深夜、スマホが振動して目が覚めた。ガレージの防犯カメラが反応したという通知。隣を見ると、夫の姿がない。映像を確認した瞬間、息を飲んだ。夫が私の車のボンネットを開け、スプレー缶で何かを噴射している。アクセルペダル付近を入念に確認する姿が映っていた。私は知らないふりを決め込んだ。翌朝、義両親が突然訪ねてきて、私の車の鍵を手に取った。「今日一日、貸してくれないか」と。夫は真っ青な顔で二人を止めよう…

深夜、スマホが振動して目が覚めた。ガレージの防犯カメラが反応したという通知。隣を見ると、夫の姿がない。映像を確認した瞬間、息を飲んだ。夫が私の車のボンネットを開け、スプレー缶で何かを噴射している。アクセルペダル付近を入念に確認する姿が映っていた。私は知らないふりを決め込んだ。翌朝、義両親が突然訪ねてきて、私の車の鍵を手に取った。「今日一日、貸してくれないか」と。夫は真っ青な顔で二人を止めよう...

深夜、枕元のスマホが振動した。ガレージに設置した防犯カメラのセンサーが反応したという通知だった。隣のベッドを見ると、夫の翔太の姿はない。嫌な予感がして、すぐにリアルタイム映像を確認した。画面には翔太が映っていた。彼は私の車のフロントボンネットを開け、スプレー缶で何かを噴射している。その後、運転席に乗り込み、アクセルペダル付近を入念に確認していた。彼は私の車のアクセルに、こっそり手を加えたのだ。

私は知らないふりをすることにした。しばらく彼を泳がせようと思った。

翌朝、突然義両親が我が家にやってきた。彼らは靴箱の上にあった車の鍵を手に取った。

「実は今から会社の元上司の家に遊びに行くんだ。そこでゆき子さんの車を借りたくてな。翔太みたいに危ない運転はしないし、安心してちょうだい。もちろん夜にはちゃんと返すから」

義父は私の反対を無視して、足早に家を出ていく。翔太は真っ青な顔で二人を呼び止め続けた。

「待ってくれ!」

私は森子保、29歳。二つ上の夫・翔太と結婚して、今年で三年目になる。彼とは共通の友人の結婚式で知り合った。

「俺、新婦の職場の同僚なんです。ゆき子さんは高校の時のご友人ですよね」

「そうです。彼女とは今でもよく会っていて」

初対面にも関わらず、翔太は明るい笑顔で話しかけてくれた。共に飲食業界に務めていたこともあり、私たちはすぐに意気投合した。その後、距離を縮めて交際を開始し、翌年結婚した。

「ゆき子なら、きっと俺の両親にも気に入られると思っていた。だけど、ここまで仲良くなるなんてびっくりしたけど嬉しいよ」

新婚当初、義実家からの帰り道で、ほっとしたように言っていた翔太。義両親は私たちの自宅近くに住んでおり、定期的に顔を合わせる中だった。彼らは結婚当初から私を温かく迎え入れてくれた。

「ゆき子さん、翔太を選んでくれてありがとう。これからは私たちのことを本当の家族と思ってね。翔太、ゆき子さんを必ず幸せにするんだぞ。こんなにも素敵な女性とは、早々出会えないんだから」

「分かっているって。ゆき子、俺が大切にするから」

思わず苦笑しながらも、翔太がこちらに目を向ける。彼だけでなく義両親もいい人で、私は胸を撫で下ろした。

「お父さん、お母さん、ありがとうございます。これからは翔太さんと共に支え合って生きていきますから」

「近くに住んでいるし、私たちも二人を支えるわ。でも、頼ってちょうだい。ゆき子さん、森県に来てくれてありがとうな」

結婚後も義両親は私を本当の娘のように可愛がってくれた。それを一番喜んでいたのは翔太だ。

「ゆき子は本当に自慢の嫁だよ。俺、ゆき子と結婚してよかった」

「大げさね。でも、ありがとう」

「ゆき子のおじいさんが遺産を残した理由がよくわかるよ。誰に対しても優しい、家族思いの孫だから遺産を渡したくなったんだろうね」

ふと、彼が目を細めて言った。実は私の祖父は地元で不動産業を営む資産家だった。彼は孫の私をいつも可愛がり、会いに行く度にそっと頭を撫でてくれた。

そんな祖父が亡くなったのは、今から五年前のこと。彼の死後、発覚したのだが、祖父は私が将来金銭的に困ることがないよう、生前に遺言書を残したらしい。結果として、私は一部の土地と信託財産、そして彼の愛車を相続することとなった。今もその車は自宅のガレージにある。祖父の形見である愛車は、世界中のコレクターやファンから愛されている人気のスポーツカーだ。現在は手に入りにくく、価値が跳ね上がっていると、以前翔太が教えてくれた。それゆえ、シャッター付きのガレージで保管し、定期的にメンテナンスをしている。

正直言って、私には不釣り合いな車だ。維持費も相当かかる上、元々私は車に興味があったわけではない。それでも今も大切にしているのは、乗車するたびに祖父が運転していた記憶が思い出されるからだ。私は毎週末、休日になるとこの車でドライブをしている。助手席に翔太を乗せて、二人で少し遠出する。それだけでも気分転換になった。

「ゆき子の車、本当にかっこいいね」

「ありがとう」

翔太と共に過ごす穏やかな日々。しかし、順調だった夫婦生活に暗雲が立ち込めていく。翔太の態度が徐々に変わっていったのだ。

私たちは結婚した際、共働きで収入もさほど大差がないため、生活費は折半しようと決めた。そのルールで今まで問題なくやってこれた。ただ、翔太が三ヶ月ほど前から共同口座にお金を振り込んでくれなくなる。最初はうっかり忘れているのかと思った。だが、何度も同じことが続いたため、私はある夜、居酒を消して翔太に声をかけた。

「先月と先月、あとは今月分の生活費。翔太は振り込んでいないわよね」

「そうだったっけ? ごめん。忘れていたよ。また来月、給料が入ったら振り込むね」

彼は悪びることなく、スマホに視線を送り続ける。こちらを見向きもしない。謝罪の言葉を口にするものの、あくまでも形式的に詫びているだけだ。それが分かっていたからこそ、私は語気を強めた。

「今月の給料はすでに入っているわよね。そこから三ヶ月分まとめて出してくれない? 生活費は互いに半分ずつ出すって約束は、ちゃんと守って欲しいの」

すると翔太がニヤリと口角を上げた。

「分かっているよ。だから来月出すって言っているだろう。ゆき子はじいさんの遺産があるんだし、急ぐ理由はないよな」

「どうしていきなり遺産の話なんか」

驚く私を気に止めず、彼は笑みを浮かべ続けた。

「だって、ゆき子は遺産を独り占めしているだろう。夫婦だから、本来ゆき子の金は俺のものでもあるはずだ。だから、少しは恩恵を受けてもいいんじゃないかなって」

「もしかして、生活費の振り込みをわざとやめたの?」

「俺が金を振り込まなくても、ゆき子の持っているお金だけで生活できる。そう思ったら、俺が半分負担するのがバカバカしくなってさ」

翔太は以前から私に対して不満があったらしい。莫大な祖父の遺産を夫に還元しない、ケチな嫁だと思っていたようだ。

「いつかはゆき子が何か買ってくれるものだとばっかり考えていた。誕生日に豪華なディナーに連れて行ってくれるとか、高価なプレゼントをくれるとか。でも、何もしてくれなかったよな」

「おじいちゃんのお金は、できる限り使いたくないの。もし私たちの間に子供が生まれたら、その子の学費にしたいと思って」

「まだ生まれてもいない子供のために残しておくの? もったいないよ。せっかくだし、パーッと使おうよ」

翔太は勘違いしている。遺産はおじいちゃんが私のために残してくれたものなの。いくら私たちが夫婦であっても、翔太が使い道に口を出す権利はないから。

翔太は文句を言うが、彼の誕生日は毎回ちゃんとプレゼントを渡しているし、夕食も日頃より豪華なものを準備している。さすがに何もしていないわけではない。ただ、翔太としては遺産を自分のために使わないことが不服なのだそう。

「ゆき子は俺のことを大切にしてくれないの? ちょっとくらい俺のために使ってくれてもいいじゃないか」

「だとしても、私たちの生活費に使うのは違うでしょ。翔太には今後も変わらず折半してほしい。私が代わりに負担することはないから」

淡々とした態度で反論すると、彼は顔をしかめた。

「ゆき子がそんなにも分からず屋だとは思わなかった。もういい」

不機嫌に席を立ち、話を切り上げた。結局その後も取り合ってくれず、生活費は未払いのまま。しかも、彼は家で顔を合わせる度に嫌味を口にするようになった。

「ゆき子、最近夕食が手抜きじゃない? この野菜炒め、カット野菜を使っているだろう」

ある日の夕食、翔太が箸を置いておかずを指差す。

「もっと手の込んだ夕食作ってくれよ」

「そんなこと言われても、私だって働いているのよ。帰宅が遅い日は時短のためにカット野菜くらい使うわ」

今までもそうだったと思うけど、私たちは共働きだが、彼はほとんど家事をしない。かつては時々夕食を作ってくれたものの、それも新婚の時のことだ。今では私が家事を担当するのが当然のようになっている。何もしない人が文句を言うのはおかしい。

