私は銀行の窓口係だ。先日、番号札を握る古びた上着の老人を担当した。当て布のあるジャケット、手入れの行き届いた鞄。私はいつも通り、丁寧にお茶を出し、手続きを進めた。ところが、直後に同期の男が平然と言い放ったんだ。「あんな貧乏臭いじいさんに、何で丁寧に応対する必要があるんですか。見た目で分かるでしょ、大した客じゃないって」。私は必死で彼を止めた。客を写真に撮ってSNSにあげるな、と。でも、彼は聞…

私は銀行の窓口係だ。先日、番号札を握る古びた上着の老人を担当した。当て布のあるジャケット、手入れの行き届いた鞄。私はいつも通り、丁寧にお茶を出し、手続きを進めた。ところが、直後に同期の男が平然と言い放ったんだ。「あんな貧乏臭いじいさんに、何で丁寧に応対する必要があるんですか。見た目で分かるでしょ、大した客じゃないって」。私は必死で彼を止めた。客を写真に撮ってSNSにあげるな、と。でも、彼は聞...

窓口に、重い沈黙が落ちた。
古びた鞄を抱えた老人は、ただ静かに立っていた。
笑い声を上げたのは、入行二年目の池田涼太。隣で薄ら笑いを浮かべるのは、課長代理の黒川サト。
「他行へ移るおつもりですか?どうぞどうぞ。うちの銀行には、貧乏客は必要ないんでね。百万程度の相手に時間をかける価値もない」
「そうですか。では、預金を他行へ移させていただきます」
「ご自由にどうぞ。手続きは、ここで打ち切らせてもらいますから」
だが、その直後だった。
店舗内に電子音が響いた。ピン、と短く。五秒後、もう一度。さらに五秒後、また。業務端末に、振込通知が次々と流れ始める。
百万、五百万、一千万、三千万、一億。
桁が、見る間に膨れ上がる。
笑い声は、その瞬間に止んだ。
「な、なんだこれは……」
「は、まさか……」
ロビーの電話が、けたたましく鳴り響く。本店からの緊急連絡だった。
窓口の隅で、老人はゆっくりと古びた鞄を閉じた。

地方都市の駅前にある迷和銀行第一支店。
その窓口に、一人の老人が静かに番号札を握っていた。
岡本肇、七十四歳。年季の入ったジャケットの肘には当て布。塗装の剥げた金具の鞄は、丁寧に手入れされていた。
誰の目にも、ただの近所の年寄りにしか見えない。
だが、肇の本当の姿は、食品、不動産、流通を束ねる岡本ホールディングスの会長であり、この名和銀行の創業家に連なる人物でもあった。
肩書きを出さず、現場の窓口で人を見る。それが肇の流儀だった。
「金は使うためにある。貯め込むためにあるんじゃない」
裸一貫から一代で全国規模のグループを築いた男の、変わらぬ口癖だった。

その朝、肇が支店を訪れたのは、入院を控えた妻のためだった。手術費用と身の回りの品を整える現金が必要だったのだ。
呼び出しベルが鳴り、肇はゆっくりと窓口へ歩み寄る。対応したのは、まだ初々しい新人行員の女性だった。
「お待たせいたしました。お客様、本日はどのようなご用件でしょうか」
名札には、森下明里の文字。声は小さくても、真摯な丁寧さがあった。
「すまんが、現金を引き出したい。家内が来週から入院でね、まとまった額が要るんだ」
「お辛い中、お越しいただきありがとうございます。ご希望額はいかほどでしょうか?」
「百万ほど。手術費用の立て替えに使うつもりだ」
明里は両手で書類を受け取り、深く頭を下げた。声には媚も軽蔑もなく、ただ目の前の老人を一人の人間として見つめる温かさがあった。
書類の確認を終えた明里が言った。
「お足元、お疲れではないですか?よろしければ、椅子のある窓口へご案内しますね」
「お気遣い、ありがとう」
「少々お時間がかかります。お待ちの間に、温かいお茶をお持ちしますね」
しばらくして、湯気の立つ緑茶が肇の前に置かれた。
一口含むと、肇の口元に自然と笑みが浮かぶ。
「ありがとう。いい窓口さんだ」
誰も知らない。この老人がどれほど巨大な富を動かしている人物なのかを。

