「ちょっと待て。絶対にそこを動くな。」…

「ちょっと待て。絶対にそこを動くな。」...

電話の向こうから、いつもとは違う、凍りつくような声が聞こえてきた。
「どうして、三十億円の会議に来なかったんだ?」
真壁工業の女社長からの電話だった。申し訳なさそうに事情を話すと、向こうの声は怒りで震え始めた。
「ふざけるんな。お前、まさか… 」
私は深くため息をついた。昨日の出来事が、悪夢のように蘇ってくる。
部署長の橘から、前年度比三〇〇%という、到底達成できない数字を課せられ、達成できなければ即日解雇と言い渡されたのだ。
「ちょっと待て。絶対にそこを動くな。」
その言葉は、電話が切れた後も、私の耳に残り続けた。

私は、遠藤と桜電機の営業担当者だ。今日も取引先の真壁工業を訪れ、先月導入した自動組立機の稼働状況を確認していた。。
「遠藤さん、本当に助かってるよ。組み立て効率が劇的に上がったんだ。」
工場の小林さんはそう言って満足そうに笑うが、その眉間にはわずかにしわが寄っている。何か気になることがあるのだろうかと尋ねると、彼は検査工程が追いつかず、在庫が滞っていると打ち明けた。私は、組立ラインの制御を見直し、検査工程の自動化を一部解除する提案をしたところ、小林さんの顔がぱっと明るくなった。。
「そんな考え方はなかったよ。もっと詳しく聞かせてくれ。」
これが私の営業スタイルだ。数字だけでは見えない、現場の隠れたニーズを掘り起こすこと。それが私の信念だ。

ところが、穏やかな午後、橘部署長の鋭い声が飛んできた。。
「おい、遠藤。同じ客に何度も通ってるんじゃないよ。時間の無駄だ。」
会議室に呼び出されれば、「お前の営業スタイルは完全に無駄だ」と、周りの目も気にせずこき下ろされる。。
「遠藤、来月からお前のノルマを変更するぞ。総年収の三〇〇%だ。達成できなければ、即日解雇だ。」
「そんな数字、現実的じゃありません。」
「できなければ今すぐ辞めろ。」
机を叩く音が会議室に響いた。これは明らかなパワハラだと、誰の目にも明らかだった。。。

それからの日々、私は必死に数字を追いかけたが、橘部署長の嫌がらせは止まらなかった。提案書は握りつぶされ、顧客訪問は制限され、新規開拓の予算も認められなかった。そして一ヶ月後。
「一四〇%?何て情けない数字だ。お前はクビだ。」
「… ですが、私は自分の営業スタイルに誇りを持っています。お客様の役に立てることが、私の喜びでした。」
「何を強がってるんだ。お前のスタイルなんて、この会社には必要ないんだよ。」
その時、ふと先輩から聞いた話を思い出した。橘部署長の父親は、我が社の最大の出資先である橘製作所の社長だということを。皆、それを知っていながら誰も口にしない。上層部も、恩のある会社の御曹司に逆らえないでいる。怒りと後悔が胸の中で渦巻いた。

解雇を告げられ、机を片付けていると、携帯電話が鳴った。画面に表示された名前を見て、心臓が止まるかと思った。. 。
「遠藤さん、どういうことだね?三十億円の相談を、一方的に打ち切るとは。」
新たな勤務先である真壁工業の社長からの電話だった。私はアプリ開発に関わる大型案件の相談を進めていたのだ。.

