会議室のドアを開けた瞬間、中学時代の因縁の相手がそこにいた。酒井勇気。グループ会社の新システムを納品してからわずか三ヶ月での呼び出しだった。いきなり彼は俺に向かって吐き捨てた。「お前の作るシステムなんて全部ゴミだ。削除して失せろよ。」
俺はただ淡々と応じた。「承知しました。」証拠だけはきっちり取って、その場を後にした。
俺の名前は野崎。都内でノザックソリューションズというシステム開発会社を経営している。中堅規模だが、社員も増え、徐々に安定した基盤を築いている。大学では情報工学を専攻し、卒業後は大手IT企業にプログラマーとして就職。最初の数年はとにかく技術と経験を貪欲に吸収した。夜中までコードを書くのが日常で、毎日が研鑽の連続だった。だが、ただの歯車で終わる気はなかった。自分の理想を追いかけられる場所を作りたいと思い立ち、入社からわずか三年で独立した。ノザックソリューションズの立ち上げだ。
最初は案件も乏しく、人も資金も足りなかった。だが運命を変えたのが、今も取引を続けているワイズホールディング社との出会いだった。現社長の酒井新一さんが、まだ無名だった俺の会社に信頼を寄せ、システム構築の案件を任せてくれたのだ。の社長とのそのご縁がなければ、今の俺たちはなかったかもしれない。
あれから数年。グループ全体で複数の案件を任されるまでに成長した。特にここ最近は、グループ内の業務システムを一新するという大きなプロジェクトが動いており、俺たちは全社を上げて取り組んだ。要件定義、設計、実装、テスト。どれも妥協せず進めた結果、つい先日、全ての納品を完了したばかりだった。
達成感に浸る間もなく、突然「本社まで来てくれ」と呼び出された。「システムについて話がある」という。そして当日、打ち合わせ室で俺を待っていたのは酒井勇気だった。あの顔を見た瞬間、全身の空気が冷えた。中学時代の同級生で、俺が最も関わりたくなかった相手。とにかく俺に執着していたやつだった。
テストで俺の点数が上だと「カンニングしたに決まってる」と騒ぎ、教師に食ってかかる。翌日には机にゴミを入れられたり、俺の発言を曲解して周囲を煽ったり。表向きは明るく社交的なやつだったが、その裏でやっていることは陰湿そのものだった。
それがなぜ今ここに、と混乱していると、彼は開口一番こう言われた。「いや、驚いたか。まさかお前が取引先にいるとはな。」俺、親父の会社で役員やってたんだけど、最近グループ全体のシステムプロジェクトを任されてさ。」で、取引先リスト見たらお前の名前があったわけ。」これは運命だと思って、ちゃんと担当に変わってもらったんだよ。」
一見にこやかに話していたが、俺はその裏にある本音をすぐに見透かした。こいつがそんな縁を大事にする人間じゃないのはよく知っている。俺を見つけたから、わざわざ担当に変わった。それだけで、嫌な予感が確信に変わった。「絶対に何かやらかすつもりだ。」俺はそう直感していた。
その嫌な予感は、すぐに的中した。「でさ、早速本題なんだけどよ。」お前の作ったあのシステム、クソだな。」
それだったった。丁寧な挨拶もなければ、感謝の言葉もない。吐き捨てるように言い放ったその声は、俺を同業者として見ていないようだった。「具体的にどの辺りが問題でしたか?」俺は冷静を保ちながら尋ねた。「こちらとしてはグループ各社の要望をヒアリングし、何度も会議を重ねて完成させたシステムだ。」回収や追加機能の依頼ならともかく、「クソ」の一言で片付けられる筋合いはない。
だが帰ってきたのは理屈ではなかった。
「いや、全部だよ。」全部。」設計からUIから動きから、何もかもゴミ。」そもそもお前が社長やってるような会社に、まともな人材がいるわけないだろ。」全員カスだよ。」カス。」中小企業が生き残ってんじゃねえよ。」口元にうら笑いを浮かべながら、こいつは言いたい放題だった。
「ですが、全て御社の要求定義書に基づいて開発しております。」仕様通りに構築して納品したはずですが。」そう反論しても、全く耳を貸さない。「はいはい。」それも全部俺が見直してんの。」あんな仕様通りに作ってんのがまずセンスねえんだよ。」もうさ、お前みたいな技術屋のやることなんて時代遅れなんだよ。」無駄が多いって言うか。」
