古い門の前で踵を返しかけた私に、後ろから声がかかった。振り返ると、門の内側から藤色の着物を着た小柄な女性が出てくるところだった。年の頃は六十を過ぎたくらいだろうか。髪を綺麗に結い上げ、背筋がすっと伸びている。一目でこの店の女将だと分かった。私は慌てて頭を下げた。手の中には夫に渡された小さなメモがある。書かれた住所を頼りにここまで歩いてきたけれど、目の前にあるのは定食屋なんかではなかった。黒い板塀がどこまでも続き、立派な門の脇には打ち水がしてある。門柱の表札には「梅ノ井」の文字だけがあった。誰がどう見ても、私なんかが入れる店ではない。女将さんは私の手元のメモを見て、それから静かに微笑んだ。
「いいえ。お待ちしておりました。奥様、お座敷へどうぞ」
奥様。その言葉が自分に向けられたものだと分かるまで、しばらくかかった。結婚したばかりの清掃員の妻。夕飯は牛丼で済ませるつもりだった私が、どうして一見さんお断りの料亭で奥様と呼ばれているのか。この夜が私の人生を変えることになるなんて、その時の私はまだ知らなかった。
私の名前は藤堂珠子。三十歳。今日から藤堂の姓を名乗ることになった。ついさっき役所に婚姻届を出してきたばかりの、成り立ての妻だ。旧姓は柏木という。夫の名前は藤堂湊さん。三十六歳。職業は清掃員だ。私という人間を一言で言えば、目立たない女だ。学生時代の集合写真では、自分でも自分を探すのに時間がかかる。声も小さいし、はっきり物を言うのも苦手だ。取り柄といえば、こつこつ手を動かすことと掃除くらいのものだった。この結婚が決まった時、友人と呼べる数少ない相手には驚かれるより先に心配された。「大丈夫なの?」と。大丈夫かどうかは、私にも分からなかった。ただ、断るという選択肢があの家の私にはなかった。それだけのことだった。そんな私が、数えるほどしか会ったことのない人と夫婦になった。そして、この結婚は私が望んだものではなかった。元々、お見合いの相手だったのは、四つ下の妹のリカだったのだから。
話は少し遡る。私は昔から妹と比べられて育った。リカは小さい頃から人形みたいに可愛かった。目が大きくて色が白くて、笑うと周りがぱっと明るくなる。親戚の集まりでも近所でも、みんながリカを褒めた。両親はそんな妹に夢中だった。一方の私は地味だった。顔も成績も運動も何もかもが普通。おまけに口下手で、人前に出るとたじろいでしまう。母はよくため息混じりに言ったものだ。
「あんたは本当にぱっとしない子ね。リカの半分でも愛想があればいいのに」
物心ついた時にはもう家の中の役割が決まっていた。リカは褒められる係。私は家の用事をやる係。洗濯物を取り込むのも、お風呂を洗うのも、階段の掃除をするのも、祖母の病院の付き添いも、全部私の仕事だった。リカが散らかした部屋を私が片付け、リカが破いた服を私が繕った。授業参観に来るのはいつもリカの教室だけだった。私の誕生日ケーキは、リカが先に苺を取ってからみんなで分けた。そういうことの一つ一つに、私は慣れていった。慣れというのは怖いもので、そのうち悲しいという気持ちの前に「こんなものだ」という気持ちが来るようになる。文句を言うと、母は決まって決めつけた。
「リカはそういうのが苦手なの。得意な人がやればいいでしょう」
「苦手なら私だって苦手だ」。そう言えたらどんなに楽だったろう。けれど言えなかった。この家で私が居場所をもらうには、黙って引き受けるしかなかったのだ。それでも掃除だけは嫌いになれなかった。誰も見ていない場所を磨いて、綺麗になっていくのを眺めていると、胸の中まで整っていく気がした。玄関のたたきを拭き、窓の桟の埃を取り、溝を洗う。家族の誰一人気づかない。それでも家は確かに気持ちのいい場所になる。それだけがあの家で私が自分に許した小さな誇りだった。
そんな私をたった一人だけ見てくれていた人がいる。父方の祖母だ。祖母は晩年足を悪くして、月に二回の通院にはいつも私が付き添った。待合室の長椅子で、祖母がある日ぽつりと言った。
「珠子や。あんたの拭いた窓はね、光が違うんだよ。ばあちゃんは知ってるよ」
私の掃除を褒めてくれたのは、後にも先にも祖母だけだった。その祖母も三年前に亡くなった。お葬式で一番泣いたのは私で、一番早く泣き止んだのは母だった。高校を出ると、私は地元の食品会社に就職した。経理の仕事だ。華やかさのかけらもない仕事だけれど、性に合っていた。数字は嘘をつかない。伝票の束が綺麗に合った日は、少しだけ胸を張って帰れた。職場ではそれなりに頼りにされていたと思う。「柏木さんに任せれば数字は合う」。それが私の評判だった。褒められて目立つことはなかったけれど、月末の締めの日に先輩がそっと机に置いてくれる缶コーヒーが私は好きだった。リカは短大を出て、アパレルの店員になった。続いたのは一年だった。その後は事務所のアルバイトを点々として、今はほとんど家にいる。それでも両親は妹を叱らなかった。「リカは器量がいいんだから、いいところにお嫁に行けば済む話よ」。それが母の口癖だった。二十代の後半には、私にも一度だけ結婚の話が持ちかけられたことがある。職場の先輩の紹介だったけれど、二回目に会う約束の前の日、その人から連絡が来た。「妹さんの方を紹介してもらえないか」という内容だった。家に遊びに来た時、玄関先でリカと顔を合わせていたのだ。私は誰にも何も言わずにその話を終わりにした。母に知られたら「それ見たことか」と言われるだけだから。あの夜布団の中で考えたのは、悲しいというより「やっぱりな」ということだった。私の人生はそういう風にできている。そう思っていた。
そんな我が家にお見合い話が舞い込んだのは、今年の春のことだ。持ってきたのは父の勤務先の大和田会長だった。父は機械部品の会社で営業の部長をしている。大和田会長は父を目にかけてくれた御人で、父にとっては頭の上がらない人だ。
「藤堂さんと言ってな。三十六歳。真面目な良い男だ。お宅の娘さんにどうかと思ってな」
写真を見た母とリカは色めき立った。写真の中の藤堂さんは背が高く、涼しげな目元をした、想像よりずっと整った顔立ちの人だったからだ。
「え、結構かっこいいじゃない?私、会ってみようかな」
話はとんとん拍子に進み、五月には顔合わせの席が持たれた。私も無理やり座らされた。荷物持ちと母の話し相手のためだ。顔合わせは町の小さな料理屋の座敷だった。初めて会った藤堂湊さんは、写真の通り物静かな人だった。口数は少なく、聞かれたことに短く答えるだけ。けれど、店の人にお茶を注いでもらうたび、必ず小さく頭を下げる人だった。その席の途中で、若い店員さんがお盆を落とした。小鉢が一つ割れて、座敷の隅に汁が飛んだ。店員さんは真っ青になって謝った。母とリカは眉をひそめ、母は私の袖を引いた。私は気がついたら畳に膝をついて、破片を拾っていた。
「熱くなかったですか?怪我はないですか?」
「申し訳ございません」
「大丈夫ですよ。ゆっくりで大丈夫です」
お絞りで畳の汁を拭いていると、向かいから視線を感じた。顔を上げると、湊さんがじっとこちらを見ていた。何を考えているのか分からない、静かな目だった。母に袖を引かれ、私は首をすくめて席に戻った。
「やめなさいよ。みっともない。店の人の仕事でしょう」
その夜、帰りの車の中でリカは上機嫌だった。
「藤堂さん、悪くないよね。落ち着いてるし、優しそうだし」
お見合いはまとまり、式の代わりに入籍と両家の食事会を六月に行うことが決まった。リカは指輪はどこのブランドがいいとか、新婚旅行はどこがいいとか、そんな話ばかりしていたところが、その浮かれ話がある日を境にぴたりと止まった。藤堂さんの職業を母が詳しく聞いてきたのだ。
「ちょっと聞いてないわよ。清掃員ですって」
藤堂さんはビルや旅館の掃除をする会社で働いているのだという。作業着を着て、モップを持って現場で床を磨く仕事だと。その日から家の空気は一変した。
「清掃員なんて、リカにはもったいないわ」
「会長さんも人が悪い。もっと早く言ってくれれば」
「無理。無理。友達に何て言えばいいのよ。旦那の職業、掃除ですって」
二人は毎晩のようにそう言い合った。父だけは困った顔で黙っていた。大和田会長の顔を潰すわけにはいかないけれど、妻と娘を抑えることもできない。父はいつだってそういう人だった。そして、入籍を一週間後に控えた朝、リカは消えた。テーブルの上に置き手紙が一枚だけ残されていた。
「好きな人ができたので、その人のところに行きます。結婚はできません。ごめんなさい」
好きな人というのは、少し前に知り合った会社経営者の男らしかった。母は頭を抱えたけれど、心配していたのはリカのことでも藤堂さんのことでもなかった。
「どうするのよ。会長さんに何て言えばいいの?お父さんの立場がなくなるじゃない」
数日間、家の中はお葬式のようだった。父は会社で会長に詫び続け、母は親戚への言い訳を考え続けた。そして、ある晩、両親は二人揃って私の部屋に来た。
「珠子、あんたが代わりに行きなさい」
最初、何を言われたのか分からなかった。
「代わりって、何の?」
「結婚よ。あんたがリカの代わりに藤堂さんのところへお嫁に行くの。それで全部丸く収まるでしょう」
「珠子、すまん。この通りだ」
父は頭を下げた。母は続けた。
「あんたももう三十でしょ。相手なんてどうせいないんだから、ちょうどいいじゃない。清掃員なら、あんたくらいの器量でも釣り合いが取れるわよ」
ひどい話だと自分でも思う。けれど、あの時の私は怒るより先に諦めていた。「ああ、またか」と思ったのだ。リカが散らかしたものを片付けるのは、いつだって私の役目だった。今度のそれがたまたま結婚だったというだけのことだ。それに心のどこかでこうも思っていた。この家を出られるなら、どこへでも行きたいと。私は小さく頷いた。母はほっとした顔になり、それから思い出したように付け加えた。
「ああ、それから仕事はやめなさいよ。向こうの家に入るんだから」
会社をやめる日、経理部のみんなが小さな花束を持たせてくれた。課長は不器用な人で、餞別の言葉の代わりにこう言った。
「柏木さんの伝票は、十二年で一度も狂わなかった。うちは大きな戦力を失うよ」
帰り道、花束を抱えてバスに揺られながら、少しだけ泣いた。結婚が悲しかったのではない。誰かに認められていた場所を離れるのが、思っていたよりずっと寂しかったのだ。こうして私は十二年勤めた会社を辞め、会ったこともほとんどない清掃員の男性の元へ、身代わりとして嫁ぐことになったのだった。
話がまとまってから入籍までは、あっという間だった。藤堂さんの側が「身代わりの話」を受け入れたと聞いた時、私は正直耳を疑った。断られて当然の話だ。姉妹を取り替えるなんて、相手を馬鹿にするにも程がある。父が恐る恐る事情を伝えに行った日、藤堂さんは少し黙って、それから一言だけ言ったそうだ。
「分かりました。珠子さんさえよければ」
「珠子さんさえよければ」。その言葉を父から聞いた時、胸の奥が変に疼いた。この話の中で私の気持ちを聞いた人は、その人が初めてだったからだ。入籍までの短い間に、私は一度だけ藤堂さんと二人で会っている。話がまとまった数日後、彼の方から「会って話したいことがある」と連絡が来たのだ。指定されたのは駅前の古い喫茶店だった。藤堂さんは約束の十分前に来ていて、私が座るとコーヒーを二つ頼んでから、単刀直入に切り出した。
「確認したいことが一つだけあります」
「はい」
「この結婚は珠子さんの意思ですか?それとも、ご両親に言われて断れなかっただけですか?」
真っ直ぐな問いだった。取り繕う余裕もなくて、私は正直に答えた。
「半分は、言われたからです。でも、もう半分は自分で決めました。あの家を出たかったので。ごめんなさい。こんな理由で」
藤堂さんは怒らなかった。むしろどこかほっとしたように小さく頷いた。
「分かりました。それで十分です。一つだけ約束します。うちに来て、もし嫌になったら、いつでも出ていっていい。そのための費用は俺が持ちます。だから珠子さんは、我慢だけはしないでください」
