「警備員?私、偏差値70の高校出て有名大学まで行ったのよ」
姉が指先で釣書を弾いた。見合いの釣書がテーブルを滑っていく。
「なんで私がそんな人と結婚しなきゃいけないの?」
母は姉の湯のみに茶を注ぎ足し、こちらを見なかった。
「じゃあ、血でいいじゃない」
皿を拭く私の手が止まった。父が新聞から目を上げた。
「お前には堅実な人の方が合ってる」
姉が声を上げて笑った。
「さあさあ、知夏にはお似合いじゃない?」
私の名前は、この家ではいつもそこに置かれる。姉が「いらない」と言ったものの行き先として。私は何も返さなかった。31年、そうしてきた。
それから10ヶ月後、パートを終えて裏口を出ると、敷地の端に黒い車が止まっていた。降りてきた男性が帽子を取った。
「奥様、お乗りください」
「何かの間違いだと思います」
「旦那様からのお迎えです」
その車がどこへ向かうのかも、この家の「順番」を誰が決めていたのかも、私はまだ知らなかった。
私は瀬川知夏、31歳。川市の外れにある桜井という町で、フレッシュマート桜井大店というスーパーのパートをしている。8年目になる。時給は1100円。1日5時間、月に20日ほど働いて、手元に残るのは10万円ちょっとだ。実家に暮らして、そこから月に3万円を家に入れている。高校を出てすぐ地元の小さな会社で事務をしていたが、その会社が潰れたのが23歳の時で、それからずっとレジの前にいる。
店には12人のパートがいる。1番長いのが中西君子さんで、私より10年先輩の63歳。休憩室でいつも同じ席に座って、同じ茶を淹れてくれる。
「ちなちゃん、今日も早いね。品出し、慣れちゃって」
「慣れるのが1番怖いのよ。誰も褒めなくなるから」
そう言いながら君子さんは私の湯のみにも茶を注いでくれる。店長の浜口安典さんは55歳で、いつも売り場の端に立って客の背中を見ている。私が値札を張り替えていると、通りすがりに一言だけ置いていく人だ。
「瀬川さん、その並べ方いいね」
その一言だけで、その日は最後まで働ける。家では1度ももらったことのない種類の言葉だった。
姉の瀬川霞は34歳。県立の進学校を出て、有名な私立大学を出て、丸級食品という会社の法人営業部で主任をしている。うちの家族を紙に書くなら、それくらいで足りる。姉のことは3行あっても足りないのに、私のことは1行で余るのだ。居間の壁には賞状が7枚かかっている。全部姉のものだ。作文コンクールが2枚、初等科が3枚、県の数学の大会。1番右の端には高校の合格通知の写しまで額に入れて飾ってある。母が近所の人を呼んでは、その壁の前でお茶を出す。
「うちの霞はね、偏差値70なのよ」
何度その言葉を聞いたか分からない。数え始めたら多分朝までかかる。
私が小学4年の時、図画のコンクールで佳作をもらったことがある。賞状を持って帰って母に見せた。母は封筒の中身をちらりと見て、こう言った。
「あら、佳作って参加賞みたいなものでしょ」
それきり、その賞状がどこへ行ったのか知らない。あの壁に私の賞状が並ぶことは、その後も1度もなかった。その時台所にいた姉が、湯のみを持ったまま覗きに来た。
「見せて。はあ、佳作だ」
「うん」
「私のは特選だったよ」
悪意があったのかどうか分からない。姉はいつも事実を言っているだけ、という顔をする。事実は事実なので、私は言い返す言葉を持たなかった。
2つ目は高校3年の秋のこと。私は担任に勧められて、県内の短大の指定校推薦を受けたいと思っていた。学費のことは分かっていたから、奨学金の書類まで自分で取り寄せた。夕飯の後、居間で父に切り出した。
「お父さん、私、進学したいんだけど」
父は湯を置いて、一呼吸だけ黙った。
「うちは上の娘からだ。霞が大学に行っている。同じ時に2人は無理だ」
「でも奨学金なら」
「借金だぞ。返せるのか」
母が台所から顔を出した。
「知夏は勉強向いてないでしょ。無理させても可哀想よ」
「可哀想ってどういう…」
「だって同じ土俵に上げられたら、あなたが辛いじゃない」
母は本気でそう思っていた。私を守っているつもりで言っていた。だからこそ、その言い方はどんな叱り方よりも深いところに刺さった。父が新聞を畳んで立ち上がった。
「働け。手に職をつけろ。その方がお前には向いてる」
「向いている」という言葉があの家で褒め言葉として使われたことは、1度もない。その日、書類は台所のゴミ箱に捨てられていた。父が捨てたのか母が捨てたのかは、今も知らない。聞かなかったからだ。
3つ目はもっと小さな話。うちでは夕飯後の皿を洗うのは私と決まっている。誰が決めたわけでもない。ただいつからか私が立つようになって、誰も変わらなかった。姉は食べ終わるとソファーに移る。母は姉の隣でテレビを見る。父は新聞を広げる。
「知夏、お茶」
「知夏、そこの灰皿」
呼ばれるのはいつも台所にいる私で、その台所から居間の笑い声だけがよく聞こえた。1度だけ姉に頼んだことがある。3年前の年末で、私が風邪で熱を出していた時だ。
「お姉ちゃん、今日だけお皿お願いできる?」
姉は画面から目を離さずに答えた。
「私、明日プレゼンなんだよね。うん、知夏は明日レジでしょ。座ってられるじゃん」
レジは立ち仕事だ。休憩まで1度も座らない日もある。それを姉は知らないし、知らないこと自体は悪いと思っていない。私はその夜も皿を洗って、洗い終わってから熱を測った。台所の窓に映る自分の顔を見て、この顔でここまで来たんだな、と思った。
前の年の暮れ、父の会社の人が家に来たことがあった。父は姉のことを長々と話した後、私を指してこう言った。
「下は、そのスーパーで働いています」
「えっと、駅前の」
「駅前ではない。桜井大の坂の上だ」
8年通っている店の名前を、父は1度も正しく言ったことがない。その後、父は姉が担当している商品が全国の何店舗に並んでいるかを、数字まで正確に言って見せた。
「上の娘は丸級食品でして、あのテレビでやってる即席麺の…」
「ああ、それは有名な」
客が帰った後、母が言った。
「知夏も、もう少し人に言える仕事だったらね」
私は台所で食器を洗っていた。水の音がしていたから、聞こえないふりができた。当時の私はそれを寂しいとは思わなかった。そういうものだと慣れてしまえば、痛みは記憶にならない。ただ、後になって、その「言えない」一言が私の人生を決めていたと知ることになる。
年が明けた1月のことだった。夕方、玄関のチャイムが鳴った。出て行くと、父の高校の2年先輩だという脇坂さんが立っていた。赤月ビルサービスという警備と清掃の会社で40年、総務の書類仕事をして定年まで勤めた人だ。今も頼まれて桜井の事業所へ週に何日か顔を出している。薄い茶封筒を両手で持っていた。
「知夏さんだね」
「はい」
脇坂さんは私の顔をしばらく見てから、封筒を胸の高さに上げた。
「お父さん、いらっしゃるかな?」
私が父を呼びに奥へ行っている間、玄関では2人が何か話していた。戻った時には父が脇坂さんを居間へ通すところで、脇坂さんはまだ封筒を持ったままだった。私は茶を出してすぐ台所へ戻った。その封筒には釣書の他に、熨斗のついた手紙が一通入っていた。その表に誰の名前が書かれていたのかを私が知るのは、1年後になる。
脇坂さんが帰った後、居間のテーブルには茶封筒が置かれたままだった。私が湯のみを下げに行くと、父がその封筒を手のひらで抑えた。表を見せないように自分の方へ向けたまま裏返した。
「これは霞のだ」
「うん」
「お前は関係ない」
「関係ない」と言われたものを、わざわざ隠す必要があるのだろうか。そう思ったけれど、口には出さなかった。父は封筒を新聞に挟んで自分の部屋へ持っていった。母は電話の受話器を握ってもう廊下に出ていた。
「そうなの?霞にね、お見合いの話が。ええ、先方も真面目な方だそうで」
声が弾んでいた。相手の名前も職業も、父からはまだ何も伝わっていないはずだった。それなのに母の中ではもう決まっていた。上の娘にいい話が来た。それだけで嬉しいのだ。
話が動いたのはその週の終わりだった。姉が仕事から帰ってきて、テーブルの上に広げられた紙を覗き込んだ。先方の釣書だった。見合いの前に、名前と生年月日と学歴と職業を書いて相手の家に渡す紙のことだ。
「へえ、36歳。高野直樹さん。真面目な青年らしいぞ」
父の声には滅多に出ない張りがあった。脇坂さんが太鼓判を押したのだという。姉がめくった。2枚目に職業欄がある。そこで姉の指が止まった。
「警備員」
居間の空気が一度止まった。母が皿を置く手を止めて姉の顔を見た。姉が紙の職業欄を指の背で叩いた。
「警備員って、あの道路で棒振ってる?」
「大きな商業施設の警備だそうだ。交通誘導もやってると」
「同じことじゃない」
姉が背もたれに体を預けた。紙が指先で弾かれて、テーブルの上を滑っていく。
「警備員、私、偏差値70の高校出て有名大学まで行ったのよ」
またその数字だ。姉はその数字を免許証のように持ち歩いている。財布から出せばどこでも通ると思っている。
「なんで私がそんな人と結婚しなきゃいけないの?」
母の声が大きい。
「大きくもなるよね。お母さん聞いた?警備だって」
母が困ったように笑った。困った顔をしながら否定はしない。
「まあ、堅い仕事ではあるけどね」
「堅いって言い方やめてよ。要するにお金がないってことでしょ」
姉が携帯を取り出して指を動かした。
「友達に送っとか。見合いで警備員だって」
「霞」
「冗談だってば」
冗談だと言いながら、姉は本当に送っていた。翌日、返信を読み上げて母と2人で笑っていた。笑い声の中に、会ったこともない人の職業だけが放り出されていた。私はその時、その人の顔も声も見たことがなかった。それでもなぜか、自分が笑われているように聞こえた。
その間、釣書はテーブルの上に伏せられたままだった。姉は職業の3文字で紙を置いて、それきり戻ってこなかった。その下には勤務先の欄がある。会社の名前が書いてある欄だ。姉はそこを読んでいない。私は伏せられた紙を裏返して、2枚目を元の向きに直した。
「赤月ビルサービス株式会社 桜井大事業所」
この前の夕方に封筒を持っていた脇坂さんが定年まで勤めた会社と同じ名前だった。同じ会社の人が持ってきた話なのだから、そういうものだろう。ビルの掃除と警備をする会社。私の中では、そのくらいの大きさの会社だった。
姉が父の方へ向き直った。
「お父さん、脇坂さんに悪いとか、そういうので話持ってきたんでしょ?私の一生の話だよ」
父は何も言い返さなかった。姉には言い返さない。それはこの家では地面が硬いのと同じぐらい当たり前のことだった。それでも父はその日だけは、1度だけ食い下がった。
「脇坂は悪い話は持ってこん男だ」
「1度会うだけでも、会ったら断りにくくなるじゃない」
「先方は『そのうちに』と言ってきてるんだ」
「じゃあ、お父さんが会えば」
姉が背もたれに体を投げ出した。父は口を開きかけてやめた。
「うちに、と言ってきてる」
後から思えば、父はこの時、言葉の途中で止まっていた。何を言いかけたのかを、私はその時考えもしなかった。母が茶を足しながら、こちらを見もせずに言った。
「じゃあ、知夏でいいじゃない」
私はその時、洗い終わった皿を布巾で拭いていた。手が止まった。父が新聞から目を上げた。
「お前には堅実な人の方が合ってる」
姉が声を上げて笑った。
「さあさあ、知夏にはお似合いじゃない?」
お似合い?その言葉の意味を、私はその夜布団の中で何度も裏返した。姉に釣り合わないから、私に釣り合う。この家では人の価値が上で並んでいる。いらないものが下に落ちてくる。私はその落ちてくる場所に、生まれた時から置かれている。
翌朝、母が台所で言った。
「知夏、あなたもう31でしょ。選べる年じゃないのよ」
「うん」
「霞はね、これから条件のいい話がいくらでも来るの。あの子にはその順番があるんだから」
順番?母はその言葉を悪気なく使った。悪気がないから直しようがなかった。それにしても、と思うことが1つあった。姉の断り方が早すぎたのだ。姉は普段、条件を並べて比べる人だ。年収がいくらで、家がどこで、親はどうでと、細かく数えてから結論を出す。それなのに今回は、職業欄の3文字を見た瞬間に終わっていた。年収の欄も、勤続年数の欄も、姉は読んでいなかったと思う。
そしてその週から、姉の帰りが遅くなった。夜の11時過ぎに玄関で、長い間電話をしている。声はほとんど聞こえない。ただ、切った後の姉の顔だけは、居間の明かりの下でよく見えた。あれは仕事の顔ではなかった。
「お姉ちゃん、遅かったね。営業、大変なの?」
「そっか」
「知夏にはわかんないでしょ」
分からない、で会話が終わる。この家では私の質問はいつもそこで止まる。
その日、私は店でずっとレジを打っていた。バーコードを通す音だけが、私の1日を数えていた。休憩室で君子さんに話すと、湯のみを持つ手が止まった。
「それ、知夏ちゃんは会うって言ったの?」
「言ってません」
「じゃあ、誰が決めたの?」
答えられなかった。夕方に帰ると、居間のカレンダーに丸がついていた。3月2日のところに、父の字で「ホテル11時」とだけ書いてある。
「お父さん、これ」
「先方に合わせてもらった。行きなさい」
「私、何も」
「向こうも会うと言ってるんだ。断るは失礼だろ」
「お姉ちゃんが断ったから、私に回ってきたんだよね」
父が新聞を下ろした。目だけが動いた。
「そういう言い方をするな」
「事実だよ」
「事実でも言うな。家の中の話だ」
家の中の話。この家では、事実は口に出した時点で行儀の悪いことになる。
翌日、玄関先で父と脇坂さんが立ち話をしているのを見た。脇坂さんは何か言いかけて、父に肩を叩かれて黙った。帰り際、私と目が合うと、脇坂さんは帽子を取って会釈をした。父の高校の先輩が、娘の私に会釈をする理由が思い当たらなかった。先方の顔も、どんな声で話す人かも、私はまだ知らなかった。見合いの日取りだけが、私のいないところで決まっていた。
3月2日、駅前のホテルの1階に、天井の高いラウンジがある。私はその日、母に借りた紺のスーツで10時20分にそこへ着いた。40分も早く着いてしまったのは、家にいたくなかったからだ。出がけに母が言った言葉がまだ耳に残っていた。
「先方に霞のことは言わなくていいからね。断られた話だなんて、恥ずかしいでしょ」
恥ずかしい。誰が誰に対して恥ずかしいのかを、母は説明しなかった。
11時ちょうどに、その人は来た。紺のジャケットに白いシャツ。背は高いけれど、姿勢は前に出ていない。テーブルの前で足を止めて、まっすぐこちらを見た。
「瀬川知夏さんですか?」
「はい」
「高野直樹です。今日はありがとうございます」
座る前に深く頭を下げた。頭を下げるのに慣れている人の下げ方だった。向かい合って座ると、ウェイターが水を持ってきた。直樹さんは受け取りながら顔を上げて礼を言った。
「ありがとうございます」
その一言に、私はなぜか驚いた。うちでは誰かが何かをしても、声は出ない。台所から出てくる皿は、黙って減っていくものだった。
最初の30秒はどちらも黙っていた。何を言えばいいのか思いつかなかった。父からは「相手の話をよく聞け」としか言われていない。先に口を開いたのは直樹さんの方だった。
「すみません。本当に申し訳ないと思っています」
私はカップに伸ばしかけた手を止めた。
「あの、どうして高野さんが謝るんですか?」
直樹さんは一言置いてから、まっすぐ答えた。
「身代わりでここに来させられたんですよね」
心臓が音を立てた。誰も言っていないはずだ。母は「知夏でいい」と言った。父も脇坂さんも、そんなことを話すはずがない。それなのにこの人は、最初からそれを知っている顔をしていた。
「どうして、そう思うんですか?」
直樹さんは内ポケットに手をやった。何かをつまみかけて、そのまま指を戻した。
「今日は、その話はやめておきましょう。今日はあなたの話を聞きに来たので」
私は何も返せなかった。その人はそれ以上話をしないで、代わりにこう言った。
「嫌なら、断ってください」
