披露宴の二次会で、シャンパングラスを傾けながら男が高笑いした。
「お前なんかが結婚したんだって?どうかしてるぜ、そのブス嫁。」
その声は華やかな会場に響き渡り、空気が凍りついた。
かつて俺から恋人を奪った男、薫平。俺を捨てた元恋人・玲奈と結婚式を挙げたばかりの彼に、俺は二次会へ招待されていた。
俺がすでに結婚していると告げた途端、彼は耳を疑うような侮辱を浴びせてきた。
「お前を選ぶ嫁なんて、顔と頭のどっちかがおかしいに決まってるぜ。」
周囲の同級生たちは気まずそうに目をそらす。
玲奈は薄っぺらい笑みを浮かべている。
「今すぐここに嫁を呼んでみろよ。人前に出せる顔をしているのならな。」
深呼吸をして冷静さを取り戻した俺は、静かに答えた。
「わかった。呼ぶよ。でも驚かないでくれよ。」
その15分後、エレベーターの扉が開き、俺の妻が姿を現した瞬間、会場は騒然とした。
優雅な足取りで入ってくる彼女に、全ての視線が釘付けになる。
シャンデリアの光を浴びて輝く、トウモロコシのように美しい金髪。海のように澄んだ瞳。優雅な赤いドレスに身を包んだ、すらりとした体型。
彼女が俺の隣に立ち、凛とした声で言った。
「私がこの人の妻ですが、何か?」
薫平は愕然として声を震わせた。
玲奈も目を見開いて固まっていた。
だって、俺の妻は――俺の名前は坂井大和。つい先日、30歳の誕生日を迎えた。
――あれは、少し前の話だ。
休日の昼下がり。自宅のソファーでくつろぎながら、俺はテーブルの上を眺めていた。
目の前には一枚の招待状。現在の俺にとって、悩みの種になっているアイテムだ。
『坂井よりが欠席で残念だよ。せめて二次会には来てくれよな。』
招待状の隅には走り書きで一言が添えられている。
差出人の名前は、薫平。その横に書いてある名前は、日本玲奈。
よく俺に招待を送ってきたよな。思わず苦笑いがこぼれる。
10年以上も経った今、当時を思い出しても胸が痛むようなことはもうない。
それでも、どこか複雑な気分になるのは否めなかった。
招待状を眺めていると、高校時代の記憶が鮮明に蘇ってきた。
当時の俺は人付き合いが苦手な、典型的なガリ勉だった。
教室の隅で一人黙々と問題集を解いている姿が、クラスメートにはお馴染みの光景だった。
「おい、より!また勉強かよ。たまには外で遊べよな。」
「ほっとけよ。昔からああだからさ、あいつ。」
クラスメートに冷やかしを受けても、俺は構わず勉強を続けていた。
なぜなら、勉強している間だけが人と関わらなくていい時間だったから。
ところが、クラスでも孤立していた俺に、なぜか興味を持った女の子がいた。
それが、玲奈だった。
ある放課後、図書室で法律に関する本を読んでいると、静かな図書館に不釣り合いな明るい声が降ってきた。
「すごい!坂井君。そんな難しい本を読んでるの?あ、ごめんね。うるさかった?」
顔を上げると、目の前に立っていたのはクラスメートの一人。それが玲奈だった。
それから俺が図書館にいると、度々玲奈と顔を合わせるようになった。
「より君って、すごいよね。」
「何がですか?」
「何その集中力。私がいても全然気づかないもん。教室でもさ。」
「え?知らなかった?私、よく教室で坂井君のこと見てるんだけど。」
そして突然、玲奈は大人びた微笑みを浮かべた。
「でも、坂井君を見ているのは本当。すごいなって。そうやって真剣に打ち込めるものがあるのは。」
困ったことに、その後は以前よりも勉強に身が入らなくなってしまった。
気づけば彼女の存在を意識してしまって、テストの点数も落としてしまった。
「今回のテストも学年トップでしょ?」
「そんなことないですよ。前回より7点も落としたし、数学なんて92点しか取れなかったし。」
「え?だって、坂井君は毎日すごく頑張ってたもん。前回のテストが終わった後からずっと。それだけ頑張ったなら、私だったらテストが難しかったことにしちゃう。それだけの努力はすごいと思うよ。」
そう言って玲奈はふわりと微笑んだ。
その瞬間、初めて感じた思いに、俺は内心ひどく戸惑った。それが初恋の瞬間だったと気づくのは、もう少し後の話だ。
「ねえ、よかったら今日は一緒に帰らない?」「うん。玲奈さんが良かったら。」
いつの間にか、俺は玲奈に「すごいね」と言われたくて勉強していた。
勉強ができるからではなく、努力しているからすごいねと言ってくれる。
そんな彼女のおかげで、俺は自信を得ることができた。同時に、どんどん玲奈に心を惹かれていった。
そして、卒業間近のある日。
「す、好きです。俺と付き合ってください。」
心臓が破裂しそうになりながら、一生分の勇気を振り絞った告白。
玲奈は満面の笑顔でOKしてくれた。
こうして俺たちは交際をスタート。誰もがあのガリ勉の坂井と美少女の玲奈が、と驚き、そして羨むカップルになった。
――ところが、その幸せはそう長くは続かなかった。
「大和君、ごめんね。私、薫平君と付き合うことになったから。別れてくれない?」
その瞬間、俺は外の寒さも忘れるほど、大きく深いショックに包まれた。
薫平は、大手出版社の御曹司で、学校で一番の金持ち。隣のクラスの人気者。俺とは正反対の存在だった。
「最初は面白かったけど、もう大和君といるのに飽きちゃったの。私ばっかり喋ってるし。やっぱり、お金を持ってる彼氏の方がいいし。」
玲奈はつらつらと理由を述べていたが、正直ぼんやりとしか覚えていない。
我に帰った時には、玲奈は俺に背中を向けて、校舎に戻っていくところだった。
こうして俺は彼女に捨てられた。そして、現実から目をそらすため、再び勉強だけに打ち込む日々が始まったのだった。
玲奈に捨てられた後、残りの高校生活は地獄のようだった。
すぐに噂は広まり、廊下を歩けば誰もが俺の方をチラチラ見て、ひそひそとささやいた。
けれど、皮肉なことに、そのおかげでいいこともあった。
「坂井、大丈夫か?」
「玲奈さんひどいよな。元気出してね、坂井君。」
突然、クラスメイトたちが俺に優しく接し始めたのだ。同級生されているのは明らかだったが。
「寄りって、意外に話すと面白いな。もっと早く気づいたらよかった。」
「今まで色々言ったりしてごめんな。」
気がつけば、俺は以前と比べ物にならないほど多くの友人に囲まれていた。
みんなのおかげで、辛い記憶は徐々に薄れていった。
その一方で、薫平と玲奈の態度には腹が立った。まるで見せつけるかのように、二人で図書館に来たり、受験勉強そっちのけでベタベタする様子は、学年中の顰蹙を買っていたっけ。
高校卒業後、それぞれの道を歩んでいた俺は、そんな二人から突然、結婚式の招待状を受け取った。
最初に届いた結婚式の招待状を見た時は驚くやら呆れるやら。それには欠席の返事を出したのに、わざわざ今度は二次会の招待状を送ってくるし、一体どういうつもりなのだろう。
どうしようか。ため息をつきながら俺はソファーから体を起こした。
当然ながら、もう玲奈に未練はない。あの二人に会いたいとも思わないけれど、あの二人はともかく、みんなには会いたいかもな。
高校卒業後、それぞれの道を歩んでいる同級生たちが、どんな大人になっているのか。ふと興味が湧いてきた。
せっかくだし、行ってみるか。俺は腰を上げ、テーブルに向かった。出席の返事を書くために。
――そして、玲奈たちの結婚式当日。
二次会の会場に一歩足を踏み入れた瞬間、俺は思わず息を飲んだ。