変なプロポーズもあったものだと思う。逃げ道の用意された結婚の申し込みなんて聞いたことがない。けれど、あの言葉にどれだけ救われたかは私にしか分からないだろう。追い詰められてきた人間に、この人は最初に逃げ道をくれたのだ。入籍の日は当初の予定から少しだけ延びて、六月の終わりの晴れた日になった。両家の食事会は取りやめになった。母が「こんな縁談、親戚に見せられない」と言ったからだ。結局、役所の窓口に二人で婚姻届を出しに行くだけの、何とも質素な結婚になった。待ち合わせの役所の前に、藤堂さんは先に来ていた。糊の効いた白いシャツを着て、まっすぐ立っていた。
「今日はありがとうございます」
「いえ。その、こちらこそ」
窓口で書類を出すと、ものの十分とかからず手続きは終わった。係の人に「おめでとうございます」と言われ、二人して居心地悪そうに頭を下げた。帰り道、彼の軽自動車に乗せてもらい、今日から住む家に向かった。彼は車を運転しながら、前を向いたままぽつりぽつりと話した。
「家は古いです。驚かないでください」
「あの、私、本当はリカの代わりで来てしまって、すみません」
言った瞬間、自分の惨めさに泣きたくなったけれど、言わずにはいられなかった。この人は本当は、あの可愛いリカと結婚するはずだったのだ。湊さんは少しだけ間を置いて、言った。
「代わりなんて思ってません。でも俺は、珠子さんと結婚したんです。それだけです」
それきり彼は黙った。嬉しい言葉のはずだったけれど、私は素直に受け取れなかった。何十年もの間染みついた私の頭が、勝手に理由を探すのだ。きっとこの人も断れなかったのだ。大和田会長の顔を立てるために、駆けつけた姉の方で手を打った。そういうことに違いない。長年比べられて生きてきた人間は、優しい言葉ほど信じられなくなるものだ。車を降りる時、湊さんは先に降りて私の側のドアを開けてくれた。慣れた所作ではなかった。むしろ、どう動くか前の晩に練習でもしてきたような、ぎこちない開け方だった。そのぎこちなさが、なぜか一番信用できた。
着いた家は、川の近くの古い一軒家だった。確かに古い。築四十年は経っていそうな平屋だけれど、玄関の引き戸のガラスは磨き上げられ、小さな庭は雑草一つなく、飛び石は打ち水で黒く光っていた。家の中も同じだった。柱は飴色に艶が出るまで拭き込まれ、台所の流しは鏡のように光っている。物は少なく、どこにも埃がない。古いのに、深呼吸したくなるような家だった。
「綺麗なお家ですね」
「掃除だけが取り柄なので」
彼は真顔でそう言った。冗談なのか本気なのか分からなくて、私は笑いそびれた。奥の六畳間が私の部屋として開けてあった。畳は青々と新しく、新品のタンスが一つ置いてある。床の間には小さな一輪挿しに白い桔梗が活けてあった。無口な人がこの部屋を整えるところを想像したら、なぜだか少し喉の奥がつんとした。荷物はダンボール三箱だけだった。三十年分の人生が三箱というのも、割と寂しい話だ。運び込むのを手伝いながら、湊さんが箱の少なさに何か言うかと身構えたけれど、彼は何も言わなかった。代わりに一番重い本の箱を、当たり前のように奥の部屋まで運んでくれた。
「今日は仕事の準備もあるでしょうから。どうぞゆっくり。この家は今日から珠子さんの家でもあるので」
「自分の家」。その言葉もすぐには飲み込めなかった。
その日の夕方、片付けを終えた私は台所に立って途方に暮れていた。冷蔵庫はほとんど空だ。結婚初日の食事をどうするかなんて考える余裕もなく、ここまで来てしまった。居間では湊さんが明日の仕事の道具を確かめていた。モップの替えや雑巾や、細いブラシのようなものを一つ一つ拭いては箱に戻している。その横顔に、私はおずおずと声をかけた。
「あの、夕飯なんですけど」
「はい」
「駅前に牛丼屋さんがあったので、夕飯は牛丼で済ませますね。湊さんの分も買ってきます」
それが精一杯の気遣いだった。清掃員の給料がどれくらいなのかは知らないけれど、楽ではないはずだ。お仕着せ同然で来た身代わりの妻が、初日から食費を使わせるわけにはいかない。ちゃんとした食事を作りたくても、材料を買い揃えるお金を出してもらうのも申し訳ない。私の財布には、家を出る時に自分で下ろした僅かな金しかなかった。言ってから後悔が押し寄せてきた。初日から手抜きの妻だと思われただろうか。それとも「牛丼」という言葉が失礼だっただろうか。この人の稼ぎを軽んじたように聞こえていたらどうしよう。人の顔色を伺う癖だけは年季が入っている。けれど、返ってきたのは責める言葉ではなかった。湊さんは道具を拭く手を止め、私を見た。それから作業着の胸ポケットから小さな手帳を取り出し、何かを書きつけて、そのページを破って差し出した。
「今日はここで食べておいで」
「え?」
「俺は現場の仕上がり確認があって、夜まで戻れないので。一人で悪いけど」
メモには店名と簡単な道順が書いてあった。川沿いを上って橋を渡って、十五分ほど歩いた先だ。店の名前は書いていない。
「あの、これは、定食屋さんか何かですか?」
「行けば分かります」
彼はそれだけ言うと、また道具に目を戻した。出掛けに鏡の前で少し迷った。定食屋に行くだけなのに、着替えるのも変だ。結局、普段着のワンピースのまま、夕方の六時過ぎ、メモを片手に家を出た。川沿いの道は夕焼けで金色だった。橋を渡ると、道は静かな路地に変わり、板塀の続く一角に出た。鵜の寝床のような路地の奥に、その門はあった。黒い板塀、格式のある木の門、打ち水、梅の紋の表札。どこからどう見ても、高級料亭だった。門の前で私はメモと表札を三回も見比べた。住所は合っている。けれど合っているはずがない。こういう店は一見さんお断りというやつだ。それ以前に、こんな店で食事をしたら幾ら取られるのか見当もつかない。帰ろう。駅前の牛丼屋でいい。むしろその方が落ち着く。踵を返しかけた、その時だった。
「お帰りになるのですか?」
門の内側から、藤色の着物の女性が出てきた。冒頭で話したあの女将さんだ。私は慌てて腰を折った。
「あの、すみません。場所を間違えたみたいで」
女将さんは私の手元のメモを見て、それから静かに微笑んだ。
「いいえ。お待ちしておりました。藤堂様の奥様でいらっしゃいますね。梅ノ井の女将で、芝野と申します」
「え、あの、どうして私のこと」
芝野さんは身を乗り出した。
「藤堂さんから夕方にお電話をいただきました。『妻がそちらに伺うので、どうか温かいものを食べさせてやって欲しい』と。奥様、お座敷へどうぞ」
「奥様」という言葉に戸惑っているうちに、私は門の中へ招き入れられてしまった。石畳の廊下のような道が、灯籠の明かりに照らされて続いていた。手入れされた庭の奥に、数寄屋造りの座敷が並んでいる。すれ違う仲居さんたちが次々に立ち止まってお辞儀をしてくれる。私はその度に深々と頭を下げ返した。生まれてこの方、こんなに丁寧に扱われたことはない。通されたのは、庭の見える小さなお座敷だった。床の間には掛け軸と梅の枝を活けた花器。座布団の脇には足を崩せるようにと、肘掛けまで添えてある。そして、お膳が運ばれてきた。先付けの胡麻豆腐。お椀と向付。鯛の塩焼き、炊き合わせ、いくらを乗せた小さなご飯、つやつやの薯蕷饅頭。どれもテレビでしか見たことのないような料理だった。お椀の蓋を開けた瞬間、芳醇な香りがふわりと立って、思わず声が出た。一口ごとに体の芯がほぐれていくようだった。考えてみれば、朝から何も食べていなかった。ここ数日、入籍の準備で碌に食事もしていなかった。誰かのために整えられた温かい膳を前にして、自分がどれだけ空腹だったのかを、私はようやく思い出したのだ。途中で料理を運んできた年の頃の仲居さんが、そっと教えてくれた。
「お吸い物の鱧はね、今が一番美味しい時期なんですよ。ゆっくり召し上がってくださいね」
せかされない食事というものを、私は久しぶりにしていた。実家の食卓では、私はいつも一番最後に座って、一番最初に立つ係だった。誰かの箸の進み方を気にせず、自分のためだけに箸を動かす。たったそれだけのことが、こんなに贅沢なことだったなんて。ふと手が止まった。私なんかが、こんな場所にいていいのだろうか。お値段が分からない。仲居さんたちの接客に「奥様」という呼び名も、何もかも私には似合っていない。リカなら、あの子なら似合っただろう。可愛くて愛想がよくて、どこにいても主役になれる妹なら。でも私は違う。私は端っこで家の用事をやってきた人間だ。間違い。その三文字が頭から離れなくなった。その時だった。廊下の奥の方で、ガシャンと大きな音がした。続いて、男の怒鳴り声が響いた。
「何をやってる!だから言ったんだ。お前は要領が悪いと!」
若い女の子の消えそうな声が続く。
「申し訳ございません。申し訳ございません」
「謝って済むか!その器がいくらすると思ってるんだ!いいか、お前はもう客の前に出るな!」
私は気がつくと座敷を出ていた。廊下の角を曲がると、配膳室の前で若い仲居さんがうずくまって、割れた器を拾っていた。まだ十代半ばに見える小柄な子だ。着物の膝の辺りに汁が飛んで、手が小さく震えている。その前に、灰色のスーツの男が仁王立ちしていた。五十代くらいの、腹の出た男だった。胸元の名札に「支配人」という金文字が見えた。
「ぼさっとするな!さっさと片付けろ!」
仲居さんの指が破片を握りそうになって、私はとっさに声をあげていた。
「素手は駄目!危ないですよ」
二人が同時にこちらを見た。支配人の顔が逆上したと分かった瞬間、さっと営業用の笑顔に変わった。
「これはお客様、お騒がせして申し訳ございません。すぐに片付けさせますので、どうぞお席へ」
「あの、私のせいなんです」
口が勝手に動いていた。
「私が急に座敷を出て、声をかけてしまったので。この方は驚いただけです。だから、その、あまり叱らないであげてください」
嘘だった。私はその時、廊下にすらいなかった。けれど、うずくまった女の子の目に涙が溜まっているのを見たら、黙っていられなかった。怒鳴られながら片付けをする惨めさなら、私が嫌というほど知っている。支配人は一瞬探るような目で私を見た。それから、含み笑いのような愛想笑いを浮かべた。
「さようでございましたか。お客様がそうおっしゃるなら」
男はそれだけ言うと、仲居さんに顎をしゃくって、廊下の奥へ消えていった。私は仲居さんの隣にしゃがみ込んで、破片を集めるのを手伝った。
「あの、ありがとうございます。お客様にこんなこと」
「いいんです。それより、指は切ってないですか?」
「大丈夫です。すみません。私、いつも失敗ばかりで」
床にはこぼれた吸い物がまだ広がっていた。放っておけば廊下の奥まで染み広がっていく。私は指先では足りないと見て、配膳室の隅の桶と雑巾を借りた。そしてワンピースの裾を抑え、膝をついて床を拭き始めた。仲居さんが目を丸くした。
「お客様、そんな、私がやりますから」
「二人でやった方が早いですよ。それに、こういうのは慣れてるんです」
汁は暑いうちなら簡単に拭き取れる。板目に沿って、水気を残さないように。実家で何百回とやってきた仕事だった。そこへ騒ぎを聞きつけた芝野さんが駆けつけてきた。そして、床に膝をつく私を見て立ち竦んだ。
「奥様、何てことを。おやめください。そんなことをさせるわけには」
私は手を止めなかった。止めたら、なんだか負けな気がした。
「汚れたままだと、誰かが滑りますから」
拭き終えて頭を上げると、芝野さんは何とも言えない顔で私を見ていた。怒っているのでも呆れているのでもない。強いて言えば、何かを噛み締めるような目だった。
「奥様は、藤堂さんの奥様なんですね」
芝野さんはしみじみとそう言った。どういう意味かは、聞きそびれた。座敷に戻り、残りの料理を頂いた。薯蕷饅頭は、今まで食べたどんなお菓子より優しい味がした。帰りはお代金を払おうとすると、芝野さんは首を横に振った。
