十門の目が、その跡にしばし、いつもより長く留まった。何を見ておいでかと次男が尋ねると、十門ははっとしたように目をそらし、
「何でもない。それより、薪の始末を急げ」

と、早口に言い捨てて、逃げるように客間の奥へと引っ込んでいった。次男はその様子をいぶかしく思ったが、それ以上は気に留めなかった。

そんな折、見知らぬ旅の僧が一人、西風村へ流れ着いた。頭を坊主にし、背中に笈摺を背負った、老いた僧だった。足を引きずり、頬が落ちくぼんでいた。
「この不作の折に、恵む飯などあろうものか。よそへ行け」

あちこちで無常に門を閉ざされた僧は、疲れた足を引きずり、村外れの岩太郎の小屋の方へと向かった。
「この一日、何も口にしておりませぬ。飯を一膳分けてはいただけまいか」

僧は、門前で深く頭を下げた。岩太郎はしばらく、己の夕餉に目を落とした。粗飯一碗と味噌と匙、それがその日の彼の全てだった。それでも、岩太郎はためらうことなく、椀を僧の前に差し出した。
「召し上がれ。拙者はまた稼げば良いが、坊主は今、腹を満たすことが先決だ」

僧は驚いた顔で、無心に食べ始めた。
「お主の名は、何と申す」
「岩太郎でございます」
「なるほど。お主は、よく分からぬ男だ。己が困る身で、他人の腹を先に満たすとは」

僧は首を振った。
「たいしたことではございません。飯一膳を分けたところで、何ほどのこともございますまい」

岩太郎が返すと、僧は静かに言った。
「それで施した飯一膳も、天の長面には大きく記されるものよ」

岩太郎は思わず笑ってしまった。
「坊主。そのような長面に、拙者のような者が何になりましょうか」

「この世の道理というものは、目の前に見えぬからと言って、ないわけではないのだ」

僧は静かに言った。しばらくして、僧が不意に尋ねた。
「主のことで、何か覚えていることはあるか」

岩太郎は一瞬言葉を止めた。
「なぜ、そのようなことをお尋ねになります」
「ただ聞いてみただけだ。お主の顔に、影があるのでな」
「覚えていることなどございません。幼い頃に大火があり、気がつけばこの屋敷の庭におりました。それだけでございます」

「そうか」

僧は、それ以上問わずに頷いた。まるで何かを知っている者の眼差しだったが、岩太郎はただ、空腹の名残りに腹をさすっている坊主の姿がおかしいだけだと思っていた。
「坊主は、これからどちらへ向かわれるのですか」
「決まった行き先などない。風の吹くまま、縁のある方へ足を運ぶだけよ」
「それは心細いことでございましょう」
「いや。心細いのは、むしろ行き先は定まっておるのに、そこに己の望むものがないと知っておる者の方であろうよ」

僧は静かにそう言うと、雪道を足を引きずりながら遠ざかっていった。その夜から、天からは雪が降りしきり始めた。天に穴でも開いたかのように、見る見るうちに庭が白く覆われていった。
「こんな雪は初めて見る」
「今夜は、夜を起こすのも容易ではない。下手に出歩けば、凍え死ぬだけだ」

西風村の者たちは、互いに言い交わして家に籠もった。その夜、吹雪の中で道を見失い、友のもととはぐれた一人の女が、風村の外れを彷徨っていた。その衣の質素な身なりに不似合いな指輪が、一つ忍ばせてあった。天からは雪が降りしきり、この雪が岩太郎の生涯を揺るがす出来事を、静かに運んでこようとしていた。

その夜、岩太郎は布団の中で寝返りを打ちながら、昼間の僧の言葉をふと思い出していた。くだらぬ戯れ言だと目を閉じたが、なぜかその言葉が耳の奥に残って離れなかった。その時、戸が静かに叩かれた。驚いて身を起こすと、今度は力なく、しかし切羽詰まったように、戸を叩く音が続いた。

岩太郎が戸を開けると、冷たい風と共に雪が吹き込んできた。戸口には、全身雪まみれの女が立っていた。
「一晩だけ、お世話になれませんでしょうか。お願いでございます」

女の声は、細く震えていた。
「こんな夜更けに、一体何者だ」
「行く当てがないのでございます。どうか、一晩だけ」

言うなり、女はその場に力なく膝を折った。岩太郎は慌てて女を支え、小屋の中へと運び入れた。ほとんど気を失っていた女を、炉の火のある側に横たえると、体は氷のように冷たくなっていた。このままでは大事になると、岩太郎は急いで火鉢に炭を起こし、古い夜着を女の体にかけ、手足を丁寧にさすってやった。

女は低くうめいて目を開き、岩太郎と目が合うなり、驚いて身を縮めた。
「驚かれるな。害するつもりはない」

岩太郎が両手を見せて低く言うと、女はいくらか緊張を解いた。
「ありがとうございます。もう、死ぬものと思っておりました」
「山道で迷われたのか」
「友のもととはぐれて、どれほど彷徨ったか分かりませぬ」
「この辺りの方ではないようだが」
「しばしの間、旅の途中でございました。詳しい事情は、お尋ねくださいますな」