天井から吊された巨大なシャンデリアがきらびやかな光を放っている。床には高級感漂う絨毯が敷き詰められ、壁際は生花のアレンジメントで埋め尽くされている。中央には色とりどりの料理が並ぶビュッフェ。おまけに、その隣にはシャンパンやワインが並ぶバーカウンターまで。その光景は結婚式の二次会というよりも、まるでセレブが集まるパーティーの会場に来てしまったかのようだった。
「おい、坂井だろ!」
懐かしい声が耳に飛び込んできた。振り向くと、そこには10年以上も会っていなかった同級生たちの姿があった。
「久しぶりだな。こういうのはなんだけど、お前が来るとは思わなかったよ。」
「みんなに会いたくて、出席することにしたんだ。」
「僕らも坂井に会いたかったよ。」
他のクラスメートたちも続々と集まってくる。
「結婚式も欠席だったからな。やっぱり来るわけがないかって、みんな思ってたんだ。」
「さすがに結婚式はちょっと……。」
話を濁すと、事情を知る同級生たちは一斉に「うんうん」と頷いた。
「わかるよ。あんなことがあったんじゃ。」
「正直、俺たちだって複雑だったんだよ。」
「なんせ、あの薫平と玲奈の結婚式だからな。」
そして彼らは説明を始めた。みんな、それぞれ理由があって結婚式に出席したのだと。
「うちの会社が桜門出版と取引しててさ、会社のためにも必ず出席しろって、半ば強制されたんだよ。」
「俺の親父がやってる会社もだから、顔を出さないわけにはいかなくてな。」
そうだったのか。俺を手ひどく傷つけた件で、すっかり嫌われ者になった薫平と玲奈。二人の結婚式にほとんど全員の同級生たちが集まったのは、薫平の父が地元で大きな力を持っているために、断りづらかったからだった。
「まあ、同窓会みたいなもんだと割り切って楽しもうぜ。こんだけ豪華な料理や酒を、無料で振る舞ってくださるんだから。」
グラスで一番のお調子者だった男子が声を張り上げて、笑いを誘った。それもそうだと、俺たちはグラスを手に、こうして再会できたことを喜び合った。
そして、高校時代の思い出話からそれぞれの近況まで、話題は尽きることなく盛り上がった。
「そういえば、この中の半分くらいはもう結婚してるんだよな。」
まだ未婚のクラスメイトが周囲を見渡すと、ぱらぱらと手が上がる。
「今年入籍したばかり。」
「もうすぐ結婚して1周年。」
「結婚している上に、子供も生まれた。」
教えてくれる同級生たちに、俺は申し訳なさでいっぱいになった。おめでたい出来事がこれだけあったのに、俺と言ったら、それを祝う言葉さえ送ることができていなかった。
「遅くなってごめん。みんな、おめでとう。」
「気にしないで。だって、坂井君は……」
一人の言葉に、他の同級生たちも「気にしなくていい」と頷いてくれる。
「ところで、坂井はどうなんだ?」
「え?」
いきなり話を振られ、俺は一瞬言葉に詰まった。周囲の視線が一挙に集中する。
「ほら、あの後の坂井って、めちゃくちゃ元気なかったからさ。もう新しい彼女なんて二度と作れないってくらい。心配してたんだよ、俺ら。ちゃんとお前が幸せになれるかどうか。」
「そうそう。」
みんな、やっぱり今日は来てよかった。胸に広がる温かいものを感じながら、俺はそう思った。自然と笑顔が浮かびつつ、彼らの顔を見渡す。
「みんな、ありがとう。実は、俺も今年の春に結婚したんだ。」
少し照れながらそう告白した瞬間、「え?」という驚きの表情が、俺の近くにいた同級生からみるみる周囲に広がっていった。
「本当か、より?」
その時だった。
「面白い話をしてるじゃないか。」
突然、背中を強く叩かれて、俺は大きく前によろけ、危うく転ぶところだった。
何事かと振り返ると、そこには本日の新郎、薫平が立っていた。純白のタキシードに身を包み、胸元には華やかなブートニアが輝いている。しかし、その表情はせっかくの晴れ舞台に不釣り合いな歪み方をしていた。
「やあ、坂井君。来てくれて嬉しいよ。全く、いつ挨拶に来るかと思えば。俺たちに祝福の言葉もないのか?相変わらず暗いやつだな。」
ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべながら、俺の肩に手を回す。彼の言葉に、周囲の空気が一瞬で凍りついた。
しかし、今日ここに来ると決めたのは俺だ。
「おめでとう。」
胸に渦巻く複雑な思いを抑えながら、その一言をどうにか絞り出した。
すると薫平は、自身の背後をくるりと振り返った。
「だってさ、良かったな、玲奈。坂井も昔のことは水に流して、俺たちを祝ってくれるってさ。」
「どうもありがとう、坂井君。」
その声がした瞬間、俺は心臓がどくっと嫌な音を立てた。
薫平の背後から現れたのは、鮮やかなブルーのドレスを身にまとった本日の主役。昔よりずっと綺麗になった新婦の玲奈だった。
「結婚おめでとう、玲奈さん。」
改めて祝福の言葉を送ると、玲奈は一瞬だけ、どこか寂しげな笑顔を浮かべたように見えた。見間違いかとまばたきをした瞬間、俺の体はぐいっと横に引き寄せられた。
「そんなことより、結婚したんだって?坂井。」
痛いほど強く俺の肩を掴んで、顔を覗き込んでくる薫平。妙に近い距離で迫られ、俺は戸惑いながら「はい」と頷いた。
「へえ。そうかそうか。」
ニヤニヤと意地悪く、薫平は耳元に顔を近づけ、俺にだけ聞こえる声で囁いた。
「どうせお前のことだ。嫁も底辺のブスなんだろ?」
俺は自分の耳を疑い、思わず目を見開いた。
すると薫平は、まるで俺の反応を面白がるかのように、ますます笑みを深めて信じがたい言葉を続けて囁いた。
「事実だろう?貧乏でガリ勉で根暗な坂井なんかと結婚するなんて、よっぽどのブスか、見た目はまともでも頭がおかしい女に決まってる。」
「なあ、坂井。その嫁さん、一体どこで拾ったんだ?マッチングアプリか?それとも見合いの売れ残りか?いずれにせよ、はした金同士のシンパシーでくっついたんだろうな。」
「あ、もしかして、知り合いの女に嵌められたのか?『あなたの子を妊娠したから、責任取って』とか?出なきゃ、逆に寄り奇行が結婚できるわけないもんな。」
屈辱的な言葉の数々に、俺は砕けそうなほど強く奥歯を噛みしめた。
かつて、黙れと叫ばなかったのは、それぞれの立場があって出席した同級生たちを思い出したから。彼らのために、この場をめちゃくちゃにするわけにはいかない。そう言い聞かせて、どうにか怒りを抑え込んだ。
「それ以上は、やめてくれないか。」
「何が?まあ、結婚の話自体、そもそも本当かどうか怪しいけどな。」
そう言うと薫平は、いきなり声を張り上げた。
「なあ、お前らも、坂井の嫁がどんな女か知りたいだろう?なんなら、特別ゲストとして招待するぞ。今から!」
周囲が咎める声にも構わず、薫平は腹を抱えて大笑い。
「嫁を呼べ、呼べ!」と何度もしつこく俺を挑発してきた。
さすがに会場内の空気も悪くなり始め、俺も妻を侮辱され続けて、我慢の限界を迎えようとしていた。
「……分かった。」
「お、やっとブス嫁を披露する覚悟ができたか?」
「来られるかどうか、一応確認するだけだ。」
携帯を押すと、俺は自宅にいるはずの妻に電話をかけた。
周囲の視線が集まる中、廊下に出ると、すぐに妻が出た。
「もしもし?」
「急にごめん。ちょっと、頼みがあって。」
それから15分ほど、俺は薫平に絡まれ続けた。
