私はリビングで温かいほうじ茶を入れていた。父が亡くなってから四十九日も終わり、ようやく少し肩の荷が下りた週末の午後だった。秋の冷たい風が窓を揺らしていた。
そこへ、どすどすと遠慮のない足音が響いてきた。夫の健一と義母の光子が、ソファにどかりと腰を下ろす。健一は分厚い茶封筒をテーブルに投げ出し、私を顎で使った。
「おい、茶はまだか」
義母は口元を手で隠しながら、何かを企むような薄気味悪い笑みを浮かべている。私は無言で湯呑みを運んだ。すると健一が、待っていましたとばかりに口を開いた。
「お前の親父の遺産、5億円全部、うちの母さんの名義に変えておいたからな。お前はもう用済みだ。さっさとこの家から出て行け」
一瞬、何を言われているのか理解できなかった。父が一代で築いた会社の株や不動産、預金。その総額がおよそ5億円になることは弁護士から聞かされていた。だが、なぜそれが義母の名義になっているのか。
健一は茶封筒から書類を取り出し、見せびらかすように振った。
「親父さんが亡くなる直前に書いた遺言状だよ。ボケかけた頭で、俺たちに財産管理を任せるってサインしたんだ。有能な知り合いに頼んで、法的に完璧な手続きを踏んでもらった。もうお前の取り分はゼロだ」
義母が甲高い声で笑い出した。
「本当に健一は賢い子に育ってくれたわ。あんたみたいなどん臭い女に、あの莫大なお金を管理できるわけがないもの。あんたはもう、この立派な家にはふさわしくないわね」
怒りや悲しみより先に、あまりの浅ましさに呆れ果てて言葉が出なかった。私の沈黙を、彼らはショックで声も出ないのだと都合よく解釈したらしい。健一はさらに勢いづいた。
「泣く気力もないのか。お前みたいな寄生中は、世間の冷たい風にでも当たって苦労してみろ。今すぐ出て行け。ああ、離婚届は俺が書いておいてやったから、後で判を押しておけよ」
彼は折りたたんだ離婚届を私に投げつけた。義母も意地悪く追撃する。
「駅前のボロアパートでも借りて、スーパーのレジ打ちでもして、細々と生きていきなさいな。あんたのそのさえない顔じゃ、再婚なんて絶対に無理だろうしね」
二人の下品な笑い声がリビングに響いた。完全な勝利を確信した笑いだった。しかし、彼らは知らなかった。
私はゆっくりと息を吸い込み、床に落ちた離婚届を拾い上げた。背筋を伸ばし、二人の顔をまっすぐ見据えて言った。
「わかりました。喜んで離婚します」
私の静かで一切の未練もない声に、二人の笑い声がぴたりと止まった。
「なんだと? 強がるのもいい加減にしろよ。追い出されて困るのはお前なんだぞ」
「ええ、一向に構いません。ただ、あなたたちは一つだけ大きな勘違いをしているようですが」
私はわざとらしく言葉を切った。窓の外ではカラスが不吉な鳴き声を上げて飛び去っていく。
「大きな勘違いだと? 何の強がりだ。さっさと荷物をまとめて出て行け」
健一の怒鳴り声を背に、私は自室へ向かった。身支度は驚くほど早く終わった。この家で私が自分のものだと主張できるものは、本当に少なかったからだ。数着の衣服、父と一緒に撮った古いアルバム、そして私の人生で最も重要な意味を持つ黒い手帳。それらを小さなボストンバッグに詰め込むと、私は部屋を見渡した。
健一と結婚して十五年。思い返せば息の詰まるような日々だった。知人の紹介で知り合った当時、彼は大手企業の営業マンで、人当たりも良く真面目そうに見えた。しかし結婚して数年後、人間関係に疲れたと言って会社を辞めてしまった。無職になった夫を見かねた父は、自身が経営する建設会社「大東建設」に彼を拾ってくれた。それが全ての始まりだった。
社長の娘婿という肩書きを手に入れた健一は、あっという間に傲慢になった。現場には一切出ず、役員室でネットサーフィンをする毎日。会社の経費で高級車を乗り回し、夜な夜な飲み歩くようになった。さらに悪夢だったのは、結婚後に義母の光子が「一人暮らしは寂しい」とこの家に転がり込んできたことだ。彼女は私を家政婦のようにこき使い、私が何度も離婚を考えるたびに、父が止めた。
「すまない。あのバカを会社に入れたのは私だ。お前に辛い思いをさせて申し訳ないが、今はまだ耐えてくれ。会社のためにも」
父がなぜそこまでして無能な健一を会社に置いていたのか、当時の私には分からなかった。しかし半年前、父が末期の膵臓癌と宣告され寝込むようになってから、状況は一変した。それまで父を煙たがっていた健一と義母が、手のひらを返したように病室へ通い詰めるようになったのだ。猫なで声で父にすり寄る二人の目的は火を見るよりも明らかだった。遺産だ。そして今日、彼らはついに目的を果たしたと信じ込んでいる。父が意識の混濁していた時期を狙い、自分たちに都合の良い遺言にサインさせ、財産の名義を義母に変更したのだろう。
「おい、いつまで手間取ってるんだ。早く出て行け」
一階から健一の苛立った声が聞こえた。私はボストンバッグを手に取り、静かに階段を降りた。玄関では腕組みをした健一と、勝ち誇った顔の義母が立ちふさがっていた。
「やっと出てきたわね。ほら、鍵を置いていきなさい。あんたはもうこの家の人間じゃないんだから」
私は無言のまま鍵を置いた。
「いいか? もう二度と俺の前にそのしけた面を見せるなよ。俺はこれから大東建設の社長として忙しくなるんだからな」
健一が私の顔を覗き込みながら嘲笑う。
「社長ですか?

」
私は思わず小さく吹き出してしまった。
「なんだその態度は! 悔しくて頭がおかしくなったか」
「いえ、ただこれからのあなたの社長業がどれほど大変なものになるのかと想像したら、少しだけ可哀想になりまして」
「負け惜しみを言うな、この寄生中が! さっさと消えろ! 」
私は深く一礼すると、ドアに手をかけた。外に出ると冷たい秋風が頬を撫でた。十五年閉じ込められていた鳥かごから、ようやく解き放たれたような清々しさだった。背後で重厚な玄関のドアがバタンと閉まり、鍵をかける音まで聞こえてきた。
私はポケットからスマートフォンを取り出し、一つの番号をタップした。呼び出し音は数回だけで、すぐに相手が出た。
「もしもし。お嬢様、お待ちしておりました」
電話の向こうから聞こえてきたのは、父の右腕であり大東建設の専務を務める黒木の声だった。
「黒木さん、今、家を出ました。ええ、あいつらは予想通り食いつきましたよ」
「そうでございますか。では、いよいよ計画の第二段階に入りますね」
「ええ、準備はいいわよね」
私は振り返ることなく、夕暮れの町へと歩き出した。健一たちは五億円の遺産を手に入れたと狂喜乱舞しているが、彼らはまだ気づいていない。あの五億円が、父と私が仕掛けたとてつもなく恐ろしい罠であるということに。
黒木専務が手配してくれたビジネスホテルの部屋は、あの大邸宅に比べれば随分と狭かった。しかしここには私を怒鳴りつける夫も、嫌味を言う義母もいない。久しぶりに味わう本当の意味での静寂だった。
窓から見える町のネオンを眺めながら、私はベッドに腰を下ろした。手元には、家から持ち出したあの黒い手帳がある。父の筆跡で、大東建設の真の財務状況と健一たちを追い詰めるための計画がびっしりと書き込まれた手帳だ。
その時、スマートフォンがしつこく鳴り響いた。画面に表示された名前は健一。家を出てからわずか数時間後のことだった。私は通話ボタンを押して耳に当てた。
「おい、どういうことだ?
金庫の暗証番号が変わってるんじゃねえか! 」
鼓膜を突き破らんばかりの怒鳴り声が飛び込んできた。どうやら父の書斎にある金庫を開けようとして失敗したらしい。
「おい、聞いてるのか? 無視してんじゃねえよ。親父の隠し口座の通帳と印鑑はどこにあった? この泥棒猫、出て行くついでに金目のものをくすねたんだろう」
一方的にまくし立てる健一の言葉は、どこまでも下劣だった。五億円の財産管理の移任と名義変更の書類は確かに彼らの手にある。しかし、それだけでは現金を引き出すことはできない。そのことにようやく気づき、焦り始めているのだ。
「泥棒猫とは、随分な言われようですね」
私が静かに口を開くと、健一はさらにヒートアップした。
「うるせえ!
