地方での単身赴任生活。そんな俺のもとに、ある日、東京の妻から電話がかかってくる。
「それで、最近何か困ってることはない?」
「ああ、そうだな。実は買い物しそびれてるものがあってさ。トイレットペーパーとかキッチンペーパーを買って送ってほしいんだよ」
「え、そんなこと?」
「いや、毎日帰りに買おうと思うんだけど、なんかバタバタして忘れちゃってさ」
家族との電話はいつもこんな調子だ。
俺の名前は羽田。三十五歳。東京には同い年の妻と四歳の娘がいる。それなりに名前の通った大学を出て、中堅の工作機械メーカーに就職。結婚して、家庭を築くまでは、まあ順風満帆だった。
そんな俺の人生に、大きく歯車を狂わせた男がいる。かつての同僚、藤山だ。
藤山は、よく言えば熱血で向上心の塊のような男だった。だが、その反面、強すぎる向上心は他者への軽蔑と結びついていた。喜怒哀楽がはっきりしているのはいいが、敵愾心が表に出ると、その度合いがかなり強い。
「お前の学歴で、よくこの会社に入れたな」
単身赴任の前、俺は東京の本社で開発企画系の部署に所属していた。藤山もそこにいた。部署内で唯一の同期だった。藤山は私立の名門大学出身で、芝居がかった劇的な性格の持ち主。仕事への意欲は満々で、実務能力もそれなりにあった。
だが、激しやすい部分で人を蹴散らして前に進む男だった。
「おい、これの資料出して、要点もまとめてくれよ。ちゃんとやれよ。企画会議で使うから」
「え、おい、そんなの自分でやれよ」
「何言ってんだよ。俺は会議で主役を張るのが役目なんだよ。裏方はお前みたいなやつに決まってんだろ」
仕事における地味なポイントは周囲に振り分ける。それが藤山の仕事術だった。企画会議などの表の場には自ら進んで出ていくが、そこで必要な資料や事前のリサーチは、得意とする同僚たちにやらせる。
妙にうまいと思わされたのは、仕事をさせる人の選び方が完璧だったことだ。自分を成功させてくれる、確実に仕事ができる人間を選び出し、藤山は成果を上げていく。
「俺の指示さえ聞いていれば間違いないんだよ」
それでいて、藤山が裏でアシストした人たちに感謝することは一切ない。人の手柄も、自分がやったかのように話す。
そんな風にして、一年前、藤山は部署で主任を務めるまでになっていた。
主任になっても、藤山のスタイルは全く変わらない。それどころか、増長するようになった。そして、それがきっかけとなって大問題が起きた。
「主任、確認後に承認をいただきたい資料があるんですが」
「ああ、勝手に上げとけよ」
「いや、しかし、主任の承認が必要なものでして」
「そんなもん、大したことじゃないだろうが」
後輩社員が藤山に書類を提出しようとするも、藤山は地味な確認作業を面倒くさがって動こうとしない。俺は見かねて、後輩と交代した。
「藤山、これも主任の仕事だろ。きちんと目を通してくれよ」
「ああ、うるせえな。貸せよ。ほら」
藤山は後輩からひったくるように書類を奪うと、まともに読むこともなく、適当に判を押した。
「おい、出しておけよ。主任命令な」
そして、突きつけるようにして俺に渡した。今となっては、言われるがままに上に書類を提出してしまったことを悔いている。
提出から三日後、書類の記載事項に関して致命的な見落としが発覚した。契約金と特殊な契約の設定について、重要な確認事項がいくつも見逃され、こちら側に多額の損害が発生することになってしまったのだ。
藤山はほぼ無罪。どうやってこの窮地を乗り切るのか。俺や後輩たちは固唾を飲んで見守っていたが、そんな暢気に構えていられるほど、藤山は甘い男ではなかった。
藤山を呼び出した上司が俺を問い詰める。
「藤山主任は、羽田君が自分を通さずに勝手に書類を通過させたと言っている。どういうつもりだ? 主任の承認無断で決裁までしたのか?」
寝耳に水だった。藤山が考えた策は、俺に責任を押し付けることだった。俺がしっかりと目を通すよう忠告した事実は揉み消され、俺が勝手に重要な契約に関する書類を通過させた、という嘘が作り上げられていた。
「そ、そんなことは! あの、待ってください! しっかりと藤山主任にも話を聞いて、部署の全員にも聞き取りをお願いします!」
「何をしらじらしい」