「なあ、まだ嫁は来ないのか?いい加減、待ちくたびれたよ。」
「20分はかかるって、さっきも言ったはずだ。」
料理や酒を取りに行く暇も与えられず、我慢強い自覚がある俺も、さすがにうんざりしてきた。その時だった。
出入り口の扉が外から開かれ、誰もが一斉にそちらへ注目した。
ニヤニヤしながら俺を揶揄っていた薫平も、そちらを見た瞬間、ぽかんと口を開けて固まった。
大ホールが静まり返る。その中へ、一人の女性がゆっくりと足を踏み入れた。
柔らかな波を描きながら、彼女の足取りと共に揺れる、シャンデリアの光を受けてきらめく、目も眩むほど美しい金髪。海のように澄んだ瞳が、まるで彫刻かのように整った顔の中心で輝いている。一歩を踏み出すごとに、すらりと長く優雅な曲線が、会場中の目を釘付けにする。身にまとった紺のドレスが、それを完璧に引き立てている。
公明な絵画から抜け出てきたかと錯覚するほど、現実離れした美貌を惜しげもなく披露している。金髪とブルーの瞳を持つ絶世の美女。中央に進む彼女の歩みに合わせて、大ホールにはどよめきが広がっていった。
「あれは、まさか……。」
そして、誰かが興奮した声で叫んだ。
「あの人ってもしかして、キャサリン・ローズじゃない?」
キャサリン・ローズ。その人物は、今世界的に有名な現代アーティストだ。彼女の作品は常に話題を呼び、アート界に革命を起こし続けている。しかし、その名前とアメリカ出身であること、それに新日家であること以外は、プライベートが謎に包まれていることでも知られている。その徹底ぶりと言ったら、つい先日に初の著書を発表することが報道されると、SNSでは世界的なトレンドになるほどで。
「ローズさん!」
隣にいた俺を突き飛ばす勢いで、薫平はキャサリンの元にかけ寄った。
「どうなさったんですか?著書の件でしたら、こちらから伺いましたのに。」
先ほどまでとは打って変わって、やりすぎなほど丁寧に話しかける。そして、わざとらしく大声をあげた。
「しまった!つい口が滑ってしまったよ。ローズさんの著書を担当している編集者は、俺だっていうのを!」
その言葉に、同級生たちから歓声が起こった。
「そうなの?すごいな!」
「薫平、やべえ。」
驚きと称賛の声を浴びて、薫平は鼻高々、といった様子になった。そして、その勢いのままキャサリンに馴れ馴れしく話しかけた。
「もしかして、ローズさん、僕の結婚を祝いに来てくださったんですか?」
ところが、キャサリンはきょとんと首をかしげた。
「結婚したの?全然知らなかったわ。」
片言の日本語で彼女が答えた瞬間、薫平は「え?」と呟いて固まった。
「私に頼まれてきたの。『パーティーだから、目いっぱいおしゃれしてきて』って。」
そう言うとキャサリンは、ハイヒールをカツカツと鳴らして、夫の元に歩み寄った。そして夫の腕を取ると、彼に向かってにっこりと微笑んだ。
「あなたのために、急いできたわ。大和。」
「すごく綺麗だよ、キャサリン。」
「ありがとう、大和。」
キャサリンを見つめ返し、俺が微笑んだ瞬間、大ホールは水を打ったような静寂に包まれた。そして、次の瞬間、先ほどとは比べ物にならないほど大きなどよめきに包まれたのだった。
「坂井がキャサリン・ローズの夫だって?」
「キャサリンって、結婚してたの?」
「しかも相手があの坂井って、嘘でしょ?」
「世界が驚く大ニュースじゃないか!」
ほとんどパニックのような大騒ぎの中、薫平は茫然とした表情で立ち尽くしていた。しばらくして、かすれて絞り出すような声で呟いた。
「……うそ。なんで、よりなんかと……」
するとキャサリンは、不機嫌に顔をしかめて問い返した。
「『よりなんか』?それって、私の夫に何か問題があるって意味?」
「え、そ、そんなことは……!」
「薫平さんは、夫のことを分かっていないわ。大和は、優しくて誠実で、そして勇敢な人よ。」
そして彼女は、二人の出会いを語り始めた。
「私たちが出会ったのは、今から8年前のことよ。それは、大和が大学に通っていた頃の話。」
――ある日のこと。通学路を歩いていた俺の耳に、背後から女性の悲鳴が聞こえた。
「誰か!捕まえて!」
その直後だった。俺の方に向かって、帽子を目深に被った大きなバッグを抱えた男が突進してきたのは。
「返して!それ、大事なものなの!」
その男を追いかけているのは、見事な金髪の美女だった。
男が俺の横をすり抜ける瞬間、俺の目には、今にも泣きそうな美女の表情が映った。だから、俺は「ちょっと待った!」と、体が勝手に動いて、男に向かって体当たりしたのだった。
「私のバッグを盗んだの。それを大和が捕まえてくれたの。バッグには、まだお金がない時に買った、思い入れのある制作道具が入っていたわ。大和は、私の恩人よ。」
うっとりと微笑みながら、感情を込めて語るキャサリンの言葉に、その場にいた誰もが聞き入っていた。
「あの時の大和は、とってもかっこよかった。自分が怪我をしながら、私のバッグを取り返してくれて。その優しさと勇敢さに一目惚れして、私からアタックしたの。」
「それに、今の大和は、私の作品を誰よりも愛してくれる。でも、決して私を有名人扱いしたりしない。私のありのままを受け入れてくれる、とっても大きな心の持ち主よ。」
やがて、二次会も終わりに差しかかった頃。
同級生たちに「三次会に行こうぜ!」と誘われたが、俺は断った。
「ごめん。そろそろ帰らないと。二人とも、明日は仕事で早いんだ。」
「帰りましょう。大和。とっても楽しいパーティーだったわ。」
俺の魅力を語りに語って満足げなキャサリンと腕を組んで、俺は彼らの元を後にしたのだった。
ホテルを後にした俺たちは、夜風に吹かれながら、静かな夜の街を歩いた。キャサリンと体を寄せ合い、まるで恋人時代のデートのような雰囲気。
「そういえば最近は、お互い忙しくてデートもしていないな。」
俺がふと考えた時だった。
「あの男に、たくさん言ってやったわ。大和の魅力。」
にっこりと微笑んで、キャサリンは得意げに言った。俺は恥ずかしさのあまり、顔から火が出そうだったのを思い出して苦笑した。
「今夜だけでもう、一生分の褒め言葉を受け取った気がするよ。あ、本当にありがとう。でも、ちょっとやりすぎだったんじゃないか?」
「そんなことないわ。あの男は大和を侮辱したんだから、もっと痛い目に合わせてもいいくらいよ。」
薫平が俺を「坂井よりなんか」と言った時を思い出したのだろう。上機嫌だったキャサリンの表情は、途端にむっとしたものに変わってしまった。そして、こんなことまで言い出した。
「そうだわ。もうすぐ著書が完成する頃だけど、今からでもタイトルを変えてもらおうかしら。」
「え?」
俺のために怒ってくれるのはとても嬉しいけど、そもそも先に俺以上に侮辱されたのはキャサリンの方だ。有名人なだけに、君に悪い噂が立ったら。
俺はキャサリンを止めようとした。するとキャサリンは、ハンドバッグから何かを取り出した。
「これ見て、大和。」
彼女が手にしたそれを見て、俺は愕然として言葉を失った。
――それから数日後、俺は桜門書店の本社ビルを訪れていた。
「すみません。社長秘書の玲奈さんとお会いしたいのですが。」
受付で玲奈の名前を告げると、受付の社員は困惑した顔をした。ところが、俺が名刺を出して再度取り継いで欲しいと頼むと、彼女は慌てて内線電話をかけ始めた。そして数分後、ビジネススーツ姿の玲奈がエントランスに姿を表した。