女の眼差しに、何かを隠す気配を感じたが、岩太郎はそれ以上問わなかった。
「この雪では、今から動くのは無理でございましょう。まずは体を温めなさい」

熱い湯を差し出すと、女は両手で湯飲みを包み込み、そっと口をつけた。その指先に、指輪が一つちらりと覗いた。岩太郎はそれを見ても見ぬふりをして、目をそらした。この屋敷の定めでは、見知らぬ者を勝手に招き入れることは固く禁じられていた。露見すれば、己は元より、この女までも痛い目を見ることになる。それでも、岩太郎は言った。
「今夜はここにおいでなさい。夜が明けたら、行き先を決めなされば良い」

女がゆっくり休めるよう、自らは戸口で夜を明かすつもりでいた。
「なぜ、そこまでしてくださるのですか」
「人が死にかけているのに、部屋一つ貸すのが何の大事でございましょう」

女は深く頭を下げた。
「この恩は、決して忘れません」

翌朝、女は足首をくじいていることが分かった。このままでは歩くこともままならない。岩太郎は、人目を避けられるよう、小屋の隅の物置きに女を移した。古い筵を敷き、夜具をかけてやり、日が暮れたらまた参ると言い残して、掃除に出た。岩太郎は、仕事の合間を縫っては、握り飯を懐に忍ばせて物置きへと通った。

「具合はいかがか」
「だいぶ良くなりました」

女は食べ物を受け取りながら、言った。
「こんな貴重なものを、私のために」
「貴重も何も、ただの粗飯でございますよ」
「あなたにとっては、お貴重なものでございましょう」

女は物置きの中を見回した。
「この部屋、随分きちんとお暮らしなのですね」
「何も持たぬゆえ、片付けることもございません」

狭い部屋の隅々まで、几帳面に整えられた暮らしぶりが伺えた。
「それでも、この古い位牌は、大事にかけておいでですね」

女が壁の位牌を指すと、岩太郎は言葉を失った。
「それは、拙者の親が残した唯一の品でございます。捨てられずにおります」
「ご両親は、いかがなさったのですか」
「大火で、幼い頃に亡くなったと聞いております。詳しいことは、覚えておりません」

女の眼差しが深くなった。その翌日も、岩太郎は仕事の合間を縫って物置きに通った。誰かのために飯を分け、誰かの体を気遣う。そのようなことは、岩太郎にとって生まれて初めての経験だった。

「あなたは、良いお方でございますね」
「それは買い被りでございます。拙者は、ただ人が死にかけているのを見過ごせなかっただけでございます」

女はそれ以上何も言わず、ただ静かに岩太郎を見つめていた。その眼差しには、思いがけぬ温もりと、何かを見定めるような複雑な色が入り混じっていた。

「足の具合はいかがか」
「だいぶ良くなりました。あと一日、二日休めば歩けそうでございます」
「それは何よりでございます」

すると女は、海を一口すすりながら、岩太郎を見つめて尋ねた。
「私が立ちましたら、またお会いできる日はございましょうか」
「さあ。身分が違えば、再びお目にかかることもございましょう」

岩太郎が答えると、
「身分が違っても、人と人との縁というものはございましょう」

女が言った。岩太郎は苦笑した。
「耳に心地よい言葉でございますが、世の中はそう、たやすくは参りません」

また別の折、岩太郎は物置きに食事を運んだ際、ふと女の物言いに目を留めた。粗末な握り飯を口にする所作にも、どこか品のようなものが漂っていた。言葉遣いも、この村の百姓の女房や娘とはまるで違い、書物でも読んだかのような整った物言いだった。

「あなた様は、一体どのようなお家にお生まれになったのでございますか」

岩太郎が思わず尋ねると、女は一瞬言葉に詰まり、
「しばらくお答えできません。ただ、いずれ機会があれば、必ずお伝えいたします」

と静かに答えた。その声には、何か硬い決意のようなものが含まれていた。岩太郎はそれ以上問い詰めることはせず、引き下がった。

別の夜、女はふと岩太郎に尋ねた。
「この辺りの暮らしは、いかがなものか。なぜ、あなたほどの器量の者が、何の得にもならぬ所で従っているのか」

岩太郎はしばし言葉をためらった。それでも、問われるままに少しずつ語り始めた。不作で小作人が年貢の猶予を願い出て断られたこと、田畑を質に入れて手放す者が村に増えていること、たとえ長年奉公していても、賃上げを願い出ることなど口が裂けても言えないこと。ありのままを語った。

「この村では、腹をすかせた者が真っ先に頭を下げねばならぬ。頭を下げても、聞き届けられるとは限らぬのでございます」
「それは、辛いことでございますね」
「例が取れねば、人はまず腹を満たさねばならぬのに。年貢だけは、待ってくれぬものでございます」

