指先が震えていた。畳の上で私は何度も頭を下げた。すり切れた布の鞄を握りしめたまま、「妹じゃなくてすみません」とだけ言った。相手の人は低い声でこう言ったんだ。「謝らなくていいです。来てくれたのがあなたでよかった。」
私は白石美、27歳。生まれ育った町の小さな印刷会社でジムのパートをしながら、実家の家事を一人で引き受けて生きてきた。父と母、それから三つ下の妹。家族の中で私はいつも「都合のいい時だけ名前を呼ばれる人間」だった。頼まれるのは選択と掃除と親戚への使い走り。褒められた記憶はほとんどない。「お姉ちゃんなんだから我慢しなさい」——その一言で、私の望みはいつも潰されてきた。
妹のり子は昔から可愛かった。目が大きくて色が白くて、笑うと親戚のおじさんたちがみんな目を細めた。母の口癖は「りこは特別だから」——父の口癖は「りこは器量がいいからいい縁に恵まれる」——その二つの言葉の外側に、いつも私はいた。
小学四年生の運動会の朝を今でもよく覚えている。私は前の晩から仕込んで、家族四人分のお弁当を一人で作った。卵焼きを焼いておにぎりを握って、たこさんウインナーまで作った।昼になって弁当を開けた時、親戚のおばさんが言った。「まあ、豪華ね。お母さん朝から大変だったでしょう。」母は少しも迷わずに笑った。「ええ、もう朝の五時から。」私は隣で麦茶を注いでいたひ「違うよ。私が作ったの」——その一言がどうしても出てこなかった。
中学の家庭科の授業で、先生に肉じゃがを褒められたことがある」地区のコンクールに応募してみないかとまで言われた」嬉しくて家に帰って夕飯の時にその話をした」父はテレビから目を離さずに「ふーん」と言っただけだった」妹は「地味な特技」と笑った」。それきり誰も何も聞かなかった」
私の誕生日は、母が「ああ、そういえば今日だったわね」と思い出したように言うだけの年が何度もあった»それでも私はり子のケーキのろうそくに火を灯すのを隣で手伝った»——妹が笑っていればそれでいいのだと、自分に言い聞かせて。
いつからか私はこう思うようになっていた——「私は誰かの予備なのだ」り子に何かあった時のための控えの子——主役にはなれない代わりの人間」。その思い込みは、年を重ねるごとに私の背中に重たくのしかかっていった。
成人式の日もそうだった」私の成人式には、母は「うちにはお金はないから」と言って、歌姿衣装の一番地味な振り袖を借りてきた」——それから三年後、り子の成人式には、母は張り切って呉服屋で仕立てた真新しい振り袖を用意した」帯も髪飾りも全て新品だった」私はり子の着付けを手伝いながら、鏡に映る華やかな妹を「綺麗だね」と褒めた」り子は「お姉ちゃんの時は地味だったもんね」と悪気もなく笑った。私も笑い返した」悔しさを飲み込むのは得意だった。
祖母が入院した時も、病院に毎日通って身の回りの世話をしたのは私だった」りこは「忙しいから」と一度も顔を出さなかった」それでも祖母が亡くなった後、親戚たちは口に「りこちゃんは優しい子だ」と言った」私が世話をしていたことなど、誰も知らなかったし、知ろうともしなかった。
一度だけ母に逆らったことがある」高校生の時、調理師の専門学校に行きたいと言ったのだ」料理が好きだったから」手に職をつけて、いつか自分の小さな食堂を持てたら——そんなささやかな夢が私にもあった」でも母は鼻で笑った「食堂?あんたがやめときなさい」それよりこの子の学費をあんたが稼いでちょうだい」姉なんだから。」その一言で、私の夢は口に出すことさえ許されなくなった。
大人になってもそれは変わらなかった」ジムのパートで得たお金は、ほとんど家に入れた」たまに自分のために何か買おうとすると、母が「ついでにり子の分もお願いね」と必ず言った」私が口紅を一つ選ぶ隣で、り子の化粧品が当たり前のように買い物かごへ入れられていく — 恋人ができたこともない」誰かに好かれるということが、私にはどこか遠い国の話のように思えていた。
それでも一つだけ楽しみがあった——会社の裏手にある小さな鉄工所の前を毎朝通ることだ」油と鉄の匂いのする古びた工場だった」朝早くから作業のおじさんたちが機械の前に立って黙々と手を動かしている」挨拶をすると、髪の白いおじさんが「おはよう」と素っ気なく手を上げてくれる」——なぜだか、その光景を見ると心が落ち着いた」誰かに褒められるためではなく、ただ目の前の仕事に手を動かしている人たち」その手が私にはとても尊いものに見えた。
いつだったか、大雨の朝、私が傘も差さずに走っていたら、その白髪のおじさんが工場の庇の下から古い折りたたみ傘を差し出してよしてくれたことがあった。
「持ってけ。」濡れて風邪を引くぞ。」あの日、洗って返しに行くと、おじさんは「いいからあんたが使え」と手を振った」。素っ気ないけれど温かい人だった。私はその傘を今でも大切に持っている」名前も素性も知らない」ただ朝の挨拶を交わすだけの間柄だった。
その縁談が持ち上がったのは、桜が散り始めた頃だった」り子にお見合いの話が来たのだ」相手は隣の市で鉄工所を営んでいる家の跡取りだという」父も母も乗り気だった」——ところが、お見合い当日になって話が崩れた」その日、り子は朝から不機嫌だった」相手の写真が地味な上に、年が離れていたからだ」それでも母に説得されて、渋々両家へ向かった」私は当日のり子の身支度を手伝わされ、そのまま荷物持ちとして両家の控えの間までついていった。」
両家についてからも、私は控えの間で荷物の番をしていた「主役は妹」私はいつものようにその裏方だった」それでよかった」私が表に出ることなんて、この先の人生にもきっとないのだと思っていたから。
相手の男性は先に来ていた」仲介のおばさんに案内されて座敷を覗いたり子が、その瞬間顔色を変えた——相手の人は、油の染みた作業着のままでそこに座っていたのだ」仕事の途中からそのまま駆けつけたという様子だった」手もゴツゴツして節くれ立っていた」無口で地味で、笑うでもなく、ただ静かに背筋を伸ばして座っていた」。
りこは控えの間に戻ってくるなり、吐き捨てるように言った「無理」あんな人、絶対に無理」作業着で来るなんて常識を疑うわ」どうせ貧乏な鉄工所でしょ」私を何だと思ってるの? 」——そして私が止める間もなく、裏口から出ていってしまった。
父と母は真っ青になった」仲介のおばさんはもう座敷で相手を待たせている「逃げたなんて言えるはずがない」控えの間は修羅場のようになった。母は蒼白な顔でり子の携帯に何度も電話をかけ、父は堪えかねて青筋を立てて押し殺した声でり子の名前を呼んでいた——けれどり子はもうどこにもいない」このまま相手を待たせ続ければ、白石の家の恥になる」仲介のおばさんの顔も丸つぶれになる」両親の頭にあったのは、ただそれだけだった」逃げたり子のことも、これから座敷で頭を下げることになる私のことも、二の次だった。
私はその時、いつものように思っていた」ああ、また私が後始末をするのだと」り子が散らかしたものを私が片付ける——それは生まれた時から変わらない、我が家の決まり事だった。
母は廊下で私の腕を掴んだ「みよ、あんたが代わりに行きなさい」。
私は耳を疑った」——そんな私が、り子のお見合い相手なのに。
「いいから、とにかくこの場をつないでくれればいいの」味噌を欠かせないで」白石の家の顔に泥を塗る気か」行け。」
断れなかった」断るという選択肢が、私の中にはそもそも用意されていなかった。」——私はり子のために選んだ淡い色のブラウスの上に、地味な自分の上着を羽織って、座敷の襖を開けた。
座敷の中は、しんと静まっていた」畳の匂いと床の間の掛け軸」——そしてその真ん中に、あの作業着の男性が一人座っていた」私が入ってきたのを見て、その人はゆっくりとこちらへ顔を向けた」私は足がすくんだ」り子の身代わりだと名乗らなければならない」きっとこの人は怒るだろう」地味な姉がのこのこ出てきてと呆気にとられるだろう——そう思うと、一歩を踏み出すのにありったけの勇気が必要だった。
「あの、申し訳ありません」妹じゃなくてすみません」妹は急に体調を崩してしまって、私は姉の白石美と申します」ご迷惑をおかけして本当にすみません。」言いながら、涙がにじみそうになった」恥ずかしさと情けなさと、り子への申し訳なさが一ぺんに込み上げてきたのだ」こんな身代わりの女が出てきて、相手はさぞ気分を害しているだろう」——そう思って私は畳を見つめたまま顔を上げられずにいた。
するとその人は、低い声でゆっくりとこう言った——「謝らなくていいです」来てくれたのがあなたでよかった。」
私は顔を上げた」その人はまっすぐに私を見ていた」からかっているのでも皮肉を言っているのでもない」本当にそう思っているという目だった」その人はそれ以上何も聞いてこなかった」事情をあれこれ聞き出すことも、妹を責めることも、しなかった」ただ自分の前に置かれていた湯飲みを、そっと私の方へ寄せてくれた「冷めていますが、よかったら。」手が震えていますよ。」
言われて初めて、私は自分の指先が震えていることに気づいた」慌てて湯飲みを取ると、その人の手が目に入った」ゴツゴツして、あちこちに古い傷のある大きな手だった」爪の間にはうっすらと油の跡が残っている」——それは私が毎朝見ていたあの鉄工所のおじさんたちと同じ手だった」なぜだろう」その手を見た瞬間、張り詰めていた気持ちが少しだけ解けた。
「無理にこの話を進めようとは思いません」あなたが嫌なら断ってくれていい」今日のことは僕から仲介さんにうまく伝えておきますから。」その言い方はあくまで静かで、押し付けがましいところが少しもなかった」私は俯いたまま小さく首を横に振った」嫌だとは思わなかった」ただこんな風に私自身の気持ちを聞かれたことがあまりに久しぶりで、どう答えていいのか分からなかっただけだ。
その晩、私は布団の中でよく考えた」——どうしてこの人は、そんなことを言ったのだろう」身代わりのあまり物の私で、どうして良かったのか」——けれど、その一言はなぜか私の胸の奥の一番冷えていた場所に、ぽたりと落ちてきた。
お見合いは、なくもお開きになった」私が控えの間に戻ると、廊下の隅で父と母が蒼白な顔で待っていた「どうだった? ちゃんとつないでくれた? 」私が頷くと、両親はほっとした顔をした」り子はとっくに一人で家に帰っていた」自分が引き起こした騒ぎのことなど、もう忘れているのだろう」帰りの車の中で、私はずっとあの人の言葉を胸の中で繰り返していた——「来てくれたのがあなたでよかった。」あんな言葉を、私は生まれて一度もかけてもらったことがなかった」——きっと、その場を丸く納めるための社交辞令だったのだ」そう思おうとした”思おうとして」けれど、あの真っすぐな目がどうしても頭から離れなかった。
問題はその後だった」り子が逃げたことを、両親はどうしても外へ知られたくなかった」親戚中にり子の縁談が決まりそうだと吹聴していたからだ」だから両親は、とんでもないことを言い出した——「みよ、あんた、あのまま黒岩さんのところへ行きなさい」
私は言葉を失った「——そんな、一度会っただけの人だよ」それに、り子のお相手だった人を——。「向こうはお前でいいと言っているんだ」この際贅沢を言うな」お前もいい年だ」うちにいても生き遅れるだけだろう。」母は少し声を和らげて——けれど、否は言わせない調子で続けた「り子が逃げたなんて世間に知られたらどうするの?