これまでの成果と結果、主任であることなどを含めて、藤山への上司からの信頼は厚い。だからこそ、この騒動の処理は、藤山が思い描いたシナリオ通りに運んでいった。
社員の俺に弁明の場はないまま、処分を待つだけになった。最終的に下されたのは、地方にある子会社への異動だった。あれよあれよという間に、家族と離れて、地方で暮らす単身赴任の俺が完成した。
「羽田さん、先週の打ち合わせで契約のアウトラインまで決めてくださいましたよね。本当に助かってます。どう食い込んでいけばいいか分からない相手で、羽田さんが来てくれて助かることばかりです」
家族と一緒にいられないことに心は沈んでいたが、仕事をしなければいけないことに変わりはない。場所がどこであろうと働くことに真面目に取り組み、子会社でもそこそこやらせてもらっている。東京のギスギスした空気がない分、思いのほか仕事を楽しめるようになっていた。
単身赴任中の数少ない楽しみの一つに、妻と娘の訪問がある。連休や夏休み、冬休みになると、飛行機で二人が会いに来てくれるのだ。
春の連休に三日間こちらへ来るという妻と娘に、俺はある提案をした。
「近所の山でピクニックしないか?」
「それはいいわね」
アパートの近所に、低くて子どもでも気軽に登れる初心者向けの山があった。俺と妻の運動不足解消と、外遊びが大好きな娘には最適なアイデアだと思った。
妻も喜び、ピクニック当日の天気も最高。俺たちは軽い足取りで登山道を歩いた。
「ねえママ、早く早く!」
「ちょっと待ってな。お父さん、ちょっとだけゆっくりして。疲れちゃったよ」
娘の笑顔は、何にも変えられない宝物だ。ベタかもしれないが、見た瞬間にそう思わずにはいられない。
「お弁当、どうかな?」
「わあ、卵焼き!」
「ほら、ハンバーグもあるぞ」
「やったー!」
途中の広場で弁当を広げると、娘の無邪気さが輝く。久しぶりに体を動かし、家族と有意義な時間を過ごせて、それだけで大満足だった。
途中で休憩を挟みつつ、ゆるゆると山道を登り、山頂の手前までやってきた。ところが、そこで道に座り込むおばあさんと、おばあさんの様子を覗き込むおじいさんの姿が目に入った。
「ねえパパ」
妻の言葉に、俺は妻と二人でおじいさんとおばあさんに声をかけた。話を聞いてみると、二人も夫婦で遊びに来たが、奥さんが転んで足をひねってしまったのだという。
「救急車を呼ぶまでもないとは思ったんだけどね。けど日が暮れちゃう。そうなる前になんとかしないと」
「ああ、いいのよ。もう少し休めば平気だから」
奥さんは強がってそう言うが、こちらとしては放っておけない。
「あの、私たちが付き添いますから、このまま山を降りませんか?」
「ああ、そうだ。あの、迷惑じゃなければ、僕が背負います」
妻が申し出ると、老夫婦は恐縮しつつも、ほっとした様子で俺たち夫婦に頭を下げた。
「すみません。こんな水いらずのところで、図々しいことを。私たちが不甲斐ないばっかりに」
「そんなことおっしゃらずに」
「そうですよ。お気になさらないでください」
俺は荷物を妻に預け、老夫婦の奥さんを背負った。そのまま麓の駐車場まで降り、俺の車に乗せて、まずは病院へ。診察と治療が終わると、そのまま老夫婦を家に送り届けた。奥さんの怪我はねんざで、二ヶ月もすれば完治するとのことだった。
「もしよろしければ、少し食事だけでも。ここまでのお礼に、家庭料理を振る舞いたいんだ」
帰宅しようとした俺たちは、そう言って老夫婦に引き止められた。妻と相談し、せっかくだからとご厚意を受けることにした。
食事をいただきながら、俺はそれとなく身上話を広げていた。期間の目途が立たないとまでは言わなかったが、単身赴任の身であること、今日は東京から妻と娘が遊びに来てくれたのだと話した。
「じゃあ、東京から単身赴任ですか?」
「ええ。仕事が忙しくて、なかなか東京に戻れないもので」
「それはまあ、大変ね」
「ああ、でも、仕事が忙しいのはありがたいんですけど」
「この田舎町で、東京から単身赴任で来るような会社はどこかしら。あそこかしら。東京の大きな会社が親の……」
「ああ、だろうな。この町だと、あの工場ぐらいしかないもんな」
俺が語ったことから、老夫婦は推理を広げていった。しばらく色々な会社の名前を挙げた後、最後は俺の勤務先を見事に当ててみせた。