手続きを終えた肇は丁寧に頭を下げて、支店を後にした。鞄の中には、百万円の現金が入った封筒が収まっている。
背中が自動扉の向こうに消えると、隣の若い行員がふっと吹き出した。
「マジで丁寧にやってんすね、森下さん。あんな貧乏臭い爺さん、適当でいいのに」
同期の池田涼太。都内の有名私大を出て、地元有力者の父のコネで入行した男だった。
「池田君、お客様への言葉遣いに気をつけて」
「いいや。あの当て布のジャケット、見ました?絶対に大した口座持ってないっすよ。百万引き出すのに汗かいて来るような人ですよ」
「お客様を見た目で判断するのは、銀行員として一番してはいけないことよ」
「うわ、出ました。森下さんの真面目教科書発言」
池田はスマートフォンを取り出し、ためらうことなく画面を操作する。
「君、まさか店内の写真をアップするつもりじゃないよね?」
「フォロワーが少ない支店の中じゃ、俺が一番多いんで」
画面には、肇の後ろ姿が映っていた。
池田は毎日のように、こうした投稿を続けていた。
「やめて、お願い。それは本当にやってはいけないことだから」
明里は両手で池田の手首を掴み、必死に止めようとした。
「なんで必死になってるんすか?森下さんって、本当に空気読めないっすよね。ああいう貧乏じじいに同情するって、よっぽど底辺の育ちなんすね」
「私の家のことは、お客様への態度とは関係ないわ」
「関係あるっしょ。同じ空気出してますもん。なんか底辺感がするんすよね」
その悪意に喉が詰まっても、明里は視線をそらさなかった。
その時、自動扉が再び開いた。
肇が、明里の窓口の前で立ち止まっている。
「先ほどの湯呑みを忘れてしまったようでね」
「あ、こちらですね。申し訳ございません」
明里はテーブルの隅にあった湯呑みを渡した。池田はとっさにスマートフォンを背中に隠し、何事もない顔で書類に戻る。
肇は、気づかないふりをして深く頭を下げた。
「ありがとう。お手数をかけたね」
「いいえ。ありがとうございます。お気をつけて」
肇はもう一度深く頭を下げると、再び支店を後にした。
「やれやれ。忘れ物かよ。じいさん、さっきの会話が聞こえてて戻ってきたのかと思ってヒヤヒヤしたわ」
明里の胸の奥に、声にならない悔しさが滲んでいった。

それから数日が過ぎると、支店の空気はすっかり変わっていった。
中心にいたのは、異動して二ヶ月の課長代理・黒川サト。低い偏差値の大学をやっと卒業したことを誇る自称エリートだった。
池田が父親の名を持ち出したのをきっかけに、黒川は急速に池田と意気投合した。支店長の中村は本店出張が多く、窓口運営は黒川に委ねられていた。
若手たちは違和感を覚えながらも、声を上げられなかった。
「池田君の言う通りだ。上得意と一般客の線引きを明確にする必要がある」
「預金額一千万以下は、自動受付でいいんすよ。手続きの遅い客は利益率を下げる。資源配分の合理化です」
黒川は口座データに「優良客」「一般客」「お断り検討」のラベルをつけ始めた。本店の規定にはない、独自の分類だった。

数週間後、肇が再び支店を訪れた。妻の入院が始まり、定期預金の一部解約が必要になったのだ。
肇の番号が呼ばれ、明里の窓口へ案内される。明里が立ち上がろうとした瞬間、黒川が背後から端末を操作した。肇の受付が、明里の窓口から池田の窓口へ移される。
「森下は新人だ。他の客に回れ。岡本様の対応は、池田君の窓口で行う」
「しかし、岡本様は私の担当ですが」
「君に決定権はない。私の判断だ」
明里は言葉を飲み込み、書類を握りしめた。
肇は何も言わず、池田の窓口へ歩み寄る。
「いやあ、岡本様、毎度どうも。本日は定期預金のご解約ですね。……あ、だめだ。これ、印鑑登録されてるものと形が違うみたいっすね」
「同じ印だ。四十年、この一本しか使っておらん」
「機械がそう言ってるんで、印鑑証明の原本がないと無理っすよ。じゃあもう一度、解約書を最初から書き直しでお願いします」
肇は黙って新しい用紙を受け取った。長年使い込んだ万年筆の先に、迷いはなかった。
「解約理由の欄、『家庭の事情』だけだと弱いすね。あと、利息額の説明書も一項目ずつ読み上げますんで、その都度返事してください」
「承知した」
書類に問題はなかった。だが池田は、肇を三度も記入台と窓口の間で往復させた。周囲の客が、その対応に眉をひそめる。それでも池田は、悪びれる様子もなかった。
明里は、胃を締め付けられる思いで黒川の前に立った。声は震えていたが、目だけはまっすぐだった。
「課長代理、岡本様への対応が明らかに過剰です。書類はすべて揃っています」
「黙っていなさい。新人が意見するな。月評価に響くぞ」
「……分かりました」
唇を噛みしめる明里の横を、肇がゆっくりと通りすぎる。古びた鞄を抱え、出口へ向かう途中で、短く頭を下げた。
「ありがとう」
たった一言。嫌がらせを受けながらも弁護してくれた明里への、静かな感謝だった。
明里の、名札を握る指先に力が戻った。

