私の卒業式でもない、ましてや私の結婚式でもない。初恋の人の結婚式で、私は暗に「お前はここにいる価値がない」と言われた。高身長で高収入、誰もが認めるエリートの同級生に。彼は私の選んだ仕事を「社会の底辺」と嘲笑った。ガラス越しに差し込む光が、彼の歪んだ笑顔を照らしていた。耳の奥で、昔彼に言われた「絵で食っていくなんて無理」という言葉が反響する。泣き寝入りするのはもう終わりにしよう。私はただ、この…

私の卒業式でもない、ましてや私の結婚式でもない。初恋の人の結婚式で、私は暗に「お前はここにいる価値がない」と言われた。高身長で高収入、誰もが認めるエリートの同級生に。彼は私の選んだ仕事を「社会の底辺」と嘲笑った。ガラス越しに差し込む光が、彼の歪んだ笑顔を照らしていた。耳の奥で、昔彼に言われた「絵で食っていくなんて無理」という言葉が反響する。泣き寝入りするのはもう終わりにしよう。私はただ、この...

「妖務員の席はない。そこら辺に立っとけ。」

その瞬間、会場の空気が凍りついた。近くにいた招待客が一斉にこちらを見る。誰かが小さく息を飲む音が聞こえた。けれど孝太郎だけは得意げに笑っている。面白い冗談でも言ったつもりなのだろう。

張り詰めた空気の中、私は受付表からそっと手を離した。彼に言ってやりたいことは山ほどあったが、ここで揉めれば秋彦と遊美に迷惑がかかってしまう。

「じゃあ帰るね。」

そう言ってキビを返し、会場を出ようとした瞬間、VIP席にいた一人の外国人男性が立ち上がった。周囲の招待客が道を開ける。男性はまっすぐ私の元へ駆け寄ってきた。

「鮫島さん、お会いできて光栄です。」

瞬間、会場が再び静まり返る。そして直後、孝太郎は衝撃の事実を知ることになるのだった。

――私の名前は鮫島咲子。27歳。現在は私立大学で妖務員として働いている。

幼い頃の私はよく喋る子供だった。学校での友達との会話。道端で見つけた珍しい虫の話。好きな夕飯の献立のこと。とにかく四六時中話し続けていたのは、父と母がいつもニコニコと楽しそうに笑いながら、熱心に聞いてくれたからだ。

しかしその生活は、私が10歳の時に突然終わりを告げる。両親が事故で亡くなったのだ。父と母は駆け落ち同然で結婚していたため、実家との交流は皆無だった。私を引き取ってくれたのは、母方の叔父・鮫島咲之助。

叔父は不器用な人だった。突然現れた姪にどう接すればいいのか分からなくなったのだと思う。同じく私も彼と何を話せばいいのか見当がつかず、あれほど好きだったおしゃべりはいつの間にか苦手になっていった。

中学に上がると同時に、私は美術部に入部。絵を描いている間は誰かと会話しなくて済む。そんな消極的な理由で始めた絵だったが、予想外に熱中し、高校生になっても創作活動は真面目に続けた。

高校卒業後は大学に進学せず、地元で就職。ジム、工場での警備作業、ドライバー。いくつかの職場を点々とした後、縁あって大学の妖務員に落ち着いた。裏方として働きながら、気ままに絵を描く。そんな風に私はこれからも生きていくつもりだった。

しかしあの日届いた一通の招待状が、私の人生を大きく変えることになる。

中学1年の春、放課後の美術室で私は同級生の秋彦に声をかけられた。クラスではまともに会話をしたことすらなかったのに、秋彦はごく自然に話しかけてきた。当時の短いやり取りを今でも昨日のことのように覚えている。

「鮫島。筆洗いの水、そろそろ変えた方がいいよ。」
「え、本当だ。全然気づかなかった。」
「集中すると忘れるよね。俺もよくやっちゃう。」

その日から、私は秋彦のことを目で追うようになった。部活で一言話せただけで舞い上がり、彼の何気ない仕草にも一喜一憂してしまう。誰かを好きになることが、こんなにも落ち着かないものなのだと初めて知った。

やがて恋心を抱えたままでいることが苦しくなった。ある日の放課後、部活が終わった後、私は荷物をまとめている秋彦に告白した。夕方の教室は耳鳴りがするほど静かだった。

「あの、突然ごめん。私、秋川君のことが好きです。もしよかったら付き合ってくれませんか?」
「伝えてくれてありがとう。でもごめん。鮫島のことは、そういう風には見られない。」
「そっか。聞いてくれてありがとう。これからも友達でいてくれる?」
「もちろん。これからも友達としてよろしく。」

残酷なセリフだと思う。それでも秋彦が私を傷つけないように答えてくれたことは分かっていたから、涙を堪えて精一杯の笑顔を作った。彼もそれ以上は何も言わず、手を振って帰っていった。

ところが翌日、教室に入った瞬間、予想外の出来事が起こった。いつもクラスの中心にいる孝太郎が、私の目の前に立ちはだかったのだ。

「よく振られて平気だな。え?昨日秋彦に告白したんだろ。あいつの親が金持ちだから、玉の輿狙ってんの?」

教室の空気が一瞬止まり、私も自分の椅子に手をかけたまま動けなくなった。忍び笑いが聞こえて振り返ると、クラスメイトが気まずそうに目をそらした。昨日の告白をどうして孝太郎が知っているのか。まさかと思って秋彦を見ると、彼は険しい顔で孝太郎に詰め寄っていた。

「孝太郎、やめろよ。」
「なんだよ。本当のことだろ。」
「だとしても、勝手に言いふらしていいことじゃない。そもそもなんで孝太郎が知ってるんだ?」
「さあね。誰かさんが教室なんかで告白するからじゃない?」

悪びれもせず肩を竦める孝太郎。そのふざけた態度に、私はようやく理解した。昨日誰もいないと思い込んでいた教室の外に、孝太郎がいたのだ。

「あんた、盗み聞きしてたんでしょ。」
「そんなんじゃねえよ。たまたま聞こえたんだよ。ていうか、あんな大声で告白する方が悪いだろう。」
「私は大声なんて出してない。」
「まあまあ、そんな怒るなって。」

怒りと恥ずかしさで一気に顔が熱くなった。どうすればいいのか自分でもよく分からない。心配そうに秋彦がこちらの様子を気にしているのが、また辛かった。

その日を境に、孝太郎は何かと私に絡んでくるようになった。誰かから私の家庭事情を聞いたらしい。

「親がいないと大変だな。ちゃんと飯食えてるのか。」

毎回孝太郎はわざと教室でからかってきた。クラスメイトの視線が自然と私に集まる。注目されるのが嫌で、私は精一杯振る舞った。

「平気だよ。ちゃんと食べてるから。」
「無理すんなよ。あ、そうだ。お前、教室のパン持って帰れよ。」
「いらない。」
「遠慮すんなって。腹減ってんだろ。」

孝太郎に釣られて何人かが吹き出した。心の中で「ふざけるな」と怒鳴りながら、私は彼に背を向けて席に着いた。親がおらず家庭の経済状況が芳しくなかったとしても、本来は笑われるようなことではないはずだ。それでも当時の私には、机の下で拳を握ることしかできなかった。春の陽射しが差す教室の中で、私の味方は失恋相手の秋彦ただ一人だった。

半年後、二月になっても秋彦以外に友達ができなかった私は、休み時間になるとよく教室の隅で絵を描いていた。スケッチブックに向き合っている間は嫌なことを忘れられる。だがその平穏な時間も、度々孝太郎に邪魔された。

「また落書きか。」

声をかけられた瞬間、私は反射的に手で絵を隠した。けれどその仕草すらも面白がるように、孝太郎は鼻で笑う。

「何隠してんだよ。他人に見せられないような絵でも書いてんのか?」
「あんたに見せるために書いてるわけじゃないから。」
「へえ、勉強できないやつほど芸術に逃げるんだよな。」

学校の成績は悪いわけでもなかったが、私は口をつぐんだ。入学以来、孝太郎が学年トップであることを知っていたからだ。黙り込んだ私に変わって、秋彦が立ち上がった。

「孝太郎、またそういうこと言ってるのか。」
「事実だろ。勉強そっちのけで、休み時間まで落書きしてるんだから。」
「別にいいじゃないか。鮫島が好きで書いてるなら。」
「秋彦は優しいな。振った相手のことも褒めてやるんだ。」

秋彦はいつもより厳しく非難したが、それでも孝太郎は悪いことをしたという顔をしなかった。むしろ注意されることまで含めて、状況を楽しんでいるように見える。うんざりしながらスケッチブックを閉じて机の中にしまったところで、休み時間の終わりを知らせるチャイムが鳴り、私はようやく息をついた。

それから一週間ほど経った頃、私の書いた絵が市の絵画コンクールで入選した。小さな賞だったけれど、私には十分すぎるほど大きな出来事だった。美術部の顧問の先生が教室まで知らせに来た時、周りの生徒も何人かは素直におめでとうと言ってくれた。