あんたが行けば丸く収まるのよ」姉が代わりに嫁いだ」いい話じゃないか」みよ、家のためにそのくらいしてくれてもいいでしょ。」
私はしばらく返事ができなかった」一度会っただけの人と結婚する」しかも妹が投げ捨てた縁談を拾う形で」普通ならありえない話だ」友達がいれば相談できただろう」でも私にはそんな相手もいなかった」両親は、私が断らないことを初めから分かっていた」私がこれまで一度も家の言いつけに逆らったことがないのを、知っていたからだ。
——でも、と思った」あの人のあの静かな目を思い出していた」——「来てくれたのがあなたでよかった。」あの言葉がもし本物なら、もしかしたら私はあの家で少しだけ息がしやすくなるかもしれない」そんなかすかな期待が、心の隅に灯っていたのも本当だった」——家のために——その言葉を、私は何度聞かされてきただろう」——覚悟はできていた、と言えば嘘になる」ただ、この家にいても私を必要としてくれる人はいない」それなら一そ——どこか投げやりな気持ちで、私は頷いた。
頷いてから、私は自分の部屋で一人になった」相談できる相手は誰もいなかった」私は押入れから古いボストンバッグを引っ張り出して、少しずつ荷物を詰め始めた」詰めながら、ふとあの人の言葉がまた耳の奥に蘇った——「来てくれたのがあなたでよかった。」もしかしたら——少しだけ私は思ってしまった」もしかしたら、あの家でなら、私は代わりではなく私としていられるのかもしれない」——すぐに、そんなはずはないと打ち消した」期待して裏切られるのは、もう慣れっこだったから」——それでも、その小さな明かりを私は完全には消せなかった。
結婚が決まると、話はとんとん拍子に進んだ」両家の顔合わせは、黒岩さんの工場に近い古い料理屋の座敷で行われた」私は貧しい工場の暮らしを覚悟して、その席に向かった。
顔合わせの席には、黒岩さんの他に年配の女性が一人座っていた」地味な色の着物に、滑り止めのついた割烹着のような上っ張りを重ねた、髪の白い女の人だった」黒岩さんは「母です」とだけ紹介した」その人がお茶を出してくれた時、私は自然に頭を下げた「ありがとうございます」いただきます。」当たり前のことだった」人にお茶を出してもらったらお礼を言う——それだけのことだ——けれど、その人は少しだけ驚いたように目を和らげた」。
その女性は私の隣に座って、ぽつりぽつりと身の回りのことを尋ねてくれた」好きな食べ物は何か? 休みの日は何をして過ごしているのか」私が「料理が好きです」と答えると、その人はふっと表情を緩めた「いいね」手を動かすのが好きな人はいい人だよ。」
——なぜだか、その言葉が私の胸に残った」手を動かすのが好きな人はいい人——誰にも認められなかった私の毎日を、その一言がそっと肯定してくれたような気がした。
黒岩さんはその席でも多くを語らなかった」ただ私の湯飲みが空になると、さりげなく自分でお茶を注ぎ足してくれた」私が箸をつけやすいように、料理の皿をさりげなく近くへ寄せてくれる——偉そうにするでもなく、機嫌を取るでもない」当たり前のように、目の前の人を気遣う」そういう人だった」私はこの家に嫁ぐことに、少しずつ心が傾いていくのを感じていた。
それでも、頭の隅ではまだ疑っていた」——鉄工所を営む家だと聞いていたのに、この人たちの物腰は、なぜかそれだけでは説明のつかない静かな余裕を湛えている」——その正体を、私はまだまるで分かっていなかった。
食事の終わりには、黒岩さんは私の両親に向かって深く頭を下げた「みおさんを大切にします」必ず幸せにします。」その言葉に飾りはなかった」ただまっすぐだった」父は少し戸惑ったように咳払いをした」鉄工所の嫁入びとが、と内心では見下していた相手から、こんなにも誠実な言葉が出てくるとは思っていなかったのだろう。
帰り際、黒岩さんは料理屋の廊下で私にそっと声をかけてくれた「今日は疲れたでしょう」無理をされていませんか? もし少しでも気が進まないなら、今からでも断ってくれていいんですよ」あなたの気持ちが一番大事だから。」
私は驚いて顔を上げた」これから嫁ぐ相手に「断ってもいい」という人が、どこにいるだろう——私の家では、私の気持ちなど一度も聞かれたことがなかった」——「いえ、あの、私こそ、こんな私でいいんでしょうか? 地味で気の利かない、身代わりの私で。」
そう言うと、黒岩さんは静かに、けれどはっきりと首を横に振った「身代わりだなんて思わないでください」僕はあなたに来てほしいんです。」
その一言を、私は家に帰ってからも何度も思い出した」——来てほしい」私に」——誰かに、そんな風に望まれたのは、生まれて初めてのことだった。
冷え切っていた私の心に、その言葉は小さなけれど確かな明かりを灯してくれた。
それでも心のどこかで、私はまだ半分疑っていた」こんなにうまい話が私の人生に起こるはずがない」どこかに落とし穴があるんじゃないか」あの人も、いつか私に失望するんじゃないか——でも、その度びに私はあの人の声を思い出した」——「来てくれたのがあなたでよかった」身代わりだなんて思わないでください」——その一つ一つの言葉が、私の中の臆病な部分を少しずつ溶かしてくれた」——その人なら、信じてみてもいいのかもしれない」私は生まれて初めて、誰かに心を開いてみようと思い始めていた。
結婚式は上げなかった」市役所に婚姻届を出して、黒岩さんの家に私の荷物を運び込んだ」それだけだった」両親は厄介払いができたとばかりに、あっさりと私を送り出した」妹のり子は、見送りにも来なかった」黒岩さんの家は、工場から少し離れた住宅街の古い一軒屋だった」決して大きくはないけれど、玄関を開けて私は少しだけ表書を抜かした心境だった」——貧しい暮らしを覚悟していた」畳のすり切れた、隙間風の吹く部屋を想像していた」——ところが、家の中は隅々まで綺麗に掃除されていた」私に割り当てられた部屋には、新しい布団と小さな机まで置いてあった」台所には鍋も食器も一通り揃っている」窓には真新しいカーテンがかかっていた」淡い若草のような色だった」——私が好きな色だった」どうして、と思った」偶然だろうか?