お前みたいな役立たずは、父さんの金がなきゃとっくに捨ててたんだよ。さっさと暗証番号を教えろ。俺はこれから忙しいんだ」
その時だった。健一の怒鳴り声の奥から、高く甘ったるい声が聞こえてきた。
「健一さーん、せっかくの高級シャンパンがぬるくなっちゃうよ。光子さんも待ちくたびれてるし」
「あ、ああ、今行くよ。ルミちゃん、ごめんな。このバカ女がごちゃごちゃうるさくてさ」
健一の声が一瞬にして、だらしない猫なで声に変わった。ルミと呼ばれたその声の主には聞き覚えがあった。大東建設の総務部にいる、二十代半ばの若い女性社員だ。
なるほど。そういうことか。以前から健一の女癖の悪さには気づいていたが、まさか私が家を出たその日のうちに愛人を自宅に招き入れ、義母まで交えて五億円獲得の祝勝パーティーを開いているとは。彼らの底知れぬ浅ましさに、私は怒りを通り越して滑稽ささえ感じた。
「随分と楽しそうですね。総務のルミさんもご一緒ですか? 」
「ちっ、聞こえてたか。ああ、そうだよ。お前みたいな色気も愛嬌もないババアとはおさらばだ。ルミちゃんは最高だからな。お前はもう用済みなんだよ。二度と俺たちに関わるな」
「そうですか。では、その美味しいシャンパンを今のうちに存分に味わっておくことをお勧めします。明日からは水すらも喉を通らなくなるかもしれませんから」
「なんだと! 負け惜しみも大概にしろよ、この貧乏人が! 」
健一が何かまくし立てる前に、私は静かに通話を切った。彼らが美味酒に酔いしれるのは今夜が最後だ。明日になれば、彼らの見ているバラ色の世界は音を立てて崩れ去ることになる。
翌朝。秋晴れの高い空の下、健一は真新しいブランド物のスーツに身を包み、大東建設のオフィスビルへと意気揚々と足を踏み入れた。社長室へ向かうエレベーターの中で、彼は自分の輝かしい未来を想像し、ニヤニヤと笑いが止まらなかったに違いない。邪魔な妻は追い出し、莫大な財産は手に入り、若い愛人もいる。これからは自分が会社のトップとして社員たちを顎で使うのだ。
エレベーターの扉が開き、社長室のある最上階のフロアに降り立った健一は、大きな声で挨拶をしようとした。しかし、その言葉は最後まで続かなかった。エレベーターホールには、専務の黒木を始め、役員たちがずらりと並んで彼を待ち受けていた。だが誰一人として頭を下げる者はいない。その目は一様に冷たく、まるで汚いゴミでも見るかのようだった。さらに奇妙なことに、黒木の横には会社の人間ではない、鋭い目つきをした三人のスーツ姿の男たちが立っていた。
「くっ、黒木。なんだこの出迎えは?
それにこいつらは誰だ? 」
健一は一瞬怯みながらも、強がった声を出した。黒木はゆっくりと前に進み出ると、これまでに一度も見せたことのない、氷のように冷たい声で言い放った。
「お待ちしておりましたよ。健一、元部長」
その一言が、健一の運命の歯車を狂わせる合図だった。
「元部長だと? ふざけるな黒木! 俺は今日からこの大東建設の社長だぞ!
」
健一の怒鳴り声が静まり返ったエレベーターホールに響き渡った。しかし、そこに整列している役員たちの表情は、まるで真冬の氷のように冷たく閉ざされていた。
「お前ら、俺が親父さんから財産の管理を移譲されたのを知らないのか? 遺産だって全部うちの母さんの名義になってるんだ。つまりこの会社のオーナーは俺なんだよ。俺の言うことが聞けないなら、お前らみたいな無能な老体も今すぐ全員首にしてやる! 」
唾を飛ばしながらまくし立てる健一。しかし黒木は表情一つ変えずに告げた。
「遺産の件は存じております。ですが、会社の人事は別問題です。昨夜の緊急取締役会におきまして、健一さんの解任が全会一致で決議されました」
「はあ? 解任だと?
冗談じゃない! 俺が社長だ! 」
健一が絶叫したその時、黒木の傍らに立っていた鋭い目つきの男が一歩前に出た。
「お見苦しいですね、健一さん。お噂通りの浅はかな方のようだ」
「ああ? なんだお前は。警備員!
さっさとこいつらをつまみ出せ! 」
健一が喚くが、周囲の誰も動こうとしない。男は胸ポケットから名刺を取り出し、健一の目の前に突きつけた。
「私は東京第一銀行・融資部本部長の佐原と申します。そしてこちらは、御社の大口取引先である帝東建設の専務、及び御社の顧問弁護士です」
その名を聞いて健一は一瞬怯んだが、すぐに鼻で笑った。
「なんだ、銀行屋と下請けか。ちょうどいい。俺が新社長だ。これからは俺のやり方に従ってもらうからな。俺に偉そうな口を叩くなら、お前のところからの借金は全部、別の銀行に借り替えてやる。帝東建設もだ。うちの仕事が欲しけりゃ、もっと頭を下げろ」
その言葉に、役員たちは一斉に額を押さえ深いため息をついた。メガバンクの本部長と業界最大手の専務を捕まえて「下請け」呼ばわりするその無知と傲慢さ。もはや救いようがなかった。
黒木は懐からスマートフォンを取り出すと、スピーカー通話のボタンを押した。
「黒木さん、状況はどうですか? 」
私の落ち着いた声がホールに静かに響き渡った。
「おい、お前、なんで黒木と繋がってるんだ? 」
健一がスマートフォンに向かって怒鳴りつける。私はホテルの一室で冷たいほうじ茶を口にしながら答えた。
「健一さん、あなたは自分が今どんな状況に置かれているか、全く理解していないようですね」
「うるせえ!
この貧乏神が! 俺から金を奪えなくて悔しいからって、黒木たちを誑かして俺を嵌めようって魂胆か。お前みたいな学歴もない底辺女が、俺の足を引っ張れると思うなよ! 」
健一の口から私を罵る言葉が次々と飛び出す。十五年、家の中で聞かされ続けてきたあの見下した侮辱の言葉だった。私はあえて何も言い返さず、じっと黙り込んだ。スピーカー越しに深い、深すぎる沈黙が流れる。それは言葉を失ったからではない。怒りで声が出ないからでもない。ただひたすら、目の前の現実から目を背け虚勢を張ることしかできないこの男への、底知れぬ憐れみだった。
「なんだ、言葉を失って何も言えなくなったか。はっはっは! いいか、俺には五億円の資産があるんだ。お前らがどうこうしようと、こんな会社は俺の金でどうにでもなるんだよ!
」
沈黙を自身の勝利と勘違いした健一が、勝ち誇ったように高笑いする。その笑い声が途切れた瞬間、私は静かに、しかし冷たく言い放った。
「ええ、そうですね。あなたには五億円がある。だからこそ、黒木さんたちは今日あなたを待っていたんです」
「どういう意味だ? 」
健一の顔からわずかに笑みが消える。黒木は手元にあった分厚い書類の束を、健一の胸に強く押し付けた。
「健一さん、先ほどあなたが誇示した五億円の財産についてですが、投資家及び全ての債権者を代表して、佐原本部長から一つ重要なご報告があります」
佐原本部長が、氷のような冷たい目で健一を見下ろした。
「その書類の三ページ目をご覧ください。あなたが偽造した、義母様の名義に変更したその財産の、本当の明細です」
健一は苛立ちながら乱暴に書類のページをめくった。
「何が明細だ? どうせ預金残高や株のリストだろうが」
健一の言葉がぷっつりと途切れた。その数行の文字を目にした瞬間、健一の顔からさっと血の気が引いていくのが、電話越しでも手に取るように分かった。
「ふ、ふざけるな。な、なんだこれは? 借入金、五億円だと?
」
健一の裏返った悲鳴が最上階のエレベーターホールに響き渡った。彼の手は小刻みに震え、持っていた分厚い書類がパラパラと床にこぼれ落ちる。私はその恐慌ぶりを感じながら、冷めたほうじ茶を一口含み、静かに息を吐いた。
「どういうことだ黒木! 親父さんは金持ちだったはずだ。会社の株もあの豪邸も莫大な預金もあっただろうが! 」
健一はすがるような目で黒木を睨みつけた。黒木は眼鏡の奥の目を細め、静かに事実を告げた。
「先代社長が築き上げた財産は確かにかつては存在しました。しかしここ数年の建設不況と、ある役員の杜撰な経費の使い込みにより、我が社の経営は火の車でした。先代は会社と社員を守るため、資産を全て売却して会社の運転資金に当てていたのです」
「そ、そんなバカな! 」
「それでも足りず、東京第一銀行様から追加融資を受けるため、先代はご自身の名義で五億円の連帯保証の判を押されました。つまり、先代が残した遺産の実態はプラスの財産ではなく、五億円という莫大な負債だったのです」
健一の顔から見るみるうちに血の気が引いていく。まるで幽霊でも見たかのように口をパクパクとさせている。そこに佐原本部長が氷のような声で追撃した。
「健一さん、あなたは先代が亡くなる直前、ご自身の口車で一親等の財産の管理権限を、御母様である光子様に移譲させましたね。そして、ご自身が選んだ専門家を使って、法的に完璧な名義変更の手続きを行った。ということは、現在この大東建設が抱える莫大な借金の保証人は、あなたのお母様ということになります」
「ち、違う!
俺は預金と株をもらうつもりで! 借金なんて一言も聞いてない! 」
「遺言書には、はっきりと『一切の負債を含む』と記載されていましたよ。あなたがご自身で『有能な知り合いに頼んで完璧にした』とおっしゃっていたではありませんか。投資家としては、法的な保証人である光子様、並びにその実子であるあなたに対し、本日を持って五億円の一括返済を求めます」
「一括返済… 五億円…
」
健一は完全に腰を抜かし、その場に崩れ落ちた。昨夜、高級シャンパンで乾杯したその豪邸が、実は自分たちの首を締めるためのロープだったとようやく理解したのだ。しかし、健一のような男が素直に自分の愚かさを認めるはずがなかった。恐怖は一瞬にして逆上へと変わった。
「ああ! そうか、分かったぞ! 」
床に這いつくばったまま、健一はスマートフォンに向かって狂ったように叫び始めた。
「お前だ! お前、全部知ってて俺たちに押し付けたな!
この機会に乗じて、自分の親の借金を夫の親に押し付けて逃げる気か! この極悪人め! 」
見苦しい責任転嫁。私が十五年間、彼らから受け続けてきた理不尽な非難の集大成だった。
「お前みたいな女に許されるわけがない! 裁判で訴えて、詐欺罪で刑務所にぶち込んでやるからな!