「私に話があるって?」
「ああ、時間は取らせない。渡したいものがあるだけだ。ここではなんだから、外に行きましょう。」
玲奈の案内で、俺たちは近くにあるファミレスへ。そして席につくなり、玲奈は腕を組んだ。
「それで一体、何の用でうちの会社まで来たの?」
俺を見た時の困惑したような態度とは別人のように、腕を組み、俺を睨みつける。その様子は、高校時代、俺に別れを告げた時とどこか似ている気がした。
「もしかして、玲奈は……。」
俺は一瞬言葉を切り、玲奈の反応を伺うように目を細めた。そして、予想外の言葉を口にした。
「まだ俺に未練があるの?」
「は?」
その言葉に、俺は思わず苦笑してしまった。バカにされたと思ったのか、玲奈の顔はさらに険しくなった。
「違うの?」
「だったら、どうして急に訪ねてきたりしたのよ。変な誤解されたらどうするの?」
「それは申し訳ない。だけど、どうしても君に渡したいものがあって。」
「渡したいもの……。」
玲奈の表情がわずかに柔らぐ。そのタイミングで、俺はポケットから一枚の紙を取り出した。
「これを君に渡したい。いや、返したいと思って。」
その紙を手に取ると、玲奈の目はみるみる見開かれていった。それは、先日彼女たちが結婚式を挙げたホテルの名前が入ったメモ用紙だ。しかし、そのこと以上に玲奈を驚かせたのは、メモ用紙に雑な癖字で走り書きされた内容だった。
「君なら分かるだろう。これは薫平の電話番号だな。仕事用ではなく、プライベートの。」
「な、何これ……?」
「二次会の日、キャサリンが手渡されたそうだ。こっそりと。みんなの目を盗んで。俺が同級生たちに三次会をしようと誘われていた、ほんのわずかな隙を狙って、無理やり押し付けられたのだと、キャサリンは帰宅するまで怒っていたよ。」
「『今夜の件を挽回するチャンスをください。これが僕の誠意です』……そんなことを言っていたそうだよ。」
「ああ、桜門出版にも抗議するつもりだ。はっきり言って、とても迷惑だよ。だから返しに来たんだ。」
そう告げると、俺は要件は以上だと腰を浮かせた。
玲奈は、食い入るようにメモ用紙を見つめ、目を離さない。
「……どうして?」
「え?」
消え入りそうな呟きと共に、ようやく顔を上げる。その表情は、今にも泣きそうに歪んでいた。
「どうして私に見せたの?直接、薫平君のところに持っていけば良かったじゃない?」
「それは……。」
俺は少しためらい、それでも意を決して玲奈に切り出した。
「聞いたよ。二人は結婚式を挙げたけど、まだ入籍はしていないって。」
「え……。」
「君は本当にいいのか?このまま、薫平と結婚しても。」
俺の言葉が終わるや否や、玲奈は立ち上がった。俺を見下ろし、その目から大粒の涙をぽろぽろとこぼしながら、叫んだ。
「あなたは、いつもそうだった!」「正義面して!自分が正しいって顔して!」
「そういうところが嫌いだから、別れたのよ!」
走り去っていく玲奈の後ろ姿が、高校時代の記憶と重なった。周囲の視線を集めながら、俺は「余計なことをしてしまったかな」とため息をつき、自分自身に問うた。
――そして、その頃。
家庭菜園の作業着に着替えた玲奈は、スマホで何かを調べていた。
キャサリンとの出会いについて話す大和のことが、どうしても気になっていた。彼女は検索窓に「キャサリン・ローズ 大学生 ひったくり」と打ち込んだ。すると、数年前のニュース記事がヒットした。それは大学近くで発生したひったくり事件についてのものだった。被害者は当時、美術を学んでいた学生で、犯人はその場に居合わせた男性が取り押さえたと書かれている。男性の名前は伏せられていたが、玲奈は確信した。あの人だ。
それから数日後、玲奈はとある書店にいた。目当てはキャサリン・ローズの著書だった。発売されるや否や話題となっているその本を、玲奈は何気なく手に取った。パラパラとページをめくっていると、一つの写真が目に留まった。それはキャサリンがパートナーと写っている姿だった。写真に写る男性の姿を見て、玲奈の心臓は止まるかと思った。
「……嘘。」
しかし、玲奈はその後、すぐにその本を元の場所に戻した。そして、ふとあることに気づいた。
あの日、大和さんは「渡したいものがある」と言っていた。でも、私にそれを渡す前に、薫平が現れて掻き乱した。もしかしたら、あれは結婚式の招待状か何かだったのだろうか?それとも、私がずっと待っていた言葉だったのだろうか?
玲奈は、自分の中に湧き上がる感情を必死に押し殺した。今更、何を期待しているのだろう。私は彼を裏切った側なのに。
その日の朝は、妻からの悲鳴で始まった。
「大和!大変なの!これを見て!」
朝食の準備をしていた俺は、冷蔵庫を閉めるのも忘れてリビングに駆け込んだ。テーブルの上には、キャサリンのタブレットが置かれている。画面には、彼女が間もなく発表する予定の著書のSNSアカウントが映し出されていた。その最新の投稿を見た瞬間、俺も「え?」と息を飲んだ。
『キャサリン・ローズの知られざる素顔。謎に包まれた彼女の誰も知らないプライベートな秘密が明らかに。衝撃の告白と、日本人夫との馴れ初めも。』
そんな文字が、派手な絵文字に囲まれながら踊っていた。
「これ、一体どういうこと?私たち、こんなのOKしてないわよね。」
声を震わせながら、キャサリンが俺の腕にすがる。俺も混乱しながら、もう一度投稿を読み返す。確かに、著書の内容とも全く違う。それに「日本人の夫」って。キャサリンが綴った著書の内容は、これまで歩んできたアーティストとしての道のりについて。プライベートについては一切触れていないはずなのに。それに、彼女が原稿を書き上げたのは、あの二次会に参加する前。それまで、誰もキャサリン・ローズに日本人の夫がいることを知らなかったはずなのに。
「とにかく、これは放っておけない。早く対処しないと。」
すぐさま俺は、桜門出版に電話をかけ、強く抗議した。SNS担当者は慌てた様子で謝罪し、「すぐに削除します」と約束。幸い、すぐに投稿は削除されたが、そのスクリーンショットは少なからず拡散され、SNSは騒ぎになり始めていた。
「キャサリン、大丈夫か?」
ソファーに座り込んだキャサリンの肩に、俺は手を置いた。キャサリンは俯いたまま、小さく首を振った。
「どうして、こんなことに……。ちゃんと約束したはずよ。私たち、プライベートなことは載せないって。」
ため息をつくキャサリンの声には、行き場のない怒りと不安が混ざっていた。俺も胸の内で怒りが渦巻いたが、今はキャサリンを落ち着かせることが先決だった。
「きっと、何か行き違いがあったんだよ。桜門出版にも抗議したし、すぐに騒ぎも収まるはずだ。」
そう言いながらも、不安は俺の中でも膨らみつつあった。事態は、これだけでは収まらないような……。
その日の午後だった。桜門出版から、予定よりも早く著書のサンプルが届いたのは。
「大和。お願い。あなたが先に開けて。」
震える手で差し出すキャサリンは、今朝よりもさらに顔色が悪い。何か良くないことが起こっている。同じ予感を、俺たちは感じ取っていた。
「分かった。」
俺はごくりと唾を飲んで、覚悟を決めてサンプルの表紙を開いた。そして、ページをめくり始める。――数ページ進んだところで、俺の手が止まった。