「鮫島、よく頑張ったな。」
「ありがとうございます。」
「すごいな。鮫島、今度展示を見に行くよ。」
「は、入選はお遊びだろ。」

仏頂面のまま、そう吐き捨てた孝太郎。温かい空気に包まれていた教室が、一気に凍りついた。

「お遊びなんかじゃない。鮫島が真剣に描いた絵が評価されたんだ。」
「そうだぞ。孝太郎、人の努力を腐すな。」
「でも、高が市のコンクールですよね。そんな大げさに褒めることですか?」
「そういう問題じゃない。鮫島に謝りなさい。」

先生に一括されると、孝太郎は軽く肩を竦めて「すみませんでした」と言ったが、彼が反省していないのは誰が見ても明白だった。その時初めて、私は孝太郎に勝ちたいと思った。彼の得意な何かで勝つことで、黙らせてやりたいと。

ちょうどその頃、孝太郎が県外の有名進学校を目指しているという話を耳にした。クラスメイトに進路を尋ねられた彼は、待ってましたとばかりに得意げに高校名を口にする。

「俺は地元の高校なんか行く気ないから。」
「すごいな。あそこかなり難しいんだろ。」
「まあな。けど俺なら余裕だし。学年1位だし。」

その会話を聞いた瞬間、覚悟が決まった。孝太郎にとってテストで負けることは、何よりの屈辱に違いない。最高の復讐を思いついた私は、定期テストに向けて猛勉強を開始した。真剣に勉強したのは生まれて初めてのことだった。

絵を描く時間を削って、私は二学期の期末テストで学年1位になった。あの日の光景は今でも忘れない。テスト結果が張り出された日、掲示板の前には人だかりができていた。

「え、1位、鮫島じゃん。」
「すごい。点数ほとんど満点だ。」
「やった。」

そう呟いた瞬間、呆然と廊下に立つ孝太郎の姿が目に入った。真っ青な顔をして、信じられないと言いたげに口を開けている。いつもの余裕はない。

「鮫島、すごいじゃないか。学年トップなんて。」
「ありがとう。今回はちょっと頑張ったから。」
「たまたまだろ。実力は俺の方が上だ。」
「そうかもね。でも今回は私が1位。あんたに勝ったよ。」

すると孝太郎は悔しそうに口元を歪め、何も言わずに教室に入っていった。去っていく背中に、わずかに胸がすく思いがした。馬鹿にされたり絵を粗末に扱われたりした痛みが消えたわけではない。それでも私は自分の力で孝太郎に一矢報いることに成功したのだ。

――中学2年の夏。その頃の私はまた勉強よりも部活を優先するようになっていた。一度きりでも孝太郎に勝てたことで満足していたからだ。放課後はほとんど美術室で過ごし、家に帰ってからもひたすら机に向かい、暇さえあればスケッチブックを開いていた。成績は元の順位に下がった上、周りからは変わり者と思われていたが、私は気にしていなかった。

その日の休み時間も、私は自席で絵を描いていた。相変わらず孝太郎が口を挟んでくる。

「また書いてるのかよ。」
「うん。」
「よく飽きないな。そんなに一生懸命やっても、絵なんかで食っていけるわけがないのに。」

周りにいた数人がこちらに視線を向けたが、私は鉛筆を止めなかった。むやみに反応すれば孝太郎が喜ぶことは分かっている。無視して新しい線を引き続けていると、孝太郎は机に片手をつき、不躾に顔を近づけてきた。

「そもそもさ、美大に行く金があるのかよ。」
「お金って何の話?」
「だって絵描きになるなら美大だろ。親のいないお前じゃ、普通の大学にも行けるかも怪しいじゃん。無理なら早めに諦めた方がいいんじゃない?」
「やめろよ。」

教室の後ろから飛んできたのは秋彦の声だ。反射的に顔を上げると、秋彦は険しい表情で孝太郎を見つめている。一方の孝太郎は少しも困った様子を見せず、わざとらしく肩を竦めた。

「なんだよ。現実を教えてやってるだけだろ。」
「わざわざ相手を傷つける言い方をする必要はない。いちいち鮫島に絡むな。」
「優しいな、お前は。叶わない夢を見させる方が、俺は残酷だと思うけどね。」

「あのさ、私にばっかり構ってないで、勉強したら?」

そう言うと、孝太郎の薄ら笑いが消えた。一気に教室が静かになる。大きく息を吸い込んでから、私は孝太郎を正面から見据えて反撃した。少し前にはできなかったことだ。

「油断してると、落ちるよ。」
「は?なんだよそれ。」
「あんた、進学校を目指してるんでしょ?私の絵に難癖つけてる時間がもったいないと思うけど。」
「調子に乗るなよ。一回テストで勝ったくらいで。」

鋭く私を睨みつける孝太郎。けれどそれ以上言い返してこなかった。去年の定期テストを思い出したのだろう。悔しそうに唇を結び、自分の席へ戻っていく。正直いい気味だと思った。

しかし数日後、思いもよらぬ出来事が起こったのだ。その日、体育の授業が終わり、更衣室で着替えを終えた私は教室へと戻った。次の授業で使う教科書を出そうと自分の机の中に手を入れた、その時。指先にいつもと違う感触があった。

「え……」

机の中から取り出したスケッチブックは、表紙が破れていた。中を開くと、書きかけの人物画も風景の下書きも、ことごとく真ん中から引き裂かれている。さらに調べたところ、細かくちぎられた紙片が机の奥に押し込まれていた。

驚いている私に気づき、クラスメイトが次々と尋ねてくる。

「咲子ちゃん、それどうしたの?」
「分からない。」
「鮫島、まさかそれ……」
「おいおい、ひどいことするやつもいるんだな。」

孝太郎が口を開いた瞬間、教室の空気が変わった。誰もが同じことを考えたのだろう。けれど、はっきりと孝太郎の仕業だとは口にしなかった。体育の時間、無人になっていた教室。生徒たちが戻ってきた時には、すでにスケッチブックはこうなっていた。誰がやったのかを示すものは何も残っていない。

気がつくと秋彦は私の机のそばまで来て、破れたページを見つめていた。

「先生に言った方がいい。」
「うん……多分。でも証拠がない。」
「それでもちゃんと報告しないと。」
「いや、証拠もないのにクラスメイトを疑うなんて、最低だぞ。」

すぐに担任に報告したが、結局犯人は特定されなかった。クラスメイトたちから疑いの目を向けられても、孝太郎はいつも通り平然としている。放課後、秋彦が再び私の席に来た。

「鮫島、俺こういうの許せない。今からでも孝太郎を問い詰めて…」
「うん、大丈夫だよ。書き直すから。」
「でもコンクールも近いのに。」
「そうだね。でも本当に大丈夫。これは部活とは別で、個人的に描いてたやつだから。」

そう言って私は破れた紙を一枚ずつ重ねた。大切にしていたものを壊されても、泣き寝入りするしかない自分が悔しい。それでも私は教室では表情を崩さなかった。泣いたり怒ったりすれば、孝太郎が勝ち誇るような気がしたからだ。破れたスケッチブックを抱えたまま、私は笑顔を貼り付けて部活へと向かった。

――月日は流れ、20歳の冬。成人式の後に中学の同窓会が開かれた。場所は駅前の居酒屋。掘りごたつの席に集まった顔は、懐かしいようで全く知らない人たちにも見える。すっかり大人びたクラスメイトたちを見渡しながら、私は端の席に座った。

乾杯の後、自然と互いの近況報告が始まる。

「秋彦は今どうしてるんだっけ?」
「法学部にいるよ。一応弁護士を目指してる。」
「似合うな。中学の頃から優秀だったもんな。」
「優秀かどうかは分からないけど、頑張ってみようと思ってるよ。」

秋彦は昔とあまり変わっていなかった。謙虚で穏やかな態度を崩さない彼に、周りは感心したように頷く。グラスを片手に、私はこっそり秋彦の横顔を見ていた。

「俺は今、東京の大学に通ってる。ま、ここにいる連中なら知ってる奴も多いと思うけど。」

その流れで、孝太郎が身を乗り出し誇らしげに大学名を口にした。誰もが知る名門大学だった。隣の席の同級生が、ややオーバーに反応する。

「ええ、すごいな。今も勉強ばっかりしてるのか?」
「当然だろ。将来は官僚を目指してるからな。」
「官僚か。立派な夢だな。」
「国を動かす側に回るってことだよ。俺は普通の会社員で終わる気はない。」

昔と同じように自信に満ちた表情で語る孝太郎。素直にすごいと褒める人もいたが、何人かは白けた様子で苦笑いしている。やがて話題が私に回ってきた。

「咲子は今何してるの?」
「えっと、工場で働いてる。部品の検品とか梱包とか。」
「そうなんだ。意外だな。もう絵は描いてないのか?」
「休みの日に描いてるよ。細々とね。」

私はなるべく明るく言った。正直当時やっていた工場の仕事は楽ではなかった。朝は早いし、立ちっぱなしで足も痛くなる。それでも自分で働いて生活できていることは私にとって重要だった。自由に絵を描けるだけで、私は自分らしくいられるのだ。しかし、孝太郎の一言が会場を凍りつかせた。