」
私はまたしても深い沈黙で応じた。電話越しに彼の悲鳴を聞きながら、私の心はどこまでも冷え切っていた。私の沈黙を恐怖で声が出ないのだと勘違いした健一は、さらに卑劣なカードを切ってきた。
「はっ、ビビって言葉も出ねえか。いいか、お前がどうあがいても逃げられない理由を教えてやる。お前、さっきルミちゃんのこと言ったよな。ルミちゃんの実家はな、その筋じゃ誰も逆らえないヤクザの家系なんだよ。彼女の親父さんに頼めば、お前を海の底に沈めることなんて造作もないんだ。分かったら今すぐ俺の前に来て土下座しろ。そしてこの五億円の借金はお前が払うって念書に判を押せ! 」
ヤクザ。その言葉に、黒木専務たちも一瞬だけ眉を潜めた。健一は本気で私を物理的に追い詰め、暴力の恐怖で支配しようとしていたのだ。
「どうした? 命が惜しかったら今すぐ謝りに来い! このクズ女が!
」
健一の怒号が響き渡る中、私はゆっくりと息を吸い込み、口を開いた。
「ヤクザですか? それは本当に恐ろしいですね」
「そうだ。怖くなったか。さっさと来い! 」
健一は勝利を確信したように声を弾ませた。私を脅し落とすことに成功したと思い込んでいるのだ。
「ええ、分かりました。そこまでおっしゃるなら、私も覚悟を決めるしかありませんね」
「はっはっ! 最初からそうやって俺の言うことを聞いていればいいんだよ!
」
嘲笑う健一の声を背に、私は静かに電話を切った。そして手元にある黒い手帳を開き、あるページに挟んでいた一枚の写真をそっと抜き出した。そこには、健一が自慢していた愛人、ルミと呼ばれる女の、誰も知らない本当の顔が映っていた。健一は自分の隣で甘い声を出す女が一体何者なのか、全く分かっていない。私を追い詰めた気になっている彼こそが、本当の意味で逃げ場のない地獄の真ん中にいるというのに。
私は手帳を閉じ、冷たくなったほうじ茶を一気に飲み干した。さあ、いよいよ第三段階の幕開けだ。
スマートフォンがしつこい通知音を連続で鳴らしていた。画面には健一からのメッセージが滝のように流れ込んでいる。
「おいクズ女、いつまで待たせる気だ? 」「ルミちゃんの親父さんが怒ってるぞ」「若い衆をホテルに向かわせるって言ってるからな」「命が惜しけりゃ今すぐ会社に来て俺の靴を舐めろ」「五億円の念書にサインしろ」
画面に踊る悪辣な言葉の数々を一瞥し、私は音を立てずにスマートフォンの電源を切った。彼が必死にすがりついている「ヤクザの親分」という幻想。それがどれほど滑稽で哀れなものかを知れば、健一は今度こそ本当に発狂するかもしれない。
私はホテルの部屋を出て、タクシーに乗り込んだ。向かった先は、健一がいる大東建設のオフィスではなく、都内でも有数の高級ホテルのラウンジだった。重厚な絨毯が敷き詰められた静かなラウンジの奥。そこにはすでに一人の女性が待っていた。グレーのシックなパンツスーツに身を包み、知的な銀縁の眼鏡をかけたその女性は、私が近づくとすっと立ち上がり、深々と頭を下げた。
「お待たせいたしました、奥様」
「ありがとう。大変だったわね、ルミ子さん。あんな下劣な男の相手をさせるなんて」
私が労いの言葉をかけると、彼女は眼鏡の奥の目を細め、ふふっと上品に微笑んだ。
「とんでもございません。これも仕事ですから。それに、あの男が自分の首を絞めていく様を間近で観察するのは、なかなか興味深い経験でした」
彼女の名前は雪村ルミ子。つい数時間前まで、電話の向こうで健一の隣に座り、甘ったるい声で「ルミちゃん」と名乗っていた女の本当の姿である。彼女はヤクザの娘などではない。私が個人的に雇った、企業調査や信用調査を専門とするフリーランスの敏腕エージェントだ。
ことの始まりは半年前、父が末期の宣告を受けた時に遡る。父は自分の死後、無能で強欲な健一と義母が会社を食い物にすることを確信していた。しかし健一を無理やり会社から追い出せば、彼らは逆上して嫌がらせを繰り返し、社員たちに迷惑がかかる。そこで父と私は、彼らを法的に、そして社会的に完全に破滅させ、二度と立ち上がれないようにするための罠を仕掛けることにしたのだ。その手駒の一人として私が白羽の矢を立てたのが、雪村ルミ子だった。彼女には総務部の派遣社員として大東建設に潜入してもらい、健一の女癖の悪さを利用して近づき、彼の行動を全て私に報告させていた。
「それで、健一の様子はどう? 」
私が尋ねると、ルミ子さんは呆れたようにため息をついた。
「滑稽としか言いようがありません。五億円の借金を義母様に押し付ける完璧な計画を思いついたと、本気で信じ込んでいますよ。私が『実家はヤクザだから、父に頼んで奥様を脅してあげる』と吹き込んだら、涙を流して喜んでいました」
「そう。本当に救いのない男ね」
私は冷めた紅茶に口をつけながら、十五年連れ添った男の底知れぬ愚かさに、静かな絶望感を覚えていた。
「ところで奥様、ルミ子さんが少し声を潜めた。本当にあの五億円の融資は、奥様ご自身のポケットマネーだったのですね。先代の社長からお話は伺っていましたが、実際に裏付けの書類を見た時は震えました」
「ええ、父には内緒にしていたのだけれど、まさかこんな形で役に立つとは思わなかったわ」
そう、これが健一たちは愚か、会社の役員たちすら知らない私の秘密だった。健一は私のことを、親の金にしがみついているだけの無能な専業主婦と罵り続けていた。しかし現実は全く違う。私は大学時代から独自に株式投資と資産運用を始め、結婚後も自宅のパソコン一台で莫大な利益を生み出し続けていた。現在、私が個人で保有する資産は優に数十億円を超える。海外の投資家たちの間では、私の旧姓をもじった「マダム大東」という名で、ちょっとした有名人になっていたほどだ。
大東建設の経営が傾き、銀行の融資が打ち切られそうになった時、私は裏から手を回し、自分の資産を担保にして東京第一銀行からの融資という形で五億円を会社に注ぎ込んだのだ。つまり、健一が義母の名義で引き継いだ豪邸の借金の本当の債権者は、他でもないこの私自身だった。
私はテーブルの上に置かれた黒い手帳を手に取った。
「これで証拠は全て揃ったわ。健一の横領の記録も、義母が父を騙してサインさせた遺言の裏付けも」
「ええ、いつでも警察と国税局を動かせる状態です」
ルミ子さんが力強く頷く。その時、再び私のスマートフォンが震えた。画面には健一の名前。私はゆっくりと通話ボタンを押し、耳に当てた。
「おい、てめえどこほっつき歩いてるんだ! ルミちゃんの親父の若い衆が、もうお前を探しに動いてるんだぞ!
殺されたくなかったら今すぐ俺の前に来て土下座しろ! 」
電話から響く、恐怖と焦りが入り混じった金切り声。私は隣に座るルミ子さんと顔を見合わせ、声を出さずに冷たく笑った。
「ええ、分かりました。今からそちらに向かいます」
「はっ、やっと事の重大さが分かったか。早く来い! 」
「はい。あなたたちの用意した地獄の底へ」
私はそのまま電話を切り、立ち上がった。さあ、十五年分の未払いのツケを、一括で清算する時間だ。
大東建設の最上階にある社長室。かつて父が威厳を持って座っていた場所だ。しかし今、そこは揉み消し難い阿鼻叫喚の地獄と化していた。
「どういうことなの? 五億円の借金が私の名義になってるって、何かの間違いでしょう!
あんた、私に『絶対安心な株と預金が手に入る』って言ったじゃない! 」
義母の光子が、先ほど銀行員から突きつけられた書類を握りしめ、顔面を蒼白にしながらヒステリックに叫んでいた。その声は裏返り、普段のお上品ぶった態度は微塵もない。
「うるせえな! 俺だって今考えてるんだよ! あのクズ女、絶対にあいつが裏で糸を引いてるに決まってる!
」
健一は髪を振り乱し、新品のブランドスーツをくしゃくしゃにしながら室内を歩き回っていた。彼は何度もスマートフォンを耳に当てていた。
「くそっ! なんで繋がらないんだ! ルミちゃん、早く電話に出てくれ! 」
健一は愛人であるルミの「ヤクザの父親」という架空の権力にすがりつこうと必死だった。ルミの父親の力を使えば、銀行員を脅して借金をチャラにさせ、私を拉致して全てを片付けさせることができると本気で信じ込んでいるのだ。しかし、ルミ子はすでに私の隣で優雅に紅茶を飲んでいたのだから、電話が繋がるはずもない。無機質なアナウンスが健一の焦燥感をさらに煽る。
「健一!
早くそのヤクザの親分さんに連絡して、あの生意気な嫁を脅してもらいなさいよ! そして五億円はあいつに払わせるのよ! あんな価値のない寄生中は、海の底にでも沈めてもらえばいいわ! 」
義母の金切り声が響く。そこへ、ノックもなしに社長室の重厚なドアが開いた。黒木が数名の役員を引き連れ、氷のように冷たい顔で立っていた。
「何の用だ黒木!
俺は今、ルミちゃんの親父さんと重大な話をしてるんだ! お前らみたいな無能な老体は引っ込んでろ! 」
健一が虚勢を張って怒鳴るが、黒木は全く動じない。
「健一さん、あなたには五億円の件以外にも、重大なご報告があるのをお忘れですか? 」
黒木は手にした分厚いファイルを机の上に叩きつけた。
「これは、あなたが過去五年間に渡って会社の経費を不正に流用した証拠書類です。架空の外注費の計上、水増しされた接待交際費、そして会社の金で購入した高級車。総額で一億二千万円に上ります」
「で、出たらめだ!