机の引き出しを開けると、ピンセットとペンまで用意されている」まるで、ずっと前から私がここへ来ることが決まっていたかのようだった」——考えすぎだと私は首を振った」きっと誰が来てもこうしているのだろう」そう思うことにした。
その晩、黒岩さんは自分で夕飯を用意してくれた「口に合うかわからないですが。」食卓に並んだのは、白いご飯と味噌汁と肉じゃがだった」私は箸を止めた」肉じゃが——私が一番得意で、一番好きな料理だった」どうして——どうしてそれを、と思った」——こんなに私好みのものが、これだと誰から聞いたのだろう」私はそんな話をした覚えがなかったけれど、それ以上は聞けなかった」一口食べると、味付けは母がいつも文句をつける私好みの、少し甘めの味だった」私は俯いて静かに食べた」涙がご飯の上に落ちそうになるのを、必死でこらえながら。
黒岩さんはそんな私を急かすでも、覗き込むでもなく、ただ自分も静かに箸を進めていた」その沈黙が、少しも気詰まりではなかった」むしろ、ありがたかった」——「味はどうですか? 」「美味しいです」すごく——本当だった」誰かが私のために作ってくれたご飯を食べるのは、いつぶりだろう」思い出せないくらい久しぶりのことだった」私の家では、ご飯を作るのはいつも私の役目だったから。
食後、黒岩さんは静かにこう言った「この家では、あなたの好きにしていい」嫌なことはしなくていいんです」もしこの結婚がどうしても嫌なら、いつでも自由にしてくれて構いません。」
私はまた、意味が分からなくなった」——嫁いできた女に自由にしていいとは、どういうことだろう? この人は、私に何も求めていないのだろうか? その晩、私はせめて食器を洗わせてほしいと申し出た」何かしていないと、落ち着かなかったのだ」黒岩さんは少し考えてから頷いた「じゃあ、お願いします」——でも、ここはあなたの家でもあるんですから」手伝いじゃなくて、二人で暮らすということ」で、お願いします。」「二人で暮らす」——その言葉が、くすぐったかった。
私は台所に立って皿を洗った」隣で黒岩さんが布巾でそれを拭いてくれる」ただそれだけのことが、なぜだか胸にちんと温かかった」私の家では、家事はいつも私一人のものだった」誰かと並んで台所に立つ——そんな当たり前のことを、私は27年間知らなかったのだ。
その夜、私はなかなか眠れなかった」慣れない天井を見上げながら考えていた」——こんな風に丁寧に扱われたことが、私には一度もなかった」だからこそ、怖かった」——どうせこれも長くは続かない」り子の身代わりで来ただけの、あまり物の私だ」今は物珍しくて優しくしてくれているだけで、そのうちこの人も気づくのだ」私が大した女ではないと」そうしたら、また私はいらない人間に戻る」布団の中で私は膝を抱えた」今日、私は結婚した」誰にも祝ってもらえない、ひっそりとした結婚だった」——それなのに、この家の人たちは私のためにカーテンの色まで選んでくれた」その優しさが嬉しいはずなのに、私は素直に受け取れなかった」優しくされればされるほど、怖くなる」——いつかこの人も私に飽きて、あの人たちと同じように私を代わりの場所へ押し戻すのではないか——そう思うと、せっかくの優しさが砂のように指の間からこぼれていく気がした。
枕元でスマートフォンが震えた」母からのメッセージだった「うまくやりなさいよ」り子の顔も立ててあげてね」落ち着いたら、少し援助のお願いもあるからね。」——ああ、やっぱり、私はここでも家のための道具なのだ」そう思うと、胸の奥がすっと冷えていった」眠る前に、私は持ってきた荷物の中からあの古い折りたたみ傘を取り出して、枕元に置いた」鉄工所のおじさんがくれたあの傘だ」理由は自分でも分からない」ただ、見知らぬ家の見知らぬ天井の下で、それだけが私の知っている温かいものだった」私はその冷たさを抱えたまま、浅い眠りに落ちた」この夜が明けた朝、全てがひっくり返ることも知らずに。
翌朝、黒岩さんはいつもの作業着ではなく、少しだけきちんとした上着を羽織っていた」それでもネクタイもしていない」飾り気のない格好だった」朝食の後、彼は私に言った「今日は少し付き合ってもらえますか?
行きたいところがあるんです。」
私は頷いた」断る理由もなかった」車に乗せられて向かった先は、街の外れだった」窓の外を灰色の建物が流れていく」やがて、古びたビルに着いた」四階五階建ての、くたびれたビルだった」ところどころ壁にひびが入っていて、かにも年季が入っている」私はぼんやりと考えた——ああ、ここが工場なのかも」もしかしたら私はここで、掃除のおばさんでもさせられるのかもしれない」——やっぱり、これから始まるのは、我慢の多い暮らしなのだ」——考えてみれば、私はこの人のことをほとんど何も知らなかった」町の鉄工所の作業員——無口で優しい人」分かっているのは、それだけだ」——これからどんな暮らしが待っているのか、掃除でも何でもやろう」私はそう腹をくくった」どうせこれまでもずっとそうやって生きてきたのだから、我慢することには誰よりも慣れていた。
そう覚悟しながら、私は黒岩さんの後についてビルの中に入った」中は外の古さとは違って、静かでよく磨かれていた」エレベーターで一番上の階まで上がる」その狭い箱の中で、黒岩さんは何も言わなかった」ただいつもより少しだけ、背筋が伸びているように見えた」私は鞄の持ち手をぎゅっと握りしめていた」——この扉が開いたら、どんな仕事を言いつけられるのだろう」そればかりを考えていた。
扉が開くと、広いフロアが目の前に広がった」その瞬間だった」——フロアの奥に並んでいた人たちが、一斉にこちらを振り向いた」みんな仕立てのいいスーツを着ていた」男の人も女の人もいる」——そして、その全員が私と黒岩さんに向かって、深々と頭を下げたのだ。
時間が止まったように感じた」何十人もの人が一斉に私に頭を下げている」——その光景は、現実とは思えなかった」ついこの間まで、私は実家で洗い物をして、り子の使い走りをしていたただの事務員だ」それがどうして、こんな——頭を下げた人たちの中には、若い人も白髪の人もいた」みんなきちんとした身なりで、けれどその表情は堅苦しいものではなかった」むしろ、長く待っていた人をやっと迎えられた——そんな温かい空気がフロア全体に満ちていた」私はその温度に呑まれていた」歓迎されることに慣れていなかったのだ」厄介者扱いにはあんなに慣れていたのに。
一番前に立っていた白髪の紳士が、進み出て腰を折った「会長、お帰りなさいませ」——そして、会長夫人、お待ちしておりました。」
私はその場に立ち竦んだ」会長、会長夫人——何を言われているのか、頭が理解を拒んだ」私は思わず後ろを振り返った」他に誰か偉い人が来ているのかと思ったのだ——けれど、フロアの入り口に立っているのは、すり切れた鞄を下げた私一人だった」膝が震えた」夢でも見ているのだろうか——並んだ人たちは、みんな私が顔を上げるのを静かに待っている」誰一人、私を身代わりのあまり物だと嘲る者はいない」それどころか、心からの敬意を込めて私に頭を下げているのだ」——生まれてこの方、私はこんな風に人から頭を下げられたことなど、一度もなかった。
白髪の紳士は柔らかい声で名乗った「申し遅れました」私は専務の相川と申します」会長夫人にはこれから色々とお世話になります。」相川と名乗った紳士は、それから黒岩さんに向かって丁寧に報告を始めた「昨日の役員会の件が、それから東方重の件で先方からまた連絡が——」黒岩さんは静かに頷いて、それから私の方を向いた」呆然としている私に、彼は少しだけ申し訳なさそうな顔をしてこう言った——「驚かせてすみません」ちゃんと話します」僕は黒岩信吾、この会社の——黒岩グループの——会長をしています。」
——黒岩グループ? ——その名前くらいは、私でも聞いたことがあった」いくつもの鉄工所を束ねて、大きな会社にも部品や技術を納めている」この地方では名の知れた会社だ」——まさか、その会長が——作業着でお見合いの席に現れたあの無口な人が——「でも、作業員なのは本当です」今も週に何日かは、現場で機械を動かしています」ただ、それだけじゃなかったというだけで——隠すつもりはなかったんです」ただ、最初から会社の名前を出したら、あなたに本当のことが分からなくなると思って——お金や肩書きに惹かれてくる人か、そうでない人か——そういう見極めを、僕はこれまで何度もしなければならなかったので。」
その言葉には、どこか疲れたような響きがあった」その人もまた、その立場のせいで、人の本心も疑わずにいられない——そういう場所に長く立ってきたのかもしれない」私は目が眩みそうだった」足元がくらくらと揺れる気がした」——この古びたビルは、掃除をさせられる職場ではなかった」黒岩グループの本社だったのだ. 私はその場にへたり込みそうになった」頭の中が真っ白だった」周りを見ると、スーツ姿の役員たちが温かい目で私を見守っていた」誰一人、身代わりのあまり物だと私を見下す人はいない」それどころか、みんなこの人が連れてきた奥様を心から歓迎しているようだった。
相川専務がそっと私に椅子を進めてくれた「驚かれるのも無理はありません」会長は昔からこういう方でしてね、ご自分の立場を少しもひけらかさない」現場では油まみれになって職人さんたちと汗を流していらっしゃる」私どもは、そんな会長を心から尊敬しているんです」その会長が、初めてご自分から『この人』とお選びになられたのが、あなたです」私どもがどれほどこの日を待っていたことか。」
