「今日から施設で暮らしてください。」
私はその言葉の意味を理解できなかった。隣ではカノがケラケラと笑っている。
「良かったですね。」
「何言ってるの?」
私の疑問には答えず、ケトはシートベルトを外した。乱暴に後部座席のドアが開けられる。
「降りていいよ、二人とも。」
「ちょ、ちょっと待って。ふざけるな。さっきから一体何なんだ?」
ケトは一切聞かない。私たちを強引に車から下ろし、荷物まで外へ放り出した。
「お父さん、お母さん、元気でいてくださいね。」
「カノさん、さようなら。」
ドアが閉まる。エンジン音が響く。そして車は私たちを残したまま走り去った。
「ケト!」
叫んでも無駄だった。車は小さくなり、やがて見えなくなる。残されたのは私と蒼井。そして足元の荷物だけ。老人ホームの前で、私たちは何が起きたのか理解できず、呆然と立ち尽くした。
私の名前は、あゆ川エルナ。62歳。年齢を口にすると驚かれることが多い。私は年齢よりも相当若く見えるらしい。高価な化粧品を使っているわけでも、美容にお金をかけているわけでもない。昔から規則正しい生活を心がけてきた。毎朝早く起きて働き、しっかり食べて、たっぷり眠る。それを何十年も続けてきた。
私は普段、商店街の一角で小さなお弁当屋を営んでいる。店を始めてからもう30年以上になる。今でこそ商店街の人気店などと言われることもあるが、開店当初の経営は苦しかった。お客さんが1人も来ない日もあったし、材料費を払うだけで精一杯だった時期もある。それでも続けて来られたのは、料理が好きだったからだ。子供の頃からずっとそうだった。高校卒業後は調理師専門学校に通い、資格を得た後は様々な店で修行を積んだ。和食屋、定食屋、仕出し料理店。職場が変わるたびに覚えることは山ほどあったが、楽しかった。新しい味を知ることも、人に喜んでもらえる料理を考えるのも好きだった。
私のお弁当屋では毎日30種類近いおかずを作っており、日替わりメニューも多い。それでもレシピを見返すことがたまにで済むのは、記憶力がいいからだ。何年も前に作った料理でも、一度覚えた味はなかなか忘れない。昔の常連さんが何を好んでいたかもよく覚えている。
「そういえば、5年くらい前によくコロッケを買ってくださっていましたよね。」
そう言うと、お客さんの方が驚く。
一方で、人を見る目はあまりない。私は基本的に人に対しての警戒心が薄い。相手が笑顔で接してくれれば、そのまま受け取るし、親切なのだと思う。だから、後になって騙されたと知ったり、利用されていたと気づくこともあった。ただ、運が強いのか、致命的な事態は避けられている。周囲からは「エルナさんはお人好しすぎる。もっと警戒した方がいい」などと言われ、呆れられることも多かった。しかし、性格というのは簡単には変わらないし、人を疑いながら生きるより、人を信じて生きる方が私は好きだ。
毎朝店を開け、常連さんたちと挨拶を交わし、お弁当を作る。忙しくも穏やかな毎日だ。派手さはないけれど、自分の力で積み上げてきたこの暮らしを、私はとても気に入っていた。この時は、そんな平穏な日々がこれから先も続いていくものだと疑いもしなかった。
私の家族は、夫と息子と娘の4人家族だ。夫の名前はあゆ川蒼井という。私と同じ62歳である。年齢だけ聞くと定年後の暮らしを想像する人もいるだろうが、彼は今も現役で会社に務めている。本人曰く、まだまだ働き盛りらしい。
「俺は80歳まで現役で行ける気がするな。」
「え、80歳まで毎朝スーツを着るつもり?」
「似合うだろ?」
「まあ、そうだね。この前新しいネクタイも買ってたし。」
蒼井は自分が着る服に対してかなりのこだわりを持っている。金婚記念にオーダーメイドのスーツを作ったことは記憶に新しい。
蒼井は茶目っ気のある人だ。若い頃から人を和ませるのがうまい。場の空気が重くなりかけても、蒼井が何か言えば、不思議と柔らかくなる。会社でも同僚や後輩に慕われているようで、たまに蒼井の職場の人がお弁当を買いに来ることもあった。
「あゆ川さんの奥さん、本当にお若いですね。あゆ川さん、毎日自慢してますよ。」
「ああ、夫がそんなことを。」
「はい。『うちの妻は料理もうまいし、ずっと美人だし、性格も最高で俺にはもったいない』って。」
そう聞くたびに、照れやら呆れやらで返事に困った。恋愛結婚だったからか、蒼井は今でも私への愛情を隠さず伝えてくれる。結婚記念日や誕生日でなくとも、帰り道に小さな花束を買ってきたり、私が好きな和菓子を見つけたと言って持ち帰ったりする。
「商店街の角に新しい菓子屋ができてたぞ。エルナが好きそうだから買ってきた。」
「また無駄遣いして。」
「無駄じゃない。俺がエルナの喜ぶ姿を見たいから買ったんだ。」
季節の花をモチーフにした練り切り。目を奪われる美しさだ。
「そういえば、今日は何の日だっけ?」
「結婚記念日。」
「正解。俺は賢い夫だからな。」
大げさに胸を張る蒼井を見ていると、つい笑ってしまう。私も蒼井に何かを送ることがあった。仕事で使えそうな文房具や、疲れが取れそうな入浴剤、好みの菓子など。値段よりも、日々の中で相手を気にかける時間が嬉しいのだと、私たちは知っていた。
休日には2人で出かけることもある。遠出でなくても良かった。近所の公園を散歩したり、商店街の喫茶店でコーヒーを飲んだり、電車に乗って隣町の市場を見に行ったりする。
「エルナ、今度は温泉に行こう。露天風呂付きの部屋を予約してさ。」
「お店を何日も休めないよ。」
「1泊ならいいだろ。30年働き詰めなんだから、たまには自分を甘やかせ。」
嬉しそうな様子で旅館のホームページを見せてくる蒼井。
「蒼井も働き詰めでしょ。だから2人で甘やかすんだよ。」
彼は私が自分を後回しにすると、当たり前のように引き戻してくれる。私にとって蒼井は愛する夫であり、長年一緒に歩いてきた相棒でもある。
息子のケトは、そんな蒼井の若い頃によく似ていた。背が高く、すらりとしていて、整った見た目をしている。親の私が言うのも変だが、見た目はなかなかいい。学生時代、同級生の女の子に人気があったとママ友から聞いたこともあるけれど、本人は昔からどこか理屈っぽかった。
ケトは口数が多いタイプではない。必要なこと以外は話さず、家族で食卓を囲んでいても黙々と食べている時間が多かった。
「ケト、今日の唐揚げはどう?」
「普通。」
そういう割に、誰よりも数を放張っている。
「普通なら合格だね。」
「別に褒めてないけど。」
「分かってるよ。」
短いやり取りでも、ゼロより増しだ。親としては、もっと色々話して欲しい時期もあった。学校であったことや友達との関係性、将来どんな仕事をしたいのかなど。けれどケトは自分の内側を人に見せたがらない。子供の頃は無口な性格なのだと受け止めていたが、成長するにつれて私は別の心配を抱くようになった。
ケトは変なところで怒りに火がつく。きっかけは他人から見れば小さなことだった。お気に入りのマグカップを誰かが使った。テレビのリモコンがいつもの場所にない。学校の先生から注意された。バイト先で年下の先輩に指導を受けた。そんな場面でケトは急に荒れることがあった。
「なんで俺がそんな言われ方しなきゃいけないんだよ。」
「ケト、落ち着いて話しましょう。」
「落ち着けって何だよ。母さんまで俺を馬鹿にしてるのか? みんな同じだな。俺のことを下に見てる。」
「だから、そんなことしてないって。ちょっと待ってて。」
感情が高ぶると、彼は周囲の話を一切聞かない。この時も部屋の扉を乱暴に閉めて、こもってしまった。物に当たる姿を見るたびに、私は心配になる。
一方で、ケトは周囲を見下しているようなところもあった。努力している人を見ても素直に認めず、誰かが失敗すると皮肉をこぼす。
「結局、世の中って要領のいいやつが勝つんだよ。真面目にやる方が損する。」
「真面目に積み上げたものはちゃんと残るよ。」
「母さんはさびれた商店街の弁当屋だから、そんな綺麗事が言えるんだよ。世間の厳しさを知らないだけ。」
当時彼はまだ中学生だ。社会の荒波と無縁なのはどちらだと、つい言い返したくなる。
「お弁当屋を馬鹿にしてるの?」
「別に事実を言っただけだろ。」
冷たい言葉を向けられても、私はケトを責められなかった。息子だからという理由もある。だが、それ以上に、彼の中にある不器用さが見えていたからだ。うまく人と距離を取れず、自分の弱さを隠すために、相手を先に攻撃してしまう。傷つく前に傷つける側に回るのだ。親として、このままで放っておくべきではないと分かっていた。何度も話したし、蒼井とも相談した。
「ケトはあれで自信がないんだよな。」
「それは私も分かってる。でも、だからと言って人にきつい言い方をしていいわけじゃないでしょ。」
「もちろんだ。俺からも話すよ。」
蒼井は父親として彼と向き合おうとしてくれる。しかしケトは父親に対しても素直になれずにいた。
「父さんみたいに誰とでも仲良くできる人間ばっかりじゃないんだよ。」
「仲良くしろとは言っていない。他人も自分も雑に扱うなと言ってるんだ。」
「説教かよ。」
「説教だ。親だからな。」
2人はお互いに一歩も引かず見つめ合う。そんな会話が何度繰り返されたか分からない。
32歳になったケトは、今、中規模の会社で働いている。事務系の部署だと聞いていた。本人は詳しく話したがらないが、毎日きちんと出勤している様子で、生活も自分で回している。だから私は、彼は彼なりに頑張っているのだと受け止めていた。就職が決まった彼が家を出ていく段階になって、私の頭の中にようやく「子離れ」という言葉が浮かんだ。いつかケトにも、自分をまっすぐに見てくれる人が現れるだろう。そんな相手に出会えれば、彼のトゲトゲしさもきっと丸くなる。私はどこかでそんな期待を抱いていた。
一方、娘のリコはケトとは対照的だった。リコは6歳下の妹で、今は26歳。若い頃の私に似ているとよく言われる。華やかで目を引く子だ。リコは子供の頃から成績が良く、運動もできた。人付き合いも上手で、先生や友達から頼られることが多い。
「リコ、また学年1位だったの?」
「たまたまだよ。」
「たまたまで何回も1位は取れないでしょ。」
「じゃあ、努力のせいってことにしておく。」
リコはさらりと言う。彼女には「才色兼備」という四字熟語が似合う。けれど本人は才能を鼻にかけることがなかった。試験前には遅くまで勉強し、部活の大会前には毎朝走り込み、進路を決める時も自分で資料を集めていた。彼女はいつだって努力し、成果を出していたのだ。
今は都会で暮らしながら、美容系の編集部でライターとして働いている。リコは学生時代から美容やファッションが好きだった。流行の服やメイクに詳しく、私にもよく助言してくれる。
「お母さん、そのリップの色すごく似合うよ。今度春っぽい色も選んであげる。」
「私が春っぽい色なんて使っていいの?」
「もちろん。お母さんは素材がいいんだから、もっと楽しめばいいのに。」
「褒め上手だね。」
私が軽く笑うと、彼女は頬をぷくっと膨らませた。
「本当のことを言ってるのに。」
リコは他人を褒めることを躊躇しない。受けた側が照れてしまうほどだ。そんなところは蒼井に似たのだろう。初任給が出た時、リコは私に財布を、蒼井にキーケースを送ってくれた。
「高いものじゃないけど、2人に何か買いたかったの。」
「もったいなくて使えないよ。」
「使ってくれなきゃ困るよ。お母さん、お財布ボロボロだったでしょ。」
確かに鞄の中の低い位置に収まっている財布は、合皮があちこち剥がれかけていた。いつから使い始めたものだったのかも忘れてしまった。
「ボロボロじゃなくて、味が出ていたって言って。」
「じゃあ、捨て時だね。」
隣で蒼井が大笑いしている。
「リコ、ありがとう。父さん、一生大事にする。」
「壊れたら買い換えてね。」
「じゃあ、壊れるまで毎日使う。」
宣言通り、彼は本当に毎日使った。キーケースを手に取るたびに嬉しそうに眺めていた。私は財布を開くごとに、リコが大人になったのだと実感した。小さかった娘が自分の給料で親に贈り物をしてくれる。そんな日が来るのだと考え深かった。