女はしばらく黙って聞いていたが、それ以上は何も言葉を返さなかった。ただ、その眼差しには、何かを深く胸に刻みつけているような静かな色が宿っていた。岩太郎は、その時、この女がただの旅人ではないのかもしれないと、ぼんやりと思い始めていた。

「人にはそれぞれ生まれ持った器があると申しますが、私はそうは思いません。器は生まれつき定まるものではなく、生きながら、自ら満たしていくものだと信じております」

女が別の折にぽつりと漏らした言葉は、岩太郎の耳に深く残った。
「では、拙者のような身の上でも、いつかは何かを満たせるものでございましょうか」
「もし、生きて叶えたいことが終わりならば、の話ですが」

岩太郎はしばし考え込んだ。
「この身の上に、大きな望みなど望り抱いたことはございません。ただ、日々腹をすかせず、誰にも後ろ指を刺されずに生きられれば、それで十分でございます」
「それだけか」
「それだけでございます。欲を出しても、金減みゆえ、初めから望まぬ方が心楽にございます」

女はその返事に、何やら複雑な表情を浮かべ、それ以上は何も申さなかった。

その頃、村の噂話の中で、年貢の不正を探る者がこの辺りを歩いているという話が広まっていた。それを耳にした十門は、書斎に一人こもり、
「十八年前のことまで、掘り返されるはずはない」

と低くつぶやいた。数日のうちに、十門は妙なことに気づき始めた。台所の粗飯が、幾度となく静かに減っていること。物置きの裏手に、炭の燃え殻が落ちていたこと。

ある晩、十門は寝付けぬまま書斎を出て、庭を一巡りしてみることにした。月明かりも乏しい夜だったが、物置きの隙間から、かすかに炭の匂いが漏れているのに気づいた。
「誰かが、あの物置きに出入りしておるな」

十門は眉をひそめ、戸に手をかけようとした。だが、ちょうどその時、裏手で物音がして、慌てて身を隠した。息を殺してしばらく様子を伺ったが、それきり物音は闇に消えた。十門は結局、戸を開けることなく、そっと書斎へと戻っていった。

翌朝、十門は岩太郎を呼びつけた。
「近頃、お主の方をよく行き来しておるようだが、何かあるのか」
「冬支度で、薪を蓄えております」

岩太郎は、平然を装って答えた。十門は、それ以上追求しなかった。だが、胸の中には拭い切れぬ胸騒ぎが芽生え始めていた。

その翌朝、西風村の村外れが騒然とした。馬に乗った一団が、村へなだれ込んできたのだ。
「この辺りで、若い女を一人見なかったか。着物は空色、足を痛めているやもしれぬ」

武家の従者らしき者が、声を張り上げた。村人たちは驚いて騒ぎ立ち、口々にささやき合った。
「お役所からの方々か」
「いや、見るにただ者ではあるまい。あの馬の毛並み一つとっても、我々の家のものとは思えぬ。迂闊な口出しは慎しめ」

十門は庭先に出て、駕籠を迎えた。
「何用で、このような田舎までお越しになったのか」

平身低頭で尋ねると、駕籠の者は鋭い目つきで十門を見回した。
「この辺りで人を一人見失った。見知らぬ女を見かけなかったか」
「さあ。そのような者は、見た覚えがございませぬが」

答える十門の声は、かすかに震えていた。岩太郎はこの隙に女を裏庭から逃がそうと、物置きへ向かった。女を支えながら、崩れた低い土塀の方へと導いた。まだ調子の戻らぬ足を引きずるようにしながら、土塀を越えさせようとした、その時、庭の向こうから足音が近づいてきた。

誰かの声を聞かれてはならぬと、岩太郎はとっさに女を土塀の影に押し込み、何食わぬ顔で薪を拾い上げた。通りかかったのは、下男の一人だった。
「岩太郎。こんなところで、何をしておる」
「薪が足りぬようで、拾っておりました」

下男はそれ以上気に留めず、立ち去っていった。心臓が早鐘のように打つのを感じながら、岩太郎は女を助け起こすと、竹林の方へ行くよう導いた。
「誠にありがとうございます。この恩は、決して忘れません」

女は指輪を差し出そうとしたが、岩太郎は手を振って断った。
「いや、そのようなものを受け取る謂れはございません」

女は足を引きずりながら、竹林の方へと去っていった。ほどなくして、竹林の方から声が響いてきた。
「見つけたぞ。ここにおいでなさるか」
「ご無事でございましたか」

庭にいた者全てが色めき立った。その言葉を聞いた十門の顔が、見る間に青ざめた。
「大御前様とは…」

岩太郎も、その言葉に全身が凍りついた。この数日、飯を分け、宿を貸したあの女が、他でもないこの地を治める大御前様だったとは、にわかには信じられなかった。遠くで、駕籠の者が大御前様を支えて駕籠に乗せる様子が見えた。大御前様は、乗る間際に一瞬振り返って、村の方を見つめた。その視線は、岩太郎の立つあたりにしばし留まってから、駕籠の中へと消えていった。