「工場って、社会の底辺じゃん。」
「え、ちょっと孝太郎!」
「勉強嫌いだったからな。昔から絵ばっかり描いてたもんな。」

グラスを持つ手が無意識に震える。もう子供ではないのだから受け流せばいい。頭ではそう思っていても、孝太郎の言葉はまっすぐ胸に突き刺さった。

「孝太郎、今の言い方は良くないぞ。」

とっさに何も言えない私に代わり、秋彦がすぐ注意した。続いて同級生たちも口々に孝太郎を責め始める。

「今のは普通に失礼だろ。」
「そうそう。職業に貴賤はないよ。」
「なんでお前らが怒るんだよ。高が酒の席の冗談だろ。」
「冗談で済む内容じゃない。」

いつになく厳しい秋彦の声が響く。他の同級生たちも、笑って孝太郎の主張を流すような雰囲気ではなかった。中学時代とは違う。孝太郎に絡まれている私を見て、気まずそうにするばかりではなく、きちんと怒ってくれる人がいる。とてもありがたいことだ。だがなおも孝太郎は悪びれない。

「みんな真面目だな。こういう場で本音も言えないのかよ。」
「本音なら、余計にまずいだろう。」
「別に悪気はないって。」
「もういいよ。私は気にしてないから。」

そう言って私は笑い、グラスのウーロン茶を少し飲んだ。せっかく久しぶりに集まった同級生たちに、余計な気を使わせたくなかったからだ。しばらくして話題はまた別の誰かの近況へと移っていった。海外留学の予定、就職先での苦労話、恋人ができたこと。希望に満ちた同級生たちの顔を見て、私は気分が沈んでいくのを感じた。工場での仕事を恵んでいたわけではない。好きな絵を続けられる生活は、自分にとって幸せなはずだった。それでもみんなが未来へ羽ばたいていく中、私一人が足踏みしている気になってしまう。

「ねえ、咲子。今度絵を見せてよ。」
「うん。大したものじゃないけど。」
「謙遜することないって。中学時代からプロ並みにうまかったじゃないか。」
「ありがとう。」

秋彦の言葉は純粋に嬉しかった。しかし帰り道に頭に浮かんできたのは、なぜか孝太郎の心ないセリフだった。中学時代に受けた傷の痛みは、大人になってもなかなか消えないものらしい。

――27歳の春。弁護士として働いている秋彦から、結婚式の招待状が届いた。相手は同じく弁護士の遊美。以前秋彦に紹介してもらった彼女は、知的で落ち着いた雰囲気の人だった。実は帰国子女で、語学が堪能らしい。素直に二人の門出を心から祝いたいと思い、私は出席に丸をつけて返信した。こうして私は初恋の相手の結婚式に参列することになったのだ。

迎えた式当日。少し早めにホテルへ向かった私は受付を終え、披露宴会場へ向かう途中で足を止めた。そこに孝太郎がいたのだ。同窓会で豪語していた通り、官僚になったと聞いている。

「孝太郎、久しぶり。」
「ああ、久しぶり。それにしても、貧乏臭いドレスだな。」

27歳になった今でも、この人は私を見下しているようだ。聞こえなかったふりをして微笑みながら、私はゲストルームへ向かおうとした。けれど孝太郎はわざわざ隣に並んでくる。

「妖務員の給料じゃ、ドレス用意するのも大変だったんだろ。」
「別に大変じゃないよ。」
「無理すんなって。見栄張ってても分かるから。」
「違うってば。」

こちらの言い分をまるで気にしない孝太郎。一方的に決めつけて、勝手に笑う。中学の頃から何も変わっていない。深く息を吸い、私は数時間の辛抱だと自分に言い聞かせた。秋彦と遊美の大切な日を、孝太郎と私のいざこざのせいで台無しにしたくない。

無事に挙式を終え、私たちは披露宴会場へ移動した。大きな扉の向こうには、丸いテーブルが並んでいる。受付表を確認しようとした時、孝太郎の声が響いた。

「妖務員の席はない。そこら辺に立っとけ。」

その瞬間、周囲の空気が凍った。近くにいた招待客が一斉にこちらを見る。誰かが小さく息を飲む音が聞こえた。けれど孝太郎だけは得意げに笑っている。面白い冗談でも言ったつもりでいるらしい。張り詰めた空気の中、私は受付表からそっと手を離した。孝太郎に言ってやりたいことは山ほどあったが、ここで彼と揉めれば秋彦と遊美に迷惑がかかってしまう。

「じゃあ帰るね。」

そう言ってキビを返し、私が会場を出ようとした瞬間、VIP席にいた一人の外国人男性が立ち上がった。周囲の招待客が道を開ける。男性はまっすぐ私の元へ駆け寄ってきた。

「鮫島さん、お会いできて光栄です。」

瞬間、会場は再び静まり返る。

「ミス鮫島、ずっとお会いしたかった。」
「私にですか?」
「もちろんです。あなたを見つけて、思わず立ち上がっていました。」
「ありがとうございます。」

差し出された手を私が戸惑いながら握ると、会場のあちこちから驚きの声が上がった。なぜなら、高級スーツを着こなす知性あふれる彼の名前は、世界的なバイオリニストのフロイド・フィッシャー。10代から海外の音楽祭で活躍し、来日公演もあっという間に完売するほどの人気を誇る世界的な演奏家だ。

帰国子女である遊美が外国で暮らしていた頃からの友人で、海外からの特別ゲストとして式に招かれていた。当然、招待客の誰もが彼の一挙手一投足に注目している。

「おい、鮫島どういうことだ?お前、フロイド・フィッシャーと知り合いなのか?」
「いや、私は……」
「ミス鮫島とは知り合いではありません。初めてお会いしました。」
「フィッシャーさんだったら、なんでそんなに興奮してるんです?」

孝太郎が不満げに尋ねると、フロイドは周囲の招待客へ向き直った。そして大きく両手を広げ、朗らかに発表したのだ。

「彼女は、私が最も尊敬する現代アーティストの一人です。」

次の瞬間、会場が大きく沸き立った。実は私は現代アート作家として、世界中を飛び回っている。だが日本ではほとんど目立った活動をしていない。そのため同級生たちの多くは、私が今も趣味で絵を描いていると信じていた。孝太郎も意味が分からないという顔で私を凝視している。

「現代アーティストって、こいつが?」
「そうです。私の家にも彼女の作品があります。」
「よく似た別人じゃないのか?」
「間違えるはずがありません。ほら。」

フロイドはポケットからスマホを取り出し、写真フォルダを開いて私と孝太郎に見せた。確かにリビングの白い壁には、私の作品が大切そうに飾られていた。別の写真には、作品を並べた展示室まで映っている。

「なんだこれは?」
「毎朝仕事前に作品を見るのが、私のルーティンです。」
「とても大切にしてくださっているんですね。しかもこんなにたくさん。」
「こちらは私のコレクションの一部です。まだまだ他にもありますよ。」

好奇心に負けて画面を覗き込んだ客たちから感嘆の声が上がった。気をよくしたフロイドは続けて、海外の美術館で開かれた私の個展の写真を見せた。有名なコレクターが購入した作品や、文化財団に収蔵された作品も。海外の美術館や収集家の名前が次々と飛び出した。

「え、咲子の絵って有名なの?」
「当たり前です。この美術館の館長も、次の展示を待っていますよ。」
「海外でも作品が収蔵されてるってことか。」
「はい。彼女の作品を求める人は、世界中にいます。」

フロイドと招待客たちが盛り上がる中、孝太郎ただ一人が不機嫌な顔をしていた。胡乱な目をして、スマホと私を何度も見比べている。あの得意げな笑みは消えていた。

「こんなの何かの間違いだろ。鮫島は大学の妖務員なんだぞ。」
「妖務員であることと、芸術家であることは矛盾しません。」
「でもこいつは美大にも行ってないし。」
「学歴で作品の価値が決まるのですか?大学を卒業していなくても、偉大なアーティストは大勢いますよ。」

真正面からフロイドに正論をぶつけられた孝太郎は、悔しそうに唸った。その姿を見て、中学時代の苦い思い出が蘇る。絵で食っていくなんて無理だと決めつけ、人の努力を馬鹿にした孝太郎の前で、私の作品を愛するフロイドがその価値を語ってくれた。彼の情熱的な言葉が、長年抱いていた心の傷を癒してくれた気がした。

いつの間にか私の周りには人だかりができていた。名前までは知らなくても私の作品を見たことがあるという人は、意外といるらしい。会場の空気は驚きと感心に包まれていた。

「まさかあの作品を描いた方だったなんて。」
「海外で評価されている日本人作家として、注目されてましたよね。」
「その通りです。彼女の作品には、見るたびに新しい発見があります。」
「ありがとうございます。そこまで言っていただけるなんて、恐縮です。」

戸惑いながら私は頭を下げた。まさか日本で自分の活動が知られる日が来るとは思っていなかった。作品を認めてもらえた嬉しさよりも、気恥ずかしさの方が先に込み上げてくる。

「お前ら騙されるな。」

突然、孝太郎がテーブルを強く叩いた。乾いた音が会場に響き渡り、その場にいた全員が息を飲んで見守る中、彼は私を指さした。その顔には先ほどまでとは違い、うっすらと意地の悪い笑みが浮かんでいる。

