「私たち、もう大人だよ。こんな時間に2人っきりでいるんだから、いいよね。私はずっと好きだったんだよ」
想像もしなかった言葉を発したかと思うと、彼女はベッドに腰かけ、上目遣いでこちらへゆっくりと近づいてくる。学生時代の話で盛り上がっていた空気は、一気に男女の大人の空間へと変わってしまった。
俺だってずっと彼女のことが好きだった。でも、本当にこれでいいのか? だって彼女は、別れた彼氏のことを引きずっているように見えたんだ。
それでも俺は、彼女の背中に手を回すのだった――。
ここは下町の金属加工工場。今日も研磨の音が響き渡っていた。
「みんな、そろそろ昼休憩にしましょうか」
さらに大きな声で俺はみんなへ呼びかけ、用意していた昼食を準備し出した。この工場では、みんなに昼を振る舞うのが日常だ。
「なあ、りゅうちゃん。このアプリで孫に小遣い送りたいんだけどよ。どうすんだ?」
「何だ? 分かんねえのか?」
「これはな、まず登録からだな」
「あ、こんなの分かんねえよ。ここにはりゅうちゃんくらいしかいねえだろ」
はあ、俺の名前は森竜二。父親が立ち上げたこの工場で、高校卒業後から働いている。つまり、後継ぎと息子ということになる。
後継ぎと言うと聞こえはいいが、実際今の工場の経営状況は深刻だった。従業員はベテラン3人のみ。そして技術を追求する頑固な職人気質で、金より人を選んでしまうような父親。ここ数年で経営は傾く一方だったが、いよいよ倒産寸前まで追い込まれていた。
傍から見たら時代遅れなのかもしれない。だが俺はこの場所が好きだった。役に立ちそうな資格はとにかく取った。機械加工、メッキ、アーク溶接から始まり、コンサルタント、ボイラー、直接関係ない自動車整備士まで。この場所を守りたかった。
だが、金の問題の解決には繋がらなかった。
「竜二、いるか? 昼飯食ったらちょっと来てくれ」
親父だった。こんな状況でもみんなの前では強気な親父が、やけに真剣な顔をしていた。いよいよ何かあるのだろうか。俺は覚悟を決め、親父のところへ行った。
「はあ? 意味が分かんねえんだけど」
「だから、お見合いに行って欲しいんだよ」
「父さんの話じゃないのかよ。しかもお見合いだと? そんな場合じゃねえし。俺は今、結婚する気ねえぞ」
想定外の突然の提案に、俺は思わず怒鳴り散らしてしまった。親父は落ち着けと言わんばかりのジェスチャーをし、俺を座らせると、途端にまた真剣な顔に戻った。
「相手は、鈴鹿ちゃんだ。竜二、覚えてるか?」
またもや突然の名前だ。忘れるわけのない名前。楠木鈴鹿は俺の同級生だった子だ。同業で親父同士が昔馴染みなこともあり、しょっちゅう遊んでいた。まあ、初恋の相手というやつだ。
鈴鹿は大学で地元を離れていたので、もう何年も会っていなかった。それに、確か学生時代、俺は鈴鹿のタイプじゃないと聞いた気もする。
「な、なんで鈴鹿と見合いなんだよ。確か大手の会社に勤めて、うちと違って安泰だろ。わざわざ潰れかけ工場の俺となんてよ。意味がないだろ」
「ああ、お見合いってのは半分建前なんだよ。楠木に相談されてな。鈴鹿ちゃん、彼氏と別れたらしいんだが、かなりショックを受けてるらしくて、引きこもっちゃってんだってよ。竜二、仲良かっただろう」
俺の知らない間に、初恋の相手は恋愛をし、別れに傷心していた。時は流れているんだなと、少し切ない気持ちに俺はなってしまった。だがそれより、鈴鹿の様子が気になった。
「それ、普通に会いに行っちゃダメなのかよ。なんで見合いなんだ?」
親父は俺から目を背け、口をもごもごさせていた。
「気分転換だ」
「はあ?」
「お見合いってなれば、おしゃれもするし、うまいもんも食う。それでお前と喋ってりゃ、元気になるかもしれねえだろうが」
わけのわからない理屈に違和感を感じつつも、俺自身、鈴鹿に会える口実ができたのがちょっと嬉しかったのかもしれない。距離が離れ、時間も経つうちに、どうも会いづらくなっていたからだ。
「分かったよ。やるよ。お見合い」
鈴鹿に会える。俺はドキドキしながら、お見合いの日を迎えた。
いよいよお見合いの当日、俺と親父はスーツを引っ張り出し、久しぶりにきっちり髪を整え、慣れないレストランで固まっていた。
「あの鈴鹿だ。お見合いって言っても、普通に喋って終わるだけだ」
