義弟の結婚式で、義理の姉になると宣言された女性の抱擁は、会場の空気を一瞬で凍らせた。新郎新婦が立つ高砂の前に、夫の武志は私ではない派手なドレス姿の若い女を連れて堂々と立っていた。親族席で座る私を完全に無視した、あまりにも馬鹿げた光景だった。
しかし、その時はまだ気づいていなかった。数分後、心優しいはずの義弟が放つ一言で、自分たちが地獄の底へ突き落とされることを。
私の名前は香織。四十二歳の普通の主婦だ。今日は夫・武志の弟、和也君の結婚式。和也君は真面目で優秀で、都内の大きなIT企業の役員を務めている。彼が選んだ相手の沙織さんも、優しく思いやりのある素晴らしい女性だった。歴史ある高級ホテルの披露宴会場は、二人を祝う温かい笑顔と拍手で満ち溢れていた。
ほんの数分前までは。
「ちょっと武志さん、一体何を言っているの?」
震える義母の声に、会場がざわつく。無理もない。長男である武志が、妻の私を置いて勝手に席を立ち、どこから連れてきたのか分からない派手な女と組み、挙句の果てに新郎新婦の前に立ちはだかったのだ。
武志は義母の声を完全に無視し、マイクも持たずに会場中に響く声で笑い声をあげた。
「いや、めでたい席だからな。俺もついでに重大発表をしとこうと思ってさ。実は俺、そこの親族席でふんぞり返ってるババアとは近々離婚することになってるんだよ」
その瞬間、会場のあちこちから悲鳴やざわめきが起こった。私は親族席に座ったまま、ただじっと冷たい視線で武志を見つめていた。反論する気すら起きない。怒りを通り越して、深い諦めが全身を支配していた。
「紹介するよ。こちら俺の最愛のパートナーであり未来の妻になるリナちゃん。和也、お前にとっても新しい義理の姉になる人だ。しっかり挨拶しとけよ」
リナと呼ばれた女は、結婚式にはおよそ不似合いな、肩も胸元も大きく開いた真っ赤なドレスを着ていた。彼女は香水の強い匂いを振りまきながら、和也君と沙織さんに向かって軽いノリで手を振った。
「どうも、リナです。和也君、結婚おめでとう。武志君からいつも聞いてるよ。なんかお兄ちゃんがいなくて寂しがってるんだって。これからは私が新しいお姉ちゃんになってあげるから、遠慮なく甘えてよろしくね」
会場の空気が完全に凍りついた。
「おい、武志。お前、自分の弟の結婚式で正気を失ったのか?」
義父が顔を真っ赤にして立ち上がろうとしたが、武志はそれを鼻で笑って静止した。
「親父はすっ込んでろよ。俺は今、人生の絶頂にいるんだからさ。和也もエリート街道まっしぐらで結婚。俺も若くて可愛い最高の女を手に入れて再婚。我が家にとっては二重の喜びじゃないか」
「もう、武志君ったら。みんなの前でそんなに褒められたら照れるじゃない」
二人は高砂の前で頬を寄せ合い、下品な笑い声をあげた。私はただ黙っていた。この男がここまで愚かだとは思っていなかった。武志は私の沈黙を、ショックで何も言い返せない敗北者の姿だと受け取ったらしい。彼は勝ち誇ったような笑みを浮かべて、私を指さした。
「おい香織。お前もさっさと現実を受け入れろよ。毎日すっぴんで家事しか能がない、四十を過ぎて女を捨てたような日陰者に、俺みたいな魅力的な男はもったいないんだよ。リナみたいに若くて綺麗で俺を立ててくれる本物の女と出会っちまったんだ。諦めてさっさと離婚届に判を押せ。慰謝料なんて払ってやらないからな」
リナもまた、私を見下すように笑みを浮かべた。
「おばさん、かわいそうに。でも、愛されないのにしがみついてる方がみっともないですよ。武志君のことは私がしっかり幸せにしてあげるんで、安心して身を引いてくださいね。あ、今日の料理、おばさんの分も私が食べてあげましょうか」
その場にいた全員が、二人の常識を疑う行動と言葉に息を飲んだ。誰かが止めに入らなければ。誰もがそう思った時だった。
「兄さん」