「こいつは昔から人の真似ばかりしてたんだ。」
「真似?何を言ってるの?」
「中学の美術部でも、他の部員の構図をそのまま使ってた。モチーフまで真似して、堂々と自分の作品みたいに出してたんだよ。」
「おい、そんな話は初めて聞いたぞ。」

中学時代の同級生たちは困惑した様子で互いに顔を見合わせていた。もちろん孝太郎の話は全て出鱈目だ。美術部の課題で部員全員が同じモチーフを描いたことはある。しかし他人の構図や作品を盗んだことなどない。にも関わらず、孝太郎はわずかな事実に嘘を織り交ぜ、もっともらしいエピソードに仕立てていた。

「お前らが知らなかっただけだ。こいつは誰にも見つからないように、うまいことやってたんだよ。」
「そんなことしてない。全部孝太郎の作り話でしょ。」
「ま、そう簡単には認めないよな。」
「信じられない。ひどい侮辱だ。根拠もなく芸術家を盗作者と呼ぶべきではありません。」

にわかにフロイドの表情が険しくなる。けれど孝太郎はいくら注意されても引かなかった。むしろ注目を集めたことで勢いづいたようだ。今売れている作品まで盗作だと決めつけ、さらに声を張り上げる。

「昔から他人の真似ばかりしてたやつが、急に独創的な作品を描けると思うか?」
「私の作品は全て自分で考えて制作してる。」
「どうせ無名の作家から盗んだんだろう。知られてない作品なら、バレないからな。」
「憶測のみで、よくそこまで言えますね。」

まるで正当な調査で得た情報を発表するかのように、孝太郎は自信満々に語っていた。フロイドが呆気に取られるのも無理はない。続けて孝太郎は、私が海外を中心に活動していることまでも、自分に都合のいい材料に変えていく。

「日本で活動してないのも、それが理由だろう。昔のことを詮索されたくないんだよ。海外なら、中学時代のことまで調べられないからな。」
「違う。たまたま最初に注目されたのが海外だったからよ。」

披露宴という場で繰り広げられる私たちの攻防に、招待客たちはざわついた。孝太郎の言葉を疑う人がいる一方で、何人かは明らかに白い目でこちらを見ている。彼の持つ官僚の肩書きと、中学時代の私を知っているという事実が、言葉に重みを与えていたのだろう。

「現役の官僚がここまで言うなら、昔からの知り合いなんでしょ。何か根拠があるのかもしれない。」

そんな会話が聞こえた瞬間、背筋が寒くなった。事実無根のデマでも、肩書きのある人間が堂々と口にすれば、信じる者は出てくる。中学時代、孝太郎の一言で周囲の空気が変わった時と同じだ。

「彼の職業は、発言が事実である証明にはなりませんよ。」
「その通りです。私は盗作をしたことはありません。はっきり否定させていただきます。」
「そうやって言い切れば、誰も調べないと思ってるんだろう。」

どれほど私が否定しても、孝太郎は主張を曲げない。勝ち誇ったような彼の姿に、かつて教室で感じていた息苦しさが蘇った。けれど私はもう無力な中学生ではない。真正面から孝太郎を見据え、逃げずに戦い続けると心に決めた。

不意に会場の扉が開き、秋彦と遊美が慌てた様子で駆け込んできた。二人の入場はまだ先の予定だったが、孝太郎の騒ぎが式場のスタッフ経由で伝わったらしい。正装姿の秋彦は私の方へちらっと視線を向けると、司会者からマイクを受け取った。遊美も凛とした表情で彼の隣に立っている。

「みんな聞いてくれ。孝太郎の話は事実じゃない。俺は中学時代、鮫島と同じ美術部にいたんだ。万が一彼女が盗作なんてしていたら、気づかないはずがないだろう。」
「お前が鈍かっただけだ。」
「違う。咲子は誰よりも真摯に絵と向き合っている。誰かに真似されることはあっても、その逆はありえない。」

静かな声が会場の隅々まで届いた。中学時代から何度も私を守ってくれた秋彦。彼の言葉には、当時と変わらない安心感がある。不満そうに孝太郎は口元を歪めたが、すぐには言い返せなかった。その隙に遊美が口を開く。

「小沼さん、現在売れている咲子さんの作品も盗作だとおっしゃったそうですね。」
「ああ、昔から他人の真似してたんだ。今だって同じだろ。」
「具体的にどの作品のことですか?ここに咲子さんの作品一覧があります。画面を見ながらでいいので、タイトルを教えてください。」
「そんなのいちいち題名まで覚えてない。」

遊美は優雅な動作でタブレット端末を示した。

「咲子さんの作品は、制作年や展示履歴も公表されています。盗作だと断言するなら、どの作品がそうなのか示せるはずですが。」

けれど孝太郎の口からは、具体的な情報が何も出てこない。

「画題が分からないなら、作品の特徴を説明してもらえますか?」
「特徴?あの海外で売れてる絵だよ。」
「では、咲子さんは誰の作品を真似したのですか?先ほどの話では、無名作家の作品を盗んだとか。」
「俺が知ってるわけない。売れてない作家なんて山ほどいるだろう。」

矢継ぎ早に質問され、孝太郎の額に汗が浮かぶ。先ほどまで彼を信じかけていた招待客たちも、次第に疑念を潜め始めた。孝太郎が回答を避けるたび、疑いの目は私ではなく彼へと向けられる。

「具体的な作品名も絵の特徴も分からない。制作の元になった作家も不明。それで咲子さんが盗作していると断言したと。」
「俺は昔から鮫島を知ってるんだ。だから分かるんだよ。」
「なら、咲子さんがどんなに真剣に描いてきたかも分かるはずだ。」
「お前は昔からこいつに甘かったもんな。信じたくない気持ちは理解できるぜ。」

無理やり話題をそらそうとする孝太郎。しかし秋彦はじっと彼を見つめたまま視線を外さない。

「では小沼さん、次に中学時代のことを伺います。咲子さんは一体、誰の作品を真似したのですか?」
「だから、美術部の部員だって言ってるだろう。名前は忘れた。」
「仮に咲子さんが美術部員の作品を盗んだとして、あなたはどうやってそれを知ったんです?小沼さんは美術部ではありませんよね。」
「細かいことまで覚えてない。クラスの誰かに聞いたんだろ。」

隙を見せず的確に質問を投げる遊美。一方、孝太郎は答えるたびにしどろもどろになっていった。落ち着きなく視線を泳がせ、唇を震わせている。

「情報をまとめると、お前は何の根拠もなく咲子さんの作品を盗作と呼んだってことだな。しかも、こんな大勢の人の前で。」
「別に俺は、ただ可能性の話をしたんだ。盗作かもしれないって。」
「先ほどは盗作だと断言していたんですよね。今になって可能性の話だと意見を変えるのですか?仮にも官僚なら、自分の発言に責任を持つべきだと思いますが。」
「それは……」

ついに孝太郎は真っ赤な顔で口を閉ざした。会場のあちこちから呆れたような吐息が漏れる。先ほどまで私を疑っていた人たちも、気まずそうに視線を伏せていた。孝太郎が私の評判を落とすために嘘を重ねていたことは、誰の目にも明らかだった。秋彦たちのおかげで盗作の疑いは晴れたものの、私は胸が痛かった。意図せぬこととはいえ、二人の大切な日にトラブルを起こしてしまったのだ。

招待客たちも互いに顔を見合わせ、誰もが状況を伺っている。重苦しい沈黙が漂う中、フロイドが高々と手を上げた。

「秋彦さん、遊美さん。少し皆さんのお時間をいただけますか?」
「もちろんです。フロイド、何かお考えがあるの?」
「はい。予定にはありませんでしたが、披露宴の始まりにふさわしい特別な一曲を演奏させてください。」

事前の進行に入っていた演奏は、披露宴中盤の一曲のみだったらしい。司会者も驚いていたが、秋彦と遊美は笑顔で頷いた。二人の了承を得ると、フロイドは預けていたバイオリンを受け取り、壇上へと進んだ。

「新郎新婦と、私の敬愛するミス鮫島にこの曲を捧げます。」

会場に小さな驚きが生まれる。まさか自分の名前が呼ばれるとは思っていなかった。フロイドは驚く私に穏やかな笑みを向け、招待客が静まるのを待ってから演奏を始めた。演奏が始まった瞬間、空気が変わった。透き通った音が高い天井へ伸びていく。続く旋律は柔らかく、張り詰めていた私の心を少しずつ解いていった。

壇上に立つ彼から目が離せない。

「本当に特別な贈り物ね。」
「ああ、みんな彼の演奏に夢中だ。」

実際、フロイドのバイオリンには人々の心を一つにする力があった。先ほどまで孝太郎の嘘に揺れていたゲストたちも、今は静かに聞き入っている。やがて最後の音が長い余韻を残して消えた。一瞬の静寂の後、割れんばかりの大きな拍手が湧き起こった。秋彦と遊美も並んで手を叩き、フロイドは深々と一礼する。

「素晴らしい演奏。ありがとうございます。」
「すごい、素敵な贈り物。ありがとう。一生忘れられない日になったわ。」
「私まで名前を挙げてもらって、ありがとうございます。」
「いえ、あなたにこそどうしても聴いてほしかったのです。」