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「すみません。私、実は… 解雇されたんです。」
受話器の向こうで、一瞬の沈黙が流れた。。。
「… は?ふざけるんな。今すぐ会社に行くから、絶対にそこを動くな。」
その予想外の言葉に、胸に溜まっていた暗い感情が、少しだけ晴れていくのを感じた。。。

約二十分後、真壁社長が我が社の入口に現れた彼女は、いつもの優雅な雰囲気をかなぐり捨て、異様な迫力を放っていた。。。
「遠藤さんの上司の方をお呼びください。」
受付は押され気味に、橘部署長を呼び出した。。。
「橘部署長、遠藤さんを解雇すると聞きましたが、本当ですか?」
「ええ、数字も上げられない無能な男ですからね。」
「あなたは、三十億円のプロジェクトのことをご存知ですか?」
橘部署長の顔色が、一瞬で変わった。. 。
「我が社は、遠藤氏を通じて、アプリ製品開発に係る三十億円規模の相談を進めていた。それを一方的に打ち切ったのは、どういう了見だ?」
「三…

三十億?」
橘部署長の顔から血の気が引いていくのが分かった。。。
「会議室を貸していただこう。」

会議室に入るや否や、真壁社長は静かに、しかし断固とした口調で語り始めた。。。
「橘部署長、まず、会社経営の基本についてお話ししましょうか。会社にとって最も必要なものは何だと思われますか?」
「… 利益、でしょうか。」
「いいえ。」
その声は、会議室中に響き渡った。。。
「顧客との信頼関係を構築できる営業マンは、数億円の設備投資よりも価値がある。遠藤氏が担当してから、我が社の会議の質は向上し、担当者の質も上がった。関係各所からの協力も迅速に得られるようになった。このような優秀な営業マンを、一ヶ月の数字だけで判断するなど、管理者としてこれ以上愚かな決断があろうか?」
さらに言葉を続ける真壁社長。。。
「そして、総年収の三〇〇%などというノルマは、労働基準監督署に通報されれば、御社の信用は地に落ちるだろう。訴訟沙汰にもなりかねない。」
「… っ。」
言い返せない橘部署長を見据えて、真壁社長は最後の一言を放った。. 。
「そして最も重大な問題は、担当者に相談もなく三十億円のプロジェクトを一方的に打ち切ったことだ。これは、同族経営の弊害としか言いようがない。」
「橘部署長、あなたは何の為に管理職になったのですか?力で部下を苦しめるためではありません。管理職として、部下を守る義務があることをお忘れなく。」
完全に追い詰められた橘部署長は、深く頭を下げるしかなかった。。。
「…

申し訳ございませんでした。」

こうして、真壁社長の奔走により、私の解雇は撤回となった。あの時、彼女の顔を直視することはできなかったが、この恩は必ず返そうと心に誓った。。。。

翌日、真壁工業では、三十億円プロジェクトの会議が開かれていた重要な役員や開発部長が集まり、緊張した空気が漂う中、私は桜電機の営業担当として参加した。真壁社長の問いかけに、私はこれまでの経験を活かし、ある提案を行った。。。
「… 既存ラインの職人技を、マニュアルだけでなく、動画やデジタルツールとして可視化し、誰でも共有できるようにしては如何でしょうか。」
「海外展開については、まず北米と欧州に絞り、マニュアルやWebサポートの多言語化を進めるのが得策かと。」
会議室に一瞬の静寂が流れたが、やがて期待を込めたざわめきに変わった「なるほど、可能かもしれない。」「この方法なら、我が社のブランド力を海外に広げられるだろう。」
真壁社長は安心したように微笑み、会議を締めくくった。。

その後、二人きりのカフェスペースで、彼女はぽつりと本音を漏らした。. 。
「遠藤さんがいてくれて、本当に良かった。私一人じゃ、あの人数の前で上手く立ち回れなかったと思う。」
「いえ、社長が皆を上手く纏めて下さるから、提案もしやすかったんです。」
「… 本当はね、皆が私に完璧を求めるのが、すごく重いんだよ。」
父の病により、第二代目の社長として継いだ彼女の苦悩を、私は初めて知った。。。
「遠藤さんと話すと、何だか気持ちが軽くなるんだよね。頭の中のモヤモヤが整理されるっていうか。」
「私はただ、社長が本当に求めている答えを見つけるお手伝いをしているだけですよ。」
「…