「不満があるなら、自分で作ったら? 翔太の方が帰りが早い日もあるでしょ」

「なんだよそれ。同僚の奥さんは、共働きでも家事と育児を完璧にこなしているんだぞ。俺たちには子供がいないんだし、くらいやってくれよ」

「同僚の奥さんがどんな人で、何の仕事をしているのかも分からないのに、見習えっていうの?」

比較されることも腹立たしいが、何より家事は嫁の仕事だと思っている翔太の考え方に苛立った。私としては翔太にもっと協力してほしい。生活費すらまともに支払っていないくせに、家事を押し付けるのはやめて。

本音を伝えた途端、彼は眉を潜めた。

「ゆき子って、そんなにも自分勝手な女だったんだな。俺のために尽くそうという気持ちはないの? 遺産を独占した挙げ句、家事まで適当とか」

「それは前にも言ったでしょ。あのお金はおじいちゃんが」

「はいはい。俺には一足たりとも渡したくないんだよな。分かったよ。ゆき子にはもう期待しないから」

喧嘩が増えれば増えるほど、私への態度が冷たくなっていく翔太。彼はそれでも内心、遺産を狙っていた。

「前より給料が減ったから、やっぱり生活費の折半は厳しい。ゆき子、多めに出してくれよ」

ある日、平然と頼んできたかと思えば、翔太は自分の給与明細を私に見せつけてきた。確認したところ、確かに以前聞いていた収入より減っている。ただ、彼はキャリアを積んでいるはずなのに、なぜ急に給料が少なくなったのか。

「事情は分かったけど、理由は? 仕事でミスでもしたの?」

下手に刺激すれば面倒なことになると分かっているけれど、突っ込まずにはいられない。そう思って尋ねると、翔太はため息をついた。

「ゆき子が大金を持っているのに、俺が仕事を頑張る理由ってないじゃん。だから、真面目に外回りをするのも馬鹿らしくなってさ」

彼は営業部の社員なのだが、最近は成績が落ちて営業手当てが減ったらしい。それ故に収入が少なくなったという。しかし、翔太は全く危機感を持っていなかった。

「俺が困っているんだから、さすがにゆき子が生活費を負担してくれるよな。夫婦として、こういう時は支え合わないと」

彼はただ私に生活費を出してもらいたいだけだ。その根底が透けて見えたからこそ、私は翔太の提案を拒んだ。

「翔太はわざと仕事をサボっているってことよね。そんなあなたのためにお金を出すつもりはないわ。少なくとも、仕事はもっと真面目に頑張った方がいい」

「つまり、俺に無理やり生活費を出させると」

「そうじゃない。今まで通り仕事をすれば、以前の収入に戻るんでしょ。翔太、結婚したばかりの頃は頑張っていたじゃない。その気持ち忘れたの?」

新婚当時、翔太は「ゆき子を支える」と言い、今まで以上に仕事に励むと話していた。そんな彼に戻って欲しい一心で、説得を試みる。

「私は翔太を信じている。だから、頑張ってほしい。こんな形で頼まれても、私はおじいちゃんの遺産をあなたのために使う気はないから」

だが、私の気持ちは翔太には届かなかったらしい。彼は目を吊り上げてこちらを睨みつけた。

「なんで俺がお前のために頑張らなくちゃいけないんだよ。俺の収入なんてなくても、おじいさんの遺産で暮らしていけるくせに」

「だから、それは」

反論しようにも、翔太は聞く耳を持たない。彼は乱暴にドアを開けると、リビングを出ていき、自室にこもってしまった。自分の思い通りにならない私に腹を立てているのだろう。

その後も翔太はますます態度を悪化させる。彼は食事だけでなく、掃除や洗濯に対しても文句をつけ、私に声を荒らげた。

「俺のシャツ、アイロンしてこれ。こんなシワシワのまま着て行ったら、俺が恥をかくだろう」

ただ理不尽に怒鳴られても、もう驚きもしない。それが当然のことになってしまっていたのだ。黙ったままシャツを受け取り、アイロンをかける。そんなことが何度か続いた結果、とうとう私は翔太のために家事をするのをやめた。

「不満があるなら、自分でしたらどう? 私は今、生活費を多く負担している。それなのに家事まで押し付けられるなんて、不公平だわ」

淡々と告げると、彼は顔を真っ赤にして拳を握りしめた。

「じゃあもういい。ゆき子には頼らないから。でも、その分生活費はお前が負担しろ。分かったか?」

こちらの返答も待たずにそう言い切った翔太。私は彼の言葉通り、家事をやめることにした。だが、洗濯物が溜まったり部屋が汚いままだと私にもストレスがかかる。そこで、料理だけ作らず、洗濯と掃除は最低限こなすことにした。

「ただいま」

「本当に作らないつもりか。ゆき子は嫁として失格だな」

帰宅後、テーブルの上に自分の料理しかないことを確認した瞬間、翔太は顔をしかめる。それでも彼は意地になっているのか、作って欲しいとは一言も言わなかった。翔太は毎朝朝食を食べずに家を出て、夜は外食をして帰ってくるようになる。一層顔を合わせる時間が減っていき、私はこのまま彼と夫婦生活を続けるべきか悩んでいた。

そんなある日の週末、私がテレビを見ている際、翔太が突然テーブルに何かを置いた。ふと目をやると、それは数枚のレシートだった。牛丼屋やうどん屋など、どれもこれも飲食店のものばかり。

「これは何?」

思わず問いかけた瞬間、翔太は口元を歪ませた。

「ゆき子が食事を作らないから、俺は毎日外食をしているんだよ。その食費、お前が支払うべきじゃないか」

「は? なんで私が」

信じられないことに、彼は自分の食費を私に請求してきた。戸惑うものの、翔太の狙いにはうすうす勘づいている。彼はどんな理由でもいいから、とにかく私から金をせびりたいのだ。営業手当てが減った分、祖父の遺産で補填しようと考えているのだろう。

「私に頼らないと決めたのは翔太よね。それなのに、なぜ私があなたの食費を支払う必要があるの? 生活費を負担していない分、自分の給料で出せるよね」

そう話すも、翔太は諦めない。まっすぐこちらを見据えて険しい顔をする。

「俺が何を言おうと、嫁であるゆき子は料理を作らなきゃいけなかった。それなのに、お前はサボったんだ。どうせ大金を持っているんだし、これくらい優遇しろよ」

「感謝するどころか文句ばかり言う翔太のために、料理するなんて嫌よ。せめて謝罪してくれたら、私だって作る気になるけど」

「なんで俺が謝らなくちゃいけないの? ゆき子がわがままだから、こっちは困っているのに。とにかく食費、今すぐ俺の口座に振り込んで」

翔太の身勝手な言い分に、私は肩を落とした。いつまで彼は祖父の遺産を狙い続けるつもりだろう。

「おじいちゃんのお金を当てにするのはやめて。わがままなのは翔太の方よ」

「どうして分かってくれないの? そうやって夫である俺をないがしろにするのか?」

「ないがしろにしているのは翔太でしょ。私のこと大切にするだなんて、全部嘘だったのね」

「それはこっちのセリフだ。夫婦として支え合う気は、ゆき子にはなかったんだな。もういい。今回のこと、父さんと母さんに言うから」

テーブルに並べたレシートをポケットにしまい込み、家を出ていく。彼はその日夜遅くまで帰って来なかった。そして深夜過ぎ、帰宅してもなお怒りが収まっていないのか、ドアを激しく開閉し、物に八当たりする。それほどまでに激昂する翔太を見ても、私は冷静だった。何があっても、祖父の遺産を彼には渡さない。そう心に決め、翔太との関わり方を模索していた。

すると翌日の休日、突然義両親が私たちの自宅に乗り込んできた。

「ゆき子さん、翔太から話を聞きました。あなた、家事を放棄しているって本当なの? 収入が減って困っている翔太に、手を差し伸べなかったそうだな」

「ゆき子さんは優しい女性だと思っていたのに」

義母は声を張り上げて私を攻め立て、義父は呆れ顔でため息をつく。おそらく翔太は義両親に対して、私が悪者のように話したに違いない。彼は怒り狂う義両親の隣で、薄ら笑いを浮かべていた。