拍手が落ち着くと、フロイドはバイオリンをスタッフへ預けた。そのまま壇上を降りるのかと思ったが、なぜか彼はマイクを握った。先ほどまでの真剣な表情は消え、子供のように目を輝かせている。

「この場を借りて、もう一つ伝えたいことがあります。」
「フロイド、なんだろうね。」
「私の最大の夢は、ミス鮫島に自分のアルバムジャケットを描いてもらうことです。」

会場が再び大きく沸めいた。世界的な音楽家の新作に関わる依頼だった。しかも多くの招待客が見守る中で、正式に申し込まれている。一斉に視線を向けられ、私は頬が熱くなった。

「そんな大切なものを、私に任せていいんですか?」
「あなたにしか描けない音の景色があると信じています。いつか一緒に仕事をしたいです。」
「すぐにはお返事できませんが、検討してみます。」
「今はそれで十分です。良い返事を待っていますね。」

やがて会場は明るい笑いと拍手に包まれ、私は照れながら頭を下げた。ふと横を見ると、孝太郎が青ざめた顔で立ち尽くしている。彼が盗作だと糾弾した私の作品が、世界的な音楽家に認められ、仕事の依頼までされたのだ。孝太郎が信用を失ったことは、火を見るよりも明らかだった。

フロイドが壇上から降りると、秋彦が再びマイクを取った。

「皆さん、お騒がせしました。どうか席へお座りください。ここからは予定通り披露宴を続けます。どうぞ最後まで楽しんでいてください。」

招待客たちは頷き、それぞれの席へ戻っていく。私も同級生たちと自分の席に着いた。司会者が進行を再開すると、料理が運ばれ、友人たちの祝辞が始まった。一方、孝太郎は席につくなり酒を煽っていた。

「孝太郎、もうやめとけよ。」
「うるさい。これくらい社会人なら普通だ。」
「いやいや、飲みすぎだって。顔真っ赤だよ。」
「ほっといてくれ。」

料理にはほとんど手をつけず、酒ばかりを頼む孝太郎。披露宴が中盤に差しかかる頃には目は座り、言葉も不明瞭になっていた。同じテーブルの同級生たちが止めても、彼は気づかずに私の席までやってきた。

「なあ、やっぱりおかしいだろ。何がお前、世界的に有名なアーティストだってんなら、なんで大学で妖務員なんかしてるんだよ。」
「なんでって言われても、私が働きたいからだよ。」

正直に答えても、孝太郎は納得しない。引き下がるどころかテーブルに手をつき、酒臭い息を吐きながら顔を寄せてくる。近くにいた同級生が眉を顰めたが、彼は気にも留めず続けた。

「おいおい、怪しいな。本当に売れてるなら、わざわざそんな仕事する必要ないだろう。毎日遊んで暮らせばいいじゃないか。」
「それは孝太郎の考えでしょ。私は違う。」
「本当のこと言えよ。どうせ今も金に困ってんだろ。やっぱり絵なんて一枚売れたところで、高が知れてるんだ。」
「そんなんじゃない。創作の刺激になるから働いてるの。」

事実、大学のキャンパス内には様々な学生や教職員の姿がある。季節ごとに移り変わる校内を歩き、他者に触れる時間が作品の糧になるのだ。言い換えれば、妖務員の仕事は私が外の世界とつながる手段でもあった。

「こちらの方、ミス鮫島はお金に困って働いているのではありませんよ。」
「またあんたかよ。」
「彼女の作品の中には、とても高額な値がつけられたものもあります。それこそ一枚で一生遊んで暮らせるくらいの報酬です。」
「は……」

孝太郎の口から素の抜けた声が漏れた。フロイドが冗談を言ったとでも思ったのだろう。しかし実際の取引価格を知る招待客もいたらしく、何人かが静かに頷いた。しばらく孝太郎は私とフロイドを見比べてから、頭を抱えた。どうやら酔いが覚めたらしい。

「じゃあ、妖務員は半分趣味みたいなものなのか?」
「仕事だから、趣味だとは思ってない。」
「でも働き続けてる理由は、お金以外にあるってことだ。」
「彼女は自分に必要な経験を選んでいるのです。素晴らしい。アーティストとして見習いたい。」
「そんなの聞いてないぞ。」

一方的に私が貧しい人間だと決めつけていたのは孝太郎自身だ。今になって自分が見下していた相手の立場を知った彼は、情けないほどに唇を震わせている。披露宴が終わる頃には、孝太郎は誰とも目を合わせなくなっていた。

「この後クラスで集まるけど、孝太郎はどうする?」
「行かない。こんな茶番に付き合ってられるか。」
「茶番を始めたのは自分でしょ。意地張ってないで、素直に秋彦たちに謝ったら?」
「うるさい。」

乱暴に上着を掴み、不機嫌な顔で会場を出ていく孝太郎。彼の背中を追う者は誰もいなかった。同級生たちの輪の中で、私はようやく自分が孝太郎の呪縛から解かれつつあると感じた。

――結婚式の翌朝、自宅の庭で私はスケッチブックを開いていた。郊外にある一軒家は、制作に集中するため数年前に購入したものだ。昨夜は披露宴での騒ぎのせいで眠れなかったが、黙々と木を描いているうちに、少しずつ心が整っていった。そこへ予想外の訪問者が現れた。

「おい、鮫島いるか?」
「……はい?私、咲子?」
「ああ、俺だ。話がしたい。」

門の前に立つ孝太郎は、昨日とは別人のように疲れ果てていた。顔は青ざめ、目の下には濃いクマができている。昨日の今日で、彼は一体何をしに来たのか。警戒しつつ、私は門越しに応対した。

「何の用?」
「お願いがあるんだ。秋彦との仲を取り戻してくれ。」
「どうして私が。」
「昨日の夜、あいつに絶縁するって言われたんだよ。」

聞けば披露宴の後、秋彦から連絡を受けたらしい。これまで何度も私を傷つけてきたことに加え、結婚式での虚言と侮辱。もう友人として付き合うつもりはないと通告されたという。

「俺は秋彦を怒らせる気なんてなかった。友達としてあいつの結婚を祝いたかったのに。まさかあんなことになるとは。」
「自ら進んで騒ぎを起こしたように見えたけど、本当に悪気はなかったんだよ。ただ酒に酔って少し言いすぎただけで。」
「盗作の話を始めた時は、まだ酔いつぶれてなかったよね。仮に酒が原因だったとしても、許されることじゃないと思うよ。」

言葉に詰まった孝太郎は、気まずそうに視線をそらした。悪気はなかった。酒のせいだ。言い訳ばかりを並べる彼は、とても謝罪しているようには見えない。実際、秋彦の信頼を取り戻すことしか考えていないのだろう。

「とにかく昨日のことは水に流そう。お前と俺は和解したって、秋彦に伝えてくれ。」
「あんたと和解なんてしてない。」
「今はここで謝る。だからそれで終わりにしよう。俺たち、それなりに長い付き合いじゃないか。」
「私の気持ちを無視して、勝手に終わらせないでくれる?」

冷ややかな視線を送ると、孝太郎は何を思ったのか門の内側へ入ろうとした。すぐに私は門を押さえた。話の通じない相手を、敷地内に入れる気はない。

「頼む。秋彦はお前の言うことなら聞くだろ。俺を許すように説得してくれ。」
「昨夜まで私を見下していた人が、今日は都合よく助けを求めている現状に、怒りよりも呆れが先に立つよ。」
「よく分からないけど、秋彦が自分で考えて決めたことでしょ。私が説得してどうにかなる問題じゃない。」
「でも原因は昨日のことだろ。お前が許したといえば済む話だ。」
「披露宴の件だけが原因だと思っているなら、見当違いだよ。」
「なんだと?」

険悪に睨み寄る孝太郎。彼は自分が何をしたのか、本当に何も覚えていないらしい。秋彦への告白をクラスで暴露した中学時代。家庭環境を理由に必要以上にからかい、スケッチブックを破ったこと。卒業後何年にもわたって孝太郎は私を馬鹿にし続けた。そしてその度に彼を止めていたのは、秋彦だ。

「昨日の件だけじゃない。秋彦はあなたが昔から何をしてきたか知ってる。」
「今更、子供の頃の話まで持ち出すのかよ。」
「だってあなたは昨日も同じことをしたじゃない。立派な大学を出て官僚になったって、中学の頃と何も変わってない。」
「じゃあ、俺はどうすればいいんだよ。」

その顔には初めて焦りが滲んでいた。秋彦との縁が切れれば、共通の友人たちもおずおずと離れていく。孝太郎が恐れているのは、私を傷つけ騒ぎを起こしたという事実ではなく、その結果の方だった。

「許してくれるなら何でもする。謝罪文を書いてもいい。だから秋彦に電話してくれ。」
「嫌だよ。謝罪文なんてもらっても困る。」
「頼むって。俺にはあいつが必要なんだ。お前だって、同級生同士が仲違いするのは心苦しいだろ。」
「別に平気。秋彦と仲直りしたいのなら、直接本人と話して。」

