半年間、寝食忘れてその会社に尽くしてきた。業務改革も、社員教育も、取引先の紹介も、全部が俺の仕事だった。社長に呼び出された時も、てっきり報酬アップか、役職の話だと思ってたのに、会議室に入るなり、彼は笑顔でこう言ったんだ。「もうあんたの知識、全部覚えたから、契約解除ね」って。俺の努力を、信頼を、一瞬で踏みつけにして、鼻で笑いながら「高学歴の俺らには、もう君の用はないんだよ」って。それなのに、数…

半年間、寝食忘れてその会社に尽くしてきた。業務改革も、社員教育も、取引先の紹介も、全部が俺の仕事だった。社長に呼び出された時も、てっきり報酬アップか、役職の話だと思ってたのに、会議室に入るなり、彼は笑顔でこう言ったんだ。「もうあんたの知識、全部覚えたから、契約解除ね」って。俺の努力を、信頼を、一瞬で踏みつけにして、鼻で笑いながら「高学歴の俺らには、もう君の用はないんだよ」って。それなのに、数...

会議室に入った瞬間、篠原の顔が妙に得意げだった。普段の仏頂面とはまるで違う。何の話かと一瞬考えるより早く、彼は足を組んで軽い調子で切り出した。
「契約解除ね。もうあんたの知識全部覚えたからさ」
頭が真っ白になった。今日呼ばれたのは報酬の見直しか、正式な役職の話だと思っていた。売上は右肩上がりで、俺の支援が形になっている実感もあった。だからこそ、これは冗談だろうと思った。だが、し原の目は笑っていなかった。
「別にトラブルとかじゃないから安心してよ。だって俺ら、日本一の大学出てるから頭いいじゃん?1年で全部吸収しちゃったのよ。黒沢さんのやってたこと、もう自分たちだけで全部できるからさ」
積み上げてきた半年が、その一言で崩れ落ちた。業務改善、社員教育、営業先の紹介、取引先との信頼構築。根気強く時間をかけて叩き込んできたものすべてを「もう要らない」と笑われた。
俺はそれでも冷静に言葉を返した。
「まだ教えていないことがある。業務プロセスの最適化も不完全だし、取引先との信頼関係もこれからが本番だ」
篠原は鼻で笑った。
「ふん。そういうの、もういらないんだよね。俺ら日本一の大学出てんの。スペックが違うのよ、君と。正直、最初から上から目線で話されるの、イラっとしてたし」
これまで丁寧に、向こうの成長に合わせて教えてきたつもりだった。強制したことなど一度もない。だが篠原にとっては、教えられるということ自体が我慢ならなかったらしい。
「取引先も手に入ったし、もうあんたがいなくなっても問題ないでしょ」
「本当にそう思っているのか?」
「当たり前。てか、もう時間の無駄だから出てって。今後のやり取りも結構。次のステップに進むからさ、俺ら」
冷たい笑顔と共に背を向けられた。この場にもう居場所はないと言われた気がした。俺は静かに立ち上がった。怒鳴りたかったわけじゃない。ただ、物凄い怒りがあった。だが、感情的に動くのはあいつらと同じレベルに落ちるだけだと思った。
黙って会議室を出た。扉が閉まる直前、し原の笑い声が聞こえた。
家に戻ってから、机に向かってしばらく黙っていた。怒りに任せて動くことはしなかったが、一つだけ明確に分かったことがある。このまま放置すれば、取引先に未完成のサービスが渡るということだ。
俺が関わっていた間にも、中核となるサービスにはいくつもの未完成部分があった。技術的な課題も、設計上のリスクも、まだ全て解決されていたわけじゃない。篠原たちはそれを完成と錯覚して世に出そうとしている。品質に大きな問題が生じるのは時間の問題だった。
それ以上に、俺は自分の人脈を使ってこの会社に取引先を紹介してきた。その信頼を裏切る形で、未完成のまま商品やサービスを提供するような事態だけは、絶対に避けなければならなかった。
俺はノートPCを開き、一通のメールを打ち始めた。形式はあくまで誠実に、感情的にならず事実だけを伝えることにした。
「ご報告までに、私は本日を持って契約を解除されました。今後は本プロジェクトに一切関与しておりません。品質面において懸念があること、加えて重要な工程が未完了のままであることをご認識いただきたく」
送信先の一つに、花井勝彦の名前があった。以前から信頼してくれていた取引先の代表だ。
反応は思ったより早かった。
「そりゃないだろう、黒沢さん。私はあなたの存在があったから契約したんです。未完成の技術を抱えた状態であなたを外すなんて。あの社長の判断、正気とは思えない」
さらに、