数字しか見ていない営業マンじゃなくて、現場の声に耳を傾けられる人、君みたいな人が、私たちが探していた人なんだよね。」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が温かくなったことを覚えている。。。
「遠藤さんだって、十分すごいよ。橘さんがね、彼の父は経済界の大物だけど、あれはいかんと思うよ。」
真壁社長は、橘部署長への不満を漏らしつつ、コーヒーを一口含んだ。. 。
「もし遠藤さんが追い出されてたら、私たちの三十億円のプロジェクトは誰に任せてたんだろうね。考えただけで寒気がするよ。」
平和な時間が流れ、先程までの会議の緊張がほどけていくのを感じた彼女は本当に純粋すぎるほど真っ直ぐだ。私は精一杯彼女を支え、その重荷を少しでも減らせるようにしよう。それが私の恩返しだ。。。

だが、ある夜のことだった。プロジェクトの電話連絡を終えた直後、背後から声が掛かった。. 。
「おや、随分仲良さそうだね。」
振り返ると、そこには橘部署長が腕を組んで立っていた彼の目には、明らかな含み笑いがあった。.. 「…

仕事の打ち合わせです。」
「ふうん。仕事ねえ。知ってるかい?俺と真壁さんは、婚約してるんだよ。」
一瞬、思考が停止した話を遮るように、橘部署長は勝ち誇った笑みを浮かべた。. 。
「正確には、親同士が決めた話でね。父と彼女の父が、昔からの付き合いなんだよ。このプロジェクトが片付いたら、正式に発表するつもりさ。」
「… っ。」
「ああ、あんまり気にしすぎるなよ。彼女は俺のものだからね。」
そう言い残して、彼は立ち去った私はただ、その場に立ち尽くすことしかできなかった事実を飲み込むまでに、しばらく時間がかかった。。。

数日後、真壁社長と私は、高級レストランで夕食を共にしていた仕事以外で、こんな場所で二人きりになるのは初めてのことだった柔らかな照明と温かい音楽の中、彼女はスーツではなく、柔らかな素材のワンピース姿だったその姿に一瞬息を呑んだが、私は平静を装った。。。
「遠藤さんに話すと、いつも建設的な解決策を出してくれるよね。つい頼っちゃうよ。」
「いえ、そんな大したことでは… 。」
「そんなことないよ。私にとっては、本当に大事なことなんだから。」
彼女の言葉に胸が高鳴るが、同時に橘部署長の冷たい笑みが脳裏を過る「婚約してるんだよ」というあの言葉が、頭から離れなかった。私は静かに話題を切り出すことにした。..


「あの… 真壁社長、一つお聞きしたいことが。」
「ん?何?」
「橘部署長から伺ったんですが… お二人は、婚約されてるそうですね。」
彼女の表情が一瞬、強張ったしかしすぐに小さく息を吐き、何かに気付いたように呟いた。.. 。
「ああ、彼が言ったんだ…

うん、まあ、そういう話なんだよね。」
彼女はフォークを置き、少し寂しげな目でテーブルを見つめたお互いの父が旧知で、子供の頃から、いつか結婚するかもしれないとは言われていたそうだ。しかし、父が倒れ社長になってから、その話が現実味を帯び始めたという。。. 。
「当社は老舗でね、新規事業には資金とコネが必要なんだよ人によっては、橘家との関係を強化するのが一番だって言う人もいてね… 正直、戸惑ってるんだ。」
彼女の重責を、ひしひしと感じる私は、何と言っていいか分からなかったただ、彼女は私とは違う世界の住人で、私ごときが踏み込んでいい領域ではないと、唇を噛み締めるしかなかった。.. 。
「…

遠藤さん、今日はもう帰るね。明日、早いし。」
彼女は少し寂しげに笑い、席を立った私は会計を済ませ、店を出たが、橘部署長の言葉は、頭から離れなかった。。。。

数日後、社内の会議で、社長が突然私の名前を呼んだ。.. 。
「遠藤君、君に新しい海外プロジェクトを任せたい。」
それは、アメリカ、シリコンバレーの某テック企業との取引だった先方の最新システムを日本展開するためのパートナーに選ばれたのだという総事業費は約二百億円になるという会議室が、一瞬どよめいた規模が段違いだった。。. 。
「遠藤君、君の真壁工業での実績を評価して、この任に当たらせる。」
「… 承知しました。」
強く期待に応えたいという気持ちが、プレッシャーよりも勝っていたしようやく自分の力を活かせる場が来たのだと、そう思った。

ところが、翌日の夕方、橘部署長が分厚い書類の束を抱えて、突然私の机に投げつけたのだ。..