しばらくして、肇は別の要件で支店を訪れた。池田の窓口を素通りし、ロビーの中央で黒川を見据える。
「課長代理さん、少しよろしいか。お話ししたいことがある」
「何でしょう、岡本様。簡潔にお願いします」
「すまんがね、こちらで長年世話になったが、別の銀行へ口座を移したい。手続きを教えてもらえんかね」
黒川は池田と顔を見合わせ、肩をすくめて吹き出した。
「他の銀行へ?百万程度のために、わざわざそのようなご相談を?」
「口座の解約って、結構面倒ですよ。何度か通わないと終わらないかと」
「どうぞどうぞ。手続きは、ここで打ち切らせていただくことも可能ですがね」
ロビーには、池田たちの笑い声だけが響いていた。
窓口の隅で、明里の顔が青ざめる。長年通った客が銀行を変えると申し出ているのに、引き止めるどころか追い出している。
「課長代理、お待ちください!」
明里は反射的に窓口から飛び出し、肇の前にかけ寄った。
「岡本様、どうかもう一度、よくご検討ください」
「いや、君が悪いのではない。気にしないでくれ」
「森下、持ち場に戻れ。お客様の意思を尊重するのが勤めだ」
「尊重」という言葉が、この場では空しく響いた。
「君には世話になった。君のような行員さんに出会えて、私は嬉しかったよ。君のような行員がいる限り、この銀行はまだ捨てたものではない」
明里は何か返したかったが、声にならなかった。
肇は深く頭を下げ、鞄を抱え直して支店を後にした。
「何すか、あれ。時代劇みたいなこと言ってんすかね?」
「あんな老人、相手にしてられんっすよ。本気で移すつもりなんすかね?」
「まあ、無理だろ。貧乏人の意地だ。減るのは件数だけで、収益には響かない」
笑い声を背中に、明里は俯いたまま両手を強く握りしめた。正しいことを言っただけなのに、孤立していく感覚があった。

その夜、肇の自宅の書斎には静かな夕日が差し込んでいた。
肇は鞄に視線を落とし、今日の支店での出来事を思い返す。三度も書類を書き直させられたこと。池田の薄笑い。黒川の冷たい視線。
そして、窓口の隅で自分のために震える声で抗議した、若い行員の姿。
「こうするしか、なくなったのかね」
肇は深く息を吐き、長年世話になった銀行への最後の決断を下した。
温かいお茶を出してくれた新人を見捨てるわけにはいかなかった。
机の電話をゆっくりと取る。
「会長、いかがなさいましたか?」
岡本グループ秘書室長の田辺だった。肇の声色だけで、何かが起きたことを察したらしい。
「田辺か。例の支店を動かすぞ」
「承知いたしました。グループ全社のメインバンクを、他行へ切り替える準備に入ります」
「ただし、時期は私が指示するまで待て。連絡があったら、五秒間隔で振り込みを始めてくれ」
「かしこまりました」
「これはな、思い知らせるための行いだ。情けでは人は変わらん。だが、誠実だった者まで巻き込むつもりはない。中村君には、明朝私が支店に入るタイミングに合わせて駆けつけさせろ」
「ご決意、確かに承りました」
「田辺、お前も明朝、第一支店まで迎えに来てくれ」
「会長、それは……」
「あの場で、はっきりと幕を引く。長年世話になった銀行への、最後の礼儀だ」
「承知いたしました。十時きっかりにお迎えに上がります」
電話を切ると、肇は古びた写真を取り出した。若き日の自分と、当時課長だった中村が並ぶ記念写真。
「中村君だけは、巻き込みたくないのだがな」