「頂戴できません。藤堂さんとのお約束ですから。それより奥様、今日は本当にありがとうございました」
深々と下げられた頭に、私はただ困惑するばかりだった。
帰り道、夜の川沿いを私はゆっくり歩いた。お腹の底が温かかった。それは料理の温かさだけではなかったと思う。「奥様」と呼ばれたこと。「ゆっくりでいい」と言われたこと。「ありがとうございました」と何人もの人に頭を下げられたこと。一つ一つは小さなことだけれど、その小さなことを私は三十年間、ほとんど知らずに生きてきたのだった。家に帰ると、湊さんはもう戻っていて、居間で書き物をしていた。私は座って、思い切って聞いた。
「あの、あのお店、何なんですか?女将さんが私のことを奥様って。お代も受け取ってもらえなくて」
湊さんは顔を上げた。
「梅ノ井の掃除を、うちが任されてるんです。その縁で、女将さんとは古い付き合いで」
「掃除って、湊さんの会社がですか?」
「はい。えっと、そんなことより、ちゃんと食べられましたか?」
話をすっと戻されて、私は口ごもった。
「食べました。その、すごく美味しかったです。あんなご飯、生まれて初めてで」
湊さんの目元が、ほんの少しだけ緩んだ気がした。
「なら、よかった」
彼はそれだけ言って、また書き物に戻った。台所には、洗って伏せられた湯飲みが一つ増えていた。私の分だ。たったそれだけのことが、妙に心に残った。この家に私の湯飲みがある。私の布団がある。私の部屋がある。その夜、布団の中で私は不思議な気持ちで天井を見ていた。牛丼で済ませようとした結婚初日に、生まれて初めての料亭のご飯。「奥様」と呼ばれ、丁寧に持てなされ、そして廊下で床を拭いた、変な一日だった。けれど一番心に残っていたのは、料理でも座敷でもなかった。
「ちゃんと食べられましたか?」。そう聞いた時の、夫の静かな目だった。
新しい生活は、静かに始まった。湊さんの朝は早い。五時には起きて庭を掃き、玄関に水を打つ。それから道具の点検をして、六時半には作業着で家を出ていく。夜は現場によってまちまちで、遅い日は十時を回った。私は私で、朝ご飯と弁当を作り、家のことをして過ごした。おかしなもので、あんなに気の重かった家事が、この家では少しも苦にならなかった。やってもやっても当たり前と言われる家と、小さく「ありがとう」と言われる家では、同じ仕事がまるで別物になるのだ。
「行ってきます。弁当、ありがとう」
たったそれだけの言葉に、私は毎朝少しずつ救われていた。気になることもいくつかあった。例えば、私の靴だ。玄関に置いた通勤用の古いパンプスが、ある朝、驚くほど綺麗になっていた。踵の擦り切れまで丁寧に磨かれ、雨染みが消えていた。聞こうかと思ったけれど、湊さんは何も言わないので、私も黙っていた。例えば、夜の書き物だ。湊さんは時々、食卓の椅子で分厚い書類の束と睨めっこをしていた。図面のようなものも見えた。清掃員の仕事にしては変だなと思ったけれど、それも聞きそびれた。
結婚して十日ほど経った昼下がり、家の電話が鳴った。梅ノ井の芝野さんからだった。
「先日のお礼がまだでしたから。よろしければ、お茶でも飲みにいらっしゃいませんか?」
断る理由もなく、私は再びあの黒い門をくぐった。昼間の梅ノ井は、夜とはまた違う顔をしていた。庭の緑が濃く、蝉の声が降っている。芝野さんは書院の奥にある小さな部屋で、冷たい麦茶と水羊羹を出してくれた。そして、ぽつりぽつりと店の話をしてくれた。梅ノ井は今年で創業百年になる。芝野さんは四代目の女将。亡くなったご主人がその四代目の主人だったという。
「主人が亡くなってもう七年になります。私一人では手が回らなくて、番頭代わりにと人に勧められて雇ったのが、あの支配人です」
「支配人」というのは、あの男の名前だった。芝野さんは続けた。
「あの人が来てから、店の数字は良くなったんですよ。無駄を削るのが上手い人でね。ただ」
芝野さんはそこで言葉を濁した。私はあの夜の怒鳴り声を思い出していた。芝野さんはそれ以上、支配人の話はしなかった。代わりに、先代のご主人の思い出話をいくつかしてくれた。庭の松の剪定に必ず立ち合った話。お客の靴の並べ方にうるさかった話。話す間中、芝野さんの目は障子の向こうの、誰もいない主人の椅子を見ていた。七年経っても、あの椅子はあの人の椅子なのだろう。帰りがけ、お手洗いを借りた私は、廊下を一本間違えて店の裏手に迷い込んだ。そして、足が止まった。表の表札を知らなければ、同じ店だとは思えなかっただろう。従業員の通用口の脇に、古いダンボールが積み上がっている。裏の廊下は板が浮いて、歩くたびにきしんだ。従業員用のお手洗いは電球が切れかけて、ついたり消えたりしている。壁に貼られた注意書きは日に焼けて、角が丸まっていた。配膳室の前を通ると、この間の若い仲居さんがいた。「みっちゃん」という名前だと、芝野さんから聞いていた。十九歳だというみっちゃんは、大きな寸胴を一人で抱えて、厨房の脇の床で足を滑らせかけた。とっさに私は手を貸した。
「大丈夫?この床、濡れてる」
「す、すみません。ここ、いつも滑るんです。排水が悪いみたいで。拭いても拭いても染みてきちゃって」
見れば、厨房の出入り口の床はタイルの目地が黒ずんで、うっすらと水が浮いていた。傍らの排水溝は蓋が外れかけて、古い油が固まっている。厨房の中から、白い割烹着の板前さんが顔を出した。六十近い、眉の太い人だった。後で知ったのだが、板長の辰さんだった。
「また転びかけたのか。みっちゃん、怪我はねえか?」
「はい。あの、お客様が助けてくださって」
辰さんも私を見て、それから床を見て、太いため息をついた。
「支配人にはもう一年も前から言ってるんだ。この排水と床を直してくれと。若い衆が滑って腰をやったこともある。だが『金がかかる』の一点張りで、取り合っちゃくれねえ」
その時、廊下の奥から声が飛んできた。
「おい、そこで何を油を売ってる?」
辰さんが支配人だった。私に気づくと、また例の営業用の顔になる。
「おやおや、藤堂さんの奥様。こんな薄汚い裏までお越しとは。お客様の来る場所ではございませんよ。ささ、表へどうぞ」
薄汚い裏。自分の店の裏方を、この人はそう呼ぶのか。通用口の脇では、灰色の作業着を着た小柄なおばちゃんが黙々とモップを絞っていた。支配人はその横を通り抜けざま、聞こえよがしに言った。
「掃除屋は、掃除だけしてればいいんだ。床が滑るだの、備品がどうだの、身の程を知れと言うんだ」
おばちゃんは何も言わずに手を動かし続けていた。私は表に送り出されながら、胸の奥がざらざらするのを感じていた。表はあんなに美しい店なのに。磨き上げられた座敷の下で、床は痛み、電球は切れかけ、若い子は叱られ、掃除をする人は「身の程を知れ」と言われている。この店は綺麗に見えるけれど、裏側が壊れかけてる。その夜、湊さんに全部話した。床のこと、排水のこと、支配人のこと。湊さんは箸を置いて、最後まで黙って聞いていた。そして、短く言った。
「明日、現場に入ります。梅ノ井に」
「え?」
「ちょうど、月に一度の点検の日なので」
そして翌日の夕方、私はまた梅ノ井にいた。三時過ぎに湊さんから電話があり、「家に忘れていった点検の記録綴りを現場まで届けてほしい」と頼まれたのだ。裏の廊下に入ると、声が聞こえた。支配人の声と、もう一つ、低く静かな聞き慣れた声だった。廊下の先に、紺色の清掃員の制服を着た湊さんがいた。膝をつき、厨房脇のあの床に手のひらを当てて、目の高さで水の染み方を確かめている。その姿勢のまま、湊さんは支配人を見上げて言った。
「この床、昨日も同じ場所が濡れていましたね」
「だから、何だ。お前たちの拭き方が甘いんだろうが」
「うちの記録では、この三ヶ月、一日も欠かさずここを重点清掃しています。それでも乾かないのは、床下の排水が壊れているからです。清掃員のせいにして終わらせるつもりですか?」
支配人の顔色が変わった。
「な、何だと?高が掃除屋が、支配人のわしに意見する気か!」
湊さんは立ち上がった。慌てず、声も荒げず、ただまっすぐに支配人を見た。
「掃除屋だからこそ分かるんです。この店が、今どこから痛み始めているか」
二人の間に流れた空気は、私の知らないものだった。夫の背中が、いつもより大きく見えた。そして、その向こうで、支配人の目が明らかに何かに怯えていた。支配人は吐き捨てるように言った。
「い、いちいち大げさなんだ!」
「床の一枚や二枚、何が営業に差し支える」
「差し支えます。ここで働く人が、毎日ここを通るので。支配人、備品の修繕記録を、今度の点検までにまとめて見せてください。会社として、正式にお願いします」
支配人は何か言い返しかけてやめた。そして、私に気づくと取り繕うような笑みを浮かべて、足早に廊下の奥へ消えていった。湊さんは私から記録綴りを受け取ると、いつもの静かな顔に戻って、小さく頭を下げた。
「ありがとう。助かりました」
「湊さん。あの、今の」
「帰ったら話します。今日は先に戻っていてください」
その夜、湊さんの帰りは遅かった。私は先に休むように言われたけれど、眠れなかった。夫の知らない顔を見た。それは怖さではなくて、もっと別の、うまく名前のつけられない感情だった。作業着で膝をつくあの人が、あの傲慢な支配人に一歩も引かなかった。「掃除屋だから分かる」と胸を張った。私はその夜、自分がずっと「職業」というものを世間の目の高さで見ていたことに、気づき始めていた。「清掃員だから気の毒」「清掃員だから釣り合う」。母の言葉を、心のどこかで私も本気で疑ってはいなかったのだ。夫の仕事はそんなものではないのかもしれない。まだはっきりとは分からなかった。分からないまま、私は梅ノ井のあの傷んだ床と、「身の程を知れ」と言われても黙ってモップを絞っていたあのおばちゃんの背中を思い出していた。
その日を境に、私は梅ノ井に通うようになった。きっかけは芝野さんの一言だった。届け物を渡した帰り際、芝野さんは玄関の前で私を呼び止めて、思いがけないことを言ったのだ。
「奥様、週に何日かで構いません。うちの裏を手伝っていただけませんか?」
「私がですか?」
「奥様は、床の汚れと泣いている仲居に気づいてくださった。お客としていらして、裏で働く者の側に立ってくださった方を、私は初めて見ました。お給金もきちんとお出しします。どうか、裏方の目でこの店を見ていただきたいんです」
その晩のうちには話せず、相談は翌朝の食卓になった。湊さんはまず、前日の調査のやり取りから話してくれた。点検で厨房の床下の排水と裏廊下の土台に痛みが見つかったこと。会社として書面で修繕を申し入れたこと。支配人が書面を受け取ろうとしなかったこと。
「ああいう店は、裏が先に根を上げます。今のうちに手を打たないと」
それから、私は芝野さんの申し出の話をした。湊さんは味噌汁を啜りながら、子供みたいなことを言った。
「珠子さんがやりたいなら、やるといい」
「いいんですか?その、奥さんが働きに行ってるなんて」
「働くことに、いいも悪いもないでしょう。それに、彼女はそこで少しだけ間を置いた。「梅ノ井の裏には、今、珠子さんみたいな人がいると思う」
こうして私は、週の半分を梅ノ井の裏で過ごすことになった。仕事は何でもやった。配膳室の整理、備品の在庫調べ、従業員の賄いの手伝い、裏廊下の掃除。お給金をいただくのが申し訳ないくらい、私には馴染みのある仕事だった。通ううちに、裏で働く人たちの顔が少しずつ見えてきた。仲居のみっちゃんは、高校を出てすぐ梅ノ井に入った子だった。お母さんと二人暮らしで、そのお母さんは春から入院しているという。
「お母さん、腰の手術をして、リハビリが長引いてて。だから私、この仕事、絶対にやめられないんです。でも、私、どん臭いから、辰さんに怒られてばっかりで」
休憩時間に、彼女は自分で握った小さなおにぎりを頬張りながら、そう笑った。笑う場面ではないのに笑うのは、そうやって自分を守ってきた彼女の癖だ。私にも覚えがあった。七月の半ばには、みっちゃんのお母さんのお見舞いにも付き合った。休みの日にみっちゃんが花を抱えて病院へ行くというので、荷物持ちを買って出たのだ。病室のお母さんは、細い体で、娘そっくりの笑い方をする人だった。
