舅が息を引き取る前の夜、私はその手で「これを持っていなさい」と、かけた古い枡を渡された——蔵の正しい枡とは違う、あの枡を。その意味を問うても彼女はただ「いつか役に立つ」としか言わなかった。葬儀が終わると、長男は私に鍵を差し出せと言い、私は従った。「これで貸借は相杀だ、この家を出て行け」と、彼は言ったのだった。親戚の門は全て閉ざされ、私は幼い息子と二人、町外れの飯屋でかろうじて身を寄せ合って暮…

舅が息を引き取る前の夜、私はその手で「これを持っていなさい」と、かけた古い枡を渡された——蔵の正しい枡とは違う、あの枡を。その意味を問うても彼女はただ「いつか役に立つ」としか言わなかった。葬儀が終わると、長男は私に鍵を差し出せと言い、私は従った。「これで貸借は相杀だ、この家を出て行け」と、彼は言ったのだった。親戚の門は全て閉ざされ、私は幼い息子と二人、町外れの飯屋でかろうじて身を寄せ合って暮...

「私は、なぜだろう……なぜ、この鍵はわざわざ私に渡されたのに、私はそれを、あろうことか疑わしき者の手に渡してしまったのだろう」

三年前の秋、森本家はこの地で一番の米問屋だった。広い蔵と多くの田畑を抱え、その台所を長年支えてきたのは、大奥様のタエであった。彼女は若い頃から算用に長け、先代の主人が存命の頃から、蔵の中身は一粒も見逃さぬと評判の女だった。夫を早くに失ってからは、女の身でありながら家の一切を取り仕切り、二人の息子を育て上げた。

長男のソウベエは算用に手が抜けず、言葉の裏に何かを隠す癖があることを、母であるタエは薄う感じ取っていた。次男のショウブンは真面目で実直、静の夫であり、仲睦まじい夫婦だった。しずは、その年、秋を迎える少し前に夫を失っていた。私船が転覆したという知らせだけが届いた夜のことである。それ以来、しずはこの家に留まり、一人息子のケンタを育てながら静かに暮らしていた。

初めは離れでひっそりと過ごすつもりだった。後家の身で夫を失ってなお留まることに、自分自身も引け目を感じていたのである。だが、タエはしずをそのままにはしておかなかった。

ある日、タエはしずを奥へと呼び、静かに言った。

「あなたは若く、まだ先の長い人です。この家で埋もれてしまうのは惜しい。私の目の届く限り、あなたには生きる力を身につけてもらいます」

しずはその言葉の意味を、その時はまだ深く理解できなかった。

「こちらへおいで」と、タエは枡を差し出しながら言った「これで米を測るのです。多すぎても、足りなくてもいけません」

しずは、なぜ後家の自分にそんなことを教えるのか分からず戸惑いながらも、枡を受け取った。米を入れ、手のひらで上を平らにならす。初めのうちは加減が分からず、入れ過ぎては叱られ、少な過ぎては叱られた。指先に力を込め過ぎて米をこぼしたこともあれば、恐る恐る入れ過ぎて枡が満たぬこともあった。それでもタエは根気よく、同じことを幾度も繰り返させた]

ある日、しずは急いでいたあまり、枡の縁からわずかに米がこぼれ落ちているのに気づかぬまま秤に載せてしまった。タエは黙って秤の目盛りを指さした!しずははっと自分の失敗を悟り、顔を赤らめた

「急いでは計りを誤ります」
「急ぐべきは手ではなく、心が先です」

しずはその日から、測る前に必ず一呼吸置く癖をつけた。幾度も同じ米を測り、同じ結果が出るようになるまで、タエは根気強く見守り続けた

「これからは、積まれた俵の高さを見ただけで、中の量が分かるものにならねばなりません。目で誤魔化されぬものにです」

しずは昼は蔵を見回り、夜は帳面を読んだIB初めは文字がなかなか目に入らなかったが、数字だけは不思議とはっきりと頭に残った。タエの教えは測りだけに留まらなかった:俵の積み方、荷を運ぶ者の癖に至るまで、タエは折りに触れてしずに語って聞かせた

ある日、タエはしずを連れて蔵の裏手へ回り、積まれた俵の順を指さしながら言ったIB「俵は古いものから使うのが通りです:もし新しい俵が先に減っているようなら、それは誰かが順を無視して動かしているということ」

しずは始め、その意味をよく分からぬまま聞いていたが、後にこの教えが思わぬところで役に立つこととなるIBまたある夜、しずが火鉢の灰を取ろうとして、うっかり灰を薄くこぼしてしまい、数字の一部が滲んでしまったことがあった:しずは青ざめて詫びたが、タエは怒らず静かに言ったIB「滲んだ数字は、後で必ず読み間違いを生みます:今のうちに気づいてよかった:次からは、何をする前にも必ず紙を確かめなさい」

しずはその夜以来、どのような小さな作業も始める前に、一度手を止めて確かめる癖をつけるようになったIBこうした地道な積み重ねの末に、しずは次第に俵の高さを一目見ただけで、およその量を言い当てられるほどになっていった:タエはそんな様子を見るたびに、満足げな表情を隠さなかったIB「蔵を守るのは錠前ではありません:その中にある米が誰の涙であるかを知る者が、蔵を守るのです」

しずはその言葉を心に刻んだIB秋の収穫が終わったある日、村の者たちが大勢、門前に押し寄せたIB川が氾濫し、一年の実りを丸ごと失った者たちであったIB「奥様、冬を越す米がございません:どうか、わずかでも」と、一人が訴えたIBその後ろには、痩せこけた子を背負った女や、杖をついた年寄りの姿も見えたIBタエは迷わず、蔵の扉を開けるよう命じたIB俵が一つずつ縁側に運ばれ、人々の目には涙が滲んだIB「ありがたい…ありがたい…これで冬を越せます」と、口々に礼を述べながら、人々は米を受け取っていったIBしずはその光景を少し離れたところから見つめながら、タエの言う「米が誰の涙であるかを知る」という言葉の意味を、初めて肌で感じ取っていたIBその光景を廊下から見つめる森本総兵の表情は、あまり明るくなかったIB「母上、このように施していては、我が家の蔵も持ちませぬぞ」
「蔵が空になろうとも、人が飢えて死ぬよりは増しです」と、タエは答えたIB総兵はそれ以上何も言わなかったが、庭の隅にあった石を一つ、誰にも気づかれぬよう足先で蔵の奥目へと押し戻したIBその頃から、蔵にまつわる小さな綻びが、目にちらほらと映るようになっていた:

月静が蔵の俵を数えると、帳面より一割ほど少ないように思われたが、総兵が急ぎ足で現れ「数え違いであろう」と言い放ち、算用に長けているはずの番頭の早吉地までもが、その場では黙って頷くばかりであった:早吉地のその態度に、しずは得心のいかぬ思いを覚えたが、番頭が主家の長男に逆らえぬのも道理であろうと、その時はそれ以上深く考えなかった

また別の日には,蔵の奥を担当していた下女が,ふとした拍子に「近頃,奥の並びが妙だ」と洩らしたが,その翌月にはその下女は遠い畑仕事へと回されてしまった:新しく蔵に入った若い下男は,事情も知らぬまま,古い俵より先に新しい俵を運び出すことがあった:しずはタエに教わった「古いものから使うのが通り」という言葉を思い出し,なぜ順が逆になっているのかと不思議に思ったが,その場では誰にも問えなかったIB寄札のことを尋ねられると,ソウ兵はいつも決まって顔を顰め,話を逸らすようにその場を離れたIBある夕暮れには,しずが何気なく「木札の刻み目は,今どれほどになりましたか」と尋ねただけで,ソウ兵は不機嫌に「そのようなことは私が確かめておく:お前の口出すことではない」と強く言い放ったこともあった:しずはその剣幕に驚きながらも,なぜあれほど逆撫でされたのかと胸の内に小さな疑いを残したIBそれらを一つ一つ胸の内にしまい込んでいたが,まだそれらを結びつける糸口は持たなかったIB

その頃,ケン太は蔵の柱にかけられた木札を手に遊んでいたIB札にはいくつもの刻み目が刻まれていたIB「おばあ様,これは何ですか?」とケン太が尋ねたIB「これは遊びではありません:賢太,刻み目一つが俵一つなのです:文字を知らぬものでも,これを見れば蔵に米がどれだけ出入りしたか分かります」
「もし,この数が違っていたら,どうなりますか?」とケン太が問うたIBタエはしばし無言で木札を撫でていたIB「違っていれば,誰かが嘘をついているということです」

ケン太にはその言葉の意味が全ては分からなかったが,祖母が木札を撫でていた指の動きだけは,長く記憶に残ったIB

冬に入ると,タエの体は目に見えて弱っていったIB食が細くなり,咳が止まらぬ日が続いた:女中のフクが毎日薬湯を煎じ,奥の間へ運んだ:ある時から,フクの手がわずかに震え始めたIB「フク,その手はどうしたのです」と尋ねると,,フクは俯いて言葉を濁したIB「何でもございません。奥様殿が扱っただけでございます」

しずはそれ以上問い詰めなかったが,その様子が心の片隅に引っかかっていたIBタエの病は日に日に重くなったIBしずは毎晩枕元を離れなかった:ある夜,タエは震える手を伸ばし,何かを取り出したIB縁のかけた古い枡であったIB「これを持っていなさい… しず」
「これは蔵の枡ではございませんか? なぜ私に?」
「問わずに,懐に入れておきなさい:いつか役に立ちます」

とだけ答えたIB枡の底には,長い年月で擦り減りながらも,古い刻印が一つだけ残っていたIBしずはその印の意味までは知らなかったが,,タエの指がその刻印の上をそっとなぞるのを見て,これがただの古い枡ではないのだと,漠然と感じ取ったIBしずは訳の分からぬ思いで枡を受け取り,,着物の内側にしまったIBタエは息を切らしながら,,しずの手を強く握ったIB「しず,,よくお聞きなさい:私が死んだら,,葬儀が終わる日,,ケン太を連れて,,蔵の鍵をソウベエに渡し,,この家を出て行きなさい」

しずの目が見開かれたIB「母上,それはどういう意味でございますか? 私とケン太に,,この家を出よと?」
「そうすれば,,ケン太を守ることができます」

タエの声は低かったが,,揺るぎなかったIB「理由は問わないでください:今はその時ではありません:ただ,,私の言う通りにするのです:約束してください」

しずは喉が詰まり,,答えることができなかったIBタエの指先は次第に冷たくなっていったIB「約束いたします… 母上」

タエはそれを聞いて,,かすかに息を吐き,,目を閉じたIBその夜明け,,タエは二度と目を開けることはなかったIBしずは冷たくなった手を離せぬまま,,無心に泣いたIBケン太は母の袖を掴み,,訳も分からぬまま泣いていたIB

葬儀は森本家の格式にふさわしく,,静かに,,しかし丁重に営まれたIB僧侶の読経が朝から晩まで低く響き,,香煙が絶えることなく仏前に立ち込めたIB弔問に訪れた者たちは,,口々に「タエ様のような聡明なお方は,,もう二度と現れまい」と涙をこぼしたIBソウベエも喪服を着て,,神妙な顔で焼香をしていたIBその様子だけを見れば,,誰もが「高徳な長男だ」と信じて疑わなかったであろうIBしかし人々の目が緩んだ隙に,,ソウベエはそっと座を離れたIBその足は仏前ではなく,,母の私物を納めた奥の小部屋へと向かったIBソウ兵は箪笥の抽斗を静かに開け,,一つずつ改めていったIBその手つきは,,悲しみに沈んだ者のそれではなかったIB

葬儀を終えて三日目,,森本総兵は家中の者を客間に呼び集めたIB「母上が亡くなる前に,,密かに遺されたことがございます」と,,袖から一枚の書き付けを取り出して広げたIB「小作人への貸付が,,算段の限度を超えております:蔵を満たし,,無心に施すことに励む余り,,我が家の台所は傾いていたのです」

人々がざわめいたIBしずはその書き付けの文字を見つめたIBタエには見慣れぬ筆跡であり,,家の奉公人の筆跡とも違っていたIB「兄上様,,この書き付けは… 」と言いかけた時,,タエの声が耳の奥に再び響いたIB「問わずにいなさい…

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今はその時ではありません」

しずは唇を結んだIB「妹殿も,,そろそろ知っておくべきことです:蔵の鍵は,,私にお渡しなさい:貸借を返すには,,そうするよりありません」

しずは暫し目を閉じたIBそれから懐から鍵の束を取り出し,,ソウ兵の前に差し出したIB「そういたします… 兄上様」

ソウ兵は一瞬意外そうな顔をしたが,,すぐに咳払いをして鍵を受け取ったIBその日の夕暮れ,,しずはケン太の手を引いて部屋を出た:傷み一つだけが,,持ち物の全てであったIB「母上,,私たちはどこへ行くのですか?」
「しばらく,,よそで過ごすのですよ,,ケン太」

