「おはようございます」
出社して挨拶をすると、その女性社員はちらりと俺を見て、そっけなく頭を下げた。傷さおりさん。俺が育児休暇を取っている間に中途採用された女性だ。年下だが、生活に疲れたような暗い表情で、いつも緊張しているのか全身が硬い。誰に対しても淡白で、挨拶を返しても事務的だ。初めはなぜ嫌われているのかと思ったが、同僚に聞けば、俺に限らずずっとあの態度らしい。
だが仕事は優秀だった。教えた以上のことをやってのける。俺が見ていると、彼女は少し苛立ったように言った。
「何かせかされるようでしたら、椅子をお譲りします。私は床で仕事をしますので」
いや、せかしてたわけじゃない。邪魔してたんだな。上司の監視を嫌がっているのだと気づき、慌てて謝ってその場を離れた。周囲の同僚たちは、上司に対する不器用すぎる態度に眉をひそめていた。
休憩時間もランチも、人から離れた場所でいつも一人。定時になると一番に帰っていく。優秀なのに孤立しているのが気になった。
そんなある日、出勤すると彼女の姿がなかった。
「傷さんですか? お子さんに急な発熱があったそうで、急遽お休みすると連絡がありました」
部下は声を潜めて続けた。
「本人から聞いたわけじゃないんですが、傷さん、シングルマザーらしくて。他に面倒を見られる方が近くにいないみたいで、いつもは近くの保育園に預けてるらしいです」
俺は驚いた。同時に、自分も同じ立場だということを思い出した。俺は妻の浮気が原因で離婚し、娘を引き取って今は両親のサポートを受けながら仕事をしている。傷さんには、そんなサポートがいないのだ。同じ境遇の仲間として、何とか力になりたいと思った。
翌日、傷さんは心なしか疲れた顔で出社し、俺を見るなり頭を下げた。
「昨日は家庭の事情で突然お休みをいただき、大変申し訳ありませんでした」
「いや、困った時はお互い様だよ。お子さんはもう大丈夫なのか?」
「はい、もう問題ありませんので」
彼女はそれ以上プライベートに踏み込まれたくないのか、切り上げるように謝罪して机に向かった。俺は昼休み、食堂で一人で食事をしている彼女に思い切って話しかけることにした。
「傷さん、ちょっと話があるんだけど。シングルでお子さん育ててるんだよね?」
その瞬間、傷さんの目が大きく見開かれた。
「シングルマザーだから何ですか?」
彼女は周囲の注目を集めるほどの大声で立ち上がった。
「別に哀れでもかわいそうでもないです。ただ私だって必死なんですよ。元々好きでこうなったわけじゃないんだから」
声は震えていた。彼女は自分の言動で余計な注目を浴びていることに気づき、顔を両手で隠して静かに座った。俺は何と答えればいいのか分からず、黙ってしまう。
「仕事を変わってくれたのは感謝してます。もうそういうことがないようにしますので」
消え入りそうな声で言い、彼女は気まずそうに立ち去った。ああ、きっとこれまでも、代わりを頼んだ相手から心ない言葉を言われ続けてきたんだな。俺はその背中を見て痛感した。
その後、俺との食堂での一件が変な広まり方をしてしまい、傷さんはますます孤立を深めていった。「上司に向かってヒステリックに叫んだ女」という認識を持たれてしまったのだろう。彼女の履歴書を確認すると、以前勤めたデザイン会社を退職した後、しばらく別の業種を点々としていたようだった。子供を抱えたシングルマザーは、状況によってはフォローより風当たりが強い場合もあると聞く。彼女の緊張感は、そんな経験から生まれているのだろう。
そんな中、俺と傷さんは仕事の案件で一緒に取引先へ挨拶回りに行くことになった。車内でも社内でも、事務的な会話以外は気まずい沈黙が続いた。それでも仕事の時はきちんと切り替えて、確実にこなす。これもシングルマザーだから仕事ができないと思われたくないというプライドから来るものだろう。そんな彼女を見て、俺はますます周囲に頼ってほしいと思った。
最後の取引先を終え、玄関先を出て駐車場へ向かおうとした時だった。