。。
「遠藤、これを訳しておけ。」
渡されたのは、大量の英文の技術資料と契約書類だった私は、以前から海外情報の調査や翻訳が得意だったので、数時間で整理し、要点に付箋を貼って提出したすると、橘部署長は一瞬息を呑み、複雑な表情を浮かべた。.. 。
「… もう終わったのか?こんな量を?」
「はい。英語には自信がありますし、留学の経験もあるので。」
さらに、先方のテック企業が手掛ける最新AIシステムの情報も追っていたことを伝えると、彼はしばらく無言で書類をめくっていたが、やがて、こう言った。.. 。
「…

そうか。なら、この資料を俺のプレゼンで使わせてもらうぞ。」
「え?… まあ、お役に立てるなら。」
彼はそう言うと、資料を乱暴に掴み取り、足早に部屋を出て行った少し釈然としないものを感じつつも、私は自分にできることをやろうと、最終データの確認に没頭したそして、本番の日の朝だった。.. 。
「おう、遠藤。会議はもう終わったぞ。」
出社するなり、橘部署長が誇らしげにそう言った私は一瞬、耳を疑った彼は、勝手に午前中の早い時間帯に先方との面談を入れて、一人で済ませてしまっていたのだろう、というのも、会議時間を勝手に変更して… 」。
その時、社長室から怒号が響き渡った「橘部署長!すぐに来なさい!」
社長の形相は、見たこともないほど怒りに満ちていた机の上に広げられた英文の見積書は、冗談とも言えない酷い内容で、先方のCEOが、「こんな粗末な扱いは初めてだ」と激怒し、直々に社長に苦情を入れてきたのだという件について問い詰められると、橘部署長は一転して、私を指差したのだ。。。。
「こ、これは遠藤が勝手に作って送った書類です!私は気付きませんでした!」
「…

違います。」
私は拳を握りしめ、静かに、しかし確実に反論した社長に、私が原本を作成し、正しい英語で書かれたメールの記録を見せたすると、社長はそれらの証拠を確認し、即座に事実を悟った橘部署長は、証拠を突きつけられ、もはや言い逃れはできなかったこの件での彼の一連の行動は、彼を管理職として失格と断じるに足るものだった。.. 。。
「… すみません。」
社長は深い息を吐き、そして私に言った。.. 。。
「遠藤君、すぐに先方へ謝罪に行くぞ。私も同行する。」
私は短く返事をし、書類を手早くまとめたそして、先方のCEOの怒りを鎮めるため、私は真壁工業の手を借りることを思いついた彼女の会社も、同じシリコンバレーの企業と取引があるからだ早速連絡すると、彼女は即座に理解し、全面的に協力してくれたおかげで、先方から「件を水に流して、改めて話し合いたい」との連絡が入った私はその旨を社長に報告し、共に先方のオフィスへと向かったそこでは、流暢な英語で謝罪し、改めて正しい書類を提示し、技術的説明から導入効果まで、誠意を持って説明し切った先方のCEOは、私たちの姿勢を見て、ようやく表情を和らげた。.