「断っていいんですか?」
「もちろんです」
そして、もう一度はっきりと。
「僕は、誰かの代わりと結婚したいわけじゃありません」
言葉が体の内側に落ちた。31年生きてきて、私はいつも誰かの代わりだった。姉の代わりに皿を洗い、姉の代わりに親戚の相手をし、姉がいらないと言った縁談の行き先になった。誰かの代わりであることが、私の役目だと思っていた。その役目を、初めて他人が否定した。しかも私を守るためではなく、その人自身が嫌だという理由で。
「高野さん、私のこと、姉の妹だと思って会いに来たわけじゃないんですか?」
直樹さんは首を横に振った。
「1度も思ってません。でも、話は元々姉に…」
「瀬川さん」
苗字で呼ばれた。それだけのことなのに、背筋が伸びた。
「今日ここに座っているのはあなたです。僕が話したいのも、あなたです。それでいいと思っています」
それから1時間、私たちは大した話をしなかった。直樹さんは桜井台ショッピングセンターで警備の仕事をしていること。朝は7時から立つ日があること。雨の日は視界が悪くなるので、車も人も動きが読みにくいこと。
「危なくないんですか?」
「危ないですよ。だから、立ってます」
真面目な顔でそう言うので、私は思わず笑ってしまった。笑ったのが久しぶりで、自分で驚いた。
「瀬川さんは、どんなお仕事?」
「スーパーです。レジと品出し」
「フレッシュマートの桜井の店ですか?」
「はい」
私は水のグラスを持ったまま止まった。店の名前を言われたのは初めてだった。父にも母にも姉にも、1度も正しく言われたことのない名前だった。その名前は、その日あったばかりの人がもう知っていた。
「ご存知なんですか?」
「近いので」
それだけ答えて、直樹さんは水を飲んだ。
その時、鞄の中で携帯が鳴った。画面に母の名前が出ている。出ないでいると切れて、また鳴った。
「どうぞ、出てください」
「いえ、大丈夫です」
3度目で私は席を立って廊下に出た。
「どうなの?まだいるの?」
「まだ話してる」
「長いわね。断られたなら、早く帰ってきなさいよ」
「うん」
「あまり自分から喋らないでね。喋ると、余計に…」
そこで切った。切ってしまってから、自分の息を吐く音を聞いた。席に戻ると、直樹さんは何も聞かなかった。ただ、私の前に新しいカップが置かれていた。
「頼んでおきました。冷めていたので」
「ありがとうございます」
「瀬川さんは、休みの日は何をされるんですか?」
休みの日?答えが出てこなかった。洗濯をして掃除をして、実家の買い物をして、それで1日が終わる。好きなことを聞かれたのが、多分10年ぶりだった。
「すみません。思いつかなくて」
「じゃあ、次までに考えといてください」
「次」と言われた。断ってくださいと言った人が、次の話をしている。私はその矛盾が嬉しくて、しばらく顔を上げられなかった。
別れ際、駅の改札の前で直樹さんはまた頭を下げた。
「今日のことは、僕から脇坂さんに話しておきます。断られても、ご迷惑がかからないようにします」
「はい」
「もう1度だけ、会っていただけますか?」
自分の声だった。自分でも驚いた。直樹さんは目を丸くしてから、ゆっくり頷いた。
「はい。是非」
その夜、帰る前に店に寄って君子さんに話した。休憩室の同じ席で、君子さんは湯のみを両手で包んでいた。
「その人、なんて言ったって?」
「誰かの代わりと結婚したいわけじゃないって」
君子さんはしばらく黙ってから、湯のみを置いた。
「知夏ちゃん。それね、多分この町で1番贅沢な言葉よ」
帰宅すると、母が待ち構えていた。
「どうだったの?」
「ちゃんと愛想よくした」
「うん」
「先方が断るなら、早い方がいいわ。霞の話が動く前に片付けたいのよ」
私はその夜、布団の中で1つのことだけを考えていた。あの人は、私を誰とも比べなかった。
見合いを入れて5月までの間に、私たちは4度あった。2度目は3月の半ば、川上の河川敷を歩いた。直樹さんは中古の軽自動車で迎えに来た。白い車で、助手席のドアの下のところに小さな傷があった。
「すみません。狭くて」
「私、車持ってないので分かりません」
「10年落ちです。よく走ります」
乗り込むと、シートの上に折りたたんだタオルが置いてあった。
「これは、夏に使うやつです。首に巻くと違うので」
現場の話をする時、その人は声が明るくなった。河川敷の土手を歩きながら、私は聞いた。
「どうして警備のお仕事を選んだんですか?」
直樹さんは前を見たまま答えた。
「祖父に言われました。人を使う前に、1番下の現場を知れって」
「おじい様、厳しい方なんですね」
「厳しいです。でも、僕は自分でやると決めました」
「大変じゃないですか?」
「夏は倒れそうになります。冬は足の指の感覚がなくなります」
「じゃあ、嫌ですよね」
「いえ」
直樹さんは立ち止まって、川の方を向いた。
「1日終わって、事故が1件も起きなかった日は、ちゃんと嬉しいんです。誰も僕がいたことを覚えていませんけど、それでいいんです」
私はその横顔を見ていた。うちの家族なら、この話を聞いても意味が分からないだろう。覚えられてないのなら、やっても同じだ、というはずだ。
「私も似てるかもしれません」
「はい?」
「レジって、間違えなかった日は誰も何も言わないんです。間違えた日だけ、言われます」
直樹さんが振り返った。
「同じですね」
その時、初めてこの人とは同じ側に立っていると思った。
3度目は4月の初め、駅前の定食屋に入った。会計を済ませた年配のお客さんが席を立つ時、直樹さんは自然に椅子を引いて道を開けた。会計の時には、下げに来た店員さんに顔を上げて言った。
「ごちそうさまでした。おいしかったです」
店員さんが驚いた顔をしたのを、私は見ていた。驚かれるくらい、それは珍しいことなのだ。店を出たところで、荷物を持った年配の女性が段差でよろけた。直樹さんは一歩で横に入って、片手で荷物を受けた。
「待ちます」
「あら、いいのよ。すぐそこだから」
「すぐそこまで、待ちます」
戻ってくるまで2分もかからなかった。その間、直樹さんは1度もこちらを振り返らなかった。見せるためにやったのではない、という証拠が、その背中にあった。
「高野さんって、誰にでもそうなんですね」
「そうですか?」
「はい」
「僕の仕事は、立ってると誰にも見えないので」
どういう意味ですか、と聞くと、直樹さんは水の入ったコップを見たまま答えた。
「駐車場で1日誘導灯を振ってても、その日僕の顔を見た人はほとんどいません。車の中から見えるのは、腕と明かりだけです」
「はい」
「でも、たまに窓を開けて『ありがとう』っていう人がいるんです。年に何人か」
「その人たちのこと、覚えてるんですか?」
「全員覚えてます」
私はその答えを、しばらく飲み込めなかった。
4度目は5月の連休の後で、ショッピングセンターの中の喫茶店に入った。窓から駐車場が見下ろせる席で、直樹さんは下を指した。
「あそこの出口が1番危ないんです」
「どうしてですか?」
「歩いてくる人が、車から見えないので」
「じゃあ、高野さんはいつもあそこに立ってるんですね」
「雨の日は特に」
その日は本当に雨で、下では黄色い雨具の人が誘導灯を振っていた。直樹さんの同僚だという。
「あの人、班長の元橋さんです。68歳」
「68?」
「僕が1番怒られてる人です」
「高野さんでも、怒られるんですか?」
「毎日です。声が小さい。立ち方が浅い。無線が長い」
「厳しい方なんですね」
「あの人には、最初の現場の時から叱られてます。ご自分は現場一筋の人です」
そう言って笑った顔を見て、私は自分の中で何かが動いたのが分かった。
「高野さん」
「はい」
「私、聞いてもいいですか?」
「どうぞ」
「どうして、私だったんですか?」
直樹さんはカップを置いた。答えるまでに、いつもより長い間があった。
「話したいんですが、今はやめておきます」
「また、それですか?」
「すみません」
「隠し事ですか?」
「隠すというより、順番があると思っていて」
順番。その言葉を、私はこの人の口から聞きたくなかった。うちで毎日聞かされている言葉だったからだ。私の顔に出ていたのだろう。直樹さんは慌てて言い直した。
「言い方が悪かったです。今日言ったら、あなたが誰かに何かを証明しなきゃいけなくなる。それが嫌なんです」
意味が取れなかった。取れないまま、その言葉だけが引っかかって残った。この人は自分より下の人を作らない。誰かを踏み台にして自分の位置を測ることをしない。私の家に1番足りないものが、この人にはあった。だから、その次の週に起きたことが一層応えた。
5月の半ば、店が1番混む夕方のことだった。私は3番のレジに立っていた。列が7人ほど並んでいて、私の手はほとんど機械のように動いていた。その列の後ろから、聞き慣れた声がした。
「ああ、いた」
姉だった。仕事らしく、会社の名札を首から下げたままだ。買い物かごに入っているのは炭酸水と菓子だけ。列を無視してレジの脇まで来た。
「知夏」
「ちょっと、お姉ちゃん、今仕事中だから」
「1分でいいって」
後ろの人が動いた。私は手を止めずに次の商品を通した。
「あのさ、お母さんが言ってたんだけど、あの警備員の人と会ってるの?」
声を落とす気配が全くない。列の全員に聞こえていた。3番のレジのすぐ後ろでは、君子さんが袋詰めの台に立っていた。
「今は仕事中だから」
「別にいいじゃん。レジなんて誰でもできるんだし」
かごの中の炭酸水を、姉が台に置いた。置き方が乱暴で、瓶がぶつかる音がした。
「ねえ、知夏」
「うん」
「一生ここでレジ打ってるの?」
時間が止まった。音は止まらなかった。バーコードを通す電子音も、後ろの人の咳払いも、空調の音も鳴っていた。それなのに、耳の中だけが静かになった。その言葉を、私は前にも聞いたことがあった。3年前だ。店が改装していて駐車場が半分潰れて、毎日どこかで工事の音がしていた夏。あの時も姉は同じ場所に立って、同じことを言った。覚えているのは、その日私が言い返さなかったからだ。言い返さなかった日のことばかり、人は覚えている。
「お会計680円です」
「無視しないでよ」
「680円です」
姉は財布から1000円札を出して、台に投げるように置いた。私は釣りを数えて、レシートと一緒に姉の手のひらに乗せた。
「お待たせしました」
「あっそ」
姉はレジ袋を待たずに歩き出した。2歩進んで、振り返った。
「ああ、それいらない。持って帰るの重いし」
炭酸水と菓子の入った袋が、私の横の台に置き去りにされた。姉はもう出口を出ていた。列の人たちは何も言わなかった。サービスカウンターの受話器を君子さんが取ったのが、目の端に見えた。店長を呼んだのだと分かったけれど、浜口店長が売り場の端から早足で来た時には、姉はもう自動扉の外だった。誰も姉を止めなかった。列の人たちも、私には何も言わなかった。ただ、次の商品が台に置かれる時だけだった。何も言わないことが1番応えるということを、その日知った。
4人目の会計を通したところで、指が止まった。バーコードが読めない。2度、3度と滑らせても音が鳴らない。
「すみません。少々お待ちください」
声が自分の声に聞こえなかった。
「知夏ちゃん」
君子さんが袋を持ち上げた。
「これ、休憩に置いとくよ」
「はい」
「あんた、手震えてる」
「大丈夫です」
「大丈夫って。あんた、その言葉しか持ってないの?」
君子さんは怒っていた。私にではなく、多分姉に。誰かが私の代わりに怒るのを見たのは、それが初めてだった。
その日の閉店後、浜口店長がレジの台を拭きながらこちらを見に来た。
「瀬川さん」
「はい」
「お客さんの前であれだけ我慢できる人は、なかなかいない」
「すみません」
「謝ることじゃない。褒めてるんだ」
店を出ると、外はもう暗かった。坂を下りながら、私は自分の手のひらを見た。まだ震えていた。姉のことが憎いのではなかった。腹が立ったのは、私自身にだ。3年前もその日も、私は同じ場所に同じ顔で立って、同じように黙っていた。3年経って、何も変わってなかった。
家に帰らずに、私は途中の公園のベンチに座った。街灯の下で携帯を取り出して、3月から1度もこちらからかけたことのない番号を押した。お世話になるのは、この人にまであの家の話を聞かせることになる。その夜、私は震える指でその番号を押した。呼び出し音が3回鳴って、その人が出た。
「もしもし」
「あ、あの、瀬川です。夜遅くにすみません」
「いえ、どうしました?」
「どうしました」と聞かれた瞬間に、堪えていたものが全部出た。公園のベンチで、私は自分でも驚くほど泣いた。何を言っているのか、自分でも分からなかった。姉のこと、レジのこと、3年前も同じだったこと。直樹さんは途中で1度も口を挟まなかった。相槌も打たなかった。ただ、電話の向こうで確かに聞いていた。泣き終わってから、私は謝った。
「すみません。こんな話」
「今、どこにいますか?」
「桜井大の坂の途中の公園です」
「15分で行きます」
「え?」
「動かないでください」
本当に15分で、白い軽自動車が来た。直樹さんは制服のままだった。紺の上着に、胸に名前の入った名札。仕事上がって、着替えもせずに来たのだと分かった。そのことで元橋さんに叱られたのだと、後になって聞いた。制服で使用の場所に立つな、と。
車から降りて、ベンチの前に座って直樹さんは言った。
「送ります。家じゃなくていいなら、どこでも」
私は首を横に振った。
「ここでいいです」
「はい」
そのままベンチの端に座って、しばらく2人とも黙っていた。街灯に虫が集まっていた。直樹さんが膝の上で手を組んだ。
「1つだけ言っていいですか?」
「はい」
「今日のことは、瀬川さんが悪いんじゃありません」
「でも、言い返せなかったのは私です」
「言い返さなかったんじゃなくて、言い返せない場所に立たされてたんだと思います」
「同じことです」
「違います」
直樹さんはそこだけはっきりと言った。
「3番のレジは、あなたの持ち場です。持ち場に立っている人は、そこでは言い返しません。客の前だからです。それを分かってて来たなら、来た方が悪いです」
その言い方は、警備の人の言い方だった。その言葉を、私は自分の仕事に使ったことがなかった。ただのレジだと思っていた。
「私、あそこを持ち場だと思ったこと、なかったです」
「じゃあ、今日から思ってください」
それきり2人とも黙った。虫の音だけがしていた。その沈黙を破ったのも、直樹さんの方だった。
「瀬川さん、前にも言いましたけど」
「はい」
「ご家族に言われたからという理由で、結婚する必要はありません。今からでも断って構いません。僕は脇坂さんにきちんと説明します」
私はその時、はっきり分かった。この人は最後まで私に逃げ道を用意しようとしている。逃げ道を用意する人は、私の人生でこの人だけだった。
「違います」
「え?」
「最初はそうでした。家に言われたから来ました。はい。でも、今は違います」
言葉が勝手に出てきた。
「今は、私が直樹さんと結婚したいです」
虫の音が聞こえた。それくらい長い間があった。直樹さんは膝の上で手を組んだまま、まっすぐ前を見たまま言った。
「僕で、いいんですか?」
「直樹さんが、いいんです」
その人は1つ息を吸って、頭を下げた。
「ありがとうございます。大事にします」
それだけだった。指輪も、誓約の言葉も、日の入った言葉もない。それなのに、私はその夜のことを一生覚えていると思った。
両親に報告したのは6月の頭だった。夕飯の後、皿を下げる前に、私は立ったまま言った。
「お父さん、お母さん、高野さんと結婚しようと思います」
父が新聞を下ろした。母が口を開いた。
「あっそ」
母の言葉はそこで終わった。おめでとう、は最後まで出てこなかった。
「向こうのご両親は、いつ挨拶に来られるの?」
「お仕事で海外にいらっしゃるそうです。秋になったら戻られると聞いてます」
「まあ、海外に単身赴任。大変ね」