「あら、誰かと思ったら、元・南さんじゃない?」
背後から甲高い声が聞こえた。振り返ると、外から戻ってきたらしい女性が傷さんに親しげに話しかけていた。傷さんの表情が曇る。
「あなた、同僚さん? 私は小林って言って、彼女の元同僚です。会社では鈴木って名乗ってますけど、私、実は南って言って、二代目の妻なんです。初代は彼女」
その女は聞いてもいない自己紹介を一方的にし、いかにも見下すような視線を傷さんに向けた。そしてさらに続けた。
「あ、そうだ。お子さん元気ですか? 夫が全然合わせてくれないって愚痴ってたんで、ちょうど良かった」
「その子供から父親を奪った相手に言われたくないんですけど」
「奪ったってひどい。自分が夫に捨てられたからって、私の方が魅力的だったんだから仕方ないんじゃない?」
小林は首をかしげ、なぜか俺にも同調を求めてきた。
「夫が妻に選んだって、そういうことですよね?」
「俺はあなたの旦那じゃないんで知りません」
「あ、もしかして新しい彼氏さん? 次のパパ候補? じゃなきゃそんなにかばったりするはずないですもんね」
傷さんが慌てて間に入る。
「ちょっと、上司にまで失礼な対応しないで。さっきから取引先だって分かってて話してるんでしょうね」
「取引先……? あ、申し遅れました」
俺は名刺を渡した。途端に小林の顔が青ざめた。彼女が勤めるデザイン会社は俺たちの会社と取引があり、しかも下請けの立場だった。だが小林は恥をかいたことで開き直り、今度は傷さんをターゲットにした。
「やだな。立場利用して今度はマウントですか? 夫にとって価値がなかったってだけで。私は元同僚のよしみで単なる世間話をしただけなのに、バカにされて」
我慢の限界だった。
「取引先相手に、自分が話したいからっていう無駄話に無理やり付き合わせる。あなたの会社ではそのような教育をしているんですか?」
「え、別にあなたに言ってないんですけど」
「随分と不快だな。俺たちは仕事が残っているから会社に戻りたいんだが、あなたのつまらない無駄話でまだ拘束されるのか?」
「立場をわきまえるべきはあなたの方でしょう。社員の対応一つで、簡単に会社の信頼も失うことがあるんですよ。後々、しかるべき対応をさせていただきます」
小林は言葉を失い、固まっていた。これ以上時間を無駄にしたくない俺は、傷さんを促して背を向けた。
「夫に言っときますね! 相変わらず仏頂面で陰険なくせに、自分の男を利用して仕事でいびられたって!」
傷さんは立ち止まり、振り返って声を張り上げた。
「勘違いしてないわよ。離婚するのを決めたのは私なの。文句があるなら、滞ってる慰謝料と養育費、さっさと全額払えって伝えておいて!」
最後まで失礼な小林に言い返した傷さんの姿は、しびれるほどかっこよかった。
「いやあ、さっきの人はひどかったね」
会社へ戻る車を運転しながら話しかけると、傷さんはしばらく無言でうつむいていた。やがて静かに涙をこぼした。
「ごめんなさい。色々よくしてもらって感謝しなきゃいけないのに、どうしても言い出せなくて」
彼女は車内で泣きながら、これまでに降りかかった過去を話してくれた。
「実は私、あのデザイン会社では主任を務めていたんです」
「主任? 通りで仕事ができるはずだ」
元夫である南は営業先の社員で、仕事の関係で出会って結婚したらしい。ところが元夫の子を妊娠中、以前からライバル視していた小林が傷さんの夫だと知ってあえて近づき、離婚に追い込む形で夫を略奪したそうだ。小林はデザイン会社の創業者の親戚だったため、会社は彼女を優遇し、傷さんは冷たく扱われたらしい。シングルでの子育てに追われ、妬む周囲から必要以上の仕事を押し付けられ、心身のバランスを崩した。さらに昇進をよく思わない者たちからの陰口や、シングル育児への無理解も重なり、追い出される形で退職することになった。