もはや会話にならない。「改善点を指摘するでもなく、代案を出すでもない。」ただ一方的に否定し、マウントを取りたいだけの言葉が続く。そのうち言葉の刃は、システムから俺自身、そして社員たちへと向けられた。「てかさ、お前が社長やってる時点で終わってんだよ。」社員もクソしかいないから、あんなシステムしか作れねえんだよ。」恥ずかしくね?」
明らかな人格否定だった」。どんなに理不尽でも、俺は耐えるつもりだった」だが、社員を侮辱されたことだけは、感下できなかった。「では、今後の運用についてどうされますか?」そう問いかけた俺に、こいつは笑いながらとんでもないことを言い出した「運用するわけねえだろ。」いらねえもん。」削除しとけ。」全部ゴミはゴミ箱にってな。」」
本気だった」俺は一瞬、聞き間違いかと思った「納品されたばかりの、数時間にも及ぶ作業の結晶を、全削除しろと。」
「念のため、削除の指示について文書でいただけますか?」俺は即座にそう求めた「こんな異常な指示にだけ従えば、後から何を言われるかわからない。」「あ、いいよ、いいよ。」書けばいいんだろ。」お前らって証拠だの何だの好きだよなあ。」ほらよ。」軽い口調で、容赦に削除を命じると、書き殴りサインまでしてよこした」年としては十分だった。「ま、消したとこで、どうにでもなるっしょ。」だって、結局はシステムだろ。」まるでスマホのアプリを消すような感覚で言ってのける「その無神経な態度に、寒けすら覚えた」俺はその姿を見て確信した」これは完全に酒井勇気の独断だ」社長に相談した形跡もなければ、事前連絡もない「しかも、あの酒井社長がこの状況を容認するとは到底思えなかった」俺は書類鞄に書面をしまい、無言で立ち上がった「「では、指示通り処理いたします。」一礼だけして、その場を後にした」最後まで聞こえてくるうら笑いが、耳に残った。
会社に戻ると、俺はすぐにプロジェクトルームに向かった」そこには今回のグループ向けシステムを構築した開発チームが待機していた」 「みんな聞いてくれ。」今から、グループ案件で納品したシステム全部削除する。」すぐに対応に入ってほしい。」」
一瞬、全員が固まった」誰もが自分の耳を疑ったような表情をしていた「「え、削除って、全部ですか?」どういうことですか?」当然だ」彼らは数ヶ月にわたってこの案件に取り組み、ようやく納品を終えたばかりだった」 「ああ、全部だ。」だが、俺の判断じゃない。」正式な削除命令を受けた」しかも文書で。」これがその書面だ。」俺はプロジェクターにスキャン済みの書類を映し出した」そこには酒井勇気の署名入りで、当社に納品されたシステムを全て削除すること、と明確に記されていた」 「これ、本当に?」向こうから削除って、意味が分かりません。」いたずらか、罠じゃないですか?」不安の声が飛び交う中、俺は静かに首を振った」 「書面をもらってある以上、こちらに責任はない。」しかも、あれは我々の技術に対する侮辱だった。」俺たちはふざけて作ったわけじゃない。」真剣に、誠実にやってきた」それをゴミ扱いされた」これは、技術者全員への侮辱でもあるんだ。」
俺の言葉に、皆の表情が引き締まっていく」やがて一人が頷き、次々に作業用の端末に向かっていった」静かに、しかし確実に、システムのファイルが次々と消されていく」プロジェクトごとのディレクトリが削除され、テスト環境のデータベースが消去され、サーバーも順次シャットダウンされていった」本番用システムのアクセスも全て停止」IDもパスワードもログも、形跡もなく」積み上げてきた努力を自らの手で崩す」胸が痛まなかったといえば嘘になる」だが、これは正しいことだと俺は信じていた」」
削除作業が進行する中、俺は自席に戻り、書面をスキャナーでPDF化」添付ファイルとして、「検面削除命令に関する商標資料」のメールを作成し、酒井新一、あの会社の現社長へと送信した」そして送信確認の後、スマホを取り出して通話ボタンを押す」数コールの後、あの落ち着いた声が応答した」 「野崎君、どうかしたかね。」「突然のご連絡、失礼します。」先ほど、貴社の酒井勇気様より、納品済みのシステムを全て削除するようにというご指示を受けました。」書面も頂いておりますので、ただいまメールで送付させていただきました。」現在弊社では、指示通り削除作業を進めております。」