門を出るしずの後ろ姿を見ながら,,下女たちがひそひそと話す声が,,背に刺さったIB「あの若奥様,,財産も持たずに追い出されるとはねえ」
「長様が,,よほど情け深いお方だからでしょう:丁重に送り出してやるとは」

しずは歩みを止めなかったIB

実家に辿り着いても,,母は式の内へは入れてはくれなかったIB「あなたにも,,辛い思いをさせてすまないと思っています:ですが,,私の弟がちょうど縁談を控えているのです:夫を亡くした嫁とその子まで厄介になっては,,先方に何と言われるか」
「母上,,一晩だけでも」
「すまないね… 本当にすまないね」

襖が閉められたIBしずはその前で,,しばらく動けなかったIBケン太が母の袖を掴み,,見上げたIB「母上,,なぜ泣くのですか?」
「泣いてはいません,,ケン太:目に埃が入っただけです」

その後の日々,,しずとケン太は,,何日も落ち着く先を持てなかったIB遠い親戚の門を叩いても,,答えはいつも同じであったIB「悪いが,,我が家も暮らし向きが厳しくてね」
「今は,,長継殿の世の中じゃないか」

かつて森本家の嫁として丁重に迎えられていた里でも,,今ではよそよそしい目を向けられたIB「あの森元の女ではないか:財産も持たずに出されたと聞くが」と,,囁かれることもあったIB春宿では,,女将が初めこそ愛想よく迎えたものの,,暫くすると顔つきを変え,,「悪いが,,離れは部屋が塞がっておりましてね」と言葉を濁して戸を閉ざしたIB別の日には,,雨に降られて,,軒先を借りようとしただけで,,通りすがりの男に「物乞いなら向こうへ」と,,にべもなく追い払われたこともあったIBケン太は空腹で泣くこともなく,,ただ黙って母の手を握り続けたIBその健気さが,,却ってしずの胸を締め付けたIBしずはケン太の手を引きながら,,日に行く度ごとに頭を下げ続けたIB着物は次第に汚れ,,袂に止まる埃にも,,指先が震えかけたIBかつて蔵の帳面を任され,,村人たちから頭を下げられていた自分が,,今は他人の情けにすがる他ない身になっているIBその儚さを思う,,胸の奥が締め付けられるようであったが,,しずはそれを顔には出さなかったIB「母上,,お腹は空きませんか?」とケン太が,,逆に気遣うほどであったIB「平気ですよ,,ケン太」

しずはそう答えながら,,懐に仕舞ったかけた枡だけを,,解き降ろし,,確かめるように握り締めていたIBそれでもしずは,,人を恨む言葉を,,一度も口にしなかったIB

日が暮れ,,しずとケン太は,,行く当てもなく町の外れを彷徨っていたIBその時,,一軒の飯屋の戸が開いて,,見覚えのある顔が出てきたIB「おや,,これは若様ではございませんか?」

おナカであったIBかつて飢饉の年に,,あの米で冬を越した恩を忘れていない女であったIB「タエ様がご存命であられたら,,どれほどお嘆きになられたことか:さあ,,お入りなさい:部屋なら,,お貸しできますよ」

しずはそこでようやく,,堪えていた涙をこぼしたIBケン太は,,温かい汁飯に,,久しぶりの笑顔を見せたIB「母上,,この汁飯はとても美味しいです」

しずは息子の頭を撫で,,静かに頷いたIBその夜,,おナカが用意してくれた布団に横になりながら,,しずはようやく,,人心地がついた思いがしたIB門を出されてからというもの,,まともに眠れた夜は一度もなかったIBケン太の寝息を聞きながら,,しずは懐のかけた枡をそっと握り締め,,「母上… 私たちはまだ,,ここにおります」と,,胸の内で呟いたIB

数日後から,,しずはおナカの店を手伝いながら暮らしたIB下女は器を洗い,,竈を焚くだけの日々であったが,,しずの手際の良さと,,物の丁寧さは,,すぐに客たちの間でも評判になったIB「おや,,この店に品のいい手伝いが入ったね」と,,旅の職人たちが噂するほどであったIBケン太もまた,,店先で焚きを運んだり使い走りをしたりと,,幼いなりに働くようになったIB

ある夜,,店仕舞いの後,,亭主が帳面を前に頭を抱えていたIB「今月の仕入れの銭が,,どうにも合わないのですよ:何度数えても,,二百文ほど足りないようで…

」と,,頭を掻いていたIBしずは帳面を借り,,一つ一つの数を丁寧に確かめていったIB前に教わった通り,,書かれた数だけでなく,,実際の品の量とも照らし合わせていくと,,味噌の仕入れの段で,,桁を一つ書き違えていることに気がついたIB「お品さん,,ここをご覧くださいませ:一貫と書くべきところが,,一〇〇文になっております」

亭主は目を丸くして帳面を覗き込み,,「なるほど… 確かにそうだ」と,,膝を打ったIB「おかげで,,危うく余分な銭を払うところであった」

それからというもの,,亭主はしずに,,店の勘定を全て任せるようになったIBしずは仕入れの帳面を整え,,売上を克明に記すようになり,,店の暮らし向きは,,以前よりもいく分か楽になっていったIB「あの一軒飯屋の若い女は,,算用に強いらしい」と,,近所の者たちも口にするようになったIBしずは,,蔵の帳面を失った代わりに,,小さな店の中で,,再び自分の手で何かを守り支える術を,,見つけつつあったIB体を動かして働くことで,,少しずつ心の落ち着きを取り戻していったIB

その頃,,町の市で,,見慣れた結び目を見つけたIB米俵が一つ,,露店の隅に置かれていたが,,俵の縄が三度巻かれ,,内側へ折り込まれた,,独特な結び方であったIBしずの指先が,,凍りついたIBそれは,,タエが頒布の際にのみ用いていた結び方であったIB「この米は,,どちらから?」としずが問うと,,露天の主人は,,何気なく答えたIB「森本の長様が譲ってくださったのですよ:借財の返済に窮して,,売っているそうです」

しずは俵をもう一度確かめたIB結び目も,,俵の印も,,間違いなかったIBその夜,,しずは眠るケン太の顔を見つめながら,,ふと尋ねたIB「ケン太,,おばあ様が木札に刻み目を掘っていたのを,,覚えていますか?」