「帰り道、みっちゃんがいつも話してるんです。梅ノ井に優しい奥さんが来てくれたって。この子、失敗ばかりの子ですけど、どうかよろしくお願いします」
廊下に出ると、みっちゃんが照れ臭そうに笑った。
「すみません。うちのお母さん、大げさで」
「ううん。いいお母さんだね。早く元気になってもらって。いつか、梅ノ井のご飯、食べさせてあげたいね」
「従業員割引とか、ないですかね。なんて」
そんなことを言って、またへへっと笑う。この子の笑い方の向こうには、いつも小さな必死さが透けて見えた。
「どん臭くなんかないよ。みっちゃんの盆の持ち方、私、綺麗だと思う。ただ、せかされると、誰だって転ぶの」
「奥さん、なんだかお姉ちゃんみたい」
通用口のおばちゃんは「き江さん」と言った。六十三歳。梅ノ井の掃除を三十年続けている人だった。三十年。その年月に驚いた私に、き江さんはモップの手を止めずに言った。
「先代の旦那さんがね、いい人だったんだよ。私みたいなパートのおばちゃんにも、いつも頭を下げてくれた。『き江さんが磨いてくれるから、梅ノ井は保つんだ』って。馬鹿だね。その一言で、三十年だ」
「素敵な話です」
「でもね、先代が亡くなってからは駄目だ。道具は古いまま。洗剤は一番安いやつ。挙げ句の果てに『身の程知れ』だ。悔しくてたまらないよ。私はこの店の床を、自分の家より磨いてきたのにさ」
き江さんの節くれだった手を見ながら、私は思った。この人の三十年に、この店はまだ何も返していない。番頭の辰さんは、怖い顔に似合わず、賄いを作る私にこっそり煮物の味を教えてくれるような人だった。
「奥さんの飯は丁寧だ。丁寧な飯は、裏の連中の腹に効く。表の料理はわしが張るから、裏はあんたに任せた」
裏で過ごす時間は、不思議なくらい私の性に合っていた。実家では、名前を呼ばれるのは用事の時だけだった。ここでは違う。「奥さん」「珠子さん」と呼ばれて、「ありがとう」と言われる。誰かの困り事に気づいて手を貸し、「また明日」と言い合って別れる。生まれて初めて、私は「自分の居場所」というものが分かりかけていた。
家でも変化はあった。湊さんと私は、夕飯の時に少しずつ話をするようになっていた。話題はほとんど梅ノ井のことだ。みっちゃんの母の見舞いの話。き江えさんの三十年の話。辰さんの煮物の話。湊さんは相槌が少ないけれど、聞いていないわけではないことが、だんだん分かってきた。私の話した小さなことを、この人は全部覚えているのだ。湊さんの数少ない休みの日に、二人で商店街に買い物に行ったことがある。八百屋の店先で、湊さんはトマトを選びながら、ふと視線を店の奥へやった。それから子供に言い聞かせるような口調で、店のおじさんに言った。
「親父さん、奥の冷蔵ケース、モーターの音が変わってますよ。埃を払うだけでも違うので、早めに」
「お、さすが掃除屋の兄ちゃんだ。よく気がつくね」
帰り道、豆腐屋でもクリーニング屋でも、同じようなやり取りがあった。この人の目は、どこにいても場所の傷んでいるところへ真っ先に行くらしい。
「湊さんって、お休みの日まで、お仕事の目なんですね」
「癖です。景色より先に、床を見てしまう」
少し困ったように言うのが、なんだかおかしくて、私は声を出して笑った。思えば、この家に来てから、私はよく笑うようになっていた。七月の最後の休みには、二人で湊さんのご両親のお墓参りに行った。街外れの小さな霊園だった。藤堂家の墓は、当然のように隅々まで清められていて、湊さんが月に一度は来ているのだと分かった。手を合わせながら、私は胸の中で挨拶をした。「初めまして。珠子と申します。息子さんと夫婦になりました」。帰りには、湊さんは墓石に柄杓で水をかけて、布で丁寧に拭き上げた。その手つきが家の柱を拭く時と同じだったので、ああ、この人の掃除は全部繋がっているのだなと思った。ある晩、私は思い切って、ずっと気になっていたことを聞いた。
「湊さんは、どうして清掃の仕事を選んだんですか?」
湊さんは湯飲みを置いて、少し考えてから答えた。
「親父の仕事だったから」
「お父さんの?」
「親父は小さな清掃会社をやってた。俺は子供の頃から現場について回った。親父はよく言ってた。『掃除は、人を迎える支度だ』と」
掃除は、人を迎える支度。その言葉は、すとんと私の胸に落ちた。学校も店も旅館も、朝一番にそこを整える人間がいるから、人は気持ちよく一日を始められる。人が気持ちよく過ごせる場所を、誰よりも先に整える仕事。親父はそう言って、誇りを持っていた。
「素敵なお父さんですね」
「親父が死んでもう十四年になります。母はもっと前に、俺が中学の時に病気で。だから俺には、親父の残したこの仕事だけだった」
彼はそれだけ言うと、湯飲みの茶を飲み干した。それ以上は聞くなという合図のようにも、「これだけは聞いて欲しかった」という告白のようにも思えた。
「あの、湊さん。私、思うんです。梅ノ井の裏で働いてみて、湊さんのお父さんの言葉は本当だなって。だから、その」
うまく言えなくて、私はもたついた。それでも、言った。
「清掃員の奥さんになれたこと、私、恥ずかしいなんて思ってません」
湊さんは私の顔をじっと見た。長い沈黙だった。やがて、彼はふいっと目をそらして、ぼそりと言った。
「じゃあ、もう一杯もらいますか?」
耳が少し赤かった。
夏の終わりに、それは起きた。きっかけは備品の在庫調べだった。芝野さんに頼まれて、私は裏の備品倉庫の帳簿付けを引き受けていた。座布団、器、消耗品。数を数えて台帳と突き合わせる。経理仕事を十二年やった人間には朝飯前の仕事だ。ところが、数字が合わなかった。台帳の上では、この三年で座敷の座布団は全部で六十枚補充され、廊下の照明は二十台取り替えられ、厨房の排水は二回も修繕されたことになっている。けれど、現物の座布団はどう数えても古いものばかりだった。照明は切れかけのまま。排水に至っては、あの黒ずんだ床が何よりの証拠だ。表の上だけ、治っている。背筋が冷たくなった。最初は自分の目を疑った。経理の仕事で覚えたのは、数字を疑う前にまず自分を疑うことだ。数え間違い、台帳の見落とし、写し間違い。考えられる自分の失敗を一つずつ潰して、それでも数字は合わなかった。き江えさんにそれとなく聞いてみた。
「き江えさん、廊下の照明って、最近取り替えました?」
「取り替えるもんかね。あの電球、私が何度も支配人に言って、その度に握りつぶされてきたんだ。何年前からある玉か、数えたくもないよ」
辰さんにも聞いた。
「排水の修繕?冗談だろう。ここ何年も、業者が床下に入ったことなんて、一度もねえよ」
つまり、そういうことだった。修繕したことにして、その金を誰かが抜いている。私は震える手で帳簿の写しを取ったけれど、そこから先をどうすればいいのか分からなかった。相手は支配人だ。これが証拠と言えるほどのものだろうか。私の数え間違いだったら。騒ぎ立てて、店の看板に傷がついたら。その夜、居間で湊さんに写しを見せた。湊さんは一枚ずつ、時間をかけて目を通した。読み終えると、静かに言った。
「よく気づきましたね」
「合ってますか?私の見立て」
「合ってます。実はうちの会社でも、半年前から調べていました。現場の清掃記録と店の修繕記録が、どうしても噛み合わなかったので」
彼は自分の鞄から、分厚い資料の束を出した。夜ごと開いていたあの書類だった。日付ごとの現場写真。床下の点検記録。修繕業者への聞き取り。発注書の控え。この人は、あの静かな顔の下で、半年もかけて足元を固めていたのだ。
「ただ、うちは出入りの業者です。業者が支配人を告発すれば、店を割る話になる。動くなら、店の中の人間が気づいてくれるのが一番良かった。珠子さんの帳簿で、ようやく全部繋がりました」
辰さんに確かめてもらってからの数日は、芝野さんにどう伝えるかで迷う日々だった。確信はある。けれど、私が声をあげたことで裏の誰かが割を食ったら。支配人が逆上して、みっちゃんたちに当たり散らしたら。考えれば考えるほど、口が重くなった。声を上げない言い訳の在庫は、三十年分ある。けれど、あの床で誰かが本当に大怪我をしてからでは遅いのだ。芝野さんに知らせる前の晩、私は眠れなかった。帳簿の写しは、芝野さんの七年を裏切っていた男の証拠だ。これを見せれば、芝野さんは傷つく。見せなければ、店の裏はこのまま腐っていく。蛍光灯の明かりの下で資料を何度もめくる私に、湊さんは一言だけ言った。
「大丈夫。女将さんは、思っているより強い人です」
芝野さんには翌日、湊さんと二人で全てを伝えた。芝野さんは長いこと写しを見つめて、「分かりました」とだけ言った。
数日後、梅ノ井の書院の奥の部屋に、芝野さんが湊さんと私、それに支配人を呼んだ。テーブルの上に、帳簿と資料の束が乗せられた。芝野さんと湊さんが、証拠の資料を一枚ずつ目の前に置いていった。座布団六十枚の発注書と、古びた座布団の写真。修繕記録と、「業者は受けていない」という聞き取り。三年で抜かれた金は、八百万円を超えていた。支配人は最初、苦笑していた。
「何かの間違いでしょう。大体、掃除屋と素人の奥さんの調べたことなど」
「支配人」
芝野さんの声は静かだった。
「私はあなたに、店の数字を任せてきました。あなたが無駄を削ってくれると信じたからです。でも、あなたが削っていたのは、無駄ではなかった。床を直すお金、道具を変えるお金、若い子を育てる手間。この店の裏側、そのものだった。梅ノ井の看板は、座敷の飾りじゃありません。裏で働いてくれる人たちの上に乗っているんです。あなたは、その人たちを『身の程知れ』と呼んだ」
支配人の顔から、順番に色が抜けていった。言い訳はいくつか続いた。「預かっていただけだ」「いずれ戻すつもりだった」。支配人が観念したのは、湊さんが最後の一枚を置いた時だった。座布団六十枚の発注先として記された会社の登録の写し。代表者の欄には、支配人の義弟の名前があった。
「まさか、そんな。最初は立て替えのつもりだったんだ」
支配人はそう繰り返した。人は、自分への言い訳から先に錆びていくのかもしれない。芝野さんは最後まで声を荒げなかった。それが却って、あの部屋を静かで重いものにしていた。芝野さんは警察に行くことをしなかった。抜いた金を返すこと。二度と店に関わらないこと。それだけを約束させて、支配人は梅ノ井を去った。ダンボール箱一つを抱えて通用口を出ていく支配人と、廊下ですれ違った。彼は私をちらりと見て、吐き捨てるように言った。
「高が掃除の分際で」
最後まで、この人はそれしか言えないのだ。哀れだとは思ったけれど、辰さんやみっちゃんの日々を思えば、掛ける言葉は持ち合わせていなかった。警察沙汰にしないという芝野さんの決着は甘いのではないかと、正直思った。けれど、帰り際、芝野さんは私にこう言ったのだ。
「あの人を裁くことに時間を使うより、傷んだ裏を直すことに使いたいんです。うちには、もう時間がありませんから」
その日の夕暮れ、芝野さんは裏の廊下に従業員を集めて、深々と頭を下げた。
「長い間、皆さんに不自由をさせていたこと、女将としてお詫びします。気づいてくださったのは、藤堂の奥様です」
みんなの目が一斉に私に集まった。みっちゃんが泣きそうな顔で笑っていた。き江えさんがモップを持ったまま、袖で目元を拭った。
「私はただ、数を数えただけです。おかしいって最初に言い続けていたのは、き江えさんと辰さんです。私はそれを、台帳の上で確かめただけで」
うまく言えなくて下を向いた。芝野さんの手が、私の手を包んだ。
「奥様が気づいてくださらなければ、この店は見た目だけの店になるところでした」
その晩、閉店後の梅ノ井の裏で、ささやかな祝いの席が持たれた。と言っても、辰さんの作った賄いと、芝野さんの出した日本酒が少しばかり。それでも、裏の休憩室に集まったみんなの顔は明るかった。