「それに、どこか悔しいんですよね。シングルマザーってだけで劣ってるように思われるとか、勝手に哀れんでくる奴とか。意地でも負けてたまるかって思ったら、もう心は開けなくて。特に、不倫で離婚したって周りに知られれば」
「傷さん、俺もシングルなんだ。しかも、妻の不倫でな」
「え? そうだったんですか?」
「ああ。出来心だったみたいだ。結婚や出産がトントン拍子に進んじゃって、焦って逃げ出そうとしたんだとさ。子供が生まれる一ヶ月前に病院で言われたよ」
「そんなこと、全く知らずに……」
「仕方ないよ。自分もままならないのに、傷さんはいっぱいいっぱいだったんだろ? 子供は思い通りにならないし、こっちが合わせて調整するしかない。俺も娘が生まれて実感したよ」
傷さんは、最近の子供の発熱もストレスが原因ではないかと医師に言われたと話した。子供は親の変化を敏感に感じ取っているのだろう。
「傷さんが一人で子育て中って聞いてさ、フォローがないのは大変だろうなって。どうやって対処してるのか聞きたかったんだよ」
「……そうだったんですか」
それから車内は、お互いの子育ての話で盛り上がった。あの気まずい沈黙が嘘のように、会社に着くのがあっという間だった。
「さっきも言ったけど、うちは福利厚生が充実してるし、バックアップ体制も十分に整ってる。安心してどんどん頼ってね」
それを聞いた傷さんは、これまで張り詰めていたものが解けたのか、どこかぎこちないながらも、はっきりと笑顔でうなずいた。
それからというもの、少しずつではあるが傷さんは明るくなり、部署の同僚たちともコミュニケーションをよく取るようになった。食堂でも同僚の輪に混じることが増え、これまで聞いたことのない彼女の笑い声が響くようになった。職場全体が、以前より賑やかで楽しい雰囲気に変わっていった。
俺はあの小林の一件をきっかけに、職場環境の改善について真剣に考えるようになった。要望書を提出すると採用され、問題解決の第一歩となる意見箱が設置された。その中には、経験を通して得た傷さんや俺が出した要望も含まれていた。
ある日、二人で昼食を取った時、傷さんが問いかけてきた。
「係長、今まで発注してたデザインを別の会社に変更したのは、あの件が関わっているからですか?」
彼女は以前勤めていた小林の会社を気にしていたのだ。
「担当のデザイナーさんが独立しちゃったんだよ。元々会社じゃなくて彼ありで頼んでたからな。うちが抜けたからか、発注先を変えた企業も多いみたいだ。最近は珍しく別の部署にまで営業かけてたらしいけどな。ああ、小林さんだったか? 偶然会ったよ。めちゃくちゃ丁重に謝罪されてさ。ずっと隣の上司に睨まれてて、きつくお灸を据えられてるみたいだね」
「取り締まり役が代わって、今までの体制を一新したそうですね。親族が優遇されてた環境にもメスが入ったんでしょう」
さらに傷さんは、以前のデザイン会社から前よりもいい条件を掲げたヘッドハンティングを受けていたと打ち明けてくれた。
「でも、私が働くのに一番適した職場はここより他にないので、すぐお断りしました」
「そりゃそうだよ。傷さんはもう立派なうちの中核なんだから。もう簡単に抜けられちゃ困る」
俺の言葉に、傷さんは思わず吹き出して笑った。以前、車内で見せた硬さの残る笑みとは違う、自然な笑顔だった。他人の手を借りることができ、時間にも余裕ができたのだろう。その充実ぶりが、すっかり柔らかくなった表情に表れている。
俺の子育ても少しずつ両親の手助けから離れ始め、最近は娘と一緒に家に戻って暮らしている。両親の助けにはいつも感謝しているが、甘えっぱなしは良くない。いずれは娘と二人で暮らすことになるのだ。そばにいない母親のことも、いずれ話さなければならない時が来るだろう。
保育園に迎えに行った帰り道、可愛い娘を抱えて歩く。小さな手が俺の首に回っている。この小さな存在に、俺は日々支えられているんだと実感する。これからもお互い支え合って生きていこう。娘の笑顔に癒されながら、俺は強くそう思ったのだった。