大御前は、書斎に一人戻ると、何度も同じ問いを己に投げかけていた。
「あの女は、一体何者であったのか。なぜ、よりによってこの村に、それもあの下男の元に転がり込んだのか」

そこへ、屋敷の者から、大御前様がこの数日、他の誰とも会わず、ただ岩太郎とばかり言葉を交わしておられたようだという話が伝わってきた。十門の頭に、恐ろしい考えが浮かんだ。
「あの下男め、屋敷の年貢の取り立てのことを、大御前様に洗いざらい話したに違いない。絢は日頃から物置きの様子をよく見ておる。この家の内情に、薄々感づいておったやもしれぬ」

そう思い込むと、十門の胸には次から次へと悪い考えが湧いてきた。もしこのまま捨ておけば、いずれお役所の調べが入るは必定。そうなれば、この十八年、いや、それよりずっと前から積み上げてきたものが、全て水の泡になる。そう思い込んだ十門は、次男を書斎の奥深くに呼び入れ、戸を閉め切った。

「あの者が生きて口を聞けば、それこそ大きな災いの元になる。あの者の言うことを、誰も信じぬようにせねばならぬ」
「それは、どういうことでございますか」
「岩太郎が、盗みを働いたということにすればいい。あの者のことなど、誰も信じまい」
「旦那様、それは無実の罪を着せろと、おっしゃるのでございますか」

十門は、冷たく言い放った。
「この家が潰れるかどうかの瀬戸際なのだ。お前も、この家が潰れれば行く当てがないことも、よう分かっておろう」
「しかし、岩太郎はこの屋敷で誰よりも真面目に働いてきた者でございます」
「今はそれを論じている場合ではない。お前ができぬと申すなら、他の者にやらせるまでだ」

次男は、言葉を返せず、頭を下げた。
「物置の鍵を一つ、あの者の部屋にそっと忍ばせておけ。そして、昨日、蔵から米が几帳面に減っていたと、言いふらしておけ」
「…承知いたしました」

次男の声は震えていた。その夜、次男は己の部屋で一人、鍵を握りしめたまま、何度も迷った。このまま鍵を川にでも投げ込んでしまおうか。いや、そうすれば旦那様は、他の誰かに同じ役目を命じるだけだ。それならば、せめて己の手で事を納め、これ以上事が大きくならないようにするしかあるまい。しかし、どれほど言葉を並べても、無実の者を落とし入れるという行いの重さは、次男の胸から片時も離れなかった。

翌朝、十門は岩太郎を庭へ呼びつけた。庭のあちこちに人が集まって、ささやき合っていた。中には、岩太郎を避けるように目を伏せる者もいた。無実の罪を着せられた男が今まさに裁かれようとしている空気が、ひりひりと肌を刺した。

「お主、昨夜、蔵から米を持ち出したという話があるが、誠か」
「拙者は、そのような事は一切いたしておりませぬ」

岩太郎は、驚いて言い返した。
「しておらぬだと。では、これは何だ」

十門が手を振ると、次男が蔵の鍵を一つ手にして、庭に進み出た。その足取りはひどく重く、次男は岩太郎と目を合わせられぬまま、視線を落としたままであった。
「この鍵が、お主の部屋から出てきたそうだ。蔵の鍵は、わしと次男だけが持っているものだが」
「拙者は…そのようなものを持った覚えは、ございません」
「偽りを申すな。昨日、蔵から米が数減っていたのを確かめたぞ」

周りに集まった者たちが、ざわめき始めた。
「嘘だろ」
「そういえば、近頃、物置きの方で妙な動きをしておったな」

岩太郎は、そのささやきに全身が震えた。旦那様、拙者は本当に無実でございます。濡れ衣でございます。必死に訴えても、十門は聞く耳を持たなかった。
「この者を縛れ。大岡所に引き渡す」

屈強な男たちが岩太郎を取り囲み、その腕を捉えようとした。岩太郎が思わず手を振り払うと、男たちはあっけなく吹き飛ばされた。
「おい、あの力を見ろ!このままでは、人を殺めかねぬぞ」

悲鳴のような声が上がり、集まっていた村人たちは後ずさりした。十門の顔に、恐れと怒りが同時によぎった。
「油断するな。力づくで逆らおうとしておる」

岩太郎はそこでようやく我に返り、手を下ろした。
「申し訳ございません。傷つけるつもりは、ございませんでした」

男たちは、岩太郎の粗末な粗末を荒々しく漁り始めた。寝具をひっくり返し、床を突き崩し、壁にかけてあった品を手荒く引きずり下ろした。その時、一人の男が壁の位牌を見つけて、掴み取った。岩太郎の顔から、さっと血の気が引いた。
「それだけは、それだけはお許しください」

岩太郎が叫んだが、男は取り合わなかった。位牌を手荒く弄り、中に盗んだ品でも隠しておらぬかと確かめると、何もないと分かるや、面白くもなさそうに投げ捨てた。ちょうどそこには、火のついた火鉢が置かれていた。位牌は火鉢の上に落ち、瞬く間に火が回った。