「奥さん、あんた、ようやったよ。わしらが一年言い続けて動かなかったもんを、あんたは台帳一冊で動かした」
「本当だよ。ねえ、これで床も治るんだろ。電球も変わるんだろ」
みっちゃんは湯飲みを両手で持ったまま、ぽつりと言った。
「私、もう怒られないんですね」
その一言に、休憩室が少しだけ静かになった。十九歳の子が、当たり前のことをそんな風に確かめなければならなかったのだ。芝野さんが、みっちゃんの背中をそっと撫でた。
祝いの席がお開きになった帰り道。夏の夜の川沿いを、私は湊さんと並んで歩いた。
「終わったんですね。これで梅ノ井、良くなりますね」
湊さんは少しの間黙って歩いた。それから、前を向いたまま言った。
「いや、本当に大変なのは、ここからです」
「え?」
「支配人が抜いていたのは、金だけじゃない。この店の時間です。直されるはずだった三年分の痛みが、裏に丸ごと残ってる。それを直す金は、もう店にはない」
夜の川が、街明かりを揺らしながら黒く流れていた。
「湊さん、私にも、何かできることはありますか?」
「もうしてます」
「え?」
「裏のみんなが、珠子さんが来てから、よく笑うようになった。人は、笑える場所のためなら踏ん張る。それは金では買えない支えです」
夫は前を向いたまま、そんなことを言うのだった。口下手なくせに、時々こうして不意打ちで人の胸を打つ人だと思う。
湊さんの言葉は当たった。支配人が消えて梅ノ井の裏が明るくなったのは、ほんの半月ほどのことだった。八月の半ばを過ぎた頃から、店には目に見えて暗い影が差し始めた。まず、お金の問題が牙を向いた。業者を入れて調べ直すと、痛みは思ったよりずっと深かった。厨房の床下の排水は全部やり替え。裏廊下は土台から補修。電気の配線も古く、放っておけば火事の恐れさえあるという。見積もりは、軽く二千万円を超えた。支配人が返すと約束した金は、分割の一回目が届いたきりだった。銀行は「梅ノ井」の看板には頭を下げても、帳簿の数字には首を縦に振らなかった。穴の開いた台帳は、それほどに重い。
追い打ちをかけたのは、悪い噂だった。同業の店や出入りの業者の間に、噂が流れ始めた。出所は、どうやら支配人らしかった。あの人は、黙って去るような男ではなかったのだ。
「梅ノ井は内輪揉めで番頭を追い出した」
「あそこは、支払いが危ない」
「女将は、素人の若い夫婦に店を乗っ取られている」
噂に尾ひれがつくのは早かった。秋の宴会の予約が、一つ、また一つとキャンセルになった。長年の仕入れ先が、「現金払いでなければ」と言い出した。裏の空気も、日に日に重くなった。給金の支払いが遅れることはなかったけれど、みんな数字の話がどこからか耳に入るのだ。休憩室の会話が減った。き江えさんは黙って洗剤を薄めて使うようになり、辰さんは仕入れ帳の前で腕を組む時間が長くなった。ある日の休憩時間、みっちゃんが思い詰めた顔で私のところに来た。
「奥さん。あの、変なこと聞いていいですか?お店、なくなっちゃうんですか?」
「どうして、そう思うの?」
「予約のキャンセルの電話、私も何本か受けて。それに、他のお店の人が言ってたって。梅ノ井はもう危ないって。私、お店がなくなったら困るんです。お母さんの入院費、まだ残ってて。でも、こんな時にお給料の心配してる自分も、なんか嫌で」
彼女はそこで、いつもの癖で「えへっ」と笑おうとした。笑えていなかった。
「大丈夫。まだ、何も決まってないよ」
そう答えるのが精一杯だった。大丈夫な根拠を、私は一つも持っていなかった。みっちゃんのお母さんの退院が決まったのは、そんな最中だった。本当ならみんなで祝いたい知らせなのに、みっちゃんは喜びを半分に折り畳むようにして報告してくれた。店の空気を読んだのだ。十九歳の子にそんな風に気を使わせてしまうことが、私にはたまらなかった。湊さんの会社も、無関係ではいられなかった。支配人が流したらしい噂の中には、「藤堂メンテナンスが梅ノ井を乗っ取ろうとしている」という筋書きまであった。出入りの若い清掃員さんが、よその現場で嫌味を言われたと肩を落としているのを、梅ノ井の裏で見かけたこともある。それでも、梅ノ井の毎日の清掃は、質がまるで落ちなかった。
「こういう時こそ、お客さんは床を見ます。噂は拭けないが、床は拭ける。俺たちにできるのは、それだけなので」
藤堂の清掃員さんたちは、その言葉通り、いつもと同じ時間に来て、いつもと同じように磨いて帰った。世の中が何と言おうと、梅ノ井の廊下だけは、毎朝きちんと光っていた。
九月の初めの夕方、私は書院の奥で、芝野さんが電話に頭を下げ続けるのを見た。受話器を置いた芝野さんの背中は、一回り小さく見えた。
「三十年のお付き合いのお茶屋さんでした。うちは、もうそういう風に見られているんですね」
「女将さん」
「奥様、少し聞いていただけますか?」
芝野さんは書院の縁側の前に私を座らせて、静かに話し始めた。
「前にお話ししましたね。この店は、今年の秋で創業百年。その十月に百年の宴を開くのが、亡くなった主人との約束でした。主人は七年前に亡くなりました。それからの七年、私は必死で梅ノ井の看板を守ってきたつもりでした。でも、守っていたのは看板の表側だけだった。裏で働くみんなの床が抜けかけていることにも、支配人がしていたことにも、気づかなかった」
芝野さんは、縁側の淵を細い指で撫でた。
「奥様、私、決めたんです。十月の百年の宴を最後にしようと思います」
「最後って」
「この店を、いえ、言い直しますね。梅ノ井の暖簾を下ろします。百年の区切りまで守れたなら、主人も許してくれるでしょう」
私は言葉が出なかった。この店がなくなる。みっちゃんの働き口が。き江えさんの三十年が。辰さんの腕が。あの磨き込まれた廊下が、全部なくなる。
「そんなの、駄目です」
気づいたら、声が出ていた。
「だって、みんな、これからだって。床を直して、道具を変えて、それでやり直そうって、みんな」
「直すお金が、ないんですよ」
芝野さんの声は、攻めるようなものではなかった。ただ、疲れきっていた。
「奥様と弟さんには感謝しています。船を出してもらった。でもね、船を出したら、体力の残っていない体だったんです。これ以上続けて、私の遅れで皆さんに迷惑をかける前に、綺麗なうちに畳む。それが女将の最後の仕事だと思うんです」
書院を出る前に、私は一度だけ振り返って聞いてしまった。
「女将さん。従業員のみんなには、いつ?」
「百年の宴が終わったら、私の口から話します。それまでは、どうか」
芝野さんはそこで初めて、声をつまらせた。
「それまでは、みんなに、いつもの顔で働かせてやってください。あの子たちの仕事をしている顔は、この店の一番の宝物ですから」
その帰り道、私は一人で川沿いを歩いた。夏の終わりの川風が、妙に冷たかった。悔しかった。そして、悔しがっている自分に戸惑ってもいた。高々二ヶ月余り、裏を手伝っただけの私が、何を言えるだろう。お金を出せるわけでもない。経営が分かるわけでもない。元々、私は身代わりで嫁に来ただけの、何者でもない女だ。「出しゃばるな」「身の程を知れ」。支配人の言葉と、母の声が頭の中で重なって響いた。「あんたは、黙って言われたことだけやってればいいのよ」。橋の上で立ち止まって、暗い川を見下ろした。思い出していたのは、初めて梅ノ井に行った夜のことだ。「間違いだ」と思いながら食べたあの温かい膳。あの夜から、まだ三ヶ月も経っていない。それなのに、あの店の裏で働く人たちの顔が、今はもう家族のそれのように浮かんでくる。そして、気づいた。私はこの短い間に、生まれて初めて「失いたくないもの」を持ってしまったのだ。失いたくないと思うから、怖い。怖いから、「自分なんかに」と言い訳して引っ込もうとする。三十年かけて染みついた癖は、そう簡単には抜けてくれない。家に帰ると、湊さんはまだ現場から戻っていなかった。私は暗い台所に立って、夕飯の支度をしながらぼんやり考え続けた。ぐつぐつと湯の沸く音の向こうで、みっちゃんの顔と、き江えさんの手と、頭を下げる芝野さんの背中が、ぐるぐる回っていた。そして、もう一つ。どうしてだか、湊さんのお父さんのあの言葉が、何度も戻ってきた。「掃除は、人を迎える支度」。
夜の九時過ぎに帰ってきた湊さんに、私は芝野さんの話を伝えた。梅ノ井が百年の宴を最後に暖簾を下ろすつもりだということを、湊さんは上着も脱がずに、しばらく黙って立っていた。その顔を見て、私は気づいた。この人は、驚いていない。
「湊さん、知ってたんですか?」
「覚悟はしていました。数字を見れば分かることなので」
「それで、いいんですか?湊さんの会社が任されてきた店なんでしょ?あの床を一日も欠かさず磨いてきたんでしょ?それが全部なくなって、それでいいんですか?」
自分でも驚くほど強い声が出た。湊さんに向かって声を張るのは、初めてのことだった。湊さんは静かに私を見ていた。それから、何かを心に決めたように背筋を正した。
「珠子さん。近いうちに、見てもらいたいものがあります。梅ノ井の蔵にあるものです。先代の旦那さんが残したものが、眠っているはずです。女将さんも、まだ開ける決心がつかないでいるようなので」
廃業の話は、結局、宴を待たずに芝野さんの口からみんなに伝えられた。隠しきれる話ではないと、芝野さんが心を決めたのだ。裏に流れる空気は重くなった。それでも、誰一人、店を悪く言う人はいなかった。
そんな中、九月の半ばの定休日に、梅ノ井の蔵開きは行われた。言い出したのは、湊さんだった。
「店を閉めるにしても続けるにしても、蔵の道具の棚卸しはいる」
そう女将さんを説得して、芝野さんと辰さんとき江えさんとみっちゃん、それに私と湊さんの六人で、朝から蔵に入った。蔵開きの朝の芝野さんは、口数が少なかった。蔵には先代の思い出が詰まっている。一つ開ければ、一つ思い出す。それが怖かったのだろうと思う。それでも、鍵を回す手は止まらなかった。蔵の中は、百年分の時間の匂いがした。祝いの席の膳、漆の器の箱。代々の主人の写真。き江えさんは手ぬぐいを頭にかぶって、誰よりも張り切っていた。
「ここの掃除はね、先代がいた頃は、年に二回、みんなでやってたんだよ。宴会みたいで、楽しかったんだ」
午前中だけで、蔵からはいろんなものが出てきた。先代と芝野さんの若い頃の写真も出てきた。改装前の玄関で、二人並んで映っている。まだ三十代だろうか。芝野さんは写真を手に取って、ふふふっと娘のように笑った。
「嫌だわ、こんなもの。この頃の主人は、そりゃあ頑固でね。喧嘩ばかりしていたんですよ」
古い行燈も一箱出てきた。創業五十周年の宴で使ったものだと、芝野さんが言った。
「これ、百年の宴でも使えませんか?直したら、絶対綺麗ですよ」
みっちゃんの言葉に、芝野さんは少しだけ黙って、それから「そうね」と目を細めた。閉める店の宴の話のはずなのに、誰もそのことを口にしなかった。蔵の掃除に精を出していたき江えさんが、昼過ぎに奥の棚から古い木箱を抱えて降りてきた。
「女将さん。これ、先代の」
箱の中には、布に包まれた分厚い帳面が何冊も重ねてあった。表紙には、達筆な筆文字で「裏方覚え」とある。芝野さんが、震える手で一冊目を開いた。それは、先代の旦那さんが四十年にわたってつけてきた、裏方の記録だった。この座敷の畳を何年に替えたか、厨房の床を何年に直したか。仲居が何につまずき、どこの電球が切れやすいか。従業員の誰がいつ産気づき、いつ親を見取ったか。寸志と一緒に渡した見舞いの品まで、細かい字でびっしりと書き込まれていた。そして、最初の一冊の見返しに、大きい字でこう記されていた。
「店は表から古びるのではない。裏から古びる。裏を守るのが、主人の仕事」
芝野さんは帳面を膝に置いたまま、長いこと動かなかった。
「この人は、ずっと、これを。私は、この七年、お客様に見える場所ばかり守ってきました。畳の表替えも、庭の手入れも、お茶の器も。それが梅ノ井の看板を守ることだと思っていた。間違いだったんですね。この人が守っていたのは、裏だったのに」