「お父さん、お母さん、少し落ち着きませんか? 私は何も一方的に家事を放棄したわけではありません。翔太も同意した上で、料理を作らなくなっただけです」

「それがダメなのよ。翔太はゆき子さんの夫なんだから、嫁として翔太を支えるべきでしょ」

「翔太は私の家事に文句をつけるばかりで、一切手伝いません。しかも、生活費も振り込んでくれなくて。それでも、私に問題があるんですか?」

「ちょっと文句を言われただけで料理を作らなくなったのか。ゆき子さんは根性がないな」

こちらは真剣に話しているというのに、義父は軽くあしらう。

「翔太はゆき子さんのために注意しただけだ。夫に素直に従い、家事に励むのが良き妻だろう」

「翔太が生活費を出してくれていたら、私も彼のためにもう少し頑張ったと思います。ですが、そうやってお金のことばっかり」

「ゆき子さんは、おじいさんの遺産があるわよね」

義母も祖父から相続した遺産のことは知っている。それ故に、翔太と同じく私はお金に困らないと思っているようだ。

「翔太にお金を請求する必要はないでしょ。足りない分は、ゆき子さんの貯金から出せばいいじゃない。少しは翔太の負担を減らしてやるべきだ」

「翔太だって、ゆき子さんに力を借りたいんだよな」

義父が話しかけた瞬間、翔太は目を輝かせた。

「父さん、分かってくれてありがとう。俺、今は自分の給料で食費を賄っているけど、結構カツカツなんだ。だから、少しでもゆき子からお金をもらいたくて」

「翔太は少ない給料でやりくりして、どうにかやってきたのね。そこまで苦労していたなんて気づかなくて、ごめんなさい。てっきりゆき子さんが助けてくれているとばかり。ゆき子さん、毎月五万は翔太に生活費を渡してあげなさい。彼は今、大変な時期なんだ。妻として夫を支えなさい」

三人は私の気持ちなど無視して、勝手に話を進める。しかし、何を言われようと翔太にお金を渡す気はない。

「翔太は今、仕事に対して投げやりになっているだけです。きっと本気を出せば、以前の収入に戻るはずです。私がお小遣いを渡すと、彼は甘えてしまいます」

彼がどう義両親に説明したかは不明だが、「大変な時期」というのは嘘だ。自分がサボったせいで営業手当てが減っただけなのだから。説明してもなお、義両親は怖い顔で私を睨み続ける。

「仕事に対してやる気が出ないのは、ゆき子さんのせいだろう。まともに家事をしない嫁が家にいたら、誰だって気分が沈む」

「お金がダメなら、何か他のもの、翔太に譲りなさいよ。それこそ、おじいさんの車がいいわ」

「俺、あの車かっこいいなと思っていたんだ。ゆき子には似合っていないし、俺にくれよ」

味方がいるからか、翔太が強気になる。彼は以前から祖父の愛車を狙っていたようだ。

「最近、同僚がみんな車を購入していてさ。俺もちょうど欲しかったんだ。ゆき子の車をもらえるなら、新車を買う必要ないし、節約にもなるね」

「翔太もそう言っているし、譲ってやったらどうだ? 夫がかっこいい車に乗っていれば、ゆき子さんも嬉しいだろう」

楽しげに断定する義家族を見て、腹が煮えくり返る。あの車は祖父が大切にしていた愛車だ。三人にはその話を当然したし、私が定期的にメンテナンスをして大事に乗っていることも把握しているはず。それなのに、平然と譲渡を求めるなんて。

「祖父の愛車を翔太に譲る気はありません」

私はきっぱりと断った。立ちまち翔太が眉を潜める。

「なんで? 俺、ずっと嫌だったんだ。ゆき子が運転席で、俺が助手席に座るの。それなのに、ゆき子は全然俺に運転させてくれなくて」

「ゆき子さんは翔太のこと、嫌いなの? どうしてそう冷たく当たるのよ」

「そりゃ、車のこととなると翔太は信用できませんので」

私としては、義両親が首をかしげているのが不思議でならなかった。実は交際してすぐ、翔太は自身の事故で自分の車を廃車にしている。事故が起こる前から、彼は運転が荒く、助手席に乗っていても怖かった。そのため、祖父の愛車を翔太には運転させたくなかったのだ。

「お父さんたちも、事故のこと知っていますよね」

「でも、あれは三年以上も前のことでしょ。翔太もあの事故で反省しているわ。むしろ、高級車に乗せて翔太の運転技術を上げさせた方がいい。このまま助手席に乗せ続けるなんて、かわいそうじゃないか」

事故は過去のことだからと、あっけらかんと話す義両親。私がどれだけ心配だと伝えても、全く聞いてくれなかった。すると、しびれを切らしたのか翔太が顔を歪める。

「俺に渡したくないなら、もう売りなよ。あの車、維持費もかかるし、今後乗り続けるのは金の無駄だ。ゆき子には軽自動車で十分だろう」

「ふざけないで。あの車にはおじいちゃんとの思い出が詰まっているの。売るわけないじゃない」

思わず反論するも、彼はあしらうだけ。

「車も金も渡したくないなんて。やっぱりゆき子は自分勝手だな。俺のことはもうどうでもいいんだな。どれだけお金を持っていても、心は貧乏なのね。あんなにもいい車、ゆき子さんにはもったいないのに」

義両親は翔太と一緒になって、フンと鼻を鳴らす。

「何を言われようと、あの車は私のものですので」

私はどれだけ三人に攻め立てられても、車の譲渡も売却も拒否し続けた。しかし、翔太は諦めず、それからも執拗に私に車を渡せと要求してきた。義両親も定期的に私に電話をかけてきては、息子に譲れと告げる。私は本格的に離婚を視野に入れ出していた。だが、今別れを切り出しても、翔太がすんなり頷くとは思えない。彼はきっと私のお金を何とかして奪おうとするだろう。財産分与だ、慰謝料だと騒いで、泥沼化する可能性が高い。義両親もおそらく翔太と同じ考えだ。私はなるべくスムーズに彼と離婚できないかと頭を抱えた。

そんなある日のこと。翔太が玄関で私の車の鍵を熱心に見つめていた。

「何をしているの? 言っておくけど、車はあげないからね」

恐る恐る声をかけた瞬間、彼は肩をビクつかせた。

「俺は何も言っていないだろう。車の鍵すら見ちゃだめなのか」

「そう。さすがに盗んだりはしない。だから、怪しむのはやめろ」

それだけ言うと、足早に玄関を去り、自室へと向かう翔太。私は不穏な空気を感じて、念のため警戒することにした。翌日、早速車載カメラを最新のものに変え、ガレージに防犯カメラを設置する。万が一翔太に盗まれることがないよう、徹底的に対策を講じた。祖父から譲り受けたものは、全て守って見せる。

それから二週間ほど経ったある日の深夜、枕元に置いてあったスマホが振動して、私はふと目を覚ました。画面に表示されていたのは、ガレージに設置した防犯カメラのセンサーが反応したという通知。不審に思って隣のベッドへ視線を向けるも、そこに翔太の姿はなかった。嫌な予感がして、すぐさまスマホで防犯カメラのリアルタイム映像を確認する。次の瞬間、息を飲んだ。そこに映っていたのは、翔太だった。ガレージに防犯カメラを設置したことを、彼は知らない。

画面の中の翔太は、周囲を警戒しながら私の車のフロントボンネットを開けた。そして、何やら作業を始める。画面越しでは、彼が具体的に何をしているのかまでは正確に把握できない。が、私の車をいじっていることは明白だった。翔太は作業を進め、次はスプレー缶で何かを噴射する。その後、彼は運転席を開けて、アクセルペダルがある辺りを入念に確認した。何度かその工程を行った後、静かにボンネットを閉じた翔太。先ほどまでの行動からして、彼は私の車のアクセルにこっそり手を加えたに違いない。私は翔太が寝室に戻ってくる直前、慌ててスマホを消した。彼はバレていることなど一切気づかず、布団に潜り込む。

知らないふりしよう。内心そう呟きながら、私はしばらく彼を泳がせることにした。

そして翌日。昨晩の犯行が私にバレていないと思っているのか、朝から翔太は機嫌が良かった。

「ゆき子、今日は買い物行かないの? 来週分の食材とか、買っておいた方がいいんじゃない?」

満面の笑みでそう声をかけてくる。私を今すぐにでも車に乗せたいのだろう。彼の考えなどお見通しだったので、私は冷静を装った。

「そうね。夕方にでも行こうかしら。今から掃除と洗濯をしなくちゃいけないし」

「でも、午後から天候が悪くなるって天気予報で言っていたぞ」

「そうなの? でも、まだ出かける気分ではないわ」

期待外れの返答に、だんだんと翔太の顔が曇ってく。

「ゆき子って、意外と面倒なこと後回しにするタイプなんだ。天気が悪くなってから出かけるの、大変だと思うけどな」

「それじゃあ、翔太も一緒に買い出しに付き合ってくれる? 私一人で買い物するとなると、ちょっと億劫で」

「なんで俺が」

普段、休日は一日家でゴロゴロしている翔太。私が家事をしていても、買い物に出かけても一切目もくれず、スマホやテレビに夢中になっている。彼は今日も同行しないつもりだったのだろう。いきなり私に誘われて、戸惑っているようだった。