俺は親父さんから経費の使い道を一任されてたんだ! 」
「先代が、愛人と高級ホテルに連泊するための費用や、銀座のクラブでの飲み代を許可するはずがないでしょう。これは明白な業務横領です。すでに警察の捜査には相談を済ませ、証拠も提出してあります」
「警察… 」
その言葉に、義母がビクっと肩を震わせた。
「警察!? 健一!
あんた、会社の金に手をつけてたの!? 冗談じゃないわよ! 私はそんなこと何も知らないからね! 」
つい数時間前まで「本当に賢い息子」と、五億円の遺産を共に喜んでいた義母が、手のひらを返したように健一からじりじりと距離を取り始めた。
「ふざけんな母さん!
親父さんの全財産移譲にサインしたのは母さんだろ! 会社の責任も母さんが追うんだよ! 俺の借金じゃない、母さんの借金だ! 」
「何言ってるのよ!
あんたが騙してサインさせたんでしょ! この親不幸者! 」
見苦しい責任の押し付け合い。自分の保身のためなら、実の親子であっても簡単に切り捨てる。彼らの浅ましい本性が、これ以上ないほど露わになっていた。
その時、再び社長室のドアが開いた。
「随分と賑やかなようですね」
私が静かに足を踏み入れると、社長室の醜い言い争いはぴたりと止まった。健一は私の姿を見るなり、顔を真っ赤にして飛びかかってきそうな勢いで怒鳴りつけた。
「お前! よくもまあ、この土壇場で顔を出せたな!
てめえのせいで俺がどれだけ…! ちょうどいい。今すぐここで五億円の念書を書け! 」
義母もまるで鬼のような形相で私を指差す。
「そうよ! あんたみたいな疫病神が来たから、こんなことになるのよ!
学歴もない底辺女のくせに、偉そうに! さっさと借金を片付けて、ヤクザにでも売られちまいなさい! 」
十五年、数えきれないほど浴びせられてきた侮辱の言葉。しかし今の私には、その言葉は何のダメージもなかった。私はただ、床に散らばった横領の証拠ファイルと、泡を食ってまくし立てる二人の顔を交互に見比べ、冷ややかな沈黙を保った。
私のその見下すような視線に、健一はさらに苛立ちを募らせた。
「黙ってんじゃねえ! いいか、お前がいくら強がっても無駄だ。ルミちゃんの親父の若い衆が、もうこのビルの下まで来てるんだ。逃げられると思うなよ!
」
得意げな顔でスマートフォンを突きつけてくる健一。その姿に、私は思わずふっと小さく笑い声を漏らしてしまった。
「なんだと? 何がおかしい? 」
「いいえ。あなたがそこまで頼りにしているルミちゃんですが、あいにく実家はヤクザなどではありませんよ」
「はあ? 何を出鱈目なことを言ってるんだ」
「出鱈目かどうかは、これを見れば分かります。ルミ子さんからあなたへの伝言と預かり物です」
私はバッグから一枚の名刺と黒いUSBメモリを取り出し、机の上に滑らせた。それを見た瞬間、健一の目が大きく見開かれ、全身が小刻みに震え始めた。その名刺に書かれた肩書きが、彼の命綱だった希望を木っ端微塵に打ち砕くことになる。
「ゆ、雪村…
総合信用調査、企業信用調査… 認定エージェント… 」
健一は机の上に滑らされた名刺を手に取り、震える声でその文字を読み上げた。何度も何度も目をこすりながら名刺の文字を凝視している。しかし、何度見直してもそこに「ヤクザの組長」などという恐ろしい肩書きは書かれていなかった。
「ど、どういうことだ? ルミちゃんは、逆らうと誰もが黙る極道の娘じゃなかったのか?
俺に嘘をついていたっていうのか? 」
健一の顔面から、見るみるうちに血の気が引いていく。
「ええ、その通りです。彼女は私が個人的に雇ったプロの調査員。あなたと義母さんの素性を徹底的に洗うために、半年前から総務部の派遣社員として潜り込ませていたのです」
「お、お前が雇っただと!? ふざけるな! じゃあ、ルミちゃんが俺に惚れてたっていうのは…
」
「全て演技ですよ。仕事です。あなたのような浅はかな男に近づき、警戒心を解かせ、証拠を掴むためのね。彼女は毎晩のようにあなたの愚痴や自慢話を聞かされて、本当にうんざりしていましたよ」
健一は「ああ… 」と情けない声を漏らし、その場に膝から崩れ落ちた。彼が自分の命綱だと信じてすがりついていた「強大な権力」は、最初から存在すらしていなかった。ただ、私が仕掛けた蜘蛛の巣の上で、いいように踊らされていたのだ。
「そ、そんな… じゃあ、ヤクザの若い衆が迎えに来るっていうのも… 」
「もちろん、嘘ですよ。あなたを逃がさずに、この社長室に留まらせるための、ちょっとした楽しい方便です」
「本当にヤクザが来ると思って、震えながら待っていたんですか?
」
私が軽く小首をかしげて尋ねると、健一は顔を真っ赤にして床を殴りつけた。
「騙したな! この小賢しい女が! お前みたいな血も涙もない悪魔は、絶対に許さないからな! 」
健一の絶叫が社長室に響き渡るが、もはやその声に威厳はない。ただの負け犬の遠吠えだった。
「騙されたのは、どちらかしら?
黒木さん、そのUSBメモリを」
私は机の上に置いておいた黒いUSBメモリを指さした。黒木専務が無言でそれを拾い上げ、社長室の巨大なモニターに接続する。画面に映し出されたのは、数えきれないほどの音声ファイルと動画ファイルのリストだった。
「ルミ子さんがあなたと過ごした時間の中で収集したものです。再生をお願いします」
黒木がマウスをクリックすると、スピーカーから聞き慣れた男の、甘ったるくそして下劣な声が流れ出した。
『ルミちゃん、俺さ、親父が死んだら、この会社の金全部好きに使えるんだよね。そうしたら、ルミちゃんには高いもの買ってあげるよ。あのうるさいババアは、文句もなしにポイ捨てしてやるからさ』
『義母さんもチョロいもんさ。遺産はあんたの名義にするって言えば、ホイホイ判を押すよ。まあ、いざとなったらあの老婆も、老人ホームにでも放り込んでやるけどな。ははっ』
音声が流れるたびに、健一の顔は蒼白から土色へと変わっていった。そしてその後ろで呆然と立ち尽くしていた義母の光子が、ついに堪忍袋の緒が切れたように悲鳴を上げた。
「け、健一! あんた! 私のことをチョロいって言って、老人ホームに放り込むってどういうことなのよ! 」
義母は鬼の形相で健一に詰め寄り、彼の胸ぐらを掴んで激しく揺さぶった。
「やめろ母さん!
それはその、酒の席での冗談で… 」
「冗談でこんなこと言うわけないでしょう! この親不幸者! 私を騙して五億円の借金を押し付けた挙げ句に、捨てる気だったのね!
許さないわよ! 絶対に許さない! 」
義母の平手が、乾いた音を立てて健一の頬を打った。健一も逆上し、
「うるせえ! 離せ!
」
と母を突き飛ばす。床に転がった義母は「人殺し! 自分の母親に手を上げるなんて! 」と泣き喚き、健一は頭を抱えて「もう嫌だ! 誰か助けてくれ!
」と叫び声を上げる。数時間前まで五億円の遺産を手に入れて高笑いしていた二人が、今や互いを罵り合い、憎み合い、床に這いつくばって見苦しい争いを繰り広げている。黒木専務を始め、周囲を取り囲む役員たちはあまりの醜悪さに、軽蔑の目を向けることすらやめ、ただ俯瞰的に見下ろしていた。
私はその地獄絵図を静かに見つめながら、十五年分の鬱憤が音を立てて崩れ去っていくのを感じていた。しかし、これで終わりではない。
「見苦しい争いは、それくらいにしていただけますか? 」
私の静かだが凛とした声が、阿鼻叫喚の社長室に響き渡った。二人は動きを止め、恨みがましい目で私を睨みつける。
「なんだよ! まだ何かあるっていうのか! 俺たちはもう何もかも失ったんだぞ!
」
健一が涙で潤んだ目で怒鳴る。
「ええ、あなたたちは全てを失った。でも、一番重要な真実をまだ一つだけ理解していません」
「一番重要な真実? 」
私は彼らに向かってゆっくりと歩み寄り、冷たく告げた。
「その豪邸の借金、一体誰に返済しなければならないのか、お忘れですか? 」
その言葉に、健一と義母の顔がさらに深い絶望へと歪んでいった。
「返金を返す相手? どういう意味だ?
銀行に返すんじゃないのか? 」
健一は焦点の定まらない目で私と銀行員の佐原本部長を交互に見比べた。佐原本部長は感情の欠片もない無機質な声で真実を告げた。
「東興銀行が先代社長に融資した五億円。それは東興銀行のプロパー融資ではなく、ある個人投資家様の資産を完全担保とした信託形式の融資でした。つまり、東興銀行は単なる窓口に過ぎず、あなた方が五億円を返済しなければならない本当の債権者は、別にいらっしゃるということです」
「こ、個人投資家… 」
健一の口がだらしなく開く。
「はい。海外の金融市場では『マダム大東』という名で知られる、辣腕の機関投資家様です。そしてその方の本名は… 」
佐原本部長は恭しく私の方へと向き直り、深々と一礼をした。
「こちらにいらっしゃる、先代社長のご令嬢。つまり、あなたの奥様です」
その瞬間、社長室は水を打ったような静寂に包まれた。健一も義母も、まるで雷に打たれたかのように硬直し、息をするのすら忘れているようだった。
「は…?
な、なんだって? 」
数十秒の沈黙の後、健一が絞り出すような声を上げた。
「聞こえなかったのかしら? 」
私はゆっくりと健一の目の前に立ち、彼を見下ろした。
「あなたが押し付けられた豪邸の借金。その本当の貸主は、他でもない。この私。あなたが見下し、『学歴もない底辺女』と罵り続けた、この私がね」
「嘘だ! 嘘に決まってる!