岩太郎は絶叫して身をよじったが、縛られた体では何もできなかった。父の唯一の形見が、目の前で灰になっていくのを、ただ見ている他はなかった。男は灰になったそれを、足で払いのけた。岩太郎は膝をついたまま、崩れ落ちた。その目から、涙が止めどなく流れ落ちた。
「母上…父上…」

どうして、どうしてこんなことに。無実の罪で辱められ、ただ一つの形見さえも失った。この瞬間、岩太郎の心は、深い絶望と無力感に押しつぶされそうになっていた。次男は、その光景を遠くから見つめながら、目を合わせることができなかった。己が十門に口出しできなかったことへの、自責の念がその胸を締めつけていた。

岩太郎はそのまま大岡所へと引き立てられ、牢へと押し込まれた。牢の中は、冷え込み、暗かった。悔しくとも、一体誰に訴えれば良いのか。牢の外では、相変わらず雪が待っていた。
「夜が明ければ、もう取り返しがつかぬかもしれぬ」

岩太郎は、冷たい壁にもたれながら、何度もそう思った。あと一晩、この牢を出られねば、真実を明らかにする機会そのものが失われてしまう。その時、ふと昼間に出会った僧の言葉が思い出された。
「それで施した飯一膳も、天の長面には大きく記されるものよ」

岩太郎は、苦い笑いを浮かべた。
「坊主。その長面には、このようなことも記されるのでございますか。人を助けたとて、こうして牢につながれることも」

その瞬間、浅い眠りに落ちかけたところで、おぼろげな記憶が一つ蘇った。炎だった。焼けつくような熱さと、むせるような煙。そして、誰かが自分を力強く抱きしめていた。
「父上…!」

夢の中で、岩太郎はその声の主に手を伸ばした。だが、指先に触れるものは何もなかった。
「逃げよう。何としても生き延びよう」

切迫した声が、耳元に響いた。岩太郎は、はっと目を覚ました。全身に冷や汗をかいていた。今のは一体、何の記憶だったのか。岩太郎は震える手で左肩を撫でた。火傷の跡が、やけに熱く感じられた。初めて、己の生い立ちと、あの日の大火が、単なる災難ではなかったのかもしれないという思いがよぎった。
「逃げよ…とは。それでは、あの日、誰かが己を逃がそうとしたということか」

岩太郎は、混乱した心のまま、膝を抱え込んだ。これまでの身の上を、ただの定めとして受け止めることすら諦めていた。しかし、あのおぼろげな記憶の中の声は、何か別のことを語りかけているようだった。
「そういえば…逃げよう…と」

誰かに飯を分けたことも、見知らぬ女に宿を貸したことも、つまりは己が持つものを分かち合った行為だった。その報いとして、今、牢につながれている。だが、岩太郎はその選択を悔いてはいなかった。道に迷っていた者を助け、腹を空かせていた者に飯を与えた。その行いの一つ一つが、今こうして自分の身に降りかかった試練の中で、何かを静かに支えているような気がした。

一方、その頃、屋敷へ戻った大御前様は、岩太郎が盗みの咎で大岡所へ連れて行かれたと聞き、顔をこわばらせた。
「この私を助けた者が、濡れ衣を着せられたと。命の恩人を、そのように貶めるとは、このまま捨てておくわけにはいかぬ」
「されど大御前様、今すぐ動けば、その身分が知れてしまいます」
「構わぬ。これはかつて、狩りより万一の為に託された、証文入りの書き付けだ。私自らが赴くわけには参らぬが、これがあれば奉行も動かぬわけにはいくまい」

大御前様は、その書き付けを静かに取り出すと、
「今すぐこれを持って奉行の元へ参れ。奉行の帳簿を改めて調べさせ、あの下男の一件も洗いざらい調べさせよ。必ずや、何か大きな罪を隠す根拠に違いない」

と命じた。大御前様は、一人窓の外の雪を眺めながら、誓うようにつぶやいた。
「岩太郎。今しばらく耐えてくれ。必ず、私がそなたの無実を晴らして見せる」

牢の中、岩太郎は膝を抱え、遠くから牢番たちの話し声を聞いていた。
「あの力自慢の男が、盗みとは。飛んだ食わせ物だな」
「全くの話だ。情けは人の為ならず、とはよく言ったものだ」

情けをかけた相手が、まさか大御前様だったとは。しかも、その恩を仇で返すように、濡れ衣を着せられるとは。岩太郎は、口元を歪めた。だが、不思議と、絶望だけではなかった。あの雪の夜、戸を叩いた女を助けたことを、後悔はしていなかった。ただ、人間の欲深さと、無力な己の身分が、情けなくてならなかった。

とその時、牢の外が騒がしくなった。
「検使の方をお通ししろ!」
「開けよ!」

岩太郎が顔を上げると、牢番たちが慌てて駆け出し、松明を手に走り回る足音が聞こえた。牢の扉が開かれ、検使の者が足早に入ってきた。
「こちらです」
「そなたが、岩太郎か」