ケン太は目をこすりながら頷いたIB「もちろんです:刻み目一つが俵一つだと,,おっしゃっていました」

しずの瞳が揺れたIBタエが最後まで蔵を確かめていたのなら,,その数字は,,どこかに残っているはずであったIBしずは立ち上がり,,身支度を整えたIB「母上,,どちらへ?」とケン太が尋ねたIB「少し出かけてきます:戸締まりをして,,待っていなさい」

しずは闇の中,,森本家の蔵の近くを窺ったIB夜風が冷たく頬を差し,,遠くで犬の吠える声が,,一度二度と響いては消えたIBほどなく,,車輪の音が聞こえてきたIBソウ兵が自ら車頭に立ち,,下男二人が荷車を引いていたIB車軸の軋む音が,,静まり返った夜道に,,妙に大きく響いたIBしずは物影に身を隠し,,息を潜めながら跡をつけたIB車は町を離れ,,人気のない山道へと向かったIB灯りだけを頼りにし,,しずは足音を殺しながら歩を進めたIB古びた廃屋のような蔵の前で,,車が止まったIB「貸借のせいで空になったと聞いていたのに,,なぜこのような山奥に蔵があるのか」

しずは息を殺し,,蔵の戸の隙間へと近づいたIBソウ兵が錠を開けると,,軋みと共に扉が開いたIBその中には,,天井に届くほど米俵が,,積み上げられていたIBむっとした米の匂いが,,隙間からしずの鼻をついたIBしずは隙間にさらに身を寄せたIB包まれた俵には,,全てあの結び目が結ばれていたIB三度巻いて縄を内側に押し込む… タエが頒布の際にのみ用いていた,,あの結び目であるIB「これが,,全て百姓たちに配られるはずの米であったのか」

しずの胸に,,怒りとも悲しみともつかぬ感情が,,込み上げてきたIBしずは懐から,,かけた古い枡を取り出したIB指先が震えたが,,心を落ち着け,,一呼吸置いてから,,俵の一つから枡に米を測ったIB手のひらで上を平らにならし,,傍の番頭用の枡にも同じように米を満たし,,二つを並べてみたIB二つの枡の高さは,,微妙に違っていたIB古い枡より,,蔵の枡の方が,,明らかに低かったIB見間違いであって欲しいと願いながら,,しずは息を殺し,,もう一度測ってみたIB三度繰り返しても,,結果は同じであったIBしずは蔵の枡をひっくり返してみたIBそこだけが,,不自然に分厚かったIB指先で押してみると,,木を継ぎ足した跡が触れたIB「まさか… 」

しずは小さく息を飲んだIB一つの俵から僅かに盗めば,,盗みとは言えないのかもしれぬが,,百俵から二合ずつ抜き取れば,,それだけで二斗にもなるIBそれは,,村一つの冬を奪うことになるIBタエの言葉が,,耳の奥に蘇ったIB「蔵を守るのは錠前ではありません:その中にある米が誰の涙であるかを知る者が,,蔵を守るのです」

しずは枡を懐に戻し,,奥歯を噛み締めたIBあの秋,,村人たちが涙を流して受け取っていた米の影で,,こうして少しずつ,,着実に何かが奪われ続けていたのだIB総兵が米を横流ししていたのは,,一日二日のことではないという確信が,,固まったIB

その時,,蔵の外で足音がしたIBしずは慌てて身を隠したが,,袖が塵に触れて,,音を立ててしまったIB「ここにいるのは誰だ!」という下男の叫び声に,,しずは闇の中,,身を投げ,,山道を駆け下ったIB

二日後,,町には妙な噂が流れ始めたIB「何でも,,あの若奥様が夜中に,,蔵へ忍び込んだそうな」
「米を盗もうとして,,見つかったらしい」

追い出されても懲りぬ女だ…

噂の広まり方は,,妙に早く,,まるで誰かが意図して,,町中に撒いているかのようであったIB亭主の店にも,,客たちのひそひそ話が聞こえてきたIBしずは器を運ぶ手を止め,,固まったIB「母上,,皆さん,,なぜあんなことを… 」とケン太が不安げに訪ねたIBしずは息子の手を強く握ったIB「気にしてはいけません」

しかし噂はそこで止まらなかったIB数日後には,,さらに悪い噂が広まったIB「あの子は,,森本の血筋ではないという話もあるそうだ」
「亡き殿が生きておられた頃も,,どうも,,この様子がおかしいという噂があったとか」

店の客の一人が,,聞こえよがしにそう語るのを,,しずは耳にしたIBしずはその話を耳にして,,手が震えたIB亡き夫の侮辱であり,,ケン太の存在を否定しようとする言葉でもあったIB「誰が,,この噂を流したのか… 問うまでもなく,,分かることであった」

ソウ兵はしずを盗人と貶しめるだけでは飽き足らず,,その寄る辺そのものを,,根底から崩そうとしているのだったIB

その日の午後,,御用聞きのサチが,,下っ端を連れて店の前に現れたIB「この店に,,しずという女がいると聞いたが」と,,亭主が前に立ちはだかったIB「旦那,,何でございますか?」
「森本家の蔵に,,米泥棒が入ったという訴えがあった:人相書きに,,ぴたりと合う女が,,この近くに住んでいると聞いて,,確かめに来た」

しずが静かに前へ出たIB「私が,,しずでございます:何か,,誤解が終わりのようですが」
サチはしずを上から下まで眺め回したIB「誤解かどうかは,,お上が決めること:おとなしく,,ついてくれば良いもの」

しずの頭の中は乱れていたIB今引き立てられれば,,枡の秘密も,,結び目も,,何の役にも立たなくなるIB「旦那,,少しばかり,,支度の時をいただけませんでしょうか?」

サチは面倒臭そうに頷いたIBしずは部屋に戻り,,ケン太の手を取ったIB「ケン太,,ここを,,しばらく離れなくてはならないかもしれません」

裏口からケン太を連れて出ようとしたその時,,闇の中から誰かが,,袖を掴んだIBフクであったIB顔は涙にまみれ,,夜道を走ってきたのか,,息が上がり,,髪も乱れていたIB「若様,,お待ちください:奥様に,,申し上げたきことがございます:今でなければ,,一生申し上げられぬと思いまして… 今日,,長様のご様子が,,いつになく落ち着かず,,私も,,恐ろしくなったのです」

フクは懐から,,小さな紙包みと,,しわくちゃになった書き付けを取り出したIB手が震え,,包みを取り落としそうになるのを,,しずが支えたIB「長様から,,大奥様の薬湯に混ぜるようにと,,この粉を渡されました:私は,,ただ滋養のための薬とばかり,,思っておりました:ですが,,奥様のお体が日に日に痩せ細っていくのを見て,,私も,,何かがおかしいと気づいたのです:それでも恐ろしくて,,誰にも打ち明けられぬまま,,今日まで過ごしてまいりました」