お前みたいな女が、五億円も持ってるわけがないだろうが! 」
健一が潤んだ目で叫び、立ち上がろうとした。しかし、足に力が入らないのか、再び無様に床へ崩れ落ちた。
「嘘だと思うなら、佐原さんに確認なさい。私が結婚前から株式投資を始め、独自の資産運用で数十億円の財産を築いていたことを、銀行は全て把握しているわ」
佐原本部長が静かに頷いた。
「奥様の資産残高証明書は、厳重に保管しております。先代社長の会社が傾いた際、奥様がご自身の資産から五億円を拠出し、会社を救ったのです。あなたはその救い主である奥様を家から追い出し、挙げ句の果てに、ご自身の借金の債権者に対して暴言を吐き続けていたのですよ」
その事実が脳内で処理された瞬間、健一はガタガタと全身を激しく震わせ始めた。
「そ、そんな… 」
健一の頭の中では、これまでの自分の行動が走馬灯のように駆け巡っていたに違いない。自分よりも圧倒的な財力と権力を持つ妻を蔑ろにし、あろうことかその妻に豪邸の借金を押し付けようと、ヤクザの嘘までついて脅迫したのだ。自分の愚かさが、取り返しのつかない巨大な絶望となって彼に重くのしかかる。
そして、その絶望をさらに加速させたのは、隣で聞いていた義母の言葉だった。
「健一! あんた、どういうことなのよ!
あんたの奥さんがそんな大金持ちなら、なんで借金なんて押し付けたの!? 謝りなさい! 今すぐ奥さんに土下座して、借金をチャラにしてもらいなさい! 」
義母は狂ったように健一の背中を叩き、私に向かって必死に媚を売り始めた。
「あ、奥さん。違うのよ!
私は健一に騙されて、遺言にサインしただけで、あなたのことは本当に娘のように思ってたのよ! ねえ、お願い。あの借金の話は、なかったことにしてちょうだい! 」
手のひらを返す速さに、私は呆れ果てて言葉も出なかった。つい先ほどまで「ヤクザにでも売られちまいなさい」と罵っていた口で、よくもまあそんな白々しい嘘がつけるものだ。
「義母さん、あなたが私をどう思っていようと、法的な保証人があなたであるという事実は変わりません。そして私は、あなたたちからの返済を免除する気は一切ありません」
私の氷のように冷たい言葉に、義母は「ひっ」と短い悲鳴を上げて後ずさりした。健一はついに完全に心が折れたのか、大理石の床に額を擦りつけ、泣き叫びながら土下座を始めた。
「ごめんなさい! 俺が悪かった!
浮気も横領も全部謝る! だから頼む! 五億円なんて返せない! 俺を破産させないでくれ!
見捨てないでくれ! 」
男のプライドも何もなく、ただ涙と鼻水にまみれて命乞いをする健一。十五年、私を見下し続けてきた男の、それが真の姿だった。しかし私の心に、微塵の同情も湧かなかった。十五年、私が流した見えない涙の量に比べれば、彼のその涙など一滴の価値もない。
「泣いて済む問題ではありませんよ、健一さん」
私は土下座する彼を冷たく見下ろしたまま、最後通告とも言える言葉を突きつけた。
「私が用意した地獄は、これだけではありませんから」
「え? 」
顔を上げた健一の目に、新たな恐怖の色が浮かぶ。
「豪邸の借金と横領による逮捕。それはあくまで結果です。あなたたちには、これから一番大切なものを失ってもらわなければなりません。黒木さん、次の方をお呼びして」
私の指示に、黒木専務が社長室のドアを開けた。そこへ入ってきたある人物の姿を見た瞬間、健一と義母は今度こそ言葉にならない絶叫を上げることになる。
社長室のドアが開き、入ってきた人物の顔を見た瞬間、健一は頓狂な悲鳴を上げた。入ってきたのは、小太りで神経質そうな金縁メガネをかけたスーツの男だった。その後ろには、体格の良いスーツ姿の男が二人、まるで影のように無言で立っている。
「どなたですか? あの方は」
黒木専務がわざとらしく私に尋ねた。私は冷たく笑い、健一の顔を見据えながら答えた。
「健一さんが以前、自慢気に語っていた『有能な知り合い』ですよ。父の遺言を偽造し、五億円の負債の名義変更を完璧に行ったという、悪徳弁護士の神崎さんです」
神崎は、すがりつくような健一の視線を避けるように、うつむいている。
「おい、神崎!
なんでお前がここにいるんだよ! ちょうどいい! お前が作ったあの遺言、俺たちに借金を背負わせるなんて聞いてないぞ! 今すぐ無効だって証言しろ!
」
健一は這いつくばったまま、すがるように神崎のズボンの裾を掴もうと手を伸ばした。しかし神崎はその手を、汚いものでも見るかのように冷たく振り払った。
「やめてくれ、健一。もう全て終わったんだ」
「はあ? 終わったって、何がだ! 」
健一が虚ろな声を漏らす。神崎は深く息を吐き、静まり返った社長室に真実を響かせた。
「奥様の雇った調査員の雪村さんから、全ての証拠を突きつけられたんだよ。お前が会社の金を横領していたこと。そしてあの遺言が、意識のない先代の手を無理やり握らせて描かせた、偽造であることもな」
「な、バカ野郎! お前も共犯だろうが!
」
「ああ、そうだ。だから私は自分の罪を少しでも軽くするために、弁護士を通じて奥様に全面協力することにしたんだ」
「神崎… 」
「健一。私は、あの日の病室でのやり取りを、お前たちが私を裏切った時のために、隠しボイスレコーダーで録音していたんだよ」
健一と義母の顔が、一瞬にして凍りついた。神崎が胸ポケットから取り出した小型のレコーダーの再生ボタンを押すと、生々しい音声が流れ出した。
『おい、光子さん、親父さんの手をしっかり抑えててくれ』
『ちょっと健一、本当に大丈夫なの? バレたら刑務所よ』
『あのバカな嫁には絶対にバレない。あのクズ女は、どうせ会社のことなんて何も分かってないんだから。これで五億円は俺たちのものだ。さあ、早く判を押させろ』
自分たちの下劣な会話が響き渡る中、健一は頭を抱えて「うわあああっ! 」と獣のような絶叫を上げた。
「というわけです」
神崎の後ろに立っていた体格の良い男たちが一歩前に出た。そして懐から黒い手帳を提示した。
「警視庁捜査第二課の者です。遺言書偽造及び、同行使並びに詐欺未遂の容疑で、お二人に同行をお願いしたい。もちろん、会社の資金一億二千万円の横領の件についても、後でじっくりとお話を伺いますよ」
警察官。その絶対的な権力と、逮捕という現実の重みに、ついに義母の光子は白目を剥いてその場に崩れ落ちた。
「ひ、いやああ!
私じゃない! 全部、このバカ息子が勝手にやったことなのよ! 私は無実よ! 」
言葉にならない悲鳴を上げながら、義母は倒れ込んだまま健一の足を何度も蹴りつけた。健一はといえば、もはや人間としての尊厳すら失い、ガタガタと震えながら床に水溜まりを作って失禁していた。新品のブランドスーツが、無残に汚れていく。
「嫌だ!
逮捕なんて嫌だ! 刑務所なんて行きたくない! 母さん! 母さんが主犯だって言ってくれよ!
俺のせいじゃない! 」
二親子による、この世の地獄のような醜悪な責任の擦り付け合い。自分の保身のためなら、肉親すら平気で生贄に捧げる。これが、私を十五年苦しめ続けてきた人間たちの本当の姿だった。私はその無残な光景を、ただ静かに、一切の感情を交えずに見下ろしていた。
「連れて行ってください」
私が警察官に短く促すと、彼らは健一と義母の両脇を力強く抱え上げ、立たせた。ガチャリと鈍い金属音が響き、健一の手首に手錠がかけられる。
「待ってくれ! 頼む! 被害届を取り下げてくれ!
金なら返す! 一生かけて奴隷になってでも返すから! 俺にはまだ未来があるんだ! 」
健一が狂ったように泣き叫ぶ。私は彼にゆっくりと歩み寄った。
「健一さん、先ほど『これからあなたたちに一番大切なものを失ってもらう』と言いましたね」
「え?
逮捕されて、五億円の借金を背負わされて、それ以上に俺が何を失うって言うんだよ」
鼻水と涙で顔をぐしゃぐしゃにした健一が、掠れるような声で問い返す。私は彼に背を向け、最上階の窓から見える真っ青な空を見つめながら、静かに、しかし決定的な一言を放った。
「あなたが失うもの。それは、この十五年、あなたが誇って生きてきた、あなた自身の『血筋』ですよ」
「俺の… 血筋…? 」
健一の顔が、恐怖と混乱で激しく引きつる。私は振り返り、彼の目をまっすぐに見つめた。彼を支持する刑事たちも、一瞬動きを止めた。
「義母さん、あなたは折に触れて私をこう罵りましたね。『学歴もない中卒の分際で、うちの優秀な家系に入れただけでもありがたいと思いなさい』『結婚して何年経っても子供一つ産めない』『健一の優秀な遺伝子を残せない不良品』と」
義母は、自分が逮捕される寸前だというのに、妙なプライドだけは捨てきれず、最後の反撃とばかりに甲高い声を荒げた。
「そうよ! 健一は一流大学を出たエリート!
中卒のあんたなんかとは、DNAの出来が違うのよ! あんたが不良品だから、私にはいつまで経っても孫の顔が見られなかったのよ! 」
健一も母の言葉に乗っかるようにして叫んだ。
「そうだ! お前がいつまで経っても妊娠しないから、俺はわざわざ外に女を作ってやったんだ!