母の頭の中では、それは多分出稼ぎに近い言葉として処理された。父は腕を組んでしばらく考えてから言った。
「式はどうする?」
「まだ何も」
「派手にはできんぞ」
「はい」
「霞の時のために、こっちは取っておかないといかん」
私は父の顔を見た。父は目を合わせなかった。
「取っておくって」
「支度金だ。200万用意してある」
「200万?」
「霞はうちの顔だ。相手のご家庭もそれなりのところになるだろう。恥をかかせるわけにはいかん」
「お姉ちゃん、まだ結婚してないよね」
「これからだ」
「私の式は今年だよ」
「だから、身内だけでやると言ってる」
父の理屈は初めから順番でできている。上が先で、下はあまり。あまりはあまりらしく振る舞わなければならない。
「じゃあ、私の分は」
「お前のところは、その身内だけでやればいいだろう」
台所から母が続けた。
「そうよ。知夏のところは気楽でいいじゃない。帰って来て羨ましいわ」
気楽。その言葉を母は私が生まれてからずっと使ってきた。気楽な子、手のかからない子。いらないものを渡しても文句を言わない子。
翌日、母は近所の人に電話をしていた。廊下の声が台所まで届いてきた。
「ええ、下の子がね。ええ、そう。堅い勤務先なんですって。ええ、まあ、霞とは違いますけどね」
「違いますけどね」。その一言を母は電話の度に必ずつける。つけないと話が終わらないのだ。
「あと、知夏」
「うん」
「結婚しても、月3万は入れてちょうだいね」
手が止まった。
「え?」
「うちだって家計があるのよ。お父さんもこの秋で定年でしょ」
「あなた、8年入れてくれてたじゃない」
「でも、結婚したら家を出るのに」
「育ててもらった分でしょ。おかしなこと言わないで」
おかしなこと?自分の給料の使い道を自分で決めることが、この家ではおかしなことだった。そこへ姉が風呂から出てきた。髪にタオルを巻いたまま、冷蔵庫を開けてこちらを見た。
「何揉めてるの?」
「知夏が結婚するって」
姉が冷蔵庫を閉めた。そして笑った。
「へえ。本当に警備員と結婚するんだ」
「うん」
「すごいね。私だったら無理だな」
「嘘」
「うん。悪い意味じゃなくて、知夏ちゃんはそういうの気にしないでしょ。偉いと思う」
偉い。褒めているつもりの言葉が、1番深く刺さる。姉は多分一生、それに気づかない。
その週末、直樹さんに全部話した。定食屋の隅の席で、私は父と母の言葉をそのまま伝えた。伝えながら、恥ずかしくてたまらなかった。直樹さんは箸を置いて、少し考えてから言った。
「式は、2人でやりませんか?」
「2人で?」
「写真だけ撮って、あとは知夏さんの好きなものを食べに行く。それでもいいですか?」
「いいんですか?」
「僕は、豪華な式より知夏さんが笑ってくれればいいです」
「でも、直樹さんのご両親は」
「後で写真を見せます。それでちゃんと伝わります」
私はその日、自分から相手の手を握った。握ってから恥ずかしくなって離した。直樹さんは何も言わずに、代わりに水を注いでくれた。
翌日、休憩室で君子さんに報告した。
「結婚するんです」
君子さんは湯のみを置いて、私の顔をまじまじと見た。
「あの、『代わり』って言われた人?」
「はい」
「あんた、それでいいの?」
「良くないです。始まりは最悪です」
「うん」
「でも、決めたのは私です」
君子さんは黙って、それから急に立ち上がって休憩室の棚から缶詰を取り出してきた。
「お祝い。これしかないけど」
「ありがとうございます」
「知夏ちゃん」
「はい」
「あんた、ちょっと顔が違うよ」
その日店を出る時、浜口店長が事務所から顔を出した。
「瀬川さん、おめでとう」
「なんで?」
「中西さんが売り場中に言って回ってる」
家では誰も言わなかった言葉が、店では半日で全員に届いていた。
月3万円のことも話した。直樹さんは表情を1つ動かさずに聞いてから、こう言った。
「それは知夏さんが決めることです。僕は口を出しません」
「口を出してくれてもいいんですけど」
「出したら、僕が決めたことになります。それだと、また誰かに決められた人生になります」
言われて、息が詰まった。この人はずっとそこだけを見ている。私が自分で決めたかどうか、それだけを見ている。
その夜、「式場はどこがいいですか」と送った私に、直樹さんから短い返事が届いた。式場の候補を3つだけ並べた文で、1番下にこう書いてあった。
「どれも小さいところです。決めるのは知夏さんでお願いします」
私はその文を3度読み返した。
7月に入ると、母は急に張り切り出した。結納の準備だ。母にとってそれは相手の家を採点する場だった。
「向こうのご両親、どんな方なのか知らんね」
「お仕事は何をされてるの?」
「詳しくは聞いてません」
「聞きなさいよ。そういうのは先に聞いておくものよ」
結納の日を詰める段になって、直樹さんから連絡が来た。
「すみません。6月にお伝えした通り、両親はやはり秋まで戻れません。1日だけでもと頼んでみたんですが、現地を離れられないそうです」
父に伝えると、湯のみを持つ手が止まった。
「秋までというのは聞いておったが、1日もか」
「はい。頼むだけは頼んでくれたそうです」
「仕事だろ。娘の顔に、1日も都合がつかんのか」
母の方が先に結論を出した。
「向こうも、そういうご家庭ってことよ」
「そういうご家庭って、いいのよ、知夏。あなたが気にすることじゃないから」
気にすることじゃない、と言いながら、母はその後3日に渡って親戚に電話をした。電話の度に、相手の家がどれだけ礼を欠いているかを丁寧に説明していた。
結局、その席は7月の半ばに駅前の料理屋の小さな座敷で開かれた。瀬川側は父と母と私。姉は仕事と言ってこなかった。向こうは直樹さん1人。そして間に、脇坂さんが座った。脇坂さんは紺色の背広で、膝の上に手を置いて座っていた。父の高校の先輩だというのに、この席ではずっと下座にいた。
「本日は、わしが間に立たせていただいた。不束者をお詫びします」
「よせよせ。脇坂、お前が悪いわけじゃない」
父は上機嫌に見えた。相手の親が来ないという一点で、この席の上下関係がはっきりしたからだ。
乾杯の後、父が直樹さんに言った。
「高野君。うちはね、食品でね」
「はい」
「偏差値70の高校出てるんだ。あの県立のな」
直樹さんは頷いた。
「立派ですね」
「まあ、下でな。手のかからん子ではある」
私は膝の上でお絞りを畳んだ。畳んで広げて、また畳んだ。母が身を乗り出した。
「高野さんは、お仕事は何年目でいらっしゃるの?」
「警備は4年目です。同じ会社に、その前からおりました」
「あら、遅いお勤めなのね。その前は何を?」
「よその会社に7年おりました。その後、清掃と設備の管理を」
「掃除」
母の声がはっきりと下がった。
「まあ、色々やられたのね」
「はい。色々やりました」
直樹さんは卑下るでもなく誇るでもなく、そう答えた。箸を持つ手も、声も、全く変わらなかった。父が箸を置いた。
「高野君、失礼だが、その仕事はいつまで続けるつもりかね?」
「決まっていません」
「決まっていない?」
「今の現場が、まだ終わっていないので」
「終わるも何も、警備だろ」
父は笑った。母も笑った。笑いながら、2人は自分たちが何を言ったのか分かっていない。
「うちの知夏を、食わせてはいけるのかね」
「はい」
「2人で働けば、2人で」
「知夏さんは仕事を続けたいと言ってます。僕も、その方がいいと思います」
「女房に働かせるのか?」
「働かせるんじゃありません。続けるんです」
そこだけ、直樹さんの声が強くなった。父は鼻を鳴らして酒を飲んだ。その時、脇坂さんが顔を上げて父を名前で呼んだ。
「吉弘、あのな」
「うん」
「最初にお話をいただいた時は、そもそも…」
「脇坂」
父の声が1段だけ低くなった。座敷の空気が変わった。
「その話は、もういいだろう」
脇坂さんは口を開けたまま、そこで止まった。手にした猪口を置いた。
「そうだな。もういい」
母がすぐに話題を変えた。仲居さんを呼んで追加の注文をした。父は笑って直樹さんに酒を進めた。何事もなかったように、席は続いた。仲居さんが器を下げに来た時、直樹さんは自分の前の皿を重ねて、取りやすい位置に寄せた。脇坂さんが小さく礼を言った。父と母はその動きを見ていなかった。見ていたら、多分「気持ち悪い」と言った。この家では、人の手を煩わせないことは格好の悪いことなのだ。
座敷を出る時、父が私の耳元で言った。
「いい人じゃないか。お前には上等だ」
その言葉の意味を、私はもう考えないことにしていた。ただ、その後1度だけ、脇坂さんはこちらを見た。父ではなく、私を見た。何か言いたそうな目だった。言いたそうなまま、その人は最後まで何も言わずに帰っていった。
帰り道、直樹さんに聞いた。
「脇坂さん、何を言いかけたんでしょう?」
直樹さんは前を向いたまま、少し間を置いて答えた。
「僕からは、言えません」
「知ってるんですか?」
「知ってません」
「なんで、言ってくれないんですか?」
「今言うと、あの家の中で知夏さんの立場が悪くなるからです」
私は黙った。この人はいつも私の側に立つために黙る。それが分かるから、それ以上は聞けなかった。
その話が動いたのは、7月の終わりだった。店に丸級食品の営業担当が来た。小島ゆりさんという27歳の人で、月に2度売り場の棚を見に来る。
「ああ、瀬川さん。もしかして、法人営業の瀬川主任のご家族ですか?」
「妹です」
「やっぱり。苗字珍しいから」
小島さんは棚のケースを直しながら、世間話のように続けた。
「主任、今どうされてます?」
「どうって?」
「ああ、いえ、春先にちょっと大変そうだったので」
私は缶詰の列を揃える手を止めた。
「大変って?」
小島さんは言ってから、失敗したという顔をした。それでも、もう半分は出ていた。
「その、社内の方と長かったみたいで。2年くらい」
「社内の方?」
「うちの営業の、もう移動されましたけど」
初耳だ。
「あ、私、余計なことは…。大丈夫です。誰にも言いません」
小島さんは棚の前で頭を下げて、それから小さな声で付け足した。
「主任、いい人ですよ。仕事はすごくできるし。ただ、ご家族の話をされる時、いつも妹さんのことを…」
「私のこと?」
「ああ。いえ、すみません。余計なことを」
小島さんはそれきり口をつぐんで、伝票を書いて帰っていった。その言葉が、私の中で音を立てて何かにぶつかった。1月のことを思い出した。姉が釣書の職業欄を見て、3文字で紙を弾いた日。その週から、夜遅くまで玄関で電話をしていた日々。切った後の、あの顔。姉が断ったのは、警備員だったからじゃない。断る理由が、他にあったのだ。ただ、それを親に言えなかったから、1番言いやすい理由を選んだ。職業、学歴、年収。この家で1番通りがいい言い訳を、姉は選んだのだ。そして両親はその言い訳をそのまま信じて、いらないものとして私に回した。
レジの前で手を止めたままの私に、通りがかった浜口店長が声をかけた。
「瀬川さん」
「ああ、すいません。なんでもないです」
その日、私は仕事の間中同じことを考えていた。私は姉の代わりにされたと思っていた。でも、本当は姉の嘘の代わりにされたのだ。その時の私は、それで辻褄が合ったつもりでいた。が、もう1段ひっくり返るのを知るのは、半年後になる。
その日の休憩時間、私は君子さんにだけ話した。
「お姉ちゃん、多分、別の理由で断ってたんです」
君子さんは湯のみを持ったまま、しばらく天井を見ていた。
「知夏ちゃん、それを、お母さんに言う?」
「言ったら、どうなると思います?」
「姉妹なんだからって言われて、終わりですよね」
「まあ、そうだろうね。あの手の親はね、都合の悪い事実は聞こえないようにできてるの。耳がそういう風にできてんのよ」
君子さんは要冷を切って、半分を私に渡した。
「でもね、知夏ちゃん、それ、覚えておきなさい」
「覚えて、どうするんですか?」
「どうもしない。ただ、いつか誰かが同じ話を持ち出した時に、あんただけが本当のことを知っている。それだけで、あんたの立つ場所が変わるから」
夜、実家に寄って居間の父を見た。父は野球中継を見ていた。言おうと思えば言えた。お姉ちゃんが断った理由は違うよ、と。でも、言えば母はきっとこう言う。「知夏、そういうことを言うのはやめなさい。姉妹なんだから」。だから、何も言わなかった。その代わりに、私の頭には別のことが引っかかったままだった。あの座敷で、脇坂さんが父ではなく私の顔を見たのは、なぜだったのか。
式は8月の終わりにした。市内の写真館の2階に、小さな式場が併設されている。衣装と写真と簡単な誓いの言葉だけで18万円。全部で2時間もかからない。
「本当に、ここでいいんですか?」
「私が選びました」
「なら、いいです」
直樹さんは費用を全部払った。私が半分出すと言うと、首を横に振った。
「ここは僕に出させてください。1つくらい、格好をつけたいので」
当日、両親は来た。姉は来なかった。
「霞、出張だって」
母はそう言ったけれど、その日の夕方に姉が友達と食事をしている写真を、後で母の携帯で見せられた。見せながら、母は何も言わなかった。控え室で、母は私の白い衣装を上から下まで見て、こう言った。
「レンタルね」
「まあ、写真だけなら、これで十分や」
父は腕時計を気にしていた。
「何時に終わるんだ?」
「1時間くらいだったと思う」
「そうか。夕方に用があるんだ」
写真を撮る段になって、カメラマンさんが父を呼んだ。
「ご家族も、ご一緒にいかがですか?1枚だけでも」
父が手を振った。
「いや、いいよ。そういうのは、霞の時にな」
母も笑って断った。
「そうよ。今日は2人の記念でしょ」
私は白い衣装のまま、その場に立っていた。何か言いたかったけれど、口を開くと涙が出そうだったからやめた。その時、直樹さんが前に出た。
「では、僕たち2人で撮ります。カメラマンさん、よろしくお願いします」
そして、私にだけ聞こえる声で言った。
「知夏さん、今日の写真は、後で何度も見ることになります。だから、今だけは笑ってください」
私は笑った。ちゃんと笑えたかどうかは、分からない。
誓いの言葉は、紙に書かれた短いものだった。司式の人が読み上げて、私たちが順番に答える。それだけの手順だ。
「病める時も健やかなる時も、支え合うことを誓いますか?」
「誓います」
直樹さんの声は大きくなかった。それでも、部屋の隅まではっきり届いた。私の番になって、声が出るか心配になった。
「誓います」
出た。自分の声だと分かる声が出た。撮影が終わった後、写真館の年配の女性が私の裾を直しながら言った。
「お客さん、今日1番いい顔してましたよ」
「そうですか」
「神父さんが、旦那さんを見る顔がね、こんなにはっきりするのは久しぶり」
私はその言葉を、家族の誰からももらえなかった祝いの言葉として受け取った。両親は写真を1枚も撮らずに、40分で帰った。
その日の夕方、私たちは駅前の定食屋に行った。3度目に会った店だ。直樹さんはいつもの唐揚げ定食を頼んで、私は迷ってから同じものを頼んだ。
「結婚式の日に、唐揚げですね」
「贅沢な日です」
「そうですか」
同じ唐揚げが2人分並んでいます。その一言で、私は泣いた。店の人が驚いて、水を持ってきた。
役所へ婚姻届を出したのは、その3日後だった。9月から、桜井台の駅の反対側にある、2部屋に台所のついたマンションで暮らし始めた。家賃は7万8000円。エレベーターがなくて、3階まで階段を登る。直樹さんは朝の6時に出ていく。紺の制服に着替えて、名札を胸につけて、玄関で靴のかかとを合わせる。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
私は早番の日は8時前に家を出て、坂を上がって店に行く。品出しをして、10時の開店からレジに立つ。遅番の日は、帰るのが夕方になる。帰ると、直樹さんが先に帰っている日がある。台所に立って、鍋をかき混ぜている背中がある。
「ああ、お帰り」
「え、私が作りますよ」
「今日は僕の方が早かったので」