ケトとリコは性格が全く違うのと、年が結構離れているためか、兄弟仲が特別いいわけではなかった。けれど仲が悪いというのも違う。リコは兄に気を使い、ケトは妹の優秀さを気にして距離を置いているように見えた。特にケトの方は、妹を嫌ってはいないが、リコが褒められるたびに自分と比べられていると受け止めてしまうのだろう。親として私は2人を比べたことはないつもりだ。2人ともそれぞれの良さがあると信じていた。
私たちの生活は派手な暮らしとはほど遠い。蒼井が会社に務め、私が商店街でお弁当屋を続け、子供たちはそれぞれの道を歩いた。誕生日には家で手巻き寿司を作り、正月には小さな重箱におせちを詰め、家族旅行は数年1度。そんな暮らしだけれど、私は十分幸せだ。毎日働く場所があり、帰る家があり、長年連れ添った夫がいる。性格に癖はあっても、息子は社会人として生きていた。娘は自分の夢を追いかけている。どこにでもいる家族だと、私は本気で考えていた。
最初に異変を感じたのは、ある平日の昼過ぎだった。お弁当屋の営業を終え、片付けをしていた時である。スマートフォンが鳴り、画面を見るとケトの名前が表示されていた。彼から電話がかかってくること自体は珍しくない。とはいえ、要件の大半は事務的な内容だ。「車検の業者ってどこ?」「保険の書類どこに置いたっけ」など。もう別々に暮らしているんだから、そんなの知るわけないでしょと言いたくなるような連絡ばかりだった。だから私は今回も何かの確認だろうと軽い気持ちで通話ボタンを押した。
「もしもし。ケト?」
「ああ、今話せるか?」
「ええ、大丈夫だけど。」
「じゃあ言うけど。」
妙に改まった口調だ。私は思わず姿勢を正す。
「実は、結婚を考えている相手がいる。」
「え?」
「聞こえなかった?」
「聞こえたよ。聞こえたけど……」
それ以上に衝撃が大きい。私はそっと店の奥に移動し、椅子に腰を下ろした。ケトが結婚。頭の中で何度も反芻する。彼は昔から恋愛とは無縁だった。高校時代も大学時代も、好きな子がいるという話すら聞いたことがない。社会人になってからも同じだ。休日は家でゲームをしたり動画を見たりしているようだ。正直私は、ケトが結婚や家族を持つこととはほど遠い人生を送るのではと本気で考えていた。孫の顔は見られなくとも仕方ない。そう思っていたからこそ、驚きはひとしおだ。
「えっと……とりあえず、おめでとう。」
「まだ結婚したわけじゃないんだから、お祝いは要らないよ。」
「でも、まさかあなたの口から結婚なんて言葉が出てくると思ってなかったから、普通におめでたいよ。」
「まあな。」
私は好奇心が抑えられなかった。
「で、いつから付き合っていたの?」
「そんなことはどうでもいい。」
相変わらず不愛想な返事だ。だが、私は全く気にならず、むしろ嬉しかった。ケトにも大切な人ができたのだ。親として喜ばない理由がない。
「今週末、連れて行くから。」
「え? 今週末? 実家に一緒に行くの?」
私は固まった。今日は金曜日だから、今週末の日曜日とは、たったの2日後だ。
「ちょ、ちょっと待って。急すぎない?」
「別に普通だろ。」
「ていうか、あなた、自分からお父さんにもまだ何も話していないでしょう。」
「じゃあ、母さんが話しておいて。」
不遜なケトの口ぶりに、少しだけイラっとした。子供の結婚が一大事だと思っているのは親だけなのだろうか。もっと前から教えてくれたら、ちゃんと準備もできたのに。
「だから準備しろって言ってるだろ。別に今日か明日行くって言ってるわけじゃないんだから。」
私が眉をひそめていると、ケトは構わず続けた。
「あとさ、母さん、専業主婦ってことにしておいて。彼女にもそう言ってるし、弁当屋の話はしなくていいから。」
「は? どうして?」
「恥ずかしいだろ。親が商店街で弁当を作ってるなんて。プロの料理人ならまだしもさ。」
当然のように言われ、私は言葉を失った。恥ずかしいと、ケトは確かにそう告げた。30年以上続けてきた店、家族を養ってきた仕事、大学卒業まで育てた収入源。それを今、実の息子にけなされたのだ。もちろん蒼井も働いていたし、夫婦で力を合わせて子供たちを育ててきた。けれど、ケトが毎日食べていたご飯も、着ていた服も、学校に通うためのお金も、弁当屋の売上から出ていたと、私は胸を張って堂々と言える。弁当屋への侮辱は、私への侮辱と同義だ。息子であるケトの口から聞きたい言葉ではなかった。
「お母さんは、別に隠すような仕事をしていないよ。」
「はあ。分かってないな。やっぱり母さんは世間知らずだ。息子のために嘘の一つも吐いてくれないのか? どうせ会うのは最初だけなんだから、気にする必要ない。」
私は思わずため息をついた。ケトの悪い癖が出ている。普段は無口なくせに、相手によく見られたいし、見栄を張りたいのだ。そのためなら事実を曲げる。昔から何度もあった。
「お母さんは、嘘をつきたくない。」
「じゃあ、適当にごまかせよ。準備もちゃんとしておけ。俺に恥をかかせるなよ。」
私は額に手を当てた。嬉しさに浸っていた気分はとっくに覚めてしまった。
「ケト、あなた何様なの? 確かに結婚はおめでたいことだけど、お母さんたちはあなたの部下じゃないんだよ。」
「別にそんな意味じゃない。被害妄想やめろよ。」
「あなたの言い方じゃ、そう捉えられても仕方ないってこと。」
「じゃあ何だ? 下手に出て『お願いします』って頭を下げれば満足なのか? ま、どうせ母さんたちは俺に期待なんかしてないもんな。」
「そんなことは言っていない。」
だが、私の返事を聞く前に、彼はさっさと話を切った。耳元からスマートフォンを離し、しばらく画面を見つめる。息子が結婚を考える相手を連れてくるのは、親として歓迎したい。だけど、恥ずかしいって何? あんたの大きな体は、この弁当屋のおかげでできてるようなものなのに、よく言うわ。自分の独り言に笑ってしまう。子供の頃、店のコロッケを毎日のように食べていた。運動会の日には大量の唐揚げを持っていった。受験勉強で夜食が欲しいと言えば、おにぎりとスープを作った。就職活動中には栄養が偏らないように気を配った。全部、忘れたのだろうか。照れか、それとも見栄か。ケトなりの事情があるのだろう。私は無理やりそう結論付ける。恥ずかしいと言われて、自分が思った以上にダメージを受けていると認めたくなかったのだ。
私は店の片付けを済ませ、家に戻った。夕方になり、蒼井が帰宅する。
「ただいま。」
「お帰り。」
「なんだ、今日何かあった?」
「え? 分かる?」
「40年近く一緒にいるんだぞ。当たり前だろ。」
「実は今日ね、ケトから電話があったの。結婚を考えている人がいるんですって。」
蒼井の動きがピタッと止まる。大きく目を見開き、かなり驚いていた。
「なんだって? ケトが?」
「ええ、うちのケトよ。」
彼は数秒沈黙した後、大笑いした。
「いや、驚いたな。」
「私も同じ反応だった。まずびっくりしちゃって。」
「そうか。ケトがな。」
ふと、ケトからぶつけられた乱暴な言葉について蒼井にも言っておこうかと思ったが、やめた。嬉しそうな様子に水をさしたくない。
「どんなお嬢さんだろうな。」
「それは私も気になる。」
「お札みたいな人かも。」
真面目な顔で言うので、つい吹き出してしまった。ただ、実は私も同じことを考えていた。ケト本人の態度は抜きにしても、不器用な彼を好きになってくれた女性に、是非会ってみたい。
私は翌朝から、店の仕事の合間を縫って家中の掃除を始めた。客間の窓、玄関のたたき、照明の傘。普段は後回しにしがちな場所まで磨き上げる。蒼井は笑いながら手伝ってくれた。
「張り切ってるな。」
「未来のお嫁さんが来るんだから、これくらいはね。」
「脚立が必要な部分は言ってくれよ。危ないから。」
「うん。ありがとう。」
次第に日曜日が待ち遠しくなった。この時はまだ、ケトが連れてくる相手によって私たち家族の人生が大きく変わることになるなんて、考えもしなかった。
日曜日の昼前、私は朝からせわしなく動き回っていた。客間の掃除は何度も確認したし、テーブルクロスも新しいものに変えた。お茶受けのお菓子も用意してある。昼食用に手巻き寿司や煮物、出し巻き卵なども作った。蒼井は顔には出さないが、そわそわしているのが分かる。そして約束通りの時間に、インターホンが鳴った。蒼井が玄関へ向かい、私も後に続く。扉が開くと、そこにはケトと若い女性が立っていた。
「連れてきた。」
説明が足りなさすぎる切り出しだ。女性はぺこりと頭を下げた。
「初めまして。ケトさんとお付き合いしております、カノと申します。」
柔らかな雰囲気の女性だった。髪は丁寧に整えられ、服装も上品で、目を引く可愛らしさがある。大きくしっかりとした瞳に、ふんわりとした笑顔を浮かべており、男性から人気が出そうなタイプだ。
「初めまして。ケトの母です。」
「お会いできて嬉しいです。よろしくお願いいたします。」
「どうぞ、上がって。」
カノは何度も頭を下げながら家へ入った。私は玄関で靴を揃える彼女を見つめる。そこで、ふと違和感を覚えた。彼女とは、どこかで会ったことがある気がしたのだ。商店街か。仕出しの配達だろうか。顔には笑顔を保ちつつ、頭の中を探ってみた。しかし、残念ながら分からないままだった。
客間へ移動し、座るカノの受け答えは丁寧だった。
「2人はどこで知り合ったんだ?」
「カフェです。カノが働いていた店に、俺が通ったんです。」
「なるほどな。」
雑談の中で、2人の関係性を探る。
「ケトさん、最初は全然話してくれなかったんですよ。接客の時はずっと目をそらしていて。」
カノはくすくす笑いながら教えてくれた。
「想像できるわ。」
「でも、毎週来てくれたので、私も覚えてたんです。声をかけられた時はびっくりしました。」
どうやらケトは彼女に一目惚れをしていたらしい。ぎこちないアプローチは、カノの目には誠実に映った。可愛らしい見た目ゆえに軽く見られ、舐められることもある彼女は、少しずつ距離を詰めてくれるケトの心遣いが嬉しかったのだという。カノが話すたび、ケトは不器用そうに顔をほころばせる。恥ずかしがっている時の表情だ。2人の仲は間違いなく良好だろう。私は胸を撫で下ろした。ケトにも、ようやく心を許せる相手ができたのだ。
話題は自然と結婚へ移っていく。やがて時刻は正午を回り、みんなで昼食を取ることに。
「すごいです。全部手作りなんですか?」
「ええ、作るのが好きなの。もちろん食べるのもね。」
「お母さんって、専業主婦なんですよね。やっぱりお料理がお上手なんですね。」
「ありがとう。」
私は一瞬、ケトを見た。彼は平然としている。本当に専業主婦と説明しているらしい。呆れるより先に感心してしまった。堂々と嘘をつくものだ。この点に関しては蒼井にも説明済みのため、彼もそちらの顔で箸を持ち上げている。最初は「なんでエルナがそんな嘘に付き合わなくちゃいけないんだ」と怒っていたが、私が説得したのだ。初対面の席で揉める理由もない。いずれは知ることだから。
カノは料理を褒め続けた。
「お店を出せるくらい上手です。」
「本当に出しているけどね」という言葉が喉元まで出かかったが、飲み込んだ。デザートを堪能している時、蒼井が何気なく尋ねる。
「そういえば、両家の顔合わせはどうする? さっきカノさんのご両親について聞きそびれてた。」
カノの動きが止まる。次の瞬間だった。彼女が下を向き、肩が小さく震えている。
「え、カノさん?」
「ごめんなさい……」
ぽろりと彼女の瞳から涙が落ちた。私は思わず息を飲む。
「あの、私、家族がいないんです。」
カノは両手で目元を押さえ、消え入りそうな声で言った。部屋の空気が変わる。隣のケトがすぐに彼女の背中をさすり、慰めた。
「カノ、大丈夫だから。」
私と蒼井は完全に困っていた。何が起きたのか分からない。私たちを責めるように、ケトが低い声で説明した。