「毎回、私一人で買い物をしているの。たまには一緒に来てくれてもいいんじゃない?」

「でも、ゆき子は俺の飯作ってくれないくせに。それなのに、買い物に付き合わされるの?」

「そうね。分かった。誘った私が間違っていたわ。ひとまず洗濯するから、買い物はその後どうするか決める」

翔太を軽くあしらい、脱衣所にある洗濯機を回しに向かう。その様子を見て、彼は悔しそうに唇を噛んでいた。しばらく私が車に乗らないことを悟り、苛立っているに違いない。そんな彼を無視して、いつものように家事を行う。異変が起きたのは、それから三十分ほど経った頃だった。

「た、ゆき子さん、いるんでしょ?」

突然、玄関のチャイムが鳴ったかと思えば、モニターに義両親の顔が映っていたのだ。彼らはニコニコしながら、私たちに開けてと促す。

「二人とも、急にどうしたの? うちに来るって話だったっけ?」

困惑しつつ、翔太が玄関のドアを開ける。ただ、彼らは玄関に立ったままで、家の中には入ってこなかった。

「なんでそこにいるの? リビングに入りなよ。なんか俺たちに話があるんじゃないの?」

「どうされたんですか?」

義両親の行動に違和感を覚え、私も二人を見つめる。すると、彼らは靴箱の上にある車の鍵を手に取った。

「実は今から会社の元上司の家に遊びに行くんだ。そこでゆき子さんの車を借りたくてな」

「私の車ですか? どうして? お父さんだって、車をお持ちじゃないですか? 今日もここまで乗ってきたんじゃないんですか?」

自分の車があるというのに、わざわざ私の車を借りるなんて変だ。思わず首をかしげるも、義父は鍵を握りしめて話さなかった。

「俺の車は代わりにガレージに置かせてくれよ。今日一日貸してくれるだけでいいんだ。今日呼ばれている元上司の方は、今会社を経営なさっているの。そんな人の家に行くのに、いつもの車じゃ面白くないでしょ。だから、ゆき子さんのあのスポーツカーに乗りたくて」

おそらく二人は、見栄を張るためだけに私の愛車を借りようとしている。それに気づき、私はすぐさま反対した。

「乗り慣れていない車で走るのは危ないです。そもそも私の車、自動車保険の保証対象が本人限定なので、お父さんたちが乗車中何かあった時に保険が効かないんですよ」

万が一義父が事故を起こした場合、対人、対物、車両保険全てが適用されない。下手したら修理費用や損害賠償などを全額自己負担することとなる。義父の自動車保険には、他の車を運転した際の特約などもついていない。それを踏まえた上で、私は車を貸せないと断った。

「お互いのためにも、貸すわけにはいきません。お父さん、ご自身の車に乗ってください」

だが、義両親は考えを変えず、固くに車の鍵を返そうとしない。

「俺が事故を起こすわけがないだろう。何年車に乗っていると思っているんだ。翔太みたいに危ない運転はしないし、安心してちょうだい。もちろん、夜にはちゃんと返すから」

「そう言われましても」

私たちのやり取りを聞きながら、翔太はただ静かに体を硬直させていた。おそらく、義両親をどうすれば止められるのか、頭をフル回転させているに違いない。虚ろな目で、ただまっすぐ義父の手に握られた車の鍵を見つめている。

「ゆき子さん、私たち、家族でしょ。だから、借りるわね。事故だけは絶対に起こさないようにするから」

私は反対しましたから。これ以上止めても、義両親が素直に聞いてくれるとは思えない。私は半ば諦めつつ、それでも再度説得を試みようとした。すると、翔太がおもむろに口を開く。

「父さん、母さん、ゆき子の言う通りだ。事故が絶対にないとは言い切れない。念のため、自分の車で行った方がいいんじゃないか」

彼は額に冷汗をかいていた。そんなことに気づいていない義両親は、不思議そうな顔をする。

「まさか、俺が事故を起こすと思っているのか? 俺はお前じゃない。ほら、見てみろ。ゴールド免許なんだぞ」

「そうだってば。自分がゆき子さんの車を運転させてもらえないからって、嫉妬しているの?」

「そうじゃない。俺は父さんと母さんを心配して言っているんだ。どれだけ気をつけていても、事故は起こるものだから」

「ほら、翔太もこう言ってますよ」

私は彼に同意して、義両親に考え直してもらおうとした。しかし、二人は一向に首を縦に振らない。

「元上司の家はそんなに遠くない。心配しなくとも、事故は起きないさ」

「あら、そろそろ出発しないと間に合わないわ。ってことで、ゆき子さん、借りていくわね」

義両親は時計を確認し、足早に家を出ていく。翔太は真っ青な顔で二人を呼び止めた。

「待ってくれ!」

「もう、翔太、しつこいわよ。俺たちを老人扱いするな。心配してくれるのは嬉しいが、さすがに過剰だぞ」

呆れ顔で去っていく義両親。昨晩、翔太が車に何をしたか正直に言えば、二人も車を借りはしなかったはずだ。ただ、そんなことをしたら自分の犯行が私にまでバレてしまう。

「違うんだ。俺はただ二人のことが気がかりで」

義両親を追いかけ、翔太が玄関を飛び出す。しかし、十分後、彼は項垂れて帰ってきた。

「どうすれば」

「やけにお父さんたちのこと、心配しているわね。事故を起こさないってあれほど言い張っていたし、安全運転に務めるでしょう」

そう問いかけた途端、翔太は目を泳がせる。

「だけど、何があるか分からないじゃないか。ゆき子がもっと強く止めておけば」

「私は反対したわ。でも、お父さんたちが私の意見なんて聞くはずがない。それくらい、翔太だって分かっていたと思うけど」

「だとしても」

彼は口をもごもごさせながら、うろたえた。その様子に思わずフッと吹き出す。

「翔太ってば、あの車が事故を起こすと予測しているみたいね。何か心当たりでもあるのかしら」

「は? いきなりなんだよ。俺は万が一を恐れて」

「いや、いつもの翔太なら、お父さんたちを止めないわ。『家族なんだから』と言って、当たり前のように車の鍵を二人に渡したはずよ」

私の言葉に、翔太が気まずそうな顔をした。

「全部、ゆき子の勘違いだ。俺はただ不安だっただけ。心当たりはない。人聞きが悪いな」

そう告げるも、彼の声に覇気はない。私と目が合えば嘘がバレると思っているのか、翔太は視線をそらす。明らかに動揺しているのが見て取れた。そこで一呼吸を置いて、問いかける。

「じゃあ、翔太は昨日の夜、何をしていたの?」

一瞬目を見開くも、慌てて取り繕おうとする。

「昨日の夜? ごめん、何のことか分からない」

「そう。昨晩、ガレージに侵入して、私の愛車のボンネット開けていたわよね」

ここまではっきり言っても、とぼけられるつもり? 詳細を語った瞬間、彼は表情をこわばらせる。全てがバレていると気づき、演技もできないほど驚いたのだろう。

「あ、いや、今のは」

とっさに口を塞ぐが、もう遅い。私はまっすぐ翔太を見据えた。

「翔太には伝えていなかったけど、ガレージには防犯カメラを設置しているの。センサーが反応したら、私のスマホに通知が来るようになっていて」

「なんだよそれ。どうして俺に黙っていたんだ」

「やっぱり、ガレージに侵入したのね」

今にも倒れそうなほど、彼の顔が白くなる。ただ、すでに言い逃れできない状況だと察したのだろう。翔太は開き直ったように私を睨みつけた。

「そうだよ。ガレージに入った。ゆき子の車にも触ったさ。だから何? 俺がその時何をしたか、知っているの?」

「開き直るのね。車に触っただけだとでも言いはるつもり? あれだけいい車、ちゃんとメンテナンスされているのか心配だったんだ。でも、ゆき子は俺が車に近づいたら嫌な顔をするだろう。だから、バレないように触っただけだ」

自分の犯行までは見られていないと思ったのか、翔太は平然と白を切る。確かに防犯カメラの映像だけでは、ボンネットを開けて彼が何をしていたかは不明だ。

「昨日触っただけじゃ、車が整備されているかどうかはっきりとは分からなかった。だから、不安なんだよ。父さんたちの身に何かあってからでは遅い」

翔太はあくまでも義両親を心配して止めたと主張し続ける。だが、カメラは何もガレージに設置されたものだけではない。

「いつまでとぼけるつもり? よく『触っただけ』だと言えるわね。あの車には、車載カメラだってあるのに」

「へ? そんなものまで」

実は私は、360度、前方や左右、そして車内までも記録できる車載カメラを車に取り付けていた。ドラレコ専用のサブバッテリーを使用しているため、エンジン停止中でも撮影できる。そのため、翔太が昨晩車内でアクセルペダルを触っていたことも確認していた。