「でも」
「知夏さん、今日、大変でしたか?」
その質問を、私は生まれてから1度もされたことがなかった。その日、大変だったか?誰も聞かなかった。皿の数は減っていたのに、誰も聞かなかった。
「大変でした」
「そうですか」
「レジの機械が2回止まって、その度に謝りました」
「それは、大変です」
それだけの会話で、私はその日1日を終わらせることができた。家に帰るのが楽しみだ。そんな感覚は、31年生きてきて初めてだった。
最初の給料日、私は困った。8年間、給料日は封筒から3枚を抜いて実家に置くところから始まっていた。抜く分は変わらない。それなのに、残りをどう使うかを自分で決めていいと言われると、その金額が急に大きく見えた。
「これ、どうしましょう?」
「知夏さんのお金です」
「でも、家のお金にしないと」
「家のお金は、僕が入れます。知夏さんの分は、知夏さんが決めてください」
「決め方が、分かりません」
本気でそう言った。冗談ではなかった。直樹さんはしばらく考えて、台所の引き出しからノートを1冊出してきた。
「じゃあ、書きましょう。使ったものと、残った額を」
「家計簿ですか?」
「2人分の家計簿です。2人で書きます」
その夜から、私たちは1冊のノートを台所に置くようになった。私は青いペン、直樹さんは黒いペン。ページの右上に、その日の天気を書く。それが直樹さんの癖だった。
「なんで天気を書くんですか?」
「現場の時の癖です。雨の日は、事故が増えるので」
そのノートに、私は初めて自分の欲しいものを書いた。3200円の靴下と、1800円の本。書いてから、顔が熱くなった。
「これ、無駄遣いですよね」
「ノートに残ってるだけで、立派です」
君子さんには、休憩室でその話をした。
「へえ。うちの旦那なんか、財布の中身も見せないよ」
「私も、8年、給料の中身を自分で決めたことがなかったです」
「せ、じゃあ、今からね。31からでも遅くない」
「はい」
「知夏ちゃん、最近ちょっと太った」
「え?」
「顔がね、前は削れてた」
ただ、その暮らしの中に、小さな引っかかりが増えていった。1つは、週に2度、直樹さんがスーツで出かけることだ。
「今日は、お仕事じゃないんですか?」
「本社の方に、少し用があって」
「本社って、直樹さんに頼むところなんですか?」
「向こうから、頼まれることがあるんです」
それ以上は聞かなかった。2つ目は、本棚だ。2階の部屋の窓際に、直樹さんの本棚がある。並んでいるのは、私が見たことのない背表紙ばかりだった。経営の本、会計の本、人の使い方の本。分厚くて、付箋がたくさん張ってある。
「難しそうな本ですね」
「勉強しないと、上の人と話が通じないので」
「上の人?本社の方です」
「本社って、警備の会社の」
「はい。赤月ビルサービスです」
その名前は知っていた。1月に釣書の2枚目で読んだし、毎朝夫の名札で見ている。ビルの掃除と警備をする会社。桜井大事業所。直樹さんの答えはそれだけだった。本社が何をする場所なのか、私はそこから先を聞かなかった。3つ目は、電話だ。夜に直樹さんの携帯が鳴ると、その人はベランダに出る。話し方が変わる。低くて短くて、確認するような話し方に変わる。切って戻ってくるまでの間が、いつも数秒だけ長い。深呼吸をしているのが、ガラス越しに分かった。
決定的だったのは、10月の初めのことだった。私は休みの日に、桜井台ショッピングセンターへ買い物に行った。その建物に入るのは5月に喫茶店で会って以来で、1人で入るのはそれが初めてだった。1階の出入り口の脇に、紺の制服の人が立っていた。年配の男性だ。直樹さんが話していた班長の元橋さんだと、名札で分かった。
「あの、すいません。高野の嫁です」
元橋さんは背筋を伸ばして、帽子に手をやった。
「これはこれは、奥さん。いつもお世話になっております」
「こちらこそ」
「あいつは真面目です。警備に入って4年。途中の2年はよその現場に出ておりましたが、こっちへ戻ってからは、この現場を離れません。近頃は本社に呼ばれる日があるようですけど、何の用かは、自分らは知らされません」
「4年…」
「休みもあまり取りません。若いのに珍しいです」
「あの、うちの人、どんな感じですか?仕事の時」
元橋さんは白い眉を動かして笑った。
「叱られてばかりです。叱っとるのは、自分です」
「そうなんですか」
「声が小さい、立ち方が浅い、無線が長い。毎日言うてます。よく続きますね」
「続きますよ。あいつは、言われたことを次の日にちゃんと直してきます。あれができる若いのは、滅多にいません」
元橋さんは駐車場の方へ目をやった。
「あそこの出口はね、危ないんです。持ち場を変わるのは自分ですが、あそこだけは、本人が譲りません」
持ち場。その言葉をまた聞いた。私は礼を言って、その場を離れた。おかしいと思った。本社というのは、現場の警備員を週に2度も呼びつけるところなのだろうか。呼ばれているのは、本当に警備員としてなのだろうか。夜、洗濯物を畳んでいる時、そのスーツを手に取った。シワの寄り方が、休日に着るものの寄り方ではなかった。座って、立って、また座る人のシワだった。ノートに並んでいるのは、2人が使った分の数字だけだった。家に入れるお金は直樹さんが出すと決まっていて、その額を書く欄はどこにもない。この人の給料の額は、1度も見たことがなかった。聞けばいい。聞けば済む話だ。それなのに、私は聞かなかった。理由ははっきりしている。聞いて答えが返ってきたら、この人にも私に言えない事情があると決まってしまう。決まってしまえば、私はまた「知らされてない側」の人間になる。31年、私は自分から確かめてしたことが1度もなかった。進路の時は、聞いた末に「働け」と言われた。賞状の時は、聞くことさえできなかった。だから、確かめないことが私の身の守り方になっていた。今の暮らしが心地いいほど、確かめるのが怖かった。その夜、直樹さんの服から、うちにはない匂いがした。初めて聞く、知らない建物の匂いだった。
話は9月に戻る。その月の給料日、私は封筒から抜いた3万円を実家へ持っていった。「結婚しても入れてちょうだいね」。6月に母がそう言ったからだ。断る言葉を、当時の私はまだ持っていなかった。封筒を台所の棚に置くと、母は中も確かめずに言った。
「置いといて」
それだけだった。8年、同じやり取りを続けてきた。ありがとうも、助かるも、1度もない。「置いといて」だけがある。帰りの電車で、私はその封筒のことを考えていた。あの3万円は、どこへ行っているのだろう?
10月の半ばに、母から電話が来た。
「知夏、ちょっと相談があるんだけど」
「相談」という言葉を、母は「要求」の意味で使う。8年、その使い方しか見たことがない。
「霞の式の積み立てをね、始めようと思って」
「お姉ちゃん、まだ結婚してないよね」
「これからよ。用意しておかないと、いざという時に困るでしょ」
「うん」
「それでね、今まで入れてくれてた3万円。あれ?これからも続けてちょうだい。半分は、その積み立てに回すから」
6月に言われた時と同じ金額だった。違っていたのは、その3万円の行き先だった。
「それ、お姉ちゃんの式の積み立てに回すってこと?」
「回すも何も、家のお金でしょ」
「でも、8年入れてくれてたじゃない」
「急に0になったら、こっちの家が回らないのよ。お父さんも来月で定年だし」
「じゃあ、それは生活費ってこと?」
「まあ、そうね。半分は積み立てますけど」
私は台所に立ったまま、やかんの上を見ていた。湯が湧く音がしていた。
「ちょっと待ってください」
「なあに」
私は電話を耳から離し、台所の家計簿ノートを開いた。青いペンと黒いペンで埋まったページの、1番後ろの空欄に数字を書いた。3万円×12ヶ月×8年。書いてみると、288万円になった。その計算をしたのは、その時が初めてだった。8年間、毎月封筒を置きながら、私は1度も合計を出したことがなかった。合計を出すのが怖かったのだと思う。出してしまえば、自分が何をしてきたかが目に見えてしまう。これから先の半分が姉の積み立てに回ることは、たった今知った。それなら、8年分の私の3万円は、どこへ消えたのか。その行き先を、私は誰からも教わっていない。母が言っていた姉の支度金は200万円。私が入れた金は288万円。2つを並べた瞬間に、腹の底が冷たくなった。
「お母さん」
「なあに」
「出しません」
電話の向こうが黙った。やかんが鳴り始めた。
「今、なんて?」
「3万円は、出しません」
「知夏、あなた、そういう子じゃなかったでしょ」
「そういう子でした。でも、もうやめます」
「結婚したら、急に強気になるのね。旦那さんに何か吹き込まれたの?」
「直樹さんは何も言ってません。この話、まだしてません」
「じゃあ、どうして?」
理由を言うのに、私は時間がかかった。言葉を探したのではない。声が震えないようにするのに、時間がかかった。
「お姉ちゃんの支度金は200万円で、私が8年で入れたのは288万です。私の方が多いです」
「何、それ?」
「計算しました。初めて」
「気持ちの悪い」
そう言って、母は電話を切った。30分後に、今度は姉からかかってきた。
「知夏、ちょっと。お母さん泣いてるんだけど」
「うん」
「何なの?急に金の計算とか、大人気ないよ」
「大人気ない。そうでしょ。家族相手にさ」
「お姉ちゃんは、いくら入れてたの?」
姉が黙った。
「入れてないよね」
「私は学費でお金かかってるから、その分ちゃんと働いて返してるようなもんじゃん」
「お姉ちゃんは、返してないよ。1円も返してないよね。私が8年で入れたのは288万」
「何、その数字?気持ち悪い」
気持ち悪い。母と同じ言葉だった。この家では、数えることは下品なことになっている。数えないから、いつまでも私の側だけが減っていく。
「まあいい。お母さんには、私から言っとくから」
姉が切った。その後、父からもかかってきた。父の電話は短かった。
「知夏、母さんを困らせるな」
「困らせてないよ」
「入れられないなら、入れられないでいい。ただな、言い方というものがある」
「言い方?」
「計算を持ち出すな。家族なんだから」
父はそう言って、切った。3人とも、私が並べた2つの数字について、多い少ないを言おうとはしなかった。比べてしまえば、どちらが多く出しているかがはっきりしてしまうからだ。
やかんの火を止めて、私はしばらく台所に立っていた。手が震えていた。5月にレジで姉に言われた日と同じ震え方だった。ただ、あの時と1つだけ違った。今度は、黙らなかった。その夜、直樹さんが帰ってきて、私の顔を見るなり言った。
「何かありました?」
「実家にお金を出さないって、言いました」
「そうですか」
「怒らないんですか?」
「僕が怒る話じゃありません。知夏さんが決めたことです」
それだけ言って、その人は台所に立って味噌汁を温め直した。しばらくして、背中を向けたまま付け足した。
「よく言えましたね」
その一言で、私はまた泣いた。この人の前で泣く回数が、この7ヶ月で人生の総数を超えていた。
店では、もう1つのことがあった。10月の終わり。休憩室で君子さんが茶を入れながら言った。
「知夏ちゃん、あんた、5月のあの日のこと覚えてる?」
「お姉ちゃんが来た日ですか?」
「そう。あの日ね、私、店長に言いに行ったの」
「え?」
「3番のレジで家族が来て、あんな言い方をした。あれは客じゃない。次に来たら、私が出るって」
私は湯のみを持ったまま、あの日のサービスカウンターを思い出した。
「あの時、受話器を取ってたの。それだったんですね」
「そう。中身までは言わなかったけどね。あんたが気に病むから」
「君子さん、私はね、あんたが我慢するのを見るのが嫌なの。我慢が上手な人ほど、周りは平気で甘えるんだから」
「私、あの日、名前呼ばれても何も言えませんでした」
「言えなくていいのよ、あの場はね」
君子さんは湯のみを両手で包んだ。
「言うのは、レジの外でやればいい。あんたはレジの中の人だから。中では黙るのが正しいの。私は外の人だから、外で言った」
「君子さんは、外の人じゃないですよ。同じ店の人よ」
「だから、守るの」
守る。その言葉を、自分に向けて言われたことはなかった。その時、休憩室の扉が開いて、浜口店長が入ってきた。手にシフト表を持っていた。
「瀬川さん、ちょうど良かった。ちょっと相談が」
「はい」
「来年から、夕方の時間帯責任者を置こうと思ってる」
時間帯責任者。店全体のレジ締めとパートの割り振りと、クレームの一次対応。時給も上がる。
「私にできますか?」
「できるかどうかを聞いてるんじゃない。やってみるかを聞いてる」
浜口店長はシフト表を机に置いた。
「瀬川さんは8年。自分のレジの金を1度も合わせ損ねてない。うちで1番正確だ。だから、店の締めもあなたに任せたい」
褒め言葉をまとめて言われたのは、その日が初めてだった。店長が並べ方を褒めてくれることは前にもあった。でも、それはその日その場のことだ。8年、私は1日ずつをやり過ごしてるだけだと思っていた。店長は、その1日を8年分数えていた。
「考えさせてください」
「もちろん」
「あの、店長」
「うん」
「私、うちでは何もできない子だと言われて育ちました」
浜口店長はシフト表を丸めながら答えた。
「うちの店の話をしてるんだ。よその家の評価は、関係ない」
帰り道、坂を下りながら私は自分の足元を見た。8年通った同じ坂だ。同じ坂なのに、その日は違って見えた。家に帰って、直樹さんに時間帯責任者の話をした。
「受けますって、言っていいですか?」
「もちろんです」
「時間が長くなるので、夕飯が遅くなる日が出ます」
「僕が作ります」
「毎日は無理ですよ」
「作れる日に作ります。それでいいでしょ」
「直樹さん」
「はい」
「私、今まで『やってみるか』って聞かれたことがなかったんです」
直樹さんは箸を止めて、そのまま少しの間黙っていた。
「聞かれてこなかっただけです。できないと決まったわけじゃありません」
その言い方が好きだった。この人は、慰める代わりに事実を言い直してくれる。
その数日後、母から連絡があった。11月の初めに、父の還暦祝いをやるという。声はもう、いつもの母の声に戻っていた。3万円の話は、一言も出なかった。
「2人できなさい。親戚も来るから、恥ずかしくない格好でね」
父の還暦祝いは、11月の上旬に実家で開かれた。座敷に折りたたみの座卓を3つ並べて、出前の寿司を取った。集まったのは10人ほどだ。父の妹の白井国江さんとその息子、母の従姉妹、近所の元同僚が2人。それに私と直樹さんは、1番端の座卓についた。父は赤いちゃんちゃんこを羽織って、まんざらでもない顔をしていた。母がその横で写真を撮っては、みんなに見せて回っていた。座敷に入ってすぐ、母は客を居間へ案内した。壁の前だ。賞状が7枚。作文コンクールが2枚、初等科が3枚、県の数学の大会。1番右に、高校の合格通知の写し。私が中学に上がった年から、1枚も動いていない並びだ。
「これ、全部霞なの。ほら、この高校ね、偏差値70なのよ」
「まあ、頭がいいのね」
「まあ、昔の話ですよ」
姉はそう言いながら、否定する気のない顔で壁の前に立っていた。直樹さんはその壁をしばらく見ていた。それから、小さな声で私に聞いた。
「知夏さんのは、どれですか?」
「ないです」
「ないんですか?」
「1枚、もらったことあります。壁には、出ませんでした」
直樹さんは何も言わずに、壁からゆっくり目を離した。その話し方が、私には見えた。何か覚えておく人の目の動かし方だった。
台所では、私が皿を出して母が寿司を並べていた。姉は座敷でお茶を飲んでいた。国江さんが台所を覗いた。
「霞ちゃんは、手伝わないの?」
母が笑った。
「あの子は器用だから、帰って邪魔なのよ」
器用。姉には「器用」という言葉が使われる。私には「向いていない」という言葉が使われる。同じ意味に見えて、あの家では正反対の値札だった。
乾杯の後、国江さんが私たちの方を向いた。