——どれほどこの日を待っていたか——その言葉が、信じられなかった」私のような人間を、こんなにも大勢の人が待っていてくれたなんて——一人の若い女性社員が、そっと温かいお茶を私の前に置いてくれた」私は反射的に頭を下げた「あ、ありがとうございます。」すると、その社員は目を丸くして、それから嬉しそうに微笑んだ「こちらこそ、会長夫人にそんな風にお礼を言っていただけるなんて。」
私は戸惑った」私はただ、いつも通りお茶を出してもらってお礼を言っただけだった」それが、この人たちにはどうやら特別なことに映るらしい」——偉い立場の人ほど、周りの人に礼を言わないものなのだろうか”私にはよくわからなかった」ただ、お礼を言うのは当たり前のことだと、そう思って生きてきただけだった。
私は案内されるまま椅子に座った」差し出されたお茶を両手で包むように持つと、その温かさが怖っていた指先にじんわりと染みてきた」周りの人たちは、私にあれこれと話しかけてはこなかった」ただ、私が落ち着くのを静かに待っていてくれた」——その気遣いが、黒岩さんによく似ていた」この会社はきっと、上に立つ人の人柄がそのまま下まで染み渡っているのだ」私はまだ頭がついていかなかった」でも、一つだけ分かったことがあった」——ここは、私が思っていたような怖い場所ではない——ということだった。
後で知ったことだが、この会社の人たちは、みんな黒岩さんがいつか心から信じられる人を連れてくるのを、ずっと待っていたのだという——会長があんなに真っすぐで優しい人なのに、その隣がいつも空いている——それを、社員のみんなが我が事のように心配していたらしい」だから私が現れた時、みんなは心から喜んでくれた」会長の選んだ人、ずっと待っていたその人——私はそんな風に迎えられていたのだ。
黒岩さんは、私を会長室だという静かな部屋に案内した」大きな窓の外に、朝の町が広がっている」会長室と聞いて、私はどんな豪華な部屋かと構えた——でもそこは、意外なほど質素だった」古い木の机と使い込まれた革の椅子”壁には、額に入った白黒の写真が一枚だけ飾ってあった」若い頃の黒岩さんが、年配の男性と並んで、油まみれの作業着で機械の前に立って笑っている写真だった。
「この方は、父です」この工場を始めた人です。」写真の中のお父さんの笑顔は、黒岩さんによく似ていた」ゴツゴツした手を若い黒岩さんの方に置いて、心から嬉しそうに笑っている」私はその写真から、なぜだか目が離せなかった」彼は私にお茶を出してくれてから、ゆっくりと話し始めた。
「このビルはね、うちのグループの一番最初の場所なんです」父が、たった数人の仲間と小さな鉄工所を始めた」その工場が、この建物の一階にありました」今は本社にしていますが、僕はこの古い建物を立て替えずに残しているんです」立派な新社屋を立てようと、役員には何度も言われました」——でも、ここを離れたら、僕らは自分たちが何者だったかを忘れてしまう気がしてね。」「父は八年前に亡くなりました」この工場をたった三人の仲間と始めて、地べたを這うようにして今の会社にまで育てた人です」口数の少ない頑固な職人でした」その父がいつも僕に言っていた言葉が、二つあります」一つは——『肩書きじゃない」手を見ろ』——人を見る時は、その人が何を持っているかじゃなく、その人の手がこれまで何をしてきたかを見ろ、と」もう一つは——『現場を見下す者とは、金を積まれても組むな』——どんなに大きな相手でも、うちの職人のその手を下に見るような相手とは、決して手を組むな」父はそう言い残して亡くなりました。」
私は黙って聞いていた」手を見ろ——あの鉄工所のおじさんたちの節くれだった手”この人の傷だらけの手”私がずっと尊いと思ってきたもの”それを、この人のお父さんも生きている間、何より大切にしていたのだ」彼の声には、この場所への、そして父親への深い思いが滲んでいた。
「あの、どうして私だったんですか? り子のお見合いだったのに」身代わりの私なんかを。」
黒岩さんは少し間を置いてから、まっすぐに私を見た「身代わりだなんて、僕は一度も思っていません」あの顔合わせの席を覚えていますか?
あなたは、母がお茶を出した時、当たり前のように頭を下げて『ありがとう』と言った」帰り際には、工場の運転手にも深く礼を言ってくれた」うちの母は、あの日、割烹着みたいな格好をしていました」工場の賄いを長年やってきた人なので、妹さんはその格好を見て、あからさまに見下した顔をした」でもあなたは、違った」相手の身なりや肩書きじゃなくて、そこにいる人そのものを、ちゃんと見ていた」僕は、決めていたんです」現場で働く人は、その手を見下すような人とは絶対に一緒にならない、と——それは父との約束でもあった」妹さんが逃げて、あなたが襖を開けて入ってきて、畳に手をついて謝った」その手が、水仕事で荒れた働く人の手だった」僕はその瞬間に思ったんです」ああ、選ぶなら、この人しかいないと。」——でも、それだけですか? 私、あの時、ただ当たり前のことをしただけで——「当たり前ができない人が、世の中にはたくさんいるんです」特に僕のような立場の人間の前では、みんな僕にはいい顔をする」でも、僕の後ろにいる職人や母には、見向きもしない」あなたは、逆でした」僕じゃなくて、その周りの人たちを、まっすぐ見ていた」だから分かったんです」この人は、本物だと。」
涙がこみ上げてきて、溢れた」ぼろぼろと、お伝って落ちていく」私は27年間、ずっと自分を誰かの代わりだと思って生きてきた」り子の代わり、家のための道具、あまり物、誰かの引き立て役——それなのに、この人は——「もう一度言います」僕が迎えたかったのは、妹さんではありません」あなたです」みおさん」最初から、あなたを選んでいました。」
私は声を上げて泣いた」子供のように、しくり上げて泣いた」黒岩さんは何も言わずに、私が泣き止むのを待っていてくれた」急かすことも、困ったような顔をすることもなく、ただそばにいてくれた」——どれくらいそうしていただろう”ようやく涙が止まった頃、黒岩さんは静かに言った——「あなたに無理をさせるつもりはありません」会長夫人らしくしろとも言いません」ただ、あなたがあなたのままで、この家にいてくれたら、それでいいんです」これまでたくさん我慢してきたでしょう」だから、これからは少しずつでいい」あなたの好きなことをしてください」あなたの心が温かくなることを。」
私は頷くのが精一杯だった」言葉が出てこなかった」ただ、この人の言葉の一つ一つが、乾いた地面に雨が染み込むように、私の中へ染み渡っていった」——生まれて初めて、私は私自身として必要とされたのだ」誰かの代わりではなく、この白石美という人間として——私は黒岩さんの顔をそっと見上げた」この人は、私を哀れんでいるのでも、物珍しがっているのでもない」ただまっすぐに、私を必要としてくれている——その事実が、じんわりと胸に広がっていった。
あの朝、古びたビルで大勢の人に頭を下げられた時、私はただ呆然とするばかりだった」でも、今なら少しだけ分かる気がする」あの人たちが頭を下げていたのは、『会長の妻』という肩書きにではなかった」黒岩さんが心から信じて選んだ相手として、私を迎えてくれていたのだ」私はこの人を支えられる人間になれたらいい、と、そんなことを思った。
人一人で泣いて少し落ち着いた頃、ふと専務の相川さんが口にした言葉を思い出した」——『東方重の件で先方からまた連絡が』——あの報告を聞いた時、黒岩さんの横顔がほんの一瞬だけ翳ったように見えたのだけれど、この時は何も分かっていなかった」この人が背負っているものの本当の重さも、その重さの前で私自身がこれから何を選び取っていくことになるのかも——物語は、まだ半分だった。
あの朝から、私の暮らしは少しずつ変わっていった」信吾さんは、私に会長夫人らしく振る舞えとは一度も言わなかった」慣れないなら慣れなくていい”無理をしなくていい”ただ、この家にあなたがいてくれるだけでいい——そう言って、私のことを静かに見守ってくれた」私は少しずつこの家の暮らしに馴染んでいった」慣れてくると、私は自分から台所に立った」信吾さんのために、ご飯を作った」彼は、私の作るものをいつも「うまい」と言って綺麗に食べてくれた」誰かのために作ったご飯を、誰かが喜んで食べてくれる——ただそれだけのことが、私には涙が出るほど嬉しかった」信吾さんは相変わらず多くを語らなかった」でも私は少しずつ、この人のことが分かるようになってきた”朝は大抵私より早く起きて、コーヒーを入れてくれる”休みの日には「工場の様子を見に行く」と言って作業着で出かけていく”夜は遅くまで書類に向かっていることが多かった」会長という仕事がどれほど大変なものなのか、私には想像もつかなかった」それでも信吾さんは、どんなに疲れていても私の作った夕飯を必ず「うまい」と言って食べてくれた」私はその一言のために、毎日献立を考えるのが楽しみになっていた」——誰かに『美味しい』と言ってもらえる——それが、こんなにも幸せなことだったなんて。
義母の三江さんも、温かい人だった」私をお嬢さんなどとは呼ばず、「みおさん」と名前で呼んでくれた」二人で台所に立って、漬け物の漬け方や、工場の人たちの好きな味を、少しずつ教えてくれた」私は生まれて初めて、家の中に自分の居場所があるような気がしていた。