「じゃあ、あなたはあそこにお勤めで? 偶然もあるもんだね。私たちの知り合いは、あそこの親元の会社にいるんだよ」
「じゃあ、東京の……あなたも東京から来たのよね」
「ええ、そうです」
俺が務めるメーカーの子会社と、その親会社について話が深まる。夫婦の知人も親会社にいると知り、世間の狭さにお互いに驚く。
「東京での生活に慣れていたら、こんな田舎での暮らしは不自由も多くて大変よね。家族とも会えなくて寂しいでしょうに」
「ああ、まあ」
「けど、それにしても、東京の親会社の人を招くほど、あの会社は困ってたのかしら」
「ああ、僕はその辺の事情は……」
「そうなの? あのね、あんまり聞かないのよ。あの会社にどこかから移ってくる人って」
奥さんの質問はなかなか手厳しい。初めはのらりくらりと交わしていた俺も、ふと気を許して、ポロリと打ち明けてしまった。
自分が異動するはめになった、書類の不適切な取り扱いにまつわる騒動について。愚痴を言ってしまう。
「まあ、上司と言っても同期なんですけど、その男にしてやられて。大きなミスが僕のせいということで片付いたんですよ」
「あら、そんなこと、たまったもんじゃないわね」
「そうなんですけど、僕が子会社に異動になったことで、一応は全てが収まって、今に至っているんです」
「今からでも、申し立てぐらいしたらどうなの?」
「いや、難しいんじゃないでしょうか。上司は仕事の実際のやり方はともかく、上の信頼は厚い人ですからね」
俺が俯くと、老夫婦もそれ以上何も言えないのか、静かになった。それからは、他愛のない話に徹した。食事も終え、俺たちは老夫婦から改めて丁寧なお礼を言われて、帰宅した。
「なんだか、すごく感謝されたね」
「それだけ、ちゃんとした方々なのよ」
「そうか」
妻と老夫婦の印象を振り返る。穏やかな人たちだったが、うまく色々と聞き出されたような気もする。俺も、誰かに愚痴を言いたい気分だったのかもしれない。
そんな休日を過ごした連休明け。リフレッシュした俺は、仕事への気合いを入れ直した。
数日後、俺は上司に言われて、急いで社長室へ向かった。俺を待っていた社長は、用件が急ぎだと言い、俺にある書類を告げた。
「羽田君、申し訳ないが、東京へ戻ってもらうことになった」
「え? あの……」
「驚くよな。私もなんだ。ただ、これは正式に出たものでね」
社長は俺に、親会社から届いた書類を渡した。
「すみません。拝見いたします」
恐る恐る目を通すと、確かに俺が親会社へ復帰することが記されていた。
「あの、もう本当に、すぐにでも戻るということですか?」
「ああ、申し訳ないがね」
「いえ、あの、こちらこそ、引き継ぎなどでご迷惑をおかけします」
「それは気にしなくて大丈夫だよ」
社長とのやり取りがこれほど慌ただしいのだから、俺の本社復帰に向けて、現場はもっと忙しくなってしまった。俺の業務を引き継ぐ人への引継ぎ、取引先への簡単な挨拶。手助けも借りながら、なんとか終わらせ、最後は会社の人たちと握手を交わす。
「羽田さんがいなくなるのは惜しいなあ」
「本当に、こんなに頼りになる人、いないっすから」
同僚たちに温かく見送られ、書類交付から一週間ほどで、俺は東京の本社へ舞い戻った。
復帰する部署は、感慨無量なことに、元の所属部署だった。
「お久しぶりです」
ひょっこりと軽い調子で顔を出すと、部署の雰囲気が良くなかった。
「お前、どうして俺の名前で話を進めないんだよ。俺が責任者にならないでどうするんだ。お前の名前で話を進めても、俺の得にならねえだろうが」
藤山が、話の断片を聞いただけでも理不尽だと分かる説教を繰り広げていた。怒られている若手は下を向いているが、その表情には諦めの色が広がっている。
俺は説教が終わるのを待って挨拶に行こうと思ったが、藤山に先に見つけられてしまった。
「ああ、羽田か。何してんだよ」
「ああ、聞いてないのか。ほら、復帰したんだ、ここに」
「なんだよ。ええ?」
藤山は俺の親会社復帰を、そっけなく笑い飛ばした。そして椅子にふんぞり返って、相変わらずの調子で言った。
「じゃあ、また下からか。いいよ。俺がみっちり使ってやるからさ」
藤山を裸の王様だと思えば気が楽だ。というか、何も知らないこの時の俺には、そう映っていた。
俺は藤山に負けない笑顔で返した。
「何言ってるんだ。今度は、俺が藤山を使うことになるんだよ」