「今朝、翔太が寝ている間に映像を確認したの。したら、あなたがアクセルに手を加えている姿がしっかりと映っていたわ」

「いや、それは」

「証拠があるんだから、言い訳を並べても無駄よ」

事実を突きつけられ、彼は絶句する。何を言っても無駄だと悟ったようだ。すると、翔太はわなわなと体を震わせた。

「つまり、ゆき子にバレていると知った上で、父さんたちに車を貸したのか」

「翔太だって見ていたでしょ。貸したというより、お父さんたちが勝手に鍵を持っていって」

「ありえない。お前は、父さんたちが事故にあってもいいと思ったってことだな。最低な嫁だ」

彼は自分の行為を棚に上げて、私に罵声を浴びせた。ただ、怒り狂う翔太を見ても、私は呆気にとられるばかりだ。

「私は保険を理由にちゃんと断った。そもそも、翔太が自分のやったことを正直に話せば、お父さんたちだって車に乗らなかったと思うけど。そもそも、彼がアクセルに手を加えなければ、こんなことにはなっていない。怒る相手を間違えている」

私は淡々と正論を告げた。

「翔太は、自分が悪いことをやっているって自覚していたのよね。だから、お父さんたちに言えなかったんでしょ。そのせいで二人が事故にあったら、どうするつもり?」

「俺のせいにするなんて卑怯だ。ゆき子がもっと止めるべきだったんだよ」

「それじゃあ、お父さんたちに、翔太が昨日やったこと、包み隠さず話してもよかったの?」

「そんなことをしたら、二人が悲しむ」

「車が不調だからとでも言えば、引き止められたでしょう」

呆れ返って、言葉も出てこない。翔太は私に責任転嫁した挙げ句、親に犯行がバレるのは嫌だというのだ。

「息子が嫁の車に細工したと知ったら、父さんたちはショックを受ける。それだけは避けたい。だから、ゆき子が」

「いい加減にして。どうして私が翔太をかばわなくちゃいけないの? あなたは私を殺そうとしたんでしょ?」

「は? そんなわけないだろ」

すかさず否定する彼に、私は疑問を覚えた。人の車のアクセルに手を加えておいて、「殺す気はない」なんて、どうして言えるのだろうか。すると、翔太は目を泳がせた。

「俺はただ、ゆき子に痛い目を見て欲しかっただけだ。大切にしている車が廃車になったら、悲しむかなって」

「車だけ壊れて、私が無事だという確証があったの?」

「ゆき子は運がいいんだよ。何も死ぬわけ」

「なら、お父さんたちもきっと無事ね。車が廃車になっても、乗っている人たちは怪我をしないと思っているんでしょう」

怒りのあまり、声が強くなる。彼はどうして乗った人が死なないと思っているのか。車内の人間だけでなく、歩行者や他のドライバーを巻き込む可能性もある。大事故を引き起こしかねない行動を、翔太は取ったのだ。彼はそれを全く自覚していない。

「お父さんたちも、周囲の人も、誰も死なないなら、このまま走り続けても平気よね」

「そうは言っていないだろう。俺も万が一のこともあるとは思っていて」

「だとすれば、翔太は私を殺すつもりだったってことになるわね。万が一のことがあると、あなた自身が分かった上で細工したのだから」

次第に追い詰められていき、言葉に詰まる翔太。今になって、自分の行動がどれほど悪質か気づいたようだ。

「俺は、父さんたちを巻き込むつもりじゃなかったのに」

ブツブツと呟きながら、目を潤ませる。このままでは義両親が大変な目に遭うと思ったのだろう。すると、私をきっと睨みつけた。

「もし事故が起きたら、全部ゆき子のせいだからな」

「どうして私のせいなのよ。やったのは翔太でしょ」

「俺がどんな風に細工したかなんて、ゆき子は理解していないだろう。こっちは絶対に犯行がバレないよう手を加えた。防犯カメラがあったとしても、ごまかせるはずだ」

必死に虚勢を張り、私に罪をなすりつけようとする。彼は今ならまだバレないと考えていた。

「父さんたちが怪我でもしてみろ。整備不良でゆき子を訴えてやる。保険が効かないなら、損害賠償全部ゆき子に支払わせるから」

作戦変更したのか、このチャンスを生かして、翔太は私から金を巻き上げようとした。口角を上げ、不気味な笑を浮かべる。

「父さんと母さんを危険な目に合わせたんだ。その罪、ちゃんと償ってもらうからな」

彼は義両親の安全よりも、得ることを優先した。その目に気づいて、ぞっとする。

「あなたはお金が手に入れば、それでいいの。お父さんたちが事故に遭うかもしれないのよ。今は賠償金の話なんてしている場合じゃない」

「誰も事故を望んでいるわけではない。だけど、万が一のことがある。その時は、ゆき子に支払う義務があるってだけだ」

翔太は自分の行動を全く悪びれない。私は失望し、ポケットに入れていたスマホを確認した。

「翔太には悪いけど、お父さんたちは無事よ。事故は起きない」

そう言い切った途端、彼は目の色を変えた。

「なんでそんなこと、ゆき子が分かるんだよ。今、二人はあの車に乗って走行中だろ。それなのに」

「いや、二人は走っていないわ。近くのコンビニに停車している。発進することはもうないわね」

私の言葉の意味が分からないのか、翔太はあ然としたまま固まった。そんな彼に、スマホの画面を見せる。

「ほら、もう出発して二十分も経つのに、まだここにいるなんておかしいでしょ」

「ちょっと待てよ。その画面は何だ? もしかして、この丸が車の位置?」

「そうよ。車の位置をGPSで確認しているの」

義両親が乗った車は、最寄りのコンビニに止まっていた。何度も画面を見ては瞬きを繰り返す翔太。実は以前、防犯カメラと車載カメラを設置した際、私は愛車に通信型のセキュリティシステムを搭載したのだ。

「翔太は以前から私の車を狙っていたでしょ。だから、盗まれた時のために位置情報を把握できるようにしたくて」

「夫である俺を疑っていたのか」

「盗られていたことが判明したんでしょ。結果として、あなたは車に細工をしたのだから。私の判断は正しかった」

ただ、これはGPS追跡で車両の位置情報を知れるだけのシステムじゃない。

「遠隔でセキュリティをオンにすれば、エンジンは始動不能になる」

「始動不能って、エンジンがかからないってことか。でも、今父さんたちは最寄りのコンビニにいるんだよな。つまり、車は動いたってことだろ」

翔太が嫌そうな顔でこちらを見つめる。

「最初からシステムをオンにしていたわけではないの。私が車に乗る時、毎回オンオフにするのが面倒でね。だから、翔太がお父さんたちを追いかけて家を出て行った後にオンにしたのよ」

あの時、一瞬呆然としながらも、彼は未だに納得していない様子だった。

「どうしてオンにしたのに、車はコンビニまで行っているんだよ。普通、道の真ん中で止まるはずじゃないか」

「走行中に急にエンジンが停止すれば、事故になりかねない。だから、車が一度停止したタイミングでセキュリティがオンになる仕組みなのよ。お父さんたちがコンビニで止まったのが、不幸中の幸いね」

本来なら、義両親が車に乗り込む前にシステムをオンにするべきだ。それは分かっていたものの、慌てて彼らを止める翔太の前でスマホを使うわけにはいかなかった。

「あの時、私が頻繁にスマホを触っていたら、翔太は怪しむでしょ。だから、あなたが離れたタイミングでオンにするしかなかったのよ」

「じゃあ、ゆき子がシステムをオフにしない限り、車は動かないってことか?」

「そうよ」

昨晩、翔太がアクセルペダルにした細工は、走り出した瞬間アクセルが動かなくなるものではなかったのね。翔太は自分の犯行に触れられた途端、歯切れが悪くなる。車が事故を起こさなかった以上、彼の細工はそのまま残っているはずだ。きっと整備士に見てもらえば、異常なんてすぐわかる。軽微な劣化などではなく、誰かが故意にやったことも判明するだろう。