「カノの家族は、事故で亡くなってるんだ。両親も兄弟も、一ぺんに。だから、顔合わせとかは……」
カノは取り出したハンカチを握りしめ、はらはらと涙を流している。
「ごめんなさい。」
「謝らなくていい。そうだったのか。申し訳なかった。」
蒼井はすぐに頭を下げる。
「いえ、私が勝手に……」
場の空気が重くなる。ケトは私たちをじろっと睨んできた。
「父さん、デリカシーってものがないのか?」
その言葉に、さすがに私は内心で首をかしげた。知らなかったのだから仕方ないのでは。家族の話になるのは自然な流れだった。蒼井だって、とがめることなくすぐに謝罪している。
「カノは辛い経験してるんだ。なのに、無理やり思い出させるようなこと……」
「ああ、悪かった。本当に申し訳ない。」
「も、もう大丈夫ですから。」
カノは涙を拭きながら微笑んだ。なんとも痛々しい。その後、話題は変わっておしゃべりは再開したが、空気はどこかぎこちない。私は追加のお茶をキッチンで注ぎながら考えていた。人間、どこに地雷が埋まっているか分からない。普段なら何気ない質問でも、相手によっては深い傷に触れてしまう。今後は気をつけよう。
やがて夕方になり、2人は帰ることになった。カノは何度も頭を下げた。
「今日はありがとうございました。」
「また遊びに来てね。」
「はい。」
最後は彼女も晴れやかに笑ってくれた。
「気をつけて帰るんだぞ。」
「じゃあな。」
車が見えなくなるまで見送る。家へ戻る途中、蒼井がぽつりと呟いた。
「苦労してきた子なんだろ。」
「そうだね。」
私は頷く。カノの涙を見た後では、同情する気持ちだけが湧いた。
彼女との顔合わせから2ヶ月ほど過ぎたある日のこと。弁当屋での仕事を終え、家で家事をしていた。不意にエプロンのポケットの中のスマートフォンが震える。画面にはケトの名前がある。私は何気なく通話ボタンを押した。
「もしもし。」
「母さん、相談がある。」
唐突な切り出しに、どきっとする。
「相談?」
「金を貸して欲しいんだけど。」
あまりにも直球で、思わず絶句してしまった。
「え? いくら?」
「とりあえず50万。」
さらりとその金額が出てくる。しかも「とりあえず」とは、今後も頼ってくる予定なのだろうか。
「結構な金額だね。」
「当面の生活費に回したいんだ。結婚式のための貯金もしたいし、何かと入り用なんだよ。」
「なるほど。」
私は相槌を打つ。新しい生活を始めるためにお金がかかるのはよく分かっている。結婚ともなればなおさらだ。夫婦のための新居や家具や家電も揃えたいのだろう。
「別にいいけど。」
「本当か?」
「うん。でも、ちゃんと返してよ。」
私は軽い調子で言った。本気で返して欲しいと思っているわけではなく、なんならご祝儀としてあげてもいい。しかし、今後金を出すのが当たり前と思われても困るので、一応釘を刺したつもりだった。ところが、ケトには「ちゃんと返してよ」の部分が引っかかったようだ。
「は?」
一瞬で電話越しの空気が変わる。
「なんでそんなこと言うんだよ。」
「え? なんで?」
「俺たちは結婚式のために資金を貯めたいんだよ。」
「うん。だからかって言ってるでしょ。」
何かおかしなことを言っただろうか。
「だったら、返せとか言うなよ。なんでそんな冷たいことが言えるんだ? 母さんたちは俺の結婚を祝ってくれてると思ってたのに。違ったんだな。」
私は戸惑った。冗談が通じなかったのは仕方がないが、ケトの反応が過剰だったからだ。
「普通は応援するだろう。分かってるよ。どうせ母さんも父さんも、俺なんかに期待してないし、信用してないもんな。だから金を返すなんて最初から言ってくるんだ。これがリコだったら、言わないだろ。」
「は? いやいや、応援してるよ。なんでそうなるの? 全然伝わらない。」
「カノなんか、お母さんは優しい人だって言ってたのに。今、母さんはその期待を裏切ったんだ。反省しろよ。」
ケトはそういえばこういう性格だったと思い出す。一度スイッチが入ると、話を極端な方向へ持っていく。1を言えば10に膨らませる。全ての言葉を責められていると受け取り、見下されたと解釈する。家庭内から何度も見てきたことだ。だから、不思議と腹は立たず、むしろ懐かしい。
「今はそういう話じゃないでしょ。ちょっと落ち着いて。」
「もういい。」
「え、ケト?」
「いいから。」
ぶつっと通話は切れた。私はしばらくスマートフォンを見つめる。ケトの頑固さは、厄介な方向に成長してしまっていた。こうなると、私からの金銭の援助も素直に受け取らないだろう。私は肩をすくめて、家事へ戻った。
それから数日後の休日、リコが実家にやってくる。彼女はいつも月に1度ほどは必ず顔を見せに来てくれるのだ。その日も大きな紙袋を抱えていた。
「お母さん、これ。駅前で限定スイーツ売ってたから。」
「え、また買ってきたの?」
「編集部の女の子たちが騒いでたから気になって。新幹線の中でも大事に抱えてたから、中身は大丈夫だと思う。」
「ありがとう。」
礼を言い、私は紅茶を入れる。リコは早速スイーツを放張りながら、雑誌や仕事の話をしていた。出版社の締め切り、取材先、流行のコスメと、話題は次々変わる。ケトの結婚のことにも触れた。彼の方から「結婚するから」というメッセージのみが届いたらしい。彼と直接会ってはいないと、リコは言う。そんな中、彼女がふと眉をひそめながら切り出した。
「そういえばさ、この前お兄ちゃんから電話来たんだよね。」
私は手を止める。
「え、ケトから?」
「うん。金貸してくれって。」
あまりにも自然な口ぶりで告げられて、意味を理解するのに数秒かかった。
「は? なんですって?」
「結婚式の資金を貯めるために生活費を切り詰めてるから、生活費の援助をして欲しいみたいな話だったと思う。お兄ちゃん、話し方が下手だよね。ごちゃごちゃ言っててよくわかんなかった。」
「あなたはなんて答えたの?」
「もちろん断ったよ。結婚のご祝儀ならともかく、生活費の手助けとか意味不明だし。」
そこでリコは言葉を切って紅茶を飲む。昔から金銭感覚が堅実な彼女らしい判断だ。
「自分でどうにかしなよって言った。何年もかけて結婚式の資金を貯めるとか、今時珍しくもないよって。」
「ケトはなんて?」
「機嫌悪くなった。」
容易に想像できる。私は苦笑した。だが、同時に違和感もある。ケトは当初、私に援助を頼んで断られたと思い込んだ。その後、すぐにリコに連絡した。
「私がダメだったから、リコに頼んだのかな?」
「多分そうでしょ。でも、妹にお金のことを持ち出すなんて、ケジメもないと思わなかったのかな、お兄ちゃん。」
「それだけカノさんのことをちゃんとしたいって思ってるってことじゃないの?」
「なら、なおさら自分たちの力で何とかした方がいいでしょう。今後、結婚資金を家族に手伝ってもらったってレッテルを貼られることに、お兄ちゃんが耐えられるとは思わない。」
冷静な分析だ。
「お母さんも、貸さない方がいいよ。お兄ちゃん、ちょっと変だったよ。」
私は返事に困った。親だからというだけではなく、同じ人間として困っていると言われれば、助けたくなる。ケトの性格に問題があることは分かっているのだが。
その日の夕方、ケトから再び電話がかかってきた。私は少し身構えながら出る。
「もしもし。」
「……母さん。」
前回とは違い、彼の口調は柔らかく、どこか弱々しい。
「この前は悪かった。俺も余裕がなくてさ。それで、本当に困ってるんだ。カノにも苦労させたくない。結婚式だって、一生に一度だろ。なんとかしてやりたいんだ。」
私は黙って聞いた。ケトはどうやら、好きになった相手にはかなり入れ込むらしい。それは初めて知る息子の側面であり、蒼井にも似ていると思う。今だって、カノのために必死なのだろう。そう考えると、不憫になった。
「改めて言っておくけど、今回だけだからね。」
電話の向こうで、息をのむ気配が伝わる。
「ありがとう、母さん。本当にありがとう。」
「ちゃんと計画立てて、お金を管理しなさいよ。」
「うん。」
通話を終えた後、私は指定された口座へお金を振り込んだ。結婚祝いの代わりだと考えれば、高くないと自分に言い聞かせた。蒼井にもこのことは伝えておく。彼は「エルナが決めたなら」と渋い顔はしつつも、優しく言ってくれた。最も、私はまだこの送金が始まりに過ぎなかったことを知らない。「今回だけだからね」という私の約束は、驚くほどあっさり破られた。
最初の追加連絡が来たのは、送金から2週間ほど経った頃だった。仕事を終えて帰宅し、夕飯の支度をしている最中にスマートフォンが鳴る。ケトだった。
「もしもし。母さん、今月あと20万くらい貸してほしい。」
私は包丁を持ったまま固まった。
「え? 予想より色々と金がかかってるんだ。」
「でも、この前振り込んだばかりでしょ。」
たった2週間で50万円がなくなるとは。一体どんな荒い金遣いをしているのか。
「だから、足りなくなったんだよ。」
「何に使ったの?」
まずはそれを聞くのが、純粋な疑問だった。だが、その質問をした瞬間、ケトの口調ががらりと変わる。
「はあ、また始まった。なんでいちいち説明しなきゃいけないんだよ。いい加減うざい。」
短い舌打ちが聞こえてきた。
「だって、お金の話だよ。」
「信用してないんだな。」
「そうじゃなくて……」
「結局、俺が無駄遣いしてるとでも言いたいんだろ。」
話が飛躍しすぎている。
「誰もそんなこと言ってないでしょ。」
「もういい。本当にめんどくさいな。とにかく20万な。来月また頼むから。」
通話は一方的に切られる。何とも言えない心地でスマートフォンに視線を落とした。ケトの中で「攻撃」の判定が下った途端、論点をずらし、逆切れして攻め立てる。昔と同じ性格の部分が、かなり悪化している。
私は電話の件を、帰宅した蒼井に話した。
「え、またか。困っちゃったよ。どうしようね。」
「金の使い道も言わないのか?」
「聞いた瞬間に怒り出したから。」
彼はゆっくりと腕を組んだ。
「俺は貸したくないな。」
「私も、今回は断るつもり。」
その時点では、本気でそう考えていた。だが、数日後、今度はカノから電話がかかってくる。彼女から直接連絡が来るのは初めてだった。
「あ、お母さん、ごめんなさい。私が悪いんです。ケトさんを怒らないでください。」
か細い口調で、今にも泣きそうな様子だ。
「カノさん、落ち着いて。どうしたの?」
「ごめんなさい。ケトさんがお金のことで悩んでいるの、全部私のせいなんです。私が不器用なくせに、身の程知らずだから……」
全く話が見えない。カノは何度も謝ってくるが、私も何と返したらいいものか迷ってしまう。電話の向こうで鼻をすする音が聞こえる。人並みの幸せを望んだ自分が悪いと自分を責めるカノの様子に、私はだんだん気の毒になってきた。
「他に頼れる人がいないんです。お願いします。私とケトさんを助けてください。」
「カノさん……」
結局、その日は話を濁して通話を終えた。けれど、同じような電話が1日と置かずに何度も続く。ケトから連絡が来たかと思えば、数日後にはカノも半泣き状態でかけてくる。そんな流れが繰り返されるようになった。
ある日、私は思い切って尋ねてみた。
「ねえ、怒らないで聞いてね。あなたたち、本当にそんなにお金に困っているの?」
「なんだよ、急に。」
「生活にも困っているようなら、式場を変えるとか、予算を見直すとか、そういうことをする前に、行政の支援を調べた方がいいんじゃないかしら。」
本気の提案だった。2人の様子は明らかに尋常ではない。まるで何かに追い立てられるように、金の無心をしてくるのだ。
「はあ、また説教か。ていうか支援って何だよ。人を貧乏人扱いするな。」
案の上、私の発言は彼の癪に触った。
「母さんには分からない。俺はな、カノを幸せにしたいだけなんだよ。」
最近のケトは、何かにつけてカノを理由にする。もちろん妻を大切にすること自体は立派だが、どこか不自然だ。
「私たちだって、ちゃんと返済する前提なら、考えるってこともずっと伝えてるつもりだけど。」