「はっきり言いますが、今の段階ではビジネスになりません。むしろリスクしかない。あの若社長、そこまで何も見えてないとは驚きましたよ」
俺は深く頭を下げ、理解を示してくれたことに感謝を伝えた。そして花井だけでなく、他の企業にも同様に連絡を取っていった。一通手を抜かずに事情を説明し、今後の判断は先方に委ねると伝えた。相手を脅すことなく、信頼に対して誠実に向き合うという姿勢だけを貫いた。
派手な告発をしたわけではない。だが水面下では確実に信頼の再評価が始まりつつあった。契約時に俺の関与を前提としていた企業ほど、その影響は大きかった。中には即座に社内会議を開き、契約の見直しに入った会社も出てきたと耳にした。
表だって動いているわけではないが、確実に空気は変わり始めていた。
数日後、静かだった水面がついに大きく波打ち始めた。最初に動いたのは花井だったと聞く。
「黒沢さんがいないなら品質保証ができない。全ての契約は一旦停止させていただきます」
その一報が届いて以降、他の取引先からも次々と契約解除や保留の連絡が届いたらしい。
「プロジェクトの責任者が不在では進められない」
「品質に不安がある」
「法外な条件が全く機能していない」
どれももっともな理由だった。
社内は一気に総然となったという。篠原は顔を真っ赤にしながら営業担当に怒鳴りつけ、新規顧客を探すよう命じた。
「今すぐ開拓しろ!うちは有名大の集団だぞ!ちゃんと説明すれば契約取れるだろう!」
だが実績ゼロの状態でいきなり売れるほど甘くはない。人脈も信用もゼロの若手社員が手当たり次第に電話をかけては門前払いを食らっていた。それでもなんとか繋がった数社に対して、見よう見まねのサービスを納品したらしい。けれど、そこから届いたのはクレームの山だった。
画面が操作しづらい、途中で動作が止まる、保存したデータが消えた。未熟で脆弱、バグだらけで高度不安定な共同。全てが中途半端な理解のまま見切り発車された結果だった。
やがてその状況はSNSでも拡散され始めた。
「例のベンチャー、コンサルが抜けたら急に質落ちたんだが」
「サポート問い合わせたら担当が不在ですって、なんだよ」
「このUI、正直クラウドサービスの提なしてない」
社名こそ伏せられていたが、業界関係者ならすぐに分かる書きぶりだった。それを見た別の取引先が慌てて連絡を入れ、本当に大丈夫なのかと確認してきたという話も耳にした。
社内も崩れ始めていた。若手社員たちは開発とクレーム対応の両方に追われ、まともに睡眠も取れない状態。ついにはオフィスの一角で、誰かが漏らしたらしい。
「どうすんだよこれ。黒沢さん、マジで必要だったんじゃないのかよ」
その言葉に誰も返事をしなかったという。
いつもなら他人を見下すような笑みを浮かべていた篠原の顔から、次第に余裕が消えていった。焦りと苛立ちだけが積もり、気づけば誰にも相談できず孤立していた。自分たちの手で吸収したつもりだったスキルが、実は上辺だけだったこと。黒沢という存在がいかに静かに支えていたか。その意味をようやく理解し始めた時、彼らはもう手遅れの時点に差しかかっていた。
それから間もなくのことだった。スマホに見覚えのある番号が表示される。一瞬誰かと迷ったが、すぐに思い当たる。篠原だった。
俺は無言で着信に出た。
「黒沢さん、お願いします。助けてください」
思い詰めたような、今にも泣き出しそうな声だった。
「取引先が次々と契約を切って、売上がゼロに近い状態なんです。、このままじゃマジで会社が潰れる」
俺は一度深く息をついた。
「私はあなた方に一方的に契約を打ち切られた立場です。、なぜ今更、私に助けを求めるんですか?」
「でも、あの時は……いや、今は違うんです!俺たち何も分かってなかった。黑沢さんが抜けてから、何もかもうまくいかなくて」
声は震えていた。泣き出しそうな、いや、もう泣いているような口ぶりだった。
「銀行からも融資の返済を迫られてて、事業が回らないだけじゃなくて、資金まで底をつきそうなんです。、このままだと従業員も守れない。本当に終わってしまう」
俺はしばし沈黙した。だが返す言葉は決まっていた。
「それが報いでしょう」
「え?」
「私はあなたたちに時間をかけて教えてきた。一歩ずつ段階を踏んで会社の基盤を整えようとしていた。あなたたちがまだ知らないことを、これから伝えていこうと思っていた。でもあなたはそれを否定した」
「それは……」