「きっとお父さんたちは、今頃コンビニで立ち往生しているんじゃないかしら。エンジンがかからない理由も分からないでしょうし」

「それ、セキュリティをオフにしないのか?」

「え? なんで? そんなことしたら、お父さんたちが事故に遭うのよ? 彼らはまだ、アクセルに手を加えられていることだって知らないのに」

翔太の発言に驚いていると、彼は無理やり笑顔を作った。

「だって、父さんたちは今から元上司の家に行かなくちゃならない。このままだと、二人は約束の時間に間に合わないじゃないか。俺、父さんたちを困らせたくないんだ」

「翔太は、賠償を私に払わせたいの。お父さんたちの無事より、お金を優先するってこと」

「父さんたちも、金が手に入ったら喜ぶはずだ。大丈夫。二人が大事故を起こすわけがない」

しどろもどろになり、翔太は言葉を続ける。

「俺も、父さんたちには怪我をして欲しくない。ただ、このまま車まで無事となると、話は変わってくるというか」

「証拠を隠滅しようとしているの。呆れた。そこまで人でなしだとは思わなかったわ」

「だって、俺、犯罪者にはなりたくないし。なんでこんなにもうまくいかないんだ」

計画が破綻したことにショックを受け、彼は深く項垂れた。私が痛い目を見ることもなければ、損害賠償も手に入らない。おまけに、翔太の犯行の証拠がそのまま残る形となったのだ。翔太は悔しそうに地団駄を踏み、これからどうするか思案し始めた。

その時、彼のスマホが鳴る。

「なんだよ、こんな時に」

舌打ちをしながらスマホを確かめた翔太。次の瞬間、彼は目を丸くする。どうやら義母から電話がかかってきたらしい。

「母さんたちと話すから、余計なことは言うな」

私に釘を刺した上で、翔太は通話ボタンを押した。

「どうしたの? 何かあった? え? 車が動かない? そんなバカな」

彼は驚いたふりをしつつ、義母の話に耳を傾ける。離れた場所にいても聞こえてくるほど、彼女の声は大きかった。

「このままだと、時間に間に合わないじゃない。どうして動かないの? ゆき子さん、ちゃんと整備しているのかしら?」

不機嫌な彼女に、翔太は丁寧に対応する。

「何か問題があるのは間違いないね。とりあえず、ゆき子にも聞いてみるよ。だから、また後でかけるね」

「後では困るの? 今、そこにゆき子さんもいるんでしょ? 彼女に早く変わって」

「そんなこと言われても、ゆき子も忙しいんだ。そもそも、彼女に聞いたところで動かない原因は分からないよ。ゆき子は車の持ち主だけど、専門家ではないし」

「いいから、変わりなさい。こうなった責任、ゆき子さんに取ってもらわないと」

彼は電話を切りたがるも、義母は引き下がらない。すると、そんな彼女の態度に苛立ったのか、翔太が語気を強くする。

「今はゆき子と話しても意味がないんだって。ひとまず、コンビニにいてくれ」

その瞬間、義母が明らかに戸惑った反応を見せた。

「なんで私たちがコンビニにいること、知っているの? そんな話、翔太には今していないわよね。私たちはただ、エンジンがかからないって言っただけよ。確かに、コンビニで止まって以来動かないけど」

「いや、周囲が騒がしいから、なんとなくコンビニの駐車場かと思っただけで」

苦しい言い訳を述べ、翔太はなんとかごまかそうとする。しかし、義母は追求をやめない。

「もしかして、翔太、近くにいるの? それとも、私たちの居場所を何らかの方法で知ったとか?」

「うるさいな。ごちゃごちゃ言わないで、大人しく待ってて」

慌てて翔太が電話を切ろうとする。私はすかさず、彼のスマホを奪い取った。

「お母さん、変わりました。ゆき子です」

「何をするんだ!」

翔太が私に向かって手を伸ばす。それをかわして、話を続けた。

「エンジンがかからなくなったんですよね」

「そうよ、ゆき子さん。点検をサボっていたんでしょう。不良な車を私たちに貸すなんて」

「私は何度も反対しましたよね。それを無視して乗っていったのは、お母さんたちです。ただ、感謝してください。私は二人が事故に遭うのを阻止したんですから」

「何の話よ」

電話の向こうで動揺する義母に、私は翔太がアクセルに細工をしたことを説明した。

「翔太が事故を起こそうとしたの? そんなまさか」

事実を知るなり、彼女は声を震わせる。

「私たちの息子がそんなことをするわけがないわ。ゆき子さん、嘘をつくのはやめてちょうだい」

「信じたくない気持ちは分かります。ですが、犯行の証拠である映像が残っているんですよ。それを確認していただければ」

「いい加減にしないか」

怒りのままに義母のスマホを奪い取ったのか、電話の主が義父になる。思わず耳を塞ぎたくなるほど、彼は私に向かって怒鳴り散らした。

「翔太は俺たちの息子だ。あいつが事故を起こそうとするなんてありえない。ゆき子さんは、俺たち親子の仲を引き裂こうとしているんだろう」

「違います。私は事実を言ったまでです」

「俺たちは騙されない。車の異常は、ゆき子さんが点検を怠ったのが原因だ。そうだろう。今すぐ、翔太に電話を代われ」

義父の言葉が終わるよりも先に、翔太が私の手元からスマホを取り上げる。

「父さん、ありがとう。ゆき子は俺を嵌めようとしているんだ。だから、味方してくれて嬉しいよ」

翔太は涙を滲ませて感謝を述べる。ただ、次第に表情をこわばらせていった。

「え、今からそっちに? 分かった」

翔太は電話を切るなり、私に視線を移す。

「父さんと母さんが、コンビニに来てくれって。車のこと、色々ゆき子に聞きたいみたいなんだ」

「分かった。どうせ車を回収しないといけないし、ちょうどいいわ」

「くれぐれも、父さんたちに余計なことを言うなよ。変なことを口ばったら、絶対に許さないからな」

低い声で彼は私を脅しにかかった。証拠があるというのに、なぜ義両親に隠し通せると思っているのか。呆然としながらも、私と翔太は歩いて最寄りのコンビニへと向かった。

「やっと来たわね。ゆき子さん、あなた一体どういうつもり? 車が動かなくなって、こっちは大変なんだからね」

到着するや否や、義両親は目を吊り上げる。二人は鬼のような形相で私を厳しく叱責した。

「メンテナンスを怠った車を家族に貸すなんて、ひどいわ。私たちがもしも事故に遭っていたら、どうする気だったの? 全部、あなたのせいだからね」

「先ほど約束していた元上司にも、連絡を入れたよ。本当に申し訳ない。最初からゆき子さんが車を整備していれば、こんなことにはならなかったのに」

「お言葉ですが、私はお父さんの車で行くように伝えましたよね。それでも無理やり出発したのは、二人ですから。そもそも、お父さんたちは翔太のせいで事故に遭いかけているんですよ」

改めて事情を説明するも、義両親は全く聞く耳を持たない。険しい顔で声を荒らげ続ける。

「またそうやって翔太に罪をなすりつけるつもり? さっきも言ったけど、私たちの息子がそんな非常識な行動をするわけないでしょ。ゆき子さんのこと、もう信じられないわ。夫を犯罪者扱いする嫁と結婚して、翔太があまりにもかわいそうだ」

「ゆき子さん、今すぐ翔太に謝罪しろ。そして、俺たちを早く元上司の家まで連れて行け」

「は? 待ってください。なぜ私が二人を元上司の家に?」

お父さんたちが困っていることは理解できます。だが、義両親が翔太の犯行を認めていない。今、謝罪を求められるのはまだ分かる。だが、どうして私が彼らを目的地まで連れて行く必要があるのか。そもそも、私の愛車は現在動かすわけにはいかない。義父がガレージに置いてある車で行けばいいだけのことだ。

「お父さんの車は動きますよね」

そう伝えるも、彼は難しい顔をする。

「俺たちがあの車で行けというのか。そんなことはできない」

「なぜですか? 元々、お父さんたちが私の車を借りたことがおかしいのに」

問いかけた途端、義母が顔を歪めた。

「仕方ないでしょ。車を買い換えたって、すでに元上司に伝えてあるのよ」

なんと義両親は、見栄を張って嘘をついていた。そのため、今までと同じ車では行けないそうだ。

「結構奮発して購入したとまで話したんだ。だから、ゆき子さんの車で行く必要があったんだよ」

「そんなことを私に言われても、嘘をついたのはお父さんたちですよね。私が責任を取る理由にはならないと思います」

「生意気な嫁ね。とにかく、お父さんの車には乗れないの。だから、せめて交通費くらい出して。ゆき子さんは、いくらでもお金があるでしょ」

またお金の話ですか。自分たちが悪いというのに、義両親は非を認めず、それどころか開き直って私に当たり散らす。今、金をせびるなんて何を考えているのか。そんな中、翔太も二人と結束して私を責め始めた。

