その日、白川さえはいつものように郵便受けを開けた。真夏の朝の光が団地の玄関ホールに差し込んでいたが、コンクリートの壁はひんやりとしていた。最後の一封筒を見た瞬間、彼女の指先は止まった。市役所の紋章が印刷された赤い封書だった。
彼女は反射的にその封書を他の郵便物の下に押し込んだ。遠くから足音が近づいてきて、二の方から買い物帰りの老女が現れた。同じ棟に住む茂江だった。さえは腰を折って挨拶をしたが、目は合わせなかった」。彼女が通り過ぎるのを待って、封書をトートバッグの底に押し込んだ
三階までの階段を昇りながら、さえは心の中で繰り返した。まず元つぐさんには言わない、言い方を考えてから言う、今日じゃなくてもいい-。鍵を開けて玄関に入ると、正面の廊下の突き当たりにある扉を見た」。それは去年の秋からずっと閉じたままだつた。
息子の洋介は、会社の契約が切れて以来、自分の部屋に閉じこもっている」。40歳を過ぎた息子が、ゲームの効果音だけを漏らすように
さえが台所に立つと、カウンターの上の二人分の湯呑みが目に入った」。彼女は布のトートバッグを台所のテーブルに置き、封書を取り出して、食器棚の一番奥に押し込んだ。それは、夫に見せなければならないものだが、どうしても今日は言い出せなかった
その夜の食卓で、元つぐは新聞を広げたまま言った」。昨日、小泉さんに廊下で会ったぞ」。洋介のことを聞かれた」。東京の会社でITの仕事をしていて、今はリモートワークで自宅から働いているんだと言っておいた」。彼の声には何の感情も含まれていなかった”。さえは「そうですか」とだけ答え、箸を進めた”。その説明はもう何度も聞いてきた
この団地の壁は薄い”。隣家のテレビの音も、夫婦の会話も、筒抜けになる」だが、この家の中で一番聞こえないのは、息子の声だった」
六月に入り、梅雨が続いていた”。さえは朝、廊下でお茶を入れて、洋介の部屋の前に置いた」。そして市役所からの封書を、湯呑みの隣に置いた」。返事はなかった」。開けた扉の隙間から、ゲームのクリック音だけが聞こえていた
さえは自分で市役所へ行くことにした」。元つぐには何も言わないで、息子の滞納(たいのう)した税金と保険料が三分間に及ぶことを、窓口の女性職員に確認した」。彼女は分割払いの申請書類を預かりながら、カーディガンの袖で目を拭いた」。市役所を出た後、雨はまだ続いていた
その同じ夏の夕方、駅前の自転車置き場では、元つぐが週三日の仕事をしていた”。彼はそこで放置された自転車を整理する仕事をしていた”。すると、かつて部下だった田中が声をかけてきた”「白川さんじゃないですか」”。元つぐは反射的に胸を引き締めた”「知人に頼まれてね、ボランティアだよ」”。田中は「そうですか」とだけ言って去っていったが、元つぐは帰宅時、コンビニに寄って、千三百円のクラウンメロンを買って帰った”。それは、自分自身に対しての何か証明のような気持ちだった
その夜、さえは元つぐに滞納の話を切り出した”。「このまま放置すると、市役所が口座を差し押さえると言ってます」。年金の口座は対象外でも、普通口座は対象になる”。元つぐはしばらく黙って、「分かったから、飯を食え」とだけ言った”。その夜、彼は廊下で、この団地から出てこない息子の扉を拳で叩きつけた”「41年生きてきて、何をやってるんだ」”。そして扉の下の隙間から、インスタントラーメンのスープが溢れ出てきた”
さえは廊下に膝をついて、そのスープを拭き取った」。壁の向こうで、息子が立っている気配がした”。何も言ってはこないが、確かにそこにいた
七月になると、さえはローン会社の書類を、息子の部屋の前で受け取った”。洋介は開いた扉のかげから、顔だけを出して、それを見せた”「消費者金融から300万円以上借りた」。特速が来てる”。被った」”。さえは手の中の書類を、もう一度、静かに見つめた”。「ゲームとか…」”。洋介はそれだけ言って、また扉を閉じた
さえは元つぐに、その書類を見せた”。元つぐは黙って、椅子に背を預けた”。「俺のせいだ」”。その言葉が、元つぐの口から漏れるまで、二人は長い沈黙を守っていた”「俺があいつに完璧を求めすぎた」。仕事で成功しろ、名前のある会社に入れ、結婚しろ…そういうことばかり言った”。「お前が言って、ずっと公園で座ってた」”。「すまない」”。元つぐは、初めて泣いた”。この男が泣くのを、さえは40年の結婚の中で一度も見たことがなかった
翌朝、元つぐはスラックスは履いたが、シャツはアイロンをかけていなかった”。彼は廊下に出て、息子の扉を二度、控えめに叩いた”「洋介、少し話がしたい」。怒鳴ったりしない”。ただ話したい”」。扉が少し開いた”。「弁護士と相談して、自己破産の手続きを進めようと思っている”。費用は親が出す”。お前がやることは、必要な書類を揃えることだ”」。「団地も、ここを引き払う予定だ”。もっと安いところに移る”。お前も一緒に来るかどうか、お前が決めていい」。だが来るなら、何か仕事を探してくれ”。俺も週一しか仕事がないから、お前の力が必要だ””。洋介の顔がわずかに動いた”。数センチ、扉の隙間が開いたままで残った
八月の終わり、さえはベランダに干したタオルを取り込んだ”。古く毛立ったタオルは、よく乾いていた”。廊下の奥からキーボードの音が聞こえてきたが、今日はゲームの効果音がなかった”。台所に戻ると、元つぐがテーブルに座っていた”。さえはお茶を淹れて、湯呑みを三つ並べた”。「元つぐさんの分、自分の分、もう一つ」”。そして洋介の部屋の前まで、盆を運んだ”「陽介、お茶」。ここに置いておくね””。キーボードの音が一瞬だけ止まり、また始まった”。さえは湯呑みを扉の前に置いて、廊下を戻った”。台所では元つぐが湯呑みを受け取り、「ありがとう」と言った”。夕暮れの光が、机の上の封筒に差し込んでいた”。封筒の中には、二人が今日押した印鑑の跡がある書類が入っていた”。それで十分だった”。明日のことは、明日考えるしかない”。それで十分だった



