封筒を開けた瞬間、手が震えた。特許等価性算定通知書。その下に並んだ数字は、200億円。ゼロが何個あるのか、何度数えても間違いではなかった。パナソニックから届いた一通の書類。それは、30年前に夫が生涯を捧げた心拍センサーの部品が、世界中のスマートウォッチに採用され、特許料として一括支払われるという知らせだった。
夫は5年前にこの世を去った。亡くなる直前まで、あの小さな部品を握りしめ、「これが金になったら、全部ユにやってくれ」と言い残して。最後まで開発を信じて疑わなかった変わり者の夫。その傍らで、私は朝4時から夜10時まで食堂で皿を洗い、火事場仕事で他人の家のトイレを磨いてきた。3人の息子を育てるために。
長男の順夜は東大を出て、国家公務員からトヨタ自動車へ。妻の実家は港区の不動産王で、六本木ヒルズのペントハウスに住んでいる。次男の正斗はフランス留学から帰国し、新宿で黄金豚骨ラーメンのチェーン店を3店舗経営する人気店の社長だ。そして末っ子の裕二は、工業高校を出てAmazonの物流センターで夜勤をする契約社員。船橋の半地下アパートで、妻と赤ちゃんと質素に暮らしている。
200億円という大金を前に、私の息子たちはどんな顔を見せるのか。近所の佐藤さんの言葉が頭をよぎる。「お金があると、子供が泥棒になるのよ。泥棒は家の中にいるんだから」。あの時は笑い飛ばした。うちの子たちは違うと。しかし、今は確かめずにはいられなかった。
私はタンスの奥から一番古びた着物を取り出した。袖口はすり切れ、色褪せて見すぼらしい。鏡の前で、本当に貧しい老婆のような自分の姿を見つめ、200億円の契約書を鞄の奥深くにしまい込んだ。そして、心臓の手術に500万円が必要だという嘘を用意した。
最初に向かったのは、長男の六本木ヒルズの部屋だった。警備員に疑わし気な目で見られながら、エレベーターで25階へ。広すぎるリビングで、順夜はソファに座り、ロレックスを光らせながら30万円のゴルフクラブを磨いていた。私が手術の話を切り出すと、彼は深いため息をついた。「母さん、僕も最近会社の業績が厳しくて。株も悪いし」。そして、嫁が続ける。「子供たちのインターナショナルスクールの学費が年間800万もかかるんです」。順夜は財布から1万円札を2枚取り出した。「とりあえず、これでタクシー代でも」。その瞬間、チャイムが鳴った。配達員が届けたのは、先ほど磨いていた新型のゴルフクラブ。彼は満面の笑みでそれを受け取り、妻と「30万円の投資だ」と笑い合った。私は握らされた1万円が、氷のように冷たく感じられた。
次に、新宿のラーメン店へ向かった。正斗は額に汗を浮かべ、厨房で働いていた。「母さん、いま一番忙しい時間帯なんだ。少し待ってて」。車座に座り、彼がVIP客に90度に頭を下げる姿を見た。「社長、またお願いします」。18万円のレシートを見て、彼は嬉しそうに笑っていた。私はまた、手術の話を切り出した。今度は彼が言った。「本当に申し訳ないんだけど、材料費が高くて」。握らされたのは5万円。それっきり、彼はまたお得意様の対応に追われていった。
最後に、末っ子の裕二の元へ向かった。薄暗い半地下のアパートからは、カビの匂いがした。目の下に濃い隈を作った裕二は、私を見るなり「母さん、どうしたの?」と心配そうな顔をした。手術の話をすると、彼の顔は一瞬で強張り、声が震えた。「どこが悪いの? ひどいの?」。彼は机に向かうと、古い通帳と、ボロボロの茶封筒を持ってきた。「母さん、これ。215万円。3年間、夜勤手当を貯めたお金なんだ。本当は引っ越しの頭金にしようと思ってたけど…母さんの手術に使って」。封筒の中の札束は、汗とダンボールの匂いがするくしゃくしゃのお札ばかりだった。その瞬間、玄関から嫁の知恵が帰ってきて、裕二の言葉を聞くなり「私たちが助けます。私の実家からでも借りてみます」と言った。彼らは、自分たちが用意した全財産を差し出そうとしている。