同じ頃、名和銀行本店の頭取室。
斎藤頭取は月次会議の資料に目を通していた。机の直通電話が鳴り、岡本グループの名を聞いた瞬間、背筋が伸びる。
「もしもし、斎藤だが……はい?」
岡本グループの関係者からの電話だった。
「申し訳ありません。会長が、第一支店でご立腹です。本日付で、当グループ全社のメインバンクを他行へ切り替えます。会長が再度第一支店にお越しになります。頭取にも、現場へお越しいただきたい」
「分かりました。必ず伺います」
電話が切れた。受話器を戻す斎藤の手が、震えていた。
名和銀行の最大取引先が、第一支店で侮辱を受けている。下手をすれば、本店の業績そのものが揺らぎかねない。
「法務部長と人事担当役員を呼べ。緊急だ。第一支店の端末と、行員のSNS投稿履歴を、五分以内に全保全しろ。私は直接、第一支店へ向かう。公用車は六時半に手配しろ」
本店全体が、一夜をかけて明朝の対応に動き始めた。

一方、明里のアパートでは、六畳一間の部屋を夜の静けさが包んでいた。
机には、母の医療費の領収書と、弟の学費の控えが並んでいる。明里は家族写真を胸に当て、先週の見舞いを思い出していた。狭い部屋に、家族の匂いだけが残っていた。
病室のベッドで、痩せ細った母・啓子が明里の手を握る。
「お金や立場で人を判断せず、誰に対しても誠実でいなさい。それが、お父さんとお母さんがあなたに残せる、たった一つのことなの。あなたも、誰かにとってそういう人でいてあげてね」
瞼の裏に、あの穏やかな老人の姿が浮かんだ。当て布のジャケット。手入れされた鞄。最後に向けてくれた「ありがとう」という言葉。
……お母さん、私、あの方に誠実でいられたかな。
明日出勤すれば、黒川と池田の冷たい視線が待っている。月評価も、配置替えも、解雇さえ怖い。家族の生活は、自分の肩にかかっている。
それでも、明里の決意は揺るがなかった。
お母さん、私、後悔してないよ。たとえ評価が落ちても、あの日の対応は曲げないと決めた。

その夜、名和銀行第一支店の支店長室。
黒川は誰もいないキャビネットから、明里の評価資料を引き抜いた。書類差し戻し率、窓口待ち時間の平均、月の取引件数。少し手を加えれば、底まで落とせる数字ばかりだった。
新人の女が、客の前で自分に逆らった。その感覚が、黒川のプライドをじわじわと焼いていた。正しさより、自分のメンツが先に立っていた。
黒川は携帯を取り出し、池田へ電話をかける。
「池田君、明日は支店長が本店会議で不在だ。森下の本人面談を済ませる」
「了解っす。エリート課長代理の右腕、しっかりやりますんで」
「業績資料は私が揃える。本店人事部に上げれば、地方への左遷は確実だ。老人客の件も、後から問い合わせが来たら、すべて森下の不手際で揃えろ」
「あの貧乏じじいの件も、森下のせいにすれば、課長代理は無傷っすね」
「当然だ」
電話を切ると、黒川の口元に薄い笑みが浮かんだ。新人の女一人を切り捨てれば、すべて丸く収まる。自分だけは、無傷で残れる。
黒川はそう信じて疑わなかった。