「ばさっ」という音を立てて、サンプルは床に落ちた。拾おうとする俺の手は震えて、しばらく床から立ち上がることができなかった。
「何が書いてあったの?大和。」
不安そうに覗き込むキャサリンの目から、俺は慌てて顔を背ける。
「なんでもないよ。ちょっと、手が滑って……。」
「顔が真っ青よ?なんでもないはずないでしょ。貸して。」
止める間もなく、俺の手から引ったくると、キャサリンはサンプルのページを次々にめくった。そして、とうとう彼女はそのページに辿り着いてしまった。
そこに掲載されていたのは、この家から離れた場所に借りているアトリエで制作活動をしているキャサリン。キャップとサングラスで変装しながら近所のスーパーで買い物をしているキャサリン。そんな、彼女のプライベートを撮影した写真の数々だった。
「こんな写真、知らないわ。誰かが勝手に……。一体、いつから……。」
声を震わせながら、キャサリンがさらにページをめくる。すると、隠し撮りの写真を超える、さらに衝撃的な内容が飛び込んできたのだった。
『大和さんが作る和食が大好き』『休みの日は一緒に映画を観る』『一回だけ、お互いに無視をした大喧嘩をした』『結婚1周年記念にハワイに行く予定』
「……絶対にオフレコにするって言うから。あんまりしつこく聞いてくるから、仕方なく話したのに!」
サンプルを床に放り投げ、キャサリンは顔を覆って叫んだ。それを拾い上げた俺も、愕然として大きく目を見開いた。そこには、俺たちの日常生活が、これでもかというほど詳細に書かれていた。キャサリンが一番好きなものは俺が作る和食だということ。二人の休みが一緒になった時の過ごし方。最も大きかった喧嘩の内容。果ては、結婚1周年記念に計画している旅行先まで。まるで、キャサリン自身がインタビューに答えたかのように。掲載しないと約束したはずの内容が、明らかに暴露されていた。
「完全に契約違反だ……。」
俺は呆然としながら呟いた。キャサリンは、怒りと悲しみが入り混じった表情で俺を見つめている。
「どうして?どうして、こんなことに……。信用していたのに。」
キャサリンの声には、今にも泣き出しそうな震えが混じっていた。
「深呼吸しよう。とにかく、この内容は絶対に許せない。すぐに対処する。まずは、桜門出版に本日二度目の抗議を入れなければ。」
テーブルの上にあるスマートフォンに、俺が手を伸ばした。その時だった。リビングに着信音が鳴り響いた。
「桜門出版からよ。」
着信があったのはキャサリンのスマートフォンだったが、真っ青な顔をしている彼女に代わって、俺が応答ボタンを押した。
「もしもし、ローズさんですか?担当の薫平です。もうサンプルはご覧になっていただけましたか?」
電話口から響いた声。それは、薫平のものだった。
「君の仕業なのか?」
俺が呼びかけると、薫平もすぐに電話の相手が俺だと気づいた。
「はあ?坂井か。なかなかの出来だったろ?これなら、ベストセラー間違いなしだ。」
その笑い声が耳に届いた瞬間、俺はリビングを飛び出していた。
「大和!どこに行くの!?」
叫ぶ声にも構わず、自宅を出る。そして、抑えきれない怒りを抱えながら、目的の場所まで全速力で車を走らせたのだった。
「ああ、坂井君。わざわざありがとう。」
桜門出版本社ビル。その最上階にある役員室で、薫平は張りのソファーに腰を掛け、ニヤニヤと笑いながら俺を迎えた。
「どういうことだ、薫平?」
「ま、座れよ。」という言葉を無視して、俺は自宅から持ってきたサンプルをテーブルに叩きつけた。
「こんな内容、キャサリンは承諾していない。隠し撮りの写真や、オフレコの約束だったプライベートの話を、勝手に掲載するなんて。完全に権利の侵害だ!」
「おいおい、そう熱くならないでくれよ。」
肩をすくめて、薫平は余裕綽々の表情で俺をいなした。そして、耳を疑うような言葉を吐くのだった。
「これは、ローズさんのためなんだよ。」
「なんだって?キャサリンのため??」
「この本は絶対に売れる。世間は、スキャンダラスな内容であるほど喜ぶだろう。謎に包まれた美女のプライベートなんて、大歓迎だ。本が売れれば、ローズさんの名前もさらに売れる。つまり、ウィンウィンってやつだ。」
「冗談じゃない!」
その言葉を遮るように、俺は叫んだ。
「キャサリンが著書の発表を決めたのは、自身が現代アートに懸ける思いを知ってもらいたいから。決して、プライベートを暴露して名前を売るためなんかじゃない。こんな本は出版させない。それが、著者であるキャサリンの意思だ。」
「へえ。」
俺の言葉に薫平は笑みを消したけれど、すぐにニヤリと不敵に笑い、ソファーから立ち上がった。
「そんなことを伝えに来たのか?どうせ無駄なのに。」
「無駄?」
「ああ、もう本は完成していて、あとは出版するだけの段階に来ているんだ。ここまで、一体どれだけの人間が関わったと思う?差し止めなんて、無理だよ。」
ブンブンと手を振り、薫平は「残念だったな」と嫌な顔を俺に近づけた。
俺は奥歯を強く噛みしめ、拳を握りしめた。
「そもそも、薫平君はキャサリンの担当を下ろされたんじゃなかったのか?」
「お前も聞いたのか?そうだよ。ローズさんの弁護士とやらが、うちに抗議してくれたおかげでな。ま、それは表向きの話だよ。この会社の中では、俺が引き続き出版まで担当することになったんだ。」
「そうか。」
俺が俯くと、薫平の口調はさらに強まった。
「なあ、坂井。お前は知らないだろうが、本を出す時には、ちゃんと契約書を交わすんだ。俺たちとローズさんの間には、出版契約がある。今から出版を差し止めるのは、その契約を破るということだぞ。慰謝料を払う覚悟はあるんだろうな?」
鬼の首を取ったような表情で、薫平は俺を指さした。
「慰謝料の金額は、世界的アーティストのローズさんでも、払えるかどうか。」
大げさにため息をつきながら、薫平はどんどん俺たちを追い込んでいく。
「この本が出版されれば、多少は身の回りが騒がしくなるだろうが、それはいわゆる『有名税』ってやつだよ。そもそも、ローズさんほどの有名人は、遅かれ早かれプライベートを暴かれるものだ。それが多少前後するくらい、莫大な印税で儲かるのに比べたら、何の問題だろう?」「そもそも、日常生活の話をオフレコにするなんて、約束したかな?てっきり、俺は快くインタビューに応じてくれたとばかり。きっと、日本語がうまく通じなかったんだな。それについては謝るから、お前もローズさんを説得してくれよ。同級生のよしみで。」
最後に、薫平は俺の肩をぽんと叩いた。
そこでようやく、俺は声を絞り出した。
「そうまでして、売りたいのか。人のプライベートを暴いてまで、本を売りたいのか?どうしてなんだ?」
顔を上げた俺の表情に、薫平は一瞬ひるんだが、すぐに笑みを浮かべて吐き捨てるように言った。
「俺は、この本にかけてるんだよ。」
薫平の声には、これまでにない真剣さが混じっている気がした。
「俺は、この会社の次期社長だ。なのに、社員の連中ときたら、まだ誰も俺を認めちゃいない。媚びるふりをしながら、どうせ心の中ではバカにしてるんだよ。『社長の息子ってだけで、何の実績もないお坊っちゃん』だってな。」
俺は初めて、彼が抱えていたものに触れた。それは、名だたる大手出版社の後継として、密かに抱えていたプレッシャー。実績を上げて周囲に自分を認めさせなければ、という焦りから、薫平はキャサリンの盗撮や、著書を勝手に書き換えたのだ。