私は決意を固め、真実を話した。「みんな、聞いておくれ。母さんは病気じゃない。お前たちを試していたんだ」。そして、200億円の書類を差し出した。裕二と知恵は、まず呆然とし、次に怒りの表情を浮かべた。「母さん、そんな試し方ひどすぎる!」。裕二は立ち上がり、震える声で叫んだ。「僕たちは、金があろうがなかろうが、母さんと一緒に暮らしたいだけなのに」。彼は悔しさのあまり、壁の方を向いてしまった。
しかし、その時だった。外からタイヤの音が聞こえ、鉄の扉が勢いよく開いた。順夜が息を切らして飛び込んできた。「母さん! 本当なんですか? この200億!」。彼の目の色は、さっきまでの冷たいものとは全く違っていた。続いて、正斗もタクシーから飛び降りてきた。「母さん、さっきは僕がどうかしてました! これからは僕たちが完璧にお世話しますから!」。二人は、誰が母の世話をするかで言い争いを始め、携帯の電卓で200億を3で割る計算を始めた。「一人66億か。これで店を10店舗は増やせるな」。
私は、醜い争いを始めた息子たちを冷たく見つめ、もう一通の封筒を取り出した。中には、夫の遺言書と古い写真があった。「順夜、あんたが予備校に通っていた時、母さんは朝4時に起きて魚市場の掃除をしていたのよ。この手を見なさい。今も傷跡が残ってる」。正斗には、フランスにいる間、自分が倒れて救急車で運ばれた時に、電話すら返してこなかったことを話した。「病院のベッドの隣には、学校を休んで見舞いに来てくれた高校1年生の裕二が座っていた」。そして、夫の遺言書を読み上げた。「この部品から生じる全ての収益を、末っ子である鈴木裕二に全て相続させる」。それは、夫が最後に残した、本当の思いやりだった。
「お父さんは、誰が本当の親孝行者なのか、もう全部見抜いていたのよ。この200億円は、裕二と知恵に全て渡します」。純夜と正斗は、その場に崩れ落ちた。「お母様、不公平です! 僕たちにも権利が!」。私は叫んだ。「まだ生きているのに、何が相続だ! このお金は私のもの! 私が好きな人にあげる!」。裕二は「母さん、僕はそんな大金いらないよ」と首を振ったが、私は彼の手を強く握った。「裕二、お前だけが本当の母さんを愛してくれた。これは、お父さんの意思でもあるのよ」。そして、醜く喚く二人の息子に言い放った。「お前たちは、もう私の子供じゃない。二度と私の前に現れないで」。
一週間後、裕二たちと新しいアパートを契約した。引っ越しの準備をしていると、玄関を叩く音がした。純夜と正斗が、やつれた顔で立っていた。「お母様、僕たちが本当に間違っていました。どうか、もう一度チャンスをください」。私は言った。「いいでしょう。ただし、条件がある。毎月私に会いに来ること。お金の話は一切しないこと。心から私に接すること。見せてもらうわ」。
それから二人は、毎月果物やお惣菜を持って訪ねるようになった。最初はぎこちなかったが、数ヶ月が経つにつれて、少しずつ変化が見られた。純夜は妻とカウンセリングに通い始め、正斗は従業員を大切にするようになった。8ヶ月後、純夜が桜並木を散歩しながら言った。「今まで、母さんが犠牲になるのが当然だと思っていました。200億円の一件で、自分がどれだけ見苦しい人間か思い知りました」。ある日、正斗は店を休み、私のためだけに料理を振る舞ってくれた。「母さんの好きな味付けを、やっと思い出しました」。
あの日から1年が経とうとしている。彼らの心からの謝罪を受け、私は彼らを許した。でも、決して忘れてはいない。一生見続けると伝えた。その夜、私たちは初めて家族全員で食卓を囲んだ。裕二の作ったキムチ鍋を囲み、笑い声が溢れた。「お母様、幸せですか?」。私は頷いた。「ええ、今が一番幸せよ」。あの日、私の手に握らされたお金は、三種類だった。兄たちのお金は3秒で出せるお金。末っこのお金には、3年という月日が染み込んでいた。金額の問題ではなかった。親を思う心の大きさだったのだ。