翌朝、支店の空気はこれまでとは違う冷たさを帯びていた。
支店長の中村は本店の月次会議で不在。窓口運営の全権は、黒川が握っていた。
通勤バッグを置く明里の手が、わずかに震える。昨夜自分自身に誓った覚悟が、今試されようとしていた。
開店前の事務室で、池田のスマートフォンにメッセージの着信音が連続して鳴った。画面を見た池田の顔が、みるみる青ざめていく。
「あ、あれ、嘘でしょ……」
「池田君、どうした?」
「やばいです、課長代理。俺の裏アカ、特定されました」
「裏アカ?どういうことだ」
「裏アカの中で、客の写真とか撮って投稿してた、匿名アカウントが……」
黒川は池田のスマートフォンをひったくった。
画面には、支店内の写真と暴言の数々。拡散数は、何百件にも上っていた。
「コメント欄に、支店名と池田の本名らしき情報も書き込まれている……。顧客情報の流出だ。店舗内の写真から、うちの支店だと特定されている」
「すみません。でも、これは全部俺一人で……」
「当たり前だ。私が指示した記憶などない。これはお前の独断先行だ」
「そ、そうですよね。でも、当時の森下が、お前を止められなかった」
池田の脳裏に、必死で自分の手首を掴んだ明里の顔が蘇った。だが池田は、その記憶を奥歯で噛み潰した。
「そっすね。全部、森下が悪い。あいつが俺を止めてくれなかったから」
通路の影で、明里はその会話を聞いていた。両手を、強く握りしめる。
そこへ、自動扉が開く音が響いた。
古びた鞄を抱えた肇が、支店へ足を踏み入れる。
肇は、黒川と池田には目もくれず、一直線に明里の窓口へ向かった。
「岡本様、本日もお越しいただきありがとうございます。私の力不足で……ご不快な思いをさせてしまい、申し訳ございませんでした」
明里が深く頭を下げると、肇は静かに首を横に振った。
「君が謝ることは、何一つない」
すると、黒川と池田が、薄笑いを浮かべながら歩み寄ってきた。
「岡本様、他行へのお手続き、本日もどうぞ。どうぞ」
池田の笑い声に、黒川も肩を揺らす。ロビーが、息を飲んだように静まった。
肇は鞄をカウンターへ置き、低く落ち着いた声で告げた。
「では、そうさせてもらおう」
その直後だった。
支店内のどこかで、電子音が鳴った。ピン。
五秒後、もう一度。さらに五秒後、また。
業務端末に、振込通知が次々と映し出されていく。
百万。五百万。一千万。三千万。五千万。一億。
容赦なく、桁が膨れ上がる。
「な、なんだ?!」
声を上げたのは、若手行員だった。
「ちょっと待て。どれも、うちの大口口座だ……」
黒川が画面を覗き込んだ瞬間、その表情が固まった。
『岡本ホールディングス株式会社』『岡本不動産』『岡本流通サービス』『岡本フードチェーン』。
経済誌の見出しでしか見ない企業群が、画面いっぱいに並んでいく。
「岡本様が……まさか、岡本ホールディングス?!」
「まさか、あの岡本グループの……」
池田の顔が、一瞬で青ざめた。
窓口の行員たちも、端末の数字から目を離せない。笑い合っていた空気が、一瞬で消えていた。
その時、ロビーの電話がけたたましく鳴り響いた。受付の行員が、震える手で受話器を黒川へ差し出す。
「課長代理、本店の頭取からです」
黒川が受話器を耳に当てた瞬間、頭取の怒声が漏れ聞こえた。
「黒川、今誰を相手にしているか、分かっているのか?私は今そちらへ向かっている。すべての記録を保全しておけ」
「え?あ、はい……」
電話が切れ、黒川の手から受話器が滑り落ちた。
肇は表情を変えず、鞄から一枚の名刺を取り出して、カウンターに置いた。
『岡本ホールディングス株式会社 代表取締役会長 岡本肇』
「ご希望通り、他行への切り替えを進めてもらっている。岡本ホールディングス全社の口座も、私個人の預金も、すべて他行へ移す」
「お、お待ちください。これは何かの勘違いでは」
「勘違いではない。私は正式に、銀行を変えるつもりで来ている」
黒川は、返す言葉を見つけられなかった。当て布のジャケットが、急に別の意味を持って見え始めた。
「岡本様、もしかして、最初からこうなることを……」
「いや。こうなる前に、君たちが気づいてくれることを願っていた。残念ながら、間に合わなかった。それだけだ」
支店のスピーカーから、緊急アナウンスが流れた。岡本グループ全社と岡本個人名義の口座について、本店が取引契約の解除を受諾したという内容だった。
「当店の本年度の業績見通しが、たった今、吹き飛んだ……」
「待ってください。違う。これは、俺のせいじゃない」
「池田、お前が『貧乏なじいさんだ』などと軽々しく言ったんだろう」
「振り分けの判断は、全部課長代理の指示じゃないですか!」
「お前、今なんて言った?」
責任の押し付け合いが、ロビーに響いた。
肇は二人を見ようともしなかった。
「森下さん、明日からも、誇りを持ってこの窓口に座っていなさい。君の正しさは、この私が証明する」
窓口の中で、明里の目から涙がこぼれ落ちた。黒川も池田も、もはや口を開くことができなかった。
もう、誰も笑っていなかった。