俺の言葉に、藤山は巻き舌で怒声を上げ始めた。それはもはやチンピラかヤンキーそのもの。会社員の大人とは思えない暴れようだった。
「お前、ふざけてんじゃねえぞ! 言っていい冗談と悪い冗談があるんだよ! てめえ、上司に向かって!」
周囲がざわつくほどの罵詈雑言。藤山は人差し指を俺に突きつけて、詰め寄ってきた。
「これ、見てくれよ」
藤山の鼻先に、俺は自分の移動書類を突きつけた。子会社の社長から受け取ったその書類には、俺が本社に復帰して、元部署の課長になるという旨が記されていた。
「俺は今日から、この課の課長だ。主任の君を監督する立場になるんだよ」
「はあ?」
藤山が、呆然として俺を見る。しばらく睨み合っていると、フロアに社長と部長が姿を見せた。二人は迷わず藤山の前に立つと、「話がある」と静かに告げた。
「羽田君が子会社へ異動になった当時の騒動について、藤山君には悪いが、今一度調べ直させてもらったよ」
俺の親会社復帰に際して、何かしらの動きがあったとは想像していた。しかし、それがかつての騒動の調査だとは考えつかなかった。
「藤山君は、当時の書類を羽田君が勝手に決裁まで取って提出した、そう言ったね。しかしな、それはおかしい。それはな、先日、当時ここにいた人たちに聞き取りをしたんだ」
部長が聞き取り調査を行った結果、一緒にいた後輩が当時の真実を明かしたそうだ。藤山は書類に目を通さず、必要な処理も行わず、書類を通すよう命じていたと。
「しかもだ。藤山は工作として、その後輩に真実を公にしないよう脅しをかけていたという。どう言いつくろうとも、これは立派な脅迫だ。当時のことについてもそうだが、全て話してもらわないとならない。ああ、えっと、君はこちらへ」
自らの不正と不始末を暴かれた藤山が、部長に連行されていく。残されたのは、社長と俺と部署の面々。
「羽田君だったね」
「あ、はい」
「私の無関心が、君に不当な処分を与えることにつながってしまった。申し訳ないことをした。失礼した」
「え、あの」
社長に話しかけられただけでも驚いたのに、謝罪までされて、何が何だか分からなくなった。そんな俺に、社長はさらに続けた。
「それから、私の親が世話になった」
「え? 社長のご両親ですか?」
「春先に、老夫婦の手助けをしただろう」
そう言われて、俺の頭にはあの老夫婦の顔が浮かんだ。
「ああ。はい」
「それが、私の両親だ。君の話を聞いて、すぐに私に電話をかけてきてね」
「ああ、そうでしたか。確か、この会社に知り合いがいると……」
「知り合いというか、息子の私だな」
老夫婦の言葉を思い出した俺に、社長が苦笑いを見せた。
俺が助けた老夫婦、つまり社長のご両親は、俺が帰宅してすぐに息子に連絡したらしい。自分の会社で理不尽に不当な左遷をされた社員がいると。そう告げられたかと思えば、社長としてしっかり会社を束ねろと、両親に怒られたそうだ。
「それで、急いで調査チームを立ち上げた、というわけだ。真相が判明したので、ひとまず君に復帰してもらうことにした」
慌ただしく全てが決まり、俺は課長に。状況は理解できたが、役職まで与えられたことには違和感を覚える。
「こちらこそ、本社に戻していただき、ありがとうございます。ですが、課長に昇格するというのは……」
「君はそもそも実直に仕事をすると聞いている。それに、人柄もなかなか手厳しい人たちの両親が褒めているからね。実績も含めて、間違いないと思うんだ」
ほがらかに笑う社長に「よろしく」と頭を下げられ、俺も黙って頭を下げた。それと同時に、新規一転、課長として頑張ろうと心に決めた。
その後、藤山の末路は呆気なかった。暴かれた最初の不正の他に、日常的に行っていたパワーハラスメントもやり玉に挙げられた。結果的には全てについて有罪となり、処分は免れず、藤山は地方の物流部門に飛ばされた。
おかげで働きやすい環境が手に入り、部署は今、活気づいている。そして家に帰れば家族がいる。温かい食事と他愛のない話。それを繰り返す日々に戻れて、最高の幸せを噛みしめている。
俺を救い上げてくれた人。それは、社長とその両親だ。今更ながら、その人たちに足を向けて寝られないと思っている。
取り戻した幸せに感謝しながら、自分への期待を裏切らず、これからも真面目に働こう。そう、密かに誓った。