「知夏ちゃん、ご結婚おめでとう。式はあげたの?」
「はい。2人だけで」
「あら、そうなの」
「写真だけ撮りました」
「今時は、そういうのも多いわね」
国江さんは悪気なくそう言って、それから姉の方を向いた。
「霞ちゃんは、まだ?」
「まだですよ。仕事が忙しくて」
「あら、もったいない。霞ちゃんなら、いくらでも…」
母がすかさず割り込んだ。
「そうなのよ。上の子はね、条件のいい話が多すぎて選べないの」
その「多すぎて」の中に、1月の縁談が入っているのかどうか。私はその日、そればかりを考えていた。
姉が寿司をつまみながら、こちらを見た。
「ねえ、直樹さん、まだ警備員やってんの?」
座敷の周りの音が、1段だけ小さくなった。直樹さんは箸を置いて、まっすぐ答えた。
「はい。やってます」
「はあ、そうなんだ。てっきり、結婚したら転職するのかと思ってた」
「今の現場が、まだ終わっていないので」
「現場ってさ、終わりとかあるんだ。ずっと立ってるだけじゃないの?」
父は何も言わなかった。母はビールを注いで回っていた。国江さんが箸を置いて、困ったように笑った。
「霞ちゃん、そういう言い方は…」
「言い方って、私、褒めてるんですよ。あれ大変じゃないですか?夏とか」
「はい。夏は大変です」
直樹さんはそれだけ言った。皮肉でも当てこすりでもなく、事実として。姉はそれを「買った」と受け取ったらしい。次に、狙いを私に変えた。
「知夏は、まだレジ?」
「うん」
「パートと警備員夫婦って、大変そうだよね。家賃いくら?」
「7万8000円」
「うわ、リアル」
父が笑った。母も笑った。国江さんは笑わずに、湯のみを見ていた。私は膝の上で手を握った。言い返す言葉は5つくらい浮かんでいた。どれも、この座敷では使えなかった。使えないのではない。使えば、翌日から「知夏が親戚の前で恥をかかせた」という話が家を回るのだ。恥をかかせたのはどちらか。この家では、その順番も決まっている。直樹さんは何も言わなかった。私の手を、座卓の下で1度だけ軽く抑えた。それだけだった。
その後で、国江さんの息子が座卓の醤油をこぼした。騒ぎになって布巾を探してる間に、直樹さんは右の袖を肘までまくって、自分のおしぼりで先に抑えていた。
「大丈夫です。染みる前に拭けば、残りません」
「すみません。よくあるんです」
国江さんがこちらを見て、小さく頭を下げた。
父の挨拶が始まった。60年を振り返る話だ。会社のこと、家族のこと。姉の高校の合格発表の日に泣いた話を、父は3分かけて話した。私の名前は、最後に1度だけ出た。
「知夏も、この夏に片付きました」
片付きました。荷物の話をする時に使う言葉だ。父にとって、多分本当にそういう意味だった。拍手が起きた。私も手を叩いた。叩きながら、自分がどんな顔をしているのか、自分で見えなかった。
話題が変わったのは、姉が自分から仕事の話を始めたからだ。
「そういえばさ、うち、今大きい話が動いてるんだよね」
父が身を乗り出した。
「そうか。何の話だ?」
「まだ言えないんだけど。共同の事業でね。来年から始まるの」
「相手は、どこの会社だ?」
「赤月サービスグループ」
その名前が座敷に出た瞬間、私の隣の空気がわずかに動いた。直樹さんが、箸を持つ手を止めていた。ほんの1秒、2秒だ。それから、何事もなかったように箸を置いた。姉が私の方へ向き直った。
「赤月って、知ってる?」
私が答える前に、姉が続けた。
「知らないでしょ。超大企業だから。全国のビルとか商業施設とか、あと物流も。うちの会社が組めるって、すごいことなんだよ」
「へえ」
赤月。私は夫の胸の名札を思い浮かべた。赤月ビルサービス株式会社、桜井大事業所。でも、姉が言っているのは、テレビでニュースになるような会社の話だ。同じ字が入っているだけで、別のものだと思った。この町のスーパーと、都会のデパートくらい違うものだと。
「さすが霞だ」
父が声を張った。国江さんが手を叩いた。その時、直樹さんが口を開いた。
「知ってますよ」
座敷の音が、そこで途切れた。姉が目をまたたいた。それから、笑った。
「はあ。まあ、ニュースぐらい見るか」
「はい」
それで終わりだった。姉はもう別の話を始めていた。母が寿司の追加を出した。誰も、その短いやり取りを気に留めていないように見えた。気に留めたのは、2人だけだ。1人は私。もう1人は、父だった。父は湯のみを持ったまま、直樹さんの顔をじっと見ていた。目の動きがおかしかった。思い出そうとしてる目ではない。思い出したくないものを、押し戻してる目だった。そして、急に立ち上がって、こう言った。
「おい、母さん、ビールが足りんぞ」
「まだあるわよ」
「足りん。買ってこい」
不自然なほど大きな声だった。話題はそれで、完全に流れた。
帰り際、玄関で靴を履いていると、姉が見送りに出てきた。
「上機嫌だったねえ、直樹さん」
「はい」
「今度さ、どこか警備の募集とかあったら教えてよ。うちの後輩で、仕事探してる子いるから」
「分かりました」
「ああ、でも力仕事なのかな。ずっと外だし」
姉は笑いながら、直樹さんの手元を見た。その視線に、私は気づいてしまった。直樹さんの右手だ。醤油を抑えた時にまくった袖が、そのままになっていた。手の甲から肘まで、袖から出ている部分が丸ごと黒く焼けていた。境い目は、袖の中に隠れて見えなかった。夏の間、半袖で外に立っていた人の腕だ。手首には、腕時計の跡だけが白く残っていた。指の関節は、赤切れの上から皮がむけて熱くなっていた。姉はそれを見て、笑うのをやめた。ほんの一瞬だけだ。何を思ったのか、分からない。ただ、その一瞬の顔だけは、それまでの31年で1度も見たことのない顔だった。
帰りの車の中で、私はずっと窓の外を見ていた。坂を下りて、信号で止まった時、直樹さんが前を向いたまま言った。
「ごめん」
1度だけ、そう言った。私は驚いて横を見た。
「なんで、直樹さんが謝るんですか?」
同じことを聞くのは2度目だった。1度目は3月のホテルのラウンジだ。あの時、この人はそう思う理由を言わなかった。今度も、答えは半分だった。
「今日、何も言わなかったので」
「言わなくていいですよ。あれは、うちの問題です」
「そうじゃなくて」
信号が青になった。車が動き出した。
「言わないと決めていたことがあって、今日、それを続けました。それが正しかったのかどうか、自信がありません」
「言わないと決めてること」
「はい」
「私に関係あることですか?」
「あります」
「じゃあ、教えてください」
直樹さんはハンドルを握ったまま、しばらく黙っていた。
「もう少しだけ、待ってください。順番があるので」
また順番だ。うちの家の順番と、この人の言う順番は、多分意味が違う。それは分かっていた。分かっていても、その夜の私には同じ音に聞こえた。マンションの下について、エンジンを切った後、直樹さんが小さく言った。
「今月中には、必ず話します」
その言葉を、私は覚えておくことにした。
その約束が果たされたのは、11月の終わりだった。その日は遅番で、店を出たのは6時を過ぎていた。11月の6時はもう真っ暗で、駐車場の白線がぼんやり浮かんで見える。従業員用の裏口を出て、バス停の方へ向かおうとした時だった。店の敷地の端に、黒い車が止まっていた。大きい。この町では見ない大きさだ。ボンネットの塗装が街灯を吸い込んで、艶だけがそこにあるように見えた。自分には関係ないと思って、私は横を通り過ぎようとした。その時、運転席の扉が開いた。降りてきたのは、白い手袋をした年配の男性だった。帽子を取って、私の前で足を止めた。そして、深く頭を下げた。
「奥様でいらっしゃいますね」
「え?」
「奥様、お乗りください」
奥様。その言葉が誰に向けられたのか、私は1秒か2秒、本気で分からなかった。周りを見た。誰もいなかった。
「あの、何かの間違いだと思います」
「いえ。高野様、旧姓・瀬川知夏様。桜井のフレッシュマートにお務めでいらっしゃいます」
名前も、店の名前も合っている。それが却って怖かった。
「どちら様ですか?」
「鶴田と申します」
その人は名刺のようなものは出さなかった。代わりに、もう一度きちんと頭を下げた。
「会長の使用の車でございます。会社の車を使用で使うわけには参りませんので。今日は、会長ご本人が自分の車を使えとおっしゃいました」
会長。その2文字と私を結ぶ線が、その時はまだ引けなかった。鶴田さんは後部座席の扉に手をかけた。
「旦那様からの迎えです」
「旦那様って?」
「はい」
「直樹さんですか?」
「そうです。お迎えでございます」
鶴田さんが後部座席の扉を開けた。中の座席は革で、うっすら明かりが灯っていた。
「いや、あの、私、バスで帰りますから」
「直樹様から、こう申し付かっております。『乗るか乗らないかは、奥様が決めてください』と。お断りでしたら、今夜必ず家で話します、と」
「必ずって」
「はい。必ず、と申しておりました。奥様、夜になりますと冷えますので」
私は動けなかった。逃げるという発想も浮かばなかった。ただ、エコバッグの持ち手を両手で握ったまま、その扉の前に立っていた。
「あの、何が起きてるんですか?」
鶴田さんは答えなかった。ただ、扉を持ったまま待っていた。決めてください、と言われた。この人は、こんな時にも私に決めさせる。私は乗った。座席に腰を下ろすと、扉が閉まった。外の音が消えた。バスの音も、風の音も、坂の下の踏切の音も、全部が急に遠くなった。
「シートベルトをどうぞ」
車が動き出した。桜井台の坂を下りて、川沿いの道に出て、それから高速に乗った。私は窓の外を見ていた。見慣れた町の看板が流れて、田んぼが流れて、建物の背が高くなっていった。1時間半かかった。その間、私は自分からは一言も話さなかった。聞きたいことは山ほどあった。それなのに、口が動かなかった。聞いてしまえば、この数ヶ月で積み上げたものが終わってしまう気がした。1度だけ、直樹さんに電話をかけた。呼び出し音が鳴り続けて、留守番電話に切り替わった。切ってすぐ、短いメッセージが届いた。「着いたら、全部話します」。それだけだった。今、どこにいるの?そう打って、消した。どこにいるのかを聞きたいのではない。誰なのかを聞きたいのだと、その時自分で分かってしまった。
「奥様、寒くはございませんか?」
「大丈夫です」
「もう30分ほどで着きます」
鶴田さんはそれ以上、何も話さなかった。余計なことを言わない人だった。ハンドルの持ち方が、そのまま正確に見えた。私は膝の上のエコバッグを見た。中には、半額の札が貼られた鶏肉が入っている。今日の夕飯は、これを焼くつもりだった。台所の家計簿には、まだ何も書いてない。その袋を持ったまま、私はどこへ運ばれているのだろう。
料金所を出て、街の中へ入った。街灯が急に増えた。歩道に人が多い。ビルが両側から競り上がってきて、空が細くなった。車が速度を落とした。そこで、私は目の前の建物を見上げた。ガラスと石の大きなビルだった。正面の低いところに、金属の文字が横に並んでいる。「赤月サービスグループ」。金属の文字を見上げて、私は自分の間違いに気づいた。別のものではなかった。夫の胸の名札は「赤月ビルサービス」。この看板は「赤月サービスグループ」。どちらも頭に「赤月」がつくのは、偶然ではなかった。ビルの掃除と警備をする会社は、この看板の下にぶら下がる一社だったのだ。その社名を胸につけた人を、私は普段の朝、玄関で送り出していた。見ていたのに、繋げなかった。11月の初め、姉が得意そうに口にしたのも、この名前だった。
「奥様、こちらでございます」
車が正面ではなく、脇の駐車場に止まった。降りると、ガラスの自動扉の内側に、人が立っていた。制服だった。紺の上着に、胸の名札。この3ヶ月、普段の朝に玄関で見送ってきたのと同じ格好だ。帽子だけ脱いで、脇に抱えている。
「直樹さん」
「すみません。急に呼び出して」
その人は、いつもの顔で、いつもの姿勢で立っていた。ガラスの向こうの受付には、同じような制服の人が2人いて、直樹さんに向かって軽く頭を下げた。
「その格好で、いいんですか?」
「良くないです。本当は、この格好で本社の玄関に立つのは規則違反です」
直樹さんは帽子を持ち直した。
「祖父が、現場のままで上がって来いというので」
「あの、これ、どういうことですか?」
「先に、紹介したい人がいます」
「紹介って」
「上に、祖父がいます」
受付で、直樹さんは私の名前を来客の名簿に書いた。制服の若い人が入館証を出して、両手で私に渡した。首から下げると、胸のところで小さく光った。直樹さんが自分の入館証を指した。
「知夏さんも、これがないと上には行けません」
直樹さんは自分のカードを読み取り機にかざした。エレベーターは、途中の階に1度も止まらなかった。私は、半額の鶏肉が入ったエコバッグを両手で抱えたまま、上がっていった。扉が開いた先は、廊下だった。絨毯が敷いてあって、足音がしなかった。突き当たりの部屋の扉を、直樹さんが2度叩いた。
「入りなさい」
低い声だった。部屋の奥に、窓を背にして小さな老人が座っていた。背は高くない。痩せている。カーディガンを着て、机の上には眼鏡と湯のみが置かれていた。その人はゆっくり立ち上がって、机の前まで出てきた。そして、私の顔をまっすぐ見た。
「あなたが、知夏さんか」
「はい」
「高野幻蔵と言います。源に三と書きます。83歳になります」
私は頭を下げた。それしかできなかった。
「直樹の祖父です」
「はい」
「そして、この会社を作った人間です」
言われた意味を、私は理解しかけて、理解しきれなかった。幻蔵さんは一歩進んで、自分も戻って座った。それから、机の上で手を組んだ。
「うちの孫は、あなたに何も言ってないそうですな」
「何も、というのは」
「この家のことです。会社のことも」
私は直樹さんを見た。直樹さんは立ったままだった。制服のまま、直立していた。
「直樹は、私の孫です。父親は今の社長で、直樹はいずれこの会社の経営に入ります。4月から、本社の経営企画本部長という役につきます」
「4月から、本部長」
言葉としては聞こえた。意味が、体に入ってこなかった。でも、私は声を出した。
「直樹さんは、警備員です」
「そうです」
「今も、警備員ですよね」
「そうです。それは、嘘ではありません」
幻蔵さんは湯のみを持ち上げて、一口飲んだ。
「1番下の現場を知らん人間は、人を使う立場に立たせません。孫には、それをやらせました。大学を出て7年は、よその会社で働かせました。入社させたのは29の時です。そこから清掃2年、設備の管理2年。それから、警備で4年目になります」
「4年」
私はその数字をもう1度聞いた。元橋さんの言葉が、そのまま重なった。警備に入って4年。戻ってからは、この現場を離れません。
「本物ですか?」
「本物です。9月までは、給料も現場のものしか出しておりません。年に320万円ほどでした」
「え?」
「うちの息子も、同じことをやりました。あれは物流の倉庫で3年です。今、社長しておりますが、まだ海外の現場から戻れておりません」
「直樹さんのお父様もですか?」
「そうです。だから、結納にも出られませんでした。あれは失礼をしました。私が代わりに詫びます」
幻蔵さんはそう言って、頭を下げた。83歳の人が、私に向かって頭を下げた。袋の中で、半額の鶏肉が傾いていた。私はその角度を直した。幻蔵さんは湯のみを置いて、私の方へ体を向けた。
「知夏さん、お仕事は何をされていますか?」
「スーパーのレジです」
「何年?」
「8年です」
「8年?」
幻蔵さんは繰り返してから、1つ頷いた。
「立ち仕事ですな。膝は、大丈夫ですか?」
誰にも聞かれたことのない質問だった。答える前に、鼻の奥が痛くなった。
「大丈夫です」
「うちの現場も、立ち仕事です。同じですな」
同じ、と言われた。会社を作った83歳の人が、レジ打ちの私に向かって「同じですな」と言った。私は直樹さんの方を向いた。
「では、週に2度、スーツで出かけていたのは」