学生時代を思い出しながら緊張をほぐそうとしたその時だった。
「おう、待たせてすまなかったな。竜二君。久しぶりだね。今更だが一応、娘の鈴鹿だ。今日はよろしく」
急に現実へ戻された俺は、反射的に椅子から立った。それは親父も同じだったようで、同じように挨拶をした。鈴鹿の親に会うのも久しぶりだった。
だが、親父さんには申し訳ないが、俺はその横に立つあいつから目が離せなくなっていた。
清楚な長い艶のある髪を下ろし、水色の体のラインが見えるようなタイトなドレスを着ている美女。確かに顔は鈴鹿に間違いないが、緊張がどんどん増していく。数年でこんなに美人になるのか。
「久しぶりだね、竜二」
「お、おう。そういえば、お前って結構モテたんだよな。いつも一緒にいたから、よくからかわれてたっけ」
なぜだろう? どうもうまく話せない。そして鈴鹿もまた、親父たちの話に合わせるような、俺にはおよそ想像もしたことない振る舞いを見せていた。
時は流れるか。俺が当初の目的を忘れ、居心地の悪さを感じ始めた頃、鈴鹿の親から庭園を散歩でも、と提案された。俺の気持ちは複雑だったが、にこやかに了承した鈴鹿についていく形で、俺たちは外へ出た。
天気は良く、ちょうどいい風が吹いている。いつもはポニーテールにしていた鈴鹿の髪は、今はサラサラと風になびいていた。
俺もいい加減、大人にならないとな。雑念を振り切り、俺は鈴鹿と話し出した。
「元気なかったらしいじゃないか。飯は食えてるのか?」
「全く竜二は相変わらずデリカシーがないな」
「何の話だよ。俺は鈴鹿が振られて元気ねえって聞いたからよ」
鈴鹿は急に足を止め、走り出した。な、何なんだと思い、俺も後を追いかけた。
するとそこには、外の広場で配っていた風船が木の枝に引っかかっていた。そして木の下には、手を半開きのまま今にも泣きそうになっている子供が立ち竦んでいた。
「あ、手離しちまったのか。おい」
俺が声をかける前に、鈴鹿は子供の頭を撫でていた。
「風船、飛ばしちゃったか。大丈夫。お姉ちゃん、すっごいジャンプ力だから、すぐ取れちゃうよ。さ、離れて目つぶって待っててね」
「うん」
確かに高くはないが、ジャンプでは無理な高さに風船はあった。鈴鹿は子供が目を塞いだのを確認すると、木をガンガン登り出した。自分がドレスを着ているというのはどうでもいいと、ズンズン登って風船をキャッチした。
そしてそろそろと降りてきたかと思うと、一目散に子供の元へ向かった。
「目、開けていいよ」
「うん。あ、風船だ! お姉ちゃんすごい!」
「さあ、ママのいる場所分かる? 大丈夫だよ」
「ありがとう」
子供はぎゅっと風船の紐を握りしめ、走り去った。それを見送ると、鈴鹿は我に帰ったように俺の方へ向き直った。
「どうしよう、竜二。ドレス破れた」
「気づいてなかったのかよ」
「笑うな! ちょっとジャケット貸して」
「はいはい」
俺たちは庭園のベンチに腰かけた。鈴鹿は俺のジャケットを腰に巻きつけ、破れた部分を隠そうとしている。意味ないぞ、と言ったが、気持ちの問題だと言われてしまった。
本当に、こういうところは昔の鈴鹿だった。何も変わっていない。
「ねえ、竜二。私、振られた時さ、言われたんだ。『庶民臭さに耐えられない』って。顔もタイプじゃないし、行動も理解不能。住む世界が違うから別れることにした、だってさ」
「どこのドイツなんだよ。理解不能だ。住む世界だ? 神様かなんかか、そいつは」
「なんで竜二が怒ってんのよ」
「まあ、御託ってやつだったけどね」
本当に、自分の役立たず具合が情けなくて、感情が先に立って鈴鹿に向かって俺は叫んでしまった。
「役立たずってなんだよ! さっきのガキは『ありがとう』ってあんなに言ってたじゃねえか。鈴鹿は昔からそうだ。困ってる奴がいたら、お構いなしに助けに行ってた。そんな鈴鹿と『住む世界が違う』って言うなら、俺はお断りだぜ! 鈴鹿を選ぶ!」
一気に畳みかけてしまった。鈴鹿のことを何も知らないくせに傷つけた奴を、俺は許せなかった。
ポカンとした顔で俺を見ていたが、だんだんと顔が崩れてきた。泣くのを我慢していた。
「り、ありがとう」
「当たり前だろ」
「あと、鈴鹿はその、美人でいい女だから、気にすんな」
鈴鹿は満面の笑顔で、俺の肩を何度もバシバシ叩いてきた。