低く、しかし芯のある声がマイクを通して会場に響いた。それまで無言で事態を見つめていた新郎の和也君が、ゆっくりと立ち上がったのだ。彼の顔からは穏やかな笑顔が消え、氷のように冷たい目で兄とその女を見下ろしていた。
「なんだよ和也。お前もリナちゃんの美しさに言葉を失ったか?」
武志はまだ事の重大さに気づいていない。ヘラヘラと笑いながら和也君に言葉を返した。だが、和也君の口から出た言葉は、武志の期待するようなものではなかった。
「兄さん、その女性、うちの会社から一千万円を持ち逃げして、昨日警察に被害届を出された元派遣アシスタントの木下さんですよね」
静まり返っていた会場に、その言葉は爆弾のように投下された。勝ち誇ったように笑っていたリナの顔から、さっと血の気が引いていく。真っ赤なルージュを引いた唇が、カタカタと震え始めた。
「な、何言ってるの和也君。私はリナだよ。人違いじゃない」
引きつった笑顔で必死にごまかす彼女に対し、和也君は容赦なかった。彼は振り返り、来賓席に座る初老の男性に視線を向けた。
「専務、間違いありませんよね。先月まで経理部に出入りしていた派遣社員です」
呼ばれた専務が立ち上がり、目を細めて彼女を睨みつけた。
「間違いない。うちの金庫から現金と手形を持ち逃げした女だ。おい、誰か警察を呼べ。今すぐだ」
その怒号が響き渡った瞬間、リナの顔は完全に青ざめた。彼女は武志の腕を振りほどくと、ドレスの裾をまくり上げ、ヒールのパンプスを蹴り飛ばした。
「違う! 私じゃない!」
悲鳴のような声をあげると、彼女は素足のまま分厚い絨毯を蹴り、出口に向かって猛ダッシュで逃げ出した。スタッフが止めようとしたが、彼女はそれを突き飛ばし、あっという間に重厚な扉の向こうへと姿を消してしまった。
「リナちゃん……」
取り残された武志は、間抜けな声を出して立ち尽くしている。自分の自慢の女が、実は弟の会社の横領犯であり、警察から逃げ回っている犯罪者だった。その事実を処理しきれていないのだろう。口をぽかんと開けたまま、逃げていった扉と和也君を交互に見つめている。
会場は騒然となった。私は一人静かに、冷めたお茶に口をつけていた。
武志は昔からこういう男だった。見栄っ張りで自己中心的。自分がいかに優れた人間であるかを周囲にアピールしなければ気が済まない。私たちが結婚したのは十年前。当時の武志はまだ優しく誠実な青年だった。しかし、彼が課長に昇進した頃から態度は一変した。
「俺は稼いでるエリートだ。専業主婦のお前は、俺に養われている寄生虫だ」
それが彼の口癖になった。私はあえて言い返さなかった。ただひたすらに耐え、従順な妻を演じ続けてきた。だが彼には決定的に欠けているものがある。それは人を見る目だ。派手で自分を持ち上げてくれる人間ばかりを重視し、地味で堅実な人間を見下す。その愚かさが、今日という日に最悪の形で爆発したというわけだ。
「おい、武志。一体どういうことだ?」
帰宅した義父が、鬼のような形相で武志の胸ぐらを掴んだ。
「お前が連れてきた女は泥棒じゃないか。和也の結婚式をぶち壊した上に警察沙汰だと。恥を知れ」
「違うんだ親父! 俺は騙されて……リナちゃんは親の借金で苦労してるって。だから俺が助けてやろうと……」
見苦しく言い訳をする武志。その姿は先ほどまでの堂々とした不倫宣言をしていた男とは別人のようだった。和也君がため息をつき、冷たい声で言い放った。
「兄さん、彼女の親は資産家ですよ。横領したお金は全てホストクラブに注ぎ込んでいたと、すでに調査で判明しています。兄さんもいいカモにされていたんじゃないですか」
武志の顔が今度は悔しさで真っ赤に染まっていく。私は静かに席を立ち、騒ぎの中心にいる武志へと歩み寄った。
「香織、お前からも何か言ってくれ。俺は騙されてたんだ。悪いのはあの女だ」
だが私は冷え切った目で彼を見下ろし、静かに口を開いた。