——けれど、そんな穏やかな日々に、二つの影がほとんど同じ頃に差し始めた」一つは、実家からだった」私の結婚相手があの黒岩グループの会長だと、どこからか両親の耳に入ったらしい」ある日、母から電話がかかってきた」その声は、私が家を出る時とはまるで別人のように甲高く弾んでいた「みよ、あなた水臭いじゃないの」こんなに立派なお家に嫁いだなら、どうして教えてくれなかったの」ねえ、今度り子も連れてそちらへ遊びに行ってもいい? り子もね、お姉ちゃんに会いたいって言ってるのよ。」——私は電話を握ったまま、しばらく言葉が出なかった”私が身代わりに突き出された時には、見送りにも来なかった人たちが——り子に至っては「あんな人と結婚なんて無理」と吐き捨てて逃げた妹が——数日後、り子からもメッセージが来た「お姉ちゃんすごいね」玉の輿じゃん」でもさ、正直——あれ、元々私の縁談だったんだよね」ちょっと複雑——まあ、お姉ちゃんが幸せならいいけど。」
——元々私の縁談——その一言が、胸の奥の古い傷をぐりっと抉った。電話の向こうで母は嬉しそうに話し続けていた「今度みんなでそちらへ挨拶に行くわ」ご近所にも自慢しなくちゃ」り子の分のお部屋も用意してもらえるかしら。」——まるで、私の結婚が家全体の手柄であるかのような口ぶりだった」私は電話を切ってから、しばらくその場に立ち尽くした”——あんなに私をいらない子のように扱ってきのに”都合が悪くなれば身代わりに差し出したのに”相手が立派な会社の会長だと分かった途端——この手のひらの返しを、悲しいというより、なんだか虚しかった」この人たちにとって、私は最後まで道具でしかないのだと、思い知らされた気がした。——そうだ、私は初めから身代わりだ”り子が逃げたから、私がその席に座っただけ”もしあの時り子が逃げなければ、信吾さんの隣にいたのは、綺麗で器量のいいあの子だったのかもしれない”信吾さんだって、本当は地味な私より、ああいう女性の方が——一度そう思い始めると、止まらなかった”あれほど信吾さんの言葉に救われたはずなのに、私はまたあの冷たい思い込みの中へ引き摺り戻されそうになっていた。
そんな私の様子に、信吾さんはすぐに気づいたようだった」ある晩、彼はぽつりと言った「実家の方から、何か言われましたか? 」私はとっさに首を横に振った”心配をかけたくなかった”でも信吾さんは静かに続けた「あなたは身代わりなんかじゃない」それは、僕が一番よく知っています”もし誰かがあなたにそう思わせるようなことを言うなら、その人が間違っているんです”あなたじゃない。」
その言葉に、私は俯いた”分かっている”頭では分かっている”でも、二十七年かけて私の心に染みついた『私は代わり』という思い込みは、そう簡単には消えてくれなかった”それでも、信吾さんがそう言ってくれるたびに、その思い込みは少しずつ薄くなっていく”私はそれを、信じたかった。
そして、もう一つの影は、信吾さんの方にあった」その頃から、信吾さんの帰りが目に見えて遅くなった」夜遅く、疲れ切った顔で帰ってくる日が続いた”食卓でも、ふと考え事をするように箸が止まる”私は気になっていたけれど、会社のことを迂闊に聞いてはいけない気がして、黙っていた」——ある晩、私は思い切って尋ねた「あの、お仕事——何か大変なことがあるんですか?
もし私でよかったら、話を聞くくらいは——」
信吾さんは少し驚いたように私を見て、それからゆっくりと話してくれた「東方重という会社を、知っていますか? 」——名前だけは知っていた”全国に名の知れた、とても大きな重機の会社だ——「うちのグループの一番の心臓は、あの古いビルの一階にある第一工場です」父が起こした最初の工場”あそこでしか作れない、精密な部品があるんです”飛行機や医療機器にも使われる、髪の毛より細かい精度がいる部品でね”それを支えているのが、父の代からの腕のいい職人たちなんです”——東方重は、その技術を欲しがっている」うちに資本を入れる代わりに、第一工場を丸ごと自分たちの傘下に置きたい、と言ってきているんです。」「それはいいお話なんじゃないんですか? 大きな会社が助けてくれるなら。」信吾さんは静かに首を横に振った「向こうの狙いは、技術だけなんです」工場を手に入れたら、古い機械は入れ替えて、年配の職人たちはみんなやめさせるつもりでいる」『効率が悪い』というのが向こうの言い分です」——父の代からうちを支えてくれた職人たちを、切り捨てるということです。」私は息を飲んだ。
「——断ればいいと思うでしょう」でも、そう簡単じゃないんです”東方重は、うちのグループの他の小さな工場にも、大きな仕事を出してくれている”もし機嫌を損ねて、その仕事を全部引き上げられたら、あちこちの工場が立ち行かなくなる”何百人という職人と、その家族が路頭に迷うことになる」——東方の狙いは分かっているんです”うちの技術をそっくり手に入れて、あとは自分たちの都合のいいように作り替える”職人の顔なんて、向こうには見えていない”ただのコストとしか思っていないんです。」「父が生きていたら、こんな話、鼻で笑って追い返したでしょうね”でも、時代が変わった”うちみたいな街の集まりが、大企業を相手に対等でいられるのは、簡単なことじゃない”僕は、父から受け継いだこの会社を、自分の代で傾かせるわけにはいかないんです。」
その声には、後継者としての重い責務がにじんでいた」信吾さんの横顔は、これまで見たことがないほど重く、疲れていた」——会長という肩書きの下で、この人はたった一人で、こんなにも大きなものを背負っていたのだ」私はその時、はっきりと思った——私のあの小さな傷なんて、どうでもいい”——身代わりだとか、そんなことを気に病んでいる場合ではない”この人が、こんなに苦しんでいる”私はこの人の力になりたい”たとえ何もできなくても、せめて隣にいたい”——これまでの私なら、きっと他人事のように通り過ぎていた”『私には関係ない』『私にできることなんてない』と”——でも、もうそんな風には思えなかった」この人が守ろうとしているものが、どんなに大切なものか”私には、痛いほど分かっていたから——あの油と鉄の匂いのする工場”そこで黙々と手を動かす、まだ何も知らない職人さんたち——それは、私が生まれて初めて心から守りたいと思えた場所だった。
次の日から、私は信吾さんに頼んで第一工場に通わせてもらうことにした」——会長夫人が現場に顔を出すなんて、と最初は役員の何人かはいい顔をしなかったけれど、信吾さんは「本人が行きたいと言うなら」と許してくれた」私は雑巾がけの手伝いでもいい”掃除でもいい”——とにかく、あの職人さんたちの近くにいたかった。
古びたビルの一階の工場は、油と鉄のあの懐かしい匂いがした」私が毎朝通り過ぎていたあの鉄工所と同じ匂いだった」——その工場の一番奥で、一台の古い旋盤に向かって黙々と手を動かしている白髪の職人さんがいた”その人の後ろ姿を見た瞬間、私はあっ、と声を上げそうになった”その人がこちらを振り向いた——日に焼けた、しわの深い顔”素っ気ないけれど温かい目——間違いない”あの雨の朝、私に傘を貸してくれた、鉄工所のおじさんだった——「おや、あんた、もしかしてあの印刷屋の裏で毎朝きちんと挨拶してくれた、あの娘さんじゃないか。」
「はい——あの傘の、あの時は本当にありがとうございました。」
その人は武田さん」みんなから「たけさん」と呼ばれている、この工場で一番古い職人さんだった”私の町の鉄工所も、実は黒岩グループの傘下にあって、たけさんはあの頃しばらくそちらの現場に応援に入っていたのだという”だから、あの朝の道で、私たちは毎朝のようにすれ違っていたのだ」——私はしばらく言葉が出なかった”あの名前も知らないおじさんが、今目の前にいる”しかも、私が嫁いだ家の一番古い職人さんとして——世界は、こんなにも細い糸で繋がっているものなのか”あの傘を貸してくれた何気ない優しさ”私が毎朝頭を下げていた小さな習慣”その一つ一つが、今こうして私をこの場所へ導いていた。
たけさんは、しわだらけの顔をくしゃっと緩めた「そうかい」あんたが、信吾ちゃんの——お嫁さんになったのか。」——いやあ、こんな縁があるもんかね——「実はな、ずっと前に俺は、信吾ちゃんに話したことがあるんだ」あの町の工場の近くに、毎朝俺たち職人にまできちんと頭を下げてくれる、感じのいい娘さんがいる、ってな。」——私は言葉を失った”——もっとずっと前から始まっていた——という信吾さんの言葉”その意味の一番奥にあったものに、私はようやく触れた気がした」——その日から、私は毎日のように工場へ通った」たけさんは、私にこの工場のことを少しずつ話してくれた”信吾さんの父、黒田鉄平さんのことも「鉄平さんはなあ、そりゃあ頑固な人だったよ」だが、職人の腕を心の底から尊んでくれる人だった”『たけ、お前の手はうちの宝だ』っていつも言ってくれてな”あの人がいたから、俺たちは胸を張ってこの仕事をやってこられたんだ」——「東方さんがうちの技術を欲しがるのもな、当たり前なんだ」この工場が作る部品は、日本中どこを探しても、ここでしか作れない”鉄平さんと俺たちが何十年もかけて、指先に叩き込んできた技だからな」機械ってのは正直でな”同じ図面を渡しても、心のこもってない手で作ったもんは、どこか狂うんだ”鉄平さんはいつも言ってた」物にも、作った人間の心が宿る、ってな”あの人の口癖だったよ。」