つい言ってしまった、と柄にもなく恥ずかしくなってしまったが、鈴鹿が元気になったならそれでいい。
それから昔の話に花を咲かせた。その流れで、ここから近い俺の家でだらしよう、ということになった。何より、この格好で親父さんに合わせるわけにもいかなかった。鈴鹿に適当な理由をつけてもらい、俺たちはレストランを出た。
「わあ、久しぶりだな。竜二の部屋って」
「何これ? 資格の勉強の本?」
「見るな、見るな!」
「あ、ほら、懐かしいだろ。ほら」
「こっち見とけよ」
「竜二は頑張ってるんだね」
「頑張ってるのは鈴鹿もだろう。大手の下受けもまた大変だろう」
鈴鹿は何も答えず、懐かしむようにアルバムを見ていた。
「私、恥ずかしい思い出だらけじゃん」
「お前、昔友達が財布を落としたって必死で探してたからな。結局、鞄の中に入っていたってオチ」
「私、やっぱりバカじゃん」
話は尽きなかった。話していると、俺の思い出の中に鈴鹿はいつもいた事実を、改めて感じた。
「顔、すごい顔つき悪すぎ」
「もう資格の勉強を始めてたからな。寝不足とクマがやべえな」
「そういう鈴鹿は、妙に澄ましてるじゃねえか」
「変かな?」
「いや、別に。ほら、卒業アルバムなんてそんなもんだろ」
少し静かになってしまった鈴鹿が気になったが、そろそろ日も暮れていた。
「そろそろ帰るか。服は別に返さなくていいから。タクシー呼ぶか?」
鈴鹿はアルバムに目を落としたまま、何も答えなかった。時々黙り込むのは、なぜだろうか。俺はもう一度声をかけようとしたが、先に口を動かしたのは鈴鹿だった。
「竜二」
「どうしたんだよ?」
鈴鹿は俺の方へ手を伸ばしたかと思うと、人差し指で胸元から下へつーっと撫で出した。
「お、おい!」
その後、俺はさらに混乱した。鈴鹿はとんでもないことを言い出したのだ。
「私たち、もう大人だよ。こんな時間に2人っきりでいるんだからね。私はずっと竜二を好きだったんだよ」
想像もしなかった言葉を発したかと思うと、鈴鹿はベッドに腰かけ、胸元のボタンを外し出した。真っ赤にほてった顔をし、上目遣いをこちらへ向けながら、ゆっくりと外す。目の前に立っていた俺からは、もう服の中が見えそうなところまで来ている。
学生時代の話で盛り上がっていた空気は、一気に男女の大人の空間に変わってしまった。俺の体は、服を一気に脱ごうとする彼女の方へ自然と向かっていた。
「竜二……」
俺は言葉を遮り、鈴鹿のボタンを閉めた。
「鈴鹿、こういうのは焼けぼっくいでやんじゃねえ。どうしたんだよ」
「り、竜二。私、そんなに魅力ないかな? 私、そんなにダメな女なのかな?」
ボロボロと鈴鹿は泣き出した。鈴鹿は俺が思っていた以上に傷ついていたんだ。そして、元彼のことをそんなに好きだったのだ。俺は鈴鹿の力になれなかった。悔しい気持ちを抑え、鈴鹿の涙を拭いた。
「言っただろ。鈴鹿はいい女だ。見た目も中身もな。無理に忘れろとは言わねえよ。ただ、泣く前に俺のとこへ来いよ。しっかり笑って返してやるからさ。自分を大切にしろよ」
「うう……竜二……竜二……」
泣き晴らした鈴鹿をタクシーへ乗せ、見送った。後ろを振り返った鈴鹿は、心なしか少しすっきりした表情に見えた。
ようやく俺の心臓の鼓動も落ち着き始めたようだ。なんて俺は情けないんだろうか。鈴鹿のことを心配しつつ、思いっきり色気に動揺してしまった。俺を好きだと言ったのは、どういう意味でのことだったのだろう。元彼のことを引きずっているようだし、鈴鹿の気持ちが分からない。
ただ、次に鈴鹿が俺を尋ねてきた時は、何があっても平常心でいようと心に決めた。
鈴鹿とは、それから時間が合う度デートを重ねていた。休みの日はもちろん、少しだけでも時間があれば、他愛もない話をした。家でもすっかり元気になったらしいと、親父経由で聞いた。元彼のことは吹っ切れたのだろうか。聞きたいとも思ったが、少しでも会いたいと言ってくれ、笑顔で話す鈴鹿を見ていると、どうでもいい気になっていた。
それより、この笑顔をずっとそばで見ていたい。その気持ちが大きくなっていった。
その日も俺は相変わらず、仕事というか資金繰りに頭を悩ませていた。親父から事務一般を引き継いでから、どうすればみんなとこの工場を守っていけるかを考えていた。その時、事務所の電話が鳴った。新規の注文かと少し期待を抱いて、電話の方へ急いだ。