直樹さんが、部屋に入ってから初めて口を開いた。
「ここです。9月に本社の業務の辞令が出ました。現場のシフトを週に2日減らして、その分こちらに来ています」
「なんで、言ってくれなかったんですか?」
その問いに、直樹さんは答えなかった。代わりに、幻蔵さんが孫の方を見た。
「直樹は、お前はいつから知夏さんを知っていた?」
直樹さんは、そこでも答えなかった。沈黙が長かった。先に耐えられなくなったのは、私の方だった。
「直樹さん」
「はい」
「それって、大事なことじゃないですか?」
自分の声が、部屋の中で思ったより大きく響いた。
「私、出会ったからずっと、あなたのこと全部知ってるつもりでした。何時に起きて、どこに立って、誰に叱られてるかも」
「はい」
「1番大きいことだけ、教えてもらえていませんでした」
「そうです」
「そうです、じゃないです」
私は膝の上の袋を握った。中の鶏肉のことが、なぜかその時急に恥ずかしくなった。半額のお肉を買って帰る暮らしです。私はそれは、いいんです。楽しかったから。でも、あなたはその横で、4月から本部長になる人だったんですよね。
「そうです」
「言ってくれてたら、私は何か違ったことをしましたか?」
「しなかったと思います」
「じゃあ、なんで?」
直樹さんはそこで初めて、私の方を見た。
「言わなかった理由は、2つあります」
「はい」
「1つは、今の仕事が僕の仕事だからです」
直樹さんは制服の胸の名札に手をやった。
「4月からのことは、4月から始まります。今の僕は、桜井の出口に立つ警備員です。それ以外の名乗り方を、現場ではしません。家でも、したくありませんでした」
「もう1つは、何ですか?」
「言えば、知夏さんがあの家で説明する側に回るからです。5月にも、同じ言い方をしました。言えば、あなたが誰かに何かを証明しなきゃいけなくなる、と。あの時伏せたのは別の話ですが、伏せた理由は同じです」
「じゃあ、いつ言うつもりだったんですか?」
「落ち着いてからと思っていました。今月中には話すと、車の中で言いました。それが、遅かった。今日こうなったのは、僕が悪いからです」
筋は通っていた。通っているのが、なおさら腹立たしかった。
「私が、お金持ちかどうかで結婚を決める人だと思われていたわけじゃないんですね」
「思っていません。1度も」
「じゃあ、なんで、試すみたいなことになるんですか?」
「試していません。試したなら、僕は最低の人間です」
そこだけ、声が強かった。
「ただ、僕が黙っていたせいで、知夏さんに試されたような思いをさせました。それは、僕の落ち度です」
直樹さんは制服のまま、私の方へ体を向けた。
「ごめん」
私は何も言えなかった。許すとも、許さないとも言えなかった。頭の中が、まだ動いていなかった。私は立ち上がって、部屋の外に出た。廊下の絨毯が音を吸って、自分が歩いている感じがしなかった。突き当たりの窓まで行って、そこで止まった。下に、街が広がっていた。知らない町だ。ここから桜井台までは、車で1時間半かかる。歩いて帰れる距離ではない。帰り方も、分からない。扉が開く音がした。直樹さんが出てきた。制服のままだ。
「怒っていいです」
「怒ってます」
「はい」
「でも、どう怒ればいいのか、分からないんです」
私は窓枠に手をついた。
「怒鳴ったことがないんです。31年、1度も。うちでは、怒鳴るのは父と姉の役で、私の役じゃなかったので」
「じゃあ、今日は言葉でいいです」
「言葉でも、出ません」
しばらく2人で、窓の前に立っていた。
「1つだけ、聞いていいですか?」
「どうぞ」
「私、一緒に暮らし始めてから、あなたに何かを我慢させてましたか?」
直樹さんは即座に首を振った。
「1度もありません」
「本当に?」
「本当です。僕は、知夏さんと暮らしたこの3ヶ月が、1番普通に暮らした時間でした」
その答えで、私の中の何かが落ち着いた。部屋に戻ると、幻蔵さんは湯のみに茶を足していた。その沈黙を破ったのは、幻蔵さんだった。
「知夏さん」
「はい」
「悪いのは、直樹です。結婚する相手には、最初に話すべきでした。順番が逆です。うちの家の事情など、後から話していい話ではない。でも、それは構わなくてよろしい。うんと、この男は、次も同じことをします」
直樹さんは「はい」と言って、頭を下げた。幻蔵さんは机の上で手を組んだまま、しばらく私を見ていた。それから、静かな声で言った。
「1つだけ、教えていただきたい」
「はい」
「警備員だった直樹の、何を見て結婚してくださったんですか?」
その質問は、多分この部屋で1番大事な質問だった。私はしばらく考えた。考えたというより、答えはもうそこにあって、それを口に出していいのかを迷った。
「この人だけが、私を誰とも比べませんでした」
幻蔵さんの眉が動いた。
「比べなかった」
「はい」
私は膝の上で手を重ねた。
「私には、3つ上の姉がいます。偏差値70の高校を出て、有名な大学を出て、大きな会社で主任をしています」
「はい」
「私は、勉強ができませんでした。進学も、させてもらえませんでした。実家の壁には賞状が7枚かかってますけど、全部姉のものです」
声が震えないように、ゆっくり話した。
「家では、私は姉と比べるための人でした。姉がすごいというためには、下がいるんです。私は、その下でした」
幻蔵さんは黙って聞いていた。直樹さんも、立ったまま動かなかった。
「今回の縁談も、姉に来た話でした。姉が警備員は嫌だと言って、それで私に回ってきました。両親は、私にはお似合いだと言いました」
「ひどい話ですな」
「慣れていました。31年、そうだったので」
幻蔵さんは机の上の老眼鏡を指で押した。
「私はね、掃除から始めました。60年以上前です。ビルの床を拭いて、便所を洗って、それだけの会社でした。従業員は4人。夜中に働きました」
「そうなんですか」
「その頃、私たちは人と見なされんかった。挨拶をしても、返ってこん。ビルの人が通る時は、こちらが壁によって待つ決まりでした」
幻蔵さんは湯のみを両手で持った。
「だからね、私は人を数字で並べる人間が嫌いです。偏差値も、年収も、肩書きも、全部後からついた札です。札を見て人を選ぶ者は、札が変わったら手のひらを返します。必ずです」
私はその言葉を、思い当たるものとして聞いた。私は一度、息を吸った。
「でも、見合いの席で、この人は最初に謝ったんです。『身代わりで来させられたんですよね』って」
「ほう」
「その後で、『嫌なら断ってください』と言われました。『僕は誰かの代わりと結婚したいわけじゃありません』って」
言いながら、あの日のラウンジの光を思い出していた。
「それまで、私を誰かの代わりではなく、1人の人間として扱ってくれた人は、1人もいませんでした。だから、私はこの人が警備員でも、何でも関係なかったんです」
言い終わって、私は下を向いた。知らない間に涙が落ちて、エコバッグの上に染みを作っていた。部屋が静かだった。やがて、幻蔵さんが小さく笑った。笑うというより、息を吐くような笑い方だった。
「直樹」
「はい」
「お前の方が、いい嫁さんもらったな」
「はい」
「そこで即答するな。お前の方が釣り合っていると、1度ぐらい言い張ってみせろ」
「言い張る必要がありません。悔しくもありません。事実なので」
幻蔵さんは、声を出して笑った。
その夜、家に帰ったのは11時を過ぎていた。半額の鶏肉は、翌日に回した。それから数日、私たちは普段通りに暮らした。普段通りに暮らせてしまうことが、私には不思議だった。週の終わりの夜、家計簿の右上に天気を書きながら、直樹さんが言った。
「まだ、怒ってますか?」
「少しだけ」
直樹さんは「はい」とだけ言って、その日の分の数字を書いた。それで終わりにした。終わりにできる、ということも、この人と暮らして覚えたことの1つだった。
12月に入って、予定より遅れて直樹さんの両親が帰国した。直樹さんのお父さんは、高野幹夫さん。9月の婚姻届で、夫の父の欄に私が書いた名前だ。会うのは初めてだった。60歳。思ったよりずっと、日に焼けていた。お母さんの佐智子さんは、会うなり深く頭を下げた。
「うちは、代々遅れて謝る家なんです。本当に申し訳ありません」
「いいえ」
そんな佐智子さんは、私の顔を見て続けた。
「結納にも出られませんでした。お写真は見せていただきました。とても、いいお顔でした」
その一言で、私はまた泣きそうになった。幹夫さんはテーブルの上で手を組んで、言った。
「うちの家は、変わっとると言われます」
「はい」
「私も、倉庫で3年。伝票を数えて。あの3年がなければ、今の仕事はできません」
「直樹さんも、そう言ってました」
「直樹は、私より長い。もう4年になります」
4年。私はその数字をもう3度聞いていた。7月の結納で直樹さん本人から、10月に元橋さんから、そして11月におじい様から。聞くたびに意味が増えていく数字だった。
「本人が伸ばしました。3年で上げるつもりだったんですがね」
私は直樹さんを見た。直樹さんは味噌汁の椀を見ていた。
「直樹さん、なんで伸ばしたんですか?」
「言いません」
「言ってください」
「言いません」
その日は、それ以上聞けなかった。帰り道、直樹さんが言った。
「無理して働かなくても、いいんですよ」
私は首を横に振った。
「無理じゃないです。でも、来年から時間帯責任者でしょ。責任も増えますし」
「私、この仕事が好きなので」
言ってから、自分で驚いた。「好き」という言葉を、仕事に使ったのは初めてだった。
「8年やって、自分のレジの金を1度も合わせ損ねずにここまで来ました。それをやめる理由が、私にありません」
直樹さんは頷いた。それ以上は、何も言わなかった。その夜、洗濯物を畳んでいて、直樹さんの上着に触れた。内ポケットのところが、わずかに厚い。折りたたんだ紙の手触りだった。指をかけて、そこで止めた。11月に「隠されていた」と言って怒ったのは、私だ。同じことを私がしたら、同じになる。私は畳んで、ハンガーに戻した。
年が開けて、1月の半ばだった。その日、私はその場にいなかった。後から、姉の口と直樹さんの口から聞いた話を継ぎ合わせたものだ。丸級食品と赤月サービスグループの共同事業の発表会が、都心のホールであった。姉は担当者の1人として、部長と課長と出席したという。受付で配られた資料の最後に、登壇者の一覧が載っていた。姉はそこで、指を止めたそうだ。「赤月ビルサービス株式会社 高野直樹」。その名前の後に役職がついていて、4月1日付けで赤月サービスグループの経営企画本部長に就任予定、とあった。最初は、同じ名前の別人だと思ったらしい。妹の夫は、桜井台の駐車場で誘導灯を振っている人で、この一覧に載る人ではない。姉は課長に聞いたという。
「この高野さんって、どういう方ですか?」
「創業家の方だよ。会長さんのお孫さん。若いけど、現場を長くやってた人らしい。今度、うちの窓口になる」
それでも姉は、まだ別人だと思っていた。思っていられたのは、その人が壇上に出てくるまでだったという。紺の背広を着た男が、演台の前に立った。顔を見た瞬間に、分かったと姉は言った。その人はマイクの高さを自分で直し、深く頭を下げた。ラウンジで私が見たのと同じ、下げ方だろう。姉は、資料を落としたらしい。
その日の夜、私の携帯が鳴った。姉からだった。
「知夏、今から実家に来て」
「今から?もう8時だよ」
「来て。今すぐ」
「何かあったの?」
「何かあったの、じゃない。あんた、知ってたんでしょ?」
私は台所に立っていた。直樹さんは、風呂に入っていた。私はしばらく黙って、それから言った。
「1人では行かない。直樹さんと2人で行く」
姉が何か言う前に、私は電話を切った。この家の呼び出しに条件をつけたのは、初めてだった。事情を話すと、直樹さんはタオルを首にかけたまま言った。
「怒られますよ」
「多分、怒られに行くんじゃありません」
支度をして、車に乗った。桜井台の坂を登る途中で、直樹さんが車を路肩に止めた。
「知夏さん」
「はい」
「先に、これを見て欲しいんです」
そう言って、上着の内ポケットから紙を出した。薄い紙だった。4つに折られて、折り目が白く擦れている。何度も開いて、畳み直した紙だ。洗濯を畳んだ夜の、あの紙だ。
「これ、知夏さんの釣書です」
車内灯をつけて、紙を開いた。罫線で区切られた欄が並んでいる。父の字だ。几帳面な、右上がりの字。氏名、瀬川知夏。生年月日、年齢31歳。学歴、県立川西高等学校卒業。職業。その欄は、空いていた。線が引いてあるだけの、白い欄だった。8年通っている店の名前が、そこにはなかった。余白の欄に、3行。
1行目。姉の霞は、県立北星高等学校を卒業しております。
2行目。同じく東都大学を出まして、現在は丸級食品株式会社の法人営業部で主任をしております。
3行目。次女知夏は、健康で、家事は一通りできます。
3行のうち、2行が姉の話だった。私を紹介する紙の中で、私に割り当てられていたのは1行だけだった。「健康で、家事ができます」。それだけだ。
「これを見て、会いに来たんですか?」
「はい」
「私だったら、来ません」
「僕は、来ました」
直樹さんが紙の右を指した。そこに、日付が入っていた。
「この紙が届いたのは、見合いの前の日でした。脇坂さんに頼んでから、2ヶ月近くです。『知夏さんで』とお願いしたのに、それだけかかるのは変です。しかも、余白の記載のうち2行は、お姉さんのことでした」
「はい」
「僕が名指ししたのは、知夏さんです。その紙に、なぜお姉さんの経歴がいるのか。この家は、まずお姉さんへ話を通した。そう読むしかありません」
「名指しって」
「はい。僕が脇坂さんに頼んだのは、初めから知夏さんです。お姉さんの名前は、1度も出していません」
紙を持つ手が震えた。姉がいらないと言ったから、私に回ってきた。その1年、そう思ってきた。順番は、初めから逆だ。
「じゃあ、あの日、私が身代わりだって分かってたのは」
「その紙と、返事がなかったことです。1年前、僕の釣書と一緒に、あなた宛ての手紙を入れました。返事は、来ませんでした」
「手紙?私は受け取ってない」
涙で、腹の底が熱くなった。
「なんで、この紙を今まで見せてくれなかったんですか?」
「見せたら、知夏さんが証明しなきゃいけなくなるからです。自分がなぜ選ばれたのかを、あの家の人たちに説明する側に回る。僕は、あなたにその役をさせたくなかった」
11月にこの人が言った2つ目の理由が、紙になって膝の上にあった。5月の喫茶店で「どうして私だったのか」と聞いた時、伏せられたのも、この1枚だ。
「今日は、見せていいんですか?」
「今日は、あちらから呼ばれたので」
車が動き出した。実家の玄関に、明かりがついていた。格子の向こうに、人の影が4つ見えた。1つ多い。靴を脱ぐと、座敷には父と母と姉。床の間に、脇坂さん。
「脇坂さん、どうして?」
「僕が、お呼びしました」
直樹さんが後ろから言った。
「今日のうちに、話をつけておきたかったので」
姉が立ち上がった。会社の名札を、首から下げたままだ。
「知夏、どういうこと?」
「何が?」
「とぼけないで。直樹さん、赤月の御曹司でしょ?会長さんのお孫さんだって、課長が言ってた」
母が姉の後ろから割り込んだ。声が裏返った。
「待って。警備員だったんじゃないの?御曹司って、警備員だよ」
私は答えた。
「今も、働いてる。4月からは本社に戻るけど、今週も桜井の出口に立ってた」
母が何か言いかけた。私は先に続けた。
「私が知ったのは、11月の終わり。会社に連れて行かれて、おじい様から聞いた。それまでは、お父さんたちと同じ、警備員の奥さんになった。それだけの話だと思ってた」
姉が目を見開いた。
「嘘?」
「本当」
「その日、私も怒ったよ。なんで言わないのって。知らされていなかったのは、私も同じだった。私も姉も、同じ側に立たされていた。それだけは、はっきりさせておきたかった」
姉が首を横に振った。
「そんなの、ただの研修でしょ」
直樹さんが座敷に入って、私の隣に座った。
