「私の夫、ここのシェフなのよ。」
その言葉を聞いた瞬間、俺の心臓はドクンと跳ねた。だがそれは驚きのせいではない。まさか、こんな偶然があるなんてな。
高級レストランの最上階、夜景が一望できる窓際の席。半年先まで予約が埋まるという人気店だ。俺は仕事でここに来ていた。取引先との会食ではなく、もっと重要な用事があってな。
そこへ現れたのは、5年前に俺を振った元カノ、風華だった。真っ赤なパーティドレスに身を包み、紫のアイシャドウで魔女のような笑みを浮かべている。
かつての控えめな彼女の面影はどこにもない。
「ねえ、何してるの? こんなところで。まさか、デート? 」
「仕事だ」
「あっそ、仕事か。まあ、高卒の能じゃ、こんな店には仕事でしか来られないわよね。」
その一言で、5年前の傷が一気に開いた。高卒だと知った途端、豹変した風華の言葉を思い出す。「今時高卒ってありえないんですけど」――あの日、彼女は俺の前から消えていった。ストーカーで訴えると言い放ってな。
「お相手は? 逃げられたんでしょう?

高卒が経営する貧乏会社じゃ、信用できないものね。」
好き勝手に妄想を並べ立てる風華に、俺は呆れるを通り越して冷静になっていった。この女性と結婚を考えていたのか、と思うと、己の目が恨めしくなってくる。
「一人で酒を飲んで、自分を励ましていたの? 本当、寂しい男ね。」
「仕事がうまくいかなくて励ましてたわけじゃないよ。それに、君だって一人じゃないか。」
俺が指摘すると、風華は不自然なほど白い歯を見せて笑った。
「私は特別なのよ。」左手を顔の横にかざし、薬指の指輪をちらつかせる。「私、結婚したのよ。」
「そうか、良かったな。」
「あなたと別れてすぐ、素敵な男性と出会ったのよ。さっさと見切りをつけて正解だったわ。」
「特別って、どういう意味だ? 」
俺の問いに、風華は得意げに胸を張った。「私の夫ここのシェフなのよ。」
俺は思わず声を上ずらせた。「は? 」
「驚いた?
驚いちゃった? そりゃそうよね。三つ星レストランのシェフなんて、そうそう出会える相手じゃないもんね。」
「だから私は毎日優雅に生活できるし、こんな素敵なレストランも好き放題使えるってわけよ。」「どんなに飲み食いしてもタダなのよ。」「だって作ってるのは私の旦那様なんだから。」
「おい、それってただの図々しいやつだろ? 」
「なによ、もしかして嫉妬してるの? 」風華はケラケラと高笑いを響かせた。「観察能のあんたと、三つ星主婦の私の夫じゃ、月とすっぽなんだから、変な対抗心は燃やさないでよね。」「まあ、私を取られて悔しいのは分かるけど。」
レストラン中に響き渡る彼女の笑い声に、周りの客が迷惑そうな顔をし始めた。これ以上騒がせてはおけないと思うと、俺はゆっくりと笑顔を向けた。「嫉妬なんてしてないよ。」「月がすっぽに対抗なんて燃やすわけないじゃないか。」
「は?
何言ってんの? 誰がすっぽか分かってないわけ? 」
「俺が月で、君の旦那さん、伊藤シェフがすっぽだろ。」
風華の頬が引きつる。「面白くもない冗談を言わないでくれる? 」
「冗談なんて言ってないよ。」
「じゃあ何よ?
馬鹿にされた仕返しに、怒らせようってわけ? 」
「人を馬鹿にしている自覚はあるんだな。」
風華の顔の筋肉がピクピクと震え始めた。怒り出しそうだったので、その前に告げてやることにした。「別に馬鹿にしているわけじゃないよ。」「本当のことを言っただけだ。」
「あ、そう。あと、これはレストランが閉店した後に、本人に直接伝えるつもりだったんだけどな。」
風華の言葉を遮り、俺は今日一番の満面の笑みを浮かべた。「すばらしい腕のシェフが見つかったから、旦那さんに首だって伝えてくれる? 」
風華の動きが、ピタリと止まった。真顔で俺を見つめたまま、何の感情も読み取れない。やがて彼女は破顔した。「ちょっとあんた何様よ! ここまで適当なことを言われると、逆に受けるんだけど。」
腹を抱えて笑う風華に、俺は首をかしげた。「風華には言ってなかったっけ?
」
「何をよ? 」
俺は名刺を取り出し、彼女に差し出した。風華はニヤニヤと笑いながらそれを受け取る。しかし、名刺に視線を落とした瞬間、笑顔を凍らせた。「え、この会社って。」
「そう、ここのレストランを運営してる会社だよ。」「そして、その社長が俺だ。」風華はまるで人形のように、カクカクとした動きで俺と名刺を交互に見る。「今日は仕事で来たって言っただろう? 君の旦那さんに、社長として解雇通告を行うために来たんだ。」「まさか風華の旦那さんだとは思わなかったけどな。」
「ちょ、ちょっと待ってよ! あなたは高卒の能でしょ!