「ゆき子は、父さんたちが困っているのに何も感じないのか。家族として、少しは力になれよ」

「いや、元を言えば、翔太の責任よね。あなたが車に細工しなければ」

「そうやって翔太を悪者にする態度も許せないわ。この子も否定しているでしょ。いい加減にしなさい」

彼に反論しようにも、義両親がすかさず翔太を庇う。二人は私に詰め寄り、改めて金を要求してきた。

「ほら、お金出して。この車はゆき子さんに返すから。俺たちは急いでいるんだ。こんなところで足止めを食っている場合じゃない」

「ゆき子、そろそろ自分の非を認めなよ」

居心地を悪くして、周囲の目も気にせず騒ぎ立てる三人。私は相手をするのも面倒になり、無視して確認した。事故を起こしたわけではないので、見た目は無傷だ。だが、アクセル周辺はしっかりと検証してもらう必要があるだろう。

「あ、すみません」

私は警察に通報して、事情を説明した。

「警察に迷惑かけるつもり? 犯罪者にしてあげようだから。家族を警察に突き出すとは」

「翔太、ゆき子さんとは離婚した方がいい。彼女はお前にふさわしくない」

大声で邪魔をして、通報を妨害する義両親。しかし、翔太だけは罰が悪そうな顔をした。

「ゆき子、もうやめようよ。俺も悪かったからさ」

彼は愛想笑いを浮かべながら、私をなだめる。証拠がある以上、警察が駆けつけたら面倒だと思っているらしい。そんな翔太に、義両親は訝しげな表情を見せる。

「翔太に悪いところなんてないだろ。ゆき子さんが一方的にお前を貶めようとしているんだから」

「こんなむちゃくちゃな嫁にしちゃだめよ。警察には、ゆき子さんの悪業を全部話せばいいわ。そうすれば、きっと翔太の味方をしてくれるから」

証拠の映像もあるのに、警察が翔太の味方をしますかね。私はスマホを取り出して、防犯カメラの映像を義両親に確かめてもらおうとした。だが、彼らは合成だと決めつけ、一切目を向けない。

「そんな偽物の映像を確認したところで、何の意味がある? わざわざ翔太を苦しめるために準備するなんて、どれだけ性格が悪いのか。もう、その映像は消しなさい。どうせ無駄だから」

「大丈夫よ。お母さんたちは、あなたの味方だからね」

翔太に向かって、義母がニッコリと笑いかける。

「母さん、ありがとう」

翔太はぎこちなく笑いながらも、目が泳いでいる。私はスマホの画面を義両親に向けた。

「合成かどうか、自分の目で確かめてもらえますか?」

「分かったわよ。どうせ偽物のくせに」

「翔太が犯罪者じゃないってこと、俺たちが証明してやる。安心しろ」

鼻で笑いながら、ようやく画面に視線を移す二人。その横で、翔太は額から滝のような汗を流し、体を震わせていた。再生ボタンを押した途端、昨晩のガレージの様子が映し出される。

「確かに翔太みたいな格好の男性ね。でも、本人かどうかは判別できないじゃない」

映像を見てもなお、余裕に口角を上げる義母。ただ、防犯カメラは一つではない。私は別角度から犯行の現場を捉えた映像に切り替えた。すると、義父が目を丸くする。

「これは、翔太だな」

私の愛車に触れる男性の顔が、目視でも確認できるほどはっきりと映った。その顔は、間違いなく翔太だった。義母は息を飲み、映像に集中する。

「翔太は、こんな夜中にガレージで何をしているの? 車の前なんて開けて」

「エンジンルームの中に、アクセルペダルと連動して動くスロットルレバーと、そこにつながるアクセルワイヤーがあるんです」

説明している間にも、映像の翔太は作業を進めていく。義父は目を光らせて、彼の行動を確認していた。

「翔太は、アクセルワイヤーが通る金属チューブの中に、強力な脱脂剤を流し込んだんでしょう。彼の手元に注射器のようなものがあるので」

「違う。俺はただ、汚れを吹き取りたかっただけだ。ネットでかじった知識だけど、いいクリーナーがあるらしくて」

「わざわざ注射器を用意したのか。そこまでしてお前がゆき子さんの車を点検するなんて、おかしいだろう」

この一言で、翔太が口を閉ざす。私は画面を拡大して、彼の手元をさらにはっきりと映し出した。

「翔太は中にある潤滑剤を洗い流した後、代わりに錆を誘発する薬品を注入した」

「錆を誘発したら、どうなるの?」

義母が軽く尋ねてくる。車の知識がないため、翔太の行動がどれほど問題か分かっていないらしい。彼女に解説した。

「深くアクセルを踏み込んだ瞬間、ワイヤーが固着して戻らなくなるんです。ブレーキも効かなくなり、その結果、大事故が起こる。翔太はそれを狙って細工したんです」

「ブレーキも効かないなんて。そんなの、もうどうしようもないじゃない」

義母の顔から、みるみる血の気が引いていく。義父は静かに翔太に視線を送った。

「翔太、お前はゆき子さんの命を狙っていたのか。この映像は、間違いなく本物だ。つまり、お前は殺人未遂よ」

「違う。誤解しないでくれ。俺はそんなことしていない。俺が点検しているのを、ゆき子が勝手な考えで解説しただけだ」

眉を潜め、私に不快感をあらわにする翔太。彼は未だに自分は無実だと訴える。

「ゆき子だって、大して車に詳しくないだろう。こんなことが知っているはずがない。ネットで仕入れた知識か」

「いいえ。今朝、車に詳しい友人にこの映像を送って、詳細を教えてもらったの。したら、翔太のやっていることが立派な殺人未遂行為だと分かった」

「は?」

意外な事実に驚いたのか、翔太が間の抜けた声を出す。彼は知らないけれど、私の古い友人に整備士がいる。さすがに私も昨晩の段階では、翔太が車に何をしたかまでは詳しく分からなかった。そこで、友人に解説を頼んだのだ。相手は快く受けてくれたものの、動画を確認するなり大激怒。

「こんなことしたら、間違いなく事故が起こる」と言っていたわ。「殺人未遂の証拠にもなるんじゃないか」って。だから、この映像と車載カメラのデータ、警察が到着したら提出するから。

「待てよ。殺人未遂って、また大げさなことを言いやがって。その友人に吹き込まれたから、俺に殺されるだの死ぬだの、思い込んでいたのか」

呆れ顔で言うも、翔太の顔は青ざめきっていた。自分がこのままでは犯罪者になってしまうのだ。なんとかして警察沙汰だけは避けたいに違いない。

「俺はただ、ゆき子を驚かせたかっただけだ。それ以上でも以下でもない。ただ、やりすぎだったよな。ごめん」

軽い調子ではあるが、彼は初めて謝罪の言葉を口にする。義両親も慌てて翔太をかばった。

「翔太は、食事を作ってもらえないストレスを抱えていたのよ。そのうさ晴らしで、ちょっといたずらしただけ。許してあげて」

「翔太も反省しているし、警察に通報するほどじゃない。夫婦二人、お互い謝罪して、今回のことは水に流したらどうだ?」

私はため息をこらえ、二人をまっすぐ見据えた。

「まだそんな寝ぼけたことを言っているんですか? 水に流せるわけないですよ。そもそも、お父さんたちも、翔太が謝罪すれば何でも許すんですか?」

「そりゃ、俺たちは親子だからな」

「分かりました。その言葉、信じますね」

スマホの画面を切り替え、音声メモのアプリを開く。そして、私は録音したとある会話を流した。

「父さんたちも、金が手に入ったら喜ぶはずだ。大丈夫。二人が大事故を起こすわけがない」

翔太の声だと気づいた瞬間、義両親は耳を済ませた。だが、翔太本人は顔を真っ青にする。

「ゆき子、やめろ。その音声は」

彼も気づいたのだろう。実はつい先ほど、自宅で防犯カメラの映像を見せた後、私は翔太との会話を録音していたのだ。犯行現場の映像があると知れば、翔太が何をしてくるか分からない。そこで、自分の身を守るため、証拠として残そうと思った。

「俺も、父さんたちには怪我をして欲しくない。ただ、このまま車まで無事となると、話は変わってくるというか」

音声の翔太はしどろもどろになりながらも、言葉を続ける。

「証拠を隠滅しようとしているの? 呆れた。そこまで人でなしだとは思わなかったわ」

「だって、俺、犯罪者にはなりたくないし」

私は停止ボタンを押した。

「これで、翔太が証拠を隠滅するためにお父さんたちを見捨てたことが、分かると思います」

義両親は口を閉ざしたまま、何も言わない。きっと翔太の考えを知り、絶望しているのだろう。二人は顔を小刻みに引きつらせながら、ゆっくり彼の方を見た。

「翔太、お前は俺たちが事故に遭うことを望んだのか」

「自分の犯行がバレない上に、金が手に入るんだから。お前からすれば、渡りに船だよな」

「父さん、落ち着いてくれ。俺はそんなこと思っていない。二人が急いでいたから、エンジンを始動させた方がいいかなって」

「それで、私たちが死んだらどうするつもりだったの? あなたは自分が犯した過ちで、両親が亡くなっても何も思わないってこと?」

次第に義父の声が大きくなっていく。

「翔太がこんなにも親不幸な息子だったなんて。俺たちは、犯罪者の家族になるのか」

「いや、どうして? 私たちは、翔太は家族だから、何があっても許すんですよね。お父さんたちがどうなろうと、自分さえお金が手に入ればそれでいい。そんな翔太の過ち、水に流せますか?」