「本物です。入社して8年目。清掃、設備2年。警備は4年目です。9月に本社の業務がつくまで、給料も現場のものだけでした」
私はその数字をもう1度、声に出した。
「4年ね」
「はい」
姉はそこで、堰を切ったように叫んだ。
「じゃあ、なんで私に言わなかったのよ?」
「言う必要がなかったからです」
「あるでしょ。だって、あの縁談は…」
そこで、姉は一度言葉が切れた。切れて、それから出た。
「また、私に来た話になったんだから」
座敷が静かになった。私は膝の上で、四つ折りの紙を握っていた。それを開いて、座卓の上に置いた。父の手が止まった。
「お父さん、これ、お父さんが書いたよね」
父は口を閉じたままだった。母が横から覗き込んで、すぐに顔を背けた。
「何、これ?昔の紙?」
「去年、私の見合いの前に書かれた紙だよ」
私は紙の職業の欄を指で押さえた。
「ここ、空いてるよね」
父は目を上げなかった。
「私、8年働いてるよ。フレッシュマート桜井大店で。名札も制服もある。8年で1度も、自分のレジの金を合わせ損ねてない」
母が横から口を挟んだ。
「そんなの、書くことじゃないでしょ」
「書くことじゃない」
私は紙の下の方を指した。
「じゃあ、お母さん、この余白は何?」
母が目を剥いた。
「余白って、何の話よ?」
「余白の記載、2行の話だよ」
座敷の空気が変わった。姉が座卓に手をつき、紙を見た。上から下まで目が動いて、止まった。
「何、これ?私の釣書だよ。なんで、私のことが書いてあるの?」
「お父さんに、聞いて」
父は湯のみを持ったまま、動かなかった。その時、床の間の前から声がした。
「もう、いいだろ」
脇坂さんだった。
「わしは、1年黙っとった。黙っとったのは、わしの弱さだ。今日は、言わせてもらう」
父が初めて顔を上げた。
「脇坂」
「去年の1月に、この話を持ってきたのは、わしだ」
脇坂さんは膝の上に手を揃え、背筋を伸ばした。
「わしは、今も赤月の事業所に置いてもらっとる。去年の1月、高野君から頼まれた。桜井台のフレッシュマートの、瀬川さんに取り持ってほしい、と。会長の孫だと知らんかった。さっき、霞さんから聞いて、1番驚いとるのが、わしだ」
姉が目をまたたいた。
「え?」
「わしは、吉弘の家を知っとる。だから、尋ねた。その時、はっきり言うた」
脇坂さんは、私の方を見た。
「この縁談は、初めから知夏さんへのお話です。わしは、玄関で『下のお嬢さんに』と、はっきり言いました」
誰も、口を開かなかった。息を継ぐ音まで聞こえた。姉が口を半分開けたまま、こちらを見ていた。母は湯のみを取り落として、畳に茶がこぼれた。誰も、拭かなかった。
「嘘でしょ?だって、お父さん、私に持ってきた。私の話だって言った」
父がようやく口を開いた。
「私が、言った」
「なんで?」
「うちは、上の娘からだ。その一言だ」
31年、この家を動かしてきた一言が、そこにあった。父は続けた。
「先方は、下の娘にと言ってきた。だがな、上が決まらないうちに下から先に嫁いだら、外聞が悪い。世間は、そういう見方をする」
姉がその言葉を、口の中で繰り返した。
「外聞」
「順番というものがある。だから、ずっとお前に見せた。お前が断ったから、知夏に回した。それだけの話だ」
それだけの話。父はそう言った。父にとっては、本当にそれだけの話だったのだ。
「脇坂さん、私は聞いた」
「はい」
「脇坂さんは、それを止めなかったんですか?」
脇坂さんは頭を下げた。
「止めきれんかった。吉弘とは高校からで、頼まれると弱い」
脇坂さんが膝の上の手を握った。
「紙を受け取った時、私は言うた。職業の欄が空いとる。勤務先があるのに、なぜ書かんのか、と。吉弘は言うた。『そこは、いらんだろう』と」
座敷が静まった。
「わしは、そこで引いた。空のまま、先方へ紙を持っていった。本人に、1度も見せんでな。40年、書類で飯を食ってきた人間のやることじゃない。高野君には、『ご家庭で話してもらっていい』と伝えた。嘘は言っとらん。本当も、言っとらん」
父は、何も言わなかった。私は脇坂さんを見ていた。
「知夏さん、去年の夏、料理屋で言いかけて、やめました。帰る晩も、あんたの顔が浮かんだ。すまん」
私は首を横に振った。脇坂さんは、あの空欄を1年抱えてきた。父はどうだったか?「そこはいらんだろう」の一言で片付けて、今もすぐそこに座っている。抱えた方の人を、私は責められなかった。脇坂さんが父の方へ向き直った。
「吉弘、もう1つある。去年の1月に、わしが渡した封筒には、釣書の他に手紙が一通入っとった。あれは、知夏様宛てだった。渡したのか?」
父は、答えなかった。1年前の夜が像を結んだ。父が手のひらで抑えて、裏返した封筒。私の名前は、あの中にあったのだ。脇坂さんの声が低くなった。
「吉弘、手紙は、まだあるんだろうな」
父は黙って自分の部屋へ行き、薄い封筒を持って戻った。座卓の上を滑らせて、私の前に置いた。封は、切られていない。1年、あの部屋にあったのだ。表に「瀬川知夏様」。父の字ではない。真っ直ぐな字だった。直樹さんがその封筒を見て、言った。
「僕が、去年の1月に、釣書と一緒に預けたものです」
中を読んだのは、その夜ではない。姉は座り込んでいた。両手を畳につけて、紙を見ていた。
「じゃあ、私が断ったのは…」
直樹さんが答えた。
「元々、あなたに来た話ではありません。僕は、瀬川知夏さんにお願いしました。それだけです」
「聞いてない」
「知らなくても、無理はありません。伝わっていなかったので」
「でも、それなら、私が断ったって話は、何だったの?」
父はまだ、座卓の上の紙を見ていた。1行目の姉の高校の名前を、指でなぞっていた。2行目の会社の名前をなぞって、3行目まで来て、そこで止まった。「次女知夏は、健康で、家事は一通りできます」。父の指は、その行の上で止まったまま、動かなくなった。
先に口を開いたのは、母だった。
「霞、あなたが警備は嫌だって言い出したからでしょ」
「違う」
姉が母を正面から見た。
「違うのよ、お母さん」
母が次の言葉を探して、見つけられずにいた。姉は母を見ずに、自分の手元だけを見て言った。
「あの時、私、付き合ってる人がいたの」
母が息を飲んだ。姉は構わずに続けた。
「会社の人。2年、会ってた。離婚してる人だったから、言えなかった。言ったら、お母さんが絶対に反対するでしょ。だから、断る理由が要ったのよ。職業の話なら、この家では通ると思ったの」
姉は自分の手を見ていた。
「通ったでしょ?一発で」
私は驚かなかった。7月に店で小島さんから聞いていた。ただ、姉の口から出るのを聞くのは、初めてだった。しばらくして、姉がこちらではなく直樹さんの方を向いた。
「ねえ、直樹さん」
「はい」
「なんで、知夏だったの?」
その質問は、多分その座敷にいた全員が聞きたかったことだった。私も、聞きたかった。3月からずっと、答えをもらえないままだった。直樹さんは座卓の上の紙を一度見てから、話し始めた。
「3年半ほど前の話です」
「3年半前、桜井のフレッシュマートが、店の中を直す工事をしました。4月から9月までの、半年です」
私は思い出した。駐車場が半分潰れて、売り場を区切りながら順に改装した、あの夏だ。搬入の車が朝と晩に何台も入って、店の前にはずっと工事の柵が立っていた。
「僕は、その現場に入っていました。搬入車両の誘導です。朝の7時から夕方まで、あの店の前に立っていました」
「あの、その半年、早番の朝は、私もそこにいました」
「はい。ただ、当時は名前を知りませんでした。名札の『瀬川』という字だけか」
直樹さんは、私の方を見た。
「早番の朝は、必ず1番に来る人がいました。出勤は8時半なのに、いつも15分前に坂を登ってきます。その人は、店の前に止めてある自転車を、1台ずつ動かしていました」
「自転車?」
「搬入の車が入る動線に、前の晩から置きっぱなしの自転車が並ぶんです。動かさないと、車が入れません。でも、客の持ち物です。壊したと言われたら、それで終わりですから、僕らは触れないんです」
私は、自分の手を見た。覚えている。早番の朝は、毎回やっていた。誰かに頼まれたわけではない。工事の人が困っているのを見たから、ついでに動かしていただけだ。
「直樹さんは、前を向いたまま続けた」
「朝は、こちらに声をかけることもありませんでした。当たり前の顔で動かして、裏口に入っていきました」
「そんなの、大したことじゃないです」
「大したことです」
直樹さんは、そこだけ強い口調になった。
「僕らは、現場で人に頼めません。頼めば、『うるさい』と言われます。だから、黙って待ちます。待っているところを見て、黙って先に動かした人は、あの半年であなた1人でした」
姉が、何か言おうとして、言わなかった。
「もう1つあります。7月です。7月の、暑い日でした。うちの隊員が3人、日陰のない場所に立っていました。仮設の詰所は、中が40度を超えていました」
私は、その話を覚えていた。気がついたら、自分から口が動いていた。
「店の裏に、屋根のついた自転車置き場があったんです。使っていない区画でした。それで、店長に言いに行きました」
直樹さんが頷いた。
「そうです。『休憩の間だけ、あの屋根の下を使わせてやってほしい』と」
「はい」
「浜口という店長さんが、その日のうちに許可を出してくれました。翌日から、うちの隊員は日陰で休めるようになりました」
浜口店長の顔が浮かんだ。あの時、店長は「いいよ」とだけ言った。それきり、誰も話題にしなかった。
「その話をしてくれたのは、うちの元橋です」
「元橋さん?」
「あの人は、3年半経っても、その話をします。『あの店の、髪を後ろで束ねている人だ』と」
私は下を向いた。顔が熱かった。10月に会った元橋さんを思い返した。あの人は、4年前のことも、直樹さんの叱られ方も話した。それなのに、この話だけは、一言も出さなかった。知っていて、黙っていたのだ。あの人もまた、「言わない側」の人だった。
直樹さんが、そこで言葉を継いだ。
「でも、決めたのは、そこじゃありません」
「え?」
「その年の、8月です。改装が終わる、1週間前でした」
その言葉で、私は息を止めた。
「あなたの店の、3番のレジに、女の人が来ました。会社の名札を下げた人でした」
姉が、顔を上げた。
「その人は、レジの脇に立って、こう言いました。『今日、ここでレジ打ってるの?』」
座敷が、静まり返った。
「僕は、入り口の柵の内側にいました。搬入の車を入れるので、自動扉を1枚だけ開けて抑えていた日です。3番のレジは、そこから1番近いレジでした」
姉の顔から、色が引いた。白くなったというより、色のものが抜けたように見えた。
「お姉ちゃん、同じことを、去年の5月にも、もう1度言ったよね。同じ3番のレジで、同じ言い方で」
姉は、答えなかった。答えられないのだと分かった。直樹さんが話を戻した。
「その後、知夏さんは何も言い返しませんでした。会計を済ませて、次の人の商品を通しました」
「はい」
「それから30分後に、休憩でしょうか?あなたが、裏口から出てきました」
「覚えていない」
私は、そこを覚えていない。8年の間に、私は何度あの裏口を出ただろう。外にいる人に一言かけて、また戻る。改装の経っていたあの半年だけでも、そういう日は数えきれなかった。数えきれないから、どれか1日を切り出して覚えておく理由がなかった。
「覚えていない方の私が、覚えている人に選ばれていた」
「あなたは、裏口の脇の柵の前で、足を止めました。そして、こう言いました」
直樹さんは、そこで1度だけ間を置いた。
「『今日、暑いですね。裏の屋根、遠慮しないで使ってください。詰所より、あっちの方がマシだと思うので』」
私は、口を押さえた。言った覚えがない。毎日のように言っていたからだ。特別なことだと思っていなかった。
「あの日のあなたは、たった今、身内に人前で見下されたところでした。それでも、他人の日陰の心配をしていた」
直樹さんは、姉の方を見なかった。私だけを見ていた。
「僕は、その日に決めました。3年半前に」
「はい」
「でも、その秋に現場が変わりました。別の物流施設に2年、おりました。桜井に戻れたのは、昨年の秋です。昨年戻って、最初の週に、店の前を通りました。工事の柵はもうなく、車が入るようでした。それなのに、同じ時間に、同じ人が、夜の間に倒れた自転車を1台ずつ起こして、白い線の内側へ戻していました。搬入口の前だけは、誰に言われなくても、開けてありました」
直樹さんが、そこでようやく、少しだけ笑った。
「2年経っても、変わっていませんでした。それから、年が明けるまで、同じ朝を何度も見ました。見間違いでないと分かってから、脇坂さんに頼みました。『こちらの、下のお嬢さんだ』と、その時教わりました。下の名前も、そこで初めて知りました」
私は、何も言えなかった。3年で現場を上がるはずだった人が、4年目に伸ばした理由が、そこでやっと分かった。この人は、桜井台にもう1年いるために、伸ばしたのだ。12月に聞いても、答えてもらえなかった。その答えは、本人の口からではなく、話の順番の方から、帰ってきた。自分の8年の中で1番何も起きていないと思っていた時間が、ずっと誰かに見られていた。
父が、湯のみを置いた。
「待て」
「はい」
父は、直樹さんの方へ体を向けた。
「私は、そんな話は聞いていない」
「お話ししていません」
「脇坂、お前は聞いたのか?」
脇坂さんが頷いた。
「聞いた。『桜井台の店の、瀬川さんに』と言われた」
父が、脇坂さんの方へ膝を向けた。
「お前は、その理由まで、聞いていたのか?」
脇坂さんが、まっすぐ父を見た。
「ああ。だから、あの日の夕方、玄関で言うたんだ」
脇坂さんの声が、そこだけ大きくなった。
「理由まで聞かされとったから、はっきり言うた。『下のお嬢さんに』と。それを、お前が『上の娘からだ』と言うて、塗り替えんだ」
父が、黙った。還暦の夜、父が急に母をビールの買い出しに行かせようとしたのを、思い出した。あの時、父が押し戻していたのは、赤月という会社そのものではなかったのだと思う。その名前から芋づる式に出てくるものの方だ。1年前の1月、玄関で脇坂さんが言った、あの一行の方だ。母が、そこで小さな声を出した。
「あなた、あの時…」
「なんだ」
「あの時、霞の紙を書くのに、随分時間がかかってたわね」
「うるさい」
「私、見たのよ。あなた、電話の受話器を持って、番号を押しかけて、途中でやめたでしょ」
父は、答えなかった。母は、そのまま続けた。
「あれ?お店に電話して、名前を確かめようとしてたんでしょ?かけて、やめたのよ」
「そんなことは」
「知ってる?知らないでしょ。何年も、間違えてたじゃない。『駅前だ』『駅前だ』って」
「うるさいと言っている」
「私が悪いの?」
母の声が高くなった。
「私は書いてないわよ。書いたのは、あなたでしょ」
「書けと言ったのは、お前だ。『出す紙に職業がないと、恥をかく』と」
「じゃあ、ちゃんと書けばよかったじゃないの?」
2人が、言い合いを始めた。言い合いの内容は、どちらが書いたか、どちらが言ったか、それだけだった。母は「ちゃんと書けばよかった」と言った。それでも、その空欄が私に何をしたのかは、父も母も、1度も口にしなかった。私は座卓の上の紙を、もう一度見た。職業は、空。父はあの欄を埋められなかったのではない。電話を1本かければ埋まる欄だった。かけるほどのことだと思わなかったから、途中でやめたのだ。「そこはいらんだろう」と思ったのだ。それが、この家だった。悪意ではない。悪意なら、まだ戦える。31年、私を削っていたのは、「そこはいらんだろう」という判断の方だった。
「知夏さん」
直樹さんが、言った。
「僕が見合いの席で謝った理由は、それです」
「え?」
「僕が名指しでお願いしたせいで、あなたはこの家の中で、押し付けられた側になりました」
「そんなの、直樹さんのせいじゃ…」