「プライベートな連絡先をキャサリンに渡したのも、あれ……。出版を取りやめるなんて言われては、これまでの苦労も台無しだからな。」
「そうか。」
薫平は、静かに打ち明ける。俺は俯いて、そうまでせざるを得ないほど追い込まれた彼の事情に思いを巡らせた。
しかし、――顔を上げると、俺は薫平に宣言した。
「では、法的措置を取らせてもらう。」
俺の宣言に、薫平はぽかんと口を開けて固まった。
「まず、仮処分の申し立てを行う。」
「え?」
「これは民事保全法に基づく手続きだ。裁判所に対して、本案の訴訟を提起する前に、緊急的に出版の差し止めを求める。」
「ちょっと待って!訴訟って……。」
薫平の目が大きく見開かれる。その「ちょっと待った」という声を無視して、俺は続けた。
「本件の場合、私的な生活の詳細が暴露されることで、キャサリンは芸術家としての価値や、人間としての信頼に取り返しのつかない影響が出る可能性が高い。裁判所への申し立ての際には、プライバシー侵害の具体的な内容と、それによって生じる回復困難な損害を明確に示す必要がある。」
「ちょ、ちょっと待ってくれ!お前はさっきから……。」
慌てて制止しようとする薫平を構うことなく、俺は続ける。
「それを受けて、裁判所は申し立ての内容を審査する。緊急性と必要性が認められれば、被告の弁明を聞くことなく、仮処分命令を出すこともある。つまり、君たちがどう言い訳をしようと、こちらは著書の出版を止められる可能性があるということだ。」
「え……。」
言葉を失い、ぴたりと動きを止める薫平。
「仮処分が認められれば、出版社は即座に出版作業を停止しなければならない。」
そう付け加えると、薫平の顔からは血の気が引いていった。
「著作権法第十八条。著作者人格権の一つである公表権。これに基づいて、キャサリンには自身の情報を公表するかどうかを決定する権利がある。次に、民法第七百九条。不法行為の一般原則。侵害は、明らかに他者の権利を侵害する行為だ。さらに、個人情報保護法第十六条から第十八条にかけて。君たちの行為は、これら全てに抵触している。」
「こうした明らかな権利侵害が発生している場合、裁判所は出版前でも差し止め命令を出すことができる。つまり――」
俺は一呼吸を置いて、薫平をじっと見つめた。
「仮処分請求でも、出版差し止めの本案でも。キャサリンのプライバシー侵害に対する賠償請求訴訟でも。君たちを訴えれば、こちらには十分な勝算があるということだ。」
大きく足元をふらつかせ、薫平は必死にソファーの背に捕まった。言葉を失い、顔面蒼白で、口をぱくぱくさせている。
「本を出版する際に契約書を交わすことを、俺が知らないとでも思ったか?ありえないな。」
「え……?」
「出版契約を巡る案件なら、これまで何度も担当してきた。なぜなら――」
俺は言葉を区切ると、あるものをバッグから取り出した。そして、薫平の目の前に掲げる。
「――俺は、ニューヨーク州弁護士会の会員で、日本で活動する資格も得ている弁護士の、坂井大和だ。現在は、キャサリン・ローズの顧問弁護士を担当している。」
すっかり渡しそびれていた名刺を差し出すと、薫平は震える手で受け取って、「嘘だろ……。」と驚愕に目を見開いた。
「坂井が弁護士……。正確には、国際弁護士だ。今は日本に在住しているが、ニューヨークのクライアントに呼ばれれば、渡米して弁護を引き受けることもある。……しばらくは、別の依頼を引き受けられそうにないな。」
俺が独り言のようにつぶやくと、我に返ったように薫平は慌てた表情を浮かべた。
「そうだ!訴訟がどうとか、本気じゃないよな?坂井君?」
「なぜ、そう思うんだ?」
「え?」
「俺の妻を侮辱し、プライベートを暴露して、商売の道具にしようとした。ショックで真っ青になっていたキャサリンの姿が、はっきりと目に浮かぶ。最愛の妻を傷つけられて、どれだけ俺が怒りを抑えるのに苦労しているか、きっと分からないだろうな。」
俺は薫平を睨みつけた。
「許さない。必ず、自分の行いを償わせてみせる。」
「ひっ……!」
悲鳴をあげ、薫平は立っていることもままならない。まるで縋るようにポケットからスマートフォンを取り出すと、彼はどこかに電話をかけ始めた。
「もしもし!俺だ!薫平だ!」「うちの会社に来い!今すぐにだ!死んでも来い!!」
それから約10分後、俺たちのいる役員室のドアが外から開かれた。現れたのは、玲奈だった。思わず、その名前が口からこぼれた。そう、薫平に呼び出されたのは、玲奈だったのだ。
「坂井君……?」
俺の姿を見つけると、玲奈も声と表情に戸惑いを浮かべた。
すると薫平は、彼女にスタスタと歩み寄ったかと思うと、その腕をガシッと掴んだ。
「来い、玲奈!」
転びそうになりながら、玲奈は半ば強引に俺の前へと引っ張り出された。
「お前が、こいつを説得しろ!元彼だろ?」
「説得?」
「こいつに訴えられたら、俺は終わりなんだよ!!」
そう叫んでは、薫平は早口に事のあらましを玲奈に説明した。それは一言で言えば、支離滅裂で、玲奈は困惑した表情を深めるばかりだった。
「えっと……つまり、坂井君は弁護士になったってこと?」
「今は、そこはどうでもいいんだよ!!」
「おい、坂井!」
今度は、俺に向かって叫ぶ。顔に引きつった笑みを浮かべながら、薫平の目は泳いでいた。
「どうせ、お前は玲奈に未練があるんだろう?俺が破滅すれば、元妻の玲奈も道連れだぞ?それでもいいのか?」
「薫平君、もう黙ってろ。あなたのせいで、ここまでこじれたんでしょう?」
「うるさい!お前は黙ってろ!グズの役立たずが!」
至近距離で怒鳴られ、玲奈は怯えたように肩をすくめた。しかし、薫平にとって予想外だったのは、彼女が言い返したことだった。
「――妻じゃないわ。私たち。」
「え?」
「まだ籍を入れていないもの。あなたが30歳になる来月、入籍することになっていたものね。」
薫平が言葉を失うと、玲奈は顔を上げて、彼に向き直った。その表情には、今まで見せたことのない決意があった。
「終わりにしましょう。薫平君。私は、あなたとは別れる。もう、我慢できないから。」
「え……。」
薫平の顔が驚愕に染まる。ぱくぱく口が動くものの、反論は言葉になっていなかった。そんな姿を見て、玲奈は深く息を吐いた。
「12年前、私が坂井君からあなたに乗り換えたのは、父の命令よ。会社が桜門出版に買収されたから。社長の機嫌を取るために。」
「嘘だ!嘘!そんな……!」
玲奈が好きでもないと言ったところで、薫平は顔面蒼白に声を震わせ、現実を拒むように首を振る。それでも玲奈の態度は変わらない。どころか、むしろ冷たさを増した小声で、彼女は淡々と告げた。
「でも、もう終わりよ。私も出版社の後継だからわかる。あなたは、絶対に破ってはいけないタブーを破った。桜門出版の信頼は、地に落ちるわ。もう、今後は桜門書店の経営を支援する余裕なんて、ないでしょうね。」
「だ、だから!助けて欲しくて……!」
「無理よ。それに――私と付き合い始めてからも、結婚が決まった後も。あなたが他の女性たちと遊び回っていたこと。私が知らないと思っているの?」
「え……?」
「そんなクズは、どうぞご勝手に破滅してください。さようなら。」
玲奈に最後の言葉を告げられて、薫平は完全に打ちのめされた。膝から床に崩れ落ち、がっくりとうなだれたまま。それきり、顔を上げることはなかった。