「騙されていたなら、不倫をしていい理由になるの? あなたさっき自分で言ったわよね。私と離婚してあの人と再婚するって。慰謝料も払わず私を追い出すとも言ったわ」
追い詰められた武志の顔が、一瞬で醜く歪んだ。自分が悪者になっているこの状況から逃れるため、彼はいつものように私に責任を転嫁する道を選んだ。
「うるさい! そもそもお前が悪いんだろうが! お前がいつも地味で女としての魅力がないから、俺はあんな女に引っかかっちまったんだ! 全部お前のせいだ!」
逆ギレした武志の罵声が会場に響き渡った。私は心の中で冷たく微笑んだ。もっと吠えなさい。あなたが私を貶めれば貶めるほど、後であなたが落ちる地獄は深くなるのだから。
「全部私のせいね。分かったわ」
私がそう呟いた瞬間、会場の扉が再び勢いよく開かれた。そこに立っていたのは、数人のホテルスタッフに案内された初老の男性だった。銀色の髪をオールバックに撫でつけ、仕立ての良いスーツを着こなしたその姿を見た瞬間、武志の顔面から一気に血の気が引いた。
「だ、大文字社長? どうしてここに……」
大文字社長。それは武志が務めている中堅商社、大文字商事のトップだった。私自身、会社の創立記念パーティーで一度だけご挨拶をしたことがある。頑固で曲がったことを何よりも嫌う人物だと社内でも恐れられている人だ。
「彼には我が社の基幹システム導入で、並々ならぬ尽力をしてもらった恩があるからな。招待したんだ。……ところで、なんだこの騒ぎは」
大文字社長は凍りついた会場内を鋭い眼光で見渡した。そして、無様な姿で立ち尽くす部下の武志を睨みつけた。
「外にまで君の大きな声が聞こえていたぞ。妻を追い出して新しい女と再婚するだと。しかもその女は、和也君の会社から大金を横領して逃げ出した泥棒だそうじゃないか」
「社長、違います! これは何かの誤解で、私は騙されていただけで決してそんなつもりは……」
「君の家庭の事情に会社が口を挟むつもりはない。だが、我が社の管理職である人間が、御人である和也君の晴れの場をぶち壊し、犯罪者を連れ込んだとなれば話は別だ。武志君、明日の朝一番に私の社長室へ来なさい。君の処遇についてじっくり話を聞かせてもらおうじゃないか」
処遇。その言葉が意味するものは、言うまでもなく降格あるいは懲戒解雇だ。武志はがくんと膝から崩れ落ちそうになり、必死に近くのテーブルにすがりついた。彼の人生の全てである「エリート」というプライドが、音を立てて崩れ去ろうとしている。
しかし、追い詰められた彼のパニックは、やがて行き場のない怒りへと変わっていった。血走った目で立ち上がると、狂ったように私に指を突きつけた。
「お前のせいだ! お前がさっさと離婚に同意しないからこんなことになったんだ! お前みたいに何の取り柄もない寄生虫のせいで、俺の完璧なキャリアが台無しになった!」
「おい、聞いてるのか? いつもみたいにおどおどして謝れよ! 俺に養ってもらってる分際で、偉そうにすましちゃいけねえぞ!」
私の動じない態度がさらに癇に障ったのか。武志はついに怒りに任せて拳を振り上げた。親族から悲鳴が上がり、和也君が止めに入ろうとした、まさにその瞬間だった。
「香織さんに指一本でも触れたら、私が絶対に許しません」
凛とした、しかし強い怒りを孕んだ声が会場に響き渡った。振り上げられた拳を止めるように、私の目の前に立ちはだかったのは、純白のウェディングドレスを身にまとった新郎新婦の沙織さんだった。
「さ、沙織さん……なんだお前? 新婦だからって俺に指図する気か?」
武志が毒づくが、沙織さんは一歩も引かなかった。
「あなたは何も分かっていません。香織さんが何の取り柄もない専業主婦ですって? 笑わせないでください。香織さんが本当はどんな方なのか、あなたは自分の妻のことなのに何ひとつご存知ないのですね」
沙織さんの言葉に、武志は面食らったように口を開けた。
「この人が本当はどんな人間だって言うんだよ」