芝野さんの目から、涙が一つ、帳面の上に落ちた。この人が人前で泣くのを、私は初めて見た。帳面をめくっていた湊さんが、あるページで手を止めた。そして、そっと芝野さんの前に差し出した。そこには、こうあった。
「藤堂正義という男の店に、裏の掃除を頼むことにした。あの人は床を拭く前に、必ず床に手を当てる。傷んでいる場所を、叱らずに探す人だ。ああいう人にだけ、梅ノ井の裏を触らせたい」
「藤堂正義。俺の親父です」
湊さんは帳面の字を見つめたまま言った。
「親父の会社が梅ノ井に入ったのは、俺が子供の頃です。俺も何度か現場についてきました。先代の旦那さんは、掃除の子供の俺にまで、飯を食わせてくれる人だった」
き江えさんが、あっと声をあげた。
「あんた、まさか、あの時の坊や?正義さんが、いつも連れてた」
「ちっちゃい頃に、ごぶさたしてます。俺、雑巾の絞り方を、き江えさんの手で覚えました」
き江えさんは口を手で覆った。
「私はね、『正さん、正さん』って呼んでたからね。あの頃は会社の名前も今とは違ったし、『藤堂』って名字だってことすら、今の今まで頭になかったよ。通りで、あんたの床の拭き方、正さんそっくりだと思ってたんだ」
それから、き江えさんはくしゃくしゃの顔で笑った。三十年の時間が、蔵の中で一つの輪になって繋がった瞬間だった。帳面には、裏方一人一人のことも書いてあった。芝野さんがページをめくるうち、き江えさんの名前が出てきた。二十年以上前の日付だった。
「き江えさんの腰の具合、思わしくない様子。柄の長いモップに変えたが、まだ足りない。冬の水仕事用に、湯の出る蛇口を、裏にもつけること」
辰さんはその一節を芝野さんの肩越しに覗き込んだ。そして、何も言わずに蔵の外へ出ていった。しばらくして戻ってきた時、目の縁が赤かった。
「馬鹿だね。全く。二十年も前から、私の腰の心配なんかしてさ」
それきり、辰さんはまた黙って手を動かし始めた。あの人の三十年に、この店が何も返していないと、いつか私は思った。違った。先代は返そうとしていた。その帳面ごと、時間が蔵の中で止まっていただけだった。みっちゃんのページはなかった。先代が亡くなってからの帳面は白紙のはずだった。ところが、最後の一冊の巻末に、先代の字で書き足されていた。
「この帳面を継ぐ者へ。裏方の名を、一人も書き漏らすな。名を知らない相手を、人は大事にできない」
芝野さんはそのページを声に出して二回読んだ。それから、そっと帳面を閉じていった。
「宿題を、もらってしまいましたね」
辰さんも、帳面の中に自分を見つけた。三十年前の日付のページだった。
「新しい板前の辰。腕はいいが、目つきが荒れている。前の店で、随分辛い目にあったらしい。うちの板場は、怒らない板場にすると約束した」
辰さんは太い眉をぴくりとも動かさずに、それを読み終えると、ふんと鼻を鳴らした。
「口の硬い人だと思ってたが、全部、書いてやがった」
そう言って、窓の外を向いた背中が、少しの間、震えていた。怒らない板場。そういえば、この人が若い衆を叱るのを、私は一度も見たことがなかった。約束は、三十年間、守られ続けていたのだ。その日の蔵開きは、棚卸しどころではなくなった。帳面を囲んで、先代の話に花が咲いた。辰さんは修行時代に先代へ叱られた話を語った。みっちゃんは、入って三日目にやめようとして、芝野さんの出してくれた夜食のうどんで思いとどまった話をした。
「だから私、この店が好きなんです。閉めるなんて、嫌だ。嫌だよ。女将さん」
とうとうこらえきれずにみっちゃんが泣き出して、蔵の中は笑い泣きのような空気になった。その空気の中で、湊さんがすっと膝を揃えて、芝野さんの前に座った。
「女将さん。改めて、お願いがあります。梅ノ井の修繕と再建を、うちの会社に任せてくれませんか?」
芝野さんは静かに首を横に振った。
「ありがたいです。でもね、藤堂さん。二千万ですよ。お宅の会社に被ってもらって、返せる算段なんて、ありはしません」
湊さんの声は、いつもと同じ静かな声だったけれど、その奥に何か硬いものがあった。
「費用は、店が立ち直ってから、十年かけて返してもらいます。それで十分に引き合う仕事です。それに」
湊さんは先代の帳面に目を落とした。
「先代との約束なので」
約束。その言葉の意味を、彼はその場では言わなかった。芝野さんだけが、何かに気づいたように、じっと湊さんの顔を見ていた。
「藤堂さん。あなた、まさか」
「その話は後で。それより女将さん、返事を聞かせてください。百年の宴を、見納めの宴にするか。出直しの宴にするか」
芝野さんは、膝の上の帳面を両手でぎゅっと握った。「裏を守るのが、主人の仕事」。その一文をもう一度指でなぞってから、芝野さんは顔を上げた。女将の顔になっていた。
「出直します。梅ノ井。もう一度、裏から」
蔵の中に、わっと歓声が上がった。けれど、私は喜びの輪の少し外で、一人だけ胸の中に引っかかりを抱えていた。費用は十年かけて。それで引き合う。先代との約束。清掃員の湊さんに、どうしてそんな約束ができるのだろう。あの夜、料亭に電話一本で座敷を用意させたこと。支配人が湊さんに見せた怯えた目。芝野さんの「やっぱり」という言葉。そして、悪い噂の中に出てきた、湊さんと同じ「藤堂」の名を掲げた清掃会社のこと。バラバラだった違和感が、一つの形になろうとしていた。
その夜、家に帰ってからも私は落ち着かなかった。夕飯の後、湯飲みを両手で包んだまま、向かいの湊さんをちらりと見た。彼は彼で、いつになく口が重かった。何かを言い出そうとしてやめる。その気配が、何度もあった。先に口を開いたのは、私だった。
「湊さん。聞いても、いいですか?」
「はい」
「湊さんは、何者なんですか?」
笑いながら、変な聞き方だった。けれど、それしか言いようがなかった。
「結婚した日、電話一本であの梅ノ井がお座敷を用意してくれました。支配人は、湊さんに明らかに怯えていました。二千万の工事を十年待つからって、その場で引き受けられる清掃員なんていません。教えてください。私は、誰と結婚したんですか?」
湊さんは湯飲みを置いた。それから、背筋を正して、まっすぐ私を見た。
「藤堂メンテナンスは、俺の会社です。親父が起こした、従業員六人の小さな清掃会社でした。親父が死んで、二十二の俺が継ぎました。それから十四年で、今は全国のホテルと商業施設、旅館や料亭の清掃と施設管理を請け負っています。従業員は、パートさんも入れて八百人。俺は、そこの代表です」
代表。言葉の意味が頭に染み込むまで、時間がかかった。目の前にいるのは、朝五時に起きて庭を掃き、作業着で現場に出て、膝をついて床に手を当てる、私の夫だ。その人が、八百人の会社の社長。
「どうして、清掃員だって?」
「嘘は言っていません。俺は今も、週の半分は現場に立ちます。環境を知らない経営者になりたくないので。床の痛み方は、書類の上からでは見えません。だから、俺の職業は清掃員です。それは本当です。ただ」
彼はそこで初めて、目を伏せた。
「会社のことを黙っていたのは、わざとです。すみませんでした」
「どうして?」
「怖かったんです」
意外な言葉だった。この人の口から「怖い」という言葉が出るとは、思わなかった。
「縁談の時、そちらのお母さんと妹さんは、『清掃員』と分かった途端に手のひらを返したと聞きました。世間では、よくあることです。俺は慣れています。でも、もし会社の話を先にしていたら、今度は『社長』という肩書きに、手のひらが変わる。俺はまた、どっちが本当か分からなくなる。珠子さんには、清掃員の藤堂湊として会いたかった。それで嫌なら、それまでの縁だと思っていました。試したわけじゃない。ただ、俺が臆病だっただけです。黙っていて、本当にすみませんでした」
彼は畳に手をついて、頭を下げた。私は慌てて、その手を抑えた。
「やめてください。怒ってなんか、いません。ただ、びっくりして」
それに、分からないことだらけで、聞きたいことが次から次へと湧いてきた。
「あの日のメモは?どうして、結婚した初日に、私を梅ノ井へ?」
「あれは」
彼は少し言い淀んでから、観念したように話し始めた。
「珠子さんに贅沢をさせたかったわけじゃないんです。あの日、珠子さんは言った。『晩御飯は牛丼で済ませますね』と。『済ませる』という言い方に、俺は引っかかった。嫁いできたその日の夜に、自分の食事を『済ませる』ものだと思っている。この人は、今まで自分をずっと後回しにして生きてきた人なんだと思いました。だから、ちゃんと食べて欲しかった。誰かが珠子さんのためだけに整えた膳を、一度でいいから食べて欲しかった。それだけです」
喉の奥が、きゅっと詰まった。牛丼が悪いわけではない。そうではなくて、この人はあの短いやり取りの中で、私の三十年を見抜いたのだ。褒められる係と、教授をやる係。後回しにされ続けて、「後回しにされること」に慣れきった私の三十年を。
「そうしたら」
彼の目元が、ふっと緩んだ。
「初めての料亭で、料理より先に床の汚れと泣いている仲居さんに気づいた。女将さんから電話で聞いた時、俺は『やっぱり』と思いました」
「やっぱり?」
「顔合わせの日です。覚えていますか?店の子がお盆を落とした。忘れるはずがない。『みっともない』と袖を引かれたあの日です。あの席で、真っ先に膝をついたのは珠子さんだけだった。破片より先に、店の子の手の心配をした。妹さんの隣で、誰にも褒められない席で、それでも体が勝手に動く人だった。俺はあの日、お見合いの相手じゃなく、末の席のあなたばかり見ていました。だから、妹さんが入籍の前に逃げて、お父さんが身代わりの話を持ってきた時、俺は迷いませんでした。『珠子さんさえよければ』と、本心から言ったんです。代わりなんかじゃない。俺にとっては、棚からぼた餅です。あなたの方が、先だった」
私は何も言えなかった。言えないまま、ぽろりと涙がこぼれた。一つこぼれたら、後はもう止まらなかった。「みっともない」と言われたあの日の私を、見ていてくれた人がいた。誰にも気づかれないと思ってやってきた私の全部を、この人は最初から見ていてくれたのだ。湊さんは慌てたように腰を浮かせ、それから洗いざらしのハンカチを差し出した。アイロンのかかったハンカチだった。この人らしいと思ったら、泣きながら少し笑ってしまった。
「湊さん。もう一つだけ。玄関の私の靴、磨いてくれてたの、湊さんですよね?」
「気づいてましたか?」
「気づきますよ。踵の傷まで消えてたら。あれ、なんで?」
「癖なんです。親父がやっていたので。母が生きていた頃、親父は毎晩、母の靴を磨いていました。『靴磨きは、明日のその人を送り出す支度だ』と。珠子さんの靴は、ずっと頑張りすぎた減り方をしていたから」
私はもう、ハンカチから顔を上げられなかった。ひとしきり泣いて、少し落ち着いてから、私はもう一つ、ずっと胸にあった疑問を口にした。
「でも、湊さん。どうして、お見合いなんて。こう言っては何ですけど、湊さんなら、その、お相手はいくらでも」
「いませんよ。仕事ばかりの三十六年です。会社を継いだのが二十二で、そこからはもう無我夢中だった。従業員とその家族の暮らしを背負ってると思うと怖くて。気がついたら、この年でした。大和田会長は、親父の代からの得意先なんです。親父を亡くしてからの俺のことを、ずっと気にかけてくれた人で。今年の正月に『お前もそろそろ、人の飯の心配だけじゃなく、自分の家の飯の心配をしろ』と。断りきれずに受けた縁談でした。正直、気は進まなかった。でも、あの顔合わせの日に、珠子さんがいた」
その夜、湊さんは最後の打ち明け話をした。七年前、先代の旦那さんが亡くなる少し前に、奥の間に呼ばれた話だ。