「はあ。返済は当然でしょ。最初はともかく。」
ケトはわざとらしく大きなため息をついた。
「母さん、本当に冷たいよな。」
結局、彼はまた喧嘩腰になる。電話を切った後、どっと疲れた。一方、カノは別方向から攻めてくる。こちらの同情を誘うようにすがってくるのだ。ケトの乱暴な話し方には全く触れずに。私がお金を出した時だけ話題になり、その後は消える。借りるのではなく、もらう前提に近い。蒼井も同じように捉えていた。
「夫婦揃って、妙だな。」
夕食を食べながら話し合う。私たちは決して裕福ではない。お弁当屋の売上も景気に左右される。蒼井も現役で働いているが、将来の蓄えは必要だ。老後資金だって考えたい。だからこそ、無条件の援助は危険だった。私はなんとなく、彼らの無心を主導しているのはカノなのではと思い始めていた。彼女は弱々しいそぶりをしながらも、ケトの振る舞いを全く止めていない。「私のために、お母さんに迷惑をかけないで」と一言言えば、すぐに止む話だ。カノもちゃんと働いているはずである。もしかして、私の想像を絶するような浪費をしているのだろうか。カノは初めて会った時、上品な格好はしていたが、高価なアクセサリーなどを身につけている様子はなかった。ケトもブランド物に興味は薄そうだし、車やゴルフなど他にお金を使いそうな趣味とも無縁だ。もし浪費の補填が目的なら、それを正直に話してほしい。2人の物言いには「金をくれ」以外の情報が全くないのだ。不透明な状態で信用しろと言われても、無理だった。
しかし、ある日を境に、2人からの連絡がぴたりと途絶えた。あれほど頻繁に行われていたのに、私の心情を読んだかのように、何の説明もなく消えたのだ。若干の引っかかりを覚えたが、何よりも私はまずほっとしてしまった。
事件が起きたのは、連絡が途絶えてから3日後の、ある平日の早朝。私はいつものように店へ向かっていた。商店街はまだ人通りが少ない。新聞配達のバイクが通り過ぎる音が聞こえる程度だ。私は店の鍵を開けようとして、違和感を覚える。
「あれ?」
扉がわずかに開いていた。昨日は確かに施錠したはずだ。私は毎日同じ手順で戸締まりをしている。鍵を閉めた後、必ず一度引っ張って確認する。ずっと続けている習慣だ。嫌な予感がしつつ、恐る恐る扉を押す。次の瞬間、目を見開いた。
「え……?」
言葉を失った。店内がめちゃくちゃになっている。棚は倒れ、書類は床一面に散乱していた。調味料の容器も転がっており、椅子もひっくり返されている。私はしばらく入口に立ち尽くした。頭が現実を拒否している。ここは私が30年近く働いてきた店だ。毎日掃除し、磨き続けた大切な居場所なのに、目の前で無惨な姿になっている。
「どうして……」
我に返った私は、すぐ警察へ連絡した。到着するまで、それ以上店内へは入らないよう指示される。やがて警察官がやってきて、事情聴取、指紋採取など、ドラマで見たような光景が目の前で繰り広げられる。
「防犯カメラはありますか?」
「あります。」
私は店の奥を指さした。だが、防犯カメラは配線が引きちぎられ、ぶら下がっていた。明らかに狙った犯行だ。警察官も顔をしかめる。
「狙って壊されていますね。」
レジ周辺や金庫の引き出しもひどかった。こじ開けようとした後がある。幸いだったのは、前日の売上金を全て持ち帰っていたことだ。私は昔から現金を店に残さない。結果として、直接的な金銭被害は免がれた。しかし、だからと言って平気ではない。店の中はぐちゃぐちゃだ。営業どころではなく、しばらくの休業を余儀なくされる。
店から出ると、事件を聞きつけた商店街全体も騒然となっていた。次々に声が飛んでくる。
「エルナさん、大丈夫か?」
魚屋の奥さんも心配そうだった。
「怖かったでしょ?」
見知った人々が代わる代わる声をかけてくれた。今回の事件で、近隣の店も警戒を強めなければならないだろう。防犯カメラの増設、夜回りなど、商店街全体に緊張が広がっている。私は笑顔を作っていたが、内心では大きな衝撃を受けていた。営業を休むことも痛い。何より、大切にしてきた店が傷つけられた。その事実が堪えた。
数時間後、私からの連絡を受けて、いつもより早めに帰宅した蒼井が心配そうに言った。
「無理するなよ、エルナ。」
「大丈夫だよ。」
「大丈夫な顔じゃないだろう。」
「ちょっとした休みができたって考えることにするよ。」
無理やり笑う。蒼井は私以上に苦しそうな表情をした。
「エルナ、働きっぱなしだったもの。それに、ただ荒らされただけ。店そのものがなくなったわけじゃないし。」
から元気だと、彼には分かってしまうだろう。私の肩を軽く抱き、蒼井は優しく慰めてくれた。
数日後、店の片付けも一段落し、久しぶりに夫婦で買い物へ出かけた。朝早めに出て日用品を買い込み、1時間ほどで帰宅する。午後は家でゆっくり映画を見る予定だ。すると、家の前に見慣れない車が止まっている。
「誰かな?」
業者が警戒しながら近づく。その時、不意に運転席のドアが開いた。降りてきた人物を見て、私は驚く。
「え、ケト?」
助手席からカノも出てくる。
「お母さん、どうしたの?」
急な事前連絡はなかったはずだ。車はレンタカーだろうか。私は蒼井と顔を見合わせた。ケトはまっすぐこちらへ歩いてくる。妙に顔色が悪かった。
「2人とも、話がある。ちょっと付き合ってくれ。」
そう言って車の方を差し示す彼。
「えっと、家じゃダメなの?」
「ダメ。」
力強く断られてしまった。ケトの瞳は、ぎらりと怪しく輝く。カノも頷いた。
「お願いします。」
私の中で不審感が膨れ上がる。最近のお金の件もあり、なんだか嫌な予感がした。
「また今度じゃダメ?」
「今じゃないと困るんだよ。」
「どこへ行くつもりなんだ? それとも、車の中で話すのか?」
「乗ってくれれば分かる。」
答えになっていない。私はますます不安になる。
「場所くらい教えてよ。」
「うるさい。ごちゃごちゃ言ってないで、いいから来いよ。」
次の瞬間、彼が私の腕をぐいっと掴んだ。
「ちょっと、ケト!」
蒼井が止めようとするが、聞かず、カノまで反対側から腕を引っ張る。
「早くしてください。お父さんも。」
「何するの?」
半ば無理やり、私と蒼井は後部座席へ押し込まれる。バタンとドアが閉まり、車はすぐ発進した。
「け、ケト、ちゃんと説明しなさい。」
「着けば分かるって。」
「おい、いい加減にしろ。」
「2人とも黙ってたら?」
車内の空気は重かった。カノは無言で、ケトも前だけを見ている。私は何度も行き先を尋ねたが、返事はない。蒼井が問いかけても、無視される。異様だった。車は街を抜け、知らない道路へ出る。さらに進み、気づけば1時間近く経っていた。
「どこまで行くの?」
ぽつりと呟く。隣の蒼井が、ぎゅっと手を握ってくれた。やがて、車はある場所で停車した。私は窓の外を見る。見覚えのない施設だった。白い建物に広い駐車場。玄関前には車椅子の利用者が見える。入口付近の看板には「あさひの丘ホーム」とあった。
「え、老人ホームか。」
蒼井も絶句している。運転席のケトが振り返った。そして、にたりと口元を歪め、信じられない言葉を告げる。
「今日から、施設で暮らしてください。」
私は意味が理解できなかった。カノもケラケラと笑っている。
「良かったですね。」
「何言ってるの?」
私の疑問には答えず、ケトはシートベルトを外し、降りた。乱暴に後部座席のドアが開けられる。
「はい。降りていいよ、2人とも。」
「は、ちょ、ちょっと待って。ふざけるな。さっきから一体何なんだ?」
ケトは一切聞かない。私たちを強引に車から下ろし、荷物まで外へ放り出した。
「お父さん、お母さん、元気でいてくださいね。」
「カノさん、さようなら。」
ドアが閉まる。エンジン音が響く。そして車は私たちを残したまま走り去った。叫んでも無駄だった。車は小さくなり、やがて見えなくなる。残されたのは私と蒼井。そして足元の荷物だけ。老人ホームの前で、私たちは何が起きたのか理解できず、立ち尽くした。
「何だったんだ、一体……」
途方に暮れながらも、私は荷物を拾い上げた。鞄の中身は無事だ。ただ、ふと気づく。買い物に使ったエコバッグが見当たらない。あれだけは、ケトの車の中だ。
「ねえ、蒼井。」
蒼井に声をかける。彼もまた、俯きながら自身の鞄に両手を突っ込み、何かを探っている。やがて蒼井は、はっとした様子で手を引き抜いた。
「え?」
彼の手に握られているものに、私は目を丸くした。ケチャップとマヨネーズだ。今日の買い物での購入品。
「タイミングがいいのか悪いのか、2つ同時に切れてしまったので。そういえば、この2つはエコバッグに入らなくて、こっちの鞄に入れてたなって……」
蒼井が少し間の抜けた声で呟く。彼もパニックになっているのだろうか。両手にケチャップとマヨネーズを握っている図は、なかなかシュールだ。私は口元を押さえる。しかし、抑えきれなかった。
「あはは……」
「わ、笑うなよ。」
「いやだって……今日はエビフライだって言ってただろ。オーロラソースが欠かせないから、ケチャップとマヨネーズ大事に持って帰らなきゃって……」
必死に両手を振りながら言う蒼井だが、その声も次第に小さくなっていく。私は笑いすぎて、目尻に涙まで浮かんできた。蒼井は照れくさそうに、ケチャップとマヨネーズを鞄に戻す。彼にそんなつもりはなかっただろうが、一気に緊張が吹き飛んだ。
こんなところでぼんやりしている場合ではない。今すぐケトとカノを捕まえて、事情説明を求めなければ。私はスマートフォンを取り出し、ケトの連絡先をタップする。コール音が鳴り響くが、どれだけ待っても無反応だった。潔く諦めて、画面を消して鞄に戻した。
「とりあえず、ここはどこなんだろうね。」
「うーん、老人ホームで会ってると思うけど、車は1時間ほど走っていた。車窓からの景色を全て見ていたわけではないので、正確な現在地は不明だ。」
たった今しまったスマートフォンがまた必要かもと思い、私は再び鞄に手を突っ込んだ。その時だった。
「大丈夫ですか?」
施設の方から人影が近づいてくる。エプロン姿の女性で、年は私と同年代くらいだ。眉をひそめられて、私たちを警戒しているのが分かる。
「こっちに迷い込んでしまいましたか? 右に出て200mくらい行くと駅がありますよ。でも、2時間に1本しか電車は来ないんですけど。」
彼女の顔を見て、記憶の扉が開くのを感じた。20年以上前のことだ。彼女は商店街の近くに住んでいて、よくお弁当屋に会いに来てくれた。確か当時は病院で働いている看護師だったはず。名前は深山れ子という。本人はかぼちゃコロッケを好んでくれていたと思う。小さな娘さんも、1度だけ一緒に連れてきたことがある。自分の名前が嫌いらしく、「しのって呼んで」とねだられた。彼女と手をつないでいたれ子は、困ったような表情だった。しばらくして、旦那さんの仕事の都合で遠くに引っ越すことになったと、彼女は手土産を片手に挨拶に来てくれた。私は最後に、特製かぼちゃコロッケのレシピを彼女に書いて渡したのだ。
「ありがとうございます。これでずっと、この店の味を覚えていられますね。」
なんて素敵な言葉だろうと、私は少しだけ泣いてしまったのを覚えている。そして、あの子の娘さん。私が「しのちゃん」と呼んだ、あの小さな女の子。名前は確か……カノだった。カノは「かの」とも読めるため、自分好みのあだ名として採用していたのだろう。私はかつて、幼いカノと出会っていたのだ。だから、顔合わせの時に見覚えがあった。うまく記憶の引き出しを開けることができなかったのは、幼い頃の顔立ちとまるで違っていたからだろうか。同時に、あの時の彼女の言動を思い出す。家族が亡くなり天涯孤独だと、はらはらと泣いていたのに、あれは真っ赤な嘘だったのか。私が自分のお客さんを間違えるわけがない。
「しの……いえ、カノさんのお母さん、れ子さんですよね。」
こちらに向かってくるれ子に対して、私は叫んだ。隣の蒼井も、彼女も、びくっとする。目前まで迫ったれ子は、まじまじと私の全身を確認した。