私は、たけさんの油の染み込んだ手を見た”太くて節くれだって、あちこちに古い傷がある”その手が、この国の名だたる機械の心臓を作ってきたのだ”誰にも褒められることもなく、ただ黙々と——私は、その手がたまらなく尊いものに思えた。
最初のうち、職人さんたちは「会長夫人が来た」と少し身構えていたけれど、私が偉そうにするでもなく、雑巾がけの手伝いをしたり床を拭いたりしているうちに、少しずつ打ち解けてくれるようになった”お昼には、私が大きな鍋で味噌汁を作った”職人さんたちは、油で汚れた手を洗って、私の味噌汁をうまそうにすすってくれた「——会長夫人の味噌汁が飲めるとはな、長生きするもんだ。」たけさんがしわだらけの顔でそう言って笑うと、工場中がどっと沸いた」私はその輪の中に、自分の居場所があることが嬉しくてたまらなかった”ここでは、誰も私を代わりだとは言わない”私が作ったものを、みんなが喜んで食べてくれる”それだけで、私は報われた気持ちになった。
工場に通ううちに、私は一人一人の職人さんの名前と、その手の仕事を覚えていった”旋盤のたけさん、溶接の無口な田口さん、検査を担当する目のいい年配の島田さん——みんな、何十年もこの工場で手を動かしてきた人たちだった”それぞれの手に、それぞれの物語が刻まれている”その手が作り出す部品は、やがて飛行機や、人の命を救う医療の道具になる」それを知って、私は胸が震えた”こんなにすごい人たちが、こんなにも目立たない場所で、黙々と働いている”世の中の人は、大抵それを知らない”私だって、この家に嫁ぐまで知らなかった”でも、私はもう知ってしまった”だからこそ、この人たちが『時代遅れ』の一言で切り捨てられていいはずがないのだ。
——ある日、三江さんが工場に私を尋ねてきた」そして、大切そうに一冊の古い手帳を私に見せてくれた「これはね、鉄平さん、あの人の現場の手帳」亡くなるまで肌身離さず持っていたものなの。」その手帳には、部品の細かい寸法や機械の調整の覚え書きに交じって、時折り鉄平さんの短い言葉が書き留められていた——『肩書きじゃない」手を見ろ』『現場を見下す者とは、金を積まれても組むな』——信吾さんが話してくれたあの言葉が、そこに力強い字で確かに刻まれていた”そして、一番最後のページに、こう書いてあった——『信吾の隣には、いつか人の手の温もりが分かる人が来てくれますように』——私はその行を、何度も何度も読み返した”目の奥が熱くなった”会ったこともない、信吾さんのお父さん”その人が、息子のためにこんな願いを書き残していた”——そして、その願いに、私が答えることになるなんて”——私は鉄平さんの力強い字を、指でそっとなぞった”まるで、その手帳を通して鉄平さんと握手をしているような気がした」——「みおさん」三江さんが、静かに言った「あの人はね、信吾にお金や見た目で相手を選んで欲しくなかったの」人の一生懸命を、ちゃんと見てあげられる——そういう人と一緒になってほしいと、願っていた」みおさん、あなたがあの顔合わせの席で見せてくれた、あの何気ない気遣い”あれを見た時、私はね、思ったのよ」ああ、鉄平さんが待っていた人が、やっと来てくれた——って。」——私はもう、こみ上げるものを抑えきれなかった”三江さんの手を握って、声を上げて泣いた”三江さんも、私の背中をそっと撫でてくれた「私もね、昔この家に嫁いでくる時、家が違うと随分反対されたのよ」ただの鉄工所の賄いの娘だったから”でも、鉄平さんは言ってくれた”『お前の手が一番綺麗だ』って——みおさん、あなたは身代わりなんかじゃない”あなたは、この家がずっと待っていた人よ。」
その夜、私は信吾さんに、三江さんから聞いたことを話した”手帳のことも、最後のページの言葉のことも”信吾さんは静かに聞いてから、ぽつりぽつりと、これまで話さなかったことを話してくれた——「父が死んでから、僕はたくさんの人に会いました”縁談も、数え切れないほど来た”でも、その人たちが見ていたのは、僕じゃなかったんです」——黒岩グループの会長という、肩書きと財産だった”——「ある人は、僕の目の前で、工場の職人を『あんな油まみれの人たち』と言って、顔を顰めた”ある人は、母の割烹着姿を見て、『恥ずかしいから着替えさせろ』と言った”——そういう人たちを見るたびに、僕は父の言葉を思い出したんです」肩書きじゃない、手を見ろ、と」——だから、僕はお見合いの時、わざと作業着で行くようになった”相手が、僕の格好を見てどんな顔をするのか——それを見たかったんです」意地悪なやり方だと分かっていました”でも、そうでもしないと、僕は本当の相手を見分けられなくなっていた」正直に言えば、僕はもう、結婚なんてしないつもりでした”心から信じられる人になんて、出会えるはずがないと、諦めかけていた」——人の笑顔の裏にいつも計算が透けて見えて、疲れていたんだと思います。」
私は、信吾さんのその孤独を思った”大きな会社を背負って、たくさんの人に囲まれて——それでも、この人はずっと一人ぼっちだったのかもしれない”本当の自分をまっすぐ見てくれる人を探しながら。」
「辛かったんですね。」——私がそう言うと、信吾さんは少し驚いたような顔をした”それから、ふっと力の抜けたように笑った「こんな風に言ってもらえたのは、初めてです」みんな僕のことを羨ましがるばかりで——『会長で、お金もあって、何の不自由もないだろう』と”でも、あなたは、僕の弱いところをまっすぐ見てくれた。」
——私は、この人も私と同じだったのだと思った”立場はまるで違う”でも、私たちは二人とも、本当の自分を誰にも見てもらえずに、ずっと寂しかったのだ”だから、あのお見合いの席で、私たちは出会うべくして出会ったのかもしれない。
——私があの朝の道で、名前も知らない職人さんたちに頭を下げていたことも”顔合わせの席で、割烹烹着のお母さんにお礼を言ったことも——ちゃんと見ていてくれる人が、いたのだ——「——もう一度、はっきり言います」信吾さんが、静かに言った「僕が迎えたかったのは、妹さんじゃない」あなたです”みおさん”何があっても、これから先も、それは変わりません。」
私は、信吾さんの胸に顔を押し付けて泣いた”生まれてきて、こんなにもまっすぐに必要とされたことはなかった”——そして、その涙の中で、私の心に一つの静かな覚悟が生まれていた”この人は、私を選んでくれた”私を、待っていてくれた”なら、今度は私の番だ”——この人が守ろうとしている、あの工場を、たけさんたちの手を、私も一緒に守りたい”たとえ地味で口下手な私にできることが、どんなに小さくても——これまでの私なら、きっとこう思っただろう”『私なんかが出しゃばっても、迷惑なだけだ』と——後ろに下がって、目立たないように息を潜める”それが、私の生き方だった”——でも、もう違う”この人が、私を私として必要としてくれた”だったら、私も、私にできることで、この人の力になりたい。
——東方重との、最後の話し合いの日が来た”場所は、あの古びたビルの一階、第一工場だった”向こうは、自分たちの申し出をこの現場を見せて、最後の決断を迫るつもりだったのだろう”工場の一角に、大きな机が運び込まれた」——東方重から来たのは、常務の九名という男だった”仕立てのいいスーツに、高そうな腕時計”部下を何人も従えて工場に入ってきたその人は、油と鉄の匂いに、あからさまに顔を顰めた——「いやあ、しかし、古い工場ですな」よくもまあ、こんな骨董品みたいな機械でやってこられたものだ。」九名さんは、並んだ機械を汚いものでも見るような目で見回した”そして、旋盤に向かっていたたけさんの前で足を止めた「失礼だが、あなた」おいくつですか? ——もう七十近いでしょう”こんなお年の職人さんに、うちが求める精度が、本当に足せるんですか?
——正直に言いましょう”うちが工場を引き受けたら、機械は全て最新のものに入れ替える”そして、職人も、若くて飲み込みの早い者に変えさせていただく”効率というものですよ。」
たけさんは、何も言わなかった”ただ、握っていた工具を、静かに置いた”その背中が、少しだけ丸くなったように見えた”——私の中で、かあっという怒りにも似たものが込み上げた”——そんなにも誇りを持って手を動かしてきたたけさんが”あの雨の朝、名前も知らない私に傘を貸してくれた、あの温かい人が——『時代遅れ』の、ただの一言で切り捨てられようとしている”私は、拳を握りしめた”九名さんは、信吾さんの方へ向き直った「黒田会長」悪い話じゃないはずだ”資本を入れれば、あなたのグループは安泰だ”もし、断るというなら——まあ、うちが今、あちこちの工場に出している仕事も、考え直さなければなりませんな”何百人の職人が、路頭に迷う”そうなっても、いいんですか? 」
——あさましい物言いだった”信吾さんは、じっと九名さんを見ていた”その顔は、苦しげだった”——断りたいけれど、断れば他の工場の仲間が傷つく”この人は、その板挟みの中で、押し潰されそうになっていた——私は、気づいたら立ち上がっていた”いつもの私なら、絶対にしないことだった”人前で意見を言う”偉い人に口を聞く——そんなこと、怖くてできるはずがなかった”——でも、この時だけは、体が勝手に動いていた——「あの、一つお尋ねしてもいいですか? 」九名さんが、鼻白な顔で私を見た「何ですか、あなたは? 」「会長の妻の、美と申します」——九名さんはさっき、この工場の機械を骨董品だと、たけさんの腕を時代遅れだ、とおっしゃいました”——それなら、一つ教えてください”東方重さんは、どうしてこの工場を、そんなに欲しがるんですか?