それが、ギリギリ崖の縁で踏ん張っていた俺を突き落とすための電話だったなんて、思いもしなかった。
「はい、森製作所です」
電話に気がついたのか、親父も事務所へ入ってきた。俺が電話を切った後、少し窺うように声をかけてきた。きっと俺の様子がおかしいことに気がついたんだろう。
「お、大手からの発注か? ついにわしらの技術に気がついたか」
「……違う。契約、切られた」
「なんだと?」
「くそっ……俺、行ってくる」
「おい、竜二!」
作業着のまま俺は飛び出していた。長年継続発注を受けていた大手会社から、突然の継続解消の電話だった。海外へ切り替える会社が多い中、うちに信頼を置いてくれた会社。最後の砦だった。それが、ろくな説明もなくだなんて、ありえない。何かの間違いであってほしい。俺は祈る気持ちで会社の受付へなだれ込んだ。
アポなんてもちろんない。必死に頼み込んで、応接室まで通してもらった。
静かにドアが開いた。長年の担当さんともう1人、若い男が入ってきた。
「森さん、申し訳ないが、理解してほしい」
席へつくこともなく、ドアの前で頭を下げられた。長く話す気はないということだ。俺は恥も外聞も捨ててすがりついた。
「急すぎます! お願いします。あんなにうちの仕事へ信頼を置いてくれていたじゃないですか! それを、特に理由もなく終わりますなんて、納得いかないでしょう! これではうちの倒産は確定です! お願いします、考え直してください!」
これでもかと頭を下げた。もう土下座も辞さないつもりだ。
その時、困り果てている担当さんの肩を軽く叩き、横にいた男が喋り出した。
「まあまあ、こういう職人気質の時代遅れ君には、丁寧に説明しなきゃね。僕が変わりましょう。あ、お茶持ってきてくれますか?」
「はい」
若い男の方が上司なのだろうか。担当さんはちらりと俺を見た後、応接室を出ていった。
「まずは自己紹介ですね。浦田順一と言います」
「浦田……?」
「あ、気づきましたか? ここ、うちの会社なんです。で、今回あなたのところとの契約解除を命じたのは、僕です」
俺は椅子を倒し、目を見開き立ち上がった。心臓の鼓動が速くなる。目の前で足を組んで、テーブルへ置いたスマホをチラチラ見ている奴への怒りがどんどん湧いてくる。
「理由を聞かせてください」
「理由ですか? うん。……いらないから、ですかね」
「はあ?」
「時代遅れのこだわりの塊。高卒の後継ぎ。信頼なんてくだらないもので縛られていた、無駄なものを捨てたというわけですよ」
「俺が経営をやめればいいんですか?」
そう言うと、浦田は手を叩きながら笑い出した。
「いやいや、それじゃ時代遅れが加速するだけじゃん。つまり、罪だよ。竜二君」
「え?」
突然名前で呼ばれ、反応してしまった。俺の顔がよほど面白かったのか、今度は君の悪い笑い方で浦田は話し出した。
それは信じられない内容だった。この世は俺をどこまで突き落とせば気が済むのだろうか。俺が守りたいもの全てを奪うのか。
浦田は言った。
「よく聞かされてたんだよ。竜二君との貧乏臭い昔話をさ。真面目なふりして聞いてやったらさ、コロッと俺のことを信じて、ちょろいよね。中途半端な頭。家も顔も、そんな俺が結婚するわけねえだろ。ああ、倒産する会社の息子なら、ちょうどいいかもね。底辺同士で支え合う。泣ける話だ」
「……何の話か、全く分かんねえんすけど」
「ん? 鈴鹿の話だよ。察し悪いな。今、付き合ってるんだろ? ちょうどいいんじゃないかな。社会の底辺でつましく生きていく。お似合いだよ」
浦田は、鈴鹿を傷つけた元彼だった。そして、ろくな理由もなく工場を倒産に追いやる気だ。鈴鹿を、一生懸命働くみんなを、馬鹿にした。
ドタドタン。何かが倒れて崩れる音を聞きつけた担当さんが、大急ぎで部屋へ入ってきた。部屋では、倒れた椅子の上に、頬を抑えた浦田が倒れていた。そして俺は、それを拳を握りしめて見下ろしていた。
俺は机を乗り越え、浦田を殴り飛ばしていたようだ。怒りだろうか。少し興奮して、殴った時の記憶は曖昧だった。
「何すんだよ! 下町の底辺野郎が! おい、警備員を呼べ! 契約も今日で切れ! 終わりだよ、お前!」
慌てふためいている担当さんを横目に、俺は出ていった。
「お世話になりました」