一拍の沈黙」その後の声は、少しだけかれてていた」 「なんだって?」削除?」勇気が?」「はい。」打ち合わせ中、弊社の技術社員を侮辱する発言も繰り返されていました。」御社との長年の信頼関係を踏みにじられるようで、さすがに感下できず。」「まさか、あいつ、こんなことを…」電話の向こうで、呆然とつぶやく声が聞こえた」俺は深く息を吐いて、最後の言葉を口にした」 「酒井社長、長年のお付き合い、本当にありがとうございました。」そのまま静かに通話を切った」感情ではなく、事実を伝えただけだ」だが俺の胸の奥には、少しだけ重たいものが残っていた」」
社内のネットワークの各所で、異変が一斉に現れ始めた」営業部門では顧客情報にアクセスできず、出荷も停止」経理は請求データが消え、物流は納品管理システムが真っ白」どの部署からも「画面が動かない」「データが消えた」「操作不能」と悲鳴が上がった」取引先からも次々に電話が殺到する」 「伝票が来ていないんですが」「入金処理が遅れてる」「アクセスできません」社内は完全にパニック状態だった」酒井新一はその状況を前に、重く椅子から立ち上がった」つい先ほど、野崎から全システム削除の報告を受けたばかりだ」削除の書面の写しと共に、こうも言われた」 「御社のご指示から、あんなシステムを作る会社も社員もゴミだと断言されました。」御社の要望通りに構築したものにも関わらずです。」私は感下できませんでした。」その一言が、新一の中で何かを切った」 「勇気。」社長室に来い。」今すぐだ。」
ドアを開けて入ってきた勇気の顔には、いつもの薄ら笑いが浮かんでいたようだ。」「何、そんな怖い顔してさ。」俺、なんかしたっけ?」「しただろうが。」お前、野崎君に何を言った?」あんなシステムいらないから削除しろと命じただけでなく、社員ごとゴミだとまで言ったじゃないか。」社長室に怒声が響き渡った」だが勇気は眉一つ動かさなかった」 「ええ、だってあれ正直、行けてなかったし。」ああいう空気読めない技術屋って、やたら真面目すぎて融通効かないだろ。」正論で来られると、萎えるっつうかさ。」「ふざけるな。」貴様、どこまで会社を壊す気だ。」「システムなんて、変え直せば済む話じゃん。」別に困らなくね?」今時何でもあるし、金で解決できるだろ。」その瞬間、新一の顔が引きつった」何も分かっていない」あれは我が社の現場に合わせて、ヒアリングと調整を重ねて作ったフルカスタマイズだ」大体、作り直しや買い直しなど、数ヶ月の混乱を招くだけだ」 「でも、別に半年くらいなんとかすればいいんじゃね?」まあまあ、慌てんなって。」新一は机を叩いた」黙れ」技術者を侮辱し、現場を混乱に落とし入れた、お前の姿勢が許せん」勇気はようやく笑みを引っ込めたが、まだ何も理解していなかった」 「じゃあ、野崎に頼めば、戻してくれるんじゃね?」新一は額に手を当てて、深く吐息をついた」謝罪するしかない」今すぐ野崎君のところへ行く」頭を下げて、頼み込むしかない」お前も来い」その時になって、勇気の顔にわずかに焦りの色が浮かび始めていた」だがそれでも、彼の甘さは何一つ変わっていなかった」」
全体の混乱が広がった数時間後、新一社長とその息子が俺の会社を訪ねてきた」応接室のドアが開いた瞬間、新一社長が深々と頭を下げた」 「野崎君、この度は息子が大変失礼なことを。」本当に申し訳ない。」心よりお詫び申し上げます。」その横で、勇気も形ばかり頭を下げさせられる」 「勇気、お前もだ。」「すみませんでした。」声は小さく、明らかに不満げだった」が、無理やりでも頭を下げさせられただけなのかもしれない」俺は淡々と口を開いた」 「謝罪は確かに受け取りました。」それだけであれば、お引き取りください。」二人は一瞬、驚いたように顔を上げた」 「我々は正式な削除命令と書面をいただき、それに基づいて行動しました。」こちらに落ち度は一切ありませんので。」沈黙が流れる」その中で、酒井新一は苦渋の表情で口を開いた」 「いや、それだけでは済まされない状況になってしまっているんだ。」今、グループ全体が業務停滞に追い込まれている」社内も現場も取引先も、てんやわんやだ。」その言葉に、俺は何も返さず黙って聞いていた」 「もちろん、原因がこちらにあることは承知している。」