しずは膝から力が抜け,,戸口を掴んだIB「フク,,あなたは…


フクはさらに続けたIB「もう一つ… 亡き旦那様が,,私船で亡くなられた,,あの夜のことでございます:次男様が船に乗られる前の晩,,長様が,,私物の,,ゴスケと密かに会っておられるのを,,私は見たのでございます:物影から見ただけで,,何を話しておられたかまでは,,分かりませぬが… あのお二方が,,親しく言葉を交わす姿を見たのは,,後にも先にも,,あの一度切りでございました」

外から,,サチの苛立たしげな声が響いてきたIB「中で何を,,グズグズしておるのだ:そろそろ,,縄も渡すぞ」

しずはフクの手を急いで握り,,話したIB「フク,,これをここまで届けてくれただけでも,,大変な勇気であったはずです:ですが,,今日はこれで戻りなさい:また必ず,,連絡します:この証しは,,まだ,,しず子として固まるには足りぬ:もう少し,,集めねばならぬ」

しずは結局,,おとなしく,,大岡所まで引き立てられたIB取り調べの役人は,,盗みの証拠となる品を出せと,,厳しく問い詰めたが,,しずは何も持たぬまま,,無実を訴える他なかったIB夜の蔵で確かめた枡の違いや,,札の数は,,まだこの場で明かすには早すぎるIBサチを通じて総兵に伝われば,,証拠は全て隠されてしまうであろうIBしずは唇を噛み締め,,ただ「知らぬ」と繰り返したIB結局,,盗みの証となるものがなく,,半日ほどで解き放たれたIBだが,,大岡所を出たしずの耳には,,すでに,,町中を駆け巡った噂が届いていたIB「森本の若奥様が,,蔵に忍び込んだのだそうだ」

その後,,しずは寄札と俵の結び目,そして枡の違いを,,一つの筋に沿って組み立てて始めたIB頭の中だけでは取り違えてしまいそうなので,,紙を一枚用意し,,分かったことを順に書き留めていくことにしたIBまずタエが最後に蔵を確かめたのは,,いつであったか:ケン太に尋ねると,,庭の紅葉がすっかり落ちる頃,,霜月が過ぎてすぐの頃であったというIBその日を境に,,タエは病の床に就き,,二度と蔵を運ぶことはなかったIBしずはその日付を紙の一番上に書き記したIB次に,,その年の最後の米の荷が届いたのは,,いつであったか:しずは御用聞きを通じて,,村の荷運びを担う者に尋ねて回ったIB荷運びの老人の一人が,,確かに覚えていると答えたIB「霜月よりも前,,様が最後に蔵へ入れられる,,数日前でございましたよ:あれ以来,,森本様の蔵へ米を運んだ覚えは,,ございません」

しずはその答えを二番目に書き記したIBこれで,,タエが木札に刻みを入れた後,,蔵に新たな米が入ることは,,一度もなかったことが,,はっきりと裏付けられたIBならば,,その後,,俵の数が増えることなど,,あり得るはずがなかったIBしずは夜を待って,,再び蔵の近くへ向かったIB木札はまだ柱にかけられていたIBしずは指先で刻み目を,,一つ一つ数えていったIB「百十八… 百十九…

百二十」

しずはその数を,,三番目に書き記したIB続いて,,懐から総兵が大岡所に提出したという帳面の写しを取り出し,,照らし合わせた:おナカの亭主が,,大岡所の役人をしており,,密かに手に入れてくれたものであったIB帳面には,,「百二十五俵」と記されていたIBしずはその数も書き加えたIB「刻みが刻まれた後,,米は一度も新たに入っていない:ならば,,この五俵の差は,,後になって,,帳面の方が書き足されたとしか,,考えられぬ」

最後に,,しずは市で見つけた俵の売り先を思い出し,,あの結び目の俵が,,どこの露店へ流れたかを,,記憶を辿りながら,,一つ一つ書き留めていったIB木札の数,,最後の荷が届いた日,,帳面の数,,そして売り先… 四つの糸が,,紙の上で,,一つの謎として繋がっていくのを,,しずは自分の目で確かめたIB「これならば,,誰の目にも,,分かるはずだ」

しずはその証を,,丁寧に折り畳み,,懐にしまったIBしずはさらに,,偽の貸借の書き付けを取り出して,,見直したIBタエは息を引き取る前に,,貸借をしたことになっていたが,,書き付けの端に記された利息の計算には,,まだ来ぬはずの,,来月の分までが含まれていたIBしずは指先で日付を一つ一つ辿りながら,,タエに教わった算法で,,元金と期間をもう一度確かめてみたIB金利が生前定めていたはずの利率を掛け,,期間を数えると,,書き付けに記された利息の額とは,,明らかに合わなかったIB何度計算しても,,辻褄が合わなかったIB書き付けそのものが,,タエの死後に,,急拵えで作られたものであることは,,もはや疑いようがなかったIB

しずはこの全てを,,胸に抱いたまま,,与市支度をしたIB今すぐ大岡所へ訴えたとしても,,サチの手を通る限り,,証拠は,,意図も簡単に消え去ってしまうであろうIBその時,,店を訪れた客たちの間から,,思いがけない話が聞こえてきたIB「今月の月末,,大岡所から蔵の一生権分があるそうだ:飢饉の年に,,米を正しく分け与えたかどうかの,,蔵を調べるとのことだ」

しずの目が輝いたIB大岡所であれば,,サチの手の届かぬ場所であったIBしずは店で紙と筆を求め,,夜を徹して訴状を書いたIB文字は拙なく,,幾度も書き損じては,,書き直したが,,これまで確かめた食い違いを,,順を追って書き連ねたIB

翌朝早く,,しずは訴状を手に,,大岡所へ向かう役人の行列を,,町外れの辻で待ち構えたIB行列が近づくと,,しずはケン太の手を離し,,地に膝をついて,,すがったIB「恐れながら… 森本家の蔵の米の量に,,疑わしき点がございます:どうか,,時の真ん中で,,改めてお調べいただきますよう,,お願い申し上げます」