「坂井君。」
静かに俺の名前を呼んで、玲奈はこちらに向き直った。
「私にできることがあれば、何でも協力するわ。」
「え?」
「目を覚まさせてくれたお礼。……ありがとう。それから、ごめんなさい。」
彼女は深々と、俺に頭を下げたのだった。
――それから数日後。
俺は、玲奈との待ち合わせ場所である桜門書店近くのファミレスに向かっていた。
「大和、待って!私も行くわ!」
突然、後ろから呼びかけられて振り返ると、キャサリンが小走りで駆け寄ってくるところだった。よほど慌てて追いかけてきたのか、いつもの外出用の変装はしておらず、すれ違う人たちに「もしかして……」と指を差されている。
「キャサリン!どうしてここに?」
「昔のガールフレンドに会うんでしょう?私も連れて行って!」
「え、ち、違うよ!決して浮気とかじゃ……!」
「だめ!絶対についていくわ!」
キャサリンは両手を腰に当てて、頑としてその場を動こうとしなかった。芸術家の彼女は、傷つきやすい繊細な心の持ち主で、それでいて非常に頑固だ。俺は観念してため息をついた。
「分かったよ。一緒に行こう。」
「やった!」
キャサリンはにっこり嬉しそうに笑うと、俺の腕に自分の腕を絡めた。
やがてファミレスに到着すると、玲奈はすでに一番奥の席で待っていた。歩いてくる俺たちを見つけると、彼女は少し驚いた様子で立ち上がった。
「坂井君、それに……キャサリンさん?」
「こんにちは、玲奈さん。よかったら、私も一緒に話を聞いてもいいかしら?」
そう、キャサリンが尋ねると、玲奈は一瞬戸惑ったように見えたが、すぐに微笑みを浮かべて頷いてくれた。
「ええ、もちろんです。」
その穏やかな表情は、以前ここに来た時とは、まるで別人のようだった。
「坂井君。改めて、本当にごめんなさい。」
俺たちが向かいの席に座ると、玲奈はテーブルにつくほど深々と頭を下げた。頭を上げると、彼女は覚悟を決めたように本題を切り出した。
「坂井君が本当は正義感の強い人だと分かっていたから、本当のことが言えなかったの。……覚えてる?2年生の時、誰かに荒らされた花壇を、坂井君が一人で直していたこと。」
俺は目を見開いた。どうして、それを玲奈が知っているんだ?
驚きと共に、その時の記憶が鮮明に蘇ってくる。ある日の放課後、帰りがけに通りかかると、校舎裏の花壇がめちゃくちゃに荒らされていた。見事に咲いていた花も踏み荒らされ、見るも無惨な姿になっていた。俺はそれを見て、見て見ぬふりができなくて、日が暮れるまで、制服を土まみれにして直した。次の日の朝、登校したら、俺が花壇を荒らした犯人になっていて、驚いたことを覚えている。
「次の日の朝に登校したら、坂井君が花壇を荒らした犯人になっていて、すごく驚いたわ。」
「ああ……『お前が犯人だろう』って、通りかかった先生に決めつけられたんだっけ?」
「それに、校舎に迷い込んだ子猫を助けようとしていた時もあったわね。」
「そっちも……。あの時は、木の上で泣いていた子猫を助けようとして手を伸ばして、思いっきり引っかかれたよ。結局、子猫は自分で木から降りると逃げていって、俺は無駄に怪我をしただけで。かっこ悪いことこの上なかった思い出だ。」
「なんだか、恥ずかしいところばかり見られてる気がするな。」
俺が苦笑すると、玲奈は「そんなことない」と首を振った。
「恥ずかしいのは、私の方。勇気がなかったせいで、坂井君が犯人じゃないと訴えることも、見ていたのに手伝うこともできなかった。」
「……玲奈さんは、たった一度だけ、勇気を出せたんだって。」
沈黙の後、キャサリンが静かに口を開いた。
「それは、俺に別れを告げた時。」
俺が言葉を継ぐと、玲奈は小さく頷いた。
「父親に命令されて、薫平君と付き合うことになった時。自分と一緒にいれば、父や薫平君によって、俺がひどい目に遭うかもしれないから。玲奈は悩んだ末に、自分が悪者になって、俺を守ろうとしてくれたんだな。」
俺の言葉に、俯いた玲奈はこっくりと小さく頷いた。ぽたぽたと、テーブルに水滴が落ちる。
「……本当に、ごめんなさい。」
絞り出すような声が、静かな店内に響いた。
「そうだったんだな。」
真相を知って、俺の中にあった玲奈への蟠りは、嘘のように溶けて消え去った。
「大和のこと、本当に好きだったのね。」
玲奈の横に移動したキャサリンが、その肩を優しく抱き寄せる。玲奈はそのまま、しばらくの間、キャサリンの胸で泣き続けた。彼女が落ち着くまで、俺とキャサリンは待ち続けたのだった。
やがて、止めどない涙も落ち着いた頃、真っ赤に泣き腫らした目で、玲奈はぽつりと呟いた。
「桜門出版で務めていても、うちの会社にいい未来は待っていなかったわ。……だから、桜門書店のことは気にしなくていい。会社を守る方法は、他に考えるつもり。父や会社のみんなと一緒に、次期社長として――」
玲奈は、固い笑顔を浮かべて宣言する。その目には、光が宿っていた。同じ次期社長でも、彼女と薫平は違う。きっと、誠実な方法で自分の会社を守るはずだ。そう思わせてくれる、強い決意の光だった。
「そうか。」
彼女の決意を受け取り、俺も笑顔で頷く。これから辿る桜門出版の結末を考えれば、子会社である玲奈の会社が受ける影響からも、目を背けることはできない。それでも、俺に何かできることはないか。そう考え始めた、その時だった。
「ねえ、大和。私の著書、彼女の会社から出版できないかしら。」
突然、キャサリンは身を乗り出して、俺に向かって予想もしていなかった提案をした。
「キャサリン?また無茶なことを……。」
そう思ったのは、いつも彼女に振り回されているからだ。スポンサーと喧嘩しただの、ゲリラで展覧会を開催したいだの。その度に「どうにかして」と頼まれるのが、夫であり担当弁護士である俺なのだ。
「お願い。いつものように手を合わせて、俺をじっと見つめるキャサリン。けれど今回の彼女は、いつになく真剣な眼差しをしていた。
「玲奈さんの会社を助けたいの。それに、私の著書は、本当は彼女のような人に担当して欲しかったの。私がアートに抱く思いを、正しく世の中に伝えてくれるのは、きっとこんな人だから。」
「キャサリンさん……。」
玲奈は驚きの表情を浮かべて、俺とキャサリンを交互に見比べていた。
「そうは言っても……。」
祈るように、キャサリンは俺を見つめ続けている。俺はどうしようかと、しばらく腕を組んで考え込み、やがて長いため息をついた。
「……分かったよ。キャサリンには勝てないな。それじゃあ、法的に問題ないか確認してみるよ。俺も、玲奈の力になりたいのは一緒だから。」
その思いを込めて頷くと、キャサリンは嬉しそうに俺に飛びついてきた。
「大和!大好き!あなたは世界一だわ!」
勢いよく抱きついて、何度もキスをしてくれる。こうして喜んでくれるから、何度でもキャサリンのお願いを聞いてしまうんだ。つくづく彼女に甘い自分に、俺が苦笑すると、玲奈はどこか寂しそうな微笑みを浮かべた。
「……二人は、本当にお似合いね。」
「そうかな?」
「ええ、とっても羨ましいわ。」
また浮かんできた涙をそっと指で拭って、玲奈は俺たちに向かって頭を下げたのだった。
――その後、俺たちが起こした訴訟の結果、キャサリンの著書は正式に出版差し止めが命じられた。キャサリンへの権利侵害も全面的に認められ、桜門出版は高額の損害賠償をキャサリンへ支払うことに。