「頭がいいから全部吸収したと。そう言って私を切ったのはあなたです。それなのに、いざ都合が悪くなったら助けてくれ。随分と勝手な話ですね」
篠原のすすり泣く音が、受話器の向こうに聞こえた。
「私はもう関係のない人間ですよ。優秀なあなたたちだけで会社を立て直せばいいじゃないですか」
声はあくまで静かだった。怒鳴りもしなければ、皮肉も言わない。ただ事実として、言葉を突きつけた。
「本当にもうダメなんです」
その声はもはや懇願というより、崩れ落ちそうな悲鳴に近かった。だが俺の心は揺れなかった。
それでも篠原は諦めなかった。
「分かってるんです!俺たちが間違ってたって、あなたのすごさにようやく気づいたんです!」
震える声に、焦燥と後悔が滲んでいた。
「正直、あの時は調子に乗ってました。高学歴だから大丈夫なんて、ご都合な思い込みでした。でも今なら分かります。あなたがいたから会社が回ってた。本当に自分たちが愚かだったと分かりました」
俺は目を閉じ、言葉を選びながら静かに口を開いた。
「私はあなたに対して可能性を感じていた。だからこそ、時間をかけてでも教えるつもりだった。基礎から積み上げて、いずれ本物の経営者に育ってくれると信じていた」
受話器の向こうから、すすり泣く音が漏れる。
「もしあの時、まだ学ばせて欲しいと言われていたなら、俺は応じていただろう。どれだけ未熟でも、前向きに学ぼうとする姿勢があれば、支えるつもりだった。でもあなたはそうじゃなかった」
俺は一泊置いて、決定的な言葉を告げた。
「もう教わることはないと、自分から言って切った。それがあなたの覚悟だったんでしょ。その覚悟を選んだ以上、もう戻る場所なんてありませんよ」
「違う!あの時の俺は……俺は……」
「あなたの都合で切って、都合が悪くなったから戻ってこい。そんなに都合よく人の心は動きませんよ」
しばらく沈黙が続いた。
そして次の瞬間、し原は絞り出すように叫んだ。
「お願いします!黒沢さん!戻ってきてください!俺たちじゃもうどうにもならないんです!」
俺はゆっくりと、冷静に、最後の言葉を返した。
「その涙は、もっと早く流すべきでしたね」
そして何も言わずに通話を切った。
スマホを伏せたその時、受話器の向こうでは篠原の泣き叫ぶ声が響いていた。
晴れ渡るほど自信満々だった男が、今では涙にすがりついている。だがそれは、もう俺には関係のない世界の出来事だった。
通話を切ったあの日から、俺はもうあの会社のことを振り返ることはなかった。ただ、耳に入ってくる噂はどれも悲惨なものばかりだった。
篠原の会社は主要な投資家から一斉に資金を引き上げられ、実質的に経営が停止したという。若さと学歴だけに投資していた連中も、ようやく現実を直視したらしい。それでも気づくのが遅すぎた。
ネットでは「黒沢を切った若手ドキュ社長」として篠原が取り上げられ、あっという間に炎上した。
「日本一の大学ブランドの看板を鼻にかけ、実力者を追い出して自滅した」
そんな見出しが業界にも乗る始末だった。
批判の声は社内外から次々と上がり、彼は社名を変えて再起を図ろうとしたが、誰も手を貸さなかった。信頼を裏切るものに再出発の余地はない。業界の冷たい空気が、彼の最後の逃げ道を閉ざした。そして、いつの間にか彼らの会社は完全に姿を消していた。
一方で俺は新たな道を歩み始めていた。花井から声をかけてもらい、彼の会社と共同で立ち上げた新規プロジェクトが順調に成果を出している。現場を大切にし、技術と人を丁寧につなげること。それが評価され、業界にも取り上げられるまでになった。
取材でどうしてそこまで丁寧にやるのかと聞かれた時、俺はこう答えた。
「誠実さは一時の評価よりも強い力を持つと思っています。時間はかかっても、ちゃんと見てくれる人はいる。だから自分の信じたやり方を続けるだけです」
その言葉を、俺は社員にもよく話すようになった。
派手なスキルや経歴よりも、信頼に足をつけて歩くことの大切さを。あの一件があったからこそ、俺は今何を大切にするべきかを改めて見つめ直せた。
奪われたものはあったかもしれない。でもそれ以上に守れたものも確かにあった。
今日もまた新しいプロジェクトが始まる。机に向かいながら、俺は静かに心の中で呟いた。
誠実であることを忘れずにいよう。それが、俺の選んだ道だから。

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