。。。
「… 分かりました。今回はこれで、水に流しましょう。」
「ありがとうございます!」
重苦しい空気が、ようやく晴れた帰りの車中、社長は深く息を吐き、静かに呟いた、
「よくやった、遠藤君。我々は救われた。」

会社に戻ると、応接室に見知った顔があった真壁社長だ彼女も橘部署長も待っていて、橘部署長は、心配そうな顔をしていたそして、事の次第を真壁社長が説明すると、社長の形相が再び激変した今度は、橘部署長を向く彼の目は、氷のように冷たかった。.. 。
「橘部署長、君は… 一体何を考えているんだ。」
「ま、待ってください、社長!」
必死に言い訳をしようとする橘部署長に対し、真壁社長は尚も冷ややかに付け加えた、
「彼はね、遠藤さんを解雇しようとしただけでなく、三十億円の契約も失いかけた男だよ。」
「なに?」
社長の怒りは頂点に達し、机を叩いたその時だった応接室のドアが、突然開かれたそこに立っていたのは、黒いスーツに身を包んだ、いかにも強面の初老の男橘部署長の父、橘製作所の社長だった彼は、冷酷な目で息子を見下ろし、一言放った、
「…

この出来損ないが。」
「父… さん。」
「お前はいつも無能で、何をやらせても駄目だなもうクビだ。我が家に置いておく価値もない。」
父親のあまりに残酷な宣告に、その場の全員が息を呑んだ橘部署長は、「父さん」と縋るような声を出すのが精一杯だったしかし、橘社長の表情は微動だにしなかった彼は続けた、
「… お前は兄弟の中で一番の駄目息子だ我社の影響力を使って、無理やりお前を入社させたのが間違いだった。」
「いいえ、お前はとっくに辞めて、もう二度と家の恥を晒すな。」
あまりに一方的な親子の断絶劇に、私は思わず口を挟んでいた、
「ちょっと待ってください!」
全員の視線が私に集中した私は、橘部署長を庇ってなどいないただ、彼をただ見捨てるのは、あまりに酷だと感じたのだ彼が新入社員だった頃、私に営業の本当の姿を教えてくれたのは、他ならぬこの人だったのだからたとえ今、こんな姿になってしまっても、あの時の恩を忘れたわけではないと、私は声を絞り出した、
「彼は… 彼はただ、真っ直ぐな人間なんです!」
「…

何?」
「彼は私が新人だった頃、数字を追うだけでなく、お客様の笑顔を大切にしろと、誰よりも熱く教えてくれた人です!私は今でも、その言葉を信じてやってきました!」
長台詞を一息に言い切り、私は橘社長を真っ直ぐに見据えたしかし、橘社長は鼻で笑い、冷たく切り捨てた、
「ふん。お前も随分と生意気な奴だな、遠藤とか言ったな。」
「… はい。」
「遠藤、お前もクビだ。」
「… っ!」
「会社の社員如き、いつでも追い出せるということを思い知れ。」
その言葉で、部屋の空気が一層張り詰めたその時、我が社の社長が一歩前に出た彼の声は低く、しかし断固としていた。.. 。。
「橘社長、それは出来かねます。」
「何?」
「遠藤君は、当社にとって極めて重要な人物です。解雇することはできません。」
予想外の反撃に、橘社長は目を見開いたしかし、我が社の社長は怯まない、
「事実、遠藤君は、今まさに二百億円規模の新規相談を取り纏めている最中ですし、進行中の海外プロジェクトの中心的存在でもあります。」
さらに、真壁社長も続いた、
「我が社も、遠藤さんとは三十億円の相談を同時進行していますよ。彼が居なければ、今後のお付き合いは難しいですね。」
橘社長の顔色が、みるみる曇っていくそして、ずっと沈黙していた橘部署長が、突然、一歩前に出たのだその目には、何かを決意した光があった、
「…

父さん、俺にはもう黙っていられない。」
「なに?」
「父さんが今までやってきた… 汚い手口を、全部公表したら、どうなると思う?」
その場の空気が、一瞬で凍りついた橘社長の表情が、恐怖で引き攣った彼は今度は、自らの息子に、反逆の刃を向けられたのだから、
「俺は、父さんのことは尊敬してた時期もあったさ。でも、その方法は間違ってると思う。