外は曇り。今にも雨が降り出しそうだった。警備員が追いかけてくることはなかった。担当さんがうまく納めてくれたのだろうか。けれど、もう終わってしまった。俺のせいだ。
降り出した雨の中を俺は歩きながら、みんなの元へ帰った。工場には、みんな残っていた。親父から話は聞いていたんだろう。俺が帰るとすぐ、タオルを持ってきてくれ、温かいコーヒーを入れてくれた。
俺がようやく前を向き、みんなの顔を見ると、そこには驚きの光景があった。
「鈴鹿……? なんで」
「えっと、仕事が早く終わったから連絡したんだけど、返信ないから寄ったんだけどさ」
「竜二、もう覚悟は決めとる。話してくれ」
親父。今になって、申し訳ない気持ちが溢れてきた。俺がもっと冷静なら。いや、大学で勉強して経営が上手にできていれば、守れたかもしれない。
「浦田との契約が終了した。全部、俺のせいなんだ。みんな、ごめん」
話を聞いていたとはいえ、誰も何も言わない。静寂が工場を包んだ。口を切ったのは親父だった。
「契約の件はともかく、殴るか、普通。たく、警察沙汰にならなくて良かったじゃねえか。竜二だな。まあ、今日でわしらの仕事が終わるわけじゃねえんだ。最後までやり切らせてもらうぜ」
「りゅうちゃん……」
「親父……みんな……」
俺は我慢していた涙をついに流してしまった。お前もありがとう、とみんなに背中を叩かれていると、自然と泣き笑いになってしまった。
倒産は免れないだろう。でも、せめてみんなが次もどこかで働けるようにするのが、俺の最後にここでの仕事だと思った。
親父たちは焼き肉だと飲みに行き、事務所には俺と鈴鹿の2人になった。
「悪いな。とんでもない場に居合わせさせちまってさ」
「ううん。うちだって同じ状況だったんだからさ。気持ち、分かるよ」
ポンと俺の肩を叩き、鈴鹿は微笑んだ。俺は鈴鹿が好きだ。でも、倒産が決まった会社の息子じゃ、どうしようもない。気持ちを整理する時だと覚悟を決めた。伝えて、身を引く。それが1番いい。
だが、話し出したのは鈴鹿の方だった。
「浦田君に会ったの?」
「え? あ、ああ」
鈴鹿もあの場にいたので、詳しくは話さなかった。鈴鹿の傷を抉る必要はなかったからだ。
「話した?」
「ああ、まあ、契約のことで少しだけな」
自分の嘘の下手さが露呈してしまった。しかも相手は鈴鹿だ。白を切り続けるしかないと思ったが、意外な言葉が返ってきた。
「最低でしょ、あいつ」
「はあ?」
鈴鹿は浦田のことが忘れられなかったんじゃなかったのか。鈴鹿は明らかに嫌悪感を剥き出しにした顔をしている。
「あ、もしかして竜二が殴ったのって、浦田だったりする?」
「あ、ちょ、ちょっと待て。お前、その、あいつに振られて落ち込んでて、立ち直れなかったんだよな」
鈴鹿はコーヒーを置き、俺の前へ座った。
「まあ、そうだね。でも、彼のことが好きだったから、というより、女として三流だとか、住む世界が違うのに付き合ってやってるのを感謝しろとか、散々自分を否定されたことから立ち直れなかったんだ」
「ああ……」
「なるほどね、って顔してるよ。私が立ち直れたのは、竜二のおかげ。竜二の言葉の方が、私は信じられたんだ。竜二はいつも正直だもんね」
もしかすると、俺を気遣っての言葉だったのかもしれない。それでも、少しは大切な人を守れたのかと、鈴鹿の笑顔は思わせてくれた。
「正直か。まあ、その性格が倒産の決定打をやらかしてしまったけどな」
「竜二、そのことなんだけどね。今度、私の家に来ない?」
「え?」
後日、俺は鈴鹿の家へ来ていた。目の前には、お見合い以来だった鈴鹿の親父さんがいる。2人っきりだ。
「竜二君、娘が世話になってるね」
「え、いや、そんなことはないす」
「学生時代、君とよく遊んでいた頃の鈴鹿に戻ったようでね。いつも笑顔で、本当にありがとう」
人の親に頭を下げられると、どうしていいかわからない。俺があたふたしながら、鈴鹿来てくれよ、と思っていると、頭を下げたまま親父さんは話し出した。
「私は、最低な父親なんだ」
「え?」
目は伏せたまま、親父さんは体勢を起こした。
「鈴鹿を追い詰めたのは私だ。祖父の代からの会社を、自滅を理由に潰すわけにはいかなかった。そのために、鈴鹿を使った。どうにか大手の会社関係者と結婚させ、会社を安定させるつもりだった」
「それって……政略結婚……」