「先代は、俺の親父の会社が小さかった頃、最初に信じて裏を任せてくれた人です。親父の葬式で、誰よりも長く手を合わせてくれた人でもある。その先代が、最後に俺に言いました。『娘には、店の裏のことは苦労させたくない。梅ノ井の裏を、後で頼む。頼んだよ』と。俺が梅ノ井の現場に自分で入り続けてきたのは、その約束があったからです。支配人の帳簿を半年調べたのも、だから。珠子さん、これは義理でも同情でもない。俺は七年前から、あの店の裏を守る当番なんです」
「最後に、一つだけ。もし私が会社のことを知って、態度を変えていたら、どうするつもりだったんですか?」
「さあ。ただ、少しがっかりしたと思います。それでも、夫婦は続けたと思います。約束したので。『我慢はさせない』と」
「変な人」
「よく言われます。会社の連中にも」
「じゃあ、芝野さんは、湊さんの会社のこと、知ってるんですか?」
「先代から聞いていたはずなので。ただ、俺が珠子さんに黙っているのを察して、合わせてくれていたんだと思います。あの人は、そういう人です」
思い返せば、心当たりはいくつもあった。初めての夜の「奥様」という呼び方。「藤堂さんの奥様なんですね」という、あのしみじみとした声。芝野さんはあの時、全部知っていて、それでも床を拭く私を、ただの「掃除員の妻」として扱わなかった。肩書きの上でも下でもなく、私を「私」として見てくれていたのだ。話が終わると、家の中は時計の音だけになった。
「湊さん。ありがとう。全部、話してくれて。私、明日から呼び方を変えます。世間の人が何と呼んでも、私はあなたを『日本一の清掃員』だと思うことにします」
湊さんは目を丸くした。それから、この日初めて、声を立てて笑った。初めて聞く、夫の笑い声だった。
翌朝、目が覚めると、玄関で音がした。覗くと、湊さんが玄関の上がり框に腰かけて、私の靴を磨いていた。もう隠さなくていいと思ったのだろう。朝の光の中で、布を持つ手が規則正しく動いていた。
「おはようございます。日本一の清掃員さん」
「おはようございます。奥さん」
湊さんは振り向かずに答えた。耳は、やっぱり赤かった。朝ご飯の後、湊さんは初めて会社の話を色々としてくれた。本社は隣の市のビルの三階にあること。総務の年配の女性が、実は誰よりも怖いこと。新入りは必ず一年、現場から始めること。話しながら、彼はスーツではなく、いつもの作業着に袖を通した。
「社長さんって、スーツで会社に行くものじゃないんですか?」
「今日の午前は梅ノ井の現場なので。午後は本社だから、スーツは車に積んであります」
「忙しいんですね、日本一の清掃員さんは」
そう言うと、湊さんはまんざらでもない顔で、弁当箱を鞄にしまった。その顔が見たくて、私はこの呼び名を、それからも折に触れて使うことにしている。
そこからの一ヶ月は、嵐のようだった。藤堂メンテナンスの改修班が入り、梅ノ井の裏は工事の音に包まれた。厨房の床下が開けられ、新しい排水管が通り、裏廊下の土台が組み直された。古い配線は引き直され、電球という電球が取り替えられ、従業員のお手洗いと休憩室は驚くほど明るくなった。き江えさんには、ぴかぴかの道具一式が届いた。軽いモップ。腰をかがめずに絞れるバケツ。き江えさんはそれを撫で回して、憎まれ口を叩いた。
「三十年目にして、私もようやく出世したよ」
お金のことも、動いた。見積もりの一件を包み隠さず記した芝野さんの手紙が、昔からの常連さんたちに届けられると、返事は意外なものだった。百年の宴の席が、逆に埋まり始めたのだ。「痛んだから閉めるでは、名残が悪い」という人。「出直すというなら、初日の客になってやろうじゃないか」という人。悪い噂は、本当の話の前では、思ったより早くしぼんでいった。そして、十月の半ば。宴を翌日に控えた夜、店を閉めた後、みんなで最後の磨き上げをした。辰さんの厨房の周りも、みっちゃんたち仲居も、き江えさんも、藤堂メンテナンスの若い衆も、雑巾を持って廊下に並んだ。芝野さんも、私も。湊さんが、床に手を当てて、みんなに言った。
「明日、この百年の歴史を持つ廊下を、お客さんが歩きます。掃除は、人を迎える支度です。今夜のこれは、そのための一番大事な仕事です」
献立は、辰さんが一ヶ月かけて考え抜いた。椀に据えたのは、先代が好きだった鱧。香り高い松茸の土瓶蒸しだという。
「先代に食わせるつもりで作る。文句の付けようのない椀にしねえと、あの世で笑われちまう」
行燈は、蔵から出た創業五十年のものを、職人さんに直してもらった。門から玄関までの石畳に、一つずつ火が入った。みっちゃんの思いつきが、そのまま宴の顔になった。
百年の宴は、秋晴れの夕方に始まった。門から玄関までの石畳に、打ち水が光った。座敷という座敷に行燈の火が入り、常連さんたちが次々とのれんをくぐる。みっちゃんはこの日、初めて一番大きなお座敷の膳を任された。震えるほど緊張していたのに、お盆を持つ姿勢は誰よりも綺麗だった。私はその日、裏方に回っていた。芝野さんには表の席を勧められたけれど、私が断ったのだ。この宴は、裏で迎えたかった。配膳室でみっちゃんの盆に椀を乗せ、廊下の要所で足元を確かめ、休憩室で茶を配る。裏方の一員としての、私なりの務めのつもりだった。配膳室の小窓から、大広間の明かりが見えた。百年分の、宴の明かりだ。この明かりを、百年間、誰かがこうして裏から支えてきた。そう思うと、忙しさまでが愛おしかった。宴も半ばを過ぎた頃、私は配膳の手が空いて、廊下の影から大広間の様子を覗いていた。芝野さんが大広間の前に立ち、静かに一礼した。
「本日は、梅ノ井百年の宴に、ようこそお運びくださいました。この夏、当店は皆様の信頼を裏切りかねない出来事を起こしました。長い年月、店の裏側を粗末にしてきたのは、番頭一人の罪ではございません。表ばかりを守って、裏を見ようとしなかった、女将の私の罪でございます。その私に、亡くなった主人が帳面を残しておいてくれました。『店は表から古びるのではない。裏から古びる。裏を守るのが、主人の仕事』と。ですから、本日は皆様に、うちの一番の自慢をご覧に入れたいと存じます」
芝野さんが手を打つと、大広間の襖が開いた。そこに並んだのは、料理ではなかった。白い割烹着の辰さんと、紋付きの仲居のみっちゃんたち。作業着のき江えさんと、藤堂メンテナンスの面々。梅ノ井の裏方の、全員だった。
「この者たちが、梅ノ井でございます」
一瞬の静けさの後、大広間に割れるような拍手が起きた。き江えさんは作業着の袖で、ごしごしと目をこすっていた。三十年、床を磨いてきた人が、初めてお客さんの前で頭を下げた瞬間だった。その拍手の余韻の中でのことだ。玄関の方から、間違いなく高い声が聞こえてきた。
「ちょっと、あんた。私は身内なんだってば」
血の気が引いた。聞き間違えるはずのない声だった。玄関に出ると、そこに母とリカが立っていた。よそ行きのワンピースを着て、宴会場へ押し入ろうとして、若い衆に止められているところだった。後ろに、蒼白な顔の父もいた。
「珠子、あんた、何て格好してるの?」
私はその日、割烹着で裏方に立っていた。母は私を上から下まで眺めて、それから、騒ぎを聞きつけて私の隣に立っていた湊さんを見た。途端に、猫なで声のような笑顔になった。
「まあまあ、藤堂さん。ごぶさたしております。この度は、うちの珠子がお世話になって」
湊さんは静かに言った。
「お久しぶりです」
リカは上目遣いに湊さんを見た。
「あのね、私、知っちゃったんです。湊さんの会社のこと。大和田の会長さんがお父さんに話したのを、聞いちゃって。今夜のお祝いのことも。ひどいな。清掃員だなんて言うから、私」
「そうなんですよ。この子ったら、騙されたって、泣いて泣いてねえ。藤堂さん、一度、話し合いの場を持ちませんこと?ほら、元々この縁談は、リカとの話だったわけですし。珠子は、こう言っては何ですけど、地味なだけで取り柄のない子で。藤堂さんほどの方と釣り合うとは」
とうとうリカもはっきりと言った。
「やっぱり私が結婚するはずだったのに」
宴の夜でなければ、笑ってしまったかもしれない。それくらい、凄まじいほどの手のひら返しだった。湊さんは黙って二人の話を聞いていた。そして、話が途切れるのを待って、静かに口を開いた。
「奥さん、リカさん。一つだけ、お伝えします。肩書きで人を見下す人に、私の仕事は理解できません」
母とリカの顔が、固まった。
「あなた方は、『清掃員の藤堂に娘はやれない』と言い、会社の名前を聞いた途端に、娘を取り替えろという。私の仕事は掃除です。昨日も、今日も、明日も、変わりません。あなた方が見下したその仕事が、私の全部です」
そして、湊さんは、私の背中にそっと手を当てた。
「その仕事の一番の理解者が、珠子さんです。この人は私の妻で、梅ノ井の裏を支える人で、代わりの利く人ではありません。誰の代わりでもない。お引き取りください」
母はまだ何か言おうと、口を開いた。その時、私の口から言葉が出た。三十年間、一度も出たことのなかった言葉だ。
「お母さん。リカ。帰って」
「な、珠子!あんた、親に向かって!」
「私は、もう、誰かの身代わりには戻りません」
声は震えなかった。
「リカの代わりに家の用事をして、リカの代わりにお嫁に来て。でもね、お母さん。私、今、幸せなの。身代わりで始まった結婚だけど、今、ここにいるのは身代わりの私じゃない。戸籍の上の珠子として、ここにいるの。だから、返してって言われても、返すものは何もありません」
母とリカは、しばらく金魚のように口をぱくぱくさせていた。沈黙を破ったのは、意外にも父だった。父は母とリカの前に進み出ると、私と湊さんに向かって、深く、深く頭を下げた。
「珠子。すまなかった。この通りだ。藤堂さん。娘を、よろしくお願いします」
そして、父はなおも食い下がろうとする母とリカの背中を押して、玄関の外へ連れて出て行った。門の向こうで、母の金切り声が遠ざかっていくのを、私は不思議なくらい静かな気持ちで聞いていた。背中に、大広間のざわめきと笑い声が戻ってくる。湊さんが、ぽつりと言った。
「戻りましょう。宴は、これからです」
「はい」
騒ぎの後、大広間に戻った私に、き江えさんがすっと寄ってきて、耳打ちした。
「奥さん、今の、聞こえちゃったよ。玄関まで、雑巾を取りに行くふりして、聞いてた」
「き江えさん、それ、盗み聞きって言うんですよ」
「いいんだよ。それでさ、一つだけ言わせておくれ」
き江えさんは私の手を、節くれだった両手でぎゅっと握った。
「あんたは、誰の身代わりでもないよ。私ら裏の人間はね、人を見る目だけは確かなんだ。あんたは、最初の晩から、私らの側の人だった。それは、生まれつきの上等ってやつだよ」
私は、割烹着の袖で目元を抑えた。今夜は泣くまいと決めていたのに、この人たちは、すぐこれだ。宴は、夜更けまで続いた。帰って行くお客さんたちは、口々に芝野さんへ言った。「いい宴だった」「来年も来る」「梅ノ井は、いい店になったな」と。最後のお客さんを見送った玄関で、芝野さんは夜空を見上げて言った。
「あの人も、今日の梅ノ井を、どこかで見てくれてたでしょうかね」
誰も答えなかった。答えの代わりに、みんなで同じ夜空を見上げた。百年目の秋の空に、月が、綺麗に磨かれたように光っていた。
百年の宴から、数日経った昼下がり。私は芝野さんに呼ばれて、書院の奥の部屋にいた。座布団の前で、芝野さんは改まって座り直した。
「奥様。お願いがあります。また、店に来ていただけませんか?今度は、お手伝いではなくて」
芝野さんが差し出したのは、一枚の書きつけだった。そこには、慣れない硬い言葉で、こう書いてあった。
「梅ノ井、裏方支配役」
「変な役名でしょう?私が考えたんです。支配人という役は、もう置きません。その代わり、裏方の側に立って、裏方のために目を配る役を置きたい。給金の相談も、道具の相談も、人の相談も。裏で働く者が一番に駆け込める場所です。それを、奥様にお願いしたいんです」
「私に、勤まるでしょうか?私、経理の仕事しかしたことがなくて」