「香織さんはただの専業主婦なんかじゃありません。和也さんが今の会社を立ち上げ、成功を収めるために、誰よりも裏で……」
「あー、ストップストップ! もう聞いてられないね!」
沙織さんの言葉を、武志は下品な大笑いで遮った。
「なんだよそれ。弟の嫁にまでなって、こんな何の取り柄もないおばさんを庇うなんて。沙織ちゃんも人がいいというか、バカというか。苦し紛れの嘘にもほどがあるだろう」
「兄さん、沙織に対する侮辱は許さないぞ。沙織は本当のことを言ってる」
「こいつが何かすごい人間だって? 笑わせんな!」
武志は私を指さし、まるで演説でもするかのように大声で語り始めた。
「皆さん、聞いてくださいよ。こいつの正体を。こいつはね、結婚してからこの十年間、たったの一円も稼いだことがない。赤の他人に寄生しているだけの、無能な女なんですよ!」
彼は私への罵倒をエスカレートさせていく。
「こいつの毎日の生活を知ってますか? 朝から晩までパジャマみたいなよれよれの服を着て、一日中パソコンの画面を睨んでるだけ。俺が稼いだ金でネットショッピングでもしてるんでしょうよ。俺がどんなに激務で疲れて帰ってきても、『お帰りなさい』の一言もなくマウスをカチカチやってる時すらある。専業主婦のくせに家事も手抜きだ。俺というエリート夫に完全に寄生して、ぬくぬくと生きているだけのダニみたいな女だ」
私は顔色一つ変えず、ただ静かに彼を見ていた。確かに、私は一日中パソコンに向かっている。あなたが想像もできないような途方もない金額を動かしながらね。
武志の言葉を聞いた義母は両手で顔を覆って泣き崩れ、義父は怒りのあまり卒倒しそうになっていた。大文字社長は、もはや怒りを通り越して、ゴミでも見るような冷たい目で武志を睨みつけている。
「おい、香織。お前は俺の人生の汚点だ。お前みたいな社会の底辺は、今すぐ捨ててやる。……そうだ。いい機会だ。和也、お前の結婚式で悪いが、俺たちの離婚式も兼ねさせてもらうぜ」
武志はスーツの内ポケットから乱暴に茶色い封筒を取り出すと、中から一枚の書類を引き抜き、近くのテーブルに叩きつけた。
「おい香織。俺はお前がごねた時のために、完璧なものを用意してきたんだ。お前を完全にどん底に突き落とすための、最高の書類をな」
叩きつけられた書類のタイトルを見た瞬間、私はわずかに眉をひそめた。そこには「離婚協議書及び損害賠償・慰謝料請求書」と書かれていた。
「通用しないだって? バカを言うなよ。俺は完璧に計算したんだ。この十年間、家でゴロゴロしていただけの寄生虫を養ってやった食費、光熱費、家賃、ざっと計算して三千万円。それに加えて、冷え切った夫婦生活で俺が受けた精神的苦痛に対する慰謝料が二千万円。合計五千万円を、こいつは俺に支払う義務があるんだよ」
武志の口から飛び出した非常識な金額に、会場にはどよめきすら起こらず、ただ重苦しい沈黙だけが落ちた。大文字社長は筋を立て、信じられないものを見る目で武志を凝視している。
「おい武志、お前は自分が何を言っているのか分かっているのか? 妻に自分の生活費を請求するなど、聞いたこともない」
「社長、これは正当な権利ですよ。俺みたいに優秀で稼ぎのある男が、こんな何の生産性もない底辺の女に人生を搾取され続けてきたんです。むしろ五千万でも安いぐらいだ。……でも俺は優しいから、こいつが俺の財産に対する一切の権利を放棄して、裸一貫でこの場から出ていくなら借金は免除してやると、この書類に書いてやったんですよ」
つまり、私は貯金も住む場所も全て失い、身一つで放り出されることに同意しろというのだ。
和也君が書類を破り捨てようとしたが、武志はそれを素早く奪い取った。
「和也、やめろよ。こいつがこの書類にサインしないなら、今日の結婚式をぶち壊してやってもいいんだぞ。俺がここで暴れ回って、新婦の親戚の前で大声で騒いでもいいんだ。お前らの門出を最悪なものにしたくなければ、こいつにさっさと判を押させろ」