」
九名さんの顔から、笑みが消えた「——私は素人です」難しいことは分かりません”でも、これだけは分かります”東方重さんほどの大きな会社が——最新の機械をいくらでも持っている会社が、この古い工場の、この人たちの手で作る部品をどうしても欲しがっている——ということは、ここにしかない何かがある、ってことじゃないんですか? 九名さんたちが、どんなに新しい機械を入れても、真似のできない何かが——」
工場が、しんと静まり返った”九名さんは、答えなかった”答えられなかったのだ”——私は、たけさんの方を見た「たけさん、あの部品、見せてもらえますか? 東方さんが何度作らせてもうまくいかなかったっていう、あの部品を。」たけさんは、ぱあっとした顔をして、それから作業台の引き出しから、小さな金属の部品をそっと取り出した”掌に乗るくらいの、銀色に光る精密な部品だった「——これは、東方さんの新しい機械の心臓に入れる部品でね”この精度は、髪の毛の何分の一の狂いも許されない”向こうは、最新の機械で何度も作ろうとした”でも、どうしてもこの精度が出せなかった”それで、うちに頼んできたんだ。」
たけさんの手のひらの上で、その小さな部品は、蛍光灯の光を受けて、息を潜めるように光っていた”何の変哲もない金属の塊のように見える”でも、この一つを削り出すのに、たけさんは丸一日、旋盤の前から動かないのだという”息を止めるようにして、指先のわずかな感覚だけを頼りに、髪の毛よりも細かい世界と向き合う”——それは機械には決して真似のできない、人の手だけが持つ、神業のような技だった”——私は、その部品をそっと両手で受け取った”ずしりと、重かった”——たけさんの、何十年もの時間の重さだと思った——私は、その部品をみんなに見えるように持ち上げた「九名さん、あなたが『時代遅れ』だと笑った、この手が、あなたの会社の一番大事な機械を動かしているんです”あなたたちが欲しいのは、工場じゃない”この、たけさんの手、そのものなんです”それを切り捨てて、若い人に変える”——その手を、下に見て——そんなことをしたら、あなたたちが本当に欲しかったものは、この世から消えてしまいます。」
九名さんは、私をまじまじと見た”——まさか、身代わりで嫁いできただけの地味な女が、こんなことを言い出すとは、思っても見なかったのだろう”部下たちも、気まずそうに顔を見合わせている”——膝が震えていた”声も、震えていた”それでも、私は一歩も引かなかった”ここで引いたら、手が、大地君の未来が、この工場の全てが、失われてしまう”——そう思うと、怖さよりももっと大きな何かが、私を突き動かしていた——「——私の夫のお父さん、この工場を作った黒田鉄平さんは、手帳にこう書き残していました」『現場を見下す者とは、金を積まれても組むな』と”——私、その言葉の意味が、今やっと分かりました。」
言い終えて、私は大きく息をついた”心臓が、破れそうなほど鳴っていた”工場中が、水を打ったように静まり返っていた”職人さんたちが、みんな私を見ていた”たけさんも、大地君も——私の言葉が正しかったのか、間違っていたのか、自分でも分からなかった”ただ、言わずにはいられなかった”この人たちの手を、誰かに「時代遅れ」だなんて言わせたくなかったのだ。
——その時、信吾さんが静かに立ち上がった”その目には、もう迷いがなかった「九名さん、妻の言う通りです」あなたのお話は、お断りします”うちの職人の手を下に見る人とは、たとえ会社がどうなろうと、僕は手を組みません”それが、父の残した言葉です”そして——今日、僕の妻が、僕に思い出させてくれた言葉です。」
その言葉に、工場の空気が変わった”俯いていたたけさんが、顔を上げた”若い大地君が、拳を握った”職人さんたちの目に、力が戻ってきた”——会長が、自分たちを守ってくれた”自分たちの手を、誇りに思ってくれている”——それが、伝わったのだ——「——後悔しますよ」九名さんが、声を尖らせた「仕事を、全部引き上げる」それでも、いいんですか? 」「どうぞ」信吾さんは、静かに言った「ただ、そちらもお困りになるのでは?
」その部品を作れるのは、日本中で、この工場だけだ”うちとの取引をやめたら、東方さんの新しい機械は、心臓のないまま、動きませんよ。」
九名さんは、ぐっと言葉に詰まった”顔が、みるみる赤くなっていく”しばらく何かを言いかけて——けれど、結局何も言えなかった”自分たちの弱みを、たった今、この場の全員に知られてしまったからだ”部下の一人が慌てて、九名さんに何かを耳打ちした”おそらく、私の言ったことが素性調だったのだろう”あの部品なしでは、東方重の最新の製品は完成しない”それを、こんな場所で、みんなの前で言い当てられてしまった”九名さんの額に、汗が浮いていた”——数字と脅しだけで世の中は動く”そう信じてきた人が、初めて——お金では買えないものの前で、立ち竦んでいた——「——失礼する。」九名さんは吐き捨てるように言うと、部下たちを連れて、足早に場を出ていった”あんなに偉そうだった背中が、逃げるように小さくなっていった”——場に、しばらく沈黙が流れた”——それから、誰からともなく、拍手が起こった”職人さんたちが、みんな私と信吾さんに向かって、手を叩いてくれていた”たけさんは、しわだらけの顔をぐしゃぐしゃにして、泣いていた「あんた、あんないい台詞、どこで覚えたんだ? 鉄平さんが生きてたら、どんなに喜んだか。」
信吾さんが、私の肩にそっと手を置いた「ありがとう、みおさん」あなたがいなかったら、僕は多分、東方の言いなりになっていた”一番大事なものを、自分の手で手放していた”あなたが、父の言葉を思い出させてくれたんです。」
私は、首を横に振った”声がうまく出なかった”ただ、この人の役に少しでも立てたのだと思うと、胸がいっぱいで、立ち尽くしそうだった”職人さんたちが、次々と私と信吾さんのところへ来て、頭を下げてくれた”『守ってくれて、ありがとうございます』と”——私は、その一人一人の、節くれだった温かい手を、握り返した”——この手を守れてよかった”心からそう思った”——私は、笑いながら泣いていた”地味で口下手で、人前では目も泳ぐ、あの私が——生まれて初めて、誰かのために声をあげたのだ。
東方重との話は、それきり立ち消えになった”結局、向こうはあの部品なしでは自分たちの製品も作れなかった”数ヶ月後、東方重は九名さんとは別の担当者を立てて、改めてうちに頭を下げてきた”今度は、傘下に置くのではなく、対等な取引先として正式に部品を発注したい、と”信吾さんは、その申し出を受けた”——現場を、たけさんたちの手をきちんと敬う”その条件を、向こうが飲むのなら——と。
あの日以来、たけさんが、私のことを少しだけからかうようになった「会長夫人が、大企業の常務を言い負かしちまったんだからな”うちの工場の守り神だよ、あんたは。」そう言って笑う、たけさんの顔は、あの雨の朝、傘を貸してくれた時と同じ、温かい顔だった”——私は、この工場の役に立てたことが、ただ嬉しかった”地味で口下手な私にも、守れるものがあったのだ。
信吾さんも、あの日を境いに、少し変わった”前よりも、よく笑うようになった”一人で抱え込むことも、減った”何か大事なことを決める時、必ず私に意見を聞いてくれるようになった——「みおさんは、どう思いますか? 」——その一言が、私はたまらなく嬉しかった”私の考えを聞いてくれる人がいる”私の言葉に耳を傾けてくれる人がいる——それは、これまでの人生で一度もなかったことだった”——私たちは、少しずつ本当の夫婦になっていった”身代わりで始まった仮初めの結婚が、いつの間にか、かけがえのない二人の物語に変わっていたのだ。
——そして、私の実家のことも、書いておかなければならない”東方重との一件が、地元の新聞に小さく載った”工場が大企業を相手に筋を通した、という記事だった”——それを見た両親とり子は、ある日、手土産を持って黒岩の家に押しかけてきた——「みよ、見直したわ”まさか、あなたがこんな立派なお家の奥様になるなんてね。」「お姉ちゃん、私にも、信吾さんの会社、紹介してよ”ほら、私、こういう華やかなの似合うでしょ”会長夫人なんて”本当は、私の方が——」
——その時、それまで黙っていた信吾さんが、静かに、けれどきっぱりと言った「申し訳ありませんが、お引き取りください”僕が結婚したいと思ったのは、みおさんです”最初からずっと、彼女だけです”あの日、お見合いの席から逃げた方には悪いですが、何の興味もありません。」