「あ、もしかして、お弁当屋さんの……」
「そ、そうです。あゆ川エルナです。」
「エルナさん! 20年以上ぶりですね。どうしてこんなところに?」
お互い、あの頃よりもずっと白髪も増えたし、体型も違う。だが、向こうも分かってくれた。そのことが何よりも嬉しい。
「この人、お弁当屋の昔のお客さん。あと、カノさんのお母さんで間違いないと思う。」
蒼井にこっそり耳打ちすると、察しのいい彼は頷いた。後でちゃんと説明をしよう。私はれ子に向かい合った。彼女は困惑したような表情でこちらを見る。
「れ子さん、えっと、どこから話せばいいのか……とりあえず、私たちの事情をざっくりと伝えるね。あそこに、いきなり車に乗せられて、ここに置き去りにされたの。」
まず信じてもらえるかどうかが肝だったが、れ子は大きく目を見開き、驚いていた。
「え、それは、何というか……」
「うん。そうですよね。その反応が正しいと思います。」
「あ、いや、疑ってるわけじゃないんですけど、でも、本当に突然すぎて……」
私の方も、全く同じ気持ちだ。まさかこんなところで昔の顔見知りと再開するとは。カノから私やケトのことを聞いていないかなど、さらに会話を進めようとしたところで、れ子の背後からもう1つの人影が近づいてきた。
「れ子さん、やっぱり調理師の人たち、こっちに来るの間に合わないそうです。」
「え、本当に?」
れ子はその声に振り返り、険しい顔つきをしている。
「はい。交通事故で、最初に聞いていた以上に被害が大きいみたいで。あ、みんな怪我もなく無事みたいなんですけど、道路の状況が悪いらしく。」
「そっか。じゃあ、今のメンバーでどうにかするしかないわね。」
「食材はありますからね。今のレシピ通りに作れば、なんとか。」
「あなた、料理が大の苦手でしょ。」
どうやら、こちらはこちらで緊急事態のようだ。普段、老人ホームの食事を担当している調理師たちが、交通事故でいつもの到着時間に間に合いそうにない。話に聞き耳を立てていた私は、ピンときた。私も役に立てるのでは。
「あの、私、よかったらお手伝いしましょうか。」
挙手して名乗りをあげると、れ子は目を見開く。
「え、えっと、あなたは一体どちら様で?」
「それがいいわ。お願いします。エルナさん。」
れ子が私の手をがっしり掴む。
「え、れ子さん、本気ですか? この人、誰です?」
「私が昔、贔屓にしていたお弁当屋さんの店主よ。料理の腕は確かだし、資格も持ってるから大丈夫。いざという時は、私が責任を取るわ。」
なんだか大事になってきた。とはいえ、目の前で困っている人を見捨てることはできない。ちらりと蒼井に目くばせをする。彼は、うなずいた。私の気持ちを分かっているのだ。
「エルナさん、旦那さんも、とりあえずついてきて。」
れ子の背中に続き、私たちは老人ホームの中に足を踏み入れる。外から見た時も大きな建物だと思っていたが、中へ入るとさらに広く感じた。玄関の床は磨かれ、廊下には手すりが続いている。消毒液の匂いと、どこか懐かしい出汁の香りが混ざっているのが、なんだか不思議だった。受付近くを通ると、車椅子の利用者がこちらを見上げる。
「おれ子さん、今日は見ない人を連れてるね。」
「助っ人よ。すごい人だから、お昼ご飯を楽しみにしていて。」
「おお、それは期待しちゃうな。」
れ子は明るく返事をしながら、足を止めずに進んでいく。私は蒼井と目を合わせた。ほんの数分前まで、私たちは老人ホームの前に置き去りにされ、どうすればいいのか分からず立ち尽くしていた。それなのに、今は施設の昼食作りを手伝うため、厨房へ向かっている。人生というのは、本当に何が起きるか分からない。
「エルナさん、ここです。」
案内された先には、更衣室があった。
「すみません。外から来た方にそのまま厨房へ入ってもらうわけにはいかないので、こちらでエプロンと帽子、マスクの着用をお願いします。」
「もちろんです。」
私たちはロッカーを開け、鞄を放り込む。
「俺も、手伝えることがあれば何でもやります。」
「そうですね。旦那さんには、重い荷物を運んでもらえると助かります。あと、配膳も。今日は本当に人が少ないんです。調理師さんたちもそうですけど、たまたま体調不良者が続出していて。」
蒼井は妙に張り切っていた。先ほどまでケチャップとマヨネーズを握っていた人とは思えない。こんな状況でも、すぐ役割を見つけようとするのは彼の長所だ。私たちは清潔な身なりを整えた。髪をまとめ、帽子をかぶり、マスクをつける。手洗いも念入りに行った。厨房に入る前の確認は、私にとって体に染みついてきた動きだ。れ子がそれを見て、ほっとしたように頷く。
「さすがですね。」
「昔から色々な調理場で叩き込まれていますから。」
「心強いです。」
厨房へ入ると、確かに食材は揃っていた。冷蔵庫には下処理前の鶏肉、ほうれん草、にんじん、豆腐、長ねぎ。作業台にはかぼちゃや米、卵、調味料が並んでいる。大きな鍋、業務用の炊飯器、ざる、バット、計量カップなど、必要なものはある。しかし、人が足りない。広い調理場に対して、職員はれ子と先ほどの女性職員だけだった。
「本当にすみません。普段の調理師さんたちが来られないなんて、こんなこと初めてで……」
ぺこぺこと頭を下げ続ける彼女を見ていると、なんだかこちらも申し訳ない気持ちになる。
「謝っている暇があったら、人を呼んできて。配膳まで考えると、手が足りない。」
「はい!」
女性職員は慌てて出て行き、数分後には別の職員を3人連れて戻ってきた。若い男性職員と、年配の女性職員。眼鏡をかけた細身の女性職員。みんな調理の専門ではなさそうだ。だが、人手があるだけでもありがたい。
「皆さん、聞いて。今日の昼食、調理師さんたちが事故渋滞で到着できておらず、怪我はないそうですが、昼には間に合いません。そこで、偶然こちらに来てくださった、あゆ川エルナさんに助けてもらいます。」
私は一歩前に出て挨拶をした。
「あゆ川です。商店街でお弁当屋をやっています。急なことですが、できる範囲でお手伝いします。」
「え、お弁当屋さん! 助かります。」
「エルナさんは、調理師の資格もあります。皆さんは、エルナさんの指示を聞いて動いてください。」
「献立は決まっていますので、変更はしません。レシピ通り、安全第一で進めます。」
早速、れ子がファイルを持ってくる。
「今日の通常メニューは、ご飯、鶏肉の柔らか煮、かぼちゃの含め煮、ほうれん草とにんじんの白和え、豆腐と長ねぎのすまし汁です。」
「分かりました。」
私はレシピを受け取った。分量、食材、調理手順、提供人数、塩分量の目安がしっかり書かれている。こういった施設の食事は、家庭料理とも店の弁当とも違う。1人1人の量がきちんと決まっている上、健康状態に合わせる必要がある。単に味が薄ければいいわけではない。食べやすさ、温度、見た目、栄養、提供時間。全部を同時に考えるのだ。私はレシピを一通り確認し、頭の中で段取りを組んだ。
「まず、ご飯を確認しましょう。炊飯の準備は?」
「お米を洗ってあります。水加減もOKです。」
「ありがとうございます。炊飯器のスイッチを入れてください。炊き上がったら、すぐに蒸らさず、10分ほど蒸します。」
「はい。」
力強く頷く眼鏡の女性職員。
「蒼井は、かぼちゃを作業台へ運んでくれる?」
「了解。」
「男性職員さんは、鶏肉をバットへお願いします。女性職員さんたちは、ほうれん草とにんじんを洗ってください。れ子さん、豆腐と長ねぎの準備を一緒にお願いできますか?」
「もちろん。」
指示を出すと、厨房に動きが生まれた。人が足りない時ほど、最初の段取りが大事だ。全員が同じ作業へ集中すると、別の作業が止まる。逆に、バラバラに動けば、確認漏れが出る。私はまず主菜から始めることにした。鶏肉の柔らか煮だ。高齢者向けなので、肉は大きすぎない方がいい。レシピにも「一口大」とある。硬い筋や余分な油を取り除き、食べやすい大きさに切っていく。包丁を握ると、自然と心が落ち着いた。店を荒らされた数日前の光景や、ケトとカノの暴挙。頭の中に浮かびかけたものを、まな板の上の鶏肉へ意識を戻すことで押し流す。今は目の前の昼食だ。食事を待っている人たちがいる。
「鶏肉は火を入れると縮むので、厚みを揃えます。大きさがバラバラだと、硬いものと火が入りすぎるものが出ますから。」
「はい。」
手本を見せると、男性職員は感心したように言った。
「こうしてみると、思ったより小さめですね。」
「噛む力が弱い方もいますから、当然ですけど。こういう方たちにも、食事を楽しんでもらうのが、ここにいる方々のお仕事なんですよね。」
彼は、はっとした様子だった。介護施設の職員でも、役割や専門はそれぞれ違う。交通事故は災難だが、普段は知らない調理師たちの仕事にも触れる、いい機会だと思う。お互いの職務に改めて敬意を持つことができるからだ。
鶏肉を切り終えたら、酒とすりおろし生姜を少量馴染ませる。臭みを取るためだ。塩は使わず、後で煮汁に味を含ませる。次に大鍋に出汁、砂糖、みりんを入れる。醤油はレシピ通り控えめ。「照り煮」という名前でも、味を濃くせず、出汁の旨味とみりんの丸みで満足感を足す。
「煮汁は先に沸かして、鶏肉を入れたら火を強くしすぎないでください。ぐらぐらに煮ると、硬くなります。」
「鶏肉って、強火で煮詰めるものだとばかり。」
「若い人向けなら、それでもいい時があります。でも、今日は柔らかさ優先です。」
鶏肉が鍋に入ると、出汁と生姜の香りが立った。私は浮いてきた灰汁を丁寧に取る。灰汁を取る作業は地味だが、仕上がりを左右する。濁りや雑味が減れば、塩分が控えめでも味がまとまりやすい。次に、かぼちゃの含め煮に手をつける。蒼井が運んでくれたかぼちゃは、ずっしり重かった。
「エルナ、これでいいか?」
一旦手持ちぶさたになったのか、蒼井がかぼちゃを指差し、声をかけてくる。
「ありがとう。助かる。」
「まだまだ現役だからな。」
「はいはい。知ってる。」
はいはい、と流していると、れ子に呼ばれて別の荷物を運びに行った。私はかぼちゃの種とわたを取り除き、食べやすい大きさに切る。皮はとりすぎてしまうと崩れやすいし、残しすぎると噛みにくい。程よい加減が必要だ。
「エルナさん、昔からかぼちゃ料理上手でしたよね。」
れ子が1人で戻ってきて、ぽつりと呟く。
「れ子さんは、うちのかぼちゃコロッケが好きでしたね。」
「覚えてくれてるんですか?」
「もちろん。レシピを書いて渡したでしょ。」
私は手を止めずに続ける。
「エルナさんのあのレシピのおかげで、今でも私の好物ですよ。」
「よかった。今日の含め煮も、きっと美味しくなりますよ。」
かぼちゃを鍋に重ならないように置き、出汁を注いだ。砂糖とみりんを入れ、醤油は最後に控えめに加える。落とし蓋をして、弱めの火にかける。かぼちゃは火が強すぎれば角が崩れ、味も外側ばかり濃くなる。弱火でじっくり火を入れることで、甘みが出て、黄色い身が少しずつ艶を帯びていくのだ。
次は、ほうれん草とにんじんの白和えだ。職員たちが洗ってくれた野菜を確認する。ほうれん草は根元に土が残りやすい。私はもう一度、水を張ったボウルで根元を振り洗いした。大鍋に湯を沸かし、ほうれん草を茹でる。茎から先に入れ、葉は後から沈めた。ポイントは茹ですぎないこと。水にとって色を止め、軽く絞って水気を切る。にんじんは細めの拍子木切りにし、柔らかく茹でる。豆腐は水切りが必要だった。れ子が厨房用のペーパーを用意してくれる。
「豆腐は急いで絞ると食感が悪くなります。重しを軽くして、余分な水分だけ抜きましょう。」
「了解。」
白和えの衣は、豆腐、すりごま、少量の砂糖、控えめな薄口醤油。一口味見をする。
「うん。ごまの香りが出ています。塩分控えめでも、ちゃんと味がしますね。」
「ごまや出汁を使うと、調味料を増やさなくても満足感が出ます。」