「僕が脇坂さん任せにせず、自分で直接お伺いしていれば、違ったかもしれません。だから、謝りました。あの日、それを言ってくれれば、言えば、あなたはこの紙を見ることになりました」
直樹さんは、座卓の上の紙を指した。
「3月のあなたに、これを見せたくなかった」
私は、紙を見た。確かに、3月にこれを見せられていたら、私は多分壊れていた。こだわること、金額を計算すること、1人では行かないということ。この1年で、私はその3つを覚えた。だから、その夜は、この紙を見ても、座っていられた。
「直樹さん」
「はい」
「今日は、見せてくれて、ありがとうございます」
その人は、何も答えずに、ただ小さく頭を下げた。
姉が、ゆっくり顔を上げた。そして、私の名前を呼んだ。31年、姉が私を呼ぶ時には、いつも上から下へ落ちてくるような響きがあった。その日は、違った。足場をなくした人の声だった。
「知夏」
姉はしばらく、私の名前を呼んだきり、黙っていた。それから、抑えていたものを一度に吐き出すように、言った。
「そんなの、知ってたら、私が断るわけないでしょ」
その一言で、座敷の空気が戻った。母が慌てて口を挟んだ。
「そうよね。だって、そんな大事なことを、黙ってる方が…」
「お母さん」
姉が、母を止めた。そして、直樹さんの方へ向き直った。
「私、何も聞いてなかったんです。もし、聞いてたら…」
「はい」
「私が、お受けしてました」
直樹さんは、その言葉を最後まで聞いた。それから、低い声で答えた。
「だから、断っていただけて、よかったです」
姉が、また口を開いた。
「は?今おっしゃったのは、知っていれば受けたということですよね」
「ええ、そうですが」
「知らなければ、受けなかったわけですね」
姉が、黙った。
「僕は、どちらの答えも責めるつもりはありません。人には好みがあります。警備員と結婚したくないという考え方も、あっていいと思います。じゃあ、ただ、それは僕の望んだ結婚ではありません」
直樹さんは、膝の上で手を組んだ。
「僕が警備員だった時に、知夏さんは、僕を馬鹿にしませんでした」
声は、大きくなかった。それなのに、座敷のどこにいても聞こえた。
「馬鹿にしなかった、というのは、性格じゃないですね。この人は、そもそも人を並べません」
姉が、その言葉だけを、小さく繰り返した。
「並べない…」
「清掃の人にも、警備の人にも、会社の人にも、同じ話し方をします。相手の名札を見てから態度を決める人ではないんです」
私は、膝の上を見ていた。顔が上げられなかった。
「僕は、現場で4年、いろんな人に会いました。制服を着ていると、こちらを人として扱わない人が、一定数います。悪意はありません。ただ、見えていないんです」
父が、座卓に突きかけた手を止めた。直樹さんは、その父を見ずに続けた。
「知夏さんは、僕らが見えている人でした」
直樹さんは、そこで1度だけ、姉を見た。
「僕が結婚したかったのは、そういう人です」
姉は、何も言い返さなかった。言い返せる言葉が、多分1つもなかったのだと思う。姉が34年かけて集めてきた道具は、学歴と勤め先と肩書きだけだった。そのどれも、この場では使えなかった。姉が震える声で、聞いた。
「あの、直樹さん」
「はい」
「私、来月から、御社の窓口をやります」
直樹さんが、顔を上げた。
「お姉さんが、丸級さんの法人営業部だということは、去年の3月に、その釣書の余白で読みました。11月に車内で共同事業の話を聞いた時から、もしかしてとは思っていました。確かめられたのは、今日です。会場で配られた資料に、新しいご担当として、お名前がありました。会場では、お声はかけていません」
「これ、仕事に影響しますか?」
それは、姉がその夜に出した、唯一のまともな質問だった。直樹さんは、即答した。
「しません」
「本当に?」
「言い切るだけで、当たりません。11月にこの案件の担当が丸級さんの法人営業だと車内で聞いた時点で、身内が先方にいるという届けを、会社に出してあります。今日、お姉さんが担当だと分かりましたから、明日、もう1度出し直します。この仕事を決める場からは、僕が外れます」
「外れる?」
「有利にしない、というだけでは足りないんです。有利にできる場所に、僕がいないようにします。本社へは、うちから書面でお知らせします。お姉さんが隠していたことになると、困りますから。じゃあ、私は今まで通り、仕事の話だけしてください。それが、1番困りません」
姉は、頷いた。頷いてから、両手で顔を覆った。
「私、あの日、直樹さんの手を見たんです」
「はい」
「還暦の時。指の関節が、赤切れだらけで。それ見て、初めて、なんか…」
そこで、言葉が止まった。
「なんか、こういう手をしてる人を、私は数に入れてこなかったな、って思ったんです。それだけ思って、忘れました」
「はい」
「忘れたのを、今日、思い出しました」
直樹さんは、何も言わなかった。責めもしないし、許しもしなかった。
沈黙を破ったのは、母で、最初に出てきたのは、こういう言葉だった。
「知夏、あなた、昔から、見る目があったのね」
私は、顔を上げた。
「違うよ」
「え?」
「見る目があったわけじゃないよ」
自分の声が、思ったより掠れていた。
「私は、選べる立場にいなかっただけ。お母さんたちが回してきたものを受け取っただけだよ」
「でも、結果的には…」
「私は、結果の話をしてるんじゃないよ」
母が、口を継ごうとした。私は、ゆっくり言った。
「お母さんは、この人が警備員だと聞いた時、何て言ったか、覚えてる?」
「そんな、昔のこと…」
「1年前だよ」
私は、ゆっくり言った。
「『知夏でいいじゃない』って言ったよ」
母の顔が、固まった。
「知夏でいいじゃないの。姉でいらないものを回す時の、言い方だよ」
「言葉の綾でしょ」
「うん。綾だと思う。だから、直さなかったんだと思う」
言いながら、私は自分でも意外なほど、怒っていなかった。母を憎むには、母はあまりに正直だった。思ったことを、そのまま口にしただけだ。その中身が、31年変わらなかったというだけのことだ。
今度は、父が咳払いをして、言った。
「まあ、なんだ。今後、高野君とのご家族とも、改めて席は設けんとな」
「お父さん」
「うん」
「警備員だって聞いた時は、私にはその方が合ってるって、言ったよね」
父の手から、湯のみが少しずれた。
「そんなことは…」
「言ったよ。1月の夜に、そこの居間で。『お前には堅実な人の方が合ってる』って」
「それは、悪い意味じゃない」
「うん。悪い意味じゃないな。知ってる」
私は、父を見た。
「悪い意味じゃないから、31年、誰も直さなかったんだよ」
父は、黙った。母も、黙った。座敷が、本当に静かになった。障子の外で、風が庭に当たる音だけがしていた。私は、膝を揃えて、背筋を伸ばした。言うことは、実家へ向かう車の中で決めていた。玄関を開ける前には、言う順番まで決まっていた。
「お父さん、お母さん。私は、この家に何かを請求するつもりはありません。お金も、返してもらえません」
母が、顔を上げた。私は、母を見たまま続けた。
「8年で288万、入れました。それは、私が入れると決めて入れたので、返してとは言いません。知夏、月3万円も、もう入れません。9月に持っていったのが、最後です」
「それは、この前も聞いたけど…」
「今日で、終わりにします。理由も、言います」
私は、一度、息を吸った。
「私は、この家の家計を助けるために、働いてきたわけじゃありません。8年、やりました。もう、いいと思っています」
母が、何かを言おうとした。私は、続けた。
「それから、もう1つだけ、お願いがあります」
「なんだ」
「これからは、姉と比べるのだけは、やめてください」
声が、震えなかった。自分でも、不思議だった。
「絶縁するとは言いません。お正月にも、来ません。お父さんが入院したら、私は来ます。それは、するつもりです」
母が、両手で口を押さえた。
「ただ、比べるのだけは、やめてください。お姉ちゃんが上で、私が下だという話は、この家ではもう、終わりにしてください」
父が、口を開いた。
「そんなつもりはない」
「あります」
私は、壁の方を指した。座敷からは見えないが、居間の壁のことだった。
「あそこの賞状は、7枚あります。全部、お姉ちゃんのです。物心ついた時から、ずっとあの壁を見て育ちました」
父が、その方向を見た。
「壁の話をしてるんじゃありません。賞状が欲しいと言ってるんでも、ありません」
「じゃあ、なんだ?」
「私の職業欄が、空いていたことです」
座卓の上の紙を、私はもう1度指した。
「ここが埋まらない家では、私はずっと下なんです。埋めてくださいとは、言いません。ただ、比べるのは、やめてください」
父は、その紙を見ていた。長い時間になった。誰も、何も言わなかった。やがて、父は紙の方へ手を伸ばした。指が触れる直前で、止まって、その手を膝に戻した。
「さっき、お前が言ったな。もう一度、言ってくれ。その店の名前は」
私は、父の顔を見た。父は、私を見ていなかった。畳を見ていた。
「フレッシュマート桜井大店です」
「フレッシュマート、桜井大店。桜井大の坂の上か」
「はい」
「そうか」
それだけだった。謝罪ではない。認めた言葉でもない。それでも、父が私の勤め先の名前を口にしたのは、記憶に初めてだった。
帰り際、玄関で靴を履いていると、脇坂さんが後ろから声をかけてきた。
「知夏さん」
「はい」
「高野君は、あんたの代わりに喋ってやらんかったな」
「え?」
「高野君は、今日、一言も吉弘を攻めとらん。代わりに攻めてやることも、せんかった。全部、あんたが自分の口で言えるように、場を作っただけだ」
言われて、その日の座敷を思い返した。確かに、そうだった。直樹さんが口にしたのは、3年半前の店のことと、自分の仕事だった。姉の問いには答えたが、父の名前も、母の名前も、責める言い方では1度も出さなかった。脇坂さんは、父に事実を突きつけた。それでも、この家の順番そのものがおかしいと言ったのは、全部、私だった。
「そういう人と、一緒になった。それだけは、わしが持ってきた話で、よかったと思っとる」
脇坂さんは頭を下げて、先に帰って行った。車に乗ると、直樹さんがエンジンをかけながら言った。
「疲れましたね」
「はい」
「今日の知夏さん、強かったです」
「震えてました」
「震えてても、言えるのが強いんです」
「1つだけ、私、言い忘れました」
「何ですか?」
「賞状の話です」
私は、シートに沈んだまま答えた。
「あの壁、いつか自分の分が1枚かかると思って見てた時期があるんです。小学生の頃」
「はい」
「でも、今日見て、思いました。かからなくて、よかったです」
「どうしてですか?」
「かかってたら、私、あの壁の並びの中で自分が何番目かを数えていたと思います。2番目だとか、3番目だとか」
直樹さんは、前を向いたまま頷いた。私は、続けた。
「順番のない場所に、立ちたいんです」
「立ってますよ」
「そうでしょうか」
「3番のレジは、順番のない場所です。並ぶのはお客さんであって、あなたじゃありません」
その言い方がおかしくて、私は笑った。その日、初めて笑った。帰る途中、丘の上から街の明かりが見えた。私は、その時1つだけ気づいた。偏差値70。あの数字を、その日は誰も口にしなかった。31年間、あの家で1番鳴っていた音が、その夜だけは、1度も鳴らなかった。姉が、その夜、自分の部屋の電気を朝までつけていたことを、私は後で母から聞いた。
姉から電話が来たのは、2月の終わりだった。出張の帰りに終電を逃して、駅で困ったという。駅の警備員が、始発の乗り場とホテルを教えて、地図まで書いてくれたらしい。姉は、その人の手のことばかり話した。
「その人ね、地図を書く時、手袋を外したの。直樹さんと同じ手だった」
姉が、そこで言葉を切った。
「知夏、あの時のことは、悪かった」
私は、台所に立ったまま、何も言えなかった。
「付き合ってた人のことも、親に言えないまま、終わらせた。私、自分の順番を待ってたんだと思う。誰かが決めてくれる順番を」
「うん」
「それで、下に知夏を置いてた」
私は、湯のみを握り直した。
「すぐには、許せないけど」
姉が、息を止めたのが分かった。私は、続けた。
「でも、ちゃんと聞いたよ」
それだけ言うと、姉は息を吐いて、電話を切った。姉とは、それから月に1度ぐらい連絡を取る。仲がいいとは言えない。ただ、レジの話を笑いに使わなくなった。それだけのことが、32年目にして初めて起きた。両親は、あれから3万円の話をしない。還暦の後、国江さんとは年賀状が続いている。姉が実家に月3万円を入れ始めたことも、その返事で知った。
その年の暮れ、実家に来た父の元同僚に、父はこう言った。
「下は、坂の上のフレッシュマート桜井大店におります。今は、締めを任されていまして」
私は、台所で水を止めた。聞こえなかったふりは、もうしなかった。居間の賞状は、初等科の3枚が外された。誰が外したかは、聞いていない。開いた場所には、何もない。あの封筒を開けたのは、座敷から帰った次の朝だ。便箋は1枚。あの夏、自転車を動かした話が、直樹さんの字で書いてあった。見合いの話も、結婚の話も、一行もなかった。
脇坂さんとは、年に1度会う。父が店の名前を言ってくれた翌週、夫婦で菓子折りを持って訪ねた。玄関先で、脇坂さんは深く頭を下げた。
「わしは、間違えたな。すまん」
「そんなこと、ないです」
「間違えたが、行き着いた先だけは、間違えんかった。あの話は、初めからあんたに来た話で、ちゃんと戻った」
脇坂さんは、そう言って笑った。
話は、その年の春に戻る。4月1日の朝。直樹さんは、紺の制服ではなく、濃紺の背広を着ていた。鏡の前で、ネクタイを2度、やり直していた。私が前に立って、曲がった結び目を直した。
「もう、警備員じゃなくなるんだね」
「そうですね」
「寂しい」
「寂しいんですか?」
「少し」
直樹さんが、私の顔を見た。
「どうしてですか?」
「私は、警備員の直樹さんを好きになったから」
その人は、しばらく黙ってから、真面目な顔で言った。
「じゃあ、たまに、現場に行きます」
「そういう意味じゃないって」
2人で、笑った。玄関で靴のかかとを合わせるのは、前と同じだ。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
それから、1年半が過ぎた。私は今も、フレッシュマート桜井大店の3番のレジにいる。もう10年だ。名札の下に、時間帯責任者の札が1枚、増えた。本部長の妻になっても、レジはやめなかった。名札は「瀬川」のままにしてある。結婚するまでの8年間、この店で私を呼んでいたのが、その名前だったからだ。先月、休憩室で君子さんが茶を入れながら、言った。
「あんた、去年の冬、実家でよく言い返したんだってね」
「去年の5月に、君子さんが私の代わりに怒ってくれたからです。おかげで、今は私も、レジの外でなら、言えます」
君子さんは笑って、要冷を半分に切ってくれた。元橋さんは、今年70歳で、現場を退いた。前の日に、直樹さんが会いに行った。何を話したかは、教えてくれない。ただ、その夜は、目が赤かった。締めを任されてから、1度も間違えていない。初日だけ、浜口店長が事務所から出てきて、遠くで見ていた。金が合ったのを確かめると、何も言わずに戻った。先週、新しい子に締め方を教えた。
「瀬川さん、教えるの上手ですね」
「10年やってますから」
「すごいですね」
と言われた。その言葉も、もう受け取れる。
夜、家に帰ると、台所に家計簿のノートが置いてある。右上に、その日の天気が黒いペンで書いてある。本社に移ってからも、その癖はやめない。姉は、偏差値70だった。私は、姉より勉強ができず、進学もさせてもらえず、ずっと出来の悪い妹だった。でも、夫は1度も、私を姉と比べなかった。私が欲しかったのは、お金でも、肩書きでもなく、私自身を選んでくれる人だったんです。明日も、私は坂を登って、3番のレジに立つ。この持ち場に、これからも、自分の足で立ち続けたいと思っている。