母は、顔を真っ赤にした”父は、何か言い返そうと口をぱくぱくさせた”り子は、信じられないという顔で私を睨んだ”——これまで、私にこんな態度を取られたことなど、一度もなかったからだろう”いつも俯いて、「はいはい」と従うだけの都合のいい花瓶——それが、家族の中の私だった”——けれど、その時、私は生まれて初めて、自分の意思で家族にはっきりと言った——「お父さん、お母さん、り子——私も、誰かの代わりにはなりません”今まで、家のためにずっと我慢してきた”それで良かったと、思ってた”——でも、もういいの”私は私として、ここで生きていきます”たまに顔を見せに行くくらいは、するから”——でも、それ以上は、もう私を道具みたいには使わないで。」
声は震えていた”それでも、言い切った”両親は、ぐうの音も出ないという顔で”り子は、ばつが悪そうに俯いて”——そして、三人は静かに帰っていった”玄関の戸が閉まる音を聞きながら、私は不思議とすっきりした気持ちでいた”——長い間私を縛っていた鎖が、一つ外れたような気がした”——両親は、憎んでいるわけではない”り子のことも”——ただ、私はもう、あの家の『代わりの子』ではいられない”私には私の人生がある”私を必要としてくれる場所がある——そのことを、生まれて初めてはっきりと口に出して言えた”それだけで、十分だった。
——後で聞いた話だが、り子はその後いくつかの縁談があったものの、なかなかうまくいかず、今は実家で暮らしているという”両親も、以前ほどり子ばかりを持ち上げることはなくなったらしい”人の値打ちは、器量や愛想の良さだけで決まるものではない”——あの人たちも、少しずつそれに気づき始めたのかもしれない。
——その夜、信吾さんは私の手をそっと握って言った「よく言えましたね、みおさん”今日からは、誰の代わりでもなく、あなたとして、俺の隣にいてください。」
——誰の代わりでもなく、あなたとして——その言葉が、私の二十七年分の思い込みを、優しく包み込んで、溶かしていった”——り子の代わり、家のための道具、あまり者——ずっと私を縛ってきたその言葉たちは、もう、私を傷つけることはなかった——「——私、ずっと自分は、誰かの代わりだと思って生きてきました”主役にはなれない、控えの子だ、って”——でも、あなたは最初から、私を見てくれていたんですね”他の誰でもない、この私を。」
言いながら、私は涙が止まらなかった”でも、それはこれまで流してきた悔しさや悲しさの涙とは、まるで違っていた”温かくて、柔らかい——幸せの涙だった”信吾さんは、何も言わずに、私の頭を静かに撫でてくれた”まるで、これまでの二十七年間、誰にも撫でてもらえなかった幼い日の私まで、まとめて包み込んでくれるように——私は、この人と生きていく”もう誰の代わりでもない、私として——そう思うと、これから始まる毎日が、たまらなく大切に思えた。
信吾さんの、大きな傷だらけの手が、私の手を温めてくれた”——あのお見合いの日に見た、鉄工所のおじさんたちと同じ手”——人の一生懸命を、知っている手だった。
——あれから、二年が過ぎた”古びたビルは、今もそのままそこに立っている”信吾さんは、やっぱり立て替えようとはしない”あのビルの一階では、今日もたけさんが旋盤に向かって手を動かしている”その隣で、大地君が、たけさんの技を少しずつ自分の手に移し取っている”この前、大地君が初めて、あの精密な部品を一人で削り上げた”たけさんは「まだまだだ」とぶっきら棒に言いながら、その目は嬉しそうに濡れていた”大地君は、この前私にこっそり打ち明けてくれた”『いつか、たけさんみたいな職人になって、自分も誰かにこの技を伝えたい』と——目を輝かせてそう語る大地君を見て、私は思った”鉄平さんがたけさんに手渡したものが、たけさんから大地君へ”——そして、その先へと、これからもずっと続いていくのだと”手から手へ、受け継がれてきた時間は、こうして次の手へと渡っていく。
私はと言うと、相変わらずあの工場に通っている”会長夫人だからと偉そうにすることは、ない”お昼には大きな鍋で、職人さんたちの賄いを作る”私の得意な、少し甘めの肉じゃがは、みんなの定番になった”作業着に着替えて、油の匂いの中でみんなと笑って過ごす時間が、私は何より好きだった”信吾さんは、相変わらず週の半分は作業着を着て現場に立っている”会長が油まみれで機械を動かしていると知って、初めての人は大抵驚く”でも私は、そんな信吾さんの背中が一番好きだった”この人の手も、たけさんの手も、大地君の手も、みんな傷だらけでゴツゴツしている”その手こそが、この国の目に見えないところを支えているのだ。
三江さんも、今は私の大切な家族だ”時々工場に来ては、季節の仕事を教えてくれる”梅の漬け方、味噌の仕込み——いつか私が、この家の味を次の誰かへ伝える日が来るのだろう”人から人へ、手から手——受け継がれていくのは、技術だけではない”誰かを思いやる心も、そうやって渡されていくのだと、私は三江さんから教わった。
——夜、仕事を終えた信吾さんが台所に来て、鍋の中を覗く「今日も、うまそうだ」と言って笑う”——その顔を見るたびに、私はあの子供の頃の夢を思い出す”いつか誰かのために、温かいご飯を作って、その人が『美味しい』と笑ってくれる”ただそれだけの暮らし——諦めていたはずのそのささやかな夢が、今、私の当たり前の毎日になっていた”——私はもう、誰かの代わりではない”信吾さんの妻で、この工場のみんなの仲間で、そして——白石美という、一人の人間だ”地味で口下手なのは、今も変わらない”でも、それでいい”私は私のままで、ここにいていいのだ”——そう思えるようになっただけで、私の世界は、まるで違う色に見えるようになった。
——この前、うちのグループが、大きな賞を頂いた”日本の物づくりを支える優れた技術に送られる賞だという”その受賞式に、信吾さんはいつもの作業着で出席した”周りは、みんな立派なスーツの人ばかり”それでも、信吾さんは少しも仰然としなかった——「この賞は、僕のものじゃありません」現場で毎日手を動かしている、職人たちのものです。」——演台でそう言い切った信吾さんを、私は客席から見ていた”——らしくて、涙が出た”そして、その隣に私がいられることが、信じられないくらい幸せだった”式の後、たけさんは照れ臭そうにこう言った「鉄平さんに、見せてやりたかったなあ”あの人が、地べたから始めた工場が、こんな立派な賞をもらうなんて。」——きっと、鉄平さんはどこかで見てくれている”そして、あの力強い字で手帳にこう書いているに違いない——『よくやった』と。
——工場のみんなは、今では私の本当の家族のようなものだ”たけさんは、うるさいくらいに私の体を気遣ってくれるし”大地君は、休憩の度に私の作ったおやつを一番に食べに来る”島田さんは、私が落ち込んでいると、そっと温かいお茶を握らせてくれる”——血は繋がっていない”でも、ここには、私を名前で呼んで、私の話を聞いて、私を必要としてくれる人たちがいる”——私は、あの家でずっと、一人ぼっちだった”賑やかな家族の中で、私だけがいつも透明な人間だった”——でも、今は違う”私はもう、透明じゃない”ちゃんと、ここにいるのだ。
——結婚して初めての、私の誕生日”信吾さんは小さなケーキを買ってきてくれた”ろうそくを立てて、火を灯して、少し照れ臭そうに——「おめでとう」と言ってくれた”——私は、泣いてしまった”子供の頃、私の誕生日はいつも忘れられていた”り子の誕生日は盛大に祝われるのに”——だから、自分の誕生日を誰かに祝ってもらうのは、生まれて初めてのことだったのだ——「これからは、毎年祝いますからね。」——その一言が、これまでの寂しかったたくさんの誕生日を、まとめて温めてくれた気がした。
実家とは、あれから少しだけ距離ができた”それでも、去年の暮れに母から短い手紙が届いた”『あの時は悪かった』と——たった一行だけ書いてあった”私はその手紙を、そっと机の引き出しにしまった”恨んではいない”ただ、離れたところで、元気にいてくれたら、それでいい”——今の私には、守りたい場所と、守りたい人が、ちゃんとここにあるのだから。
——枕元には、今もあの古い折りたたみ傘が置いてある”たけさんが、あの雨の朝、私に貸してくれた傘だ”——あの日の、何も知らない小さな縁が、巡り巡って、私をこの場所へ連れてきてくれた”——妹の身代わりで始まったはずの、結婚だった”世界で一番不幸な花嫁のつもりだった”——でも、違った”あの日、古びたビルで大勢の人に頭を下げられた、あの朝——私は生まれて初めて、誰かの代わりではない、私自身になれたのだ”——私を名前で呼んでくれる人がいる”私の帰りを待っていてくれる人がいる”私の作ったご飯を、「うまい」と言って食べてくれる人がいる”それだけで、私の毎日は温かい光で満たされている”——今日も、夕方になると、私はあの家の台所で夕飯の支度をする”やがて、玄関の方で車の止まる音がして、油と鉄の匂いをまとった大きな体が——「ただいま」と言って帰ってくる”——「お帰りなさい、あなた」——私の帰る場所は、ここにある。


