「水をかぶった方が頭がすっきりして、もっとまともな提案ができるんじゃないかと思ってな」——取引先の部長は、そう言って私の顔に水をかけた。初対面の挨拶もそこそこに、学歴を馬鹿にされ、無能呼ばわりされ、挙げ句の果てにこの仕打ち。私は営業部のただの平社員で、新人の土屋さんを連れて重要な契約更新の席に臨んでいた。我慢しなければ、そう思っていた。しかし、声を震わせながら「社長を呼んでください」と言った…

「水をかぶった方が頭がすっきりして、もっとまともな提案ができるんじゃないかと思ってな」——取引先の部長は、そう言って私の顔に水をかけた。初対面の挨拶もそこそこに、学歴を馬鹿にされ、無能呼ばわりされ、挙げ句の果てにこの仕打ち。私は営業部のただの平社員で、新人の土屋さんを連れて重要な契約更新の席に臨んでいた。我慢しなければ、そう思っていた。しかし、声を震わせながら「社長を呼んでください」と言った...

「無能と結ぶ契約はないぞ」

そう言い放つと、田口は突然、俺の顔めがけて水をぶっかけてきた。

頭から水をかぶった俺を見て、田口はニヤニヤと笑いながら言う。

「水をかぶった方が頭がすっきりして、もっとまともな提案ができるんじゃないかと思ってな」

土屋は信じられないものを見るような目で田口を睨みつけていた。

「なんだその目は?それが取引先の目上の人間にする態度か?新人の教育もまともにできないなんて、本当に無能だな」

「社長を呼んでください」

土屋の予想外の言葉に、田口は眉間にしわを寄せた。

俺の名前は長谷川。38歳の営業部員だ。

この会社に就職してから10数年が経つ。仕事での失敗や辛いことがあっても、家に帰れば妻と娘の笑顔に癒されてきた。

職場で特に成績が抜群にいいわけではない。目立つ功績もなければ、派手なパフォーマンスもできない。自分はコツコツと努力を重ねるタイプだと思っている。

縁の下の力持ちといったところだろうか。目立つ存在ではないが、同僚たちが困っていたら真っ先に対応し、チーム全体の成功を第一に考えて行動しようと常に心がけている。

そんな俺は、今年入社した新人の指導係を任されていた。指導している新入社員の土屋にも、働きやすい職場だと思ってもらえたらと日々考えながら接している。

俺のそんな思いが伝わったのか、彼女はよく「長谷川さんのように、私も周りに気を配れる会社員になりたいです」と言ってくれる。

土屋は元々優秀で、教え甲斐があるどころか仕事もよくできる。そんな彼女からそう言ってもらえることは、俺にとってとても嬉しいことだった。

そんなある日、上司から突然呼び出された。

すでに取引をしている顧客との、重要な独占契約の更新交渉を任されることになったのだ。担当者だった社員が体調不良になってしまい、新しい担当として俺の名前が上がったらしい。

俺は別の案件で今回の取引先と面識があり、しかも今回更新交渉をする独占契約に関する案件の承諾資料の作成を手伝ったこともある。総合的に見て、急遽担当を任せられるのが俺だったのだろう。

「これは会社にとって非常に重要な案件だ。期待してるぞ」

上司からはそう強く言われた。

正直プレッシャーを感じたが、同時にこれが俺にとっての大きなチャンスだとも感じていた。

ただ、今回の商談には心配な点があった。それは先方の担当者である田口部長の存在だ。

はっきり聞かされたわけではないが、どうやら以前の担当者は、この田口からの度重なる無茶な要望のせいで体調を崩したらしい。俺も田口の良くない噂は度々耳にしていた。

しかも、経験を積ませる意味合いで、今回土屋もこの商談に同席させることになったのだ。

田口が彼女を委縮させるようなことを言わなければいいが——と心から願った。初めての商談の席が彼女のトラウマにでもなったらと、俺は不安が拭えなかった。

商談が近づくにつれ、俺と土屋は資料の準備に追われた。独占契約の更新は会社にとって非常に重要な案件であり、失敗は許されない。俺は何度も土屋と資料の確認を行い、万が一に備えてシミュレーションも重ねた。