「あの時の私に、罪悪感などなかった。早くに妻をなくし、唯一の娘である鈴鹿を、いかに会社のために役立てるか。両親とも話し合っていたんだ。最低だろう」
「……そっすね」
俺が流れるように肯定したことが、親父さんにはよほどの驚きだったようだ。俺もしまったと思ったが、親父さんは眉を下げ、ふっと俺に笑いかけた。
「君は本当に正直な男だね。きっと、そういうところが鈴鹿も好きなんだろう。子供の頃から、会社のために財力のある男と結婚するのが使命だと、私も自分の親から言われ続けていたし、それがこの家を守るために当たり前だと……」
自虐的な笑いに、俺はただ目をそらすしかできなかった。
「鈴鹿は、おそらく私たちだけの話し合いも、きっと聞いていたんだろう。きっと君といる時だけが、素直な自分でいられたんだ。まだ工場へ出ていた頃、よく君と遊んでいるところを見かけていたよ。自分の子供なのに、あんなに楽しそうに笑うなんて知らなかった。声なんて、かけられなかった」
「……」
「ようやく自分の間違いを自覚したのは、浦田君と破局した時だ。鈴鹿は土下座して謝ってきたよ。『ごめんなさい。役立たずでごめんなさい』と」
俺の知らなかった鈴鹿だ。俺もまた、そんなこと全く気づかなかった自分が悔しかった。
「娘にそんなことを言わせるまで、気づかないなんて。父親失格だ。自分ではどうにもできず、結局森さんに頼ったんだからな。私は本当に……」
「そんなことないっす!」
俺はテーブルを叩き、言葉を遮った。
「そりゃやったことは嫌な感じすぎるけど、失格じゃない」
「竜二君……?」
「俺、今こんなんですけど、小学校の頃はめちゃくちゃビビりで、いじられては泣いてたんです。そんな時、いつも助けてくれたのは鈴鹿でした。男子相手でも張り合ってた。だから俺、聞いたんです。『なんで鈴鹿はそんなに強いのか』って。鈴鹿は笑顔で言ったんです。『大好きなパパが言ってたの。怖くても堂々と立つ人が、本当に強いんだよって。私、そうなるんだ』って」
親父さんをまっすぐに見つめ、俺は言った。
「これは鈴鹿とも改めて話したことのない、俺が鈴鹿に惚れた時のことなんだから」
「ああ……そんな子供の頃の話だ」
親父さんは俺から目をそらさなかった。ただ目はもう細まり、頬から光るものが見えた。
「親と子じゃ、思いはもちろん違うだろう。だが俺は親父さんに伝えたかった。ガキの俺は、鈴鹿に救われました。俺が鈴鹿を救ったって言ってくれるなら、その俺を救った鈴鹿を育てたのは、親父さんなんすよ。自分を失格だって言ったらダメだ。俺の言ってること、伝わりますかね?」
親父さんは手で目を隠しながら、何度も頷いた。
「ああ、分かるよ。分かる。私は、父親を名乗っていいのかな?」
「もちろんすよ」
お互いに笑い合った後、飲み物を用意した鈴鹿が入ってきた。
「何? ああ、今から本題だよ」
「えー、パパ遅いよ」
「ああ、本題」
十分話をしたつもりだったので、ここからの本題というのは全く想像がつかなかった。鈴鹿は親父さんの横に座り、まっすぐこちらを見ている。
「竜二君、工場の話は森さんから聞いている。そこで、後継ぎの君に話があるんだ。うちとの共同経営を考えてほしい」
「え、え、いや、だって、そちらは浦田の会社の傘下になってますよね?」
「パパ、独立することにしたんだよね。あの会社、聞こえのいいこと言ってきたのは初めだけ。無茶なことばっかり言ってきて、うんざりしてたんだ。だから、もう浦田とは完全にさよならすることに決めたんだ」
話が急すぎて言葉が出てこなかった。けれど、冗談でも何でもない。鈴鹿と親父さんの目は真剣だった。
「俺んとこは、もう泥船ですよ。まだ沈没がすぐそばにある泥船だ」
「手を組める。場を、みんなを助けられる。答えは1つしかなかった」
握手をした手の上に、鈴鹿がそっと手を乗せた。鈴鹿の助言もあったのだろう。キュッと笑う鈴鹿を見て、俺はまた涙をこらえた。
この話は業界界隈で少しだけ取り上げられた。もう、やるしかなかった。そんな俺を、鈴鹿はそばで支えてくれていた。
ある日のことだった。俺と鈴鹿が外で一緒にいる時、高級車を寄せてきたのは浦田だった。
「いやー、僕の言った通り、底辺同士うまくいってるみたいじゃないか。人も工場も、レベルが同じ奴ら同士が1番だろ。結局、3流同士なんだから。うちから切られたバカ。うちを切ったバカ。すぐに気がつくだろうよ。自分たちは失敗したんだってさ」