そう言って私は孝太郎に背を向けた。彼はなおも食い下がり、門の向こうで叫び続けている。けれど私は振り返らず、庭へと戻った。これ以上付き合っていられない。ガーデンベンチに置いたままのスケッチブックを拾い上げた、その瞬間だった。

背後から伸びてきた手に、腕を強く掴まれた。

「え、待てよ。まだ話は終わってない。」

ぎょっとして振り返ると、孝太郎がすぐ後ろに立っていた。閉まっていたはずの門が開いている。私が背を向けた隙に、勝手に入ってきたのだ。

「話して。秋彦に連絡してくれたら、話す。」
「ふざけないで。ここは私の家だよ。勝手に入ったら不法侵入でしょ。」
「知るか。連絡するまで俺は帰らないからな。」

なんとか腕を振り払おうとしたが、孝太郎は力を緩めなかった。先ほどまで伏せていた顔には、今は焦りと苛立ちが浮かんでいる。頼んでも思い通りにならないと分かると、力づくで私を従わせようとしていた。

「秋彦に連絡しても、どうするか決めるのは本人だよ。」
「お前が許したって言えば、きっとあいつも考え直す。」
「でも私はあんたを許してない。」
「だからそこを何とかしてくれて頼んでるんだろ。」

掴みかからんばかりの孝太郎が怒った、その時。駐車場の方から低い声が響いた。にわかに私を掴む彼の手が緩む。

「おい、何をやっている。」

庭の入り口には、叔父の咲之助が立っていた。近くまで来たついでに、私の様子を見に来てくれたのだろう。彼には昨晩の騒動について、電話で粗方伝えてあった。

「叔父さん……」
「その手を離せ。」
「いや、これは違うんです。少し話をしていただけで。」
「話をするのに、腕を掴む必要があるのか。」

そう言われて慌てて私の腕を離した孝太郎は、一目散に門へ向かって走り出した。だが咲之助が素早く彼の行手を塞ぐ。さらに脇をすり抜けようとした孝太郎の腕を取り、動きを完全に止める。

「何するんですか!」
「話をしてください。どの口が言う?勝手に人の家へ侵入し、咲子に乱暴した者が言うセリフか。」
「ご誤解です。俺はただ誤りに来たっていうか。」
「謝罪ならまず正座をしなさい。馬鹿者。」

一括された孝太郎は、庭で座らされた。石畳の上に座るのは辛そうだったが、咲之助の眼光に射抜かれ、立ち上がることはできないらしい。

「咲子の言う通りか。昨日の騒ぎ。」
「うん。披露宴で私を侮辱して、盗作疑惑まででっち上げた人。」
「でっち上げたというか、ちょっと記憶違いがあったんです。」
「記憶違いだと?咲子を大勢の前で恥をかかせた翌日に家まで押しかけて、それで反省しているというのか、お前は。」

咲之助の眉間に深い皴が寄った。普段の彼は口数が少なく争いを好まない人だが、筋の通らないことは許せないタイプだ。鋭い眼光で睨まれた孝太郎は、みるみる怯えていった。

「本当に悪気はなかったんです。」
「悪気がなければ、何をしても許されると思っているのか。」
「すみません。」
「なぜ私に言う?お前は誰に謝るべきかも分からんのか?」

肩を震わせ、恐る恐る私を見上げる孝太郎。けれどその目に浮かんでいるのは反省の色ではなく、一刻も早く咲之助から逃れたいという恐怖と焦りだった。

「鮫島、本当に悪かった。だから、この人に説明してくれよ。」
「何それ?とても謝っているとは思えないんだけど。」
「その通りだ。まず自分が何をしたのか、一つずつ理解するところから始めよう。」

長丁場になると察した孝太郎の顔が、完全に蒼白になった。仁王立ちした咲之助は、地べたに蹲る彼を上から冷たく見下ろしている。絶体絶命の孝太郎には、もはや逃げ道は残されていない。

「咲夜、咲子に何をした?自分の口から話せ。」
「だから、ちょっと酒に酔って口が滑ったんですよ。」
「咲子が盗作をしたと嘘をついたそうだな。中学時代の言葉を引き合いに出して、咲子に何をした?」
「別に、嘘と決まったわけじゃないでしょ。」

次第に孝太郎は反省するどころか、語気を荒げ始めた。自分が問い詰められているこの状況自体に、納得できないらしい。ついに立ち上がったまま顔を上げ、咲之助を睨みつけた。

「なんだその目は?質問に答えろ。」
「おっさん、さっきから偉そうに何なんだよ。俺は現役の官僚だぞ。こんなことして、ただで済むと思うなよ。庶民のくせに。」
「ちょっと肩書きで威張るつもりか。官僚の風上にも置けん奴だ。」

隙を見て逃げ出そうとでも思ったのだろう。孝太郎は勢いよく立ち上がった。しかし、痺れた足に力が入らなかったらしく、その場でよろめいた。咲之助が無言で肩を抑えると、孝太郎は諦めて再び足を下ろす。

「そうやってすぐに力で制圧して。どうせ低学歴の年金暮らしなんだろ。叔父さんになんてことを言うの?」
「俺が咲子に食わせてもらっているだと?」

なぜか孝太郎は馬鹿にした顔で鼻を鳴らした。私が作家として成功していると知り、咲之助がその恩恵を受けていると決めつけたらしい。中学時代から変わらない、根拠のない思い込みだ。

「叔父さん、どうしよう。私が養ってることになってる。」
「それは初耳だな。」
「毎月いくら渡せばいい?住宅ローンもあるんだろ。」
「そうだな。今度税理士にでも相談してみるか。」

顔を見合わせた私たちは、ついに堪えきれずに吹き出した。孝太郎一人だけが状況を理解できず、目を見開いている。笑われたことが気に触ったのか、顔を赤くして怒鳴った。

「おい、何がおかしいんだよ!」
「叔父さんは、私が働いている私立大学の理事長だよ。」
「理事長……?」
「鮫島家は、あの大学の創立者一族だからな。」

途端に、孝太郎の顔から怒りが消えた。咲之助は若い頃から大学運営に関わり、長年に渡って役員として責任を担ってきた人物だ。駆け落ち同然で結婚した両親と暮らしていた私は、二人が亡くなるまで鮫島家について詳しく知らなかった。初めて母の実家について聞かされた時は、かなり驚いたものだ。

「理事長になったのは最近だけど、その前から叔父さんは長年役員として働いてきた。私が進学を諦めたのも、お金がなかったからじゃない。自分で働いて、自分の力で生きていきたくて就職したの。創作の肥やしになると思ったし、生活に困っていたわけじゃないよ。」
「咲子が大学で妖務員をしているのも、本人が望んだからだ。多少融通も利かせられるから、画家の仕事も両立しやすいしな。」

口をあんぐりと開けたまま、孝太郎は私と咲之助を何度も見比べた。両親がいないから貧しい。美大へ行かなかったから金がない。妖務員だから自分より下だ。孝太郎は長い間、自分に都合の良い思い込みを疑おうともせず、何度も私を傷つけてきたのだ。

「そんなの聞いてない。」
「あんたが、人の話を聞かなかったんでしょ?」
「じゃあ……昔から金には困ってなかったのか?」
「そうだね。お金に困ったことは、一度もないよ。」

ついに孝太郎は返す言葉を失った。自分が見下してきた、両親のいない貧しい同級生。そんな人間は、最初からどこにもいない。その事実をようやく理解した孝太郎は、石畳の上で青ざめていた。

やがて私は門の方を指さした。

「もう分かったでしょ?帰ってくれる?」
「待ってくれ。」
「これ以上話すことはないよ。あともうここには来ないで。次は通報するから。」
「頼む。聞いてくれ。」

痺れた足を抱えながら、よろよろと立ち上がる孝太郎。また腕を掴まれるかと思ったが、彼は意外にも私の前で深く頭を下げた。先ほどまで咲之助を侮辱していた男と、同一人物とは思えない。

「この通りだ。どうか秋彦を説得してほしい。」
「しつこい。何度頼まれても無理。」
「今までのことは謝る。お前のこと、ずっと勘違いしてた。だから、あいつに考え直すように言ってくれ。」
「嫌だってば。謝ったからって、全て許されると思わないで。あんた、自分勝手すぎるよ。」

孝太郎は顔を上げ、潤んだ瞳で私を見つめた。その時、ふと疑問が湧いた。秋彦との友情を失いたくないという一心のみで、ここまで取り乱すだろうか。自宅に押しかけ、勝手に庭へ入り、腕まで掴んだ孝太郎の言動。その異常なほどの必死さに、私は不審感を抱いた。

「どうしてそこまで秋彦にこだわるの?」
「そ、そんなの友達だからに決まってるだろう。」
「あんたがそこまで友達を大切にしてたとは思えない。」
「秋彦は特別なんだよ。あいつには色々借りが……」
「借り?」

一瞬、しまったという顔をした孝太郎だったが、すぐに口をつぐんで視線をそらした。秋彦が弁護士だから、何か相談していたのだろうか。疑問がいくつも浮かんだが、私が聞いたところで彼が正直に話すとは思えない。

「とにかく、あいつに切られたら困るんだ。頼む、鮫島。」
「それはそっちの事情でしょ。私には関係ない。」
「冷たいこと言うなよ。中学からの仲じゃないか。お前だって秋彦が友人を失うのは嫌だろ。」
「やめて。これ以上、私を巻き込まないでほしい。」