供の者たちが慌ててしずを追い払おうとしたが,,行列を引きいる大官の役人がそれを制したIB役人は馬を降り,,しずの差し出す訴状を受け取り,,丁寧に改めたIB訴状に記された数の食い違いを,,一通り読み終えると,,役人の眉間に,,深い皺が寄ったIB「これが誠であれば,,捨てておけぬ話である:よかろう… 明日,,市条にて,,お上に見分け致す:その日までに,,証人と証拠を,,全て揃えておくが良い」

しずは幾度も頭を下げ,,礼を述べたIB

家へ戻る道すがら,,しずはふと足を止めたIBタエが最後に残した言葉が,,改めて心に蘇ってきたIB「葬儀が終わったら,,ケン太を連れて,,蔵の鍵をソウベエに渡し,,この家を出ていきなさい:そうすれば,,健太を守ることができます」

しずは立ち止まったまま,,これまでの出来事を,,一つ一つ思い返したIBまずタエは鍵を,,あまりにあっさりと,,迷いもなく,,手放すように命じたIB長年守り続けてきた蔵の鍵を,,なぜあれほど,,ためらいなく手放せと言えたのかIB次にタエは,,古い枡を託しながら,,その意味を,,一言も語らなかったIBただ「いつか役に立つ」と,,短く告げたIBそして最後に,,ケン太が語った言葉が,,思い出されたIBタエが亡くなる少し前にも,,誰にも告げずに,,蔵へ足を運び,,札に刻みを入れていたというIB病の重い体を押してまで,,なぜそこまでして,,蔵を確かめる必要があったのかIB三つの記憶が,,しずの中で,,一つに繋がっていったIB「母上は…

しずと健太が,,何の力も持たぬように見えることで,,ソウ兵が安心しきって,,隠した米を動かすよう,,静かに仕向けていたのである」

力無き嫁と幼い孫を,,予想わせることで,,ソウ兵自らに油断させ,,罪を暴かせる,,仕掛けであったIB鍵をあっさり手放させたのも,,枡の意味を語らなかったのも,,健太を連れてこの家を離れさせたのも,,全てはこの一つのためのみであったIBソウ兵の目の届かぬところに,,健太を置くことこそ,,タエが最後まで気にかけていたことだったのだIBしかしタエは,,その先の全てを,,決めておいたわけではなかったIB確かめること,,寄札を照らし合わせること,,大岡へ訴え出ること… それは,,タエに代わり,,しずが成し遂げねばならぬことであったIB「母上は,,全てを解決してくださったのではない:私が,,真実へ辿り着ける,,道だけを,,残してくださったのだ」

しずは懐のかけた枡を取り出し,,その底をそっと指でなぞったIB擦り減った刻印の形は,,やはりよく分からなかったが,,これもまた,,いつか何かの証になるのかもしれぬと,,しずは枡を強く握り締めたIBもう二度と,,逃げはしない,,と心に決めたIB

検分の日,,朝から市場には,,人々が雲のように集まっていたIB大岡所から出向いた役人が,,露天の真ん中に,,広い場所を設けたIB総兵は初め,,余裕綽々の顔で現れたIB「まあ,,新たしく作らせた枡を,,下男に持たせ,,車頭に立たせていた:お上の検分とは,,我が家の蔵は,,常に正直に図ってまいりました:偽ることなど,,何もございません」

その時,,人垣を分けて,,しずが歩み出たIB懐には,,縁のかけた古い枡が,,抱えられていたIBソウ兵の顔から,,笑みが消えていったIB「妹殿が,,ここへ何を… 」

役人が場を整えながら,,声を張り上げたIB「まず,,この古い枡について,,確かめておく」

しずが差し出した枡を,,役人は両手で受け取り,,日にかざすようにして,,まじまじと眺めたIB「ここに目をやると… 擦り減った刻印が,,うっすらと浮かび上がった」

役人の顔つきが変わったIB「これは…

あれは… 」

ある年配の役人が進み出て,,その刻印を確かめ,,「なるほど:これは,,先代の頃に定められた,,お定め枡である」と,,声を上げたIB市場に集まった人々が,,湧めいたIBしずはその刻印が何を意味するのか,,この時初めて,,はっきりと知ることとなったIBこの枡こそが,,長年森本家で用いられてきた基尺であり,,この枡に照らして,,初めて他の枡の正しさが定まるIB総兵の顔に,,初めて,,明らかな動揺の色が浮かんだIB「さあ,,これより,,二つの枡を並べ,,同じ米で満たし,,その違いを確かめる」

市場は,,また,,瞬間に静まり返ったIBしずはお定め枡を,,両手で包むように持ち,,米俵の口から米を掬ったIB手のひらで枡の縁を丁寧にならし,,余った米を払い落とすIB「これで,,ちょうど一升」と,,役人が告げると,,人々は身を乗り出したIB続いて,,ソウ兵の下男が,,真新しい枡に同じ俵から米を満たし,,同じように縁を鳴らしたIB役人は総兵の枡に満たされた米を,,そのままお定め枡へと,,丁寧に移し替えたIB米は,,さらさらと音を立てて移り,,枡の中に落ちていったIB米が移り終わると,,市場にいた誰の目にも,,明らかなことが見て取れたIBお定め枡の中の米は,,縁まで,,わずかに届いていなかったのであるIB役人が小さな枡を取り出し,,足りぬ分を測って,,加えたIB「二合… 確かに,,二合足りぬ」

役人の声が,,張り上げられたIB「この新しい枡は,,一升入るはずのところ,,八合しか入らぬ」

しずが一歩進み出たIB「恐れながら… その枡の底を,,お改めくださいませ」

役人が,,総米の枡をひっくり返して,,改めたIB表面は何ともなく見えたが,,そこを叩くと,,鈍い音がしたIB役人はもう一度,,今度はより強く,,そこを叩いたIB乾いた木の音ではないIB明らかに,,二重になった音であったIB役人が小さな鑿で,,底板を外すと,,内側にもう一枚,,固い木の板が,,継ぎ足されているのが露わになったIB敷居には,,米粉のようなものが詰められ,,外から見ただけでは,,決して分からぬよう,,丁寧に,,籤が施されていたIB市場に集まっていた人々の口から,,驚きの声が上がったIB「あれでは,,まるで別物ではないか」
「あんな枡で…

ソウ兵の顔が,,真っ赤になったIB「それは,,何処ぞの下人どもが,,間違えて作らせたものであろう:私は,,預かり知らぬことだ」

しずは声を整え,,人々に向かって,,語りかけたIB「一度測るごとに,,僅かに足りぬ:百回繰り返せば,,それだけで二斗にもなります:わずかな違いに見えても,,積もれば,,村人たちの冬を,,丸ごと奪う量になるのです:少しずつ抜き取れば,,帳面の俵数はそのままでも,,蔵の米は次第に減っていく… 誰にも,,気づかれぬように」