検使は、鋭い目つきで岩太郎を見据えた。
「そなたの罪が真か偽か、奉行所の調べにて明らかになろう。今すぐ、牢より出されよ」

岩太郎は、戸惑いながらも、牢から出た。夜明けの冷たい風が頬を撫でた。眩しい光の中、岩太郎はしばし言葉を失った。
「そなたは、大御前様のご恩人にございます。これより西風村へ参り、真実を明らかに致します。そなたも、共に参られよ」

岩太郎は、静かに頷いた。牢から出て、まだ間もない身ではあったが、「真実を明らかにする」というその言葉に、新たな力が湧いてきた。

西風村へ向かう道すがら、検使は岩太郎にこれまでの経緯を語って聞かせた。大御前様は、新狩りの許可を得て、この一体に耐えぬ年貢の不正の噂を確かめるべく、密かに巡行されていたのだという。
「それでは、大御前様がお泊まりになった間、拙者が語ったあの村の暮らしの話も、無駄ではなかったということでございますか」
「無駄どころか、大御前様はそなたの言葉を胸に刻んでおいででございました。無実の者を盗人に仕立てたその行いこそが、倉田の罪を暴く証となったのでございましょう」

岩太郎は、その言葉を聞いて、言いようのない思いに駆られた。自分を陥れようとした行いが、結果として、あの者の悪事を暴くことになるとは。世の中の因果は、何とも不思議なものだ。

西風村に着くと、すでに奉行の手の者が倉田屋敷を取り囲み、罪人として十門を庭に引き据えていた。奉行はまず、岩太郎が盗みを働いたとされる一件から調べを始めた。震えながら前に進み出た次男は、何度も言葉に詰まりながらも、ようやく口を開いた。
「その…それがしは、それを知っておりながら、黙っておりました。岩太郎は、誠に何もしておりませぬ。あの鍵は…あの鍵は、それがしが旦那様に命じられ、岩太郎の部屋に密かに忍ばせたものでございます」

これにて、岩太郎の盗みの疑いはまず晴れることとなった。次に奉行は、年貢の帳簿を改めさせた。倉田の表帳簿と、村の組頭が別に控えていた裏の控えとを突き合わせると、いくつもの年に食い違いがあることが分かった。奉行が、両方の帳面を並べて、一つ一つ数を読み上げながら照らし合わせていくと、その差は次第に誰の目にも明らかになっていった。

呼び出された村人たちが、一人また一人と進み出て、証言した。
「私は去年、三十俵を納めましたが、帳簿には三十五俵と記されております」
「我が家も同じでございます。四俵は水増しされておりました」

あの年貢の猶予を願い出て断られた年寄りも、震える声で進み出た。証言が積み重なるごとに、長年にわたり、帳簿の上でだけ年貢が水増しされ、その差額が倉田の懐に流れ込んでいたことが明らかになった。

さらに、村人たちが、十門にまつわる別の話を語り始めた。
「それがしの父も、かつて年貢が払えず、田を手放したことがございます。あの者のように帳房につかれた田を取り上げられ、何も言い返せませんでした」
「我が家も同じでございます。村中に、このような泣き寝入りをした者が、どれほどおりましょうか」

この時、次男が震える声で、さらに申し出た。
「それがしの父、左兵は、生前この家の万頭を務めておりましたが、亡くなる間際に、『あの子の名を消したのはわしだ。あの火事は、誠に不幸なことであったのか』と、上ごとのように繰り返しておりました。それがしにはその意味が分かりませんでしたが、今思えば、書斎の奥に旦那様が長らく隠しておいでの木箱と、何か関わりがあるのではと存じます」

奉行の命を受けた者たちが書斎を改め、床下の隠し場所から、ようやく木箱を運び出してきた。箱にはしっかりと錠が下ろされており、鍵はどこにあるかと問われても、十門は口を固く閉ざしたまま答えようとしなかった。やむなく、錠を叩き壊して開けさせると、まず出てきたのは古い年貢の下書きらしき帳面だった。これだけでは何のことか分からないと奉行が眉を潜めると、傍らで下働きをしていた年老いた女中が、恐る恐る進み出た。
「その帳面の筆跡には、見覚えがございます。亡くなった左兵様がお書きになったものに違いございません」

さらに、箱の底からは、割れた位牌のかけらと、もう一枚、村の名主の印が押された証文が出てきた。この証文を奉行が読み上げると、そこには十八年前、当時この村の名主を務めていた「与助」という者が、年貢の水増しを見つけ、その差分を書き留めた上で、これを役所に訴え出る旨、記されてあった。
「この与助という者に、お心当たりはございますか」

庭の隅に控えていた古老が、はっとした様子で進み出た。
「十八年前、与助殿の一家は、ある夜の火事で焼け死んだはずでございます。残された子は、行方知れずになったと聞いておりました」