あろうことか、武志は弟の結婚式そのものを人質に取ったのだ。沙織さんのご両親は恐怖で身を寄せ合い、和也君は唇を噛みしめて拳を震わせている。
私は武志が更に続けた一言で、心の奥底で何かが凍りつくのを感じた。
「おい香織。お前がサインしないなら、実家の姑さんに払ってもらうことになるぞ。実は昨日、入院してるお母さんの病室に電話しておいたんだ。『お前の娘が俺の金を盗んで他の男と浮気してる』ってな」
「……そう、母を巻き込んだのね」
私の口からこぼれた声は、氷のように冷たかった。母は数年前に父を亡くしてから体調を崩し、現在は療養型の病院で静かに暮らしている。心臓が弱く、強いストレスを与えてはいけないと言われているのに。
「そうだ。本当に情けない親だよな。さあ、母親がショックで死ぬ前に、さっさとこの書類にサインしろ。そして俺の目の前から永遠に消えろ」
武志は私の目の前に、乱暴に万年筆を突きつけた。私はゆっくりと顔を上げた。これまで見せていた無表情な仮面が剥がれ落ち、自分でも信じられないほど冷たい視線で彼を睨みつけた。武志は一瞬、私のその目に怯んだように後ずさった。
「あなたが家でゴロゴロしているだけだとバカにしていた私のパソコン作業。あれはね、世界中の市場を相手にしたデイトレードよ。あなたが自慢していたその安っぽい給料の何百倍もの利益を、私はあの部屋で毎日、たった一人で稼ぎ出していたの」
「な、何を言ってるんだ……」
「あなたが自慢していたタワーマンション。あなたの給料だけで審査が通ると思う? 私が裏で頭金を払い、銀行に口利きをしたから購入できたのよ。あなたが着ているその高級スーツも、買ったものじゃない」
「嘘だ! 俺の稼ぎで……」
「ただの平社員だったあなたを課長に昇進させたのも、私が大文字社長に少しだけ口添えをしたからよ。あなたは自分の実力だと勘違いして、どんどん傲慢になっていったけれど」
次々と明かされる私の秘密に、武志の顔は青ざめていった。
「こ、こんなの信じられるか! 証拠が……」
私は静かにスマートフォンを操作し、スピーカーフォンで一通の電話をかけた。
「もしもし、神崎さん。実はしていただけますか。大文字商事に対する支援の計画を」
電話の向こうからは、落ち着き払った男性の声が響いた。
「承知いたしました。ただ今を持って、当方が保有する大文字商事の全株式の売却並びに、新規プロジェクトへの融資引き上げを即座に実行いたします。香織様、これまで本当にお疲れ様でした」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、席にいた大文字社長の顔から、文字通り全ての血の気が引いた。
「か、香織様!? 神崎代表が……まさかあなたが、我が社の筆頭株主であり、三年前の経営危機の際に匿名で多額の出資をしてくださった、あの投資家なのですか?」
会場が水を打ったように静まり返った。私はスマートフォンの通話を切り、大文字社長に向かって静かに頷いた。
「ご無沙汰しております。三年前の創立記念パーティーでは、夫の顔を立てるためにただの妻としてご挨拶させていただきましたが、私が経営者であることは間違いありません」
「ば、バカな……!」
大文字社長はよろめき、慌てて隣の従業員に支えられた。しかし、この期に及んでも武志だけは現実を理解できず、引きつった顔で笑い出した。
「社長、騙されちゃだめですよ! こいつが投資家? 筆頭株主? ははは、そりゃ一笑だ! こいつは毎日すっぴん姿で家でゴロゴロしながらネットサーフィンしてるだけのニートですよ! さっきの電話も、きっとどこかの劇団員でも雇って芝居させてるだけです!」
「兄さん、いい加減にしろ! 香織さんは、俺の会社が立ち上がったばかりで苦しかった時、最初の出資者として救ってくれた大恩人なんだ! 香織さんがいなければ、今の俺たちは存在しないんだぞ!」