しずは木札を掲げたIB「この刻み目が,,証にございます:文字を知らぬものでも,,数えられるようにと,,母上ご自身の手で,,刻まれたものです:母上が最後に蔵を確かめられたのは,,庭の紅葉がすっかり落ちる頃,,霜月が過ぎてすぐの,,その頃でございました:それ以降,,母上は病の床に就き,,二度と蔵を運ばれることは,,ございませんでした:そして,,その頃を境に,,蔵へ新たな米が,,運び込まれたことも,,一度として,,ございません:荷運びを担う者たちに,,確かめました」

しずは札の刻み目を指でなぞり,,大きな声で数を読み上げたIB「百十八… 百十九… 百二十:刻まれた数は,,百二十でございます」

しずはさらに,,懐から折り畳んだ紙を取り出したIB総兵が大岡所に提出したという,,帳面の写しであったIB「この帳面には,,百二十五俵と,,記されております:新たな米が,,一度も入っていない以上,,俵の数が,,後から増えることなど,,道理として,,あり得ませぬ:であれば,,この五俵は,,寄札が刻まれた後,,母上が病に伏せられている隙に,,誰かが,,帳面の方を,,書き足したものと,,考える他,,ございませぬ」

役人が写しを受け取り,,寄札の数と見比べ,,荷の日付を確かめるとIB「なるほど…

確かに,,辻褄が合わぬ:これは,,蔵の数の記録が,,後から改められたと見るが,,道理であろう」と,,厳しい顔をしたIBしずはさらに,,あの結び目の付いた俵を示したIB「この結び方は,,母上が,,飢饉の百姓たちに分け与える米に,,のみ,,用いになったものでございます:この結び目の俵が,,兄上様が密かに売り払われた米俵の中から,,出てまいりました」

ソウ兵は声を荒げたIB「そのような結び方は,,珍しくもない:無理やり罪を被せようとする,,策略であろう」

しずは静かに続けたIB「寄札の数,,帳面の数,,枡の細工… そして俵の行方:この四つが,,全て一つに,,重なっております:兄上様が蔵の米を欺いてこられたことは,,もはや,,疑いようが,,ございませぬ」

市場に集まった人々の視線が,,総兵へと集まったIB総兵は額に冷や汗を浮かべ,,後ずさったIB

しずは続けて,,夫の遺した帳面を差し出したIB「恐れながら,,もう一つ,,申し上げねばならぬことがございます:ここに,,亡き夫が生前つけていた,,私物の運送記録が,,ございます:夫が最後に船へ乗った日の,,傍らに,,見慣れぬ手で,,『船頭』と記されております」

フクが,,人垣の中から進み出たIB声はまだ震えていたIB「私は… 亡き旦那様が船に乗られる前の晩,,長様が,,私物で,,ゴスケと密かに会っておられるのを,,見ました」

役人は暫し考え,,役人に命じたIB「ゴスケを引き立てて,,詳しく取り調べよう:まだこの場で結論を出すことはできぬが,,疑いのあるものとして,,身柄を抑えておく」

さらにフクは,,懐から小さな紙包みと,,しわくちゃになった書き付けを取り出したIB「長様から,,大奥様の薬湯に,,この粉を混ぜるようにと,,渡されました:この書き付けが,,その印に,,ございます」

役人は粉と書き付けを受け取りIB「これは,,念のため封じ,,後日きちんと調べを進める:まだこの場で,,毒であったと,,決めつけることはできぬ:粉の中身を確かめ,,フクとソウ兵… 双方から,,詳しく事情を聞いた上で,,改めて,,裁くこととしよう」と,,突き放したIB

その時,,片隅で見守っていたサチが,,そっと場を離れようとしたIB役人がそれに気づき,,鋭く声を発したIB「御用聞き…

どこへ行く?」

サチはびっくりと肩を震わせ,,「私は… 私は,,ただ,,様子を窺いに参っただけで… 」と,,言葉を濁したIBそれを見たソウ兵が,,追い詰められた顔のまま,,サチへと矛先を向けたIB「サチ… お前も,,明け前に預かっていたのではないか:私だけを,,悪者にする気か:しずを盗人だと,,訴え出るよう,,進めたのは,,お前ではなかったか」

サチの顔が,,みるみる青くなったIB「何を,,仰せでございますか:私は,,ただ長様の言葉に従ったまでのこと:分け前などと,,滅相もないこと」

二人は互いを睨みつけ,,その場で言葉を荒げ合ったIB役人はその一言のやり取りだけで,,両名の間に,,何かしらの繋がりがあったことを,,見て取り,,サチにもその場での聴取を命じたIB市場に集まった人々は,,その様子を,,息を詰めて,,見守っていたIB

役人が,,おもむろに声を張り上げたIB「森本総兵:蔵米の大量横領,,帳面の改ざん…

その罪は,,もはや,,明白である:他の疑いについては,,これより詳しく,,調べを進める:両名とも,,大岡所へ,,縛めて連れて参れ」

下役たちが近づくと,,ソウ兵は人垣の間を抜けようとしたが,,すぐに捉えられたIB「妹殿… それでも,,我らは,,家族ではなかったか」

しずはその言葉に,,一瞬目を閉じ,,再び目を開いて総兵を見つめたIB「兄上様が,,先に,,家族を,,見捨てられたのです」

総兵はそれ以上,,言葉を返せぬまま,,引かれていったIB

その後,,大岡所による調べが,,数日に渡って続けられたIBゴ助は初め「船のことなど,,何も存じませぬ」と言い張っていたが,,運記に残された『船頭』の文字と,,フクの証言,,そして,,日を追って詰められる役人の問いに,,次第に言葉をつまらせていったIB二日目には,,私物の他の者からも,,あのゴ助が慌ただしく,,船を取り替えていたという証言が集まり,,ゴ助の逃げ道は,,一つずつ塞がれていったIB

三日目の夜,,ゴ助はついに膝を折り,,洗いざらい語ったIB「長様が三十両をくださり,,『船底に穴の入ったものと,,別の船と取り替えるように』と,,仰せになりました:私は,,ただ言われた通りにしただけで,,ございます:まさか,,それで人が死ぬとは,,思うても,,思いませなんだ」