周りを脅して、踏み躙って、思い通りに動かす… そんなやり方を、俺は絶対に認めない。」
「お前… !」
「俺は…

ここで一度やり直したいんだ。部署長としてじゃなく、一人の人間としてさ。」
「そして… もう父さんの力を借りたりはしない。」
一瞬の静寂の後、橘社長は怒りで震えながらも、周囲の視線が自分に集中していることを悟り、やがて小さく頭を下げ、背を向けると、
「… 好きにしろ。だが、後悔しても知らんぞ。」
そう言い残し、彼は部屋を去っていった張り詰めていた空気が、まるで氷が溶けるように解けていったその後、橘部署長は会社に対する責任を取り、重い処分を受けることになったが、彼はそれを機に、かつての初心を取り戻し、営業の現場で新たに働き始めたそうだ一味違った、温かい眼差しを持つ男に変わっていた私は、書類整理を手伝っていると、彼が神妙な面持ちで切り出した、
「… 遠藤、あの時は、本当にすまなかった。」
「いえ、もう過去のことですよ。」
「いや、聞いてくれ俺がお前に酷く当たってたのはな…

ただ、不安だったんだ。」
「父の期待もあったし、結果を出さなきゃって… 周りが見えなくなってた。それで余計に上手くいかなくて、苛立って… 後輩に追い抜かれるのが怖かったんだ。」
「… 本当に、ごめん。」
必死に言葉を紡ぐ彼の姿に、かつて私が憧れた、真っ直ぐで責任感の強い上司の面影が重なった私は笑顔で応えた、
「もう大丈夫ですよ橘さんが、こうして本音で話してくれたら、それで十分です。」
「…

ありがとう。」
彼は少し躊躇した後、こう続けた、
「それから… 真壁さんのことだが、お前が支えてやってくれ。」
「… っ。」
思わぬ言葉に、一瞬言葉を失った彼は、少し寂しげに笑い、
「俺はな、ただ親の決めた話に従ってただけだよ。」
「あの状態じゃ、例え俺が本気で彼女を想っても、きっと真壁さんは振り向いてはくれなかっただろうな。」
「… 彼女を、俺の代わりに、幸せにしてやってくれ。」
彼の言葉に、私は静かに息を吸い込み、決意を込めて頷いた、
「…

ありがとうございます。」
「だが、彼女の気持ちはまだ分かりませんから。」
すると、橘さんは急に呆れたように眉を下げ、大げさにため息をついた、
「はあ… お前って、仕事以外は本当にポンコツだな。」
「え?何ですか、急に!」
「あれだけ分かりやすい態度で、気付かない方がどうかしてるんだよ。」
彼はからかうような笑みを浮かべ、書類を抱えて立ち上がる、
「とにかく、早く行けよ。」
「ぐずぐずしてたら、仕事も恋愛も、どっちも上手くいかなくなるぞ。」
かつての上司の言葉は、まるで兄に窘められているような、妙に温かみのあるものだった。.. 。

その夜、真壁社長と私は、仕事帰りに一杯やることになった少し路地を入った場所にある、洒落たバーだ,
「ところでさ、二百億円の話、ようやく纏まりそうなんだって?」
彼女は嬉しそうに言う,
「はい。先方とは、条件面でほぼ合意に達しました。」
「さすが遠藤さんだねえ、大きな商談を何件も成功させちゃってさ。」
「いえ、皆さんのおかげですよ。」
照れ笑いを浮かべる私を見て、彼女は何故か落ち着かない様子で、こちらを窺っているようだった全身から発せられる緊張が、私をも不安にさせた私は意を決して、切り出した、
「… 真壁社長。」
「ん?」
「今、お付き合いされてる方、とか…