かや君がそう叫んだ時、大文字社長のポケットでけたたましく携帯電話が鳴り響いた。
「はい! ……何? 株価が暴落している? 神崎ファンドが持ち株を全て市場に放出? メインバンクからも融資ストップの連絡だと!?」
社長の悲鳴が結婚式場に響き渡る。それは、私の決断が現実の経済を動かしている何よりの証拠だった。
「ふざけるな! 俺が悪いわけじゃない! 全部こいつが……香織が俺を騙していたせいだろう!」
血走った目で私を睨みつける武志に、私は冷たく言い放った。
「あなたが私に隠れて、あの女と会社の金を横領しようと計画していたこと。その全ての証拠を、大文字社長と警察に匿名でリークしたのは、他でもないこの私よ」
「な、なにを……」
「あなたは自分が完璧な人間だと思い込んでいたけれど、脇が甘すぎるのよ。パスワードもかけずにリビングのテーブルに放置されたパソコン、深夜にこそこそとかわしていたメッセージ。少し調べれば、あなたが会社の経理システムにどうやって不正アクセスし、あの女に金を横領させようとしていたか、手に取るように分かったわ」
「う、嘘だ! お前みたいな無能な女に、そんな高度な会社のシステムが理解できるわけがない!」
「私はプロの投資家よ。財務諸表や資金の流れを読むことに関しては、大文字商事の経理部の誰よりも専門家なの。あなたが作っていた裏帳簿なんて、子供の落書きレベルだったわ」
その時、電話の向こうから驚きの声が割り込んできた。
「……田中刑事!? あなた、さっきから何を……」
電話の相手だった刑事が、呆れたように言った。
「たけし容疑者。あなたが奥様を無能だと馬鹿にしていますが、我々警察から見れば、あなたの幼稚な横領手口を完璧に見抜き、合法的に追い詰めた奥様は、まさに天才的な頭脳の持ち主ですよ。それに比べてあなたは、愛人にいい顔をしたいがために会社の金を盗み、挙句の果てにその愛人から全ての罪をなすりつけられようとしている。どちらが無能かは、火を見るより明らかでしょう」
「け、刑事さん、何を……」
私は電話越しに、完全に打ちのめされている武志に向けて、最後の真実を突きつけた。
「たけしさん、あなたがリナという女に貢ぐために、あちこちの消費者金融からお金を借りていたこと。その額、三社合わせて二千万円にも上るそうじゃない。……あら、その金融業者たちの親会社がどこか、あなたは気づいていなかったの? あなたが借りた相手こそが、あなたが最も見下していた私自身だったというわけよ。あなたの借金の債権者は、今この瞬間からこの私よ」
「な、なんだと……!?」
「あなたは自分を一流のビジネスマンだと思い込んでいたようだけど、私からすればただの質の悪い債務者でしかなかったわ。あなたが自分で署名・捺印したあの離婚協議書、忘れたの? あなたは妻には一切の財産分与を認めず、夫の債務にも関与させないと宣言したじゃない。あの書類は今や私にとって最高の贈り物。あなたは今この瞬間から、法的に何のつながりもない赤の他人の債権者である私に対して、二千万の借金と賠償金、さらには慰謝料を一人で背負って生きていくことになるの」
武志は短い悲鳴をあげると、そのまま床に崩れ落ちて泣きじゃくった。私は通話終了ボタンを押し、静かにその場を後にした。
その後、武志は横領の共犯の罪で実刑判決が下り、会社を首になり、親族からも縁を切られた。リナとその父親が、かつて私の父から全てを奪った張本人であり、私の資産を狙って近づいてきたことも発覚した。彼らは組織的な詐欺の罪で、一家全員が崩壊した。
私はホテルの最上階にあるスカイバンケットを貸し切り、新郎新婦と親族たちを招いて、改めて二人の門出を祝福した。かつて何の取り柄もない主婦だと馬鹿にされた私は、今、誰よりも自由で、誰よりも満たされている。
私の本当の人生は、あの日、あの結婚式でかつての自分を脱ぎ捨てた瞬間から始まったのだ。