フクが差し出した粉もまた,,大岡に呼ばれた医師の手で,,調べにかけられたIB医師は粉を舐め,,匂いを確かめ,,暫し黙り込んだ後IB「これは,,長く飲み続ければ,,体を弱らせる,,よからぬ薬草の粉である」と,,告げたIBこの知らせを聞いたしずは,,タエが日に日に痩せ細っていった訳が,,ようやく腑に落ちる思いがしたIB

サチについても,,これまでの働きぶりが,,改めて洗い直され,,総兵から幾度となく金品を受け取っていた形跡が,,帳面や証言から,,次々と明らかになったIBサチは御用聞きとしての立場を取り上げられ,,二度と町方の御用を務めることは,,許されなくなったIB

大岡所では,,総兵が横流ししていた米を取り戻し,,困窮していた村人たちに,,改めて,,施し与えたIB隠し倉に積まれていた俵は,,一つのこらずに車で運び出され,,かつて飢饉の折りに,,涙を流していた村人たちの元へと,,届けられたIBある老婆は,,届けられた米俵の結び目を見てIB「これは,,タエ様がいつも,,使っておられた結び方だ」と,,涙をこぼしながら,,手を合わせたIB不当に膨らんでいた小作人たちの貸借の書き付けも,,一つ一つ調べ直され,,タエが生前に定めていたはずの利息を,,はるかに超える分は,,全て取り消されたIB中には,,これでようやく,,田を手放さずに済むと,,涙を流して喜ぶ小作人の姿もあったIB

蔵の管理については,,大岡所の役人が,,改めて時をかけて,,調べを進めたIBソウ兵には,,もはや蔵を管理する資格がないことは,,明白であったが,,では,,誰にその役を託すべきか,,役人たちの間でも,,議論があったIB役人たちは,,しずの算用の確かさ,,蔵を巡っていた頃の働きぶり,,計りの狂いを見抜いた眼力… そして,,日頃の村人たちからの信頼を,,一つ一つ調べ上げていったIB枡を用いた確かな管理,,帳面と実際の品を照らし合わせる粘り強さ…

そして何より,,民のために米を分け与える心がけIBそのいずれもが,,タエから長い年月をかけて,,受け継いでいたのは,,しずただ一人であることが,,調べが進むにつれ,,誰の目にも明らかとなっていったIB「これほどの者を,,家の外へ追い出していたとは,,森本の家も,,愚かなことをしたものだ」と,,役人の一人は,,呟いたIBかくして,,しずは突然の抜擢によってではなく,,これまでの働きと,,積み重ねてきた人柄が認められた末に,,蔵を預かる者として,,正式に立てられることとなったIB

全てが片付いた後,,しずはまず,,おナカの店を訪ねたIB暖簾を潜ると,,亭主は驚いた顔をしながらも,,すぐに相好を崩したIBしずはその両手を,,強く握ったIB「あなたがいなければ,,私とケン太は,,あの冬を,,越せなかったでしょう:行く当てもなく,,迷い歩っていた,,あの夜,,あなたが戸を開けてくださらなければ,,今の私たちは,,ございませんでした」

おナカは目を潤ませながら,,微苦笑したIB「タエ様から受けた恩を,,返しただけのこと:今や,,あなたが蔵を守る人となったのですから,,私はただ,,嬉しく思うばかりですよ:これからも,,たまには,,この店にも,,顔を出しておくれ」

ケン太もまた,,おナカの店の暖簾を潜ると,,懐かしそうに店内を見回しIB「この店の汁飯が,,一番美味しかったです」と言って,,皆を笑わせたIB

フクにも,,しずは心から感謝を伝えたIB森本の家を去った後,,フクの身の振り方を心配していたしずは,,蔵の管理を任されると同時に,,フクを蔵の帳場で働けるよう,,取り計らったIB「あなたが勇気を出してくれなければ,,真実は,,闇に漏れたままでした」

フクは涙を拭いながら,,頭を下げたIB「奥様,,私を,,恨みにならず,,ありがとうございます」

しずは静かに首を振ったIB「あなたは,,罪人ではありません:真実を,,明らかにした人です」

フクはその日から,,店で真面目に働き,,以前のように手を震わせることは,,二度となかったIB

ある日,,ケン太はしずがかけた古い枡を磨いているのを見つけ,,傍らによって尋ねたIB「母上,,おばあ様は,,なぜ蔵の鍵ではなく,,このかけた枡を,,私たちに残されたのでしょうか?」

しずは,,枡のかけた縁を,,指先でなぞりながら,,答えたIB「扉を開ける権よりも,,その中にあるものが,,誰のものであるかを,,明らかにする,,道具の方が,,大切であるという意味だったのでしょう」

その冬,,市条には,,救済米を受け取る村人たちの列が,,絶えなかったIBかつてソウ兵の時代には,,蔵の扉が開かれることは,,滅多になく,,村人たちは肩を落として帰るしかなかったが,,しずが管理するようになってからは,,計りに一切の狂いがなく,,誰もが安心して米を受け取れるようになったIB列の先頭には,,あの秋,,痩せこけた子を背負っていた女の姿もあったIB子はいくらか肉付きが良くなり,,母の背中で,,機嫌よさそうに笑っていたIB人々は,,米を分け与えるしずに向かって,,深く頭を下げ,,口々に言ったIB「しず様が,,私たちの冬を,,守ってくださった」

ケン太もまた,,母の傍らで,,帳面を付けることを,,手伝うようになっていたIBある日,,ケン太は寄札の新しい刻み目を掘りながら,,しずに訪ねたIB「母上,,私も,,いつか母上のように,,蔵を守れるように,,なれるでしょうか?」

しずは息子の頭を優しく撫でながら,,答えたIB「刻み目を掘ることは,,誰にでもできます:大切なのは,,その一つ一つが,,誰かの冬を支えているのだと,,忘れずにいることです」

ケン太はその言葉を,,幼いなりに,,胸に刻んだIBしずは,,もはや,,追い出された花の嫁ではなかったIB蔵を守った人,,民の暮らしを守った人として,,人々に呼ばれるようになったIBそれは,,タエが残した鍵によってではなく,,タエが残した,,真実を,,しず自らが受け継ぎ,,育て上げた,,末に得たものであったIBかけた古い枡は,,今も蔵の柱に,,寄札と共に,,掛けられているIB訪れる者が誰であれ,,その由来を尋ねれば,,しずは決まって,,同じ答えを返したIB「これは,,計りを誤らぬための,,戒めです」とIB蔵を守るのは,,高い塀でも,,頑丈な錠前でもなかったIBその米に染み込んだ,,人の涙を,,掬い取ることのできる,,一人の心で,,あったIB