今度こそ冷静に、冷静に無視するつもりでいると、鈴鹿が前に立ち、堂々と言い放った。
「私たちの選択が間違っていたって言うんですか?」
「それ以外ないじゃないか。今だって、実は不安で仕方ないんだろう?」
「俺も鈴鹿に続いて言い放った。何をするにも不安はある。だから真剣なんだろう。不安のねえことなんて、世の中ないだろうが。俺たちも、あんたもな」
だんだん苛立ってきたのか、浦田の顔が臨戦体制に入った。俺もつい、来るなら来いと言わんばかりの前のめりになっていた。そんな俺を手で抑え、鈴鹿は冷静に言い放った。
「笑ってられるのも、今のうちですよ」
フンと鼻を鳴らし、浦田は去っていった。
「竜二?」
「あ、すまん。これはもう、頑張るしかないね」
堂々と立って言い放った鈴鹿の姿は、まさにあの時と同じ姿だ。俺は必ずできると、確信を持った。
月日が経った。
「森木製作所」。それが新しい俺たちの会社だ。中小企業には変わりない。だが、経営のプロである鈴鹿の親父さんと、職人気質の親父が合わさって、奇跡が起きた。親父たちが突き詰めていたという限りない薄さ。そして強度の高いメタル加工が、海外企業の目に止まり、とんでもない額の契約金を得たのだ。
それがニュースに取り上げられ、呼び水となり、今や日本の森はブランド化している。鈴鹿が英語とSNSに強かったのも助かった。インパクトのあるショート動画を作り、それを英語字幕付きでネットにアップした。内容は、音楽に合わせてどんどん太い金属が削られ、薄くなっていき、最終的には顕微鏡で見ないと測れない、という職人技術のアピールにもなり、狙いは大当たりしたというわけだ。
俺たちは泥舟から乗り換えることができたのだ。最新技術を詰め込んだ大型客船で、海へ飛び出したんだ。
その分、忙しさは倍では済まなかった。俺はみんなを労うために、休憩時間に寿司を予約しに外へ出た。すると、鈴鹿を道の角に見つけた。そういえば役所へ行くと言っていたから、その帰りかもしれない。声をかけようとすると、鈴鹿の腕を握る、節ばった手が見えた。浦田だ。
俺は心配になりすぐに駆けつけたが、浦田の大声の方が先に聞こえてきた。
「だからさ、僕と同じレベルになるために頑張ったんだろう? 昔のことは忘れて、やり直そうじゃないか。ちょっと話してって言ってんでしょ」
「浦田」
俺の声に驚いたのか、浦田は鈴鹿から手を離し、俺は鈴鹿を自分の後ろに隠した。
「浦田、何のつもりだ?」
「りゅうじ君、久しぶりだね。君からも鈴鹿に言ってくれないか? 自分の気持ちに素直になれってさ。もうチャンスは今だけかもよ。僕への未練が報われるのは……」
鈴鹿にもうその気持ちはないはずだ。こちらが成功しているから、言い寄ってきたんだろう。ただ、2人が同じ空間にいるところを、俺は初めて見た。ほんの少しの不安がよぎった時だった。
「気持ちに正直にか。いいの? 浦田君」
「もちろん。さあ、鈴鹿の正直な気持ちをぶつけてごらん。僕なら受け止められる」
「あ、そう。……痛え」
バシッ、と乾いた音が響いた。
「どうしても一発殴りたかったんだよね。あ、さっき言ったあんたの暴言、ちゃんと録音してるから。それと最後に、私だってあんたのこと、全くタイプじゃなかったわ。最低男。じゃあね」
叫ぶ浦田をよそに、鈴鹿は澄ました顔だ。俺は、浦田を殴った方の手を握った。
「待ち伏せされてたのか?」
「うん。外にいる時電話がね。未登録番号でも、会社関係だと困るから出ちゃって。きっちり自分で終わらせたかったの」
俺は鈴鹿を目の前に振り向かせ、両肩に手を乗せていった。
「そういう時は、俺を頼れよ。俺は今の俺は、何が何でもお前を守れる。ガキの頃とは違うんだ」
「竜二……」
「ずっと浦田を引きずってるんだと思ってたから、考えないようにしてた。鈴鹿を笑顔にすることだけ考えてたけど、やっぱ嫌だわ」
「……鈴鹿」
「ずっと俺のそばにいろ」
本当は俺の気持ちを伝えたいと思っていたが、少し引いてしまった。俺たちはずっと友人関係だったんだ。その間も俺は好きだったが、俺みたいなのはタイプじゃないらしいし。だが、とにかく気持ちを伝えたかった。
「竜二、会社でデスク隣だよ」