和え物は早く合わせすぎると水が出る。提供直前に近いタイミングで合わせるため、下ごしらえだけ済ませ、バットに分けておいた。そして、豆腐と長ねぎのすまし汁の準備を始める。汁物は塩分量に気を使う。味噌汁に比べ、すまし汁は出汁の出来がそのまま出る。薄いだけでは物足りないかと言って、調味料でごまかすと塩分が上がるので、難しい料理だ。鍋に出汁を張る。レシピではすでに出汁が用意されていたが、私は香りを確認した。
「いい出汁ですね。」
「厨房の調理師さんたち、そこはいつも丁寧なんです。作り置きがあってよかった。」
「分かります。」
豆腐はさいの目に、長ねぎは斜め薄切りに、入居者が食べやすいよう。鍋に豆腐を入れ、崩さないように温めた。ねぎは最後の方で入れる。入れすぎると香りが飛び、食感も失われるからだ。薄口醤油と塩は最小限。ここでも忘れず味見をする。
「うん。出汁が立っています。すごい。飲んだ時に優しいのに、薄い感じがしません。」
「出汁を信じると、調味料に頼りすぎなくて済みます。」
言いながら、私は不思議な感覚になっていた。料理というものは、私に居場所を作ってくれる。初めての厨房でも、見知らぬ人の中でも、包丁を握り、鍋を見て、湯気の向こうに食べる人の姿を想像すれば、私は私に戻れるのだ。
鶏肉の柔らか煮は、煮汁が程よく絡んできた。強火ではないけれど、一切れ取り出して箸で割ると、柔らかくほぐれた。
「火を止めて、味を含ませます。ここで煮続けないんですね。」
「余熱も料理のうちです。」
かぼちゃの含め煮も仕上がった。串を刺すと、すっと通る。崩れておらず、黄色い身に出汁が染みて、見た目も温かい。白和えは、提供直前に野菜と衣を合わせた。ほうれん草の緑、にんじんのオレンジ、豆腐の白。彩りもいい。すまし汁には長ねぎを加え、最後に温度を確認する。ご飯も炊き上がっていた。蓋を開けると、湯気と米の香りが広がる。眼鏡の女性職員が数えた通り、蒸らし時間を守ってくれていた。
「じゃ、じゃ、ここから返ししてください。潰さないように。」
「はい。」
厨房全体に、食事らしい香りが満ちた。職員たちの動きにも余裕が出てくる。最初は緊張でぎこちなかった人たちも、今は自分の担当をこなしていた。蒼井も、食器を運んだり、配膳の準備をしたりしている。
「エルナ、こっちは並べ終わったぞ。」
「ありがとうね。全部出してくれたんだ。」
お盆の上に置かれた食器を見ると、なんだか学生時代の給食を思い出す。
「料理の方じゃなくても、俺もなかなか使えるだろ。」
「え? ケチャップとマヨネーズを守った男だもんね。」
「その話は今、しなくていい。」
思わず笑いそうになったが、作業中なので堪えた。やがて、通常メニューが完成した。ご飯、鶏肉の柔らか煮、かぼちゃの含め煮、ほうれん草とにんじんの白和え、豆腐と長ねぎのすまし汁。並んだ料理を見て、れ子が深く息を吐いた。
「間に合った。本当に良かった。しかも、すごく美味しそうです。」
私は時計を確認した。提供時間にはまだ余裕がある。
「一応、大丈夫です。でも、まだ終わりじゃありませんよね。」
れ子がこちらを見た。
「ええ、そうですね。咀嚼に問題がある方の分が残っています。同じ食事でも、全員が同じ形で食べられるわけではありませんから。」
厨房の空気が引き締まる。通常メニューは完成したけれど、本当に大切なのはここからだ。施設には、普通の食事をそのまま食べられる人もいれば、噛む力が弱くなっている人もいる。飲み込む力に不安のある人などもいるだろう。全員へ同じ料理を出せばいいわけではない。私が弁当屋で作ってきた料理も、相手によって形を変えることがあった。歯の治療中の常連さんに、揚げ物より煮物を勧めた。体調を崩した人に対しては、油を控えたおかずを詰める。小さな子供には、辛みを抜いた。料理は、食べる人に合わせて初めて役に立つ。老人ホームの食事は、その考えをさらに徹底したものなのだろう。れ子が別のファイルを開く。
「咀嚼に問題がある方の、今日の献立はこちらです。全粥、鶏挽き肉と豆腐の柔らかつくね、かぼちゃペースト、ほうれん草とじゃがいものとろみ付き野菜スープ。」
私は受け取り、通常メニューの時も丁寧に目を通した。普通と同じ食材を使う部分もあるが、作り方は全く違う。食材の硬さ、まとまり、潰せるか、口の中でばらけすぎないか。考えることが増える。
「まず、全粥から確認しましょう。」
「はい。お粥用のお米は、こちらにも予備があります。」
追加の米袋を見せてくる。
「先ほど炊いた通常メニュー用のご飯も、まだまだありますね。炊飯器で作る分と、鍋で調整する分がありますね。」
「そうなんです。人数分に対して、少し多めに作ることになっています。」
「ふむ。」
私は頬に手を当てた。余裕がある方がいい。水分量は途中で見よう。全粥とは、米と水を1対5の割合で作るお粥のことだ。今回は、米の粒が柔らかく崩れるように炊く必要がある。しかし、さらさらすぎれば食べづらくなる。粘りが強すぎても、飲み込みにくい。炊飯器の設定を確認してセットする。普段の昼食時間は遅れるが、それはれ子によって入居者たちに通知済みだ。私は鍋の中に洗ったお米と規定量通りの水を注いだ。
「最低30分は必要ですけど、今回は20分はこのまま置いてください。火をつけてからは、吹きこぼれないように注意してくださいね。」
「加減が難しいですね。」
「難しいです。でも、焦らなければ大丈夫。」
その場を女性職員に任せて、私は別の作業に取りかかった。約50分後、調理場の一角でふんわりと湯気が上がる。米の甘い香りが広がった。全粥が出来上がるまでの間に、私は他のおかずに手をつけていた。まず主菜の、鶏挽き肉と豆腐の柔らかつくねからだ。挽き肉の状態を見ると、脂身が多すぎず、細かく引かれている。豆腐は水切り済み。つなぎには片栗粉と卵。生姜のすりおろしも少量ある。
「豆腐を入れることで、柔らかく仕上がりますからね。」
「なるほど。普通のつくねとは違うんですね。」
「ええ、焼き固めるより、蒸してから軽く煮含める方が良さそうです。レシピにも『蒸し調理』と書かれています。」
私は大きなボウルへ挽き肉を入れた。豆腐を崩しながら加え、片栗粉、卵、少量の生姜を入れる。味付けは控えめにして、後で薄い出汁をまとわせる。手袋をはめた手で優しく混ぜると、挽き肉と豆腐が馴染み、柔らかな生地になった。スプーンで掬い、同じ大きさになるように丸める。男性職員が隣で真似をする。最初は大きさがバラバラだった。
「もう少し小さくしましょう。火の通りが均一になりますから。」
「こうですか?」
「はい。上手です。」
「慣れている方に褒められると、安心しますね。」
横からひょっこりとれ子が顔を覗かせる。彼女はずっと調理場や食堂を行き来し、他の職員たちをまとめている。かつては看護師だったはずだが、いつ介護施設勤務になったのか、後で聞いてみよう。
「エルナさん、先生みたいね。」
「店でも一時期、アルバイトさんに教えていたことがありますから。」
形の整ったつくねを並べる。湯の立った蒸し器に入れると、厨房の空気がさらに温かくなった。蒸している間に出汁を作る。出汁を温め、薄口醤油を少量。醤油は控えめ。片栗粉でとろみをつける。つくねの表面に絡み、口の中でまとまりやすい濃度を目指した。やがて蒸し上がったつくねを1つ取り出し、箸で割ってみる。ふんわりしていて、中まで火が通っている。私は小さく切って、れ子に見せた。
「スプーンで切れます。」
「本当だ。柔らかい。」
「崩れすぎても食べにくいので、これくらいがいいと思います。」
つくねを出汁あんへ入れ、崩さないように温める。派手な料理ではないが、ふわりと湯気をあげる姿は、見ているだけでほっとした。
次は、かぼちゃペースト。通常メニューのかぼちゃの含め煮とは別に、ペースト用のかぼちゃが用意されていた。皮を厚めに取り、身を柔らかく蒸す。茹でるより蒸す方が、水っぽくなりにくい。
「かぼちゃは甘みがあるので、調味料は控えめで十分です。」
「さっきも言ったけど、かぼちゃコロッケを思い出しますね。揚げられない分、今日は下味で勝負ですね。」
蒸し上がったかぼちゃを潰す。熱いうちの方が潰しやすい。マッシャーで丁寧に押し、必要に応じて出汁を加える。牛乳ではなく出汁を使うのは、献立の味全体を和風にまとめるためだろう。裏ごし器を見つけたので、職員に手伝ってもらった。かぼちゃは鮮やかな黄色になった。滑らかで、艶がある。私は味見をして頷いた。
「甘くて美味しい。」
「エルナが言うなら、間違いないな。」
いつの間にか蒼井が近くにいた。配膳の準備と、れ子に言いつけられた雑務が終わったらしい。
「俺も、何かできるか?」
「じゃあ、追加の容器を並べるのを手伝って。」
「了解。」
次は、ほうれん草とじゃがいものムース。これが一番手間がかかりそうだった。ほうれん草は茹でて水気を切り、じゃがいもは蒸して柔らかくする。じゃがいもとほうれん草の風味を合わせ、滑らかな状態にした。ふと見ると、最初は不安だった職員たちが、徐々に変わってきている。自分の作業を理解し、次に何が必要か考え始めていた。私はその変化が嬉しかった。ほうれん草を細かく刻み、じゃがいもと合わせる。滑らかになったものをボウルへ移し、出汁で硬さを調整する。
「スプーンで作った時に形が残るくらい。流れすぎると、食べづらいです。」
「なら、柔らかければいいのかと思っていました。」
「柔らかさと食べやすさは、同じではありませんから。」
自分で言いながら、私は料理の奥深さを改めて感じていた。最後は、とろみ付き野菜スープ。にんじん、玉ねぎ、キャベツを柔らかく煮る。野菜の甘みを出すために、煮立てすぎず、じっくり火を通す。
「すっかり厨房がまとまりましたね。」
れ子がぽつりと言った。私は鍋を見ながら返す。
「皆さんが動いてくださるからです。」
「最初、みんなアタフタしてたんですよ。覚えてるでしょ?」
「そうでしたね。」
「でも、今はエルナさんを中心に、ちゃんと回っています。」
「中心なんて、大げさだと思います。私は途中から来ただけの部外者ですよ。たまたま料理が得意だっただけ。」
「でも、来てくれなかったら、昼は間に合いませんでした。本当にありがとうございます。」
その言葉に、油断すると涙がこぼれそうになった。ぐっと唇を噛んで耐える。
「まだですよ。無事に昼食の時間が終わるまで、頑張らないと。」
誰かの役に立てている事実が、私を支えてくれる。最後にスープの濃度を整えていると、れ子が確認用のスプーンを持ってきた。
「このくらいですか?」
「はい。スプーンからゆっくり落ちますね。いいと思います。」
ちょうど、全粥も仕上がった頃だった。粒は柔らかく、程よいまとまりがある。鶏挽き肉と豆腐の柔らかつくねは、出汁あんをまとっている。かぼちゃペーストは明るい黄色で、ほうれん草とじゃがいものムースは優しい緑。野菜スープは淡いオレンジ色だ。咀嚼に問題がある人向けの料理は、見た目が単調になりやすいけれど、できる限り色を残すことで、食べる前の楽しみが生まれる。
「できました。」
その一言で、厨房に安堵が広がった。
「いつもの時間は過ぎちゃってますけど、でも、皆さんにお知らせした昼食時間には間に合いましたね。すごい。」
「皆さん、配膳に移りましょう。通常食と別メニューを、絶対に間違えないように。」
職員たちは一斉に動き出した。気づけば、他の職員たちもやってきて、準備を手伝ってくれている。食堂では、介助がなくても食べられる入居者たちが集まっていた。テーブルごとに職員がつき、配膳の準備をしている。蒼井はすっかり配膳係になっていた。
「こちらの席ですね。」
「ありがとうございます。」
「そこは通常食です。」
「了解。」
真面目に働くその姿に、私は少し笑いそうになる。あまりにも馴染んでいる。入居者の1人が、蒼井に話しかけていた。
「あなた、新しい職員さん?」
「いえ、今日は臨時の手伝いです。」
「背が高くていい男だね。」
「ありがとうございます。妻にもよく言われます。」
照れもせずに平然と返す彼。近くの職員が吹き出しそうになっていた。やがて、食事が配られ、食堂に出汁と煮物の香りが広がった。入居者たちは箸やスプーンを持ち、ゆっくり食べ始める。