俺の優秀な遺伝子を残すためにな! 俺はお前とは違うんだよ! 」
私は二人の浅ましい言い訳を遮ることなく、ただ深い沈黙を保った。哀れだ。自分がどれほど無知で滑稽なピエロを演じているのか、この土壇場になっても全く気づいていない。十分な沈黙を置いた後、私はバッグからあの黒い手帳を取り出し、そのページに長年挟んでいた一枚の古い書類を抜き出した。
「結婚して五年目のことです。義母さんに毎日のように『早く孫を産みなさい』と責められ、私は一人で不妊治療の専門クリニックを受診しました。そこで医師から『念のため夫の検査も』と勧められ、私はあなたが飲み終えた紙コップから、こっそりと検体を採取して調べてもらったんです」
健一の顔が引きつった。私はその古い診断書を黒木専務に手渡した。黒木は眼鏡の位置を直し、無機質だが通る声でその内容を読み上げた。
「患者名、健一様。検査結果… 無精子症。自然妊娠は愚か、顕微授精などの高度な治療を用いても、患者様ご自身のお子様を授かる可能性は、限りなくゼロに近いと記載されています」
社長室の空気が、ぴたりと止まった。健一の口がだらしなく開き、義母の目からすっと正気が抜け落ちた。
「な、なんだって…
無精子症…!? 俺が…!? 」
「嘘よ! 出鱈目よ!
」
義母が狂ったように金切り声を上げた。
「だって、健一は三年前に銀座のホステスを妊娠させてるのよ! その子を下ろすために、示談金として会社のお金から二千万円も払ったって! そうでしょう、健一! 」
「あ、ああ、そうだ!
俺は女を妊娠させたことがある! その手切れ金を払った! この診断書は、俺を落とし入れるためにお前が作った偽造だ! 」
健一が潤んだ目でまくし立てる中、後ろで控えていた雪村ルミ子がふっと冷ややかな笑みをこぼして一歩前に出た。
「本当に、どうしようもないおめでたい頭ですね、健一さん」
「なんだとルミ子!
てめえ、俺を裏切ったくせに、偉そうな口を叩くな! 」
ルミ子は持っていたタブレット端末を流れるような手付きで操作し、一枚の写真を社長室の巨大なモニターに映し出した。そこには、派手なドレスを着た女性と、ホスト風の男が、生まれたばかりの赤ん坊を抱いて満面の笑みを浮かべている写真だった。背後にはハワイの青い海が広がっている。
「三年前にあなたが『妊娠させた』と信じ込んでいる、そのホステスの現在の姿です。彼女は当時同棲していたこのホストの子供を妊娠していました。しかし、お金がなかったため、ちょうどお店で羽振りが良く、見栄っ張りだったあなたをカモに選んだんです。『あなたの子供を妊娠した』と嘘をつき、中絶費用と手切れ金の名目で、あなたから二千万円を騙し取った。そのお金で、彼らは今、ハワイで優雅に子育てを楽しんでいますよ」
「あ… ああ… 」
健一の喉から、空気が漏れるような情けない音が鳴った。彼が自分の「優秀な血筋」を残したと信じ、横領した会社の金まで注ぎ込んで守り抜いた「プライド」は、ただの悪質な詐欺だった。自分の子供ではない赤ん坊のために、会社から二千万円を横領し、それをホステスに貢いでいた。そして、自分自身が原因であるにも関わらず、何の問題もない妻を「不良品」と罵り続けていた。
「調査員として数多くのクズを見てきましたが、あなたほどの底抜けのピエロは初めてです」
ルミ子の氷のような事実の羅列が、健一の心臓を容赦なく抉り取る。
「嘘だ…
嘘だ… 」
健一は手錠をかけられた両手で頭を抱え、大理石の床に頭を何度も打ち付け始めた。自分が「中卒」だと見下していた妻は、数十億円を操る天才投資家。自分の行く末を委ねていた「有能な知り合い」は、あっさりと裏切った悪徳弁護士。自分が愛していた女たちは、自分をATMとしか見ていない詐欺師とスパイ。そして、自分が最も誇りにしていた「優秀な血筋」は、そもそも最初から存在すらしていなかった。十五年、彼が虚勢を張って築き上げてきた虚構の朗閣は、今、完全に音を立てて崩れ去った。
「健一! あんた… あんたが…
息子が産めない男だったの!? じゃあ、私の孫は… 私の優秀な家系は… あんたの台無しで終わったってこと!?
」
義母は全てを失った絶望とショックのあまり、ついに白目を剥いてその場に昏倒してしまった。
「連れて行ってください」
私が静かに命じると、警察官たちは失神した義母と、泣き叫びながら床を転げ回る健一を、力づくで引きずり起こした。
「嫌だ! 待ってくれ! 母さん! ルミ子ちゃん!
神崎! 誰でもいい! 俺を置いて行かないでくれ! 」
もはや人間の言葉の体をなしていない絶叫が社長室に響き渡る。
「健一さん」
警察官に引きずられていく彼の背中に、私は最後にもう一つだけ声をかけた。彼が涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を、すがるように振り返らせる。
「まだ終わっていませんよ。あなたが一番知りたかった最大の真実を、まだ教えていませんから」
「さ、最大の真実…?
」
私は彼に向かって、この十五年間で最高に冷ややかな微笑みを浮かべた。
「ええ。父がなぜ、無能なあなたを十五年もの間、この会社に置き続け、そして最後の最後に、あなたに全財産を委ねるような隙を見せたのか。その本当の理由を、ね」
健一の目が限界まで見開かれた。そのまま彼は一言の言葉も発することなく、警察官によってエレベーターへと引き摺り込まれていった。
数日後。どんよりとした重い雲から、冷たい雨がしとしとと降り続く午後だった。私は一人で、都内の警察署にある面会室のパイプ椅子に腰を下ろしていた。無機質な白い壁と、目の前を遮る分厚いアクリル板。重い鉄の扉が開き、一人の男が刑事に付き添われて入ってきた。
「… 来てくれたんだな」
その姿を見た瞬間、私は思わず目を疑いそうになった。アクリル板の向こう側に座ったその男、健一は、つい数日前まで高級ブランドのスーツを身にまとい、社長室でふんぞり返っていた男とはまるで別人だった。髪は油でべったりと額に張り付き、頬はげっそりとこけ、無精髭がだらしなく伸びている。落ちくぼんだ両目は血走り、まるで怯えた小動物のように絶えずきょろきょろと動いていた。
「なあ、頼むよ。警察での取り調べが、もう耐えられないんだ。毎日毎日、横領の証拠を突きつけられて… このままじゃ頭がおかしくなっちまう」
健一はアクリル板にすがりつくように両手を押し当て、涙声で縋ってきた。かつて彼は私に向かってこう言い放った。「お前みたいな学歴もない底辺女、親父さんの金がなきゃとっくに捨ててたんだよ」「俺はお前とはDNAの出来が違うんだ」と。あの時、私を虫けらのように見下していた彼が、今はその「底辺女」に向かって無様に命乞いをしている。私は冷え切った目で彼を見つめながら、ただ沈黙を保った。
「黙ってないで、何とか言ってくれよ、お前。あの日、言ってたよな。『親父さんが俺を会社に置いてくれた理由がある』『最後に俺に全財産を託した理由がある』って。親父さんは俺の経営の才能を認めてくれてたんだろう? だから、お前が被害届を取り下げてくれれば…
」
自分に都合の良いようにしか物事を解釈できない。その底抜けの愚かさに、私は静かにため息をついた。
「あなたにあるのは、底なしの強欲さと、見栄を張るための虚勢だけよ」
私の冷ややかな声に、健一の顔が引きつった。
「十五年前、あなたが初めて私の実家に結婚の挨拶に来た日のことを覚えているかしら。父はあの日、あなたの愛想の良い笑顔の裏にある本質を、一瞬で見抜いていたのよ」
「本質…? 」
「ええ。父はすぐに興信所を使い、あなたの身辺を徹底的に調査させたわ。その結果、あなたが消費者金融に多額の借金を抱え、複数の女性とトラブルを起こしている最低の男だということが分かったの」
健一の口がだらしなく開き、喉から「あ… 」と間の抜けた音が漏れた。
「な、なら、なんで… なんで親父さんは俺たちの結婚を許したんだよ?
なんで俺を会社に入れたんだ? 」
「あなたのことを、父の会社である大東建設の社長の娘という肩書を使って、外で取り返しのつかない犯罪に手を染めるのが目に見えていたからよ。だから父は、あなたを会社の役員室という名の檻に閉じ込め、手元で監視しながら飼い殺しにすることを選んだの」
私はバッグの中から、あの日から持ち歩いている黒い手帳を取り出し、アクリル板越しに健一に見せた。
「あなたが会社の経費を横領し、愛人に貢いでいたことも、父は最初から全て見通していたわ。父がそれを黙認していたのは、いつか私があなたを見限った時、あなたを法的に完全に破滅させるための決定的な証拠として、あえて罪を重ねさせていたからよ」
健一の顔から、見るみるうちに血の気が引いていく。
「じゃあ… じゃあ、親父さんが最後にボケたふりをして、俺たちに財産の管理を任せたのも… 」
「ええ。父の最後の仕事よ」
私は手帳をしまい、冷酷な事実を突きつけた。
「父は自分が末期で長くないと知った時、最後の仕上げに取りかかったの。あなたたちに完璧な罰を与えるためにね。だから、わざと意識が混濁しているふりをして、義母さんが用意した遺言にサインした。あの五億円の借金を、あなたたちに背負わせるためにね」
「命をかけて…
芝居を… 」
「その通り。父と私が仕掛けた『五億円の遺産』という名の罠。あなたたちは見事に食いつき、自分から進んで、首に縄をかけたのよ。これが、父があなたを十五年もの間、生かしておいた最大の理由よ」
健一は両手で顔を覆い、「うわあああっ! 」と絶叫した。全てを悟ったのだ。自分が最初から最後まで、手のひらの上で転がされるだけの滑稽なピエロだったこと。親父は俺を最初から… 。
「父は私を守るために、自分の命と会社を懸けたの。あなたたちのような寄生虫から、私を完全に解放するためにね。だから、私があなたの被害届を取り下げることなど、天地がひっくり返ってもあり得ないわ」
私の氷のような宣告に、健一はパイプ椅子から崩れ落ち、床に這いつくばって泣き叫んだ。
「許してくれ!