それがなんで。」風華は困惑した顔で詰め寄ってくる。それを俺は右手で軽く制して距離を取った「こういうことだよ。」「学歴と経営は別物ってことだ。」「俺の最終学歴は確かに高卒だ。」「父親が経営してた会社が倒産して、借金だけが残った。」「大学へ行く余裕はなくなったけど、働きながら独学で経営を学び、今の会社を立ち上げた。」「幸運にも、今では複数の高級レストランを経営するまでになっている。」
「そんなの聞いてない! 」風華は声を震わせて叫んだ。「あ、え? どうして教えてくれなかったのよ! 」
「自分だって、聞かずに去ったくせに。」「高卒の男の会社がこんなすごいなんて思うわけないじゃない!
知ってたら、分からなかったのに! 」
「おい、ふーか。」大声で騒ぎ立てる風華に、俺は呆れてため息をつく。「ここは旦那の職場だぞ。」
しかし風華は気にすることなく、ヒステリックに喚き散らす。「社長夫人になるチャンスだったのに、なんてことしてくれたのよ! 」
「俺のせいかよ。」「大体、三つ星と結婚できたって散々自慢してただろう。」「それだって、首なんでしょ? 」
その時、厨房から伊藤シェフが姿を現したそして、妻と一緒にいるのが俺だと気づくと、顔を青ざめさせた。「し、社長、いらしてたんですか?
」
「ああ、ちょうど君に用事があってね。」俺は鋭い視線を風華へ向ける。「君の妻だそうだね。」「お客様の迷惑だから、早くどこかへ連れて行ってくれないか? 」
「はい。」伊藤は何も言わず、風華を引きずるようにしてレストランを出ていった。
後日、伊藤シェフは正式に解雇されたスタッフへの高圧的な態度、暴言の数々、食材業者への脅迫まがいの態度、そしてワイロの受け取り――取引を続けたければと脅していたことが判明していたのだ。誰がどう見ても完全なアウトだった。
彼の悪い噂は業界内に広がり、どんなに腕が良くても、名のある高級レストランは誰も彼を雇おうとはしなかった。
そして風華といえば、伊藤が首になった直後に離婚したと共通の知人から聞いた。
これまで伊藤のおかげで優雅に生活していた彼女が、これからどうやって生きていくつもりなのかは謎だが、まあ俺には関係ない話だ。
そう思っていたのだが――この騒動は、これであっさり終わってはくれなかった。
「私は社長の彼女よ! 通してなさいよ! 」
風華が離婚したと聞かされてから数日後、彼女は会社にやってきたのだ警備員の制止も聞かず、社長室に通せと騒いでいると報告を受けた俺は、ロビーに降りていったすると、そこには清楚なワンピース姿にナチュラルメイクをした風華が立っていた
「あら、かよし、会いに来てあげたわよ。」猫撫で声で手を振ってくる。
「気安く名前で呼ばないでくれるか。」「俺は仕事で忙しいんだ。」「君の相手をしている暇はないんだよ。」
「そんなひどいこと言わないでよ。」「可愛い彼女が、会いに来てあげてるのに。」
「もう君は彼女じゃない。」「部害者だ。」「出ていってくれ。」冷たく突き離すと、風華は一瞬、痛いような表情を見せながらも、すぐに擦り寄ってきた。「ごめんなさい。」「あなたのことを誤解していたわ。」「あの時の私は、男を見る目がなかったのよ。」「反省してるわ。」「きっとあれは、神様が与えた試練だったのよ。」
「は、試練?
」
「そうよ。」「真の愛に気づくための試練よ。」「私はその試練を乗り越えて気づいたの。」「私が愛すべきは、かよし、あなただけだって。」
一体彼女は何を言っているんだろうかこれで俺が納得して、よりを戻すとでも思っているのだろうかロビーには騒ぎを聞きつけた社員たちが集まってきており、彼女の発言に呆れ返った視線を向けている。「はっきり言うけど、よりを戻す気はない。」「2度と俺の前に現れないでくれ。」「これ以上つきまとうなら、相応の処置を取らせてもらう。」「君が会社にまで来て騒いだことは、防犯カメラにもしっかり映っているだろうからな。」俺が天井のカメラを示すと、風華は顔面蒼白になり、そそくさと会社を出ていった。
どうやら、これで本当に彼女と関わることはないだろう
それにしても、俺は女性を見る目、いや、人を見る目が本当にないんだな風華にしても、伊藤にしても、その本質を見抜くことができなかったことを反省する会社のトップに立つ人間として、もっと人を見る目を磨かなければならない。そのためにも、仕事ばかりではなく、もっと人と交流を持った方がいいのかもしれない新しい趣味でも始めてみようか――そう考えながら、俺は社長室へと戻っていった。