「長谷川さん、これで準備は完璧だと思いますが」

土屋が少し不安そうに資料を見つめながら言った。

「そうだな。でも念のためにもう一度確認しよう。商談当日は何が起こるか分からないから、どんな質問にも答えられるようにしておくんだ」

土屋は俺の言葉に真剣な表情で頷き、再び資料に目を通し始めた。彼女の努力と真剣さが伝わってくる。俺も改めて気を引き締めた。

商談当日、俺と土屋は緊張しながら先方の会社に向かった。約束の時間の5分前、会議室に通され、俺と土屋は田口が来るのを待った。

しかし約束の時間を過ぎても田口は現れない。

「時間、合ってますよね?」

土屋が不安に言った瞬間、会議室の扉が乱暴に開かれ、田口が入ってきた。

俺と土屋は慌てて立ち上がり、頭を下げる。

「ああ、待たせたかな。前の会議が長引いてね」

田口は遅れたことに対して謝罪の言葉もなく、ソファーにどっかりと座った。

「よろしくお願いします。では、こちらをご覧ください」

俺は田口の態度に面食らいながらも、なんとか言葉を絞り出し、用意してきた資料を田口の前に差し出した。

俺の隣では土屋が田口を鋭い視線で見つめていた。俺は小さく咳払いをする。土屋は我に返ったように何度か瞬きをして、表情を柔らげた。

商談が始まる前から険悪な雰囲気にしてしまっては、まとまるものもまとまらなくなってしまう。俺は心の中でほっと息をついた。

「ふーん。なんか面白みにかけるっていうか、目新しさがないっていうか。ああ、更新だからって適当にやってるわけ?お前、本当にこの商談まとめる気あんの?担当者が変わったって聞いてちょっと期待したんだけどね」

しかしほっとしたのも束の間、田口は俺が渡した資料をぺらぺらと適当にめくり、ちゃんと目を通すことなく放り出したかと思うと、開口一番そんなことを言ってきた。その言葉には嘲弄が含まれていた。

「今一度ご覧になっていただけませんか?こちらの提案内容は御社にとっての利益も十分考慮しており、新しい提案も……」

「ふん。お前、長谷川って言ったっけ?前の担当者も仕事できなかったけど、お前もできる感じがしないよな。てか、どこの大学出身?俺、一流大学の出だからさ。そうじゃない奴とは口も聞きたくないんだよな」

俺が説明を始めようとすると、田口は腕を組んで俺を睨みながら、俺の言葉を遮った。そして田口は、誰もが知っている有名大学の名前を出身だと得意げに言う。

「私はそんなに有名な大学は出てはないですが」

俺が自分の出身大学の名前を告げると、田口の口調はますます馬鹿にするような響きが強くなる。

「はあ。なんだ、その大学?聞いたことないんだけど。お前さ、うちの別案件の担当者なんだって。なんかすげえ小さい案件だから、どんな内容か忘れたけど。顧客の機嫌取りみたいなのがうまいのか、無駄に社内の評判はいいみたいだけどさ。俺、そういう奴が一番嫌いなんだよ。大した能力もないくせに、人柄だけでやってますっていう奴がさ」

吐き捨てるように言う田口のその言葉を聞いて、初対面の俺に対して田口がなぜこんなに当たりがきついのか、やっと理由が分かったような気がした。

俺はどんな小さな仕事でもこなし、取引先に対して誠実に対応してきた。それが徐々に評価され、いつしか「長谷川さんに任せれば安心だ」という声が取引先の間で広まっているようだった。

噂によれば田口は学歴主義者で、三流大学出身の俺が自分が務めている会社内で評判がいいというのが面白くないのだろう。こんなことで——とも思うが、これまで俺が耳にしてきた噂から田口の人物像を想像すると、田口の俺に対する態度も納得できる気がした。

そんなことを考えていると、土屋が俺を見て心配そうにしているのに気がついた。俺は小さく微笑み、彼女に大丈夫だという視線を送った。

田口がどう出ようと、俺はこの商談を成功させるために全力を尽くすしかない。俺はなんとか商談を進めようとするものの、田口の態度はますます悪化していく一方だった。田口は俺の言うことに対して、いちいちケチをつけ、まるで俺を挑発するようなことばかりを言ってくる。