直後、自動扉が勢いよく開いた。
「申し訳ございません!遅くなりました!」
ロビーに駆け込んできたのは、本店会議に出席していたはずの中村支店長だった。本店から緊急連絡を受け、会議を抜けて駆けつけてきたのだ。
中村はその場に膝をつき、深く頭を下げた。
「会長、本当に申し訳ございませんでした。窓口運営を黒川課長代理に任せきりにしていた、私の責任です」
「中村君、久しぶりだな。若い頃、地元の小さな町工場への融資を通してくれたことを、今でも覚えている。あの一件がなければ、今の私はなかった」
「会長……」
中村の口元が、わずかに震えた。
黒川は、支店長と会長の間にそんな過去があったことを、初めて知った。同じ支店にいながら、一人だけ温かく迎えられる中村を、黒川と池田は呆然と見つめた。
その時、支店前に黒塗りの公用車が止まった。降り立ったのは、名和銀行頭取の斎藤正だった。本店から駆けつけたまま、ネクタイの緩みも直さずロビーへ入ってくる。
「会長、本当に申し訳ございません」
斎藤はロビー中央で、深々と頭を下げた。銀行のトップである頭取のその姿勢に、黒川と池田の表情が凍りつく。
ちょうどその時、ロビーの柱時計が十時を告げた。
自動扉が再び静かに開く。グレーのスーツを着た田辺が、ロビーへ足を踏み入れた。
「会長、お迎えに参りました。十時きっかりでございます」
その一言で、すべてが肇の事前の指示通りに進んでいたことを、全員が悟った。偶然でも、勘違いでもなかったのだ。
「岡本会長、何か誤解があるかと。私は現場の混乱を収めようとしただけで……」
黒川の額から、脂汗が流れ落ちる。
「その混乱を作ったのは、君だ。君は私に『お断り検討』というラベルをつけ、森下さんに責任を押し付けようとした。その上、池田行員のSNS問題まで、彼女のせいにしようとした」
「い、いえ、それは……」
「私は本店で、防犯カメラ映像とSNSの投稿履歴を保全している。そこには、森下行員が池田行員の投稿を、体を張って止めていた場面が残っている。口座の独自ラベルの操作ログも、すべて残っている。『教育不行き届き』などという筋書きは、許さん」
黒川の顔から血の気が引いた。池田も、自分の嘘が逃げ場を失ったことを理解した。
「嘘で塗り固めた筋書きで、若い行員を切り捨てる。それが、君たちの『業務改善』だったのか」
「い、いや……」
「黒川、今お前が口を開くたびに、この銀行の信用が失われていく。黙りなさい」
ロビーの行員たちから、小さく息を吐く音が漏れた。

肇はゆっくりと、池田と黒川を見た。
「私も若い頃は、何度も見下されてきた。この鞄も、この古い上着も、長い間一緒に働いてきた、大事なものだ。見た目だけで人を判断する人間に、本当の信用は見えない」
「金はな、使ってこそ意味がある。そして、何を目的に使うかが重要なのだ。人の価値を決めるためのものじゃない」
ロビーは、水を打ったように静まり返った。誰も、その言葉に反論できなかった。
「支店長のお言葉で、銀行員として一番大切なことを改めて思い出しました。本日あったことを、どうか忘れないでください」
田辺の声に、ロビーにいた全員が深く頭を下げた。
「会長、お願いします。もう一度だけ、私にチャンスを」
黒川は声を震わせ、池田も床に手をついて頭を下げた。
「すみませんでした。俺、ただフォロワーが欲しくて……」
肇は二人を黙って見つめ、ゆっくりと首を横に振った。
「君たちは、途中で人を見下すのをやめることもできたはずだ。改善する時間は、十分にあった。しかし、何も変わらなかった。君たちのような行員がいたのでは、この支店に未来はないよ」
「そ、そんな……」
その言葉に、黒川と池田は崩れ落ちた。見下してきた当て布の肘が、今は自分たちの上に重くのしかかっていた。