「勤まるかどうかで、選んだのではありません。芝野さんはゆっくりと首を振った。「初めてうちに来た夜、お客として通された座敷を立って、床を拭いた人だから、お願いするんです。ああいうことは、教えてできることではありませんからね」
家に帰って、湊さんに書きつけを見せた。彼は一読して、こう言った。
「受けるんでしょう?」
「なんで分かるんですか?」
「顔に書いてます」
それから、湊さんは自分の鞄から一枚の紙を出した。藤堂メンテナンスの社内文書だった。「現場支援室」という新しい部署の設立案。全国の現場で働く清掃員の道具、待遇、困り事を吸い上げる部署だという。
「梅ノ井の一件で決めました。うちの会社も大きくなって、裏の裏が見えなくなりかけていた。八百人の床は、俺一人では手が回らない。仕組みにします」
「それでですね」
「この現場支援室と、梅ノ井の裏方支配役で、時々、知恵を貸してもらえませんか?うちの若い連中に、珠子さんの目を貸してほしい」
「湊さん。今夜は、私に仕事の相談ばかりですね」
「頼りにしてるので」
「私の目なんて、大したものじゃないですよ」
「大したものです。湊さんははっきりと言った。「働く人の困り事は、帳簿にも報告書にも載らない。載らないものに気づくのは、才能です。珠子さんは三十年、家の中で、誰にも気づかれない仕事をやってきた。だから、気づかれない仕事をしている人の顔が見える。それは、俺の会社の誰も持っていない目です」
三十年も、そういう風に言ってもらえる日が来るなんて、思ってもみなかった。あの家で飲み込んできた理不尽の全部が、無駄ではなかったと言われた気がした。夫婦になってもうすぐ四ヶ月。私たちはその夜、初めて「仕事の相棒」にもなった。その夜の夕飯は少し奮発して、すき焼きにした。
「今日は、私たちの門出のお祝いなので」
「門出。いい言葉ですね」
湊さんは卵を溶きながら、真面目な顔で言った。この人は、いい言葉に出会うといちいち立ち止まる。後で手帳に書きつけているのを、私は知っている。私の好きな食べ物が、達筆な字でずらりと書いてあるのも、本当はとっくに知っている。
布団に入る前、縁側でお茶を飲みながら、湊さんが改まった声で言った。
「珠子さん。一つ、言い忘れていたことがあります」
「まだあるんですか?」
「一番大事なやつです」
彼は湯飲みを置いて、こちらに向き直った。
「あの夜、珠子さんは言ってくれました。『清掃員の奥さんになれたこと、恥ずかしいなんて思ってません』と。君は、俺の仕事を一度も恥ずかしいと言わなかった。俺には、それだけで十分だった。ありがとう。俺と、結婚してくれて」
月明かりの縁側で、私は少し泣いて、それからちゃんと答えた。
「私も、ありがとうございます。私ね、湊さん。この家に来て、梅ノ井に通って、初めて分かったことがあるんです。私、ずっと、自分の居場所がありませんでした。実家では、いない人みたいに扱われて。それが当たり前だと思って、三十年、生きてきました。でも、違ったんですね。居場所って、誰かにもらうものじゃなくて、磨くものだったんですね」
「私も、初めて、自分の居場所を整えられた気がします」
湊さんは何も言わなかった。ただ、私の湯飲みに新しいお茶を注いでくれた。それで、十分だった。私たちは、そういう夫婦なのだ。
役目を引き受けたと報告した日、き江えさんは「分かってたよ」という顔で頷き、みっちゃんは飛び上がって喜んでくれた。
「じゃあ奥さん、これから、ずっと『うちの人』ってことですね」
「うちの人」。いい言葉だと思った。湊さんの真似をして、心の手帳に書きつけておいた。こうして始まった「裏方支配役」の最初の仕事は、大げさなものではなかった。裏の休憩室の壁に、小さな木箱を掛けたのだ。
「困りごと」と札をつけた。道具のこと。体のこと。人のこと。口で言いにくいことは、紙で入れてくれればいい。一週間、箱は空だった。八日目に、最初の一枚が入っていた。新しく入った仲居の、子供の字で、こう書いてあった。
「貸してもらった草履が大きくて、階段が怖いです。すみません」
その日のうちに、足に合う草履を用意した。翌週には二枚目が入った。その次の週には、三枚入っていた。き江えさんが、廊下の前で笑った。
「支配人の頃はさ、困りごとはあるのに、ないことになってたんだ。箱に入るようになったんなら、この店は大丈夫だよ」
十二月に入ってすぐ、メンテナンスの現場支援室にも、同じ箱を置いた。年の暮れまでに届いた紙は、四十枚を超えた。ゴム手袋のサイズが合わない。夜勤の控え室が寒い。休憩時間に横になる場所がない。一枚ずつ、湊さんと二人で読んだ。読みながら、湊さんが手を止めて言った。
「四十枚。うちの会社は十四年。この四十枚に、気づかずに来たんですね」
「今から、気づけばいいんですよ。床と同じです。気づいた日が、磨き始めの日です」
「珠子さん。それ、うちの社訓にしていいですか?」
冗談かと思ったら、本気だった。年明けの仕事始めに、本当に社訓が一つ増えた。「気づいた日が、磨き始めの日」。私の言葉が、八百人の朝礼で読み上げられていると聞いた時は、さすがに座布団に突っ伏した。社訓が増えるたびに、直せることも増えた。控え室に小さなストーブを入れた。夜勤明けに横になれる長椅子を置いた。手袋は三つのサイズを揃えた。どれも小さなことだけれど、現場から届く紙には、その度に「ありがとうございました」の一言が増えていった。
百年の宴から、二年が経った。この二年のことを、順番に話しておきたい。梅ノ井は、今日も暖簾を出している。百年の宴の後、あの店は少しずつ、けれど確かに変わった。お客さんの目に見えるところは、実はほとんど変わっていない。変わったのは、裏側だ。明るい休憩室、滑らない厨房の床、半年に一度の道具の入れ替え。そして、書院の脇の小さな部屋には、「裏方支配役」の机がある。私の机だ。週の半分は梅ノ井で、残りの半分は藤堂メンテナンスの現場支援室で、私は働いている。全国の現場から届く困りごとの手紙を読み、道具の改良を業者さんと相談し、時々、若い清掃員さんの愚痴を聞く。地味な仕事だけれど、三十年かけて覚えてきたことの全部が、この仕事では宝物になる。改修にかかった金は、梅ノ井が繰り上げで返し続けている。百年の宴の評判が呼び水になって、あの秋からの予約は支配人がいた頃を超えた。数字を伸ばしたのは、特別な仕掛けではない。「裏が明るい店は、表の空気まで明るくなる」。ただ、それだけのことだったのだと思う。みっちゃんは、去年、仲居頭の見習いになった。お母さんもすっかり元気になって、時々、お客として梅ノ井の食事を楽しんでくれる。この春、みっちゃんは新しく入った十代の仲居さんに、こう言っていたそうだ。
「失敗してもいいの。せかされると、誰だって転ぶんだから」
どこかで聞いた言葉だと思ったら、いつか私が彼女にかけた言葉だった。言葉というものは、そうやって手渡されていくものらしい。き江えさんは、六十五歳の今も現役だ。新しいモップを相棒に、今日も裏の廊下を磨いている。この間、冗談混じりに引退の話を振ったら、鼻で笑われた。
「私の仕事に、定年なんてないよ。だって、あんた。床は毎日汚れるんだから」
辰さんは、少しずつ板場を若い衆に譲り始めた。それでも、先代の好きだった鱧の椀だけは、今も自分で引く。いつだったか、宴会の席でこう言っていた。
「わしの椀を食って育った奴が、わしより上手い椀を引く。それが、店が続くってことだ」
芝野さんは、あの帳面の続きを書き始めた。芝野さんの台本書きの新しい習慣だ。夜の書院で、老眼鏡をかけて筆を執る芝野さんの姿は、写真の中の先代とよく似てきた気がする。時々、私も隣に座って、その日の裏の出来事を報告する。それが、私たちの月に一度の楽しみになっている。実家とは、あれきりほとんど行き来がない。母とリカからは、あの夜以来、連絡はない。風の噂では、リカはまた新しい人と付き合っては別れているらしい。母は相変わらず、近所に妹の自慢話をしているという。あの人たちは、きっともう変わらない。それでいいと、今は思える。誰かを変えることより、自分の居場所を磨くことに、私は自分の時間を使いたい。大和田会長の計らいで、父は定年まで会社に残れることになった。縁談の後始末で、一番先に頭を下げて回ったのは、結局あの人だったと、後になって会長から聞いた。器用に生きられない人なりの、精一杯だったのだろう。父だけは、年に何度か、こっそり梅ノ井に食事に来る。いつも一人で、一番小さな座敷で、美味しそうにお酒を飲んで帰っていく。帰りに、玄関で私に小さく頭を下げるのが、あの人なりの詫び方であり、可愛がり方なのだろう。この間は、帰り際に、ぽそりと言っていた。
「珠子。お前、いい顔になったな」
大和田会長は、あれからも時々、夫婦揃っての食事に誘ってくれる。会うたびに、上機嫌で同じ話をする。
「わしの人生で一番の仕事は、この縁談だな。そうだろ?」
その度に、私たちは顔を見合わせて笑う。始まりは誰かの身代わりの縁談だったけれど、会長の自慢の通り、あれは結局、私の人生で一番の授かり物になった。支配人のその後も、風の噂で聞いた。隣町の小さなカプセルホテルの管理人をしているらしい。約束の返済は遅れながらも、続いている。芝野さんは、毎回、受け取った葉書に時候の挨拶を一筆添えて返すのだという。
「憎んで暮らすには、人生は短すぎますからね」
そういう人だから、あの店は百年続いたのだろうと思う。
私自身のことも、少しだけ。去年の春から、月に一度、近くの商業高校で話をさせてもらっている。家庭科の授業のゲスト講師というやつだ。話すのは、いつも同じことだ。世の中には「目立つ仕事」と「目立たない仕事」があるのではなく、「気づかれている仕事」と「まだ気づかれていない仕事」があるだけだということ。誰かの当たり前の一日は、名前を知られていない誰かの手で、毎朝整えられているということ。教室の後ろの方で、俯きがちに聞いている子が、たまにいる。教室の隅が自分の席だと思い込んでいるような、昔の私のような子だ。私はその子たちに向けて、最後に、いつもこう付け加える。
「誰にも気づかれない場所を綺麗にできる人はね、本当は、一番『人を迎える力』のある人なんですよ」
届いているかどうかは、分からない。それでも、種は巻いておきたい。いつか、その子が自分の床を磨く日のために。そして、湊さんは、相変わらず朝五時に起きて庭を掃き、週の半分は作業着で現場に立っている。八百人の会社の代表で、梅ノ井の裏を守る当番で、私の靴を毎晩磨いてくれる、日本一の清掃員だ。
昨日の夕方、私たちは二人で、梅ノ井の長い廊下を歩いた。月に一度の点検の日で、私も裏方支配役として立ち合ったのだ。磨き込まれた廊下は、庭の紅葉を映して、鏡のように光っていた。去年の初めてこの店に来た夜。私はこの廊下で、「間違い」という三文字に押し潰されそうになっていた。私なんかがいていい場所じゃないと、俯いて歩いた廊下だった。今は、分かる。「間違いな人間」なんて、本当はどこにもいないのだ。あるのは、人を見下すために使われる場所と、人を迎えるために整えられた場所。その二つだけだ。そして、場所は、磨く人がいる限り、必ず人を迎える場所の方になれる。あの夜の私に、もし声をかけられるなら、こう言ってやりたい。俯かなくていい。あなたは、これからこの廊下で、たくさんの人に会う。泣いて、笑って、居場所を見つける。だから、安心して、その膳を、最後まで食べておいで。廊下の突き当たりで、湊さんが床に手を当てた。いつもの癖だ。
「うん。いい床だ」
「今朝、き江えさんと二人で磨きましたから」
「知ってます。角の雑巾の跡で分かる」
「もう、うちの会社の代表は、細かいんですよ」
二人で笑った。笑い声が、磨かれた廊下に気持ちよく響いた。夕暮れの光が差し込む廊下の先で、芝野さんが私たちに気づいて、手を振っていた。その向こうの玄関には、その夜のお客さんを迎える打ち水が、もう打ってあった。掃除は、人を迎える支度。今日もこの店は、誰かを迎える支度をしながら、静かに夕方を待っている。私の居場所は、ここにある。