その結果が報道されると、長年積み重ねてきた信頼は一挙に失われた。取引先との契約解除が相次ぎ、抱えていた小説家や漫画家などは、次々と別の出版社に移っていった。売上を支えていた看板雑誌の数々は、世間の猛バッシングを受け、売上が低迷した末に、いずれも休刊。辛うじて倒産は免がれたものの、かつて日本を代表する出版社だった桜門出版の名前は消え去り、大幅に規模を縮小して経営を続けていくことになった。
この事態を引き起こした張本人の薫平は、裁判が終了した直後、どこかに姿を消した。しかし、行く当てもなかったのか、間もなくボロボロの姿で佇んでいる姿が、実家の前で発見されたという。現在は、会社から冷たい視線を向けられつつ、大量リストラの穴を埋めるため、あらゆる業務を休みなくこなさなければいけない状況だそうだ。
この一方で、キャサリンの著書は、玲奈の会社から改めて出版されることになった。裁判の余波もあって、様々な混乱や憶測も飛び交ったが、それを上回る積極的な広告キャンペーンが展開され、予約段階で初版10万部を突破。発売日には、各取扱店に長蛇の列ができ、たちまちベストセラーの仲間入りを果たした。その結果、玲奈の会社の株価は急上昇。傾きかけていた経営は見事に立て直され、その後も順調な経営を続けていくのだった。
――そして、出版から1ヶ月後。玲奈の会社の応接室には、俺とキャサリン、そして玲奈とその父である社長の姿があった。
「坂井君、キャサリンさん。本当にありがとうございました。」
社長は目に涙を浮かべ、深々と頭を下げた。
「この恩は、一生忘れません。娘のために、会社のために、ここまでしていただいて……。」
それに続いて、玲奈も俺たちに頭を下げる。キャサリンは微笑み、二人に頭を上げさせた。
「いえ、私こそ。以前よりもずっと素晴らしい本を作ってもらいました。あなたたちにお願いしてよかった。ありがとう、玲奈さん。」
「キャサリンさん……!」
キャサリンに熱烈なハグを受けると、玲奈は涙ながらに自分もハグを返した。
社長は顔を上げると、俺をまっすぐに見つめた。
「坂井君。実は……高校時代に君が玲奈と交際していたのは、知っていました。」
「え?」
驚いて目を見開く俺に、社長は声を震わせて告げた。
「……君たちの仲を裂いたのは、私です。娘の幸せよりも、会社を守ることを優先した。最低な親でした。君にも玲奈にも申し訳なくて、ずっと謝らねばと思いながら……。」
「お父さん、私はもういいの。」
「玲奈……。」
「お父さんの苦労だって、今なら少しは分かるつもりだから。」
そっと、玲奈は父親の腕に手を添えた。
「これからは、一緒に坂井君に償っていきましょう。何ができるかはまだ分からないけど、私たちにできることを精一杯するの。」
「ああ、すまなかった。玲奈。ありがとう。」
涙をこぼす社長に、玲奈は優しく微笑みながら寄り添った。そんな二人の様子を見て、俺は思わず口を挟んだ。
「もういいですよ。社長。俺は今、こんなに幸せだから。」
キャサリンの横に立って、お互いの手を握り合う。
「こうして、ちゃんと幸せになれたから。これからは、お互いに前を向いて生きていこうよ。」
玲奈にそう伝えると、彼女は驚いたように目を丸くした。
「でも……。」
「それに、今の幸せがあるのは、君のおかげだから。」
「え?」
きょとんと目を丸くする玲奈に、俺は告げた。ずっと伝えられずにいた、感謝の言葉を。
「勉強ばかりしていた俺を、初めて認めてくれたのは君だった。俺が努力していること。勉強以外にも取り柄があること。その時から、灰色だった学校生活が、鮮やかに見え始めたんだ。」
「……勉強にしか興味がないように見えて、本当は周りを見ていて正義感がある。自分が損をするのも構わず、誰かのために動ける優しさを持っている。」
玲奈が、静かに言った。
「私が好きになったのは、坂井君のそんなところ。……だから。」
「そう、君が言ってくれたから。学校で過ごすことが、前よりも嫌ではなくなった。もう少しだけ、人と関わってみてもいいか。そう思えるようになった。そして、海外に行くきっかけを作ってくれた。おかげで、キャサリンと出会うことができたんだ。」
「失恋の苦い思い出を吹っ切るため、俺は思い切ってアメリカの大学を目指すことにした。だからこそ、ひったくりに遭っていたキャサリンを助けることができた。その出来事がきっかけで仲良くなった彼女に『弁護士が向いていると思う』と言われて、弁護士を目指すことにした。だから、いいことも悪いことも、全ては今の俺に繋がっているんだ。今、こうして幸せだから。俺は、君に感謝したいんだ。」
「……ありがとう。」
そう言って片手を差し出すと、玲奈は俺の顔をじっと見つめた。そして、その目はみるみる涙で滲んでいった。
「……やっぱり、私は坂井君のことが好きだったんだな。」
玲奈はそう言って、静かに首を振った。先ほどの言葉は、きっと過去の自分への決別の言葉だったのだろう。
「うん、うん。私も、頑張るわ。坂井君のように、いつか幸せになるために。前を向いて。」
にっこりと満面の笑顔を浮かべた玲奈と、俺は握手を交わした。これからは友人として、お互いの幸せを祈ろう。硬い握手には、きっとそんな思いが込められていた。とても晴れやかな気持ちで、俺はキャサリンとその会社を後にしたのだった。
「……やっぱり、大和は優しすぎるわ。」
帰り道、キャサリンはぽつりと呟いた。その顔は、なぜか拗ねたようにむすっとしている。
「もう少し、冷たいくらいでもいいと思うの。特に、女性には。」
「どうしてだよ?」
「だって、出会う女性みんな、大和のこと好きになっちゃったら困るもの。心配だから、できれば二人きりにはなって欲しくないわ。」
「キャサリン……。」
そんなことを心配していたのか、という呆れが半分。そして、そこまで俺を思ってくれる妻に込み上げてくる愛しさが半分。俺は苦笑しながら、キャサリンの手を握った。
「俺が、キャサリン以外に冷たくなったら、もっと好きになってくれる?」
「それは……よく考えたら、嫌かも。私が好きになったのは、誰にでも優しい大和だから。うん、やっぱり優しい大和が好き。」
「君だって、俺のことを言えないけどね。」
キャサリンは、玲奈の会社が著書の出版を成功できるよう、あれだけ秘密にしていたプライベートの一部を、巻末の独占インタビューで明かすことに決めた。その優しさに、俺は彼女の今後に悪い影響がないか心配しつつも、改めて「この女性と、何があっても人生を共にしよう」と誓った。つまり、キャサリンに惚れ直したのだった。
「私達って、日本語で言うところの、何ていうのかしら?」
「似た者夫婦、じゃないか?」
「そう、それ!」
はしゃいだ声をあげて、キャサリンが俺の腕に抱きついた。体を寄せ合って、二人が暮らす家に帰っていく俺たち。きっと、これからもこんな何気ないやり取りさえ、幸せに思えるような。穏やかだけど、満ち足りた日々が続いていく。触れ合った部分に広がるぬくもりが、そんな予感をさせてくれていた。
人生は、予想外な展開の連続だ。時に喜びもあれば、傷つき後悔することもある。けれど、全ての経験が未来の自分を作ってくれる。大切なのは、自分らしさを失わないこと。信念を貫き、自分らしく、前を向いて進むこと。それがきっと、未来の幸せに繋がっているはずだから。