「ゆき子、もうやめろ」

私の言葉を遮り、顔をくしゃくちゃにして叫ぶ翔太。次の瞬間、義父の怒声がコンビニの駐車場に轟いた。

「翔太は、俺たちを殺す気だったんだな。お前を信用した俺たちがバカだった」

「父さん、声が大きい。周りの人、みんな見ているって」

「そんなこと気にしている場合じゃないでしょ。翔太は、自分がやったことをまだ分かっていないのね」

義母が涙を流し、その場にへたり込む。コンビニの客であろう人たちは、ひそひそ話しながらこちらを眺めていた。

「なんでこうなるんだよ。俺はただ、ゆき子の鼻を明かしたかっただけなのに」

「鼻を明かす。そのために、私を殺そうとしたの。翔太って、そんなにも考えなしな人間だったのね」

私は目の前の翔太に失望しつつ、声をあげた。

「もう、あなたとは一緒にいられない。私と離婚してくれる?」

「え? なんで今? さすがに離婚はしないって。俺、前にも言ったよな」

うろたえながらも、彼は離婚を拒む。未だに私との夫婦生活を続けられると思っていたようだ。

「今回のことは、本当にただの冗談だったんだ。もう二度と、今回みたいなことはしないから」

「いたずらにしては度が過ぎているわ。私だけでなく、お父さんたちの命まで危険に晒したのよ。そんな人と、家族でいられるはずがない」

「嫌だ。このまま全てを失うなんて、耐えられない」

すると、翔太は私の足元にすがりつき、涙を流して懇願する。

「ごめん。俺が悪かったよ。もう二度と、おじいさんの遺産の話はしないし、家事も押し付けないって約束する。だから、離婚はやめてくれ」

「どうせ、遺産が手に入らなくなるのが惜しいんでしょ。もしかして、翔太は最初から私の大金に目をつけて結婚したの?」

「そうじゃない。本気でゆき子を愛していた。ただ、おじいさんの遺産が莫大だと知って、つい」

弱々しく言い訳を述べる彼を見ても、考えは変わらない。私は翔太から一歩離れた。

「車の修理費用、全額翔太が出してね。あの車に細工したこと、絶対に許さないから」

「お金なら出す。だから、離婚だけはどうか考え直してくれ。父さん、母さん、助けてよ」

彼は潤んだ目で義両親を見つめる。しかし、二人は一切助け舟を出さない。それどころか、翔太を睨みつけた。

「今回のことは、全部翔太の自業自得だ。離婚に至っても、仕方ないだろうな」

「なんだよそれ。ごめん。父さんと母さんにも、悪いことした。二人も怖い思いをしたような、申し訳ないと思っているから」

彼は形だけでも謝罪して、どうにか義両親を味方につけようとした。ただ、義両親の表情は変わらない。むしろ、険しくなる一方だった。

「謝られても、許せない。ゆき子さんが止めてくれなければ、私たちは死んでいたんだから。もう、翔太とは絶縁するから」

「本気なの? 俺と縁を切ったら、二人は子供がいなくなるんだよ。老後はどうするんだ? 困るのはそっちのくせに」

「犯罪者の世話になる気はない。自分たちでどうにかするから、心配するな。とにかく、翔太は一人で罪を償え」

「そんな。俺は息子なのに」

家族であるはずの義両親に突き放される翔太。すると、コンビニの駐車場にパトカーが到着する。

「彼が私の車に故意に細工して、事故を起こそうとしました。証拠の動画と音声があります」

私は警察官に証拠を提出し、ことの顛末を説明した。彼らは真剣な表情で話を聞き終えると、翔太に視線を向ける。

「待ってください。俺は無実です。車に細工なんてしていません。この女が仕組んだ罠だ」

必死の形相で叫び、警察官の言葉に耳も貸さない。翔太はどうにか逃げられないかと画策していた。義両親はそんな彼に目をそらし、関わろうとしない。

「父さん、母さん、なんで無視するんだよ。俺が捕まってもいいのか? 助けてくれよ」

パトカーに乗る直前、翔太は絶望した顔で一瞬こちらを見た。そんな翔太に、一言だけ伝える。

「弁護士を通して離婚の手続きをするから、そのつもりで」

「ゆき子」

もう何も言葉が出てこないのか、彼はその後黙り込んだまま、任意同行という形で警察官に連行されていった。パトカーが走り去るや、義両親がぎこちない笑を浮かべる。

「ゆき子さん、息子が迷惑をかけて、大変申し訳ございませんでした。今回のこと、なんとか御内輪に済ませてはくれないだろうか。家族の恥を、これ以上晒らしたくないの。だから、警察への被害届は取り下げてもらえると嬉しいわ」

何度も頭を下げて、ヘラヘラとすり寄る二人。私は断固として拒否した。

「私は翔太に殺されかけました。それなのに、なぜ御内輪に済ませないといけないんですか? 翔太は、しっかりと罪を償うべきです」

「それは、そうだが」

「さっさとガレージにある車に乗って、帰ってくれません? これ以上、私と関わらないでください」

「頼む。ゆき子さんの言う通りだ」

義父の言葉を合図に、二人はその場に崩れ落ちるように土下座をする。周囲の目も気にせず、彼らは頭を地面に擦りつけた。

「私たちが悪かったわ。翔太の言うことを真に受けて、ゆき子さんを傷つけてしまった。だけど、家族から犯罪者を出すのだけは嫌なの。もしも翔太が前科者になれば、近所からは白い目を向けられるし、親戚にも避けられる。それが怖いんだ」

「車の修理費は、私たちがなんとか区面する。示談金も、いくらでも払うわ。お願いします。翔太を犯罪者にしないで」

悲痛な叫びを上げ、私に懇願する義両親。しかし、二人が心配しているのは翔太のことではない。あくまでも自分たちの世間体を守るために謝っているのだ。翔太に絶縁を言い渡したとはいえ、このままでは義両親の生活に実害が及ぶ。彼らは今後を心配して、私に泣きついているのだろう。

「ゆき子さんなら、許してくれるよな」

「顔をあげてください」

「ゆき子さん」

何を勘違いしたのか、義母が目を輝かせた。ただ、私の表情を見た途端、許してもらえたわけではないと気づいたようだ。

「やだ、そんな怖い顔しないで」

「私は、翔太だけでなく、お父さんたちも許す気はありません。二人は彼と一緒になって、私から車を奪おうとしましたよね」

「あれは、翔太につい言いくるめられて」

「どんな形であれ、私は散々非難されたんです。その恨みがある以上、翔太のせいでお二人がどんな思いをしようが、私が助けることはありませんから」

きっぱりと答える私に、義母が青ざめる。

「ゆき子さん、冷たいわ。色々あったけど、私たち、家族だったでしょ。最初は優しくしていたし、その恩返しくらいしてくれてもいいじゃない」

「一瞬でも、車を貸してあげたんです。十分、恩返しをしたと思いますけど」

「頼む。ゆき子さん、お願いします」

義父が再度訴える。私はそんな彼を無視して、返事を返した。

「婚臨罪、関わらないでください。私はもう、あなたたちの家族ではないので」

諦めたのか、義両親はそれ以上何も言わなかった。そして、ガレージから車を回収して乗り込むと、ただ静かに走り去っていく。見届けた後、私はようやくすっきりした気分になった。

その後、私たちは無事に離婚が成立。翔太は殺人未遂容疑で逮捕された。会社も当然、解雇。義両親からは改めて絶縁を宣言されたそうで、彼は全てを失うはめになった。

ちなみに、義両親は翔太の逮捕が近所に広まり、周囲から噂をされて孤立しているという。彼らは殺人未遂に対する慰謝料と車の修理費用を含む損害賠償を、翔太の肩代わりをして支払ってくれた。ただ、そのために義実家を売却したらしい。現在、翔太は獄中、義両親はボロアパートで暮らしながら、苦しい生活を送っているそうだ。

一方、私は受け取った慰謝料で愛車を修理した。幸い、整備士の友人のおかげで、今まで通りの走りを見せてくれている。新しい住まいでの生活も始まり、久々の一人暮らしではあるが、仕事もプライベートも順調だ。先日は友人と共に愛車でドライブへと出かけた。この車が無事だったのは、天国にいる祖父が力を貸してくれたからかもしれない。

おじいちゃん、私、この車、これからもずっと大切にしていくからね。ハンドルを握りしめ、心の中でそっと呟く。今後は、自分のためにお金を使いながら、人生を楽しく過ごしたい。

Thumbnail