肇は、窓口の中に立ち尽くす明里へ、ゆっくりと歩み寄った。
「森下さん」
「はい」
「君は、何も間違っていなかった。今日のことを、生涯の誇りに思いなさい」
「会長……」
「君のような行員さんがいてくれて、私は救われたよ。当たり前のことができない人間も、多いのだよ」
「岡本様、ありがとうございます」
明里の涙が、堰を切ったように溢れ出す。正しさが、ようやく報われた瞬間だった。
ロビーで見守っていた行員たちが、誰からともなく深く頭を下げた。窓口で立ち尽くす新人行員へ、中の頭が一斉に下がっていく。
「今日のことは、本店も含め、必ず正式に評価する。君の対応は、この銀行が失いかけていたものを、思い出させてくれた」
「うむ。では、私はこれで失礼する」
肇は鞄を抱え直した。田辺が扉の前で、頭を下げて待っていた。
肇はゆっくりと、歩き出した。

事件から数時間後、緊急ニュースが全国に流れた。
『名和銀行第一支店で、行員によるSNS顧客情報流出事件が発覚』
地元有力者だった池田の父親は、その夜のうちに地域の役職をすべて辞任した。
翌朝、池田涼太は解雇となった。同日、岡本ホールディングス法務部は、損害賠償を求める民事訴訟を提起した。
お前は、本当に何てことをしてくれたんだ。
父さん、ごめんなさい。
金融協会はもちろん、どの銀行も池田の名前を採用しなかった。二十三歳の未来は、たった一日で閉じられた。
黒川サトの末路も、容赦なかった。捜査記録と防犯カメラ映像が、口座の振り分けと責任転嫁のすべてを暴いた。斎藤頭取は、黒川を即日懲戒解雇とした。岡本ホールディングスは、信用毀損による損害賠償を請求した。
その夜、黒川の自宅には、妻の署名済みの離婚届が残されていた。
「私のキャリアが……家族が……最終職でも……」
客に書類の書き直しを強いた男が、今度は自分の履歴書を書き直すことすら許されなかった。どの銀行も、その手書きの履歴書を受け取らなかった。
翌週、金融庁による立ち入り検査が発表された。大口顧客も、次々と口座移動を申し出ていた。斎藤頭取は引責辞任を申し出て、第一支店の存続も危ぶまれた。
それでも、明里は窓口に立ち続けた。

事件から数日後、岡本ホールディングス本社の会長室。
「会長、第一支店の存続が、現在の争点に上がっています」
「森下さんは、今日も窓口に立っているそうだな」
「はい。本人は、自分が原因で支店が潰れるのは本意ではないと……」
「潰すわけにはいかんな。一部口座は戻す。ただし、条件付きだ」
「条件、でございますか?」
「行員教育の徹底と、新人の森下さんを、その中心に据えること。あの新人行員を、支店の教育係にしなさい」
「あの、新人行員をですか?」
「あの場で、たった一人、誠実に向き合ってくれた行員だ。それと、次世代の育成のため、『岡本ふれあい財団』を立ち上げる。シニアと若い行員の橋渡しをする組織だ」
「承知いたしました」

季節が一つ巡った。
森下明里は、岡本ふれあい財団の窓口担当として、新たな配属を受けた。財団は名和銀行と共同で、シニア顧客対応の研修を始めていた。明里の母・啓子の入院費と、弟の学費も、財団の支援が支え始めた。
ある秋の日、明里は母の病室を訪れていた。
「明里、新しいお仕事はどう?」
「お母さんが教えてくれた『誠実でいなさい』を、後輩に伝える仕事なの」
「ちゃんと覚えていてくれたのね。あなたは、私の誇りよ」
その午後、明里は肇に深く頭を下げた。
「会長、私は、何をお返しすればよろしいのでしょうか?」
「お返しなど、いらんよ。お客様に誠実でいることを、続けてくれればいい」
「はい。一人一人に、誠実に向き合ってまいります」
「君のような行員さんが、これからの銀行を支えてくれる」
穏やかな秋の午後。明里は今日も、目の前のお客様に誠実に接していた。

見た目で人を測った行員たちは、五秒ごとの振込と、静かな決断に断罪された。誠実な一言が、誰かの明日を守り、銀行の未来を照らした。

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