いますか?」
彼女の動きが、一瞬止まった柔らかな間接照明の下で、彼女の手が、ほんの少し震えているのが分かったやがて彼女は小さく微笑み、ゆっくりとグラスを置いた,
「… 私の方から、こんなに積極的になったのは、生まれて初めてだよ。」
「… え?」
「遠藤さんが、今まで気付いてなかったのなら、私の方がちょっとショックなんだけど。」
彼女の、いつも凛とした社長の表情は消え、そこには一人の女性としての、戸惑いと微かな期待を宿した眼差しがあった私が何も言えずにいると、彼女は小さく溜息を吐き、身を乗り出した,
「もう、もっと素直に話してよ。」
「不安なら、私の方からも言うから。」
「好きだよ。」
「こう言えば、分かるだろ?」
瞬間、心臓が高鳴るのを感じたまさか、こんなにストレートに告白されるとは思っていなかった彼女の顔を見つめ返しながら、私もやっと、言葉を紡ぎ出した、
「… 真壁さん。」
「私も…

あなたのことが、好きです。」
彼女は、幸せそうに微笑み、そっと手を伸ばして、私の指先に触れたたったその仕草だけで、体温が上がるのが分かった窓の外では、町が夜の光に包まれ始めていたまるで、何か新しい物語の始まりを祝福するかのように。

そして、私は今、かつての同級生に久しぶりに会った彼は、相変わらずの野暮ったい身なりで、顔色もあまり良くないを見て、昔と同じように馬鹿にした口調で言った,
「おい、まだ農家なんかやってんのかよ。」
「… ああ、まあな。」
この男、佐賀一郎のことは、よく覚えている地元の老舗旅館の息子で、高校時代、私が農家の息子だという理由だけで、よく「暗い野良犬」と呼んで虐めていた奴だ同じクラスで、いつも私の味方をしてくれたのは、同じ農家の娘だった桂子だけだった進学を機に、彼女とはすっかり疎遠になっていたのだが… 。
「お前、いつまでそんな貧乏臭い暮らししてるんだよ。、俺なんか今や会社の社長で、従業員の教育とかで忙しいんだぜ。」
「… そうか。」
「まあ、お前には無理だろうけどな。」
佐賀の嫌味は、昔と少しも変わらないだが、その時、聞き覚えのある声が割って入った,
「やあ、成田君!久しぶりだね!」
振り返ると、そこには、かつてと変わらぬ微笑みを浮かべた桂子が立っていた一瞬で、胸の高鳴りを感じ、佐賀の嫌味などどうでも良くなったほどだった桂子は、佐賀や私に囲まれ、懐かしそうに昔話を始めたが、そこに、一人の美貌の女性が現れた彼女は、桂子を見つけると、嬉しそうに手を振った,
「お母さん、探したよ!」
桂子の娘だというサキは、その場の誰もが振り返る程の美人だった彼女は佐賀を見るや、突如、きっぱりと言い放った,
「ああ、あなたが例の酷い噂の旅館の若社長?私、知ってるわよ。あなたが従業員を酷使してるって話、東京まで届いてるわよ。」
「な…

!」
「大体、あなたみたいな人が、成田さんにえらそうに出来ないわよ。」
サキはそう言うと、私に向き直り、笑顔で言った,
「成田さん、いつもお世話になってます!」
「あなたが作った野菜、本当に最高ですよね!」
話を聞くと、桂子が東京で私の野菜をサキに勧めて以来、彼女はそれを海外に輸出するビジネスを手掛けてくれているらしい今や、私の作る野菜は、海外で高値で取引される「伝説の野菜」として知られるまでになったのだという,
「この度、成田さんの農園を中心とした、外国人向けの農業体験ツアーを企画してるんですよ!日本の農業と文化を、もっと世界に発信したいと思って!」
周りの同級生たちが、その話に聞き入り、感嘆の声を上げる佐賀の顔色は、真っ青になっていた桂子は、満足そうに佐賀を見下ろし、
「佐賀君、人を馬鹿にしてると、報いがあるからね。」
と囁いた佐賀は、その場に崩れ落ちるようにして、消えていった同級生たちは口々に、「成田、すごいじゃないか!」と褒め称えてくれた農家をやっていて、初めて自分が誇らしく思えた瞬間だったその後、桂子と話し込むうちに、私は彼女への長年の想いをようやく自覚したサキの後押しもあり、私は意を決して、彼女にプロポーズした彼女も、同じ気持ちでいてくれたことが、何より嬉しかったこうして、私は、かつて虐められていた農家の息子から、この村一番の幸せ者になったのである。。