しかし、俺が何度も冷静に対応する中で、田口は明らかにイライラしていた。

「さすが三流大学の奴は、頭の回りが悪いんだな。さっきから無能と結ぶ契約はないと言ってるんだよ」

そう言うと、田口は突然俺に水をぶっかけたのだ。

「長谷川さん、大丈夫ですか?」

ずぶ濡れになった俺に、土屋が心配そうに声をかけてくる。

「水をかぶった方が頭がすっきりして、もっとまともな提案ができるんじゃないかと思ってな」

田口は水を滴らせている俺をニヤニヤと笑いながら見て言う。

土屋は信じられないものを見るような目で田口を睨んでいる。

「なんだその目は?それが取引先の目上の人間にする態度か?新人の教育もまともにできないなんて、本当に無能だな」

土屋の視線を受けて、田口は怒鳴り散らす。

「社長を呼んでください」

土屋が怒りに震える声で言う。

「は?」

土屋の予想外の発言に、田口は眉間にしわを寄せる。

背筋を伸ばし、まっすぐ田口を見据える土屋の横顔を、俺はまじまじと見つめた。

「社長を呼んでください」

土屋は同じ言葉を、さっきよりもはっきりした調子で口にする。

「は?お前は何を言ってるんだ?社長?お前みたいな奴に言われて、ほいほい社長を呼ぶバカがいるとでも思ってるのか?大体、お前みたいな無能の下っ端が社長を呼び出すなんて、100年——いや、1億年早えんだよ」

田口はさも馬鹿馬鹿しいといった感じで鼻で笑いながら言う。

「そうですか」

では——土屋は淡々とした口調でそう言うと、スマートフォンを取り出し、電話をかけ始めた。

「おい、お前、ふざけんなよ」

田口は顔を真っ赤にして、土屋に掴みかかろうと腰を浮かせる。

「暴力はやめてもらえますか?」

俺はとっさに田口の前に立ち塞がった。

「どいつもこいつも、馬鹿にしやがって。お前のところは本当にまともに新人の教育ができないんだな。商談中に電話をかけるなんて聞いたことないぞ。ああ、もう、これはお前のところとは契約更新はできないな。全部お前の責任だぞ。どうする?ん?」

田口は鬼の首でも取ったように、得意げな口調で言う。

「彼女はわけもなくこんなことはしません」

俺は田口をまっすぐ見据えて言う。俺の言葉に、田口は怒りで顔を真っ赤にして、俺のことを睨み返してくる。

すると、会議室の扉が開き、取引先の社長が会議室に現れた。

「し、社長!?」

社長の突然の登場に、田口は目を見開き、驚いた声を出す。もちろん俺も驚きで、田口と同じような反応をしてしまう。

「藤田のおじさん、お久しぶりです」

驚いている俺と田口をよそに、土屋は社長に向かって笑顔で言う。

「藤田のおじさん!?」

田口は裏返った声でそう言うと、口をあんぐり開けて呆然とする。

「やあ、かおるちゃん。お父様は元気かな?」

社長も土屋に親しげに話しかける。

「はい。おかげ様で」

「つ、土屋さん、社長とお知り合いで?」

俺はなんとか言葉を絞り出し、土屋に疑問をぶつける。

「はい。黙っていてすみません。ただ、社長の知り合いだからと商談を有利に進めるのは、違う気がして……」

土屋は消え入りそうな声で言う。その言葉を聞き、いじらしいなと思った。

「かおるちゃんは相変わらず真面目だね。少しくらい人脈を使ってもバチは当たらんと思うがね」

社長は土屋を見ながら、少し呆れたような笑顔で言う。

「かおるちゃん……?」

土屋のことを何度も親しげに呼ぶ社長をまじまじと見ながら、田口は呆然とつぶやく。

「あの、お二人はどういったお知り合いで?」

俺は社長と土屋の顔を交互に見ながら尋ねた。

「彼女の父親は私の恩人でね。昔、会社の経営が危なくなった時に、助けてもらったことがあるんだよ」

俺の疑問に社長が説明をしてくれる。

土屋の父親は結構有名な投資家らしく、過去にこの会社が経営難に陥った際、資金援助したということだった。

「彼女の父親のおかげで私は命拾いしたというわけだ。これ以来、家族ぐるみで付き合いをさせてもらっているんだよ」

社長はそう言うと、土屋ににっこりと笑顔を向けた。

「さて、彼女がわざわざ私に電話をかけてきた理由を、そろそろ説明してもらおうかな」

社長は笑顔を引っ込めると、田口に鋭い視線を向けながら、低い声で言う。

「あの、それはですね、な、何と言いますか……」

社長に見据えられた田口は、冷や汗を流し、しどろもどろになりながら口を開く。

「なぜ取引先の方がずぶ濡れなのか、納得の行く説明をしてもらおうか」

真っ青になって言葉が出てこない田口に向かって、社長は畳みかけるように言う。

その後、俺は田口に代わって社長に状況を説明した。俺が説明をしている間、田口が何度か口を挟もうとしたが、社長が鋭い視線でそれを制した。

「田口君、君の行動は我が社の品格を貶めるものだ。このような行為は決して許されない」

俺の話を聞き終えた社長は、深いため息をつき、怒りに震える声で田口に言った。

「ま、まさか、そちらの女性が社長にとってそんなに大切な方とは存じ上げず……」

先ほどまで土屋のことを無能の下っ端と罵っていたのが嘘のように、田口は猫なで声で言う。

「君は何が問題なのか、全く理解できていないようだね。君のその言い方だと、彼女が私の知り合いじゃなかったら、今回の君の言動は問題なかった、と言っているように聞こえるが」