だが、もし可能であれば、削除されたシステムを、できる範囲で戻してもらうことはできないか?」いや、せめて代替手段でも構わない。」何かしらの形で業務が回るようにしてもらえないか?」深く頭を下げながらそう言った」 「勝手なことを言っているのは分かっている。」だが、君にしか頼めないんだ。」ここまで頭を下げるとは思わなかった」数年前、まだ俺が駆け出しだった頃に、チャンスをくれたあの誠実な社長が、今自分の過ちを背負って、こうして頭を下げている」俺は一度だけゆっくりと息を吐き、答えようとした」それはその瞬間、隣に立っていた勇気が小さく動いた」何か言いかけたその口元が、俺の視界に入った」そして彼の言葉が空気を変えるのは、ほんの数秒後のことだった」 「いや、親父。」そこまで頭下げる必要ある?」あっちは下受けだろ。」室内の空気が一変した」俺は口を閉じ、無言で視線を向けた」」 「貴様。」怒気を含んだ声が低く響く」 「だってそうじゃん。」発注側と受注側だろ。」別にそこまでペコペコする必要ないって。」「貴様。」あ、机が震えるほどの怒声が炸裂する」まだそんなこと言っているのか」お前が勝手に削除を命じ、グループを混乱に落とし入れ、野崎君や社員を侮辱したことを、何一つ反省していないのか」 「ちょ、待ってよ。」本気で怒ってんのか?」いや、でも、俺は…」「もういい。」お前は今日限りで首だ」これ以上、会社にも私にも野崎君にも迷惑をかけるな」」 「クビ?」冗談だろ。」俺が何したってんだよ。」俺の方へ、すがるような視線が向けられる」 「野崎、なあ。」頼むって。」お前からも何か言ってくれよ。」元通りにしてくれたら、ちゃんと謝るからさ。」俺は静かに立ち上がり、彼を見下ろしていった」 「そのような考えのある企業とは、今後一切関係を持ちません。」明確にはっきりと告げた」」 「勇気、謝れ。」心から謝るんだ。」出なければ、どうにもならんぞ。」勇気は震えながら俺の前に膝をついた」 「お、お願いします。」許してください。」俺が全部悪かった。」ちゃんと謝るから。」新一が背中を押し、無理に頭を下げさせようとするが、俺はそれを制した」 「やめてください。」そのような形だけの謝罪に意味はありません。」私はあなたを許すつもりはありません。」その言葉に、勇気の顔が引きつった」 「そんな、お願いだよ。」許してくれ。」俺、首になったら、行くとこなんて…。」涙を流しながら膝をつき、喉を絞るような声で縋ってくる」だが、俺の心は一切揺れなかった」その声が届くことは、二度となかった」」
酒井勇気があの会議室を出た翌日、彼は正式に解任された」さらにグループ企業全てから関係を切られ、追放処分となったと聞く」かつての同級生が引き起こした不祥事は、すぐに業界中に広まった」取引先に対してゴミと発言」システム全削除の独断命令」社長の父親に首を言い渡される」いずれも強烈すぎる内容だった」ネット上でも炎上は避けられなかった」「無職」「自爆系おぼっちゃま」「人をゴミした男の末路」といった見出しが並び、あっという間にまとめサイトやSNSに拡散された」最終的な就職の話も立ち消えになり、どの企業も彼に声をかけようとはしなかったらしい」今ではどこにいるのかもわからない」」
一方で、俺の元には酒井社長から丁寧な連絡があった」 「ご迷惑をおかけした人間は、もういなくなりました。」もう一度、信頼から始めさせてください。」その言葉に嘘はなかった」こちらも、もう一度だけなら応じる価値があると判断し、再契約を結んだ」実はあの日、全ての削除を命じられた時、俺は念のため全システムのバックアップを残していた」顧客との関係がどうなるかは未知数だったが、誠意なき言葉には従うが、未来のために備えることは技術者として当然の判断だった」再契約と同時に復旧作業を開始し、システムは数日で元通りに戻った」誠実に向き合おうとするものには、誠意で答える」それが俺の流儀だ」その姿勢は外部からの評価にもつながり、新たな取引先からの相談が増え、社員の士気も目に見えて上がった」俺は改めて実感する」技術は道具ではない」それを支えるのは金でも効率でもない」技術とは、信頼で支えられるもの」そう心に刻んで、俺は今日もキーボードに向かっている」