古老は、ふと岩太郎の左肩の火傷の跡に目をやり、驚いた顔をした。
「ああ!これでようやく分かった。あの時、井戸端で見た子の火傷の跡と、どこか似ておると思っておったのだ。あの時はまさかと思って口にせなんだが…今思えば、間違いなかろう」

深い静寂が、庭を覆った。奉行が、さらに村の人別帳の古い控えを取り寄せさせると、火事のあった直後、確かによし助一家の名が人別帳から抹消され、そのわずか数日後に、同じ田畑が倉田の名義として新たに書き加えられていたことが分かった。十門は、無実の与助を殺め、その田畑を奪ったばかりか、残された幼子までも、身寄りのない者として届け出て、そのまま己の下男として働かせ続けていたのだ。

この時、奉行の手の者が、木箱の底から、もう一枚、左兵の筆跡とおぼしき小さな紙片を見つけ出した。震える手でそれを広げると、そこには短く、
「あの夜、旦那様は一人で出て行かれ、焼けただれた匂いをまとうて戻られた。翌朝、商人を連れておいでで、その日のうちによし助殿の一家を人別帳より消せと命じられた」

と記されていた。証拠は、確かに積み重なっていた。十八年の歳月を経て、ようやく、岩太郎こそが、無実の罪で殺された与助の遺児であることが、明らかになったのだ。

岩太郎は、震える手で己の肩を撫でた。牢の中で見た夢。あの切迫した声。
「逃げよう。何としても生き延びよう」
「父上…あの日は、逃げようとして」

岩太郎は言葉を告げず、その場に膝をついた。長らく霧の向こうにあった父の姿が、ようやく輪郭を持ち始めたような、そんな心地だった。
「この十八年…拙者は何も知らぬまま、父の仇であるこの者の下で、働き続けてきたのか」

悲しみとも怒りともつかぬ、言葉にならぬ思いが胸の内に渦巻いた。あの雪の日、あの物置きで分けた粥も、あの日々の労苦も、全てがこの仇の屋根の下で行われてきたことだったと思うと、岩太郎はしばし言葉を失った。

十門は、その光景を見て、顔が真っ白に染まった。
「そのようなはずはない。そのような…」
「その方が十八年守り抜いてきたその証文こそが、その方の罪を明かしておるのだ」

十門は、その場に力なく座り込んだ。数日後、大岡所にて正式な取り調べが行われた。西風村の人々が、皆息を飲んで見守る中、奉行が判決を読み上げた。
「倉田十門。十八年前、無実の者を火事に見せかけて手に掛けた罪。人別帳を書き換え、その田畑を奪った罪。その殺された者の遺児の身元を隠し、己の下男として酷使した罪。長きに渡り年貢を横領し、民を苦しめた罪。無実の者を盗人に仕立てて、虚偽の告訴を行った罪。これほどの罪、死罪をもって償わせるものとする」

十門は、その場で崩れ落ちた。
「全ては…全ては、この家を守りたい一心であった」

その言葉に耳を傾ける者も、もはや誰一人いなかった。十門が引き立てられていく最中、最後に一度だけ岩太郎の方を振り返り、
「己が…己が、そのような過ちを…」

と言ったが、岩太郎は何も答えず、ただ静かな眼差しで見つめるのみだった。憎しみをぶつけることもできたはずのその瞬間、岩太郎の胸にあったのは、怒りよりもむしろ、長い霧がようやく晴れたような、深い静けさだった。

その日以来、倉田の全財産は没収され、十門は間もなくその刑に処された。かつて西風村で田を争うほどの豪農だった男が、今や影もない罪人の身となって果てていく様を、村人たちは苦い顔で見送った。かつて岩太郎を牛のように扱い、陰で笑っていた者たちも、多くは己の不明を恥じた。

岩太郎は、その生い立ちを取り戻した。無実の死を遂げた名主の遺児として、そして、大御前様の命により、新たな名主の手で、その名は正しく人別帳に書き改められた。父より受け継ぐべき田畑も、正式に岩太郎のものと定められた。

大御前様は、自ら岩太郎を召し出した。
「そなたの恩と、これまでの苦しみを思えば、褒美一つでは足りぬであろう。望むものがあれば、何なりと申せ」
「そなたに苗字帯刀を許すことも、叶おう。望むならば、この地の役目に取り立てることもできよう」

周りに控えていた者たちも、これは破格の御沙汰であると、息を飲んで岩太郎の返答を待っていた。岩太郎は、しばらく考え込んだ後、静かに首を振った。
「大御前様。拙者は、そのような格式には馴染みませぬ。これまでずっと、この手で働いて生きてまいりました。今さら、人の上に立つような真似は、性に合いませぬ」

大御前様は、驚いたように岩太郎を見つめた。
「それでも、このまま元の苦しい暮らしに戻れと申すのか」
「拙者は、苦しい暮らしとは思っておりませぬ。この手で汗を流して働く暮らしの方が、むしろ心地ございます。ただ、父が残された田と、静かに暮らせる小さな家が一つあれば、十分でございます」