「この鶏肉、柔らかいな。」
「かぼちゃが甘いわね。」
「すまし汁も、いい味だ。」
そんな言葉が聞こえてくる。私は厨房の入口付近から、その様子を見守った。料理人にとって、食べてもらう瞬間ほどありがたいものはないと思う。空になっていく皿と、ゆっくりでも確かに進む箸。隣同士で笑い合う入居者たち。普段よりも遅れた昼食に文句を言っていた人も、箸を動かすたびに表情が和やかになっていった。今日1日の怒涛の出来事で疲れきっていた心に、温かいものが戻ってくる。
咀嚼が難しい入居者たちの分は、職員が各部屋や専用スペースへ運んでいった。私は厨房で片付けを手伝いながら、結果を待った。約1時間後、れ子が戻ってきた。
「咀嚼に問題がある方たちも、皆さん食べ終わりました。」
「本当ですか?」
「はい。食が細い方が、かぼちゃペーストを最後まで召し上がったそうです。」
嬉しそうな報告を聞いた途端、全身から力が抜けた。
「ああ、よかった。」
ようやく息をつけた。食器を拭き終えた蒼井も、柔らかい笑みを浮かべながら気遣ってくれる。
「エルナ、お疲れ様。」
「蒼井もね。」
れ子が深々と頭を下げた。
「本当にありがとうございました。エルナさんも、旦那さんも。お2人がいなかったら、今日はもっと大変なことになっていました。」
「こちらこそ、突然押しかけたようなものなのに、役に立てて良かったです。」
「立てたどころじゃありません。救いの神です。」
思わず苦笑いがこぼれる。
「それこそ、大げさですよ。」
「大げさじゃありません。」
れ子の言葉は、どこまでもまっすぐだった。感謝の気持ちが伝わりすぎて、こちらが恥ずかしくなる。その後、れ子は私と蒼井を事務所へ案内してくれた。ようやく座れる。椅子に腰を下ろした瞬間、疲れが一気に押し寄せてきた。本当に、今日は色々ありすぎた。思考を整理したいのに、うまくまとまらない。途中、更衣室によって着替えついでに回収してきた鞄を、無意識のうちに抱きしめていた。
ふと、れ子は小さな皿を2つ持ってきた。
「今日のおやつ用に届いていたカステラです。よかったら、召し上がってください。」
「いいんですか?」
「もちろん。お2人とも、試食は残っていたものを少し食べてましたけど、あれだけじゃお腹が空くでしょ。お茶も入れますね。」
湯のみに温かいお茶が注がれる。私はカステラを丁寧に切り分けて、一口食べる。甘さがじんわりと舌に広がった。疲れた体に染みる味だ。蒼井も夢中で頬張っている。
「おいしい。」
「良かったです。この店のカステラ、入居者さんたちにも人気なんですよ。」
「本当に、ようやく休めた気がします。」
れ子は私たちの前に座った。そして、少しだけ真剣な表情になる。
「さて、落ち着いたところで、お2人の事情を、もっと詳しく聞かせてもらってもいいですか?」
私はカステラの皿を置き、湯のみを両手で包みながら、今日起きた出来事の詳細と、ケトとカノについて話す覚悟を決めた。これは同時に、れ子側の事情にも踏み込むことになる。今までなら無遠慮な振る舞いだと思って避けていたけれど、もう遠慮していられる段階ではない。
「れ子さん、まずこちらからも聞きたいんだけど。れ子さんの娘さんって、カノさんで間違いないですよね。子供の頃は『しのちゃん』って呼ばれたがっていた。」
れ子の眉が、ぴくりと動く。
「そうですね。間違いないです。私の娘の名前はカノです。今年で28歳になります。」
蒼井が隣で息を飲んだ。やはり、私の記憶は正しかった。
「実は、カノさんは今、私の息子、ケトの妻なんです。」
「え?」
れ子が目を見開いた。
「ま、待ってください。カノが、エルナさんの息子さんと結婚しているんですか?」
「はい。そういうことになります。」
はっきり言って、この時点での根拠は私の記憶力だけだ。カノの写真の1枚でもあれば、証明はもっと容易だったのだが。れ子は、投げ出すように額に手を当てた。
「世間って、狭いんですね。」
「私たちも驚いています。」
「本当に、私はもっと驚いていますよ。まさか、カノがエルナさんのご家族と繋がっていたなんて。」
深く息を吐く彼女。その様子は、娘の結婚を喜ぶ母親のものとは違う。厄介な名前を聞いてしまった人の反応に近い。
「れ子さんは、カノさんから私たちのことを聞いていませんか?」
「聞いていません。というより、私はもう5年以上、カノと連絡を取っていないんです。お互いに、絶縁したつもりでいます。どこに住んでいて、何をしているかも知りません。今、私がここで働いていることも、知らないでしょうね。あの子は……」
きっぱりした物言いだ。れ子とこうして再会したのは、全くの偶然だった。まさか自分の母親が務める老人ホームだとは、カノは夢にも思わなかったのだろう。
「カノさんは、家族を事故でなくしたと言っていました。」
れ子の口調が、一気に低くなった。
「顔合わせの時です。蒼井が両家の顔合わせについて尋ねたら、カノさんが泣き出して、『家族はみんな事故で亡くなった』と。」
「やったわね、あの子。」
れ子は呆れたように天井を見上げる。
「こうして、元気に働いているんですけどね。」
「知らずに聞いてしまった俺が悪いと、息子に責められました。」
「旦那さんは、何も悪くありませんよ。普通、結婚の話になったら、両家の顔合わせの話は出ます。」
「そうですよね。」
彼女の涙も、か細い謝罪も、全部計算だったのだろうか。れ子は自分の湯のみを両手で包み、しばらく黙っていた。やがて、覚悟を決めたように口を開く。
「私は、5年前に夫をなくしました。病気でした。長くは持たないと分かっていましたけど、覚悟する時間はありました。」
れ子の言葉は淡々としていた。長い時間をかけて、どうにか形を整えた悲しみを抱えているように見える。彼女は、夫が亡くなった後、引っ越し、3年前には看護師をやめて、介護福祉士になるために勉強し始めたのだと教えてくれた。様々な老人ホームに勤務してきたらしい。
「夫は、私とカノにいくらか残してくれました。大金持ちではありません。でも、夫が真面目に働いて貯めたお金です。」
「遺産ですか?」
「はい。全部合わせて、1000万円ほどありました。」
決して軽い金額ではない。個人、あるいは家族として長年積み重ねてきた生活の証でもある。本来なら、きちんと話し合って分けるべきだった。
「私も、カノに渡す分はちゃんとするつもりでいました。けれど、カノは最初から話し合う気がなかった。『お父さんの遺産は、全部自分のもの』だと。」
私は言葉を失った。
「『お父さんは私を可愛がっていた。だから遺産は全部私のもの。お母さんは自分で働いているんだから、いらないでしょう』。そんな理屈です。」
「むちゃくちゃですね。」
「ええ、むちゃくちゃです。」
れ子は苦笑。
「もちろん、私も怒りました。カノも反論してきて、最後は家中ひっくり返るような喧嘩になって、それでカノは遺産を持ち逃げしました。」
なかなか衝撃の度合いが強い一言が飛び出した。持ち逃げ。
「通帳も、印鑑も、必要なものを持って消えました。夫が亡くなって間もない時期でしたから、私の管理も甘かったんです。」
れ子は自分を責めるように言ったけれど、悪いのは盗んだ側だ。そう言いたかったが、彼女の話はまだ続く。
「警察にも届けました。でも、夫の葬儀で疲れていたのと、娘をそこまでしたくない気持ちが残っていたので、結局、追わなかったんです。バカでしょ?」
「そんなことありません。親なら、迷います。」
「そうですね。どんなことをされても、子供をすぐ切り捨てられないのが親です。」
その気持ちは、痛いほど分かる。現に、私たちもまだケトを見捨てられずにいる。れ子は私と蒼井を見て、かに笑った。
「ありがとうございます。でも、あの日、私の中では終わりました。全てを諦めて、カノとは親子でいることをやめたんです。」
「持ち逃げしたお金は、一体何に使ったのでしょう?」
「多分、美容整形です。」
私はカノの顔を思い出す。初めて会った時、確かに美しい女性だと感じた。しかし、今なら分かる。記憶の中にあった幼いカノと、大人になったカノが結びつかなかった理由。成長だけでは説明できないほど、見た目が変わっていたのだ。れ子はスマートフォンを取り出した。
「これ、5年以上前のカノの写真です。」
画面を差し出され、恐る恐る覗き込んだ。そこに映っていたのは、私たちが知る彼女とはまるで別人の女性だった。派手な雰囲気は皆無で、目元も鼻筋も輪郭も違う。しかし、私は小さく息をついた。
「分かりますか?」
「はい。私が覚えている小さなカノさんの面影は、こちらの方が残っています。」
「そうでしょうね。」
れ子はスマートフォンを机に置く。
「カノは昔から、自分の容姿に強いコンプレックスがありました。小学生の頃からです。周りの子と比べて、自分は可愛くないと、よく言っていました。それは、親としては辛かったです。でも、私は彼女に何度も言いました。『あなたにはあなたの良さがある。誰かと比べなくていい』と。そう伝え続けたつもりです。」
不意に、彼女は俯いた。母親としての優しい慰めの言葉も、カノには届かなかったのだろう。
「中学、高校と進むにつれて、カノの劣等感はどんどん強くなりました。雑誌やSNSで可愛い子を見つけては、『ああなりたい。どうして私は違うの』って。成長して視野が広がり、他者や周囲の環境に目が向くようになるのは自然なことです。でも、カノは自分のコンプレックスを、余計に被害者意識へと発展させていった。スマートフォンを早く持ったことも、その一因でした。情報が不確かなものに踊らされたり、SNSなどでの同級生の投稿に激しい嫉妬を募らせることもあったという。」
「私は、美容整形そのものを否定しているわけではありません。自分の人生です。本人が働いて、納得してお金を貯めて、自分の責任でやるなら、好きにすればいい。でも、カノは昔からこう言っていました。『私をこんな顔に産んだお母さんが悪い。だから、お母さんには私の整形費用を出す責任がある』って。」
事務室に沈黙が落ちる。あまりにも身勝手な言い分だ。
「最初は傷つきました。次に腹が立って、最後は呆れちゃったんです。」
れ子は肩をすくめる。
「私が夫の遺産を管理していたら、全部整形費用に消えることはなかったでしょう。だから、カノは持ち逃げしたんだと思います。」
なんと返せばいいのか分からず、私は唇を噛んだ。蒼井も、複雑そうに表情を歪めている。確かに、ケトも他人に対するコンプレックスが強い方だ。そういう点で、2人は共鳴し合ったのだろうか。再びれ子がスマートフォンを持ち上げ、操作する。
「ちなみに、1ヶ月くらい前、カノから連絡が来ました。」
「え、カノさんから?」
「はい。お金貸してって。」
メッセージ画面を見せてくれた。そこには短い文章が並んでいた。
「お母さん、久しぶり。私、今どうしても困ってるの。お金貸して。とりあえず50万円でいいから。返すから。お願い。」
私は息を飲む。
「無視してます。多分、遺産だけでは足りなくなったのでしょう。借金を重ねてまで、整形を続けているんだと思います。」
その言葉で、これまでの疑問が一件につながり始めた。ケトからの金の無心、カノの泣き落とし、「結婚資金」という説明、何度も繰り返された「カノのため」という言葉。もしかして、あのお金は結婚式のためではなく、カノの整形費用、あるいは借金返済だったのか。
「ケトは、どこまで知っているのかな?」
「ケトは恋愛とは無縁の人生を送ってきた。だから、カノに選ばれたことが、よほど嬉しかったのでしょう。家族を失い、孤独で、自分を必要としてくれる唯一の女性。そんな物語を、ケトは信じ込んだ。けれど、もし知っていたら。整形費用や借金のことを分かっていて、私たちに嘘をついたのであれば、それはただの哀れな息子ではなく、加害者だ。」
「ちゃんと確かめるしかないな。」
蒼井が低く言う。いつもの茶目っ気はなりを潜め、夫として、父親としての怒りがそこにある。
「彼らの狙いは、もしかしたらお2人の家でしょうか?」