俺がバカだった! もう二度と、お前の前に姿を見せないから! 一生かけて罪を償うから! だから、助けてくれ!
」
「ええ、一生かけて償ってもらうわ。五億円の借金は、自己破産しても免責されないように、法的な手続きは全て済ませてあるから」
私は立ち上がり、出口へ向かって歩き出した。ドアの取っ手に手をかけた時、最後に一度だけ振り返り、泣き喚く健一にこう告げた。
「でもね、健一さん。あなたの本当の地獄は、まだこれからよ」
「え…? 」
健一が涙と鼻水にまみれた顔を上げる。
「あなたと一緒に逮捕された義母さん。彼女が今、警察署の別の取調室で、あなたについて何を証言しているか、知りたいかしら? 」
健一の血走った両目が、限界まで大きく見開かれた。
「『私は何も知らなかったんです。全部、あの恐ろしい息子が仕切ったことで、私は無理やり従わされただけなんです』って、泣き喚いているそうよ。さらに、こうも証言しているわ。『あの子は言うことを聞かないと、老人ホームに放り込むと私を脅しました。遺言のサインも、あの子が私の手を取って無理やり書かせたんです。私はあの恐ろしい息子に支配された、哀れな被害者なんです』ってね」
健一の喉から、空気が漏れるような音が鳴った。自分が主犯として重い罪に問われるのを恐れて、あなたに全ての罪を擦り付けようと必死になっているのよ。身の母親に完全に見捨てられた気分は、どうかしら? 数秒の空白の後、面会室に鼓膜が破れるほどの絶叫が響き渡った。
「あのクソババア!
ふざけんな! 最初から親父さんの遺産を狙って、俺を焚き付けたのはあのババアの方じゃないか! 自分が助かるために、俺を売る気か! 」
健一は立ち上がり、手錠をかけられた両手でアクリル板を叩き始めた。
「刑事さん!
呼んでくれ! 今すぐあのババアをここに連れてこい! ぶっ殺してやる! 俺を裏切るなんて、絶対に許さないからな!
」
暴れる健一を、後ろに立っていた刑事が力づくでパイプ椅子に押さえつけた。しかし健一は錯乱状態に陥り、口から泡を飛ばしながら喚き散らした。
「お前からも警察に行ってくれ! あのババアが主犯だって! 俺は騙されたんだ! 俺だって被害者なんだよ!
」
かつて、私を「学歴もない底辺女」と罵り、莫大な遺産を手に入れたと高笑いしていた男の成れの果て。自分の保身のためなら、実の親すら殺すと喚き散らす。これが、彼が十五年隠し続けてきた本当のDNAの出来だった。
私は彼の醜い命乞いを遮ることなく、ただ深い、氷のような沈黙で応じた。いくら泣き叫ぼうが、いくら土下座をしようが、私の心には微塵も響かない。
「あなたたち親子は、本当にそっくりね」
私が静かに口を開くと、健一はぴたりと動きを止めた。
「自分の欲望のためなら、平気で他人を騙し踏みにじる。そして、自分が不利になれば、今度は肉親すら平気で裏切り、生贄に捧げる。あなたたちがこの十五年、私にしてきたことの報いを、今度は自分たち同士で味わいなさい」
「ま、待ってくれ! 」
「私とあなたの間に、これ以上話すことは何もないわ。冷たい鉄格子の向こう側で、お互いを憎み合い呪い合いながら、生きていきなさい」
私は席を立ち、冷たく言い放った。
「さようなら、健一さん。もう二度と、私の人生に関わらないでちょうだい」
「待て! 行かないでくれ! 頼む!
俺を一人にしないでくれ! 」
背後から聞こえる健一の断末魔のような叫びを背に、私は一度も振り返ることなく、重い鉄の扉を開けて面会室を後にした。廊下に出ると、ひんやりとした空気が頬を撫でた。十五年、私の心に重くのしかかっていた黒い泥のような感情が、秋の冷気と共に洗い流されていくような気がした。
それから半年が過ぎた。季節は厳しい冬を越え、柔らかな春の日差しが降り注ぐ季節となっていた。東京地方裁判所の法廷。私は傍聴席の一番後ろに座り、目の前で項垂れる二人の被告人の後ろ姿を静かに見つめていた。証言台の前に立たされているのは、健一と義母の光子だった。半年間の拘置所生活で、二人はすっかりやつれ果て、かつての傲慢なお上品ぶった態度は微塵も残っていなかった。健一は髪が抜け落ちて白髪交じりになり、義母は腰が曲がり、絶えず手をこすり合わせるように動かしている。
裁判の過程はまさに地獄絵図だった。二人は少しでも自分の罪を軽くしようと、法廷の場で見苦しい責任の擦り付け合いを展開した。息子は「母に脅された」と主張し、母は「息子に騙された」と主張し、公衆の面前で互いの非を暴露し合ったのだ。しかし、私が雪村ルミ子や神崎から集めた完璧な証拠と録音データの前では、彼らの見苦しい言い訳など一切通用しなかった。
裁判長の重々しい声が法廷に響き渡る。
「主文。被告人、健一を懲役六年。被告人、光子を懲役四年に処する」
その瞬間、健一は「ああ… 」と力なくその場に崩れ落ち、義母は「いやああ! 私は悪くないのに!
」と泣き喚きながら法廷の床に突っ伏した。彼らの罪は文書偽造や詐欺未遂だけではない。大東建設の資金一億二千万円の横領についての民事訴訟も並行して行われており、彼らには莫大な損害賠償の支払い義務が課せられていた。さらに、私個人に対する五億円の借金の返済義務も、法的に完全に確定している。彼らが刑期を終えて出てきたとしても、待っているのは自己破産すら許されない、一生終わることのない借金地獄だ。二度と這い上がることはできない。完全なる破滅だった。
判決を告げる声と共に、刑務官に引き摺られるようにして法廷を後にする二人。健一がふと一瞬だけ、傍聴席の私の方を見た。その目には、もはや私に対する憎しみすら残っておらず、ただ圧倒的な絶望だけが張り付いていた。私はそんな彼を、完全に透明な空気のように無視し、静かに席を立った。
外に出ると、春の温かな風が桜の花びらを舞い上げていた。全てが終わった。父が命をかけて仕掛けた罠は、見事に彼らを葬り去り、私を自由にしてくれたのだ。しかし、私の本当の人生はこれから始まる。
私を乗せた黒塗りのハイヤーが滑り込むようにして停車したのは、大東建設のオフィスビルの正面玄関だった。春の穏やかな日差しが、ガラス張りのビルをキラキラと照らしている。私が車を降りると、そこには黒木専務を始めとする全役員と、大勢の社員たちがずらりと整列して待ち構えていた。
「おはようございます! 社長! 」
彼らの力強く、そして敬意に満ちた挨拶が響き渡る。かつて、健一が社長気取りで出社した日、誰一人として頭を下げなかったあの寒々しい朝とは、まるで正反対の光景だった。私は真っ白なパンツスーツの襟を正し、彼らに向かって深く静かに一礼した。今日、この瞬間から、私は「無能な専業主婦」という十五年もの間被っていた仮面を完全に脱ぎ捨てる。個人投資家「マダム大東」として、そして大東建設の新たな代表取締役社長として、この会社を生まれ変わらせるのだ。
本社の大会議室で行われた就任式で、私は全社員に向けて宣言した。
「先代である私の父が残したこの会社を、私は私の全財産を懸けて守り抜きます。横領によって失われた資金は、すでに私の個人資産から補填しました。これからは、不正や隠蔽のない、社員全員が誇りを持てる会社に再建することをお約束します」
私の言葉に、会議室は割れんばかりの拍手に包まれた。健一の横暴なパワハラに苦しめられてきた社員たちの顔には、希望の光が宿っていた。私はその拍手を全身で受け止めながら、心の中で父に報告した。
「お父さん、見ていてね。ここからが、私の本当の恩返し」
同じ頃、高いコンクリートの壁と鉄格子に囲まれた、とある刑務所の作業場。そこには、大理石の社長室ではなく、埃と機械油にまみれた薄暗い空間で、ミシンに向かって作業服を縫い続ける一人の男の姿があった。
「おい、新入り! 何ちんたらやってんだ。縫い目がガタガタじゃねえか」
作業班の班長を務める初老の受刑者が、健一の頭を容赦なく小突いた。
「い、痛えな!
俺を誰だと思ってるんだ! 俺は少し前まで、年商数十億の建設会社の社長だった男だぞ! 」
健一が顔を真っ赤にして怒鳴り返す。しかし班長の男は鼻で笑い、健一の顔に唾を吐きかける勢いで言い放った。
「寝言は寝て言え。このクズが、お前が横領で捕まったアホ社長だってことは、知ってるんだよ。おい、お前、俺の顔に見覚えはないか? 」
「はあ?
誰だ、お前なんか知るか! 」
「三年前、お前が『下請けのゴミは黙って俺の言う通りに安く仕事しろ』って喚いて、一方的に取引を切った、山根工務店の社長だよ。おかげでうちの会社は倒産して、俺は借金苦でここにいるんだ。なあ、よく見ろや! 」
「や、山根…! 」
まさかの意外な人物との再会に、健一の顔から血の気が引いた。
「ここじゃあな、外の肩書きなんかクソの役にも立たねえんだよ。お前みたいな底辺のゴミは、這いつくばって俺の命令を聞いてりゃいいんだ。ほら、さっさと手を動かせ!