大御前様は、そんな岩太郎をしばらく見つめてから、ふと微笑んだ。
「誠に、そなたらしい返事だ。承知した。そのように取り計らおう」

岩太郎は、深く頭を下げた。岩太郎は、西風村の近くに小さな家を建て、根を下ろした。父が残した田を耕しながら、以前と変わらず真面目に、一日一日を送ってきた。ただ、今は、その田が全て己のものであり、もはや誰の顔色を伺う必要もなかった。朝は自らの時刻で起き、己のために飯を炊き、日が傾けば、己のために休む。そのような当たり前の暮らしが、岩太郎にはこの上なく尊く感じられた。

時折り、あの雪の夜、戸口を叩いた女の声を思い出すこともあったが、身分の違いを思えば、それも遠い夢のようなものと、胸の内にそっとしまい込んでいた。岩太郎は、父の遺骨の入った桶を新たに作り直し、小さな祠を建てて祭った。日に一度は必ず、花と水を備え、あの失われた位牌の代わりに、ささやかながらも心を込めて手を合わせた。

「父上、母上。ようやく、ここまで参りました」

岩太郎は、祠の前で、幾度となくそうつぶやいた。十八年もの間、己の名も、親の面影も知らぬまま過ごしてきたことを思えば、今こうして父母の眠る場所に手を合わせられることが、何にも勝る安らぎだった。祠の傍らに、小さな杉の木を植えた。これが大きく育つ頃には、この村もまた、変わっていくのであろう。岩太郎は、静かな心持ちで、そう思いを馳せた。

しばらくして、あの日、倉田の屋敷で岩太郎の濡れ衣に加担してしまった次男が、咎を受けて屋敷を追われた後、岩太郎の元を訪れては、頭を下げ続けた。
「お主を、あのような目に合わせたのは、この私自らだ。どの面を下げて会えば良いものか」
「次男殿も、あの家に仕える他なかったことでございます」

岩太郎は、次男を許した。次男は、その後、岩太郎の小さな仕事を手伝いながら、静かに日々を送った。畑に出るたび、次男は、岩太郎の背にそっと頭を下げてから、鍬を手に取るのが、それが習慣となった。

そして、田を取り戻してほどなく、あの年貢の猶予を願い出て断られた年よりが、岩太郎の元を尋ねてきた。老人は、杖をつきながら、あの道をゆっくりと歩み、岩太郎の姿を見つけると、深々と頭を下げた。あの日、十門の前で膝をつき、すがりついても跳ねつけられたことを、老人はまだ忘れてはいなかった。
「岩太郎様が語り継がれたと聞き、恐る恐る参上いたしました。今年もまた、不作の兆しがございます。年貢は、やはり皆様を納めねばなりませぬか」

老人は、震える声で尋ねた。その姿は、あの日、十門の前で膝をついていた姿と、まるで変わらなかった。
「田は、一季節待たせても枯れはせぬ。されど人は、一季節腹をすかせては生きてはいけぬ。まずは、皆の食い扶持を残しなさい。残った分だけで良い」

老人は、目に涙を浮かべ、何度も頭を下げて帰っていった。その噂はほどなく村中に広まり、「岩太郎様は力ばかりでなく、情けにおいても人に勝るお方だ」と、誰もが口を揃えて言うようになった。岩太郎は、かつて十門が行ったように、年貢を重くして村人を苦しめることは、決してしなかった。己が経験した苦しみを、誰にも味わわせまいと、心から思っていたからだ。

数年後、西風村では、岩太郎の物語がいつまでも語り継がれた。春には田に若い苗が揺れ、秋には黄金の稲穂が頭を垂れる。その度に、村人たちはあの雪の夜のことを思い出し、ある日、旅の僧が岩太郎の家の前で「施した飯一膳は、天の長面には国をも救うほど大きく記されておったのだ」と呟いて去っていったという話も、合わせて語り伝えられていった。それが本当に、かつてのあの僧だったのか、確かめる術は誰にもなかった。

岩太郎自身も、夜、一人田に佇んでは、かつて雪の中で聞いた、あの言葉を思い出すことがあった。
「それで施した飯一膳も、天の長面には大きく記されるものよ」

あの時、何気なく分けた一碗の粥が、巡り巡って、己の名を、そして父の無念を、この世に取り戻す糸口になろうとは。誰かに何かを分け与えるということは、決して損することではなく、いつか自身へと帰ってくるものなのかもしれぬ。岩太郎は、静かな夜の田を眺めながら、幾度となくそう思うのだった。

皆様も、岩太郎のように、見返りを求めずに誰かを助けたことがありますか?人に何かを分け与えるということは、決して大きな力や富を持った者だけの行いではありません。一碗の飯、一夜の宿、そのような小さな行いの積み重ねが、いつか思いもよらぬ形で、己自身を救うことになるのかもしれません。今日の物語が心に響きましたら、どうか「いいね」と「シェア」で応援してくださいませ。また、心に残るお話をお届けします。

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