「え、いや、そういう意味じゃない。そういう意味じゃなくて、そばで笑ってて欲しいんだよ」
「ん? どういう意味?」
「正直さが竜二のいいところじゃん」
ニコニコしながら、じりじりと鈴鹿が詰め寄ってくる。もう額が俺の口元まで来ていた。
素直に、正直に。かっこつけなんてもう知らん。俺は思いっきり全てを鈴鹿へ伝えた。すぐそばにいる鈴鹿の背中を強く抱きしめ、彼女の頭の上で心から叫んだ。
「鈴鹿、俺と結婚しよう! ずっと好きだった!」
俺の力が強すぎて、腕が動かないようだ。代わりに鈴鹿は、顔を俺の胸に沈めた。
「恋人をすっ飛ばして結婚か。らしいな。私も、ずっと好きだったよ」
「え、いいのか、ここで」
「そういう竜二だから好きなんだよ。私の初恋の相手なんだから」
「俺、タイプじゃなかったんじゃ?」
「は? いや、女子に言ってただろ。『俺はタイプじゃない』って、聞こえたんだよ」
「自分でもこのことを引きずってるのはかっこ悪いとは思ったが、浦田にも『タイプじゃない』って言われてたし、これは俺にとっては重要なことだ」
「はあ? ああ、聞かれてたか。竜二とよく一緒にいたから、しょっちゅうからかわれるのが面倒で、ついさ」
「ついってなんだよ! 俺はこれきっかけで鈴鹿のこと諦めたんだぞ!」
「だって、きっと結婚は親の決めた人とだと思ってたし」
ついヒートアップしてしまった自分を即座に反省した。そうだった。卒業アルバムの鈴鹿の、半ば諦めたような顔が、その時の気持ちを語っていた。今の俺なら分かっていたはずなのに。
少し落ち込んで、鈴鹿に謝ろうとした時だった。下を向きながらゆっくり口を開き、鈴鹿は地から湧き出たような声で言った。
「そういう竜二はどうなのよ。自分がモテるの、分かってなかったでしょ」
「お、俺が? それはない。鈴鹿、適当なこと言うなよ」
「はあ。心配だわ」
「こっちのセリフだ」
「何がよ」
傍から見たら痴話喧嘩のような言い合いに、少しギャラリーができてしまった。俺たちは走って逃げた。握り合った手が熱くて仕方なかった。人通りのないところまで来ると、俺たちは大声で笑ってしまった。
そう。こんな日々が、こんな鈴鹿が、俺は大切なんだ。
「好きだ、鈴鹿」
「うん。私もだよ、竜二」
俺は少し屈み、鈴鹿は少し背伸びをした。夕日が少し暑かったが、俺たちは少しの間、その体勢のまま2人で時を過ごした。
1年後、森製作所は規模を拡大し、いくつか子会社を持つまでになった。それでも社名を変えないのは、物作りの原点を忘れないようにする社訓のようなものだ。工場のみんなはまだまだ現役で張り切っている。親父も新人教育に熱心だ。親父もお父さんも孫可愛がりがすぎるのが少し気になるが、そんなものなのかもしれない。
そう、俺と鈴鹿は結婚し、子供が1人いる家族となった。海外とのやり取りもそうだが、前に取りまくった資格を生かし、俺は海外支援を行ったりもしている。その活動がまた信頼に繋がっているようで、嬉しい限りだ。
だが、浦田の会社は内部分裂を起こし、規模を縮小せざるを得なくなったそうだ。風の噂だと、浦田の派閥が原因らしい。浦田は親の社長側へ残ったが、取引先はほとんどもう一方の方へ行ってしまったらしい。まさに崖っぷちだ。だが、俺は這い上がれることを知っている。奴がどうなっていくのかを見届けるつもりだ。
「竜二、パッキング終わった」
「おお、だいぶ慣れたもんだよ。子育て大変な時に一緒にいられなくて悪いな」
俺が眉を下げながら言うと、鈴鹿はすっと抱きついた。
「何言ってんだか。竜二は昔も今も、ずっと私のそばにいてくれるよ」
「鈴鹿もな」
大きな泣き声がベビーベッドから聞こえて、俺たちは一緒に駆けつけた。お腹が空いたようだ。
たくさん食べて、たくさん寝て、たくさん愛されて、大きくなってほしい。その頃には、お前に伝えたい話がもっと増えているから。
今でも忘れないこと。それは、俺には理不尽な土下座をしてでも守りたいものがある、ということだ。自分を投げ捨ててでも守りたいものがある。効率を優先する今の時代には古臭いと言われるかもしれない。だが、人生の中で自分をかけられるものが1つくらいあってもいいんじゃないだろうか。そのためなら己を投げ打てるものがあってもいいんじゃないだろうか。
俺は思う。守るために堂々とそれができる人。それが、超かっこいい人なんだって。