「え?」
「親を施設に入れた。これで家は自分たちのもの。そういう短絡的な考え方をしていても、不思議じゃありません。」
蒼井が鼻で笑った。
「甘いな。」
「そうだね。施設に入れたっていうか、単なる置き去りだし。」
心の中で、何かがはっきり切り替わったのが分かる。息子、家族、そんな言葉に縛られて、黙って傷つけられる必要はない。2人の真意を確かめて、必要なら全てを終わらせる。
不意に、スマートフォンが鳴り響く。私ははっとして、抱えている鞄の中身を見た。鳴っているのは、私のスマートフォンだ。画面には「ケト」の文字。蒼井とれ子が揃って息を飲む。私も一気に緊張した。渦中の人物から、直接電話がかかってきたのだ。無言で蒼井に目くばせをすると、彼は私の手をそっと握ってくれた。優しい手は、私に勇気を与えてくれる。すーっと息を吸い込んで、通話ボタンをタップした。
「もしもし。ケト?」
「母さん、頼む。助けてくれ。」
開口一番、ケトが叫んだ。彼の背後から、何かを激しく叩く音や、聞いたことのない男性の大声が耳に届く。
「あゆ川さん、ここにいるのは分かってるんですよ。早く出てきてくれませんかね? 手間をかけさせないでください。」
「ど、どうして俺がこんな目に……」
状況が全く分からない。私は電話をスピーカー状態にして、机に置いた。
「ケト、落ち着いて。何が起こっているの?」
「母さん、金はどこにあるんだ? 教えてくれよ。カノの借金取りが、すぐそこまで来てて。昨日、リコと話してるのを聞いたんだ。宝くじでも当たったんだろ? 弁当屋のこと謝るから、教えてくれ。」
確かに昨日、リコは我が家を尋ねてきた。私を慰めたかったのだと思う。お茶とお菓子を囲んで、世間話をした。あの時、ケトも偶然家に来ていたのだろうか。私たちの会話をこっそり聞き耳を立てていたらしい。明らかに勘違いをしている。しかし、それよりもまず気になることがあった。
「『弁当屋のこと謝る』って、一体何のこと?」
「この前、うちにカノの借金取りが来て、金を返せって言われたから、母さんの店を教えたんだ。繁盛してるから、そこに売上がたくさんあるはずだ。だから、今日は勘弁してくれって。」
頭の中が真っ白になった。つまり、私の店を荒らした犯人は、その借金取りなのか。そして、店の場所を教えたのは、ケトだ。彼の行為は、一体何の罪に問えるのか。私はすぐに考えてしまった。
「なんだと……」
低い蒼井の声がこぼれる。彼は私以上に怒りをたたえていた。れ子も、驚愕に目を見開いている。
「まさか、本当に店の方に行くなんて思わなかったんだ。お、俺は悪くないし、母さん許してくれるよな。だから、今はとにかく金のありかを……」
「お金なんて、あるわけないでしょ。」
温度の一切ない返事が、口から自然に飛び出していた。
「え? いや、そんなわけないだろう。俺はちゃんとこの耳で聞いたんだから。」
「リコと直接聞いたわけじゃないでしょ。あなた、勘違いしてるよ。私たちが話してたのは、リコの同僚さんが宝くじに当たったってこと。その会社で、待遇がちょっと変わるかもってことだもの。」
「え……」
ケトが間の抜けた声を漏らす。私とリコは、宝くじで大金が当たったなどという話は一切していない。ケトは「大金」や「当たった」など、自分に都合のいい言葉を切り取って、思い込んだだけだ。まさか、そんな妄想を鵜呑みにして、私たちを施設に置き去りにしたのだろうか。無理やり家を開けさせて、大金のありかを探すために。
「そ、そんな……」
その時、またどんどんと激しく扉を叩くような音が聞こえてきた。ケトは悲鳴をあげる。
「くそ。なんで俺たちの居場所が分かったんだよ。借金取りが諦めるまで、しばらく実家で生活しようと思ってたのに。」
慌てふためく彼の口は、だいぶ軽くなっている。何も尋ねなくとも、疑問点をぺらぺら喋ってくれた。私は呆れた。家の場所が分かったのは、おそらくケトが弁当屋について教えたからだろう。商店街の中にある弁当屋だから、普通に考えて店主の家は近所にある。店主、つまり私はケトの母親だ。彼が頼り、身を潜める可能性は高い。もしかしたら、私の帰り道を尾行されたりしたのだろうか。貸したお金を回収するため、家にまで押しかけているこの連中を見ると、まともな貸金業者ではない可能性もある。
「ねえ、あなた『カノさんの借金取り』ってさっき言ってたけど、どうして彼女に借金があるのか、それは知ってるの?」
「え? それは、確か無理やり友達の借金の連帯保証人にされたって言ってたけど……」
ふう。カノは彼に対しても、嘘をついている。おそらく、整形のことも知らないのだろう。
「あなたが頻繁に金をくれって言ってきたのって、それが理由なのね。カノさんの借金を返してあげるため。」
「そ、そうだよ。カノがかわいそうなんだ。俺以外に頼れる人もいなくて。」
「じゃあ、どうして私がお金が必要な理由を聞いた時、借金のことを言わなかったの? 『言ったら、きっと貸してくれない』って思ったからでしょ。」
淡々と追求する私に、ケトは黙りこくった。何も知らなかった頃の私なら、借金について聞いたとしても、一旦貸すことを考えたと思う。もちろん、返済は前提だが。
「『俺のことを信用してない』って、ケトはしょっちゅう言ってたけど、あなたの方こそ、私を全く信用してないのね。」
「違う。そんなつもりじゃ……俺はただ、カノのために……」
「残念だけど、もう私も蒼井も、あなたたちを助けたいっていう気持ちは、さっぱりなくなっちゃった。ごめんね。」
ケトが息を飲む音が聞こえた。
「今日、自分たちがしたこと分かってる? 自分の親を、全く知らない場所に置き去りにしたんだよ。それなのに、助けを求めてくるなんて、どんな神経してるの?」
「う……」
「これからは、全部自分たちで何とかして。まずは、カノさんとよく話し合った方がいい。」
その時、ケトの後ろの方から、女性の高い声が近づいてくる。カノだ。
「あ、カノ! お前、隠れてろって!」
「いいから、貸して。お母さん、私です。カノです。お願いします。私とケトさんの話を聞いてください。」
彼女の声は、私との電話に変わった途端、弱々しく震え出した。すごい演技力だ。れ子がぴりと眉を寄せる。それでも沈黙を守っていることがありがたい。私なら、この状況を収められると信じてくれているのだろう。
「カノさん、あのね。」
「お母さん、借金のことは、全部私が無知だったのが悪いんです。ケトさんを責めないでください。それに、実は私のお腹の中には、ケトさんとの子供がいるんです。」
ケトの「え?」という小さな声が聞こえた。これは、私の同情を誘うための一手だ。
「あ、そう。それはおめでとう。だから、何?」
「え?」
「心も体も、全て嘘で塗りつぶしているカノさん。そうして人を惑わし、彼女自身もまた、現状から目をそらし続けている。そんな彼女に有効なのは、無反応だと思う。」
「え、だ、だから……」
「子供ができたことと、私たちにしたこと、それって全くの無関係だよね。私はわずかに声を潜めた。あなたがずっとついている嘘のことも、こっちは全部分かってるんだよ。カノさん。うん……しのちゃん。」
「え? それ、私の子供の頃の……なんで?」
「遺産の持ち逃げ。整形。借金。このまま隠し通して、かわいそうな自分を演じ続けるつもり? そんなの無理。絶対に、崩壊する。」
視界に入るれ子が、何度も頷いている。
「なんで、お母さんがそんなこと知ってるの?」
「さあ、なんでだろうね。とにかく、あなたも私に助けを求めるのは、お門違いだよ。今後、何があろうとも、絶対に助けたりしない。夫婦で協力して、頑張ってね。」
「待って、お母さん!」
返事を聞かず、私は電話を切った。その直前に、また扉を叩く音と男性の呼びかけが漏れ聞こえてきたが、関係ない。借金取りによって、今度は家が荒らされたとしても、それは警察の仕事だ。ケトとカノのやらかしを、つまびらかにするいい機会でもある。私は深く息を吐いた。
「お疲れ様、エルナ。いい電話だった。」
隣の蒼井が、優しくねぎらってくれる。
「ごめんね。あなたも、父親として言いたいことがあったでしょ。」
「ああ、全部エルナが言ってくれた。俺の方こそ、ごめんな。」
「私も聞いてただけですけど、かなりすっきりしました。」
れ子が晴れやかな笑顔で言う。
「お茶、覚めちゃいましたね。入れ直します。あと、追加のカステラも持ってきますね。疲れた時には、甘いものです。」
「お願いします。」
お茶とカステラのお代わりを3人で堪能しつつ、私は今後のことに、ひっそりと思いをはせるのだった。
その後のケトとカノは、私との電話を切った直後に修羅場を迎えていた。借金取りはとうとう玄関をこじ開けて家の中へ侵入し、逃げ場を失った2人に詰め寄る。そして、その場でカノの嘘を暴露した。借金の詳しい理由、つまりは整形のこと。ケトは最初、話を信じなかったが、追い詰められたカノは逆切れした。
「全部、私のせいだって言うの? あんたがもっと稼いでくれればよかったんでしょ。そもそも、あんたみたいな男と結婚してあげただけでも、感謝して欲しいくらいなのに。」
彼女の本音が一気に飛び出したらしい。借金取りに追い詰められた恐怖と、カノに騙されていた事実。現実を受け止めきれなくなったケトは、その場で気を失ったという。最も、その騒ぎもすぐに終わった。近所の住民が異変に気づき、警察へ通報していたからだ。借金取りはその場で取り押さえられる。さらに、弁当屋の近くにある店の防犯カメラが、私の店を荒らしている姿を鮮明に記録していることが判明する。建造物侵入などの罪も含めて捜査されることとなり、借金取りは逮捕された。
一方、カノと言うと、倒れたケトを置き去りにして、警察が来る前に姿を消していた。夫婦愛も何もあったものではない。数時間後、私と蒼井が公共交通機関を駆使して一旦家へ戻ると、玄関の前にケトがいた。彼は私たちの姿を見るなり、土下座した。
「父さん、母さん、本当にごめん。俺が悪かった。お願いだから、許してくれ。」
額を地面に擦りつけながら叫ぶケト。だが、私も蒼井も立ち止まらず、ケトの横を通り過ぎて家へ入る。
「出ていってくれる?」
かけた声は、それだけだった。ケトは一晩中、土下座を続けていた。しかし、やがて諦めたのか、ふらふらと立ち上がり、自分の家へ戻っていく。そして、ケトは家のテーブルの上に置かれた1枚の紙を目にする。離婚届だった。カノの署名は、すでに済んでいたという。彼女の連絡先は消え、仕事も退職していた。子供のことも、嘘だったのだろう。ただ、カノの逃亡生活も、別の借金取りに見つかり、すぐに終わった。今はどこかで、強制的に働かされているらしい。詳細は不明だが、自分の容姿が一切通用しない場所での労働は、苦痛のみを彼女に与えることだろう。
私は、30年近く続けてきた弁当屋を閉店した。寂しさがなかったといえば、嘘になる。店を荒らされたことや、年齢の理由もあるが、何より自分の中で区切りがついたのだ。代わりに、私はあの老人ホームの調理場で働き始めた。週3日勤務だ。利用者さんたちの昼食やおやつ作りを手伝っている。れ子とは、今ではすっかり同僚であり、友人だ。リコと言うと、以前にも増して実家へ顔を出すようになった。仕事帰りにふらっと立ち寄ったり、休日にお土産を持ってきたり。本人は何でもない顔をしているが、親が心配なことくらい、分かる。蒼井は相変わらず元気いっぱいで、会社でもまだまだ現役だ。最近は、私との老後生活について口にすることが増えた。そして、私にも新しい夢ができた。ある日、リコに相談する。
「実はね、キッチンカーをやってみたいの。」
「え、いいじゃん。絶対やろうよ。むしろ、なんで今までやらなかったの?」
彼女の勢いに、思わず笑ってしまった。30年、店という場所で料理を作ってきた。次は、自分からお客さんに会いに行くのも面白い。私はまだ料理を作りたいし、誰かに「美味しい」と言ってもらいたい。そんなことを考えながら、今日もエプロンに腕を通すのだった。