社長は眉間のしわを深くしながら言う。

「い、いえ、そういうわけでは……あ、あの、社長、私はただ、そちらからの提案に納得がいかなかっただけでして、我が社のことを考えてですね、ただ闇雲に文句を言ったわけでは……」

田口は焦りながらも、なんとか自分の言動を正当化しようと必死に言葉を続ける。

「納得がいかなかった」

社長は田口の言葉を繰り返し、ゆっくりと歩み寄った。

「それで、君は彼に水をぶっかけた、というわけか」

田口は社長の迫力に目を泳がせながら「いや、あの、あまりにもな提案だと思ったので」と必死に言い訳を続けた。

社長はその言葉に耳を傾けることなく、厳しい口調で言い放った。

「田口君の態度は、企業人として恥ずべき行為だ。長谷川君は誠実に商談に臨んでいたというのに、君はその努力を踏みにじったんだ」

「し、社長、どうかご容赦を……」

田口はなんとか社長の怒りを柔らげようとしたが、社長の鋭い視線はそれを許さなかった。

「容赦?よくもそんなことが言えたものだな」

社長は冷ややかな声で言い放つ。

社長の迫力に、田口はもう何も言えないようだった。彼の体には冷や汗が浮かび、手は震えていた。顔色は青を通り越して真っ白だ。田口は必死に言葉を探しているようだったが、何も出てこなかった。

「長谷川君、うちの社員が本当に申し訳ないことをした」

社長は俺たちに向かって深々と頭を下げた。田口も慌てて頭を下げる。

「いえ……」

俺は社長に頭を下げられて、恐縮してしまう。顔を上げた社長は、再び田口に向き直り、冷徹な声で言い放った。

「田口君、今すぐここから出て行きたまえ。今後の処遇については決定次第通達する。覚悟しておくように」

田口は顔を真っ赤にしながら、ふらふらと無言で部屋を出ていった。

その後ろ姿は、さっきまでの傲慢さが嘘のように小さく見えた。

その後、日を改めて商談の場が設けられた。商談はスムーズに進み、契約の更新は無事に成功した。田口がいなくなったことで、話はすんなりと進んだのだった。

田口はといえば、今回の彼の行動が問題視され、社内での信用は地に落ちた。表向きには体調不良を理由に長期休職を取ることになったそうだが、実際は社内での彼の存在は完全に排除されつつあった。

そして田口が休職している間に、彼の過去の行動が次々と暴かれることになったのだ。

田口がこれまでどれほど多くの社員や取引先に対して横柄な態度を取っていたのか。また、彼が部下たちに過剰なプレッシャーをかけていた事実が次々と明るみに出た。

さらに社外でも田口の悪評は広がっていった。彼が取引先で見せた態度はすぐに噂となり、同業他社にも知れ渡った。

その結果、田口は復職することなく解雇されることになったそうだ。そして、どの企業もそんな彼を雇いたくはなく、最終就職もままならないらしいと噂に聞いた。

俺は取引先との独占契約の更新が無事に成立し、土屋と共にその成功の立役者として社内外で高く評価された。

この契約が会社にとってどれほど重要だったかは言うまでもないが、それ以上に、俺の仕事ぶりが改めて認められたことが嬉しかった。

この成功を機に、俺はさらに大きなプロジェクトを任されるようになった。土屋も指導期間が終わり、バリバリと仕事をこなしている。頼もしい限りだ。

俺が得意とする細やかなフォローや、クライアントとの信頼関係を重視したアプローチが功を奏し、顧客満足度は飛躍的に向上した。そしてその働きぶりは会社の経営陣にも認められ、俺は営業部のチームリーダーへ昇進を果たした。

さらに取引先での評判もますます上がり、新たな契約やビジネスチャンスが次々と舞い込んでくるようになった。

自分の地位が上がるにつれ、ふと田口のことを思い出すことがある。

あの出来事は決していい思い出ではないけれど、かけられたあの水の冷たさは、俺に初心を思い出させてくれる。

自分は偉いと奢らずに仕事をしていこう。俺は今日も気を引き締めながら仕事に向かう。

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