」
班長に蹴り飛ばされ、健一はコンクリートの床に無様に転がった。「学歴もない底辺女」と妻を侮辱し続けてきた彼が、今、かつて自分が踏みにじった男から、同じ「底辺のゴミ」と罵られ、泥水を啜っているのだ。見事な因果応報だった。
その日の昼休憩。食堂の隅で健一が味気ない麦飯をかき込んでいると、壁に設置された古いテレビから、耳慣れた名前が聞こえてきた。
「続いてのニュースです。経営不振が囁かれていた中堅ゼネコンの大東建設ですが、本日、新社長の就任会見が行われました。新社長は、先代社長のご息女であり、海外では天才的な個人投資家として知られる… 」
テレビの画面に、フラッシュの光を浴びて堂々と立つ、真っ白なスーツ姿の女性が映し出された。
「あ… あいつ… 」
健一の持っていた箸が、からんと音を立てて床に落ちた。画面の中の私は、かつて健一が見下していた地味で冴えない女ではなかった。自信に満ち溢れ、洗練されたカリスマ性すら感じさせる、圧倒的な存在感を放っていた。
リポーターがマイクを向け、意地悪な質問を投げかける。
「新社長、ご主人が多額の横領で実刑判決を受けたばかりですが、その点についてのお気持ちは?
」
画面の中の私は、一瞬だけ深い沈黙を落とした。健一はテレビにすがりつくように画面を見つめた。許してくれ。恨み言を言ってくれ。そうすれば、まだ自分があの女の心の中に存在していると思えるから。
しかし、私が沈黙の後に見せたのは、春の陽だまりのような、一切の翳りのない美しい微笑みだった。
「過去のゴミは、すでに綺麗に清掃を終えました。今の私の目に映っているのは、この会社と社員たちの輝かしい未来だけです。終わった人間の話に割く時間など、私には一秒たりともありません」
完全なる拒絶。絶対的な無視。私にとって健一は、もはや憎む価値さえない、路傍の石以下の存在へと成り下がっていたのだ。
「うわあああっ! 」
食堂に、健一の鼓膜を破るような絶叫が響き渡った。彼は頭を抱え、自分の愚かさと、永遠に手の届かない高みへ行ってしまった妻の姿に、発狂したように泣き叫んだ。しかし、周囲の囚人たちは「またあのバカが騒いでるぜ」と冷ややかな目を向けるだけで、誰一人として彼に手を差し伸べる者はいなかった。冷たいコンクリートの壁の中で、彼は一生、その後悔と絶望の炎に焼かれ続けるのだ。
こうして、私を縛りつけていた全ての鎖は断ち切られた。就任式を終えたその日の夕方、私は黒木の運転する車で、郊外にある静かな霊園へと向かっていた。
「社長、本当にお疲れ様でございました」
黒木専務が、バックミラー越しに優しい目を向けてくれる。
「ありがとう、黒木さん。でも、これで終わりじゃないわ。最後に、一番大切な報告をしに行かなくちゃ」
オレンジ色に染まる夕焼け空の下。私は父の眠る墓へと歩みを進めた。玉砂利を踏む静かな足音が、夕暮れの霊園に吸い込まれていく。春の風が、頬を優しく撫でた。
「お父さん、全て終わらせてきたわよ」
心の中でそう語りかけながら、父の墓石が見える角を曲がった。しかし、そこで私は思わず足を止めた。父の墓の前には、すでに一人の人物が立っていた。背筋をピンと伸ばした白髪の初老の男性。彼が手向けたのだろう、墓前には父が一番好きだった見事な白い百合の花束が供えられていた。
足音に気づいたその男性が、ゆっくりとこちらを振り返る。その顔を見た瞬間、私は驚きのあまり小さく息を飲んだ。
「佐々木副社長… 」
そこに立っていたのは、紛れもなく意外な人物だった。佐々木さんは、父が会社を立ち上げた時からの右腕であり、私が幼い頃から本当の親戚のように可愛がってくれた人だ。しかし三年前、社長気取りで暴走し始めた健一と言い争いをし、会社を去っていたはずだった。
「お久しぶりです、お嬢様。いや、今日からは社長とお呼びすべきですね。素晴らしい就任会見でした。先代も草の影で、さぞお喜びでしょう」
目尻に深い皺を寄せ、佐々木さんは昔と変わらない温かく優しい笑顔を向けた。
「佐々木さん、どうしてここに? 健一に会社を追い出されてから、ずっと連絡が取れなかったのに」
私が尋ねると、佐々木さんは静かに首を横に振った。
「私はあの男に追い出されたわけではありません。先代であるお父様から、ある密命を受けて、あえて健一の前から姿を消し、裏で動いていたのです」
「父からの…
密命? 」
佐々木さんは懐から、一通の古びた封筒を取り出した。封には、見慣れた父の力強い筆跡で、私の名前が記されていた。
「お嬢様が全ての重荷を下ろし、社長として会社を救ってくれたその日に、これを渡すようにと、先代からお預かりしていた最後の手紙です」
私は震える手でその封筒を受け取った。封を切り、中に折りたたまれた便箋を開く。そこには、病床で力を振り絞って書かれたであろう、父の最後の言葉が並んでいた。
『愛する娘へ
お前がこの手紙を読んでいるということは、あの愚かな男たちを綺麗に掃除し、大東建設の社長に就任してくれたのだろう。十五年もの間、お前には本当に辛い思いをさせた。父親として、ただただ申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
健一がお前を指して「学歴もない寄生虫」「何も生み出せない不良品」と侮辱するたび、私は腸が煮えくり返る思いだった。今すぐあいつを殴り飛ばし、会社から叩き出してやりたかった。しかし、お前は決して声を荒げることなく、ただ静かに、然とした沈黙を守り続けていたね。お前のその沈黙を見るたび、私はお前の心の奥底にある、知れないほどの強さを感じていたのだ。
手紙を持つ私の手に、じわりと汗が滲む。父は、私の苦しみを全て知っていてくれたのだ。
『秘密を言うと、私は知っていたんだよ。お前が自分の部屋でパソコン一台で、何十億もの資産を動かす天才的な投資家「マダム大東」であることを』
その一文を読んだ瞬間、私の目からぽろりと一滴の涙がこぼれ落ちた。私自身、父にも完全に隠し通せていると思っていた最大の秘密。しかし、父の目は誤魔化せていなかったのだ。
『お前が沈黙していたのは、弱いからではない。言い返せないからでもない。あの愚かな男たちを泳がせ、会社と社員を完璧に守り抜くための周到な罠を張る準備をしていたからだということも、私には痛いほど分かっていた。だからこそ、私は安心して、あの五億円の借金という名の最後の大芝居を打つことができた。お前なら必ず、私の残した負債という名の罠を利用し、あいつらに完全な罰を与え、会社を正しい道へと導いてくれると信じていたからだ』
あの罠は、私が仕掛けたものではなかった。私という人間を心の底から信頼し、私の能力の全てを理解していた父が、私に託した最高のパスだったのだ。これが、父が残した最大の逆転劇だった。
『佐々木には、あいつらが会社を食い物にしても、絶対に社員たちが路頭に迷わないよう、裏で受け皿を作る準備をさせていた。お前が「マダム大東」としての資金を投入するまで、佐々木が防波堤になってくれていたのだよ。
お前は私の誇りだ。これからは、もう誰も偽らず、お前の本当の力で、お前の好きなように生きていきなさい。お前の幸せな未来を、ずっと見守っている。愛しているよ』
手紙を読み終えた時、私の視界は完全に涙で滲み、文字を追うことすらままならなかった。十五年、誰にも本音を明かさず、感情を殺して冷徹に生きてきた。健一たちを地獄に突き落とした時でさえ、私の心は氷のように冷たく乾き切っていた。しかし今、父の底知れぬ愛情と絶対的な信頼に触れ、私の心の中で凍りついていたものが、音を立てて溶け出していくのが分かった。
「お父さん… お父さん… 」
私は手紙を胸に強く抱きしめ、声を上げて泣き崩れた。憎しみも怒りも復讐の執着も、全てが涙と共に洗い流されていく。ただ、父の愛に包まれた一人の娘として、子供のように泣きじゃくった。佐々木さんは何も言わず、ただ優しく私の肩に手を置いてくれていた。
どれくらい泣き続けただろうか。気がつけば、西の空に沈みかけていた太陽は完全に姿を消し、深い藍色の美しい夕闇が霊園を包み込んでいた。私はゆっくりと立ち上がり、乱れたスーツを整え、袖で涙を拭った。
「佐々木さん、長い間、父と私を支えてくださって、本当にありがとうございました」
私が深々と頭を下げると、佐々木さんは目を細めて微笑んだ。
「お礼を言うのは私の方です。社長、どうかもう一度、大東建設で働かせていただけないでしょうか?
微力ながら、あなたの右腕として、この命を捧げる覚悟です」
「もちろんよ。あなたがいなくては、お父さんに怒られてしまうわ」
私がそう答えると、少し離れた場所に車を停めて待っていた黒木専務が、静かにこちらへ歩いてきた。黒木専務と佐々木副社長。かつて父を支えた最高の両翼が、今、私の元で再び揃ったのだ。
「さあ、行きましょうか。私たちの、新しい会社へ」
私がそう言うと、二人は力強く頷いた。振り返ると、父の墓石が夕闇の中で優しく微笑んでいるように見えた。私を縛りつけていた鎖は、もう何一つない。これからは、愛する父が残してくれたこの場所で、私を信じてくれる仲間たちと共に、光の当たる道を堂々と歩いていくのだ。
夜風が心地よく吹き抜ける中、私たちは並んで霊園を後にした。明日から始まる新しい日々は、きっとこの空のように澄み切って美しいものになるに違いない。