はっきりと断ると、孝太郎の顔に焦りが広がった。一見必死に振る舞っていても、彼が望んでいるのは自分の立場を守ることのみだ。

「謝罪なら、何度でもする。」
「いらない。」
「じゃあ、どうすれば許すんだよ。」
「許してもらうことを前提にしないでくれる?何と言われても、私は秋彦とあんたの仲を取り戻したりしない。」

孝太郎はわなわなと唇を震わせた。全く折れない私に、再び苛立ちが込み上げてきたらしい。先ほど頭を下げた直後だというのに、握りしめた拳には怒りが滲んでいる。その時、門の外から落ち着いた声が聞こえた。咲之助の専属運転手だ。

「理事長、そろそろお時間です。」
「もうそんな時間か。」
「はい。次のご予定に遅れる可能性がございますので。」
「分かった。すぐに行く。」

そわそわと落ち着かない様子の孝太郎は、突如現れた運転手と咲之助を交互に見ている。理事長という単語を耳にして、先ほど聞かされた事実がようやく現実味を帯びたらしい。一方、咲之助は腕時計を確認すると、孝太郎へ目を向けた。

「咲子、こいつは私が引き取ろう。」
「え、大丈夫なの?」
「追い出したところで、また勝手に門を開けられては困るからな。」
「ちょ、待ってください。俺はまだ鮫島と話が……」

なおも孝太郎は食い下がったが、咲之助は有無を言わさず門の外へと促した。彼は不承不承に私を振り返りながらも、しぶしぶ歩き出す。

「話は終わった。先ほど本人がはっきり断っただろう。さあ行くぞ。」

運転手が後部ドアを開けると、孝太郎は困惑した表情のまま車内に押し込まれた。続いて咲之助が乗り込む。

「俺をどこへ連れて行くつもりですか?」
「そうだな。お前の職場がある霞ヶ関にでも連れて行こうか。」
「ちょ、冗談ですよね?」
「私も暇じゃないからな。ある程度咲子の家から離れたら下ろす。だが、お前の態度次第によっては、上司に迎えに来てもらうかもしれんぞ。」

そう言って咲之助がにやりと笑うと、孝太郎の顔がみるみる青ざめていく。やがて車は発車し、庭にはようやく本来の静けさが戻った。大きく息を吐いた私は、今度こそ門を施錠した。ガーデンベンチに座り、スケッチブックを開く。途中で止まっていた木の線を、私は新たな気持ちで描き始めた。

――その日の夕方、簡単な食事を終えた後、私はアトリエにこもっていた。午前中の出来事を忘れたくて、書きかけのキャンバスに向かって筆を走らせる。作業に没頭していると、作業台に置いたスマートフォンが震えた。画面には秋彦の名前が表示されている。

「もしもし。」
「咲子、今は少し話せるか?」
「うん、大丈夫だよ。」
「まず昨日のことを謝らせてほしい。」

電話越しの秋彦の声には、普段より硬い響きがあった。招待した孝太郎が披露宴で騒ぎ、私を侮辱したことに責任を感じているらしい。けれど彼の突飛な行動まで、秋彦に予測できたはずはない。

「いいよ。秋彦が謝ることじゃない。」
「それでも、俺たちの式で嫌な思いをさせたことには変わりないから。」
「本当に気にしないで。遊美さんにも助けてもらったし、最後は楽しかったから平気だよ。フロイドさんにも会えたし。」
「そう言ってもらえると助かる。」

少し間を置いて、秋彦は孝太郎と縁を切るつもりだと話した。披露宴の後、本人にもそう伝えたという。昨日の件のみならず、昔から積み重なっていたものが限界に達したらしい。もう友人として付き合うつもりはないと。

「それで、孝太郎が今朝来たんだね。」
「え、あいつが咲子の家に?何かされたのか?」
「秋彦との仲を取り戻して欲しいって、頼みに来たの。」

秋彦に促されるまま、私は今朝の騒動について語った。いきなり家に押しかけてきた孝太郎が、勝手に門を開けて庭へ入ってきたこと。さらに腕を掴まれて、連絡するまで帰らないと言われた話。すると、にわかに秋彦のトーンが変わった。

「腕を掴まれた?大丈夫だったのか?」
「うん。タイミングよく叔父が来て、すぐ離してくれたから。」
「それで良かったで済む話じゃない。叔父さんがいなければ、どうなっていたか。」
「そうだね。ちょっと怖かったかも。どうしてあそこまでするのか、本当に不思議だよ。よっぽど秋彦のことが大切なのかな。」

冗談めかしてそう言うと、電話の向こうで秋彦が深く息を吐いた。続いて、唸るような一言が聞こえる。

「俺のせいだ。」
「え、何か知ってるの?」
「実はさ……」

やがて秋彦は、以前から孝太郎に金を貸していたと打ち明けた。一時的に困っていると頼まれ、何度かに分けて渡したらしい。

「孝太郎、秋彦からお金を借りてたの?」
「ああ。今度返すと言いながら、ずっと先延ばしにされてた。」
「官僚でしょ。なんで借金なんて。」
「そもそも、秋彦から借りたお金って何に使ってたの?」
「さあ、あいつは詳しくは話さなかった。ただ、いつからか生活が派手になったって話は小耳に挟んでる。毎日ギャンブルざんまいしてるなんて噂もあるらしい。」

周りの話によると、孝太郎は高価な服や高級食材に金を使い、後輩の前でも気前の良い先輩を演じていたという。秋彦は何度も返済を求めたが、その度に適当な理由をつけて逃げられていた。

「昨日の振る舞いを見て、もう返さないと思ったんだ。それで返済を求めた。期限を決めて全額返すように伝えた。破産したら本当に縁を切るつもりでな。」
「なるほど。そうだったんだね。」

私はようやく、昨日の孝太郎の態度に納得がいった。守りたかったのは秋彦との友情ではない。借金の返済を待ってもらうために、彼との関係をつなぎ止めたかったのだろう。当然、私への謝罪も自分の都合を通すための手段に過ぎない。

「咲子、本当に申し訳ない。俺の問題に巻き込んだ。」
「ううん。秋彦のせいじゃないよ。」
「今後、もしも孝太郎が何かしてきたら、必ず俺に知らせてくれ。」

秋彦の声には心配が滲んでいる。私は作業台に置いた筆を見ながら、素直に頷いた。

「分かった。秋彦も無理しないでね。」
「ありがとう。また落ち着いたら連絡する。」

通話が切れると、アトリエに静寂が戻る。散々人を貧乏人などと見下していた孝太郎が、裏では友人から金を借り、返済期限からも逃げていた。自分を大きく見せるためなら、他人の善意まで利用する。底抜けの駄目さ加減に呆れながら、私は再び筆を握った。

――翌日の早朝。枕元のスマートフォンが激しく震えた。画面には秋彦の名前が表示されている。彼がこんな時間に連絡してくるのは珍しい。嫌な予感を覚えながら、私は通話ボタンを押した。

「もしもし。何かあったの?」
「朝早くにごめん。今、遊美も一緒にいる。咲子、落ち着いて聞いて。SNSにあなたの写真が投稿されているの。」
「私の写真?」

ベッドから起き上がり、教えられた投稿を開くと、そこには披露宴会場に立つ私の姿が映っていた。しかし、紺色だったはずのドレスは、なぜか純白に変えられている。写真の上には目立つ文字でコメントが添えられていた。

「結婚式クラッシャー現る。」

投稿文によると、私は新郎より目立とうと白いドレスで出席したらしい。さらに新郎の過去の恋人を名乗り、披露宴を混乱させたとも書いてある。どれも事実ではなかった。

「何これ?私のドレス、白じゃなかったよね。」
「ああ、全然違う色だった。それに、過去の恋人なんて名乗ってない。」
「もちろん分かってる。誰かが悪意を持って写真を加工したんだと思う。」

投稿は私を非難するコメントで溢れていた。一方的に非常識だと決めつけ、顔や体型まで馬鹿にする人までいる。すでに何度も共有され、事情を知らない人たちの間に広がってしまったようだ。

「私たちからはもう反論を出しているわ。本当は咲子さんは正式な招待客で、写真は加工されていること。披露宴を妨害した事実もないって書いたの。会場で撮った別の写真も載せた。ドレスの本当の色が分かるものよ。」

遊美の投稿を確認したところ、新郎新婦の連名で、元の写真と事実関係が丁寧に示されていた。感情的に反論するのではなく、誤っている点のみを順を追って説明されている。それを読んだ人たちから、最初の投稿を疑う声が上がり始めた。

「写真の色が明らかに違う。」
「新郎新婦が否定しているなら、最初の投稿はデマでは?」
「加工画像で個人を攻撃するのはひどい。」

画面を更新するたび、流れは少しずつ変わっていった。あれほど私を責めていた書き込みの中にも、訂正の書き込みが現れ始めている。

「遊美がすぐに対応してくれなければ、もっと炎上していただろう。二人ともありがとう。私が寝ている間に対応してくれたんだね。」
「元は俺たちの披露宴で撮られた写真だからな。投稿と反応は保存してあるわ。削除されても確認できるようにしておいたから。」
「私も記録しておく。発信した人については、開示請求を検討するよ。」