ある日、義母の見舞いに来た医師が、彼女をある部屋へ案内したそこは、まるで物置のような四畳半の部屋だった窓もなく、湿気が漂い、布団と段ボール箱が雑然と置かれているだけだ,
「こちらがお義母さんの部屋ですよ。」
医師は、事務的にそう言った我家に介護が必要な義母を引き取ってから、早二年になる私の後ろで、夫の兄嫁の雪枝が、勝ち誇ったように鼻を鳴らした,
「年寄りには、このくらいの広さが掃除も楽で丁度いいんですよ。」
「もしこの部屋がお気に召さないなら、出て行っていただいて結構ですわよ。」
「改装費用の返金は、できませんけどね。」
義母は、何も言わず、ただ黙ってその部屋を見つめていた私は、拳を握りしめ、込み上げる怒りを必死に抑えた機が熟するまで、今はまだ… 私は、この状況を覆す切り札を、胸の内に隠し持っているのだ。

私の名は、橘香奈。三十二歳営業の仕事を終え、実家へと続く道を車で走らせながら、私は二年前の出来事を思い返していたあの時、兄夫婦は、義父の他界後に購入したマンションを手放し、突然、義母との同居を申し出てきたのだ条件は、実家を改装する代わりに、というものだった義母は、寂しさからその提案を喜んで受け入れてしまったしかし、私は疑念を抱かずにはいられなかった兄の失職を知ったのは、それから間もなくのことだった。彼らは、住む場所を失うことを見越して、義母にすり寄っていたのだと知った時、私の胸にあった疑念は、確信へと変わったそして迎えた、真実を突きつける日が、今日なのだ。.. 。
「おい、香奈!これはどういうことだ!」
私が差し出した書類を見て、兄は叫んだしかし、私は静かに、しかし明確に告げた,
「兄さん、この家の名義は、もう私に変わってるんだよ。」
「なに?」
「実家の改装費用を負担する代わりに、名義を私に書き換えてもらったのさ。節税対策になるからね。」
義母を養えなくなった兄夫婦が、この家を奪おうとしているのを見抜いた私は、先回りして手を打っていたのだ雪枝が喚く,
「ふざけるな!じゃあ、私たちの住む場所はどうなるのよ!」
「それは…

兄さんが、きちんと働いて、自分の力で手に入れるべきものなんじゃないかな。」
私の言葉に、兄は項垂れた雪枝は、尚も喚き立てようとしたが、その時、ずっと黙っていた義母が、静かに口を開いた,
「雪枝さん。」
「あなたが、この家から出て行きなさい。」
その声には、驚くべき力が宿っていた二人は、反論もできず、項垂れて家を出て行ったそれから間もなく、兄夫婦は離婚した兄は小さなアパートで暮らし始め、必死に仕事を探していると聞いた一方、我が家では、義母の夢だった小さな食堂を開くことにした改装を終えた家の一角に、カウンターと二つのテーブル席だけの、素朴で暖かい店が生まれたその店は、口コミで瞬く間に評判になり、今では昼も夜も常に満席だ兄も、義母の誘いで、店を手伝っている何度か失敗を重ねたものの、今ではかつてなく生き生きとした顔で働いている閉店後、ふと義母の姿を探すと、彼女は店の壁に飾った義父の写真に、そっと話しかけていた,
「お父さん、私、幸せだよ。」
「皆に囲まれて、こんなに楽しい日々を過ごせるなんて思わなかった。」
「だから、どうか安らかに眠っていてね。」
その姿を見て、私は思った改装という形で、この家は、単なる実家から、家族が再び集う場所へと生まれ変わったのだとそして、それを温かく見守る義父の写真が、食堂に飾られ続ける限り、この家は永遠に、私たち家族の帰る場所であり続けるのだろう。。