黙っていれば、また別の嘘を流されるかもしれない。中学時代の私は、証拠がないという理由で何度も泣き寝入りした。けれど今回は、事実を示してくれる人も、残された記録もある。理不尽に耐えて終わらせるつもりはなかった。

「何か手伝えることがあれば、すぐ言ってくれ。」
「うん。でも、二人は新婚なのにごめんね。」
「謝るのは咲子じゃないわ。悪意のある投稿をした人よ。」
「ありがとう。これ以上広がらないよう、私も対応する。」

通話を終えた後も、私は何度か投稿を確認した。遊美の反論は広く共有され、最初の投稿に対する批判が増えていく。昼を過ぎる頃には、形勢は完全に逆転。そして夕方、問題の投稿は忽然と削除された。ほっと胸を撫で下ろした私だったが、それでも保存した画面を消さなかった。悪質な投稿をした誰かが、これで終わりにするとは思えなかったからだ。

――二週間後。私は秋彦の知り合いが務める法律事務所を訪れた。案内された会議室には、秋彦と遊美も来てくれていた。向かいの席には、険しい顔の孝太郎が座っている。目の下にはクマがあり、私と目が合うと黙って視線をそらした。

「今日は来てくれてありがとう。」
「事前に書面で知らせていたことだけど、改めて自分の口からはっきり伝えておくね。私は、あなたに対して慰謝料を請求するつもりよ。」

「なんだよ。勝ち誇ったような顔しやがって。まだ何も俺がやったと決まったわけじゃないだろう。」
「残念だけど、きちんと確認は取れているよ。もう言い訳は通用しないから、覚悟しておいて。」
「うるさい。さっさと始めろ。」

大きく深呼吸してから、私は資料を机の上に置いた。純白のドレスへ加工された写真だけではない。私の容姿や仕事を侮辱する投稿も、匿名で届いた悪意あるメッセージも、全て保存されている。開示請求の結果、いずれも孝太郎が発信したものだと判明していた。

「披露宴での問題発言に加えて、SNSでも私を攻撃したことは分かってる。だから私は、孝太郎に慰謝料を請求する。」
「大げさだろ。投稿はもう消したじゃないか。」
「削除しても、咲子さんを侮辱した事実は消えません。もちろん記録も残っています。あの日、披露宴会場であなたの発言を聞いた招待客は大勢いる。あの投稿を見た者も多い。言い逃れはできませんよ。」

全員から攻められた孝太郎は、苦しまぎれに資料を乱暴にめくった。投稿内容や発信日時、式場での証言が整理されている。ここまで証拠が集まるとは思っていなかったのだろう。普段の孝太郎なら適当に言い訳をつけて逃げるだろうが、反論できる余地はない。

「ただの愚痴だ。誰にだってあるだろう。」
「嘘の写真を広めて、私を悪者にしたことが愚痴なの?」
「お前ばかり持ち上げられて、腹が立ったんだよ。」
「それは私を傷つけていい理由にはならないでしょ。」

黙り込み、奥歯を噛み締める孝太郎。披露宴では肩書きを盾に大勢の前で嘘をついた。さらに今度はSNSの匿名性を利用して私を攻撃した。どちらも私が反撃しないと思っていたからこそ、できたことだ。

「慰謝料の件には、きちんと応じなさい。」
「お前まで鮫島の味方をするのか?」
「ああ、俺は咲子の味方だ。いい加減、自分がしたことの責任を取れ。お前の立場的にも、トラブルは早めに解決した方がいいんじゃないのか。」
「ちっ、分かったよ。払えばいいんだろ。」

やがて孝太郎は吐き捨てるように言った。最後まで謝罪の言葉はない。反省したわけではなく、もう逃げられないと悟ったのだろう。

「それと、俺から借りた金も忘れるなよ。咲子への慰謝料が重なったからって期限は変えない。全額返してもらうからな。」
「な……」
「私も減額や分割の希望は一切受け付けないよ。一括で払ってもらうから。」
「そんな金、一気に用意できるわけないだろうが!」

追い込まれた孝太郎は突然立ち上がり、机の上の資料を払いのけた。書類が床へ散らばり、椅子が大きな音を立てて倒れる。興奮状態の孝太郎は机を力任せに叩きながら、私と秋彦を交互に睨みつけた。

「お前ら、寄ってたかって俺を潰す気か!元を正せば、全部鮫島のせいだ!お前さえ黙っていれば……」
「人のせいにしないで。自分のしたことが返ってきただけでしょ。」
「咲子の言う通りだ。孝太郎、お前は自業自得だ。」
「ふざけるな!俺はこんな目に合っていい人間じゃない!俺を馬鹿にするな!」

成り行きを見守っていた遊美が椅子から立ち上がり、扉の方へ視線を向けた。そして凪いだ声で孝太郎に言う。

「落ち着いてください。これ以上続けるなら、警備員を呼びますよ。」
「俺に指図するな!」

手がつけられなくなった孝太郎が倒れた椅子を蹴ったところで、会議室の扉が開いた。騒ぎを聞きつけた警備員が二人入ってきて、なおも暴れようとする孝太郎の両腕を抑える。彼は大声を上げて抵抗したが、すぐに身動きを封じられた。

今日の話し合いで決着させるのは不可能だ。そう判断した私は、全てを担当弁護士に任せて立ち上がった。

「あとはお願いします。また必要なことがあれば連絡してください。」
「おい、待て!鮫島!勝手に帰るな!待てって言ってるだろ!」
「一日足りとも待つつもりはないよ。今まで何年、あんたに苦しめられたと思ってるの?」

叫び続ける孝太郎に背を向け、私は秋彦と遊美に一礼して会議室を出た。扉が閉まった時、初めて。孝太郎との長い戦いの日々に、ようやく区切りがついたような気がした。

――一ヶ月後。孝太郎は私への慰謝料を一括で支払った。秋彦から借りていた金も、決められた期限までにまとめて返済したらしい。元々貯金はほとんど底をついており、すぐに用意できる当てもなかったため、結局別のところから金を借り、私たちへの支払いに当てたと聞いた。

それから間もなく、披露宴での騒動が孝太郎の職場にも知られた。招待客の中には同じ業界の関係者もいたため、隠し通すことはできなかったらしい。ギャンブルざんまいで借金を抱えながら派手な生活を続けていたことも明らかになった。結果、孝太郎は信用を大きく損なう行為をしたとして、懲戒処分を受けた。職場に残る道もあったようだが、本人は処分を受け入れられなかった。自分は優秀な人間であり、周囲から尊敬される立場だと思い込んでいたからだろう。

深くプライドを傷つけられた孝太郎は、自ら退職。官僚を辞めた後に手を差し伸べる者は誰もおらず、元同僚はこぞって距離を置き、同級生たちも連絡を返さなくなった。官僚だった父親も孝太郎の行動を知って深く失望したらしい。両親は悩んだ末、彼が新たに作った借金を清算した。ただしそれを最後の援助とし、今後は親子として関わらないと告げたという。孝太郎は実家を追い出され、事実上の勘当となった。現在は、工場の夜勤で食いつなぎながら、引っ越し先の安いアパートの部屋で暮らしているそうだ。

肩書き、家族、友人。全てを失った孝太郎は、バイトの時間以外誰とも合わない生活を送るようになったらしい。他者を見下し続けた人間が辿り着いたのは、終わりのない孤独の日々だった。

――あの披露宴から約一年。私は現代アート作家として、少しずつ活動の幅を広げている。海外で個展を開く機会が増え、企業から商品のデザインを依頼されることも多くなった。以前は自由に絵を描けるだけで十分だと思っていたが、今は作品を通じて新しい人や場所と繋がれることに大きな喜びを感じている。

当然、大学で妖務員として働ける時間は減った。長期休暇や急な予定変更も少なくない。それでも事情を理解している咲之助が融通を利かせてくれているおかげで、私は今も大学へ通っている。校内を歩き、学生たちの声を聞き、季節ごとに移り変わる樹々を眺める時間は、私にとって大切なものだ。作家として忙しくなっても、この場所で得られる刺激を手放したくない。

秋彦と遊美との交流も続いている。仕事が落ち着いた時にはよく三人で食事をする。そこにフロイドが加わることもあり、絵や音楽の話をしていると時間が過ぎるのを忘れてしまう。最近の大きな仕事は、フロイドの新しいアルバムのジャケットを描いたことだ。完成した絵を見せると、彼は目に涙を浮かべて感激し、秋彦と遊美も自分のことのように喜んでくれた。

私は美術大学へは進まず、ほとんど独学で絵を学んできた。中学生の頃、現実から逃避するように描いていた絵が、今では海を超えて多くの人に届いているというのは、とても不思議だ。自分の作品を見て笑ったり、感動して涙を流したりしてくれる人がいる。それこそが、絵を描き続けてきた私にとって何よりの幸せであり、高額な報酬や名声よりも価値のあるものだ。

だから私はこれからも、自分の目で見て感じたものを、自らの手で描いていきたいと思っている。魂を込めて描いた絵が、誰かの心に届くように。

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